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市井三郎「ラッセル協会、解散すべし」 - バートランド・ラッセル協会の在り方・提言1

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第23号(1975年5月)p.8.
* (故)市井三郎氏(哲学者)は、当時、成蹊大学教授

ラッセル著書解題

 思いきった表題をつけてしまったが、わたしの本意は(第1に)「もし……とすれば、解散した方がよいのではないか」という仮言的提言である。また第2に、「…とすれば」という先行詞のなかに、現役員の諸氏たちへの批判に当たる内容はまったく含んでいない。

 客観合理的にいって、偉大な思想家を真に尊敬する道は、当の思想家の精神-個々の問題における具体的結論ではなくて-を受けついで、当の思想家をも越えること、いや、少なくとも越えようすることであろう。「精神」とは何か、「越える」とは何か、という意味論的せんさくは、ここでは省かせていただく。ただわたしのいいたい意味は、A.N.ホワイトヘッドがかつて次のようにいったのと近い意味だ、と示唆するにとどめたい。「もっとも非ギリシャ的なことは、ギリシャ人を模倣することである」と。

 おそらく、日本ラッセル協会ができたのは、わたしの言葉でいえば、上記にいったラッセルの「精神」をよりよく理解し、その理解をひろめる、という目的であった、と諒承している。その精神を「理解」するためには、個々の問題についてラッセルがどのような状況下にどのような具体的結論を出したか、を当然知らなければならない。傍点をふした条件が大切なのであって、その歴史的状況なるものは時々刻々に変わってゆく。変わったあとで、ラッセルのこの意見はもう古くなった、などと指摘することはたやすいのである
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 ごく大ざっぱにいえば、理論哲学とかれが呼んだ分野での仕事のほぼ全部は、そのようなやり方で「もう古くなった」もしくは「のり越えられた」と指摘することができるだろう。だがたとえそうであるにしても、20世紀初頭から3,40年のあいだ、かれがつねにそれぞれの状況下で先頭を切って斬新なことをいい出しつづけた、という「精神」は忘れるべきではない。だがその種の「精神」だけならば、それは、要するに、理論的営みにおける independent original thinking ということであって、とくに日本ラッセル協会を持続しつづける趣旨には足りないと思う。

 ラッセルが自分の理論哲学とはいちおう無縁だといいながら、一生のうちそれに劣らず精力的に書きつづけた実践哲学(あるいは社会哲学)上の諸主張、しかも文筆活動としてだけの主張にとどまらず、逐一みずから実践して傷だらけになっていった生涯、そこに見出される「精神」は、前記の理論的「精神」と両立するものでありながら、それをはるかにはみ出し、より多くの人々の関心をそそるものだと、前々からわたしは考えてきた。反戦運動のゆえにケンブリッジ大学から追放された、性と結婚に関する主張と実践のゆえにニューヨーク(市立)大学の教授就任をとり消され、核兵器廃棄運動のゆえに自国の労働党政府からも危険人物視されて死んだラッセル。
 世界史の大きい転換期に、今はある。その今だからこそ、B.ラッセルのこの精神が輝きをもってくるのではなかろうか。


 頭初にのべたわたしの仮言的提言なるものを、ようやく、やや具体的に定式化しうる段階となった。ラッセルの「精神」のうち、かりにさきに言及した側面を「理論的精神」と呼び、あとで指摘した側面を「実践的精神」と呼ぶことにすれば、わたしの提言は次のようになる。つまり、日本バートランド・ラッセル協会が、かれの理論的精神だけの普及を目的とするのであれば、もう解散した方がよいのではないか、と。

 だから表現をかえれば、わたしの提言は、次のようにも定式化できる。つまり、ラッセルの実践的精神の普及をも目的とするのであれば、ラッセル協会には今後ますますなすべき仕事があるだろう、と。

 後者の道を選びとるには、いうまでもなく多大の障害が予想できる。端的にいって、日本アーノルド・トインビー協会なるもののあり方と対照すればよい。わたしはトインビー協会の会員ではないが、時にはそれと協力もしている人間である。ただトインビーは、英国政府から危険人物視されたことが一度もない。トインビーの思想的偉人を諒承するわたしにとっても、この差はまことに大きいと思う。

 その差を、ラッセル協会があえて自覚し、なおかつ歩みつづけようとするのであるか。そうであるならば、わたしは「解散すべし」という提言をいつでも撤回する。個々の具体的結論では、B.ラッセルといくつも衝突するわたしだが、ラッセルの実践的精神の輝きには、つねに脱帽せざるをえない。だからこそ、ここに敢て苦言を呈した次第。会員諸氏のご賢察を乞いたい。