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日高一輝「バートランド・ラッセルの平和運動-ベトナム・ソリダリティ・キャンぺーン

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第5号(1966年7月)pp.5-6.
* 日高一輝は当時、ラッセル協会常任理

 

ラッセル協会会報_第5号
街頭で演説しているバートランド・ラッセル 平和を害するものとして、バートランド・ラッセルがもっとも忌み嫌ったものは fanatic(狂熱的、狂信的)であることである。頑迷な信じかた、固定した観念、独断である。そうして、経験性、歴史性、合理性と呼応して、総合性、比率(バランス)の感覚をはたらかせることを尊重した。ここから当然、ナチズムや帝国主義は排斥されることになるし、民主主義と人間性を強調することになる。
 前者の行きつくところは、衝突と戦争になり、後者は人間解放と後進民族の自主独立に通じる。
 ラッセルは、戦争と支配をもっとも愚かなるものとして否定し、世界オーソリティ(World Authority)・世界政府(World Government)を確立して世界の社会秩序を整えることが、平和と文明への道であり、人間の知恵というものであると説いた。ラッセルの社会思想は、こうして彼自身を世界連邦運動の実践へと導いてゆくように見えた。
 ところが核兵器の出現とともに、彼の考え方と行動は一層性急になり、限定された一点へと集中されてゆくようになった。ポイントは、核兵器の絶滅である。核兵器が出現した以上、核戦争が世界を破滅にいたらしめることは明白だが、戦争でなくても、不慮のアクシデントでも、電波障害でも、またたずさわる人間の過失からでも、人類破滅の可能性が出てくる。この危険極まりないものを失くしないかぎり、人類の生存は保障されない。この危険をとり除くことが、他の何ものよりも優先されなければならない。どんなに進歩した文化財を積み上げたところで、またたとえ世界連邦を実現させようとしたところで、それは人類が生存しているという前提があってのことである。こうして、ラッセルの言論も組織活動も、大衆動員もこのポイントに集中された。そのピークが、1961年の百人委員会(Committee of 100)を提げての civil disobedience (市民不服従) の sitting (座り込みデモ)である。
 それまで、ラッセルの平和アピールは、最高の権威と仰がれるほどの尊敬を払われ、影響力を示して来たし、英国上院における発言、世界連邦運動国会グループの指導、アトリー時代までの英労働党に対する助力等輝やかしい業績であった。とりわけ世界的に有力な動員力を示した世界科学者会議(パグウォッシュ会議)の提唱と指導は高く評価され、特筆さるべきものである。

 
バートランド・ラッセル著の War Crimes in Vietnam の邦訳書『ヴェトナムの戦争犯罪』の表紙画像 ところが、やがてヴェトナムにおける米軍の戦略行動が表向きになって来るにつれて、ラッセルの言論と運動は一直線に米国を非難し、ヴェトナムとの solidarity (連帯)を促進するという方向に進んだ。最近4年間の活動はまさにこの一点に集中されることとなった。自ら組織した「百人委員会」も、もはや彼らは米国のドルの力に毒されて、ついてはこれなくなったと言って、自らそれを脱退した。ラッセルの言葉をもって、彼の考え方を表明すれば、・・・ヴェトナムの問題は、米国の invasion (侵略)である。米軍は少数の工業家(産業資本家)を富ますために使われている。米国帝国主義は、ヴェトナムの敵であるばかりでなく、世界のいたるとこにその支配をひろげてゆく。この米国帝国主義と struggle (闘争)しなければならない。この economic empire (経済帝国主義国家)を defeat (打倒)しなければならない。ヴエトナムは一つである。北ヴェトナム政府は、唯一の正統政府である。ヴェトナムと solidarity し、ヴェトナムの勝利は、抑圧されている国々と人民の解放に通じる。インドネシヤの最近の出来事も、米国の戦略によるものだという。一言にして要約すれば現在のラッセルのアピールは、米国帝国主義と戦ってこれを破るために、圧迫され、侵略されつつある people (人民)が solidarity して struggle しようと言うにある。特に注目すべき用語を掲げると、つねに peopleを用いて nation (国民)を使わない。struggle して imperialism を defeat する。people の victory ともいう。そしてアピールするときは、おたがいに人間として、a human being to human being である

 
ロンドン・タイムズ(1967年)に掲載されたイラスト:ジョンソン大統領とホーチミン大統領を裁くバートランド・ラッセルの画像  ともあれ、こうして最近のラッセルは、この(1966年)6月4日と5日に組織大会が開かれたヴェトナム・ソリダリティ・キャンペーンの総裁としての責任と活動に没頭している。しかも、ラッセルは、もっと嶮わしくもっと多難な組織活動に着手し始めている。それは、ヴエトナムにおける戦犯として、ジョンソン大統領、マクナマラ国防長官、ラスク国務長官をはじめ、ヴェトナムにおける米軍の侵略的、非人道的行動に責任のある者を裁く「国際法廷」を開く仕事である。この war criminal tribunal(ベトナムに関する)「国際戦争犯罪法廷」を構成し、その仕事を遂行することに、今後のラッセルの全精力が傾注されてゆくわけである。
 これらの運動の本拠は、バートランド・ラッセル・ピース・ファウンデーション(B.R.P.F)であり、たずさわるスタッフもことごとく同一人物であって、つまりラッセル平和財団の活動そのものがヴェトナム・ソリダリティ・キャンペーンであり、ヴェトナム戦犯国際裁判であると言ってもいいほどの現状である。そしてラッセルが呼びかけ、協力を期待し、さらにそれに呼応してくる対象を英国で眺めてみると、多くは、労働党左派、労働組合、学生団体、婦人団体等であり、さらにその傾向が先鋭化されてゆくようである。
 バートランド・ラッセルの平和運動がこの先きどのような進路を辿るであろうか、それはきわめて注目にあたいする。(6月27日、ロンドン宿舎にて:日高一輝)