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金子光男「バートランド・ラッセル教育思想の理論と実践」 - ラッセル協会研究発表要旨

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第17号(1971年2月)pp.204.
* 金子光男氏は当時、東京家政大学教授

 1.
東京家政大学教授の金子光男

ラッセル協会会報_第17号
 今世紀は教育改革の世紀であり、現代ほど教育が全面的にその体質改善を迫られている時代はないであろう。このとき、われわれはかつて五〇年前の一九二一年に日本を来訪して、その後今日の教育あることを予言したバートランド・ラッセルの教育思想を考えることは意義深いものであろうと思う。なぜならば、私は彼の教育的発言と行動とが、現代日本の教育の課題に種々の解明を与え、その在り方に多くの示唆を投げかけていると思うからである。

 さて、ラッセルの教育思想と実践を考えるためには、彼の思想的転換という事実に着目しなければならない,それは彼が、一九一四年の第一次世界大戦の勃発に際して、イギリス国民がその参戦を歓喜して迎えたという光景を目撃して、ここから、いわゆる「論理学から政治学へ」(From logic to politics)という一大転換を行なったという事実である。彼はこのときから、国民が戦争を愛好する心理と衝動をもっていることを突きとめ、この人間性と取り組むという新しい仕事に着手したのである。人間性を取扱う仕事こそ教育の問題であり、ここから彼の教育への関心がスタートしたのである。

ラッセルの著書 Education and the Social Order の邦訳書の表紙画像  ラッセルの教育への関心は、当時の教育がどのように行なわれているか、そしてそのなかになにか誤謬が存在するのではないかという疑惑へと発展した。そして、彼は教育と政治という密接なからみあいをとらえたのである。そもそも、政治は、教育と提携して、それが正常な活動を営むことのできる諸条件を整備するものでなければならない。ところが実際に行なわれている国民教育は、子どもの人権と自由を擁護し発展させるということよりも、子どもを社会発展と国家増強の道具として行なわれているということであった。つまり国民教育が、現存社会制度を維持発展させるという建前で、子どもに特定の信条が真理であるという確信を植えつけ、やがて彼が発見したような民衆心理を持つ国民へと形成されているということであった。
 このことは、換言すれば、国民が政治的操作によって鼓吹されているということであり、政治が教育を手段として利用しているという事実であった。ラッセルは、このような教育を「政治的武器としての教育」(Education as a political weapon)といい、正しい教育の確立は、このような政治が支配する教育の批判から出発しなければならないと考えた。政治的武器としての教育は、子どもを本当に尊重するものではなくして、政治権力側にとって都合のよい知識が教えこまれ、そこでは教育における自由は制限される。自由のない教育は、健全な精神の育成を期待することはできない。ここから、彼は政治的欺瞞とたたかい、権力と対決する自由主義教育を主張するにいたるのである。

 2.
 ラッセルの教育思想の立場は、いわゆる進歩主義教育(Progressive educaiton)の陣営に属し、伝統主義教育(Traditional education)に対立するものであった。彼は当時の伝統主義教育がただ農本的知識の注入だけに終始して、知性と情緒の形成を欠き、心ゆたかな感受性をはぐくむ人間性の育成に劣るものがあることを知っていた。しかしながら同時に、彼はその進歩主義教育も、系統的知識や論理的判断の啓培という点において充分なものだとは考えていなかった。彼は、現代のように科学技術が進歩し、大衆化現象が浸透した社会にあっては、こどもたちがこの深刻な時代を強く生き抜くことのできるような「かなり突っこんだ本質的教育」(a very considerable dose of sheer instruction)をしなければその任に堪えることができないと考えた。つまり彼は進歩主義教育と伝統主義教育との調和的統一体としての教育を考えていたのであった。

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 ラッセルにとって、当時のイギリスの学校教育は、どこも彼の教育的良心を満足させることができなかった。そのため彼は、そのとき二人のこども、七才のジョン(John)と五才のケイト(Kate)にどのような学校教育を受けさせようかと悩んだのである。そして彼はついに自分で学校を新設しようと決心したのである。彼は一九二七年ロンドン郊外ピータースフィールド(Petersfield)近くのテレグラフ・ハウス(Telegraph House)に学校をたて、みずから校長となり(妻ドーラが副校長)、学校経営に当ることとなった。これがビーコン・ヒル・スク-ル(Beacon Hill School)であり、ここで彼の教育思想の実践化がはかられたのである。じつにこの学校の教育は、教育における自由の意義と限界をきびしくみつめた、大担な自由主義教育の実験であって、自由教育の歴史に大きな足跡を残すものであった。
 この学校は、当時としては新奇でモダンな原則に立脚した「新機軸の学校」(the unorthodox school)であった。その教育内容は、下級年では、基本的知識、上級年では、理論的教科および外国語から編成されており、臨時試験とクラスゲーム以外には競争というものをいっさい行なわないで、子どもの自主性を尊重して学習が進められた。また自治生徒会も活発でとくに学校劇などは異彩を放っていた。ところで彼のこの学校の範型について、私は、一九一二年にドレスデンのヘレラウに設立されたニイル(A. S. Neill)のサマーヒル学校(Summerhill School)に負うところが多いように思われる。ニイルは、当時の権威主義教育に対抗して強制も訓練もない徹底した自由教育を実施したものであり、ラッセルがこの学校に目をつけないはずはなかったからである。
 ラッセルの自由主義教育は、たしかにニイルの教育と同じように子どもの自由を尊重し、その教育方法もかなりの共通点をもっていた。しかしラッセルの自由教育は内容的にそれとは異ったものであった。それは政治的操作をする権力に対決する強靱さをもった教育でなければならなかったから。ラッセルは、諸々の支配的価値のなかで、自由をもっとも基本的な価値と考えた。ここで彼のいう自由は、ただ外部的統制からの解放という消極的なものではなくて、積極的に真実の自己へと志向せんとする自由であった。その自由の中枢的要素は、知性(Intelligence)つまり独力で知識を獲得し健全な判断を形成する精神的習慣であり、副次的要素として、創造的衝動の建設的発現としての個人的創意(Individual initiative)と、正義に殉ずる気概で事を行なう自尊(Self-respect)とが存在する。ラッセルは、このような諸契機をもった自由を志向させる教育を確立しようとしたのであり、それは子どもに自主的に合理的判断ができ、正しい批判的精神をもった能力を養成する教育なのであった。

Beacon Hill School にて:バートランド・ラッセル夫妻と生徒達の画像  ラッセルの自由主義教育で重要なことは、彼がたんなる自由だけを考えていたのではなくて訓練も考えていたということである。彼の教育の真髄は、「自由と訓練の適度の調和」(a somewhat subtle mixture of freedom and discipline)ということであった。彼は現代教育において、ただ知識や技術を伝達するだけでなく、人間の自己自身に対するたたかい(the conflict of man with himself)を通しての自己形成が必要であると主張する。すなわち、彼によれば、子どもをあらゆる障害にぶつけさせそれに対決させて、それを克服する能力を養なわなければならないのである。そのため彼は、子どもに身体を清潔にさせ、他人との約束をきちんと履行させ、日課を強制するというきびしさを要求したのである。この点について、私は、かつてラッセルと親交のあったホワイトヘッド(A. N. Whitehead)が、自由は訓練を媒介として、はじめて教育は洗練されるといって、自由と訓練との調和を主張したのと軌を一にするものであると思うのである。
 しかし、ラッセルのこの教育の考え方は、あくまで自由のみを強調するドーラ(Dora)と見解の相異を生じ、やがて彼はこの学校から手を引くことになるのである。ドーラはその後この学校を継続したが、第二次世界大戦が勃発し、ドイツの狭撃作戦の被害を避けるためついに一九四三年に閉鎖のやむなきにいたった。この学校経営にあたって、ラッセルは種種の理由で途中で挫折したけれども、その教育内容や教育方法はすばらしいものであり、子どもに生活の喜びを失うことなく知識を獲得することができたということは立派な成果であったということができよう。この学校で多くの子どもたちに囲まれて、笑顔で語り合っているラッセルの慈父のごとき姿は、限りない児童愛の存在を示すものであろう。

 3.
ラッセルが理想的な性格の基礎をなす4つの特徴を図示した画像  さて、ラッセルの自由主義教育は、人間的確信の偉大なエネルギーの生産をめざした教育であった。彼は人間性の改善という教育の仕事を通して、社会を改善しようとしたのであって、ここから彼の人間像形成の教育思想が展開される。彼は現代の危機を克服することのできる理想的な人間にしてはじめて歴史を前進することができると考えた。彼は、理想的人間の要素として、生命力(Viality)勇気(Courage)感受性(Sensitiveness)および知性(Intelligence)の四つをあげる。
 まず、生命力は生理的特質であり、精神の正常さにとって本質的な客観性を増進させるものである。今日のように人類が生きる希望を失っているときに、人間に希望を与える原動力となるエネルギーでもある。勇気とは、自己の信ずるところが世論と相容れないときにも、進んでこれを発言し行動するような精神的態度である。彼は現代社会において、協力の名のもとにじつに妥協が行なわれていることを見抜き、その協力が真のものになるために、つねに独立の精神が存在しなければならないとした。ついで感受性とは、現に苦しんでいる人たちが自らの対象でなくても、これに同情できることであり、またその苦しみが感じられなくても、それが起りつつあると知ってこれを感得できる心情のことである。さいごに知性は、知識に対する欲求が真実なものであって、偏見のない虚心としてとらえられるものであり、真実と虚偽とをはっきり看破しうる批判的能力である。
 ラッセルのいうこの理想的人間像の要素は、知性は知識を、感受性は感情を、勇気は意志をあらわして、これらが精神的要素を形成する。そしてこれらと並行して、生命力が身体的要素となって、ここに心身の調和的存在となり、相合して一つの総合体を形成する。彼はこのように人間の全能力が調和的に発達した状態を正気(Sanity)といい、このような人間を形成する教育を「人間を正気にする教育」(Education which makes men sane)といった。そしてこの教育が彼のねらいなのであった。ラッセルは、現代社会を狂った世界と考えた。そしてこの狂気的社会から人間を救うものこそ、人間を正気にする教育である。そして、またこのことは、人間の所有的衝動をつとめて減少して、創造的衝動を充分に建設的な方向に発展させる教育であるということもできるであろう。
 かくして、はじめて教育は、生きるに値いする生活の探究と結びつき、よりよき社会への展望をその問題意識の中心にすえたものとなることができる。
 この発表は、ラッセルの教育思想をビーコン・ヒル・スクールの教育実践との関連において、かんたんな考察をしたにすぎないのであるが、現代日本の教育がいくたの矛盾と困難を包蔵しているとき、その課題を解決するのに、ラッセルの教育思想とその実践とは、いろいろの示唆と助言とを与えていることと思う。