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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

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市井三郎「バートランド・ラッセル随想」(1980年3月)

* 出典:『本-読書人の雑誌-』(講談社)1980年3月号,p.22-23.
* 市井三郎(故人)は当時、成蹊大学教授(哲学)

 「人類の知的遺産」シリーズで、わたしの巻、『ラッセル』をやっと刊行できてほっとしている。このシリーズの編集委員のなかでは、わたしが最年少なのだから、他の編集のどなたよりも早く、自分の巻を出す必要があったわけで、その点でもほっとしている次第。

 これを脱稿するまでには、わたしの病気その他、いろんな紆余曲折があって講談社の編集部には、いろんな面倒をかけた。いまその経過をふりかえって、感謝すべき人々はけっして少なくないのだが、そのことは別に、奇妙にわたしの心に鮮明に浮かび上る二つのことがある。


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 その第一は、実は中国のことなのである。今はもう八年以上も前の話になるが、わたしは生前の竹内好さんから中国語を教わり始めていた。橋川文三、鶴見和子のお二人にわたし、という小グループで、個人教授を受け始めたのである。このお二人はその体験をすでに若干外部へお書きになったので、知っている方々もあろう。わたしはラッセルとの関連で、そのことを想起するのである。この個人レッスンが始まって間もないころだった。現代中国語で、「わたしの夫」あるいは「わたしの妻」というのは、いずれも「我愛人(ウオーアイレン)」といって区別がない。それを教える竹内さんは、言葉少なに、「自力で革命をやった民族では、日常の語法にまで違いが生ずるんですね」とだけ加えられた。
 もちろん毛沢東による革命の前の中国では、それらの表現は截然と区別されていた。その点も淡々と教えられる竹内さんだった。わたしはそれを聴いていながら、ラッセルを憶い出していたのである。ラッセルが中国を訪れて、一年ばかり滞在していたのは、一九二〇年ころであった。そのころの中国には、男女の差別はまだ歴然と存在していた。にもかかわらずラッセルは、当時の中国人そして中国社会のあり方に、深い愛情を寄せたのである。伝統からくる人間の質に惚れた、というに近い論文や著書までを、ラッセルは公刊したのである。
 当のラッセルは、中国を訪れたとき五十歳に近かった。哲学者である彼が、そのときまでにいくどか、国会議員選挙に立候補していた。その彼が、いつも女性の平等を主張して立ち、いつも惨敗していたのである。つまりそのころまでの英国で、男女平等などをうたって立候補すれば、有権者たる男性の総スカンを喰うばかりだったのだ。
 そのラッセルが、九十八歳で死んでから十年がたつ。死んだのは一九七〇年二月だった。だからわたしの「ラッセル』が奇しくもその命月に刊行されたのは、何かの因縁かと思わざるをえない。
 それはともかく、そこまで男女平等を固執した哲学者ラッセルが、その理念がまだ実現されていない中国へ行って、なぜ中国社会に惚れたのであるか。実はわたしは、竹内好さんの講義を聴きながら、その疑問がはたと解けた気がしたのである。
 男女平等(だけではないが)の方向へむかって、中国社会が激動している時期に、ラッセルは中国にいた。そして彼は、いくつもの政治的渦流のなかから、当の中国が目指しゆきつくであろう未来を、直観したにちがいない。だからこそラッセルは、中国人と中国社会とに惚れたのである。「四つの現代化」をめぐって、いま日本では中国評価にゆれが大きい。ラッセルをして墓穴より立たしめるならば、どう云うであろうか。「四人組の時代に、中国での女性平等はかたまったのだ。四人組を追放したいまの中国も、その点を改めようなどとは、もうとうしとらんではないか。」そんな声が、幽冥をへだてて、わたしの耳には聞こえてくる。
 そう、そういう闘いを現実にやって傷だらけになったラッセル、それをこそわたしは描き出そうとつとめたのである。
 とだけいえばウソになる。それも苦労して描いたけれども、ラッセルの理論哲学上の苦闘もまた、わたしは苦心して一般にわかってもらおうとつとめた。


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 ところで、いま、わたしに鮮明に想い浮かぷ二つのこと、といった二つ目に言及しなけれぱならない。
 それは意外に、かつての大学紛争につらなる事柄なのである。わたしの勤める成蹊大学にも、機動隊が入るなど、その当時にさわぎはあった。ラッセルはその当時に亡くなったわけだが、彼の自叙伝を読むと、はるか以前に、大学紛争の思想的源泉たるに近いことを、すでにのべているのである。
大学の講義でわたしが得たものは、無いに等しかった。個人的せっさたくまがないとすれぱ、わたしは大学教授であることは無意味だと、強く主張したい。
という意味のことを、ラッセルは強調する。例証としてあげているケンブリッジ大学の諸先生のことは、ここでは割愛しよう。そう実感したからこそ彼は、ケンブリッジ大学から反戦活動で追放になったあと、それを喜ぶかの如くに、母校から講師への招へいがいくどかあっても、容易には受諾しなかったのである。
 わたしの『ラッセル』が出るよりごく少し前に、岩波書店からA.J.エイヤーの『ラッセル』の翻訳が刊行された。エイヤーは現代英国の著名哲学者で、わたしよりひとまわり年長の人だ。その著述は、評伝といっても、伝記に当るところはごく少しで、わたしの『ラッセル』の方がはるかに詳しいわけだが、一読して微妙な感想を禁じえなかった。エイヤーはいくつかの点で大先輩ラッセルと、思想上、軌を一にしている。だが政治思想の上では、ついに合流することはできなかった。ラッセルの真骨頂は、なまなかの学者には、届き難いラディカル性(ゆきすぎを含む)をもつのであろう。