[バートランド・ラッセル生誕百年記念講演要旨] 松永芳市「法律家から見たラッセル」
* 発展:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第22号(1973年9月)pp.5-6.
私に'法律家'の見た「ラッセル」という題で何か話せというお話でありましたが、私は未熟で皆さんの御参考になるようなお話はとてもできないと思います。だいたい私が法律家であるかどうか問題であります。市井の一弁護士であることには間違いありませんが、しかし私を法律家と見られる方もありましょう。法律家とは何か?
ラッセルのよくやる方式でその定義を考えて見ましょう。職業的に見て、裁判官と検事と弁護士と大学の法律専門の先生等々を法律家というなら、私もその一人かも知れません。しかし私が法律家といった場合には、別のことを指したいのであります。裁判官は法律によって裁判すると申します。それはその通りでありますが、実際にはほんとうには法律によってしたというのは形式だけで、その裁判官の世界観・人生観といったものが、黒白をつける主要な要因であります。先ず裁判官の常識が問題になります。裁判は、まず事実を認定し、それに法律を適用するという二段階で行なわれますが、事実の認定を正しくするには、その裁判官が経験豊かで、社会の各般のことに常識をもっていなければなりません。常識のない人は、事実の認定を誤ります。偏狭であってはなりません。たびたび人にだまされた人は、何びとに対しても疑念を持って立ち向かいます。素直にものを見ることができず、裏に裏が、またその裏があるだろうと推測しますから、証人の証言も、その他の証拠も素直に見ることができず、何かの機会に得た先入感を固守して、とてつもない事実の認定をすることがあります。裁判官たるには、円満な人柄であることと高度の常識が必要であります。高度の常識のある人は、偏狭な主義主張を持ちません。その人生観・世界観も右とか左とかに極端に走らず、中庸を得ております。私は法律の背後に、道徳がなくては世の中はうまく治らぬという考えを持っているものであります。換言すれば、法律は道徳に基盤を置くことが肝要であると考えるものであります。
昔、中国に韓非子というえらい法律家と申すか、法術家とか申す人がいました。法律を厳重にしなければ、世は平穏に治らぬということをいって、秦の始皇帝に献言して、法律を沢山作らしたといわれています。韓非子の言にも一理はあります。乱世には法律をきびしくすることが治国の要諦であります。秦には韓非子の前に商鞅、同時代に李斯という人もいて法をきびしくし、始皇帝は天下を統一しました。しかしそうした法治主義は長くつづきません。漢の高祖劉邦はこうした厳格な法治主義に反対して、法三章をかかげて民心を収攪しました。法三章とは申すまでもなく、殺すなかれ、傷つくるなかれ、ぬすむなかれであります。法三章だけの力ではありませんが、劉邦は秦を亡ぼし、天下をとって漢の高祖となったのであります。
真の法律家とは何かという説明が少し長くなりましたが、もう少ししゃべらせて載きます。西欧の法律は、ローマ法に出ているといわれています。ローマ法は、ローマ帝国が成立して以来、いろいろの法学者が出て法典ができ、最後にユスチニアヌス法典として完成し、その原理が今日もわれわれの法律の中に相当生きているのであります。法律は必要でありますが、国の繁栄とか、世界の平和とかには、ただ法律をつくっただけでは役に立たぬということを申しあげたいと思って一言したわけであります。
私は法律の根底に道徳がなくてはならず、道徳を根底に持っていない法律は、人類の福祉に役立たぬということを申しあげたいのであります。道徳とは何か、私はラッセルの考え方をそのままいっているかどうかわかりませんが、道徳とは愛の表現方法であり、それは合理的なものでなくてはならないと主張しています。したがって迷信とか、偏狭な宗教家によって押しつけられた道徳の中には、私のいう道徳と認められぬものがあります。そうした私のいうような道徳は、根本に人類愛がなくてはなりません。この愛は人間は生まれつき持っているという方もありますが、それは生まれつき持っていなくとも養うことによって、教育によって大きく育つと考えられます。孟子はこれを側隠の情といい、バイブルでは、コンパッションといっていますが、それを育てて行くことであります。私の考えている真の法律家とは、法律の制定にも、その解釈運用にも、人類愛、いわゆる真の道徳を基盤とすべきことを体得し、事実の認定に当たっては高度の常識を持って当たり、世の中のバランス、調和を念頭に置いて法律の仕事に携わる人を指します。こういう意味において、法律の裏をかき、私利私欲をたくましくする人、いわゆる法律の網をくぐることを考えている人は法律家ではありません。
以上の意味における法律家に私が当たっているとおこがましく申しあげる次第ではありませんが、心の中にそれを描いてるのであります。これからラッセルの話に移ります。ラッセルは『幸福論』の中で、'中道'(松下注:'中道'というよりは、'中庸')のことにちょっとふれています。ゴールデン・ミーンを'中庸'と訳すべきか、'中道'とすべきか、私は語学の力が不足でわかりませんが、これを'中道'と一応訳します。ラッセルは、「私は若かったころ、軽蔑と憤慨の気持で'中道'('中庸')ということを拒否したことを覚えている。というのは、その頃は英雄的な極端なことを私は賞讃したからである。しかしながら、真理は必ずしも興味のあるところにあるとは限らない。人びとは興味があるということでいろいろのことを信じているけれども、実際にはそれらに真理があるという証拠は非常に少ない」と言っています。
私は法律家は「中道」であるべきだと考えるので、ラッセルの右のような考え方に共鳴するのであります。次に法律家に必要な常識について、ラッセルに学ばねばならぬところが非常に多いと思うのであります。ラッセルは人間は神ではない、人間なのだから、人間として見るべきだという趣旨のことを言っています。人間に欲望がある。所有欲、権勢欲、名誉欲その他いろいろの欲望がある。この欲望を有する現実を無視することはできない。その外、虚栄心とか憎悪とか、嫉妬とか、競争心とかいろいろある。人間はこれらの欲望等のために他人に程度を越えて迷惑を掛けないようにすべきである。自己の欲望と他人の欲望との間に調和を計るために、いかなる線を引くべきか、バランスのとれた線の引き方をする。それがほんとうの法律家の任務であり、こういう仕事をする上に必要な常識を身につけねばなりません。そのためにラッセルの研究は必要であると、私は若い人びと、特に法律を専攻している人びとに説いているのであります。ラッセルはアメリカ等の革命が、法律を尊重する人びとによって為されたことを述べております。法律は守るべきである。これを破るのは、どうしてもそうしなければ人類愛、崇高な道徳感、高度の正義感に反する極めて稀な場合だけであると説いています。この点はちょっとしたことにも、法秩序を無視する傾向のある人びとに話してやりたいと思うところであります。
私はラッセルを研究して、ラッセルに共鳴するところが非常に多いのでありますが、同調できない点もあります。ラッセルは英国の貴族の家に生まれ、その幼時の家庭教育、その後の彼の環境がわれわれと異なっておりますので、私どもには理解できぬ点もあります。ラッセルはキリスト教をひどく攻撃していますが、これはちょっといい過ぎではないかと思う点の一つであります。もっともラッセルはキリスト自身を攻繋しているのではなく、教会の組織とドグマ、偏見を持ったやり方を攻聲していると思えます。ラッセル自ら、教会の連中よりも自分の方が、心情、行動の点においてキリストに近いというようなことを言っているのであります。釈迦も人を見て法を説いたといわれています。論説には相手と環境によって設例や表現の点でいろいろ差異がありますから、片言を見て人物を論ずることはできません。しかしラッセルは、近頃の人物のうちで最も偉大な人物の一人であると私は確信するものであります。本日は緒論にとどめ、詳論は他日に譲らしていただきます。(弁護士)