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平野智治「バートランド・ラッセルと論理実証主義」

* 出典:みすず書房版「ラッセル著作集・月報」より(第14回配本付録)
* (故)平野智治氏は当時、東洋大学教授

ロジ・コミックス ラッセルとめぐる論理哲学入門 [ アポストロス・ドキアディス ]




 ラッセルの哲学的思想と、ウィーン学団から生れ、分析哲学へと発展し、今日の哲学の大きな流れをつくっている論理実証主義との関連について考えてみよう。

 ロックから、バークレー、ヒュームなどと一筋のながれをつくっている英国の伝統的な経験論に、ハミルトン、ド・モルガンなどをへて、ブールにおいて一応の形を整えた記号論理学の着想と技術とをおりなして、でき上ったのがラッセルの哲学的思想体系である。したがって、彼の思想は経験論と論理学とが結合されたものであるといえる。
 経験論では、あらゆる認識の基礎を感覚におき、感覚所与を唯一の認識の源としているが、ラッセルは認識の源として、感覚所与の他に、論理的形式なるものの存立を主張している。
 すなわち、ものを知るということは判断を下すことであるが、判断の形式そのものは、感覚所与からは得られない、と彼はいうのである。たとえぱ「この花は白い」「この花は黄色い」「この花は赤くない」などはそれぞれ判断であるが、「赤くない」という否定の形の判断は、感覚所与からは得られない。感覚所与から得られるのは、ただ「白い」「黄色い」という判断だけであるが、これらをまた論理的な否定の形式を使って「赤くない」という一つの判断をつくり、新しい認識をつくる。このように感覚所与の他に、認識の源に論理的形式なるものが存立し、しかも、その論理的形式なるものは、感覚所与とは全く異質のもの、全く別領域のもので、一方を他方に還元することはできないものである、とラッセルは言う。
 その上、この論理的形式もまた判断によって認識されるものであるから、それは主観の外にあるものといわなければならない。主観の外にあるものを知ることは、直観することである、したがって、論理的形式は直観によって得られるものであり、この意味では、それはまた、感覚所与と同列におかれるべきものである。
 この思想は、ラッセルの創始にかかるものではなく、プラトンの昔から、とくに中世の実念論者などが強調していたものである。しかし、ラッセルの育ったのは、イギリスの経験論や唯名論の地盤である。経験論、とくに唯名論の立場からすれば、論理的なものは実在するものではなく、単に記号に属するものであるという。したがって、この立場からすれば、論理学や数学は、実在を記録するものではなく、記号結合の操作の記録にすぎなくなる。このような考えに基づいて、記号結合の学、記号論理学が生れる。ラッセルはこのような地盤に育ち、記号論理学の技術を十二分にとりいれながら、その根拠である唯名論をすてて実念論をとり、記号実在を写すものであると考えた、したがって、彼は数学なども、単なる記号結合の様式とは考えないで、実在の世界の模写であると考えていた。
 ラッセルの哲学を特徴づける今ひとつのものとして、論理的原子論をあげることができる。これは彼の実念論を一歩すすめたもので、彼の新実念論とでもいえよう。この考え自身は、ラッセルの独創になるものであるが、これを一層定式化し発展させたのは、彼の弟子ウィトゲンシュタインである。
 原子論の思想はデモクリトスの昔から、連綿としてつづいたもので、世界を唯一つのものからなると考えないで、互いに独立で、不可分の沢山な要素からなりたつものであると考える。このとき、なにを要素にとるかによって、いろいろな原子論ができる。物理学では究極的な物質を要素にとり、心理学では不可分な意識の最小単位を、また、また経験論哲学では認識の最小単位として、独立した感覚的表象を要素にとり、それぞれの原子論を組み立てている。しかし、ラッセル、ウィトゲンシュタインのいう原子は、右のいずれでもなく、彼らのいう論理の最小単位なるものを原子にとっている。
 しからば、そこで論理の最小単位というのはなんであるのか。普通論理学では概念を要素にとり、いくつかの概念から判断を、またいくつかの判断から推理がつくられると説く。したがって、このような論理学は、経験論における原子論の考え方と大差がなく、概念を原子にとった原子論である。
 ラッセルはこれと違って、原子的な要素に判断をとった。そして概念をよせあつめて判断ができるものではなく、判断こそ一つの独立不可分の単位で、これを分析することによって主語概念、述語概念などと、概念なるものが表われてくるのであるという。たとえば「この花は赤い」という判断は「この花」「赤い」という概念がはじめにあって、これを結び合せてつくられたのではなくて、はじめに「この花は赤い」という判断があって、これを論理的に分析することによって、「この花」「赤い」という概念が理解されると考える。このように、彼らの論理学では、独立不可分な基本の要素として判断をとり、これのさまざまな結合で、すべての認識がつくられると考える。これがラッセルの論理的原子論である。この原子論の中にも、ラッセルの実念論的な考えがでている。彼らの考える論理的原子は、見たりきいたりして行う判断作用ではなくて、判断作用の対象として客観的に実在し、判断作用によってとらえられるものであるという。彼らはこれを命題とよんでいる。この命題が判断作用の中にはいり、それで認識をつくることができるのは、これが言語であらわされるときである。そして命題の結合も、命題の分解も、具体的に言語を結合したり分解したりすることであるから、あらゆる認識は言語の操作によってなりたつものであると考えられる。
 右のようなラッセルの思想は、ラッセルの弟子ウィトゲンシュタインを通して、論理実証主義の成育に大きな役割を演じている。
 元来論理実証主義は、ウィーン大学教授シュリックを中心にあつまって、科学哲学の研究に志したマッハ協会の人たちの間から生れ出たものである。この人たちは協会の名が示す通り、マッハの経験批判論を奉じ、(i)感覚所与を唯一の認識の根拠とし、(ii)個々の感覚所与は独立で不可分なもので、いろいろの現象はこれのあつまりである、(iii)科学の認識は、すべて感覚所与の相互関係を説明するものであるから、絶対的でも先天的なものでもなく、ただ便宜的なものである、(iv)すべての形面上学の命題は意味がないものと考え、形而上学を否定した。マッハなどの考えを地盤とし、その上にたって研究をつづけていたグループであった。
 この会のはじまったのは、1920年代の中頃であったが、その頃ラッセルの弟子ウィトゲンシュタインは郷里ウィーンに帰っていた。しかし彼は非社交的で、人と面会することなどを好まなかったので、勿論このような会合などには出席しなかった。しかし彼の著書「論理哲学論集」は、このグループの聖書のように扱われ、研究論議の主題とされた。その上、彼と親交のあったワイスマンは、彼のその後の思想をこの会に仲介したりなどして、この学団の成長にに大き影響を及ぽした。
 このように、論理実証主義は、マッハ的な思想の上に、ラッセル、ウィトゲンシュタインの主張をおりなして発展したものである。
 したがって論理実証主義の主張の大部分は、その根をたどれば、上の両者の思想にその発生地をみとめることができる。たとえば、論理実証主義でいう「認識の具体的な形態は言語であり、言語の単位は単語ではなく、文である」という主張や「命題には原子命題と複合命題とがありこれを表現する文にも原子文と複合文とがある。そこでその原子文をみな数えあげれば、他のあらゆる文はそれから機械的に構成される」という主張なども、ラッセル、ウィトゲンシュタインの論理的原子論を出生地としているであろう。(了)