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粉川忠の伝記小説、阿刀田高『夜の旅人』抜書き

 粉川忠(1907.6.19-1989.7.17):明治40年6月19日、水戸市郊外の山根村生まれ。家は代々山根村の村長を勤める素封家。忠は、四男二女、六人兄弟の長兄第一子。評論家の粉川哲夫氏は、忠氏の次男(長男は生まれてすぐに死亡)。直木賞を受賞した「ナポレオン狂」は粉川氏をモデルにした小説(ただし、この小説では、ゲーテ関係資料ではなく、ナポレオン関係資料のコレクターという設定になっている。
 私も慶應の院生の時、(バートランド・ラッセル資料室を日本にも創りたいと思い、(当時)渋谷区神泉にあったゲーテ資料室に粉川氏を訪ね、2時間ほどお話を伺ったことがあります。遠い昔の話です。



  • (pp.7-23)ここには、ゲーテ作『狐の裁判』(絵入自由出版社、明治17年刊)の入手に係るエピソードについて記されている。
    (春陽堂から出された明治19年版は持っていたが、明治17年版は噂には聞いていてもなかなか入手できなかった。この入手には、ペリカン書房の品川力氏や東大総合図書館司書の柳生氏も係わっていたとのこと)
  • (pp.23-33)ここでは、少年時代の忠少年に大きな影響を与えた3つの出来事についての記されている。
    (その1:大正5年、粉川少年が8歳の時の出来事。自分が通う小学校に文部省の視学官がやってきたとき、校長や教頭が視学官にペコペコしている姿を見て、「俺は一生人に使われる仕事にはつくまい」と思ったこと。/その2:小学校3年の時、祖父に連れられて水戸の彰考館文庫を見学し、本の収集の重要性を学んだこと。/その3:小学5年生の時、工作の宿題で、雑誌の付録についていたものをまねてつくり、先生から「人の作ったものをそのまま真似るだけでは手工(工作)にならない」とみんなの前で叱責され、人真似はしてはいけないと、しみじみ思ったこと。)
  • (pp.34-39)ここでは、pp.23-33に書かれた3つの出来事によって小学生が自分の人生の進路を決めたというのは「後から強調して意味づけ」たのではないかとの疑問について、「私A」と「私B」の対話という形で、トーナメント理論で解釈を試みている。
    (結果から見ると不思議に見えても、最後に勝ち抜く人は必ず存在するわけだから、その人からみれば勝ち抜いてきたことに不思議や奇跡はない。 私A:「・・・ただ、何ていうのかな、視学官の傲慢な態度を見て一生宮仕えをするまいと考えたのが二年生、彰考館文庫を見て文化事業の大切さを直感したのが三年生、五年生では手工の失敗から独創性の重要さを肝に銘じて感じ取っている。しかもそれがみんな一生を貫く教訓になるわけだろ。子どもというのは、そんな能力があるものかなって気がする。」 私B:「ありうるんじゃないのかな。第一、昔の子どもは今よりずっと大人だった。小学校を卒業しただけで勤めに出たり、奉公にやられたりするのがいくらでもいたわけだし、小学校に通いながら子守をしている奴だっていたんだから。大学生になってもフラフラ遊んでいる今とは、子どもの心構えが大分違っていたと思うんだ。」)


  • (pp.39-58)この章では、どうして「ゲーテに関する仕事」をしようと決意したか、その経緯が書かれている。
    (粉川氏は、高等小学校卒業後、父親の指示に従い、大正13年に茨城師範学校に進んだ。師範学校2年生の時、粉川氏は、英会話学校に通うようになるが、同じ英語教室の仲間の一人で、早稲田大学の学生にゲーテの『ファウスト』を読むよう薦められる。最初はそれほどでもなかったが次第にゲーテが好きになっていく。何か一生生きがいを持ってやっていくことができるものを持ちたいと思っていたが、しだいにゲーテについて何かやりたいと思うようになる。しかし、ゲーテの研究者になるには(旧制)高等学校に行き、大学に行かないといけない。師範学校にいる自分がいまさらそのように舵をとるのは非常に難しい。どうしたらよいか。ゲーテについて何をやるかまだ良い考えが浮かばないが、とにかく師範学校を出た後、教師になるのだけはやめようと決意する。(当時としては驚くべきことだと思われるが)村長である父親も母親も、祖母も、忠青年の気持ちを尊重しようとする。--。師範学校を卒業して先生になれば、兵役をまぬかれる。地元の学校に奉職して何年かのちに村長に転進する--それが(当初)父が息子に託した人生設計であった。・・・。師範学校は全寮制である。ある日、具合が悪くて一人で寮の煎餅布団に伏せていると、同じ英会話教室の仲間が容態を心配して訪ねてきた。大久保という早大生で、弊衣破帽、しかし将来に壮大な野心を抱いているらしく、いつも若い学生たちにむつかしい議論を吹っかけ、教訓を垂れている男だった。・・・。「いかん、いかん。いくら体の調子が悪くても、こんなものを読んでいてはろくなことがない。それより、これ(ゲーテ作、森鴎外訳『ファウスト』)を読め。」・・・。一読、二読、三読と重ねるうちに多少は理解が深まった。粉川は少しずつゲーテに魅せられ、続いて『若きヴェルテルの悩み』を、次いで『ウィルヘルム・マイステルの徒弟時代』を読了した。・・・。翌年、粉川は東京商科大学(現在の一橋大学)教授の峯間信吉の講義を聴く。・・・。講演のなかで、「私は、ゲーテを読んで、人間の生き方を知った。」と感慨深げに語るのを聞いて、粉川は講演のあとの控え室を訪ねた。「先生、ゲーテは一生勉強しても悔いのないものでしょうか」・・・。/師範学校の卒業の日が近づき、粉川は心の丈を父に打ち明けた。息子の決意が固いことを知り、父親は、県庁に相談についていってくれる。・・・。後日、県庁から通達された弁償金は、850円也、りっぱな家屋敷が一軒買えるほどの金額だった。(当時、師範学校の卒業生は、教員になるのが義務であった。)

  • (pp.58-81)「ゲーテについて何かやりたい」とは思っていても、「何をするか」はまだ決まっていなかった。この章では、ゲーテ資料の収集、即ち、ゲーテ図書館を創ろうと粉川氏が決意した経緯について書かれている。
    (東京に出て、同郷の知人・佐藤氏の、王子・飛鳥山下の下宿に同居させてもらうことになる。・・・。佐藤は、おおざっぱな男だが、味噌汁の味だけはうるさい。おいしい味噌汁さえ作ってやれば、ご機嫌でいる。当時、味噌は豆の形を残したまま売られ、各家庭ですり鉢ですって、漉して使っていた。(後にこの時の経験が役に立ち、「味噌の漉し機」の特許をとり、味噌漉し機を売って成功することになる。) 粉川は、3日に一度は新しい豆味噌を買ってきて、これをすり鉢ですって、美味しい味噌汁を作って、佐藤のご機嫌をとっていた。/佐藤はゲーテのことなどとんと知らない。その佐藤から「ゲーテっていうのは、いつ頃日本に紹介されたんだ。」と聞かれるが答えることができない。こんなことも答えらないようでは沽券に係わるということで、翻訳書の表紙で見知ったドイツ文学者に電話して教えてもらおうとすると、「そんなことは学者の仕事じゃない。新聞社にでも聞きなさい。」と怒られる。新聞社に聞いてもわからないため、上野図書館に通い、探すがなかなか答えが見つからない。そのうちに書庫に入れてもらえるようになり、3ケ月間を要して、ようやく明治4年刊のミル(著)、中村敬太郎(訳)『自由の理』(注:J. S. Mill's On Liberty)の中に、「グーテ」(ゲーテ)についての記述を見つけ、多分これが最初だろうと結論をだした。たったこれだけのことを調べるのに3ケ月間もかかったという経験から、ゲーテのための彰考館を創ればいいと思うようになり、ゲーテ図書館作りを決意する。/粉川氏も最初から、独力で、誰の助けも借りずに図書館を創ろうと思っていたわけではなく、最初は父親に資金援助を頼んでいる。しかし、父親から、「まず自分の生計を立て、その余力で好きなことをやるべきである。あやふやな計画に金を出すことはできない」と言われ、自分の力だけでやることを決意し、次の4つの誓いを立てる。
    1)すべて独力でやる。いかなる事情あるも他から経済的援助は受けない。
    2)学者にはなれない。ゲーテの資料を集めることだけを目的とする。
    3)けっしてゲーテを利用して金儲けをしない。
    4)事業が完成するまで断じて故郷の土を踏まない。
    ・昭和4年12月、水戸第2連隊に入隊する。兵役の義務を果たした後、再び佐藤の下宿にもどる。近所の木工所へいって木板を1枚もらい、「東京ゲーテ文庫」と記して、裏木戸の柱につるし、35冊のゲーテ関係資料からなるゲーテ資料室をスタートさせた。

  • TR> (pp.81-103)ここでは、「味噌の漉し機」をつくり、特許をたくさんとり、機械を売り、しだいに軌道にのっていくまでの経緯及び粉川氏の結婚について記されている。
    (軌道にのるには2つの契機があった。一つは、戦争が拡大していき、軍隊での味噌の需要が高まり、迅速に味噌をつくる必要から味噌漉し機が売れたこと、もう一つは、販路を拡大するために全国に売り歩いたことにより、しだいに注文が増えていったことである。後者では、各地域の古本屋めぐりにより、東京では入手できないゲーテ関係資料を入手できるようになったという副産物があった。(会社の名前を「精工舎」とした。時計の精工舎と似ているから人がよく覚えてくれるし、成功しそうないい名前だ。味噌漉し機第1号は、そこそこ売れ続けたが、その利益だけでは膨大なゲーテ関係資料を購入するに足りない。実際のところ、粉川はゲーテを甘く見過ぎていた。しゅ英閣版のゲーテ全集を取り揃え、文章を丸暗記するほど丹念に精読していたが、ゲーテがどれほどの文学者か、あまりにも無知であった。せいぜい500冊か千冊の本を集めればそれでよいと考えていたのである。ところが、東京の本屋を捜し歩くうちにとてもそんなものでないとわかった。/粉川は次々に機械に改良を加えた。新しい機械も作った。・・・。単純で廉価な味噌漉し機を小規模に作って売っているうちはよかったが、少し値の張る機械となると、そう簡単に売りさばけるものではない。会社を創設し軌道に乗せることが、これほど苦しいものとは思わなかった。・・・。心の支えはただ一つ、なんとか金を儲けてゲーテの資料を集めること、それ以外にはなにもなかった。不眠の夜は、ゲーテの作品の数行を思い起こしては心の慰めとした。--人間は努力する限り迷うものだ--/この注文取りの旅は、昭和8年よりほぼ20年にわたって続けられるが、訪ねた土地は5千あるか一万あるか、粉川自身もその数を正確に数えることができない。・・・。せっかく訪ねていっても一回目はにべもなく断られる。二度、三度と足を運んでようやくこちらの話を聞いてくれるようになる。・・・。仕事が忙しいので、ゲーテの収集は遅々として進まない。睡眠時間を5時間に縮めてみたが、依然として時間が足りない。・・・。注文取りはいつも上首尾とはいかない。そんなときでも、思いがけないゲーテにめぐりあえば、疲労も吹き飛んでしまう。・・・。粉川は大きな日本地図を買い込み、商売に赴いた先に赤印をつけた。それは古書探求をした土地の印でもあった。・・・。/精工舎の機械の便利さ・優秀さも少しずつ認められ、経営はようやく順調に動き始めた。・・・。特許は、その後昭和30年までに得たものも含め、都合13件まで数えた。実用新案も10件ほど認定を受けた。/昭和9年3月、粉川は忙しさの真最中に妻を迎えた。妻のきぬよは粉川と同い年。親同士が熟知の間柄で、粉川も'きぬよ'を若い頃から知っていた。・・・。「私には生涯を賭けてゲーテの図書館を作りたいという希望がある。会社の経営はそのための手段であり、時には家庭だって犠牲にしなければいけない。それでいいか」と尋ねた。「わかりました。お手伝いさせていただきます」・・・。夫婦の住まいは、この年、王子柳町に作った工場の一角だった。)

  • (pp.103-109)この章では、再び「私A」と「私B」との対話という形で、疑問点について、解釈を試みている。即ち、まだ人生というものがどういったものか、自分にはどういった能力があるか充分わからないうちに、粉川氏は生涯をかけてやることを決めてしまったが、才能があるとともに、たまたま運が良かったので成功したが、失敗することも充分ありえたのではないか、またトーナメント理論だけでは説明しきれないという疑問である。1つの解釈は「継続は力なり」ということで、多くの人は途中でやめてしまう(あきらめてしまう)が、粉川氏は強い信念を持ち貫きとおしたことが成功の大きな原因だと思われ、トーナメント理論にその事実を付け加えるべきだというものである。

  • (pp.109-144)この章では、東京帝国大学の独文科主任教授の木村謹治との感動的な出会いについて記されている。
    (戦中において経済的に成功した人は、大部分の人が軍需に依存していたと思われる。粉川氏の場合は、兵器製造ではなく、食料供給及びそのための食料製造機器の供給ということではあるが、例外ではなかった。粉川氏は、他人に頼らないという誓いを若い時に立てたが、やはり他人の世話にまったくならないということは無理であり、いろいろなところで他人の世話になっている(お互い助け合っている)。他人に頼らないというのは「他人から資金的援助を受けない」と言ったほうがよいだろう。戦争が激しくなるにつれて、粉川氏は再び兵役につくことになるが、どういう理由か本人もよくわからないが、「病気は長期治療を必要とする。自宅へ帰って静養せよ」という命令により、兵役を免除される。粉川氏は、兵隊の食料確保で国に尽くしたほうがよいと、軍中枢部の関係者が考えたのかもしれない、と推理する。/妻きぬよは、粉川の仕事を手伝い、精工舎の経理事務をほとんど一人でこなしていたのだが、工場でも家庭でも自分の言葉通り、世間のうしろ指などいっこうに気にかけぬように振舞っていた。・・・。昭和12年の秋、長男の正彦が生まれたが疫痢に罹って夭折。昭和16年8月、次男の哲夫(注:評論家の粉川哲夫氏)が生まれた。この年の12月、日本は英米に宣戦を布告し、大東亜戦争に突入する。・・・。たとえば燃料だが、のちに早稲田大学総長となった村井資長の示唆を受けて松根油を作り出す機械を製造したのも粉川だった。学徒動員の学生たちが、この材料となる松の根っこを掘らされ、さんざん苦労したおかげで、この機械は日本国津々浦々に恨みを残すことになってしまったが、松の根に含まれる油を乾溜し、ガソリンの替わりとするのは戦時下の苦しい発明だった。・・・。/粉川氏はこのような状況にあっても妻などのはげましで古本屋まわりを継続させ、ゲーテ関係の資料の収集に努めた。ある日、文京区本郷の福本書店において、東京帝国大学の独文科主任教授の木村謹治と感動的な出会いをした。「あなた、よくこのへんで見かけるけど、いつも機械の本を捜しているんですか」と尋ねる。「いえ、いつもはゲーテの本を捜しています。」「ほう、ゲーテねえ。ゲーテの本を捜してどうしますか?」「ゲーテが好きなものですから・・・。ゲーテの本を集めて図書館を作ります・」・・・。二人の会話をキョトンとした顔で聞いていた書店の主人が下駄を突っかけて粉川のそばへ寄り、小さな声で耳元に囁いた。びっくりしたのは粉川のほうだった。全身の血が動きを止め、緊張が足のほうからこみ上げてきた。主人は、「帝大の木村謹治先生ですよ」と告げたのであった。)

  • (pp.144-163)帝大の木村謹治教授との劇的な出会いの後、木村教授による、粉川氏に対するゲーテに関する個人教授(無料)が、粉川氏の王子の自宅で始まった。木村教授は毎週土曜日に自宅にやってきて、午後1時から5時まで講義を行った。この講義は、昭和15年8月から20年10月まで(学生が戦地からもどってくるまで)、実に273回に達した。なぜ木村教授はこんなに熱心に粉川氏に無料講義を行ったのか、この章の最後に木村教授から語られる。
    (「何も堅くなることはないよ。今日は初めてだから、これからの講義のやり方を相談しましょう。講義は毎週土曜日、一時から五時まで、私のほうからかならず来ますから、あなたのほうはよろしいですか?」「はい、結構でございます。」・・・。当初は大学の講義と共通する部分も少なくなったが、次第にゲーテを通して木村自身の人生を語り、粉川自身の人生を考える方法を採るようになった。・・・。「外国文学はどこまで勉強しても外国の文学だ。日本人は大和民族の伝統の中でゲーテを咀嚼して、ドイツ民族と違った固有の知恵をそこから汲み取らなければいけない。」それが木村の持論であった。・・・。木村は来訪のたびにきまって3冊の洋書を携えた。次回までそれを粉川の手元に預けておくのである。・・・。「私の持っている本は買うことないよ。私が死んだらそっくりお前の図書館に譲ってあげるから」とも告げた。・・・。「先生にはまだ長生きしていただかなければ困ります。」「なに、いずれは死ぬさ。年齢から考えたってお前のほうが長生きする。たとえお前が死んだって、お前の作ったゲーテ図書館は残るだろう。」・・・。最後の講義は、昭和20年10月27日だった。(最初の講義と同じく)ふたたびエッカーマンの『ゲーテとの対話』であった。「お前はよくついて来たね。これで私がお前に教えたいと思っていたことは、だいたいすんだつもりだ。どの学生より長く教えたんだから、もう学者に劣等感を持つことはないな。私にとってもいい勉強だった。あとはお前が精進してりっぱな図書館を作っておくれ。」「先生どうしてこれほどまでに私にご好意をかけてくれたんですか?」「私がゲーテ図書館をつくりたかったんだよ」 答えはそれだけだった。

  • (pp.163-175)粉川氏にまた迷いが出てくる。ゲーテをやりたいが、会社もしっかりやりたい。自分は抽象的思考が得意でないので、ゲーテ研究者としては限界がある。会社が傾いてはゲーテ資料を収集するための資金もまかなうことができなくなる可能性がある。ここは会社経営に力を入れて、もっと儲けてからゲーテ資料収集にまた本格的に取り組めばよいのではないかという考えが浮かぶ。これに対して、妻からは、お金もちになってから文化事業をやるひとはザラにいる。そういうことであれば、あなたがゲーテをやらくてもよいと言われる。。粉川氏はどうすべきか煩悶し、品川の真言宗の高僧を訪ね、どうしたらよいか、意見を求める。すると、その高僧は、「死ぬことだ」と答え、戒名を与える。
    妻きぬよは言う。「あなたはゲーテ図書館を作るために事業を始めたんでしょ。」「もちろんそうだ。しかしゲーテ図書館を作るためには厖大な資金が必要だ。精工舎がさらに大きな会社になれば・・・」「でもねえ、会社が大きくなって、そのあとで急に図書館を建てるとか、美術館をつくるとか、そんなことは他の人がだれでもやっていることだわ。お金さえあれば、それで簡単にできるようなことなら、わざわざあなたが一生を賭けることもないわ。子どもを育てるときだって、毎日毎日面倒を見てあげなきゃ、いい子に育たないでしょ。10年も20年も子どもを放っておいて、お金儲けをして、さあお金ができたから今度は教育してやろうと思ったって駄目じゃないですか。ゲーテ図書館も毎日育てなくちゃ。建物はお金さえあればりっぱなものができるでしょうけど、中身は一朝一夕で充実したものにならないのと違いますか。どこかのお金もちがやるようなこと、私、嫌いです。」と手厳しい。・・・。/(真言宗の高僧に会いに行く。)「ゲーテをいつまでやるつもりでおった?」「死ぬまでやるつもりで・・・」「小さい、あんたの一生なんかたかだかあと30年くらいのものだ。あんたが死んだのちまで末永く、永遠に続く事業だと考えねば。そうすれば、どんな思いをしてでも精進する力が湧いてくる。」「そのためにはどうすればいいでしょうか?」「死ぬことだ。・・・。あなたの理想は大きかったはずだ。ゲーテ資料の収集が男児一生の仕事にふさわしいかどうかが問題なのではなく、一生の仕事にふさわしいほど大きなものにすればいいんだ。」)

  • (pp.175-180)「私A」と「私B」との対話:(私A:「相変らず、粉川さんの人生は単純なように見えてわからないところがあるね」 私B:「そうかな。だれの人生だってそうだろう。人間はそう理詰めに生きているわけじゃないし、他人からみれば余計にわからない。・・・。私A:「粉川さんが、精工舎を大企業にするかどうか悩むところはおもしろい。この人にして、という感じもする。」 私B:「当然のことだよ。会社を作って、それを大企業に育てあげるってのは、男の仕事としてかなりおもしろいものだと思うよ。めったにめぐって来るチャンスじゃないし・・・。それに粉川さんは間違いなく経営者になる才能に恵まれていた。自分の才能を一番よく発揮できる。仕事が目の前にあって、それがうまく行きそうだと思ったら、やめるのはむつかしい。」)

  • (pp.180-211)迷いが吹っ切れた後、4時間半の睡眠時間を4時間に減らす。時間を捻出しては自転車を駆って文献の探求の作業に励む。世情は文化財の保存などを考える雰囲気ではなく、それだけに思いがけない資料が、安価に、どんどん入手できる。・・・。東京大空襲、昭和20年8月15日の玉音放送。戦後の混乱期におけるたくましい庶民の姿。
    (「よし、私もやる。この弛まないエネルギーを鑑としよう。そうだ、ゲーテ図書館は庶民のものだ。断じて学者や研究者のためのものであってはなるまい。」・・・。/ナチと協力したとの誹謗中傷により、東大で孤立していった木村謹治博士の不遇の死。それに対し恩師に報いるためにもと、ゲーテ図書館の完成を決意する粉川氏。多磨霊園の木村謹治の墓の前にぬかずいて、決意を述べる。「--先生の苦哀を察し得なかった愚かさをお許しください。今、私が先生の無念をいくら声高く叫んでみてもだれも相手にしてくれないでしょう。私はりっぱなゲーテ図書館を作ります。それが先生のご恩に報いる一番良い方法だと覚りました。そういう手段で、先生のご業績を長く、高く後世にお伝えします。それが先生を傷つけた者に対する、一番良識のある反論になると信じております。・・・」

  • (pp.211-220)しだいに損得を考えない、奇妙な協力者が増えていく。・・・。これとは対称的に、ゲーテ生誕200年祭では、日本独文学会の関係者が、東京ゲーテ協会に「寄付」をさせようと考える。・・・。/過労による胃潰瘍で半年ほど入院せざるを得なくなる粉川氏。自分もいつまでも生きているわけではないので、どうしたものか思案。それに対し、見舞いに来たユダヤ教の神父から財団法人にすることを勧められ、東京ゲーテ協会を財団法人にすることを決意する。財団法人にすることにより、粉川氏の個人財産はほぼゼロになる。子どもの哲夫には教育は受けさせるが財産は残さないことにした。(注:協力者は5名と書かれている。私が東京ゲーテ記念館を訪問した1975年には、職員5名となっており、粉川夫妻の2名もその中に含まれていると思っていたが間違いか?)
  • (pp.220-226)「私A」と「私B」との対話により、東大における木村謹治教授排斥運動について考察している。

  • (pp.226-234)王子・滝野川の住まいは、万人のための図書館を目指す拠点としては手狭となる。たまたま渋谷の上通り(渋谷区神泉)にある銀行が店舗を売りに出しているのを知り、粉川は購入する。・・・。蔵書が増えれば、整理をしっかりしなくてはいけないということで、粉川氏はゲーテ十進分類表を考案するとともに、1つの資料に10枚のカードをつくるようになる。現在であればコンピュータを活用しデータベース化すれば、いろいろな検索ができるが、当時としては、著者名目録カード、分類カード、書名カード、件名カード、受け入れ年月日カードなど、いろいろな方法で検索できるように多様なカードを作るよりほかなかった。
    「仕事だと思ってやれば大変ですけど、私はこれが楽しみですから・・・」

  • 東京ゲーテ記念館の写真 (pp.234-242:最終章)銀行の店舗ビルを壊し、新しい建物を建てた経緯や、ゲーテ関係資料の収集範囲をさらに広げたきっかけ、粉川氏の日常生活などが記されている。
    (渋谷区神泉町9番地のビルは、位置こそ「万人のためのゲーテ図書館」にふさわしいが、建物のそのものは、文献資料を保存するには余りよくない。スペース不足の上に、何よりも防火防湿の設備が不十分である。そこで、新館を作ろうと思い、懇意にしている三菱銀行の支店次長の大田に相談した。大田は三菱地所に相談にのってもらおうと三菱地所の本社に行った。入り口を間違え、廊下でうろうろしていたところ、(ゲーテに関心を持っている)常務取締役の鷲巣昌に呼び止められる。大田の話を聞き、鷲巣は「いいでしょう。私がお引き受けします。三菱地所の総力を上げて造りましょう」と言った。話がとんとん拍子に進むことになる。そうして、地上7階、地下1階の東京ゲータ記念館ができあがる
    (妻きぬよ:「とうとうできましたね」 粉川:「ウーン、しかしまだまだだな」 先年手をそめたゲーテ関係の切手の収集も進んでいない。開発途上国ではゲーテはどんなふうに読まれているだろうか。・・・。過去の資料ばかりではない。ゲーテは生き続けている。・・・。「ファウスト」という名の酒場があれば、立ち寄ってマッチを買う。--マッチが何の役に立つのか。・・・。考えてもみよう。酒場の名に「ファウスト」があることは、とりもなおさず庶民レベルでゲーテが愛好された証拠ではあるまいか。・・・。すべてのゲーテをすべての人のために、それが粉川のモットーであった。/味噌漉し機はほどほどに売れ続けている。ゲーテ1号、ゲーテ2号の名を帯びながら、かつての従業員たちは精工舎組織替えのときの約束を律儀に守り続けている。・・・。時間の経過はさまざまなものを過去の中へと運びこむ。乾沢を初めとする5人の相談役たちもつぎつぎに他界した。一人息子の哲夫=粉川哲夫は評論家として独自の道を進んだ(参考:粉川哲夫のシネマノート)。/
    東京ゲーテ記念館の建築記念プレート  粉川の日課は、1年365日、ほとんど変ることがない。5時に起床、6時まで体操とビルの前の清掃に費やす。朝食をすませ、開館の準備を整え、8時半に開館。一時まで文献の整理その他の事務を行う。昼食の後午後2時より8時まで引き続き文献の整理と事務。面会人があればこの時間を利用する。ゆっくりと夕食をとり、11時半まで整理と事務、そして書きもの。そののち体操して入浴。就寝は午前1時。日曜日は、午前中に古本屋めぐりして足を慣らし、午後は散策。・・・。身に帯びるものは、眼鏡、手帳、筆記用具、小銭いれ、折り畳み傘、メンソレータム、鼻紙、靴下。肩からななめにかける革鞄に入れて行く。・・・。散策していて思い浮かぶことはさまざまだ。(死んだ)父のこと、母のこと。故郷のこと、少年の頃のこと、木村先生のこと・・・。ゲーテを思うときはかすかにつらい。--私はどれだけゲーテを理解しただろうか--。ゲーテはとてつもなく大きい。求めれば求めるほど遠くなる。就寝前のひととき、屋上に立って粉川は思う。--ゲーテは「大きな夜」かもしれない。)(阿刀田高『夜の旅人』より抜書き)