「・・・我々は,国境からペトログラード(松下注:現在のサンクト・ペテルブルグ/ソビエと時代は,レニングラードと呼ばれていた)まで -その後の旅行も同様だったが- 社会革命と万国のプロレタリアートに関するモットーを一杯書き連ねたトレーン・ダ・ルックス(豪華列車)で運ばれた。われわれは至る所で多数の兵士たちの出迎えを受けた。その際,軍楽隊によってインターナショナルが奏せられ,この間,市民は脱帽し,兵士は捧げ銃をして立っていた。・・・要するに,あらゆる待遇が我々を英国皇子にでもなったような気持ちにさせたのである。」(本書 The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)
![]() ラッセル著書解題 |
「私には(ロシアの)統治形態がすでに憎むべきものに思われ…狂信の当然の結果である自由と民主主義への軽蔑に悪の根源があると思った。当時の左翼は次のように考えた。ロシア革命は反動によって反対され,革命の批判は彼らの都合の良いように行われているのだから,革命がどんな事をしようと,人はロシア革命を支持すべきであると。私はこの議論の強さを感じ,ある期間,何をなすべきかに迷ったが,結局私は真理と思われるものに従うことに心を決め,ボルシェヴィキの統治形態が憎むべきものであることを公然と述べ,この意見を変える理由を認めることはなかった。」ラッセルのこの毅然とした態度は正しいし,そうあってこそ,ラッセルが人類の迷妄を照らす炬火であるわけだが,実際の成り行きは,ボルシェヴィキをほめないということで多くの友だちと意見が合わなくなり,彼が良心的参戦拒否者であったという事実までが改めて持ち出されて,全く四面楚歌の状態に陥った。クリフォード・アレンとの不和も本書に由来したものだった。