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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

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碧海純一「哲学史上におけるバートランド・ラッセルの位置づけ」

* 出典:『日本バートランド・ラッセル協会会報』第23号(1975年3月),pp.4-<5br> * 碧海純一は当時、東大法学部教授

 ラッセルはすでに大正時代から日本の読書界に紹介されてきたし、特に、かれの最晩年の激越な平和運動を通じて、その名は現代日本の一般青少年の問題で遍く知られるようになってきた。しかし、今までのところ、ラッセルの名をこの極東の島国にまで広めたのは、何と言っても、実践運動家としての、「文明批評家」としての、「自由恋愛論者」としての、そしてノーベル賞受賞者としてのかれの事蹟であり、果たして職業的な哲学者としてのラッセルが我が国で正当に評価されているかというと、私は多少の疑問を感ぜざるをえない。
 日本の思想界の通念によれば、ラッセルは、重要な人物ではあるが、西洋哲学の本流からはみ出た哲学者とみなされてきたのであり、この評価は今日(=1975年当時)でもやはり変わっていないのではあるまいか。ドイツ観念論の影響を強く受けている人々がこういう評価をするのは当然としても、これらの人々から見ると「同じ穴のムジナ」(?)に過ぎないと思われるような、分析哲学の陣営においてすら、ラッセルの哲学に対する評価は必ずしも高いとは思われない。これは、今日の分析哲学(特にイギリスと日本のもの)に大きなインパクトを与えた後期ヴィットゲンシュタインが、旧師ラッセルと理論の面でも個人的感情の面でも徹底的に対立してしまったことと無縁ではないように考えられる。


ラッセル協会会報_第23号
 ラッセルが西洋哲学の本流を継承した人物であったか、否かの判定は、勿論、何を以て「本流」と見るか、また哲学の基本任務をどこに求めるかにかかっており、この点についての判断は歴史的事実の判断であると同時に価値判断でもある。私は哲学の本領は、まず、宇宙論(およびその重要な一部分としての宇宙論的人間論)と認識論にあると考える。この意味において、哲学は徹頭徹尾ヘレニックな学問伝統に立っている。(ラッセル自身も、『西洋の知恵』の冒頭のところで、「或る非常に重要な意味において、すべての哲学はギリシヤ哲学である」と述べている。) かれは、また、哲学がその生命を保つためには、諸科学の第一線の研究との不断の接触が不可欠であることを強調するとともに、この要求をみずから実践すべく終生つとめてやまなかった人物であった。本格的な哲学を特徴づける第一の特色は、上述のように、広大な宇宙論的・人間論的視野であるが、気宇の「主観的な」壮大さという見地のみから捉えるならば、どこの精神病院にも偉大な哲人の1人や2人はいる、ということにもなろう。ラッセルの生涯と業績を回顧して、まず我々が感銘を受けるのは、かれが雄大な構想力と該博な学殖とに加えて、深い洞察力と鋭くかつ的確な分析力をも兼備していた、ということである。これらの点で、ラッセルに比肩しうべき哲学者として、私はジョン・デューイ、エルンスト・カッシラー、カール・ポパーなどの名をあげたいと思うが、やはりこれらの人々と並べても、ラッセルはその国際的影響力やスケールの大きさの点で、ひときわ抜きんでた人物であったと言ってよいであろう。ラッセルの非凡な分析力は、かれが初期に論理学や数学基礎論の分野で成し遂げた不朽の業績(その集大成は、ホワイトヘッドとの共著『数学原理(Principia Mathematica)』1910-1913である)を想起するだけで、誰しも認めざるをえないところであろうが、かれの透徹した分析は、社会や人間の問題に対して向けられたときもやはり驚くべき威力を発揮するかれの処女出版とも言うべきドイツ『社会民主主義論』(German Social Democracy, 1896)は、イギリス人によって書かれたマルクス主義論の最初のもののひとつであるが、その把握の確かさ、鋭い批判力、そして何よりも予言力の点において24歳の青年の作品とは到底考えられないほどの名著である。マルクスの人道主義的義憤に心の底から共鳴し、また『資本論』における経済学的分析を高く評価しつつも、ラッセルは、マルクス主義の中核を成す要素のひとつに終末論的ファナティシズムがあることをすでに洞察していた。1919年、革命後間もない新生ソヴィエト・ロシアを親しく訪れてこの「ブレイヴ・ニュー・ワールド」の実情をつぶさに見聞したラッセルは、かれのこの点での危倶がまさに現実となってあらわれつつあることを知って、非常なショックを受けた。
 1920年、愛人ドーラと共に北京へ講義に招かれ、数ヶ月を中国で過ごした経験は、のちに『中国の問題』(The Problem of China, 1922)という書物の形で実を結ぶが、この本が今日なお新鮮さを失っていないということも、また驚嘆すべき事実である。(私の尊敬する先輩で中国問題の専門家である坂野正高教授から、同教授がこの書物を非常に高く評価しておられることを伺い、心強く感じた。) 
 レオナルド・ダ・ヴィンチの時代はともかく、専門分化の激しく進みつつある現代において、文理両道にわたって博い学殖を身につけることは、よほどの例外的な傑出人にとってのみ可能である。ラッセルのばあいには、天賦の才能、異常な勤勉と努力、そしてそれに加えてかれ自身が『賢明に選択した』と称するこれまた世にも稀な長寿の家系の、僥幸的ともいうべき結合があってはじめて、かれのような知的巨人の形成が可能であったのであろう。
 紀元前6世紀のイオニアの自然哲学にはじまり、前5世紀後半のアテネにおいてひとつの頂点に達したヘレニックな知的エ一トスの20世紀における継承者として、わがバートランド・ラッセルの右に出る人物はない、というのが私の永年にわたる確信である。