「・・・我々は,国境からペトログラード(松下注:現在のサンクト・ペテルブルグ/ソビエと時代は,レニングラードと呼ばれていた)まで -その後の旅行も同様だったが- 社会革命と万国のプロレタリアートに関するモットーを一杯書き連ねたトレーン・ダ・ルックス(豪華列車)で運ばれた。われわれは至る所で多数の兵士たちの出迎えを受けた。その際,軍楽隊によってインターナショナルが奏せられ,この間,市民は脱帽し,兵士は捧げ銃をして立っていた。・・・要するに,あらゆる待遇が我々を英国皇子にでもなったような気持ちにさせたのである。」(本書 The Practice and Theory of Bolshevism, 1920)しかし,こうした大歓迎が,少なくともラッセルには必ずしも好印象をもたらさなかったことは,ソヴィエト当局者に気の毒なようなものである。ラッセルは帰国すると早速,ソヴィエト・ロシアに対する慎重な分析と批判の執筆に取り掛かった。そして早くも,同年(1920年)9月に,その成果である本書が出版されたのである。本書の内容はラッセルの序言のほか,第1部「ロシアの現状」と第2部「ボルシェヴィキ理論」の2部から成り,そして第1部は「ボルシェヴィズムは何を希望するか」「一般的特徴」「レーニン,トロツキーおよびゴーリキー」「共産主義とソヴィエト憲法」「ロシア産業の失敗」「モスクワの日常生活」「都市と田舎」「国際政策」の各章から,また第2部は「唯物史観」「政治における決定的な力」「ボルシェヴィキの民主主義批判」「革命と独裁」「機構と個人」「なぜロシアの共産主義は失敗したか」「社会主義の成功の条件」の各章から成っている。概して言えば,標題からも伺われるように,第1部は,当時のロシアの現実の批判的ルポルタージュというような色が濃いし,かたわら第2部は,同じく批判とは言っても純理論的である。第1部,第2部共,ボルシェヴィズム批判の文献としていずれも貴重であることは勿論だが,ただ,第1部にはラッセルが当時,直接その目で見た革命直後の都市や農村の記録や革命の大立物たちの人物像の描写が含まれているので,それが特におもしろい。レーニンやトロツキーやゴーリキーらとの会見記で彼らの風貌を叙するラッセルの筆は,すこぶる精密であると共に生彩に富んでおり,おまけに辛辣でもある。たとえばレーニンはこんな風に描かれる。「…彼は非常に親しみ深く(易く),見た所素朴で,横柄な所は全くなかった。誰であるかを知らずに会ったとしたら,彼が偉大な権力を持っているとは,あるいは彼がとにかく優れた人物であるとさえ,思わないだろう。私はこんなに尊大ぶらない人物にはかつて会ったことがない。彼は訪問者をじっと見て片方の目をすぼめる。これは,もう一つの目の洞察力を驚くほど増すように見える。」と,始めラッセルはレーニンの好印象を語るが如くであるが,やがてその口ぶりは微妙に転調する。「彼は大いに笑う。最初の内は,彼の笑いはただ親しげで陽気に見える。しかし,だんだんと私には,それがやや薄気味悪いものに感じられるようになった。彼は独裁的で,冷静で,恐れを知らない,ことに利己心を欠き,理論の権化である。唯物史観は彼の生命の血であるような感じがする。」そして,結局,レーニンは「偏狭な大学教授」的であり,「きわめて多くの人々を軽蔑しており,一個の知的貴族であるという印象を受けた。」というのである。
ラッセル著書解題 |
「私には(ロシアの)統治形態がすでに憎むべきものに思われ…狂信の当然の結果である自由と民主主義への軽蔑に悪の根源があると思った。当時の左翼は次のように考えた。ロシア革命は反動によって反対され,革命の批判は彼らの都合の良いように行われているのだから,革命がどんな事をしようと,人はロシア革命を支持すべきであると。私はこの議論の強さを感じ,ある期間,何をなすべきかに迷ったが,結局私は真理と思われるものに従うことに心を決め,ボルシェヴィキの統治形態が憎むべきものであることを公然と述べ,この意見を変える理由を認めることはなかった。」ラッセルのこの毅然とした態度は正しいし,そうあってこそ,ラッセルが人類の迷妄を照らす炬火であるわけだが,実際の成り行きは,ボルシェヴィキをほめないということで多くの友だちと意見が合わなくなり,彼が良心的参戦拒否者であったという事実までが改めて持ち出されて,全く四面楚歌の状態に陥った。クリフォード・アレンとの不和も本書に由来したものだった。