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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

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Statement to young Japanese from the President of The Committee of 100 in Britain, Dec. 12, 1962(英国百人委員会総裁ラッセルから日本の若者へのメッセージ)

Statement to young Japanese from the President of The Committee of 100 in Britain, Dec. 12, 1962.

英国百人委員会総裁ラッセルから日本の若者へのメッセージ(1962年12月12日付)

* 日高(訳)→ 松下(訳)に変更
[松下注:ラッセルのこのメッセージは,京都大学医学部の学生が編集している雑誌『かいむ』(1963年春?)に掲載されたものです。
の画像

(p.100)In Britain we have created a movement of mass resistance against nuclear war. I do not need to tell the people of Japan about the horrors of such warfare; nor do I need to tell you about the effectiveness of resistance, for I have been encouraged by what you have yourselves achieved already. I must add, however, that time is very short. The world is staggering from crisis to crisis. The men of power have demonstrated that they are quite willing to engage in nuclear war. Any conflict of a local character can now be the occasion for the outbreak of global war, since the Great Powers are unable for long to be kept out of any hostilities.
Meanwhile, every day, and at every moment of every day, a trivial accident, a failure to distinguish a meteor from a bomber, a fit of temporary insanity in one single man, may cause a nuclear world war, which, in all likelihood, will put an end to man and to all higher forms of animal life. The populations of the Eastern and Western blocs are, in the great majority, unaware of the magnitude of the peril. Almost all experts who have studied the situation without being in the employment of some Government have come to the conclusion that, if present policies continue, disaster is almost certain within a fairly short, time.



(p.102) ラッセル卿略伝(省略)

(p.103) 百人委員会とは
 バートランド・ラッセルを最高指導者とする「核兵器全廃」のための運動組織で,本部はロンドンにある。(Committee of 100, 13 Goodwin Street, London, N.4)
 第二次世界犬戦直後,原子力を戦争に用いてはいけないと主張して「原子兵器反対国民同盟」が英国に生まれた。ラッセル卿がその最高顧問として迎えられ,やがて総裁となった。その組織は急速に発展して大衆の間に浸透していった。核実験反対のための集会や平和行進,国際活動が有力に展開されていった。
 ところが1959年にいたって,その組織の幹部や地方支部の指導者の間に,国会の議席をもとうとするものが出て来たし,中央においても正式に政党として登録して政治活動に入るべきだとの意見が拾頭して来た。それが労働党に接近し,中には入党するものも出て来た。ところが労働党の主流の方針が.核兵器を所有することは国防上必要であるとする意見に傾いて来た。
 ラッセル卿は強くこの傾向に反対した。そしていくたびか斡部会議をもみにもんだ揚句,ついにこの同盟を去った。同年,ラッセル卿は,行を共にした同志たちと共に,もっと純潔な組織を,一死をもいとわぬ覚悟の者百名の精鋭をすぐって発足しようと考えて「百人委貝会」をつった。
 それが今日英国全土にわたって5万人の会員を擁する大きな組織となっている。
 1961年9月には,ラッセル卿夫妻が自ら陣頭に立って核兵器反対の「座り込みデモ」を敢行した。夫妻は国防省前の玄関に座って逮捕され,1週間の投獄(松下注:実際は刑務所付設の病院に軟禁)となった。
 百人委員会はこうして,シヴィル・ディスオビーデンス(政府に対する一般大衆の不服従運動)を展開することとなり,ロンドンのトラファルガー広場での公開集会をはじめとして,各地での集会,座り込み,街頭行進が続けられた。
 最も注目を浴びた大事件は,1961年12月9日に展開されたところの,英国内各核兵器基地,軍事飛行場に対して敢行された坐り込みデモであった。数千人が行動して数百人が逮捕された。
 去る1月10日付で卿は一旦百人委員会総裁を辞任し,同会からも去ると発表したが,核兵器を全廃させるまで百人委員会の活動を続けてゆくことには変りないことを言明している。  

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(p.101)英国において,私達は,核戦争に反対する'大衆抵抗運動'(組織)を創設しました。私は,日本の人々に核戦争の恐怖について語る必要を感じません。また抵抗運動の効果についても語る必要を感じません。なぜなら,私は,あなた方自身が既に成し遂げてこられたことによって,これまで勇気づけられてきたからです。しかしながら,私は,時間はほとんど残されていないと付言しなければなりません。世界は,危機から危機へとよろけ続けています。権力者たちは,核戦争に進んで乗り出す意志のあることを,証明してきました。地域的性格をもった(範囲がごく一部の地域に限定された)戦闘でも,地球規模の戦争勃発の機会になる可能性があります。なぜなら,強国は,いかなる戦争行為(交戦行為)にも長い間加わらないでいることはできないからです。
 一方,毎日,あるいは日々あらゆる瞬間に,小さなとるに足らない事故,爆撃機と流星(隕石)との区別の失敗,ある一人の人間の一時的な精神異常の発作といったものが,核戦争を引き起こすかも知れません。そして,核戦争は,人類や高等動物を絶滅させる可能性が充分あります。東側及び西側ブロックの人々は,大多数,核戦争の脅威が大きいことに気がついていません。何らかの政府機関に雇用されていない専門家でこの状況について調査研究した人々のほとんど全てが,現在の政策がこのまま続いたら,間もなく大惨事がもたらされるだろう,という見通しを持っています。

(p.101) ラッセル卿への感謝(高須・記)
 今回,本誌に,英国の著名な哲学者,バートランド・ラッセル卿から,はるばる海を越えて,御寄稿いただいたことは,編集者一同,まさに望外の幸せであり,甚だ形式的表現しか出来ないが,先づ以って,卿に,深甚なる感謝の意を表させていただく次第である。
 それと同時に私は,ひとり英国のラッセルでなく,世界のラッセルであられる卿が,はるばる吾々のもとへ送ってよこされた稿は叉,ひとり吾々「かいむ」の読者にのみ与えられたものではなく,卿によって,全日本の若人に与えられたところの,与えられなければならぬところの'メッセージ'であると信ずる。それは,卿の「生命を賭した」熱烈とどまるところを知らぬ,あの「運動」を通じてほとばしり出る,卿の「情熱」の一端でもある。
 ラッセル卿に御寄稿いただき度いという希望が,編集委員会の席で正式にとりあげられたのは,昨年(1962年?)9月18日のことである。その理由は簡単である。従来,この種の機関誌が,国内の著名な方々から稿を募っていたのと同じ理由を以って,憚りながら,海外の方々から御寄稿願っても -もっともそれが可能な場合であるが- 不思議ではないと思ったからである。世は世界の一つを目ざす時代である。
 吾々が,特にラッセル卿にお願いしようとしたことについては,勿論,卿が,世界に冠たる哲学者であり,平和の旗手であり,何よりも,アインシュタイン亡きあとの世界の良心であるという事実もさることながら,本学教養部でのテキスト,卿の論文集 'Useless Knowledge' 等を通じて,何とはなしに,吾々が,卿を身近かに感じていたことも確かである。そして,時あたかも,一触即発の危機に瀕して,世界を震撼せしめたあのキューバ危機の最中,卿は,米ソ両首脳へ,解決のための平和no  メッセージを呼びかけておられた。
 私は,京大の先輩であり,私の最も敬愛する知人の一人である,日高一輝氏に懇望して,吾々の気持ちを,卿にとりついでもらうよう,依頼した。氏が,卿と個人的に親しいばかりでなく,卿の論文翻訳の仕事をしておられたからである。
 吾々は,最初,卿に「日本の医学徒のために」といった題を希望したのであるが,(1962年)12月12日付で送られてきたのは,それよりも一まわり大きな「日本の若人」へのステートメントであった。この些細な行き違いは「卿の想像に絶する多忙さと*(=脱字)の雄大さのゆえに,'医学徒'というのを没却されてしまったのであろう」という日高氏の推定を,私も売分理解出来るのである。いずれにせよ,卿が,吾々のために遠い日本の医学徒のために,多忙な貴重な時間をさかれたことは事実である。
 はずかしいことであるか,私は,卿について,多くを知らない。卿の運動の個々についてもよくわからない。それらは,私が,たとえ少々首を突っこんでみたところで,どうにもなるものではないかも知れぬ。しかし,卿の平和への情熱が,幾千里の海を越えて身に迫ってくるのは,一人私だけではあるまい。そして又,今尚,卿のいう「終幕か? 開幕か?」の舞台を,否,舞台装置をすら,暗中に模索している人類を思う時,その未来に,やはり卿と同じように,吾々も真剣に賭けなければならないと考えるのである。
 今年(1963年)91歳になられる卿は,その意気,青年を凌ぐものがあられるというが,卿の今後の御健康と御活躍とを,はるか日本の片隅で,お祈りしてやまない。
 お世話のかけついでに,目高氏に翻訳もお願いした。叉,本稿冒頭の「ラッセル略伝」並びに「百人委員会とは」についても,同氏の御尽力を恭うした。恩えば,本誌に,卿の玉稿を賜るに最も多とさるべきは,日高氏の御協力であり,実際,卿の論文集が,日本で刊行される場合に,卿から,その「序文」を頂戴することすら犬変に困難であると云われている事実を考え合わせるならば,本誌の受けた栄誉が如何に稀有な事柄に属するかがわかるのである。之みな,氏の御尽力の賜であり,茲に,編集委員会を代表して,深謝する次第である。(高須)