加藤将之「ラッセル哲学史のユーモア」
* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第4号(1966年5月),p.5-6
* 加藤将之氏(1901-1975. 6. 9)は当時、山梨大学教授/東大哲学科卒、文部省図書監修官・日本書籍社員・山梨大学教授を歴任。歌人でもある。
バ一トランド・ラッセル卿の『西洋哲学史』(A History of Western Philsophy, 1945年)は、哲学史の逸品であり、絶品であろう。逸品とか、絶品とかは、どこか人の意表をつき、一般性を抜け出ていて、完全作というには遠いかも知れぬが。
絵画や彫刻でいうと、実物そっくりの完全な出来というものもあろうが、逸品とか、絶品とかになると、実物や実体そっくりではないかも知れぬ。その代りに、生気発刺という点ではかなわぬものがあろう。ラッセルの哲学史は、普遍性をねらった、忠実な歴史再現というには遠いところがあっても、生命のあふれた点では、他に比類のないものである。それは、ラッセルその人の体当りの書だからであろう。
体当りだから、皮肉もユーモアも、いたるところで発散する。由来、哲学史というものは感情抜き、笑いやユーモア抜きのものであった。ラッセルはこの既成概念を、見事にひっくり返している。
堅い哲学史の代表には、ヴィンデルバンドのものがあるが、これは歴史について色々の概念をあてはめるのに忙しい。すなわち、歴史の概念化である。大きい哲学史の代表には、ユーベルヴェーク大哲学史がある。この本の共訳を私もかつてしたことがあるが、これは哲学史というよりは哲学大事典と申した方があたっている。列伝哲学史ではヤスパースの『この大哲学者たち』。ユーモア哲学史では、ウィル・デュラントの『哲学物語』が異彩であるが、哲学史の書ける人は、時代の最高峰にいなくてはなるまい。加藤将之著『哲学者気質』(第一書房)などは論外である。
ラッセル哲学史は読める哲学史である。難解な字句を用いず、しかも深遠な思想をやさしく伝えてくれる。これはもと、お金かせぎの連続講演によるからであろうが、うまいものである。ゴットシャルクというドイツ人の書いた『ラッセル伝』(1961年)によると、第二次大戦中、アメリカにわたったラッセルは、いたる所の思想上の敵によって講義をはばまれ、飯のくい上げの悲運に立ち至った。そこにバーンズ財団の救いの手がさしのべられ、あたり障りの少ない哲学史講義をすることで、やっと飯のたねにありついたという。1943年、その財団からもかれはやがて見はなされて、講義料の方も不払問題でごたついた。「迷える羊」ラッセルは、1944年、イギリスに帰ってのち、出版者からこの本の印税前借りを受けることができ、一息ついたということである。
こういういわく付きの西洋哲学史である。この本の成立史の詳しいいきさつ自体、一種のユーモアである。内容がおもしろいのはあたり前というところか。この本の成立史そのものを受難哲学思想史の縮約版だと見ることも、あるいはできよう。
ラッセルのこの本は、分量からいうと、近代よりも古代、中世の方にくわしい。むしろ古代尊重である。講義の準備のために、かれは古典語で原典を読破する機会に恵まれたことを述べ、その好機に大いに感謝している。ところで、幼時から古典語(松下注:ギリシア語、ラテン語)を習ったラッセル自身は、その少し前までは、古典語教育廃止論をぶちまくって来ている。だから、これはお殿様の得手勝手というものではないか?-などと、つい言ってみたくもなるが、その目でラッセルの古代篇、中世篇に読みふけるのは、まことにほほえましい。
近代篇になって、私の感じとして最も明快な記述だと思ったのは、ラッセルお得意のライプニッツ論である、ライプニッツには、確かにカントの非難したように超絶的なところや、手離しの楽天観があったのである。しかし、ライプニッツにおける数学的論理学という正しい哲学創建の栄誉は、ラッセルの大いに強調するところでもある。それはそれとして、こういう高尚な議論をしているなかで、ラッセルは言う-ライプニッツは、幾分ケチン棒だったらしい、花嫁へのプレゼントにお金の代りに訓示を呈上してすましたなどと。
ラッセルのカント論も、しゃれの連発といった観がある。先日、笠さん司会での座談会「ラッセルをめぐって」の席でも話して大笑いしたことであるが、ラッセルいわく、--「大英百科辞典(ブリタニカ)」のカントの項に、「カントは独身だったので、学生時代の勉強心を生涯もち続けられた。」とある。私(=ラッセル)は問う、この項の筆者は独身なのか、それとも結婚したことがあるのか。-
ここでラッセル先生、いやに独身か既婚者かにこだわっているが、ここはお里が知れるというもの。ラッセルは四度も妻を変えてござる。すなわち、語るに落ちている。けだし先生の意中は、我が輩は四度も結婚しているが、勉学心がそれで落ちたなどとは、飛んでもない話である!
ラッセルによれば、カントは近代最大の哲学者だというが、自分は必ずしもそうは思わぬ。かといって、カントのえらさを知らぬ奴も大馬鹿者なのである。ルソーとカントとどちらがえらいかとなると、これは.言いようがない。だが、狂気型ルソーの言っていることを、ぐっと衒学的(ペダンチック)にやればカントの哲学になるのだろう、などというのは手厳しい。
ともあれ、ラッセルの立場は、歴史と哲学とをつねに結びつけていくにある。物心一連一如である。そこの歴史とそこの哲学者とは、だいたい結びつけて説明でぎる。カントの場合も、まさにそうであろう。その意味で私なども、カントの生涯やその時代背景の研究がおろそかにはできないと思っている。それで、ラッセルの行き方に賛成であるが、学者によっては、ラッセル哲学史のうちで、最も無理な、あるいはまちがった解釈をしているのはカントとそれにベルグソンの場合だとされている。かれらにあっても、歴史を超えた例外的な人間だという見方をしなくては、うまく解けない問題もあるのではなかろうか。
ラッセルも、例外者を認めないのではない。たとえば、オランダのスピノーザの如き人の場合がそうである。これは例外だとはっきり言っている。例外を排して、歴史・哲学結合説で一貰すると、無理も出てくる。そこを補充し、それに輪血をしていのちを通わせるところに、ラッセル特有のユーモアや、あるいは皮肉が連発されてくる。もしこの哲学史からそういう輪血剤としてのユーモアを消し去ったら、おもしろくないものになろう。
ラッセルはもとより、カントのような「明るいユーモリスト」ではあるまい。皮肉屋といった方が通りがよい。かれの伝記を見ていて気のつくことは、生涯が別れの歴史のように思われてくる。奥さんたちとも、盟友や弟子たちとも、別れ別れになっているが、ご本人はいっこう平気である。こういうところにも、作らざるユーモアが感じとれる。そして、哲学思想史そのものが、実はそういうものだという感じにも追いこんでくる。ラッセルはその終章で、かれを元祖とする論理実証主義のその後の人たちとも、離れていることを自分でも申し立てている。それをもユーモアととるのは、もちろん私の弥次馬根性によることであろう。
ラッセルその人は、学説の変化や矛盾は致し方ないとしている。誤っていてそれに固執している学者は、虚栄(ヴァニティ)のとりこにすぎないと見る。こういう自在の人の書いた哲学史だから、逸品としての味も出るわけである。その味全体が、一種のユーモアの味と見てよかろうか。(了)