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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

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バートランド・ラッセル著書解題3:『わたしは何故キリスト教徒ではないか』を中心に(大竹勝・解題)

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第3号(1966年2月)pp.5-8

 I 序論


ラッセル協会会報_第3号
 先般来,イギリスの人類学者ジェフリー・ゴーラ(Geoffrey Gorer)のある本を読んでいると,次の一節がわたしの注意をひいた。
「今日,19世紀中葉まであらゆる思想の分野に対して,宗教が首を絞めあげていた実状を想像することは困難である。今では,大抵の国々で宗教はひどく守勢であり,'度量が大きく',鄭重で,つつましいから,ダーウィンがあらゆる教会の説教壇から攻撃され,へーゲルが異端者として公然と非難された時代に,われわれの頭を振り向けることは殆んど不可能である。合衆国のバイブル地帯や,アイルランドやスペインでの同様な行為が,今は最も敬虔な教会の信者たちからさえも苦笑され,慨嘆されている有様である・・・。」
 大げさに言えば,一世紀近くも前に生れたバートランド・ラッセル(1872年生)が,このような歴史的事実を,深刻に,子供心に感じながら,J.S.ミルの考えなどにヒントを得て,神の存在に懐疑の念を持ちながら,成長したのだということを,われわれは,まず,留意しておく必要があろう。引用されたゴーラの一節に似た感想を,ラッセル自身も「トマス・ペイン」の稿で述べているが,それはやがて本論で取りあげることになろう。
 また,彼の孤独な少年時代の教育において,彼は宗教的薫陶を受けることに欠けていたのではないかという世間の臆測もあるようであるが,決してそうではなかったという事実は,彼の祖母との生活をラッセルの伝記のなかで,たどってみれば,おのずからわかることである。
ラッセルの著書「なぜ私はキリスト教徒ではないか」の表紙画像  むしろ,問題は,彼の性格が,極めて自恃の精神に富んだ,旺盛なものであるため,いわゆる宗教的な雰囲気にとぼしく,およそ,「神にすがる」とか「救われた者の法悦」とかいう言葉とは,縁遠いものであることである。また父の代からの民主主義的な生活態度に育まれた彼が,性格的に,描かれたイエスに対して示した不満も,その辺から生ずるのであって,「わたしは何故キリスト教徒ではないか(Why I am not a Christian, 1927)」(以下「なぜ基督教徒でないか」と略す)の花火のようにはなばなしく,時として奇矯なまでに烈しい調刺と皮肉も,そこから生じて来るのである。

 ラッセルの学説は何回か変ったが,彼の手法は変わらなかったと言われている。彼の宗教論も,その懐疑論の性質上,個人の価値が重要なものとなったり,甚だたよりないものになったりしたが,最近の『武器なき勝利』(Unarmed Victory, 1963)*注1にいたる一連の平和運動に関する著作に見られる通り,「オッカムの剃刀」こそは彼の論法であり,「真理」こそ,彼が最後のよりどころとして,終始不動のものとして守ったものであり,そこから彼の科学的な人生観,懐疑論も組み立てられているのであって,齢90の坂を越えた彼が,未だに若々しさを失わないのも,その燃え上がる情熱と信念によるのであろう。彼が宗教,ことにキリスト教に対してぶちまけたエッセイの数々は,なるほど,神学者たちやT.S.エリオットのような詩人が考えるように,外部からの,否定的な観察に過ぎないかも知れないが,彼の哲学史,ことに政治思想についての観察は,教会が大事な時に,強権の味方になりがちな傾向を持ち,今日教会が独自の使命のように言いふらしている幾つかの問題は,実は科学の進歩によって次第にほぐされたものであり,やがて科学の知性によって解消されて行くべきものであるという彼の持論は一貫している。この大筋は,『なぜ基督教徒でないか』(Why I am not a Christian and Other Essays, 1957)に集められた初期のエッセイの時代から『科学と宗教』(Religion and Science, 1935)*注2を経て,最近のワイアットとの対談(『バートランド・ラッセル本心を語る』(B. Russell Speaks His Mind, 1960)*注3第二章)にまで及んでいるのである。

 II 少年時代

ラッセルが4歳から18歳まで過ごしたペンブローク・ロッジの写真  1876年,父の死によって,バートランド・ラッセルは兄のフランクと共に孤児となり,祖父母によって,ロンドンの南方,サリー州リッチモンドにあるヴィクトリア女王による 恩賜の「ペンブローク・ロッジ」(右写真出典:R. Clark's Bertrand Russell and His World, 1981)に引き取られた。1878年祖父の死後,2人は専ら祖母によって教育された。女王のもとで2回も首相をつとめた祖父の妻であったこの祖母は,スコットランドの長老教会に属する一門の出で,最後まで,ピューリタンの峻厳な一面を持った婦人であって,バートランドの少年時代の生活は質実剛健なものであった
 家族と召使いは毎朝8時,祈祷のために集合した。召使いは8名もいたが,食事は簡素なもので,子供たちには,お客用のアップル・タルトは与えられなかった。酒や煙草は禁じられていて,葡萄酒はお客にだけふるまわれた。一年を通して,少年たちも冷水浴をさせられ,朝食前半時問,バートランドはピアノの練習をさせられた。数学と哲学が主な学問であったが,道徳の内容を含まない数学をバートランドは好むようになった。
 祖母は有用で逞しい生活をモットーとした。神に対して個人的な責任を持つという新教の思想が彼女の信念であった。今日でもラッセルは,12歳の時,祖母に与えられたバイブルを持っているが,「汝悪を成さんため,群集に従うなかれ」と記された祖母のテクストが,今日大事な行動を取る時,なおも教訓となっているとのことである。

ラッセルの The Good Citizen's Alphabet, 1953 より  70歳を越えて,彼女は三位一体の教義にがまんが出来ず,ユニテリアン教会に転じた(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)。祖母は信仰においてなお,老齢において,この最も知的に自由な宗派に転じたほどであったが,政治思想においては,さらに急進的で,アイルランドの自治政策に賛成で,その過激な愛国運動に関係しているとみなされていた国会議員たちとも交友があったといわれている。
 そこで,わたしの翻訳『宗教は必要か』*注4(『なぜ基督教徒でないか』の大部分の訳編)から,自叙伝的な部分を引用してみよう-
「18歳のある日,わたしはジョン・ステユワート・ミルの自叙伝を読んだのです。ところが,そのなかで,わたしは次の一文章を発見しました,『わたしの父は,「誰がわたしを造ったか」という問題は,答えられないということをわたしに教えた。なぜならば,その問題は,たちどころに,「誰が神を造ったか」という,もう一つの問題を暗示するからである。』その極めて簡単な文章が,今もそう思うのですが,第一原因による証明法の誤謬をわたしに明示したのであります。もしあらゆるものが,原因を持たねばならないとするならば,そのときは神にも原因がなければなりません。もし原因なしに何かが存在することができるとするならば,神と同じように,世界であってもよいことになりましょう。そうなると,その議論には,何の妥当さもあり得ないことになります。それは,まったく例の印度人の意見と同じであります。それによりますと,世界は一匹の象の上にあり,その象は一匹の亀の上にあるというのです。ところで「亀はどうなんです」と聞かれたとき,その印度人は「話題を変えたらどんなものでしょう」と言ったということです」(p.12)
 皿 ラッセルの性格とキリスト
「わたしの考えでは,キリストの道徳的性格には一つの重大な欠点があります。それは彼が地獄を信じていたということです。真に深く人情味のある人ならば,永遠の罰というものを信じることは出来ないという気がいたします。福音書に描かれているキリストは,たしかに永遠の罰を信じていたし,彼の説教に耳を傾けようとしないひとびとに対する報復的な憤激の反復されているのを発見するのであります- これは説教者には珍しくない態度ではありますが,たしかに至高の立派さからは,多少,おちるのであります。たとえば,そのような態度は,ソクラテスには見られません。彼が自分の意見に耳を傾けようとしないひとびとに対しても,極めて愛想がよく,思いやりがあるのがわかります。そしてわたしの考えでは,憤慨の線にそうより,その線にそっていくことが聖人には,はるかに適わしいものであります・・・・・・。」

「福音書のなかで,キリストがこう言っているのを発見なさるでしょう。'なんじら蛇どもよ,さそりのともがらよ,いかにして地獄ののろいをのがるべけんや' それは彼の説教を好まなかったひとびとに向かって言われたのです。それは実際,わたしの考えでは,最善の語調とは言えません。もちろん,聖霊に対する罪については,よく知られているテクストがあります。'聖霊にさからいて語るものは,この世においても,来世においても許されざるべし。' そのテクストは世の中に,言いつくされないほどのみじめさを引き起こしました。と言うのは,種々雑多なひとびとが聖霊に対する罪を犯したと想像し,この世においても来世においても許されないだろうと考えたからです……。

「いちじくについてどんなことが起ったかは,ご記憶のことと存じます。'彼(イエス)飢えたまう。路の傍なる一もとのいちじくの樹を見て,そのもとに至り給いしに,葉の外になにも見出さず。まだいちじくの季節にあらざればなり。これに向いて '今よりのち,いつまでも汝の果を食うものあらざるべし, と言いたまう……' そしてピーターが彼に言うには '主よ,汝ののろいし,いちじくのたちどころに枯るるを見たまえ'。' これは極めて奇妙な話であります。なぜならばそれはいちじくのみのる季節ではなかったのであって,樹をのろうことは実際出来ないからです。'……。」(『宗教は必要か』p.27)
 IV 自由人の信仰

 この論文(A Freeman's Worship)は1903年に「インディペンデント・レヴュー」誌に掲載したものなかに集録されたものであるが,後に『神秘主義と論理』(Mysticism and Logic, 1918)*注5のなかに集録されたものであるが,1965年の夏,オハヨウ・ステイト大学に近い古本屋で『なぜ基督教徒でないか』のアメリカ版を発見し,このエッセイがそれに集録されているのを知り,結果的には(邦訳書の)『宗教は必要か』(荒地出版社刊)と同じ編集となっていたことに驚いた。1927年,当時流行していた「リトル・ブルー・ブック」叢書677号(E.ホールドマン=ジュールズ編集)には,ラッセル自身の貴重なこのエッセイに対する感想が巻頭にかかげてあるので,重要な点を抄録すれば,(『宗教は必要か』p.135参照)次の通りである-
「根本的には,宇宙における人間の立場についての,わたしの見解は今も同じである……しかし,もしわたしが今日書いているのだとしたら,多少,修正したいと思う2つの点がある。これらのうち第一は唯物論に関するものであって,第二は善悪の概念の範囲に関するものである・・・・・・。」
「唯物論に関して言えば,このエッセイに表現された見解は大体において唯物主義的なものとみなされることであろう。しかし形而上学的に言えば,わたしは決して物質の実在を信じているのではない。わたしは,物質を日常の目的に便利な,物理法則の大体の記述として論理構成であるとみなしているに過ぎない。普通考えられているところでは,物質は持続し,力を及ぼすはずになっているが,相対性原理の物理学によれば,終局的に存在するのはすぎ行く出来事の世界であって,これはある法則によって共存し,相互に継続するのである。恒久的な物量というものがあるのではなく「力」と呼ばれるような実体があるのでもない。この理由からして,物質を持続するとみなすことは,個人的な精神が持続するとみなすのと同様,想像的な誤謬である・・・・・・。」
「わたしが,このエッセイを書いた当時,わたしは善とか悪とかが,いわゆる「客観的」なものであると信じていた。すなわち,あるひとが,あることを,その結果においてだけではなく,それ自身において,善だと判断し,その一方他のひとが,それ自身において悪だと判断したならば,二人のうちどちらかが間違っていなければならないと信じていたのである。今や,わたしは善と悪とは,いわゆる「主観的」なものであると信じている。しかしこのことの実際に及ぼす影響は,想像される程には違ってこない・・・・・・。」
 この「自由人の信仰」は,ラッセルの宗教論のうちでは,珍らしく,詩的ですらあるほどに格調の高いものであって,彼の若い時代の一つの記念塔である。
アンドロメダ大星雲の画像
「外部から見れば,人間の生命は,自然の力に比較したら小さなものである。奴隷は「時間」「宿命」「死」を礼拝するように運命づけられている。なぜなら,それらのものは,彼が自分自身のなかに見出すなによりも,もっと偉大であり,彼の思想のすべては,それらのものが滅ぼしてしまう代物だからである。しかし,それらのものが偉大であるとしてもそれらのものについての考え方が偉大であり,それらのものの非情の壮観を感ずるということは,もっと偉大である。そして,そのような思想は,われわれを自由人にさせるのである。われわれは,最早,必然の前に,東洋風の服従によって,頭を下げることをしないで,われわれはそれを吸収し,それをわれわれ自身の一部分にするのである。個人的な幸福のための努力を放棄し,一時的な欲望に対する熱意のすべてを追放し,永遠なものに対する情熱に燃えること- これが解放であり,自由人の信仰である。そしてこの解放は宿命について冥想することによって行われる。なぜならば,宿命そのものは,時の浄火によって清められねばならぬようなものを何も残さない精神によって征服されるからである。

「あらゆるきずなのうちで最も強い,共通の宿命のきずなによって同胞と結合された自由人は,新しい視野が常に自分と共にあって,あらゆる日常の仕事に愛の光をそそぐことを発見する。人間の一生は夜を徹して長い路を行くようなもので,眼に見えない敵にとり巻かれ,疲労と苦悩に悩まされながら,少数のものしか到達できず,なにびとも長くそこにとどまることのできない目的地に向けて進むのである。ひとびとが進んで行くにつれ,ひとりずつ,われわれの同志は,全能の死の暗黙の命令にとらえられ,われわれの視野から消えて行く。われわれが同志を助けることのできるのは,ほんのつかの間で,そのあいだに,彼等の幸福か不幸はきまるのである。彼等の行くてに陽光をそそぎ,彼等の悲しみを,同情の慰めによって軽くし,不断の愛情の純粋な悦びを与え,衰える勇気を力づけ,絶望の時に信念をつぎ込むことがわれわれの生涯でありたいものである。

「人間の一生は短く,無力である。彼と,すべての人類のうえに,ゆるやかではあるが,確実な宿命が無慙に暗くおちてくる。善悪に盲目で,破壊には無頓着に,全能の物質は,その残酷な道を回転して行く。今日は最愛のものを失うように運命づけられ,明日はわが身も暗黒の扉を通らねばならない人間にとっては,いまだ打撃がふりかかって来ないうちに,彼の短い一生を高邁なものにするところの高雅な思想をいだき,宿命の奴隷の臆病な恐怖を潔しとしないで,自分の手で築いたところの殿堂で礼拝し,偶然性の帝国に恐れることなく,外部の世界を支配する気まぐれな専制から解放された精神を維持し,人間の知識と非難とを,しばらくの間,認容する不可抗力に誇らかに挑戦して,疲労はしているが,不屈のアトラスのように,非情の力の乱暴な行進にもかかわらず,彼自身の理想が築きあげた世界を独力で支えることが,これからの仕事として残っているのみである。」
 V 努力と諦観:トマス・ペイン

 かくしてラッセルは悲劇的な,しかも勇敢な人間主義を提唱する。われわれはここで,『幸福論』(The Conquest of Happiness, 1930)*注6の終りから2番目の章を忘れることは出来ない。幸福がかちとらるべきものである限り,ひたむきな努力は必要である。しかし,それがすべてではなく,諦観も必要となる。ラッセルは諦めに2つあり,一つは絶望の諦めであり,他は不撓不屈の希望に起因するという。諦観とは,最後の結果は宿命にゆだねるとしても,最善の努力をなすことであると彼はいう。さらに,諦観とはわれわれについての真実に直面することであると彼は言う。彼は努力と諦観との中庸を望むというが,東洋的に彼の言うところを表現しなおすなら,努力が諦めとなり,諦めが努力となる境地を開拓することであろう。わたしは,スペースのあるうちに,序論で約束しておいた,トマス・ペインにここで触れて置くことにしたい。ラッセルは時代に先んじて生れ,悲劇的に同時代のひとびとに理解されずして,淋しく死んで行ったペインを取り挙げている。
「公共事業-1775年の彼の奴隷制度反対-に参加した当初から,彼の死亡の日まで,彼は徹頭徹尾,自分の政党と反対党とを問わず,あらゆる形式の残酷さに抗議した。当時イギリス政府は苛酷な寡頭政治であって,極貧階級の生活水準を低下させる手段として,議会を利用していた。ペインはこのいまわしさの唯一の改善策として,政治的な改革を提唱したが,そのため命からがら逃亡しなければならなかったのである。フランスにあっては,不必要な流血に反対したため,彼は投獄され,すんでのことで殺されるところであった。アメリカにおいては,奴隷制度に反対し,独立宣言の原則を支持したため,彼が政府の支持を最も必要とした時に,政府によって見離された。もし,彼が主張し,今日多くのひとびとが信じているように,真の宗教は「正義を行い,仁慈を愛し,同胞を幸福にすることである」ならば,彼の反対者たちのなかには,彼に劣らず宗教的なひととみなされる資格を持つものはひとりもなかったのである。……今日ではイギリス教会の大主教でもいだくような意見であった……圧迫された者たちへのこれらのチャンピオンたちのすべてにとって,彼は勇気,人間味,誠実の模範をかかげた。公共の問題がからまってくると彼は個人的な慎重さを忘れた。そのような場合の例にもれず,世界は彼が利己主義を持たなかったために,彼を罰したのである……」
 結び

の画像  ウッドロウ・ワイアットの宗教についてのラッセルとのテレビ・インタヴューの最後の質問は次の通りである。

「あなたとわたしとが死ぬとき,お互は完全に吹き消されてしまうとお考えになりますか。」

 ラッセルはこれに答えて

「それは,確かにそうですとも。そうでないという理由はわたしには解りません。肉体は崩壊することを,わたしは知っています。それに,わたしの考えでは,肉体が崩壊した時,精神が存続すると想像する理由は一つもありません。」

 これは完全に科学者の答えである。しかし,われわれは,すでに,彼がそのことに対してどのような諦観を持っているかは,「自由人の信仰」から引用した最後の部分で,十分に彼の意味するところを知ることが出来るのである。1965年の初夏,わたしはハーバード大学に近いある本屋で,ラッセルの『懐疑する意志』(The Will to Doubt)と題する小さな本を求めた。宿舎に帰って,扉を見ると,それは哲学叢書出版社 Philosophical Library Inc. が3冊の本から取って編集した抜粋集であることがわかった。8篇は『無為の奨め』(In Praise of Idleness, 1935)*注7から取ったものであり,4篇は『懐疑的論文』(Sceptical Essays, 1928)*注8から取ったもので,そのうちの3篇は,再び『国民をして考えさせよ』(Let the People Think, 1941)に集録されたものであった。時代的には両世界大戦の間の頃で,ファシズムに対してラッセルが警告した頃の作品集である。わたしは,これらの作品を熟読することが,宗教論を直接に読む前の準備としては適当なものと思う。ラッセルこそ懐疑者の如く思索し,信者の如く行動する近代人の典型であるのだから。(終)



(1)『武器なき勝利』,理想社。
(2)『宗教から科学へ』荒地出版社。
(3)『ラッセルは語る』,みすず書房。
(4)『宗教は必要か』,荒地出版社。
(5)『神秘主義と論理』。みすず書房。
(6)『幸福論』,みすず書房,角川文庫o
(7)『怠惰への讃歌』,角川文庫。
(8)『懐疑論集』,みすず書房。(終)