三浦俊彦のページ |
|
無料掲示板は一定の件数を越えると削除されていきます。そこで、古い書込は、電子掲示板の「過去ログ」としてここに掲載します。(新しい記事から古い記事の順番となっています。) Re: 人間原理と進化論16 投稿者:φ 投稿日:2010年12月31日(金)01時52分23秒 > No.2575[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 人間による観測は宇宙定数の観測のように客観的に、その人の観測だと検証できます。 > しかし、心霊の観測となると霊媒師をとおして語られるわけですから、その心霊の観測だとの客観的な検証が不能ではないでしょうか。 繰り返しになりますが、心霊に霊媒は必須ではありません。 私たち自身が、たまたま脳に宿っているだけの特殊な少数派の心霊かもしれないのです。 > > ゾンビは私が観測したと言うでしょうから、その原点で何の不足があるのでしょうか? > 機械の観測も時空点が特定でき、その原点での観測として何かマズイのでしょうか? > なんであれ、観測選択したものが原点だとして観測選択は語れますよね。 > 繰り返しになりますが、そうなると観測選択は意味をなさなくなります。 観測選択は反証されます。 環境の性質を特定できなくなるのですから。 ファイン・チューニングが観測選択効果の哲学のモチベーションになっている限り、意識を生み出す複雑な有機体が観測選択にとって必須であり、その根拠はあくまで意識の存在にあります。 従って、ゾンビは、観測選択を考えるもともとのモチベーションを解除された存在です。 人間原理と進化論16 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月30日(木)14時13分11秒 > 繰り返しになりますが、これはφにとってのハムさんの内面についても言えます。他人の心についての問題そのものです。 人間による観測は宇宙定数の観測のように客観的に、その人の観測だと検証できます。 しかし、心霊の観測となると霊媒師をとおして語られるわけですから、その心霊の観測だとの客観的な検証が不能ではないでしょうか。 > 「私」の意識による観測、という原点抜きでは、何も始まりません。 > クオリア・意識のないところに観測選択が起きるはずがありません。 > もし起きれば、これも繰り返しになりますが、観測選択は何も選択できないことになります。原点が意識なのか、機械なのか、乱流なのか、熱渦なのか、結晶なのか、……、制限できなくなってしまいます。 ゾンビは私が観測したと言うでしょうから、その原点で何の不足があるのでしょうか? 機械の観測も時空点が特定でき、その原点での観測として何かマズイのでしょうか? なんであれ、観測選択したものが原点だとして観測選択は語れますよね。 Re: 人間原理と進化論15 投稿者:φ 投稿日:2010年12月30日(木)01時50分47秒 > No.2573[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 反証主義の反証可能性は、実験や観察が可能であることが前提なのです。 > 心霊があるということは実験や観察が可能だと思われますが、観測者としての心霊は実験や観察が不可能ではないでしょうか。 > 繰り返しになりますが、これはφにとってのハムさんの内面についても言えます。他人の心についての問題そのものです。 心霊だけの問題ではありません。 > > ゾンビは水があることを分り、飲んでウマイと言うけれどもウマイと思わないのでしたね。 > 水の存在に、ウマイと思うことは必要ないですよね。 > 観測選択にクオリア意識を前提することは余計なことのように感じるのですが。 > 「私」の意識による観測、という原点抜きでは、何も始まりません。 クオリア・意識のないところに観測選択が起きるはずがありません。 もし起きれば、これも繰り返しになりますが、観測選択は何も選択できないことになります。原点が意識なのか、機械なのか、乱流なのか、熱渦なのか、結晶なのか、……、制限できなくなってしまいます。 人間原理と進化論15 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月29日(水)10時53分14秒 返信・引用 > 霊媒とは関わらず、野生動物のように徘徊している心霊だってあっていいはずです。 > むろん実在はしないでしょうが、その可能性が認められるだけで、観測選択の反証可能性のためには十分です。 反証主義の反証可能性は、実験や観察が可能であることが前提なのです。 心霊があるということは実験や観察が可能だと思われますが、観測者としての心霊は実験や観察が不可能ではないでしょうか。 >> このことは、φ様の「論理学入門」のP.55の図3でも示されています。 これは進化論の自然選択の反証可能性の話でした。 > 物質やエネルギーの相互作用は至るところで生じており、私が観測者であることから、私が意識生命体であることも導かれなければ、液体の水があることも導かれません。 > 観測選択は環境をいかなる仕方で制限もしないことになります。 ゾンビは水があることを分り、飲んでウマイと言うけれどもウマイと思わないのでしたね。 水の存在に、ウマイと思うことは必要ないですよね。 観測選択にクオリア意識を前提することは余計なことのように感じるのですが。 Re: 人間原理と進化論14 投稿者:φ 投稿日:2010年12月29日(水)02時41分52秒 > No.2571[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 「他のものに依存している状態」といえば、われわれは全員それですね。 > > 我々は一人ひとり自立していますよね。 > 心霊は自立していません。 > 霊媒師に完全依存しているので、心霊があると検証される可能性はありますが、心霊が観測者だと検証される可能性はないでしょう。 > 心霊が語る観測なのか霊媒師が語る観測なのかが分けられません。 > 心霊を狭く定義して観測者から締め出そうとしても詭弁でしょう。 自立した心霊などいくらでも考えられます。 霊媒とは関わらず、野生動物のように徘徊している心霊だってあっていいはずです。 むろん実在はしないでしょうが、その可能性が認められるだけで、観測選択の反証可能性のためには十分です。 > > 現在までのあらゆる実験や観察で熱力学第二法則や自然選択は検証されているので、これらが普遍法則である確度が限りなく高まっているだけで確度が100%というわけではない。 > このことは、φ様の「論理学入門」のP.55の図3でも示されています。 > 人間原理の観測選択は、論理的に確度が100%なので反証される可能性はゼロでしょう。 > 繰り返しになりますが、いかなる環境にも意識が点りうることが証明されれば、今現在私がいる環境は観測選択された環境とは言えません。 観測選択は、説明のためにも予測のためにも無益な基準となります。 > > この場合、観測選択したのは何かと考えると、φ様や私ではなくパソコンなどの機械ですよね。 > 宇宙を観測した機械は、いつどこで誰が見ても同じ観測選択でしょう。 > 観測選択に意識はいらないのではないでしょうか。 もしそうなら、それこそ、観測選択は事実上働かないことになり、観測選択は反証可能であるのみならず、実際に反証されたことになります。 物質やエネルギーの相互作用は至るところで生じており、私が観測者であることから、私が意識生命体であることも導かれなければ、液体の水があることも導かれません。 観測選択は環境をいかなる仕方で制限もしないことになります。 ハムさんは、観測選択がすでに反証されていると述べているに等しいのです。 人間原理と進化論14 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月28日(火)10時04分27秒 > 「他のものに依存している状態」といえば、われわれは全員それですね。 我々は一人ひとり自立していますよね。 心霊は自立していません。 霊媒師に完全依存しているので、心霊があると検証される可能性はありますが、心霊が観測者だと検証される可能性はないでしょう。 心霊が語る観測なのか霊媒師が語る観測なのかが分けられません。 > 成り立たないことを証明するには、観測選択と同じくらい、非現実的なこと(心霊の充満のような)が現実化していないと不可能です。 現在までのあらゆる実験や観察で熱力学第二法則や自然選択は検証されているので、これらが普遍法則である確度が限りなく高まっているだけで確度が100%というわけではない。 このことは、φ様の「論理学入門」のP.55の図3でも示されています。 人間原理の観測選択は、論理的に確度が100%なので反証される可能性はゼロでしょう。 > その証拠に、私もハムさんもパソコンや携帯電話ではないのです。 この場合、観測選択したのは何かと考えると、φ様や私ではなくパソコンなどの機械ですよね。 宇宙を観測した機械は、いつどこで誰が見ても同じ観測選択でしょう。 観測選択に意識はいらないのではないでしょうか。 Re: 人間原理と進化論13 投稿者:φ 投稿日:2010年12月28日(火)01時06分6秒 > No.2569[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > たとえば、φ様の観測は公表すれば客観的に認知できますが、心霊は不可能です。 > そもそも、他のものに依存している状態を存在といえるのでしょうか。 > 心霊の観測だって公表すれば認知できまるでしょう。 「他のものに依存している状態」といえば、われわれは全員それですね。 > > 反証される可能性が無いというためには、演繹的に証明するか、反証のための実験や観察が不可能なことを示すしかないはずです。 > 熱力学第二法則や自然選択はまさにそれに近いということです。 成り立たないことを証明するには、観測選択と同じくらい、非現実的なこと(心霊の充満のような)が現実化していないと不可能です。 > > ここは、世界中の無意識的視点であるパソコンや携帯電話などが観測選択していますよね。 > これは意味が違うのでしょうか。 > パソコンや携帯電話などは観測選択などしていません。 その証拠に、私もハムさんもパソコンや携帯電話ではないのです。 人間原理と進化論13 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月27日(月)13時16分49秒 >心霊による観測も、心霊本人に体験されている限り、実在と認めるべきでしょう。 たとえば、φ様の観測は公表すれば客観的に認知できますが、心霊は不可能です。 そもそも、他のものに依存している状態を存在といえるのでしょうか。 存在の意味が変ってしまいます。 > 同様に、自然選択も、確率的に必然ということであって、たまたま自然選択に反するように見える事柄が起きたとしても、統計的傾向としての自然選択は、長期的にみれば確率的に必然です。 現在までのところ反証されていないだけで、将来反証される可能性は残っていませんか。 反証される可能性が無いというためには、演繹的に証明するか、反証のための実験や観察が不可能なことを示すしかないはずです。 科学理論には反証される可能性があることについては、φ様のご本にも記述されていたと思います。 > 無意識視点が観測選択できるなら、確率的にいってここは意識的視点でなく無意識的視点だったはずだからです。 ここは、世界中の無意識的視点であるパソコンや携帯電話などが観測選択していますよね。 これは意味が違うのでしょうか。 Re: 人間原理と進化論12 投稿者:φ 投稿日:2010年12月27日(月)01時39分13秒 > No.2567[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 人間による観測ならば客観的な観察ができますが、心霊による観測は客観的に観察ができません。 > 心霊が観測していることは検証不能ではないでしょうか。 > 前回の繰り返しになりますが、φの観測なら客観的に観察ができますが(φにとって)、ハムによる観測というのは検証不能です(φにとって)。 むろんそこまできびしく個人的に相対化する必要はないので、そうであれば、心霊による観測も、心霊本人に体験されている限り、実在と認めるべきでしょう。 > > 実験や観察によって検証されてきた科学理論は、演繹的な論証がなされていないので常に反証可能性を有しているはずです。 > 自然選択、重力法則、サイコロの出目確率のような普遍法則は、その普遍性が破れる観測が可能ならば反証可能性があるといえるはずです。 > これも繰り返しになりますが、自然選択というのは、重力法則や電磁気法則のようなものではありません。単に統計的な傾向です。 熱力学第二法則のようなものです。 エントロピーは着実に常に増大し続けるわけではなく、増大する傾向があるというだけです。 ときには部分的な逆転があってもかまいません。 インクが水に溶けて拡散しつつも、ある瞬間部分的に集中するようなことがあったとしても、なんら熱力学第二法則に反してはいないのです。熱力学第二法則はあくまで統計的傾向ですから。 ただし、その傾向そのものは、長期的にみれば確率的に必然です。 同様に、自然選択も、確率的に必然ということであって、たまたま自然選択に反するように見える事柄が起きたとしても、統計的傾向としての自然選択は、長期的にみれば確率的に必然です。 > > 人間原理の観測選択は、意識が前提なのですか? > 意識が前提ですね。 たとえば、ここでは、φやハムの意識的視点が観測選択されていますが、もしも無意識が観測選択してもよいのであれば、現に選択されているのがφやハムという意識生命体である事実が奇跡になってしまうでしょう。宇宙に無数に起きている観測(相互作用)のうち、たまたま意識的観測が選ばれる確率は極小ですから。 ここがφやハムの意識的視点であるという「選択的事実」が証明しているのは、数的に圧倒的多数である無意識的視点は、観測選択できないということです。 無意識視点が観測選択できるなら、確率的にいってここは意識的視点でなく無意識的視点だったはずだからです。 人間原理と進化論12 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月26日(日)16時57分31秒 > 心霊も同様です。「人間を通してしかその存在がわからない」のは、人間にとってであって、心霊にとっては、逆に、「心霊を通してしか人間の存在がわからない」のです。 人間による観測ならば客観的な観察ができますが、心霊による観測は客観的に観察ができません。 心霊が観測していることは検証不能ではないでしょうか。 > 自然選択は、重力法則や電磁気法則のようなものではありません。統計的な法則です。 > ちょうど、サイコロを投げてたまたま偏った出方だったからといって、6が出る確率は1/6、という統計法則が反証されたことにはなりません。> > > さらにいえば、自然選択のようなアバウトな法則ではなく重力法則のような厳密な法則も、例外的にどこかで破れた、というだけでは反証されません。単に重力を上回る力が>働いただけかもしれないからです。 実験や観察によって検証されてきた科学理論は、演繹的な論証がなされていないので常に反証可能性を有しているはずです。 自然選択、重力法則、サイコロの出目確率のような普遍法則は、その普遍性が破れる観測が可能ならば反証可能性があるといえるはずです。 >ゾンビは、定義からして意識がないので、観測者ではあっても、観測選択の原点にはなりません。 人間原理の観測選択は、意識が前提なのですか? 一般にいう観測選択効果は測定器などの無意識物にもあることです。 Re: 人間原理と進化論11 投稿者:φ 投稿日:2010年12月26日(日)03時17分53秒 > No.2565[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 人間を通してしかその存在が分らないのだとしたら、その心霊は観測者ではないはずです。 > その心霊が何か観測的なことを述べたとしても、人間が述べたのか区別がつきません。 > 同じことは、人間どうしの間でも言えます。 ハムさんの内面の存在は、φの内面を通してしかわかりません。 だからといって、ハムさんが観測者でないことにはならないのです。 心霊も同様です。「人間を通してしかその存在がわからない」のは、人間にとってであって、心霊にとっては、逆に、「心霊を通してしか人間の存在がわからない」のです。 > > 自然選択で説明できない生物が1種でも発見されることが反証可能性になるはずです。 > 実験や観察によって検証されている科学理論の反証可能性は、全反証が不可能なのですから。 > 自然選択は、重力法則や電磁気法則のようなものではありません。統計的な法則です。 ちょうど、サイコロを投げてたまたま偏った出方だったからといって、6が出る確率は1/6、という統計法則が反証されたことにはなりません。 さらにいえば、自然選択のようなアバウトな法則ではなく重力法則のような厳密な法則も、例外的にどこかで破れた、というだけでは反証されません。単に重力を上回る力が働いただけかもしれないからです。 > > ゾンビに名前や日時を聞けば答えますよね。 > そのゾンビが宇宙定数はこれこれだと観測記録をすれば、これは我々の観測と何も変りません。 > ゾンビは、定義からして意識がないので、観測者ではあっても、観測選択の原点にはなりません。 人間原理と進化論11 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月25日(土)18時39分18秒 > 脳の存在しない虚空から、故人しか知らない情報が語られ、会話もでき、いかなるチューリングテストにも合格し、そういう声が複数の人間の耳に聞こえる、というようであれば、心霊は確証されます。 人間を通してしかその存在が分らないのだとしたら、その心霊は観測者ではないはずです。 その心霊が何か観測的なことを述べたとしても、人間が述べたのか区別がつきません。 > 繰り返すと、自然選択以外のメカニズムが働いているからといって、自然選択への反証にはなりません。 自然選択で説明できない生物が1種でも発見されることが反証可能性になるはずです。 実験や観察によって検証されている科学理論の反証可能性は、全反証が不可能なのですから。 > 意識的視点がなければ、無数に生じている相互作用(観測)のうち、どの観測が選ばれているかを決める手立てがないからです。 ゾンビに名前や日時を聞けば答えますよね。 そのゾンビが宇宙定数はこれこれだと観測記録をすれば、これは我々の観測と何も変りません。 Re: 人間原理と進化論10 投稿者:φ 投稿日:2010年12月24日(金)01時30分53秒 > No.2563[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 心霊は客観的に実験や観察ができないので否定されていますよね。 > 通俗的な心霊現象となると科学の話ではなくなりませんか? > 心霊が否定されているのは、反証不可能だからではありません。 反証されているからです。 というか、一度も確証されていないからです。 脳の存在しない虚空から、故人しか知らない情報が語られ、会話もでき、いかなるチューリングテストにも合格し、そういう声が複数の人間の耳に聞こえる、というようであれば、心霊は確証されます。 脳のない虚空に意識があると認めざるをえません。 心霊は、確証も反証も可能なのです。 > > そもそも、ゴキブリやバクテリアを自然選択への反証と考える学者はいないでしょうし。 > > さらに長い期間を取ればどうでしょう。 > 極端に地球誕生直後の人類の痕跡となれば自然選択を反証するでしょう。 > それは生物の誕生と同じですね。 無生物から生物への変化はいまだに解明されていませんし、バクテリアと人間の差異よりもアミノ酸とバクテリアの違いの方がずっと大きいわけですが、べつに自然選択説がそれで反証されはしませんね。 繰り返すと、自然選択以外のメカニズムが働いているからといって、自然選択への反証にはなりません。 > > ゾンビが宇宙を観測するのであれば、端的に観測者なのではないでしょうか。 > 系Aと系Bが相互作用して、Aの状態について情報がもたらされれば、BによるAの観測が生じたと言えます。が、Bに意識がない限り、「Bが観測した」と選択的に視座を定めることはできません。 ゾンビによる宇宙の観測は生じますが、ことさら選択的な「ゾンビが宇宙を観測した」という事態は生じていないわけです。 「◎◎が△△を観測した」と選び出せるのは主観的な意識状態がある場所においてだけであり、 主観的な視点が設定できなければ、観測選択はなされません。 意識的視点がなければ、無数に生じている相互作用(観測)のうち、どの観測が選ばれているかを決める手立てがないからです。 人間原理と進化論10 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月23日(木)14時30分11秒 > 通俗的な心霊現象でも、非物質的な(脳のような機能的物質構造の支えなしの)心霊の存在を確証するのに十分です。 > 逆に言うと、通俗的な心霊現象の不在は、「時空点のすべてに自意識が宿っている」ことを反証していると言えます。 心霊は客観的に実験や観察ができないので否定されていますよね。 通俗的な心霊現象となると科学の話ではなくなりませんか? 人間原理の観測選択の科学性を問う反証可能性です。 > そもそも、ゴキブリやバクテリアを自然選択への反証と考える学者はいないでしょうし。 さらに長い期間を取ればどうでしょう。 極端に地球誕生直後の人類の痕跡となれば自然選択を反証するでしょう。 >たとえば、特定の形をした岩石が、「特定形状岩石選択」をしていないのと同様です。 この例えがよくわかりませんが、ゾンビが宇宙を観測するのであれば、端的に観測者なのではないでしょうか。 Re: 人間原理と進化論9 投稿者:φ 投稿日:2010年12月22日(水)04時18分2秒 > No.2561[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 「時空点のすべてに自意識が宿っている」ような者が観測者だとしても、そういう自意識を観察する方法がないのではないでしょうか。 > つまり、反証可能性がないと思います。 > そういう者たちが語りかけてくる、ということは可能でしょう。 通俗的な心霊現象でも、非物質的な(脳のような機能的物質構造の支えなしの)心霊の存在を確証するのに十分です。 逆に言うと、通俗的な心霊現象の不在は、「時空点のすべてに自意識が宿っている」ことを反証していると言えます。 むろん、物質界に対して心霊現象を起こさないような純意識的な心霊の存在となると反証不可能ですが、「時空点のすべてに自意識が宿っている」ということだけなら、通俗的な心霊の存在だけを問題にするように話を限定することができます。 そうすると、そのような心霊があまねく存在すれば(これは反証可能)、観測選択効果は働かないことになるでしょう。 私たちはそうした心霊であることもできたのに、なぜか脳を持った人間である。これは、観測選択では説明できません。つまり、私たちの現状が、観測選択効果の産物ではない、という形で、発見的方法としての観測選択(の有効性)が反証されるわけです。 > > 環境との相互作用を律する物理法則が大きく変化したときに生物は選択される(変化する)わけです。 > そういうときに選択されない(変化しない)ことが反証ですよね。 > 遺伝子型が大いに変化しているのに目立った表現型が変化しないことは可能なので、たとえば化石などの遺物からは自然選択が起きているのか起きていないのか確実な判定はできません。 「遺伝子型が大いに変化しているのに目立った表現型が変化しないことは可能」なのはなぜかというと、異なる環境において目立つ特徴での同一表現型を保つためには、目立たないところでの表現型の変化があるはずで、そのためには遺伝子型が大いに変化しているはずだからです。 ゴキブリは、何億年もの環境の変化を、ほとんど表現型上の無変化によって乗り切ってきましたが、遺伝子型における自然選択が働いていないと即断はできないのです。 そもそも、ゴキブリやバクテリアを自然選択への反証と考える学者はいないでしょうし。 > > このゾンビは宇宙定数を求めたりするのですよね。 > そのとき、自然を選択したといえませんか。 > いえません。ゾンビには意識がありませんから。 たとえば、特定の形をした岩石が、「特定形状岩石選択」をしていないのと同様です。 人間原理と進化論9 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月20日(月)13時20分58秒 > よって、心霊充満世界では、「私」が物理的存在であるという事実は、観測選択とは何の関係もないことになります。 「時空点のすべてに自意識が宿っている」ような者が観測者だとしても、そういう自意識を観察する方法がないのではないでしょうか。 つまり、反証可能性がないと思います。 >どのような生物が生き延びて繁殖するかということは、環境との相互作用を律する物理法則に反することができないからです。 環境との相互作用を律する物理法則が大きく変化したときに生物は選択される(変化する)わけです。 そういうときに選択されない(変化しない)ことが反証ですよね。 >ゾンビは、内面的には無ですから、主体であることはできません。つまり、人間原理の意味での観測者ではありません。意識が一つも存在せず、ゾンビが無数にいる宇宙には、「この私」は居ることができません。 このゾンビは宇宙定数を求めたりするのですよね。 そのとき、自然を選択したといえませんか。 Re: 人間原理と進化論8 投稿者:φ 投稿日:2010年12月20日(月)00時04分43秒 > No.2559[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > >時空点のすべてに自意識が宿っていることがわかったとしましょう。心霊が充満しているというわけです。 > > そのような自意識は観測者ではないでしょう? > 自然現象を精密に観察・測定できなければ観測者ではないし、そのような自意識の実験や観察ができません。 > こういう考えは、たとえば、自由に動けずに観察や測定ができず、内省するしかないような重度の身体障害者に失礼ではないでしょうか。 自分では外界を物理的に操作できず、積極的な測定ができないとしても、主体的な意識があり、主観的原点である限り、観測者です。「私」がそのような存在者でありえないという理由はありません。 よって、心霊充満世界では、「私」が物理的存在であるという事実は、観測選択とは何の関係もないことになります。 > > 地球誕生から現在までに自然の激変が何回もありましたが、そのあらゆる時期に人類化石が発見されたら自然選択説は反証されるはずです。 > 決して反証されません。 どのような生物が生き延びて繁殖するかということは、環境との相互作用を律する物理法則に反することができないからです。 > > ゾンビは観測者なのでしょうね。 > ゾンビは、内面的には無ですから、主体であることはできません。つまり、人間原理の意味での観測者ではありません。意識が一つも存在せず、ゾンビが無数にいる宇宙には、「この私」は居ることができません。 人間原理と進化論8 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月19日(日)19時01分56秒 >時空点のすべてに自意識が宿っていることがわかったとしましょう。心霊が充満しているというわけです。 そのような自意識は観測者ではないでしょう? 自然現象を精密に観察・測定できなければ観測者ではないし、そのような自意識の実験や観察ができません。 つまり、反証可能性がない。 お化けは観測者ではないと思います。 >生命誕生の直後に人類が発生したとしても、その人類は自然環境によってスクーニングにかけられた結果生じたわけですから、自然選択が働いていると言えます。 地球誕生から現在までに自然の激変が何回もありましたが、そのあらゆる時期に人類化石が発見されたら自然選択説は反証されるはずです。 >http://members.jcom.home.ne.jp/miurat1/kakuritu.pdf ゾンビは観測者なのでしょうね。 Re: 人間原理と進化論7 投稿者:φ 投稿日:2010年12月19日(日)12時42分45秒 返信・引用 > No.2557[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > どのような観測者であれ、観測者が生まれればその時の自然を選択したといえるので、反証が不可能ですよね。 > そうでもないのです。 たとえば、物質の有無にかかわらず、真空部分も含めて、時空点のすべてに自意識が宿っていることがわかったとしましょう。心霊が充満しているというわけです。その場合、観測選択効果は、私がどこにいてもよかったと指定するはずです(つまり存在場所の指定はできないはずです)。私が現になぜ脳に宿っているのかが説明できません。 したがって、観測選択効果が実質的に何の選択も行なわない、という場合が考えられるのです。「私」は意識である、という当たり前のことを除いては、観測選択が私の環境について空虚な制限(制限度ゼロ)しかしないことが可能です。 このとき、観測選択は実質的に反証されたと言えます。 > > 自然選択説には常に「その一点」であれ、反証可能性がある。 > 生命誕生の直後に人類が発生したとしても、その人類は自然環境によってスクーニングにかけられた結果生じたわけですから、自然選択が働いていると言えます。 実質的に空虚な選択に見えますが、やはり選択が働いています。その意味では、観測選択よりも反証可能性がないくらいなのです。 観測選択は、前述のような心霊充満世界においては全く働かない、つまり反証されるわけですから。 心霊と観測選択効果については(観測選択効果を前提した心霊の否定については)、以下をご覧いただければと思います。↓ http://members.jcom.home.ne.jp/miurat1/kakuritu.pdf 人間原理と進化論7 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月17日(金)12時09分3秒 返信・引用 > 同様に、たとえば液体の水がなくても、さらには原子さえ存在しなくても、知的生命は発生・進化しうることが証明されれば、観測選択効果はほとんど役に立たなくなります。 どのような観測者であれ、観測者が生まれればその時の自然を選択したといえるので、反証が不可能ですよね。 自然選択説には常に「その一点」であれ、反証可能性がある。 とすると、人間原理の選択効果とは何なのか? という疑問なのです。 「観測選択が現宇宙の状態の主理由である」という説は反証可能であることはわかります。 * Re: 人間原理と進化論6 投稿者:φ 投稿日:2010年12月17日(金)00時26分24秒 > No.2555[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 問題は、自然選択と観測選択が同じロジックに従うかどうかです。 私の考えでは、同じロジックに従っています。 たとえば、生命発祥の直後に人類が誕生したという証拠が得られたとしたら、それは自然選択ではなく、何らかの偶然か、未知のデザイン作用によるものでしょう。しかし、その一点は自然選択で説明できないとしても、生物進化の歴史において自然選択が働かないということは不可能です。 そして、生物進化に自然選択が働く、というのは必然であり、進化の主たる原因が自然選択である、というのは必然ではありません。 同様に、たとえば液体の水がなくても、さらには原子さえ存在しなくても、知的生命は発生・進化しうることが証明されれば、観測選択効果はほとんど役に立たなくなります。それでも、観測選択そのものが全く働かないということは不可能でしょう。 また、自然選択と同様、観測される宇宙の特性のほとんどすべての理由が観測選択である、というのは必然ではありません。 もともとのハムさんの問題提起に対しては、「観測選択を反証不能というなら、同程度に自然選択は反証不能である」と答えられます。 同様に、自然選択が反証可能なら、同程度に観測選択は反証可能です。ただしその意味は、「自然選択が生物進化の主原因である」という説は反証可能であり、かつ、「観測選択が現宇宙の状態の主理由である」という説は反証可能である、ということなのです。 人間原理と進化論6 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月16日(木)12時49分55秒 >なぜなら、環境からの物理的な作用によって表現型ごとに繁殖の確率が変わるというのは物理的必然であり、自然選択は起こらざるをえないからです。 自然選択の意味を広く取りすぎているように感じます。 例えば、地球誕生直後の人類の化石が発見されたとして、これも自然選択だといえば、そのとき自然選択説は創造論と同じことになってしまいます。 自然選択の意味は、「厳しい自然が生物を選択する」ことだと考えるべきだと思います。 これは、厳しい自然が生物を選択しないときは自然選択ではない、という意味です。 強い人間原理が条件付きで反証可能なのは理解しています。 問題は、人間原理の「観測選択」自体です。 人間原理の観測選択は、反証可能性がないので形式科学説なのでしょうか? Re: 人間原理と進化論5 投稿者:φ 投稿日:2010年12月15日(水)23時46分37秒 > No.2553[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > 厳しい自然が生物を選択するわけですから、自然が大きく変化する前から進化していない生物が見つかれば、自然選択説では説明できなくなるはずです。 > そんなことはありません。 一つの種が、幅広い環境に適応することは可能です。 これについてちょっと説明させていただくと、前々回のハムさんの > > 赤の女王仮説「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」→自然選択されるには突然変異し続けなければならない。 > ということではないのですか? > に私は前回つい同意しましたが、より正確に言うと、 赤の女王仮説「自然選択されるには表現型を変え続けなければならない」 ということであって、必ずしも遺伝子そのものの変化を必要とはしません。 有性生殖の場合、突然変異なしで同じ遺伝子プールを保ったままでも、個体ごとに遺伝子型をかなり変えることができますから、同じ種の個々体がさまざまな環境の激変をくぐり抜けることができるのです。種にもよりますが。 > > 自然選択にはそういう反証可能性があると思うのです。 > 人間原理の観測選択はそういう反証可能性がないので科学説ではない。 > 繰り返しになりますが、自然選択そのものは反証できません。 なぜなら、環境からの物理的な作用によって表現型ごとに繁殖の確率が変わるというのは物理的必然であり、自然選択は起こらざるをえないからです。 反証できるのは、「進化の主たる(あるいは最大の)原因は自然選択である」という仮説です。自然選択以外の原因、たとえば神の意図や生物の複雑化パワーのようなものが自然選択以上に生物進化に作用していることが実証されれば、この仮説は反証されますが、自然選択そのものの存在はまず反証できません。 観測選択についても同様です。観測選択そのものは反証できるはずがありませんが、「観測選択が最も強力にこの宇宙を選択した」という仮説(「強い人間原理」)は反証できます。観測選択は最低限の選択にすぎず、そのうえで、さらに厳しい制約(観測者の存在の必要条件ではない制約)が数多く付いていて、それらに比べれば観測選択など、ちょうど円周率について「一億の一億乗よりも小さい」という制約を付けた程度に等しいくらい、どうでもいい制約であると判明することはありえます。 以上のように、 自然選択も観測選択も、それ自体の作用は絶対に反証できません。ただし、「自然選択(観測選択)が生物進化(この宇宙のありさま)の主たる原因である」という仮説は、反証可能です。その点において、両者のロジックは同じなのです。 人間原理と進化論5 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月15日(水)10時50分37秒 厳しい自然が生物を選択するわけですから、自然が大きく変化する前から進化していない生物が見つかれば、自然選択説では説明できなくなるはずです。 そういう化石が発見されたら、生物と自然選択は無関係だという実証になりませんか。 自然選択にはそういう反証可能性があると思うのです。 人間原理の観測選択はそういう反証可能性がないので科学説ではない。 とすると、この説は何なのでしょうか? Re: 人間原理と進化論4 投稿者:φ 投稿日:2010年12月15日(水)03時19分37秒 > No.2551[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 赤の女王仮説「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」→自然選択されるには突然変異し続けなければならない。 > ということではないのですか? > もちろんそういうことでしょう。 ただし、 自然選択は種が変化する原動力のようにいわれていますが、むしろ、長期間変化せずに存続するための原動力です。環境に合わせて突然変異体が選択されてゆく結果、同心円的に同じ形、さらにはほぼ同じ遺伝子型を周期的に保ちながら存続するということがあるわけです。 したがって、ハムさんの言う 「5億年前の現生人類化石などが発見されれば」 の場合、その「人類」は、環境に合わせて突然変異を繰り返し、結果としては(「化石」のうえでは)現生人類としか見えない生物であるということでしょう。 ゴキブリやシーラカンスが「生きた化石」のようにいわれますが、あれらも、自然選択の結果、ジグザグ的に「同じ種」として存続しているわけでしょう。 ゴキブリやバクテリアは自然選択説への反例ではありませんよね。 人間原理と進化論4 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月14日(火)12時34分5秒 >自然選択は変化よりも無変化の原因であることが多いので(赤の女王仮説)、つまり、自然選択が働かないと種は速やかに絶滅するので、五億年もの間ある種が無変化で存続したというのは、自然選択が強力に働いた証拠になります。 赤の女王仮説「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」→自然選択されるには突然変異し続けなければならない。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E4%BB%AE%E8%AA%AC ということではないのですか? Re: Re 投稿者:φ 投稿日:2010年12月14日(火)00時07分57秒 蝉さんへのお返事です。 > > 生物の誕生確率に関してφさんの書かれたことの確認としては無意味だったかな、と。 > 骨子は、進化した生物が生存できる条件が思っていたより広くても、地球外生命の存在確率は上がらない、ということでしたので、「m,P(b)の値は発見前から変化しない」という記述は、「P(e)の値は〜」と置換可能で、冗長な表現だと思った次第でした。 ↑ 了解しました。 Re: 人間原理と進化論3 投稿者:φ 投稿日:2010年12月14日(火)00時06分27秒 > No.2547[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 例えば、5億年前の現生人類化石などが発見されれば、人類だけは5億年間自然選択されずに進化していないことがわかります。 > 自然選択は変化よりも無変化の原因であることが多いので(赤の女王仮説)、つまり、自然選択が働かないと種は速やかに絶滅するので、五億年もの間ある種が無変化で存続したというのは、自然選択が強力に働いた証拠になります。 確かに、アメーバから1世代のうちに突如として犬が誕生した、となれば、自然選択説は反証されるでしょうが、単にそれは「すべての種の進化の【主たる】要因は自然選択である」という説が否定されるだけで、自然選択そのものは反証されません。 自然選択が働かないというのは、物理的にいってほとんど不可能でしょう。 自然選択以外の要因、たとえば遺伝子浮動などの要因が強く働いて自然選択の効果をかなり減殺したとしても、自然選択への反証にはならないのです。 > >人間原理の観測選択は、こういう反証可能性がないように思います。 > たとえば、宇宙定数がぴったりゼロであることが発見されれば、観測者の存在の必要条件という最低基準を大幅に超えた不要なまでにエレガントな秩序が成り立っていることになり、観測選択以外の何らかの選択原理がこの宇宙を多宇宙(実在の、または仮想の)から選び出したことになります。 しかし、だからといって観測選択効果がなかったことにはなりません。観測選択効果が働かないことは不可能だからです。 以上のように、他の要因によって現状をよりよく説明できることはありうるにせよ、自然選択、観測選択は、作用せざるをえない必然的なメカニズムであり、反証不可能です。 単に、他のメカニズムがどれほど働いているかという比較問題が生ずるだけです。 Re:Re 投稿者:蝉 投稿日:2010年12月13日(月)21時06分1秒 > No.2541[元記事へ] φさんへのお返事です。 > > > 冷静になって式を見てみると、わざわざ環境毎に分割する意味がありませんでしたね。 > > 各環境を「惑星」などと限定すれば、意味はあるかと思いますが。 > 生物の誕生確率に関してφさんの書かれたことの確認としては無意味だったかな、と。 骨子は、進化した生物が生存できる条件が思っていたより広くても、地球外生命の存在確率は上がらない、ということでしたので、「m,P(b)の値は発見前から変化しない」という記述は、「P(e)の値は〜」と置換可能で、冗長な表現だと思った次第でした。 人間原理と進化論3 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月13日(月)12時28分17秒 >化石を研究しても、自然選択を反証することはほとんどできないでしょう。自然選択は結果論だからです。結果的に生き延びてきたものどもが、適者だったのです。 >反証不能性については、自然選択も観測選択も同じ程度だと私は考えています。 例えば、5億年前の現生人類化石などが発見されれば、人類だけは5億年間自然選択されずに進化していないことがわかります。 人間原理の観測選択は、こういう反証可能性がないように思います。 Re: 人間原理と進化論2 投稿者:φ 投稿日:2010年12月12日(日)23時48分42秒 > No.2545[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 自然選択と人間原理の観測選択は、逆の関係ではないですか? > 自然選択は、自然は観測者を選択する。 > 観測選択は、観測者は自然を選択する。 > 自然と観測者(あるいは生物)のいずれがいずれを選択するのかは、見方の問題で、どちらにもなります。自然選択を捉えるとき、 @生物が環境にうまく適応している という形で見ることもできれば、 A環境が生物に好都合になっている という形で見ることもできます。 神の恩寵によるデザイン、という場合、環境が生物に好都合なように選ばれている、というAの発想でしょう。 人間原理の場合も、ファインチューニングというのは、観測者に合わせて宇宙環境がうまくできている、というAの発想です。しかし客観的に見ると、@が正しいわけです。観測者が宇宙環境に合わせて誕生し進化しただけです。 @かAのどちらかに視点を定めれば、観測選択も自然選択もロジックは同じであることがわかるでしょう。 > > 自然選択は化石等の研究で反証される可能性があると思われますが、観測選択は反証可能性があるのでしょうか? > 化石を研究しても、自然選択を反証することはほとんどできないでしょう。自然選択は結果論だからです。結果的に生き延びてきたものどもが、適者だったのです。 見方を変えれば、単なる物理的結果論以外の、予定された生物学法則などない、というのが自然選択の考えです。 同様に、単なる観測者の存在以外の、予定された宇宙の選択法則などない、というのが観測選択の考えです。 反証不能性については、自然選択も観測選択も同じ程度だと私は考えています。 人間原理と進化論2 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月12日(日)18時08分25秒 >自然選択の自然な拡張が、観測選択です。 自然選択と人間原理の観測選択は、逆の関係ではないですか? 自然選択は、自然は観測者を選択する。 観測選択は、観測者は自然を選択する。 自然選択は化石等の研究で反証される可能性があると思われますが、観測選択は反証可能性があるのでしょうか? Re: 人間原理と進化論 投稿者:φ 投稿日:2010年12月12日(日)13時55分48秒 > No.2543[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 私は人間原理と進化論は相反するように感じています。 > 突然変異と自然選択での予測は偶然なのですが、人間原理は「ねばならない」とか「である」と必然を予測するように感じます。 > 人間原理も、客観的視点からすると偶然で処理していますね。 自然選択とは違って、他の環境を観測することが難しかったり不可能だったりするために、主観的なローカルな視点に限らざるをえず、そうすると「ねばならない」ように見えるだけです。 自然選択の自然な拡張が、観測選択です。 人間原理と進化論 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月10日(金)17時33分9秒 ありがとうございます。 φ様のお嫌いな宇宙人がいたとすると、その宇宙人には、論理があり、クオリア・意識がある、といえるわけですね。 >地球以外で進化した観測者が発見されたら、進化論学者は、喜ぶよりもショックを受けるのではないでしょうか。 私は人間原理と進化論は相反するように感じています。 突然変異と自然選択での予測は偶然なのですが、人間原理は「ねばならない」とか「である」と必然を予測するように感じます。 Re: 人間原理の反証可能性7 投稿者:φ 投稿日:2010年12月 8日(水)13時47分21秒 > No.2540[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > しかし、「真に存在するもの」とは何かが難しいです。 > 「真に存在するもの」とは「論理」である、という理解で大丈夫でしょうか? > 論理と、あとはラッセル流にいえば「センスデータ」ですね。「クオリア」「意識」と言ってもいいでしょう。ただしセンスデータの存在は、論理的必然ではなく、観測的必然ですけれどね。 > > 観測者の存在が唯一であれば、弱い人間原理のいう特別性が決定的に実証されるという理解でいいのでしょうか? > 「たとえば、水素が存在する」ということから、環境の性質を限定することは大してできませんよね。「炭素が存在する」ならはるかにマシですが、それでも「生物の存在」ほどではないでしょう。観測者がどこにでも存在できるとなったら、予測としても説明としても「人間原理」の価値は大幅に減ることになります。 > > 「よかった、よかった」という感想は、私には不思議です。 > 私などは好奇心から地球外生物の可能性が高まったか?と期待しました。 > 観測者が地球だけというのは寂しいし、ちょっと恐怖があります。 > もちろん、宇宙の大きさが無限大とか、あるいは超宇宙論的な広さがあるならば、多宇宙を考えずとも、この1つの宇宙にも観測者は無数の場所に存在するでしょう。しかし、ネオダーウィニズム的な知見によると、各々の観測者のいる場所はとうていコミュニケーション可能な距離にはないだろう、というわけです。 地球以外で進化した観測者が発見されたら、進化論学者は、喜ぶよりもショックを受けるのではないでしょうか。 確かにSF的な観点からすると、接触可能に範囲内に宇宙人がいてほしいですが、それよりも、インテリジェントデザインの人たちを一瞬でも喜ばせるのが悔しいので、私としては宇宙人はいてほしくないですね。なんだか狭量ですが。 Re: 「だから正確には…」について 投稿者:φ 投稿日:2010年12月 8日(水)13時29分40秒 > No.2539[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 > 冷静になって式を見てみると、わざわざ環境毎に分割する意味がありませんでしたね。 各環境を「惑星」などと限定すれば、意味はあるかと思いますが。 > > しかし未だに気になるのが、宇宙生物学上の重要な発見と謳ったNASAの発表です。「地球外生命体の証拠の探索に影響するであろう発見」という表現も、探索の方法に不安を感じさせられます。 > たしかに。NASAがどのような手掛かりを重視しているのか、あやふやなところがありますね。とはいえ、現段階では、生命探査の直接の対象となりうる環境の種類があまりに限られている(時空の範囲からしても、性質からしても)ため、「生命生存の必要条件を欠く」として除外するべき候補が減ったという意味では、貴重な発見と言えるのでしょう。 人間原理の反証可能性7 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月 8日(水)11時16分36秒 >IDは頭ごなしに知的設計者という経験的実体を仮定しているので、形式科学ではありませんね。 経験的実体というのは、真に存在するものではないので、そういうものを仮定するのは形式科学ではない、ということですね。 しかし、「真に存在するもの」とは何かが難しいです。 「真に存在するもの」とは「論理」である、という理解で大丈夫でしょうか? >近傍にもう一つ独立発生した文明があるとしたら、確率的に、きわめて多数の知的観測者がいることになります。 観測者の存在が唯一であれば、弱い人間原理のいう特別性が決定的に実証されるという理解でいいのでしょうか? >好適な環境でないと生命は誕生できず、熱水噴出口での棲息は、あとから適応したにすぎません。同様に、リンかヒ素か、という選択は、生命の適応の広さを示すものであっても、最初に誕生できる環 境の幅を拡げたわけではありませんから。 > しかしNASAの発表が宇宙人の信号でなくてほんとによかった、よかった。 確かに、ヒ素でも生きられるという適応は突然変異で説明でき、そういう適応をすでに済ませていたのかもしれませんね。 また、地球外生命探しもキーワードは水でリンではなさそうなので、地球外生命の可能性を高めるとはいえないのでしょうね。 「よかった、よかった」という感想は、私には不思議です。 私などは好奇心から地球外生物の可能性が高まったか?と期待しました。 観測者が地球だけというのは寂しいし、ちょっと恐怖があります。 ラッセルの逆理によって「算術の基本法則」に矛盾があることを指摘されたフレーゲの心境と似たものなのでしょうか。 「だから正確には…」について 投稿者:蝉 投稿日:2010年12月 7日(火)21時54分21秒 冷静になって式を見てみると、わざわざ環境毎に分割する意味がありませんでしたね。訂正前の式を導いていた時、「生命の窓」の発生率を念頭に置いていたので、このような間違いが起きたのだと思います。 しかし未だに気になるのが、宇宙生物学上の重要な発見と謳ったNASAの発表です。「地球外生命体の証拠の探索に影響するであろう発見」という表現も、探索の方法に不安を感じさせられます。 Re: ↓の話題について 投稿者:φ 投稿日:2010年12月 5日(日)23時11分28秒 > No.2535[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 > > DNAのリンが砒素に変わる生物が発見されても、恐らくその生物は無生物から化学進化したのではなく、普通の生物から進化したものだろうから、m,P(b)の値は発見前から変化しない。ゆえにP(e)の値も発見前から変化しない。 > というようなことです。 地球生物がたった一つの起源を持つことはほぼ確実ですが、宇宙規模でも同様である可能性は捨て切れません。 > > また、問題が生物誕生ではなく、生物発見であれば事情が少し変わってくるようにも思えます。 > 地球外に生物が誕生したとして、その生物が種として長く存続するほど我々が観測する確率が高くなりますから、砒素が増加しても生物が生き残れるとなれば、地球外生物発見の可能性は上がるのではないでしょうか。 > たしかに、地球から観測可能な範囲内で生物が独立発生したならば、われわれと接触するまで生きている可能性は高まったでしょうね。しかし、より重要なのは、そもそも地球から観測可能な範囲内で生物が独立発生するかということ自体ですから、そのことに条件付けた「発見可能性」が高まったからといって、さほどの意義はないように思われます。やはり観測より存在の方が意味がはるかに重いので。 だから正確には… 投稿者:蝉 投稿日:2010年12月 5日(日)14時46分47秒 各環境毎にP1(b)…Pm(b)として、P(e)=1-Π[k=1,m](1-Pk(b)) * 追記 投稿者:蝉 投稿日:2010年12月 5日(日)14時23分50秒 正確にはP(b)の値は各環境毎に異なるのでしょうが… ↓の話題について 投稿者:蝉 投稿日:2010年12月 5日(日)14時16分49秒 > No.2534[元記事へ] 唐突に横槍失礼します。φさんへの質問なのですが、 > > リンの代わりにヒ素でも生きられる、という程度では、地球以外の環境で独立に生命が誕生している可能性が増えたとは言えません。 > 海底の熱水噴出口にもバクテリアがいる、ということが、灼熱の惑星で生命が誕生できる証拠にならないのと同じです。 > 好適な環境でないと生命は誕生できず、熱水噴出口での棲息は、あとから適応したにすぎません。同様に、リンかヒ素か、という選択は、生命の適応の広さを示すものであっても、最初に誕生できる環境の幅を拡げたわけではありませんから。 > > アポロが運んだバクテリアが月の真空中でしばらく生きていたそうですが、だからといって月で生命が誕生できるわけではありませんし。 > この部分の解釈は、「 m :地球以外の、生物が誕生可能な環境の数 P(b):(上記の環境で)生物が誕生する確率 P(e):地球以外に生物が誕生する確率 として、 P(e)=1-(1-P(b))^m DNAのリンが砒素に変わる生物が発見されても、恐らくその生物は無生物から化学進化したのではなく、普通の生物から進化したものだろうから、m,P(b)の値は発見前から変化しない。ゆえにP(e)の値も発見前から変化しない。 」というもので良いのでしょうか。 また、問題が生物誕生ではなく、生物発見であれば事情が少し変わってくるようにも思えます。 地球外に生物が誕生したとして、その生物が種として長く存続するほど我々が観測する確率が高くなりますから、砒素が増加しても生物が生き残れるとなれば、地球外生物発見の可能性は上がるのではないでしょうか。 もし上がるのであれば、NASAが「"宇宙"生物学上の発見」として発表したことにもまあ納得できるですが。 Re: 人間原理の反証可能性6 投稿者:φ 投稿日:2010年12月 4日(土)00時01分27秒 > No.2533[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > そうだとすると、例えば、予測のためのID(インテリジェント・デザイン)を排除できなくなりませんか? > IDは頭ごなしに知的設計者という経験的実体を仮定しているので、形式科学ではありませんね。 > > 例えば、この宇宙に観測者が存在する惑星が2つあったとして、人間原理の力は大幅に弱まってしまうのですか? > 大幅に弱まります。 近傍にもう一つ独立発生した文明があるとしたら、確率的に、きわめて多数の知的観測者がいることになります。知的観測者の発生が容易である(物理法則からの必然的帰結である)という証拠が得られたことになり、弱い人間原理による予測力は大幅に減ることになるでしょう。 > > NASAの発表がありましたね。 > 「研究グループはこの細菌にリンの代わりにヒ素を与えながら培養したところ、DNAのリン酸がヒ素に置き換わり増殖した。」 > これは、適応変異の疑いがありますし、地球外生命存在の可能性を高めますよね。 > 適応変異は全く関係ないでしょう。 ともあれ今回の発見にはホッとしました。 リンの代わりにヒ素でも生きられる、という程度では、地球以外の環境で独立に生命が誕生している可能性が増えたとは言えません。 海底の熱水噴出口にもバクテリアがいる、ということが、灼熱の惑星で生命が誕生できる証拠にならないのと同じです。 好適な環境でないと生命は誕生できず、熱水噴出口での棲息は、あとから適応したにすぎません。同様に、リンかヒ素か、という選択は、生命の適応の広さを示すものであっても、最初に誕生できる環境の幅を拡げたわけではありませんから。 アポロが運んだバクテリアが月の真空中でしばらく生きていたそうですが、だからといって月で生命が誕生できるわけではありませんし。 しかしNASAの発表が宇宙人の信号でなくてほんとによかった、よかった。 人間原理の反証可能性6 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月 3日(金)11時25分27秒 >予測のための人間原理は、強弱にかかわらず形式的ルールですから、ちょうど物理学に数学を用いるのと同様に、なんら適用の正しさの担保は必要ありません。 そうだとすると、例えば、予測のためのID(インテリジェント・デザイン)を排除できなくなりませんか? >多宇宙からの選択原理が「観測者の存在」以外に何かある、ということになるからです。 例えば、この宇宙に観測者が存在する惑星が2つあったとして、人間原理の力は大幅に弱まってしまうのですか? 1/1億の1億乗 と 2/1億の1億乗 に有意差があるのでしょうか? NASAの発表がありましたね。 「研究グループはこの細菌にリンの代わりにヒ素を与えながら培養したところ、DNAのリン酸がヒ素に置き換わり増殖した。」 これは、適応変異の疑いがありますし、地球外生命存在の可能性を高めますよね。 Re: 人間原理の反証可能性5 投稿者:φ 投稿日:2010年12月 2日(木)23時52分7秒 No.2531[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 予測のための人間原理は、強弱にかかわらず形式的ルールですから、ちょうど物理学に数学を用いるのと同様に、なんら適用の正しさの担保は必要ありません。 予測が間違っていたと判明したら、それは適用先のデータに誤りがあったり未知の情報があったりしたからで、ルールそのものが反証されたことにはならないでしょう。 > > 地球以外の生命を信じている科学者は多数派でしょうが、地球以外の観測者の存在を信じている科学者は少数派ではないでしょうか。 > たしかに、火星の隕石から微生物の痕跡が発見された、という程度なら、心配するほどのことはないかもしれません。私が恐れているのは、太陽系外から人工的なパルスが検出された、というニュースです。 そういうことが判明すると、説明としての人間原理の力は大幅に弱まってしまいます。この宇宙は、かろうじて観測者を生み出したのではなく、余裕をもって生み出したことになり、多宇宙からの選択原理が「観測者の存在」以外に何かある、ということになるからです。 これは、適応変異が実証された、というのと同じくらいネオダーウィニズムにとって大打撃であると同時に、目的論的なインテリジェント・デザインのような擬似科学を活気づける可能性があります。 もうすぐ記者会見のようですが、由々しき情報がもたらされぬよう祈ります。 むろん、目的論の復興は一時的なもので、いずれはバージョンアップした観測選択原理が説明力を回復するはずではありますが。 人間原理の反証可能性5 投稿者:ハム 投稿日:2010年12月 2日(木)11時24分44秒 第1文「予測で用いる場合、説明で用いた場合の正しさを担保することができますが、形式科学の理論の場合にこの正しさの担保は何でしょうか?」の意味は、 例えば、「強い人間原理」がこの宇宙の宇宙定数がゼロでなかったことなどを説明できることを担保に、理論のスクリーニングに「強い人間原理」を使っても良い、という考え方ができますが、もっぱら予測のために用いられる「弱い人間原理」のこういう担保はどこにあるのか?という疑問です。 >人間原理にとっては(その一部ですが)不利なデータとなります。 この辺のことは、φ様の著作でも説明されていますが、私は納得できているわけではありません。 この宇宙で地球だけの確率と、地球以外の何個かの確率に有意差があるとは思えないのです。 地球以外の生命を信じている科学者は多数派でしょうが、地球以外の観測者の存在を信じている科学者は少数派ではないでしょうか。 いずれにしろ、人間原理は反証できないのではないでしょうか。 私はその弱すぎる(正しすぎる)ところに疑問を感じています。 Re: 人間原理の反証可能性4 投稿者:φ 投稿日:2010年12月 1日(水)01時24分22秒 > No.2529[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > 予測で用いる場合、説明で用いた場合の正しさを担保することができますが、形式科学の理論の場合にこの正しさの担保は何でしょうか? > また、弱い人間原理のような弱い原理は、その弱さゆえにより強い理論を安易に予測してしまい、より強い理論の証明意欲を奪ってしまう危険がないでしょうか? 「その弱さゆえにより強い理論を安易に予測してしまい」の意味がよくわかりませんが、 たしかに、人間原理への最もまともな批判は、人間原理が生命発生やファインチューニングを単なる偶然によって説明してしまうため、必然的メカニズムによる説明を追究するモチベーションを抑えてしまう、というものです。 しかし、不要な法則はなるべく認めないというのが科学の本筋なので、人間原理はまさしく科学的方法の本道と言えるでしょう。 なお、第1文は意味がわかりませんでしたので、もう一度お願いします。 ところで、NASAが「宇宙生物学上の発見」について記者会見するそうですね。2日に。地球外で生命発生の証拠が見つかったのでしょうか? 太陽系内であれば、地球生命の起源がちょっとズレただけということもありえますが、太陽系外からの信号とかそういうものであれば、地球とは独立に生命が誕生したことになり、人間原理にとっては(その一部ですが)不利なデータとなります。 私としては、「地球外生命は、そして地球外知性はなおさら、存在してほしくない」という、まことに夢のない希望を持っております。人間原理にコミットしている副作用であることはいうまでもありません。 人間原理の反証可能性4 投稿者:ハム 投稿日:2010年11月29日(月)16時19分14秒 弱い人間原理を説明に用いる場合は、必ず観測が伴うでしょうから、必然的に「観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」といえてしまうのではないでしょうか。 「弱い人間原理」は、もっぱら予測のために用いられると理解しておきます。 予測で用いる場合、説明で用いた場合の正しさを担保することができますが、形式科学の理論の場合にこの正しさの担保は何でしょうか? また、弱い人間原理のような弱い原理は、その弱さゆえにより強い理論を安易に予測してしまい、より強い理論の証明意欲を奪ってしまう危険がないでしょうか? 例えば、巨大数仮説を証明する試みは、何か有意義な結果を得たかもしれないとも考えられます。 Re: 人間原理の反証可能性3 投稿者:φ 投稿日:2010年11月27日(土)22時24分4秒 > No.2527[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 弱い人間原理はどうでしょうか? > 弱い人間原理「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」(論理学入門 三浦俊彦著 p.153) > > これは、必然的に証明できる命題ですから、反証可能性はないと思うのですが、いかがでしょうか? > 「弱い人間原理」は、もっぱら予測のために用いられますね。 「なぜ現在の地球は生物の生息に適しているか」というのは、広大な宇宙と棲息不可能空間の広がりの実在がすでにわかっているので(「強い人間原理」の多宇宙に相当)、いまさら説明の対象とされることはありませんから。 ただし、「弱い人間原理」の代表例であるあれ、ロバート・デイッケによる巨大数仮説(ディラック)への反駁は、「巨大数仮説は間違っている」という予測をするとともに、なぜ巨大数の一致があるかについての説明もしていました。 ディッケのあの論法は、人類のような知的生命が、熱死後の宇宙でも永続的に生きられるということが証明されれば、反証されます(つまり、説明として不適格であることが示されます)。 このように、「弱い人間原理」は、説明に用いられる場合は反証可能であり(私たちの位置は、観測者としての私たちの存在と両立する程度を超えて特別であることがありうる)、予測に用いられるときは反証不能な形式科学的ルールである、と言えるでしょう。 「強い人間原理」と同様ですね。 人間原理の反証可能性3 投稿者:ハム 投稿日:2010年11月27日(土)11時51分17秒 よくわかりました。ありがとうございます。 強い人間原理┬予測の場合─形式科学の命題─反証可能性はないが反証主義の対象ではない。 └説明の場合─経験科学の命題─反証可能性がある。 弱い人間原理はどうでしょうか? 弱い人間原理「宇宙における私たちの位置は必然的に、観測者としての私たちの存在と両立する程度に特別である」(論理学入門 三浦俊彦著 p.153) これは、必然的に証明できる命題ですから、反証可能性はないと思うのですが、いかがでしょうか? >来年早々には出版できるでしょう。ご期待ください。 楽しみです。 出版日が決ったら教えてください。 Re: 人間原理の反証可能性2 投稿者:φ 投稿日:2010年11月26日(金)02時46分59秒 > No.2525[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 最初に、些細な訂正ですが、私の前投稿のラストの文 「強い人間原理」は、予測のために用いられる場合、反証可能なのは当然であり(むしろ反証可能であってはならず)、 は、もちろん正しくは 反証不能なのは当然であり でした。 さて、 反証主義が、反証可能性を要請するのは、経験科学の命題でしょう。 予測のための「強い人間原理」は、経験科学の命題ではなく、形式科学の命題です。 あるいは、『心理パラドクス』083「ヒュームのパラドクス」に倣って言えば、平叙文の命題ではなく、科学的推論が守るべきルールを命令した指令文です。 したがって、反証可能性がないから科学的でない、という評価の対象にはなりません。 ちょうど、「三角形には辺が3つある」が反証不能だからといって非科学的とは言われないのと同様です。 他方、説明のための「強い人間原理」は、反証可能であり(つまり今後の観測によって、宇宙定数はやはりゼロだった、とデータ改正されるかもしれませんから)、反証主義的に言って、経験科学の理論として合格です。 > > 「強い人間原理」は、予測のために用いられる場合は、反証不能ですから、科学哲学理論ではなく、 > 説明のために用いられる場合は、証明必然性を持つ(必ず真である)から、科学哲学理論ではない、 > ということになります。 > この解釈は正しいでしょうか? 前半は「科学哲学理論」を「経験科学の理論」とすれば正しく、 後半は「証明必然性を持つ(必ず真である)」ことはないので、間違いです。 なお、ちょうど脱稿したばかりのパラドクス本第4作(『戦争論理学』を含めると第5作)では、ポパーが反証不可能な非科学の代表として挙げたフロイト精神分析が、じつは反証可能であることを述べました。061「エディプス・コンプレックス」です。 来年早々には出版できるでしょう。ご期待ください。 人間原理の反証可能性2 投稿者:ハム 投稿日:2010年11月25日(木)14時12分36秒 さすがはφ様、私の予想を超える素晴らしい説明です。 「強い人間原理」は、予測のために用いられる場合は、反証不能であり、 説明のために用いられる場合は、反証可能であるのみならず、必ず真である、というわけですね。 反証主義では、科学哲学理論であれば反証可能性を持つと説明されます。 反証可能性を持たなければ科学哲学理論ではない、というわけです。 これは、証明必然性を持てば科学哲学理論ではない、と言いかえても同じ意味ですよね。 「強い人間原理」は、予測のために用いられる場合は、反証不能ですから、科学哲学理論ではなく、 説明のために用いられる場合は、証明必然性を持つ(必ず真である)から、科学哲学理論ではない、 ということになります。 この解釈は正しいでしょうか? Re: 人間原理の反証可能性 投稿者:φ 投稿日:2010年11月25日(木)00時29分3秒 > No.2523[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 強い人間原理「宇宙は、その歴史のどこかにおいて観測者を創りだすことを許すようなものでなければならない」 > > この原理は、反証可能性がありませんよね。 > 『ゼロからの論証』5−3の始めに述べたことですが、人間原理は、「予測のため」の原理か、「説明のため」の原理かによって、ロジックが異なります。 「(この宇宙における未知の情報を)予測するため」に用いられる「強い人間原理」は、反証不能です。なぜなら、その場合の「強い人間原理」は、「この宇宙には現に観測者が存在するので、観測者が生まれることを不可能にする帰結をもたらす理論はすべて却下」という、スクリーニングの道具だからです。これは現状追認による逆問題(結果から原因への推論)であり、論理的原理であって、反証不能なのは当然です。フレッド・ホイルの炭素原子核の共鳴準位の予測が有名ですね。強い人間原理は、経験的データから新しい予測をするための論理的推論法則のようなものです。 「(この宇宙の現状の原因を)説明するため」に用いられる「強い人間原理」は、反証可能です。この場合の「強い人間原理」は、実質的には多宇宙説のことです。多宇宙説が検証・反証可能であることについては、『論理サバイバル』102「多世界説の経験的証拠」などを参照すれば納得していただけるでしょう。あるいは、宇宙定数がゼロでなかったという最近の発見が「強い人間原理」の正しさを確証したことは、サスキンドやビレンケン、ドーキンスの本などでも語られています。宇宙が一つ(一種類)だけだとしたら理論的に予測される自然な値(その場合は生物など生じようがない)よりも120桁以上も小さいにもかかわらず、ゼロではなかったというのは、「生物が生じる」という制約以外にはなんら必然的なメカニズムが働いていなかった証拠だというわけです(必然的メカニズムがあればゼロになるはずだから)。 この宇宙は、無数の宇宙のうち、「観測者が生じる」という結果論的制約の他にはほとんど何の制約も受けない物理法則に従っているということは、もはや物理学の定説と言っていいでしょう。 結論として、 「強い人間原理」は、予測のために用いられる場合、反証可能なのは当然であり(むしろ反証可能であってはならず)、説明のために用いられる場合、反証可能であるのみならず、真であることが確証されている、というわけですね。 人間原理の反証可能性 投稿者:ハム 投稿日:2010年11月23日(火)11時17分45秒 こんにちは。ごぶさたしております。 先日、反証主義について調べていて、ふと人間原理はどうなのだ?と思い立ちました。 強い人間原理「宇宙は、その歴史のどこかにおいて観測者を創りだすことを許すようなものでなければならない」 この原理は、反証可能性がありませんよね。 どのようにお考えでしょうか? Re: 二人の子供 投稿者:初心者 投稿日:2010年 9月30日(木)07時36分31秒 > No.2521[元記事へ] φさんへのお返事です。 > 準拠集団G、H、Iの間で揺れるような問題設定にするには、あからさまに、当人がGから選ばれた確率いくつ、Hから選ばれた確率いくつ、Iから……と明示する必要があるでしょう。 > 何も書いてなければ、準拠集団は単に「2人の子の親」でしょう。 疑問が氷解いたしました。 ありがとうございます。 Re: 二人の子供 投稿者:φ 投稿日:2010年 9月30日(木)03時48分37秒 > No.2520[元記事へ] 初心者さんへのお返事です。 @とAとで正解が違うというのですか……。 そのように考える人の気持ちはわかる気がしますが、解せないところがあります。 @の主語は「私」ですよね。 G、H、Iのどれかのグループからランダムに選んできた人ではなく、「私」なのですね。つまり、人間が先に与えられていると。 「私」である以上、G、H、Iのどれからも選ばれてはいないでしょう。 どのグループから選んだとかそういう経緯は存在せず、まず「この人」ありきというのが「私」という人称代名詞ではないでしょうか。子どもの性別について問うことが予定される前から「私」として定まった個人なわけです。 ということは、「私」の準拠集団は単に「2人の子の親」でしょう。 @の正解は1/3だと思われます。 「私」を他の任意の固有名詞に変えた場合は、Aと同じになり、やはり1/3でしょう。 準拠集団G、H、Iの間で揺れるような問題設定にするには、あからさまに、当人がGから選ばれた確率いくつ、Hから選ばれた確率いくつ、Iから……と明示する必要があるでしょう。 何も書いてなければ、準拠集団は単に「2人の子の親」でしょう。 ……………………………… ● ● ● ところで、 ついでの告知で申し訳ありませんが、 7月から8月にわたってここで論じられた2人の子ども問題、 とくにeggmanさんとkotobazuさんの投稿にヒントを得て、 問題を一つ公刊しました。 奥付では10月1日刊ですが今すでに出版されている『本当にわかる論理学』(日本実業出版社)の終章・問3です。 この問題を教えてくださったeggmanさんと双子の但し書きの重要性に気づかせてくださったkotobazuさんに感謝します。 また、victorさんの問い合わせ対象「必ず正解の出る質問」も第5問として扱ってみました。 おしらせとお礼まで。 ● ● ● 二人の子供 投稿者:初心者 投稿日:2010年 9月29日(水)00時05分19秒 こんにちは。 二人の子供問題については随分勉強させていただきました。 ですが、最近妙な説を聞いたので是非教えていただきたいことがあります。 @「私には子供が二人いて、一人は男だ。もう一人が男である確率は?」 A「子供が二人いる家庭の中から、任意に一つの家庭を選んできて、その子供のうちの一人が男であった。もう一人が男である確率は?」 @には曖昧な部分があるから、確率は不明だとのことです。 Aのように問題を変えて初めて1/3となるそうです。 具体的には @は「私」が G = 「 二人子供がいる∧子供の一人は男 」のグループ H = 「 二人子供がいる∧子供は2人とも男 」のグループ I = 「 二人子供がいる∧子供の一人は男∧子供の一人は女 」のグループ このどのグループから選ばれた場合でも、「私」の言ったこと 『私には子供が二人いて、一人は男だ。』 の部分に嘘は含まれないので、どの場合でも問題は成り立つ。 G なら確率は 1/3 だが、 H なら 1 、 I なら 0 このように、どのような集合から、どのように選ばれたか全く不明なので確率は 0 〜 1 を変動し得る。 ということですが、この考え方は正しいのでしょうか? Re: Re: ありがとうございました! 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月19日(日)11時18分19秒 > No.2518[元記事へ] φさんへのお返事です。 >ただ、虚構内存在としての個々の火星人は、 >現実世界には個体としては存在しないことになっていますから >(だからこそ虚構なので)、 >xの値にはならないでしょう。 なるほど…! 「虚構」と、漢字で考えると分かりやすいですね。 文字通り、"虚" ということですね。 お返事ありがとうございます! 返信が遅れてしまいすみません。 昨日は、 「人間の苦痛への反応を調べるために、 おまえをあす史上最悪の拷問にかけることにした」 と悪魔に告げられて、頭の中がぐるぐるしていました。 (要するに、『論理パラドクス』を読み返しておりました) 今回の自分の一連の質問は『論理パラドクス』の 021 矛盾律 (テーマ文:「シャーロック・ホームズはイギリス人である」) 022 排中律 (テーマ文:「現在の日本の大統領は禿である」) 023 矛盾した命令 (テーマ文:「この家の中のネズミはすべて殺してください。 ただし、この家の中のネズミは決して殺してはなりません」) 「ポイ捨てをする者はみな罰金を科せられる」 というあたりでも取り扱われている問題だったみたいですね。 教えていただいた参考文献を読む前に、 概説となるこの箇所もよく読み返しておこうと思います。 >あえて個体(火星人という種のメンバー)として考えようとするなら、 >現実世界以外の可能世界の中の個体ということになり、様相論理学に移行しますね。 > ◇∃x(x∈火星人) とか、 ∃x◇(x∈火星人) といった感じです。 >(フィクション内存在の様相論理学的取り扱いは、 >『虚構世界の存在論』第4章のテーマでした。) 様相論理学の守備範囲は広そうですね…! 深く理解するのは難しそう(←当たり前)ですが、 初心者でもある程度知っておくと、今回みたいに、 疑問を整理するのに役立ちそうだと思いました。 いろいろ教えてくださってありがとうございます! ちょっとずつ勉強していきます! Re: Re: ありがとうございました! 投稿者:φ 投稿日:2010年 9月18日(土)04時16分55秒 > No.2517[元記事へ] clockさんへのお返事です。 > > (ちなみに、論議領域は、 > 「フィクションの火星人を排除しておいたほうがよいのかも」 > と思い、付けました。) > なるほど、そういうことでしたか。 ただ、虚構内存在としての個々の火星人は、現実世界には個体としては存在しないことになっていますから(だからこそ虚構なので)、xの値にはならないでしょう。 個体として現実に存在するとしたら、おそらく観念とかイメージとかアイコンのようなもので、種としての火星人の要素(メンバー)ではないでしょう。 あえて個体(火星人という種のメンバー)として考えようとするなら、現実世界以外の可能世界の中の個体ということになり、様相論理学に移行しますね。 ◇∃x(x∈火星人) とか、 ∃x◇(x∈火星人) といった感じです。 可能性の様相◇は、『論理学がわかる事典』では紹介だけした程度で、あの本の範囲を超えています。 (フィクション内存在の様相論理学的取り扱いは、『虚構世界の存在論』第4章のテーマでした。) Re: Re: ありがとうございました! 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月17日(金)23時01分21秒 > No.2516[元記事へ] φさんへのお返事です。 お返事ありがとうございます! 記号修正のアドバイス、ありがとうございました。 存在命題の「=」記号を安易に真似してしまっていました。 全称命題の場合は、要素と集合の関係になるから「=」だと不適切なんですね。 勉強になりました。 (ちなみに、論議領域は、 「フィクションの火星人を排除しておいたほうがよいのかも」 と思い、付けました。) >「ポイ捨てした者はみな罰金」のように、 >ポイ捨て者がいることを含意していないこともあるので >(「もしポイ捨て者がいれば必ず罰金」という意味なので)、 > 一般的な意味としては、「すべての〜」は、 >存在を含意してはいない、とするのが正しいでしょう。 >いずれにせよ、〈一般性を重んじて、最低限の含意を記号化する〉のが論理学なので、 >全称命題は存在の含意を外して記号化するのが習わしになっています。 なるほど…! だいぶわかってきたように思います。 ありがとうございます! >存在含意に関する哲学的な問題は、『論理学入門』10節、11節をご参照いただければと思います。 もうすぐ発売の新刊とともに、ぜひ読みたいです。 それにしても、いろいろお話がうかがえて光栄です…! インターネットという特殊な環境とご親切とに甘えて なれなれしくなってしまわないよう気をつけます…! * Re: Re: ありがとうございました! 投稿者:φ 投稿日:2010年 9月17日(金)05時18分27秒 > No.2515[元記事へ] clockさんへのお返事です。 > > ∃x(x=火星人)∧ ∀x(xは火星人 ⊃ xは肺呼吸する) > > (xの論議領域は実在の生命の集合) > > ∃x(x=クジラ)∧ ∀x(xはクジラ ⊃ xは肺呼吸する) > > (xの論議領域は実在の生命の集合) > まず修正させていただきますと、 x=火星人 と x=クジラ の2箇所は、正しくは x∈火星人 x∈クジラ と書かれるべきですね。 ∃x(x∈火星人)∧ ∀x(x∈火星人 ⊃ x∈肺呼吸するもの) です。 それから、(xの論議領域は実在の生命の集合)という但し書きは必ずしも要りませんね。 べつにxは石だろうが整数だろうが候補として取り入れてかまいません。まあわかりやすくするために但し書きはあってもよいのですが、あえて論議領域を制限する必要はありません。 さて、∃x(x∈火星人)∧ のように存在命題を付加する件ですが、 たしかにそのような意図で言う場合があると思います。 ただ、「ポイ捨てした者はみな罰金」のように、ポイ捨て者がいることを含意していないこともあるので(「もしポイ捨て者がいれば必ず罰金」という意味なので)、 一般的な意味としては、「すべての〜」は、存在を含意してはいない、とするのが正しいでしょう。 存在しているとわかっている場合には、∃x(x∈クジラ)∧ のような存在命題を付けた命題をわれわれは意味している、と言えるでしょうね。(ただし確実にそうかどうかはわかりませんが) いずれにせよ、〈一般性を重んじて、最低限の含意を記号化する〉のが論理学なので、全称命題は存在の含意を外して記号化するのが習わしになっています。 存在含意に関する哲学的な問題は、『論理学入門』10節、11節をご参照いただければと思います。 Re: Re: ありがとうございました! 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月16日(木)14時41分21秒 > No.2514[元記事へ] φさんへのお返事です。 お返事ありがとうございます! あの関数の場合、 7 が正解なんですね。 修正もれは少し残念ですが、答えを確認できてよかったです! ところで、 > なお、 > 補足しますと、 > 「クジラは肺呼吸する」は ∀x(xはクジラ⊃xは肺呼吸する)でしたが、 > 空なる種について考えると、たとえば「火星人は肺呼吸する」は、 > ∀x(xは火星人⊃xは肺呼吸する) で真であり、同時に > ∀x(xは火星人⊃xは肺呼吸しない) も真となります。 > > 「○○である」「○○でない」という背反する性質を帰属させることが > ともに真となってしまう、というのが、メンバーのいない種の特徴です。 > 非存在である個体の場合、「○○である」「○○でない」を持つというのが > ともに偽であるのと双対的です。 > の件ですが、 種に関する全称判断について、 自分も昨日、 「そういえば、まだその問題は残っているのかな…?」 と考えていました。 補足してくださってありがとうございます! ただ、 (火星人が実在しない場合) 「火星人は肺呼吸する」が真であり、同時に 「火星人は肺呼吸しない」も真である。(※) というのは、 (どうかお気を悪くしないでいただきたいのですが) にわかには納得しにくいと感じてしまっております。 (※自分のこの読み取り方がすでに誤解なのかもしれません。 そうでしたらすみません…) 最初にご質問したときの自分の誤解 「サザエさんの右尻にはホクロがある」が真 「サザエさんの右尻にはホクロがない」も真 という判定が埋葬されて喜んでいたのもつかの間、 全称判断において、 常識に反するとも思えるこうした判定が 息を吹き返してくるなんて…! と、まごついております。 「火星人は肺呼吸する」は 次のような主張だととらえては不適切なのでしょうか。 ============================================================ 「火星人は肺呼吸する」 =「火星人であるxが存在する」かつ 「すべてのxについて、xが火星人ならばxは肺呼吸する」 ------------------------------------------------------------ 記号化すると ∃x(x=火星人)∧ ∀x(xは火星人 ⊃ xは肺呼吸する) (xの論議領域は実在の生命の集合) ============================================================ このとらえ方だと、 そもそも火星人が存在しない場合には ∃x(x=火星人)が偽となるので、 全体も偽となり、常識とも合致する… ということなのかな、と昨日考えていました。 それに合わせて、 「クジラは肺呼吸する」についても、 次のようなことを考えました。 ============================================================ 「クジラは肺呼吸する」 =「クジラであるxが存在する」かつ 「すべてのxについて、xがクジラならばxは肺呼吸する」 ------------------------------------------------------------ 記号化すると ∃x(x=クジラ)∧ ∀x(xはクジラ ⊃ xは肺呼吸する) (xの論議領域は実在の生命の集合) ------------------------------------------------------------ このように、上記の 「火星人は肺呼吸する」と全く同じ構造だけれども、 前半の「クジラが存在する」という判断は 議論において暗黙の前提・共通の認識になっており、 ふだんは省略されている それとは対照的に、 火星人のような、そもそもその存在が疑われ、 その存在が議論者どうしの共通認識とならないような場合には、 「火星人が存在する」という判断を明示する必要がある ============================================================ こんなふうに考え、 「たぶんそういうことだ!」 と一人合点しかけていました。 でもそういう考えは問題があるということなのでしょうか? できるかぎりまとめたつもりですが 長々となってしまいすみません。 いつでも結構ですので、 アドバイスをいただけないでしょうか。 どうかよろしくお願いします。 Re: ありがとうございました! 投稿者:φ 投稿日:2010年 9月16日(木)02時56分49秒 > No.2513[元記事へ] clockさんへのお返事です。 > (4,7)なら、4 ではなく、小さくない方の数 7 が対応するのではないでしょうか。 しまった。気づいておらずこのケアレスミスも今回直しそびれました。 なお、 補足しますと、 「クジラは肺呼吸する」は ∀x(xはクジラ⊃xは肺呼吸する)でしたが、 空なる種について考えると、たとえば「火星人は肺呼吸する」は、 ∀x(xは火星人⊃xは肺呼吸する) で真であり、同時に ∀x(xは火星人⊃xは肺呼吸しない) も真となります。 「○○である」「○○でない」という背反する性質を帰属させることがともに真となってしまう、というのが、メンバーのいない種の特徴です。 非存在である個体の場合、「○○である」「○○でない」を持つというのがともに偽であるのと双対的です。 常識には反するようですが、まあ、非存在ということの意味をよく捉えているとは言えますね。(ただし現実世界だけで考えた場合。可能世界まで含めると、空なる種もいろんな性質を認められたり拒まれたりするわけですが――) ありがとうございました! 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月15日(水)10時58分6秒 とてもよくわかりました! 懇切丁寧なご説明、ありがとうございます! 自分の考えの(1)が誤解だったのですね。 「"雪女"はグループ名? 固有名?」 という疑問が頭をよぎってはいたのですが、 "サザエさん"のような、固有名であることが明白な場合でも 誤解して全称文に翻訳してしまっていたので、 自己解決は遠かったと思います。 大変助かりました。 また、時すでに遅しとはいえ、 改定版に加筆する意義にまで言及してくださり、喜んでおります。 「前に掲示板を拝見した時に勇気を出して質問していれば…!」 というほろ苦い思いとともに、うれしい思い出として胸にしまっておきます。 ありがとうございました! ところで、その、以前掲示板を拝見したときに、 『論理学がわかる事典』p.136で、 真理関数の組み合わせの一つにつけた目印「a」の位置が ずれているという件について知ることができたのですが、 その直前の節(p.134)について、 誤りかもしれないと思っている個所があります。 本文8行目からの >> z=小さくない方の数(x,y) >> >> これも関数ですね。 >> たとえば、(4,7)なら 4 が対応し、 >> (5,5)なら 5 が対応する。 という部分です。 (4,7)なら、4 ではなく、小さくない方の数 7 が対応するのではないでしょうか。 (自分の誤解や、すでに指摘ずみのことであれば、すみません…) Re: 「雪女の血液型はA型である」の真偽についての疑問 投稿者:φ 投稿日:2010年 9月15日(水)01時55分56秒 > No.2510[元記事へ] clockさんへのお返事です。 御質問ありがとうございます。 といいつつ、残念です、御質問が2週間早かったら、『論理学がわかる事典』改訂版にこの件を加筆できたのだが……! しかしなるほど、御疑問はもっともですね。 そこの説明が必要だったと痛感されます。 「雪女」「サザエさん」は、個体の名前(固有名)として導入されています。 「クジラ」のような種名辞ではありません。 とはいっても、「サザエさん」はまだしも「雪女」は固有名ではなく種族の名前のようにも感じられますよね。そこははっきりと、「小泉八雲『怪談』の女主人公」とでも説明すべきでした。 「クジラは肺呼吸する」は、∀x(xはクジラである⊃xは肺呼吸する)ですが、 「雪女は血液型A型である」は、雪女という種に属するxはみな血液型A型である、という意味ではなく、雪女という個体は血液型A型である、という意味です。 つまり、∃x(x=雪女∧xは血液型A型)となり、x=雪女 が実在のいかなるxについても真とならない場合、全体は偽となります。 「雪女は血液型A型でない」は、∃x(x=雪女∧(xは血液型A型でない))となり、x=雪女の不成立ゆえこれも偽で、「雪女は血液型A型である」の否定になっていません。 この記号化は一度どこかで書いておくべきだったと思います。 論理学や哲学でよく出てくる名詞に、ペガサスとかユニコーンがありますが、 ユニコーンは種名辞として出てくるのにペガサスは固有名として出てくるのが習わしです。ところが最近の映画『タイタンの戦い』では翼のある馬が何頭も登場したので、ペガサスは種の名前ではないかという気もしますよね。 雪女も同様で、各地にある雪女伝説の主と考えれば、雪女はクジラと同じような種ではないか、とも考えられます。 ただ、「血液型A型である」という形容詞によって、「太郎は」「マリリンは」のような固有名と同じ使い方だとわかってもらうような暗黙の書き方をした次第でした。 むろん、それは確かに誤解と混乱を生じうるので、そこ、書き直したかったところです。 『論理学がわかる事典』改訂版(論題を絞ったうえ序章・終章・その他加筆)は、 『本当にわかる論理学』というタイトルで、日本実業出版社から今月25日に発売ということになっています。 御質問への答えを入れられていたら、と悔やまれます。 ありがとうございました。 すみません… 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月14日(火)12時58分13秒 先の投稿、体裁が崩れて お見苦しくなってしまいました。 すみません… 文字数が多すぎたのでしょうか… 二回目の投稿は、引用文の色設定を無しにしただけで、 文章内容は同じです。 ですので、二つの投稿のうち どちらかを削除してくださっても支障ありません。 ご面倒おかけしてしまってすみません。 「雪女の血液型はA型である」の真偽についての疑問 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月14日(火)12時50分35秒 はじめまして。 論理学に興味があり、少しずつですが勉強している者です。 充足理由律や観測選択効果、平凡の原理など、 目からウロコがたくさん落ちてめくるめくようなテーマを 紹介し、かみくだいて説明してくださる三浦先生にはとても感謝しております。 6年前に『論理学がわかる事典』を買って以来、 折にふれては読み返しているのですが、 まだ分からず、気になっていることがあります。 考えて、悶々とし、なかなか乗り越えられないため、 何度も掲示板を覗いて、しり込みした末に、 やはり何かアドバイスをいただけないかと思い、 こうして投稿させていただきました。 その、もやもやしていることというのは、 同著の111ページの内容に関することです。 「雪女が存在しないとすれば、 その血液型について語られたことはすべて偽と言わざるをえず」 とあり、 日常感覚では確かにその通りだと思ったのですが、 自分の(未熟な)論理学の知識を適用して考えようとすると、 混乱におちいってしまいました。 この個所を読んで、自分は次のように考えました。 ------------------------------------------------------------------------------- (1) 「雪女の血液型はA型である」(文@)というのは、 省略せずに深層構造を述べる(参考:同著117ページ)と 「任意のXについて、 "Xが雪女である"ならば、 "Xの血液型はA型である"」(文A) ただし、Xの論議領域は実在の生命の集合とする。(参考:同著105ページ) となる? (2)一方、雪女が実在しない場合、 "Xが雪女である" という前提は真となることはなく、偽 ということになる? (3) もし(1)、(2)が正しいとしたら、 文Aは、文全体としては、前提が偽である条件文だから、 決して、「前提が真であるが、結論が偽である」 という、条件文が偽と判定される状況ではない? (4)だから、文Aは、偽ではなく、真である? (5)したがって、文@は、真である? ------------------------------------------------------------------------ この考え方でいくと、同著181ページの 「サザエさんの右尻にはホクロがある」(偽)「サザエさんの右尻にはホクロがない」(偽) のいずれも、雪女についての文と同様に「ウソは言ってない」、真であるということになってしまい、混乱しています。 自分では、 (1)か(2)が自分の誤解なのではないかと怪しんでいます。ですが、それ以上は、なかなか考えが進まず、困っております。 お忙しいところ、大変恐縮ですが、いつでも結構ですので、アドバイスをいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 ==以下、該当箇所の引用================================================ こうして、「日本の首都は東京である」の論理的な否定は、「日本の首都は東京である、でない」となります。 通常は、主語が指すものが存在していることは暗黙の了解になっていますから、否定として「日本の首都は東京でない」と述べてかまわないというだけです。 この暗黙の了解がない場合は困ったことになりかねません。 たとえば、次の文の否定はどうでしょうか。 「雪女の血液型はA型である」 雪女の血液型はA型でない、とすることがまずいことは一目瞭然でしょう。 雪女が存在しないとすれば、その血液型について語られたことはすべて偽と言わざるをえず、肯定文も否定文も偽になってしまう。 論理学ではこれは避けねばなりません。 偽なる文の否定は必ず真にならねばならないのです。 したがって、「雪女の血液型はA型である」の否定は、「雪女の血液型はA型である、でない」となります。 もっと器用な言い方では、「雪女の血液型はA型であるという事実はない」とでもなるでしょうか。 こうすれば、雪女の血液型がO型やAB型であるような場合とともに、雪女がそもそも存在せずその血液型も無いという、根本的な否定をも含めることができます。 (『論理学がわかる事典』 第3章10節 「偽なる文の否定は必ず真? 文否定と述語否定」)「注:画面上で読みやすいようになるかと思い、文章は適宜改行いたしました」 ===================================================================== 「雪女の血液型はA型である」の真偽についての疑問 投稿者:clock 投稿日:2010年 9月14日(火)12時46分33秒 はじめまして。 論理学に興味があり、少しずつですが勉強している者です。 充足理由律や観測選択効果、平凡の原理など、 目からウロコがたくさん落ちてめくるめくようなテーマを 紹介し、かみくだいて説明してくださる三浦先生にはとても感謝しております。 6年前に『論理学がわかる事典』を買って以来、 折にふれては読み返しているのですが、 まだ分からず、気になっていることがあります。 考えて、悶々とし、なかなか乗り越えられないため、 何度も掲示板を覗いて、しり込みした末に、 やはり何かアドバイスをいただけないかと思い、 こうして投稿させていただきました。 その、もやもやしていることというのは、 同著の111ページの内容に関することです。 「雪女が存在しないとすれば、 その血液型について語られたことはすべて偽と言わざるをえず」 とあり、 日常感覚では確かにその通りだと思ったのですが、 自分の(未熟な)論理学の知識を適用して考えようとすると、 混乱におちいってしまいました。 この個所を読んで、自分は次のように考えました。 ------------------------------------------------------------------------------- (1) 「雪女の血液型はA型である」(文@)というのは、 省略せずに深層構造を述べる(参考:同著117ページ)と 「任意のXについて、 "Xが雪女である"ならば、 "Xの血液型はA型である"」(文A) ただし、Xの論議領域は実在の生命の集合とする。(参考:同著105ページ) となる? (2)一方、雪女が実在しない場合、 "Xが雪女である" という前提は真となることはなく、偽 ということになる? (3) もし(1)、(2)が正しいとしたら、 文Aは、文全体としては、前提が偽である条件文だから、 決して、<前提が真であるが、結論が偽である> という、 条件文が偽と判定される状況ではない? (4)だから、文Aは、偽ではなく、真である? (5)したがって、文@は、真である? ---------------------------------------------------------------------------- この考え方でいくと、同著181ページの 「サザエさんの右尻にはホクロがある」(偽)「サザエさんの右尻にはホクロがない」(偽) のいずれも、雪女についての文と同様に「ウソは言ってない」、真であるということになってしまい、混乱しています。 自分では、 (1)か(2)が自分の誤解なのではないかと怪しんでいます。ですが、それ以上は、なかなか考えが進まず、困っております。 お忙しいところ、大変恐縮ですが、いつでも結構ですので、アドバイスをいただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 ===以下、該当箇所の引用 ====================================================================== こうして、「日本の首都は東京である」の論理的な否定は、「日本の首都は東京である、でない」となります。 通常は、主語が指すものが存在していることは暗黙の了解になっていますから、否定として「日本の首都は東京でない」と述べてかまわないというだけです。 この暗黙の了解がない場合は困ったことになりかねません。 たとえば、次の文の否定はどうでしょうか。 「雪女の血液型はA型である」 雪女の血液型はA型でない、とすることがまずいことは一目瞭然でしょう。 雪女が存在しないとすれば、その血液型について語られたことはすべて偽と言わざるをえず、肯定文も否定文も偽になってしまう。 論理学ではこれは避けねばなりません。 偽なる文の否定は必ず真にならねばならないのです。 したがって、「雪女の血液型はA型である」の否定は、「雪女の血液型はA型である、でない」となります。 もっと器用な言い方では、「雪女の血液型はA型であるという事実はない」とでもなるでしょうか。 こうすれば、雪女の血液型がO型やAB型であるような場合とともに、雪女がそもそも存在せずその血液型も無いという、根本的な否定をも含めることができます。 (『論理学がわかる事典』 第3章10節 「偽なる文の否定は必ず真? 文否定と述語否定」)「注:画面上で読みやすいようになるかと思い、文章は適宜改行いたしました」 ===================================================================== 御礼 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月26日(木)16時22分48秒 > No.2507[元記事へ] φさんへのお返事です。 > 「ゼロ」にひっかかっているようですが、何の問題もありません。ゼロ以上1以下であれば任意です。 > 現にフロリダ問題がそうだったじゃありませんか。第1子がフロリダである場合、第2子がフロリダである確率はほぼゼロ。にもかかわらず、第2子がフロリダである確率は第1子と全く同じ百万分の1でしたよね。 > > 事前確率そのものは1/7でも、何かに条件付けた(新たな情報が入ったあとの)事後確率が必ずしも1/7と一致しないのは当然のことです。 > たとえば、第1子だって、月曜日に陣痛があったという情報に条件付ければ、火曜日に生まれた確率は1/2くらいになるかもしれません。しかしこれは、第1子が火曜日に生まれた確率1/7に影響しません。月曜日に陣痛があったかどうかは仮定であって、問題の条件からはまったくわからないのですから。 大変よくわかりました。 無料でここまで詳しく教えていただきまして感謝の言葉もありません。 ありがとうございました。 新刊本の発行を心待ちにしております。 Re: 私も最後にひとこと 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月26日(木)15時04分53秒 . > No.2506[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 上の各文章中「」でくくった部分に1/7以外の数値が入ること自体が妙だと感じました。 > 制限規定がないから制限されることもあると解釈すべきなのでしょうか? > 「ゼロ」にひっかかっているようですが、何の問題もありません。ゼロ以上1以下であれば任意です。 現にフロリダ問題がそうだったじゃありませんか。第1子がフロリダである場合、第2子がフロリダである確率はほぼゼロ。にもかかわらず、第2子がフロリダである確率は第1子と全く同じ百万分の1でしたよね。 事前確率そのものは1/7でも、何かに条件付けた(新たな情報が入ったあとの)事後確率が必ずしも1/7と一致しないのは当然のことです。 たとえば、第1子だって、月曜日に陣痛があったという情報に条件付ければ、火曜日に生まれた確率は1/2くらいになるかもしれません。しかしこれは、第1子が火曜日に生まれた確率1/7に影響しません。月曜日に陣痛があったかどうかは仮定であって、問題の条件からはまったくわからないのですから。 念のため、一般的な計算はこうなりますか。 ●双子かどうかわからず、その他もろもろ、独立性が成り立つかどうか不明な場合。 第1子が日曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、a。したがって、第1子が日曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×a。 第1子が月曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、b。したがって、第1子が月曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×b。 第1子が火曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、c。したがって、第1子が火曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×c。 第1子が水曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、d。したがって、第1子が水曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×d。 第1子が木曜日に生まれた確率は、e。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、e。したがって、第1子が木曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×e。 第1子が金曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、f。したがって、第1子が金曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×f。 第1子が土曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、g。したがって、第1子が土曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×g。 したがって、第1子が何曜日に生まれたかが不明ならば(つまり第1子の生まれが各曜日1/7のままならば)、第2子が火曜日に生まれた確率は1/7×(a+b+c+d+e+f+g)=1/7。 (なお、各曜日についてこの計算を繰り返すので、正確には、a〜gそれぞれに曜日を示す添字を付けるのがよいでしょう。上の場合はa火、b火など) 念のため、問題の条件から、a+b+c+d+e+f+g=1は自明です。第2子は、火曜日に生まれた確率が1/7とされており、それは網羅的な条件(第1子の生まれ曜日のすべての場合)に条件付けたときの確率1/7×(a+b+c+d+e+f+g)=1/7ということなので。 あまりにも当たり前の計算をやっているようで気が引けますが。 独立性条件ぬきの問題文は、各曜日につきa+b+c+d+e+f+g=1としか言っておらず、a=b=c=d=e=f=g=1/7 などとは言っていません。 Re: 私も最後にひとこと 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月26日(木)13時03分43秒 . > No.2505[元記事へ] φさんへのお返事です。 詳細なご説明ありがとうございます。 条件付き確率のお話をしてくださってありがたいのですが 今ひとつわかりにくいところがあります。 この問題は、 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 (1) をどう解釈するかだけと思っています。 (「各々」があろうとなかろうと同じという点は同意します。) この文(1)は、第1子にも第2子にも適用されるということはいいのですよね。 ですが、この文(1)には、 「第1子が生まれた曜日に従属して第2子の生まれ曜日が決定される。」 のような制限規定は何ら付記されてません。 以下にφさんが書かれた文を少し引用しますが、 「」でくくった部分があります。 > ●次に、双子の場合。まったく同じ方針で計算をします。 > 第1子が日曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、「ゼロ」。したがって、第1子が日曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×ゼロ=ゼロ。 > 第1子が月曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、「ゼロ」。したがって、第1子が月曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 > 第1子が火曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、「1」。したがって、第1子が火曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×1=1/7。 > 第1子が水曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、「ゼロ」。したがって、第1子が水曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 上の各文章中「」でくくった部分に1/7以外の数値が入ること自体が妙だと感じました。 文(1)には、「第1子が生まれた曜日に従属して第2子の生まれ曜日が決定される。」のような制限規定は何ら付記されてないからです。 双子だから従属するというのでは論理が逆のように感じます。 制限規定がないから制限されることもあると解釈すべきなのでしょうか? Re: 私も最後にひとこと 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月25日(水)23時13分21秒 . > No.2504[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > >第1子は、ある曜日に生まれた。その曜日に生まれる確率は1/7だった。 >第2子も、ある曜日に生まれた。その曜日に生まれる確率は?だった。 > eggmanさんのこのテーゼを否定してみせれば解決なのですね。 > > >しかし、第1子が火曜日に生まれた確率は1/7。 > > この文と、 > > >したがって、双子の第2子が火曜日生まれである確率は、第1子の生まれ曜日が不明であるため、同じく1/7です。 > > この文の論理的つながりがわかりませんでした。 > それでは、この点を詳しく見てみましょう。 eggmanさんが引っかかっているようなので、あくまで条件付き確率で考えましょう。 それから、すでに生まれている第1子と第2子の主観確率は対称的ですから(サイコロは無知状態を表わしますから、生まれた順番によって特権的な区別なし)、以下、第1子と第2子を逆に書いても同じ(どちらに条件付き確率を適用しても結果は同じ)なのですが、あえて同じでないふりをして計算してみましょう。くじ引きの先後で確率が変わるかのように計算して、実は確率が同じであることを導くような丁寧な計算ですね。 まず第2子が火曜日に生まれた確率を考えます。各曜日について同じ計算が当てはまることはもちろんです。 ●双子でない場合は、 第1子が日曜日に生まれた確率は、1/7。 その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7。したがって、第1子が日曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/49。 第1子が月曜日に生まれた確率は、1/7。かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/49。 第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7。かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/49。 ……… 第2子が土曜日に生まれた確率は、1/7。かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/49。 したがって、第1子が何曜日に生まれたかが不明ならば(条件を付けなければ。つまり第1子の生まれが各曜日1/7のままで、重み付けを変更しないならば)、第2子が火曜日に生まれた確率は1/49+1/49+1/49+1/49+1/49+1/49+1/49=1/7。 この計算は問題ないですね。 ●次に、双子の場合。まったく同じ方針で計算をします。 第1子が日曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。したがって、第1子が日曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×ゼロ=ゼロ。 第1子が月曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。したがって、第1子が月曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 第1子が火曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、1。したがって、第1子が火曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、1/7×1=1/7。 第1子が水曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。したがって、第1子が水曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 第1子が木曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。したがって、第1子が木曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 第1子が金曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。したがって、第1子が金曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 第1子が土曜日に生まれた確率は、1/7。その条件のもとで、第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。したがって、第1子が土曜日に生まれ、かつ第2子が火曜日に生まれた確率は、ゼロ。 したがって、第1子が何曜日に生まれたかが不明ならば(条件を付けなければ。つまり第1子の生まれが各曜日1/7のままで、重み付けを変更しないならば)、第2子が火曜日に生まれた確率は0+0+1/7+0+0+0+0=1/7。 ●以上は、第2子について火曜日を固定しましたが、火曜日以外を固定してもまったく同じ計算を繰り返すことができます。したがって、 双子だろうが双子でなかろうが、第1子の生まれが各曜日1/7ならば、第2子の生まれが各曜日につき各々1/7が成り立つ。 というわけで、条件★だけを述べたのでは、双子の場合と双子とでない場合、いずれの計算をするのかが不明です。 つまり、条件★だけ言ったのでは、独立性についてはどちらでもよいということです。 くじ引きの後先と同じような計算になりましたが、 第1子と第2とで、各曜日生まれである確率は変わるはずがないことを了解していれば、このような条件付けの計算は始めから必要ないのですけれどね。 Re: 私も最後にひとこと 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月25日(水)19時00分50秒 . > No.2502[元記事へ] φさんへのお返事です。 すみません。 φさんが書き込まれたのを気づきませんでした。 > 「各々」という一言を付ければ独立性の但し書きがなされたことになる、というのは、慣習とはほど遠いですし、誤解のもとになるので、この機にハッキリさせなきゃいけませんね。 何度もご回答いただきありがとうございます。 「各々」についてはあってもなくても同じという点は同意します。 >双子の場合、第1子が火曜日に生まれれば、第2子はほぼ確率1で火曜日生まれ。もちろん独立ではありません。 はい。 >しかし、第1子が火曜日に生まれた確率は1/7。 この文と、 >したがって、双子の第2子が火曜日生まれである確率は、第1子の生まれ曜日が不明であるため、同じく1/7です。 この文の論理的つながりがわかりませんでした。 前の文には「第1子が火曜日に生まれた」と書いてありますが 次の文には「第1子の生まれ曜日が不明であるため」とあります。 この点をわかりやすく教えていただけないでしょうか? それと確認なのですが 2010年 8月23日(月)07時40分59秒 のφさんへのお返事で >>上の子も下の子も7曜サイコロを同時に振るのです。 >この点に異論はありません。(同時であってもなくてもよいとは思いますが) と書きましたが、 7曜サイコロを振るのは同時であってもなくてもよいという点はよろしいですか? >この件についての「議論」をなおも進める前に、eggmanさんは条件★をいろいろな人に見せて、★が双子の場合を自ずと除外していると読めるかどうか、アンケートをとってみられるとよいのではないでしょうか。 そうですね。その点は何人かに聞いてみます。 Re: 一部訂正 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月25日(水)18時31分33秒 . > No.2501[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 >(eggmanさんはそこで、『Bを認めるならばCになるずなのに』 というような疑問を提示しておられるわけではないのでしょう? ) 私に対して疑問符を提示されましたので一言だけ回答させていただきます。 >『第1子であれ 第2子であれ、それぞれの子供について見た場合、日月火水木金土のいずれに生まれる(生まれた)かの確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7になっている。』 > ということが表現されているとしか自分には読めず 第1子は、ある曜日に生まれた。その曜日に生まれる確率は1/7だった。 第2子も、ある曜日に生まれた。その曜日に生まれる確率は1/7だった。 そこまで読めていながら >第1子と第2子の間に生まれ曜日についての束縛関係が無く独立であるという意味が、そこに表現されているとは自分には考えられないのです。 第1子と第2子の生まれ曜日についてこういう結論になることが理解できないのです。 「第1子と第2子の間に生まれ曜日についての束縛関係が」あったら(独立でなかったら) 前段は成立しないと思います。 つまり、 『第1子であれ 第2子であれ、それぞれの子供について見た場合、日月火水木金土のいずれに生まれる(生まれた)かの確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7に』なるはずがないでしょう。 第1子は、ある曜日に生まれた。その曜日に生まれる確率は1/7だった。 第2子も、ある曜日に生まれた。その曜日に生まれる確率は?だった。 ということです。 ありがとうございました。 私も最後にひとこと 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月25日(水)18時14分57秒 . 「各々」という一言を付ければ独立性の但し書きがなされたことになる、というのは、慣習とはほど遠いですし、誤解のもとになるので、この機にハッキリさせなきゃいけませんね。 「各々」にはもともとそれほど重要な意味はありません。 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 と 「各々の子供が各曜日に生まれる確率は1/7とする。」 とを区別せよと言っても無理な話ですし。 > >「第1子が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれ >についても1/7とする。」 >「第2子が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれ >についても1/7とする。」 > ↑これを条件★とします。 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」を★のように読むべきだとeggmanさんが考えているなら、独立性が含意されているとなおも主張されるのは不可解ですね。 双子の場合、第1子が火曜日に生まれれば、第2子はほぼ確率1で火曜日生まれ。もちろん独立ではありません。 しかし、第1子が火曜日に生まれた確率は1/7。したがって、双子の第2子が火曜日生まれである確率は、第1子の生まれ曜日が不明であるため、同じく1/7です。 ここから、独立でない場合も条件★が成り立つことがわかります。 念のため、上の文章の「第1子」と「第2子」を入れ換えても同じです。 双子そのものが各曜日に生まれる確率は各々1/7なのですから、双子の構成部分である第1子、第2子についても同じことが言えるのは自明です。 いずれにしても、独立試行かどうかが常識的に自明である場合を除き、独立性条件の有無はハッキリ書かなければなりません。 決して水掛け論ではなく、kotobazuさんの感覚が正しい、というのを結論とすべきでしょう。 この件についての「議論」をなおも進める前に、eggmanさんは条件★をいろいろな人に見せて、★が双子の場合を自ずと除外していると読めるかどうか、アンケートをとってみられるとよいのではないでしょうか。 一部訂正 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月25日(水)17時14分2秒 . > No.2499[元記事へ] ちょっと自分の書き方を訂正する投稿をしようと思って来ましたので ほんとに最後にこれだけ > 「個々の子供を見れば > 日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 > と表現されているだけであり 「というのと同じ意味が表現されているだけであり」と書くべきでした。 また、上記よりもっと上手い表現があるかとは思いますが・・。 ともかく 『第1子であれ 第2子であれ、それぞれの子供について見た場合、日月火水木金土のいずれに生まれる(生まれた)かの確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7になっている。』 ということが表現されているとしか自分には読めず 第1子と第2子の間に生まれ曜日についての束縛関係が無く独立であるという意味が、そこに表現されているとは自分には考えられないのです。 と このように投稿しに来たのですが B> >「個々の子供を見れば > > 日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 > >と表現されているだけであり > > と > C> >それらの子供同士が独立だ という意味は出てきません。 > >というのが 私の考えですが、(φさんも同様のお考えのようです) > > との関係が理解できませんでした。 > (論理的につながっているようにはどうしても思えない。) Aという記述からは、Bという意味だけが読み取れ、Cという意味は読み取れない(Cという意味を持つ記述とは自分には思えない) という文章です。その、BとCの間に論理的関係がないと言われても・・・。(Bゆえにと私は述べているのではないので) (eggmanさんはそこで、『Bを認めるならばCになるずなのに』 というような疑問を提示しておられるわけではないのでしょう? ) > 問題文の文理解釈から、第1子と第2子が生まれる「曜日」については > 結果的に独立と判断する以外にないというのが私の考えです。 同様に、独立と判断する理由がない というのが私の考えです。 eggmanさんのいわゆる「水掛け論」ということで いいのではないでしょうか ではこれで ほんとうに終わりにします。 ありがとうございました。 Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月25日(水)16時22分59秒 . > No.2499[元記事へ] すみません。独り言です。 >「個々の子供を見れば > 日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 >と表現されているだけであり と >それらの子供同士が独立だ という意味は出てきません。 >というのが 私の考えですが、(φさんも同様のお考えのようです) との関係が理解できませんでした。 (論理的につながっているようにはどうしても思えない。) 問題文の文理解釈から、第1子と第2子が生まれる「曜日」については 結果的に独立と判断する以外にないというのが私の考えです。 Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月25日(水)15時16分11秒 . > No.2498[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > とてもくどいですが、問題文を二人の子供に具体的に当てはめると、 > 「第1子が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 > 「第2子が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 > となり、結局、 ここまでは自明ですね 日本語の使い手ならば > 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という文章からは、 > 第1子が生まれる曜日と第2子が生まれる曜日とは独立であると解釈する以外にありません。 そうはならないわけです。上記の文章のどこにも「独立であると解釈する以外にない」意味合いなど表現されていないわけです。 「個々の子供を見れば 日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 と表現されているだけであり それらの子供同士が独立だ という意味は出てきません。 というのが 私の考えですが、(φさんも同様のお考えのようです) > 以上ですが、それでも納得されないのでしょう。 > でももうやめましょうね。 こちらは これで終わりにします。 Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月25日(水)13時46分19秒 . > No.2496[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 そういえば、 φさんとはもう終わりにしましょうと合意しましたが、 kotobazuさんとはまだでしたね。 この件については、最後に一言書いてkotobazuさんとの議論も終わりにしたいと思います。 要するに 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 この文章をどう解釈するかだけの問題ですよね。 この文章は複文であり「子供が各曜日に生まれる」は、その後に続く「確率」を修飾しています。 つまり、この文章を一言で言えば「所定の確率を各々1/7とする。」となります。 そして、「各々1/7」における「各々」とは通常「多くのもののそれぞれ」という意味で使われます。 ですから、問題文における「各々」が何を意味するかは、問題文の前方に書かれているであろう「多くのもの」を探せばわかります。 そうすると、「各曜日」という文言が見つかります。 ここから、「各々」は各曜日(日月火水木金土)に対応する文言ということがわかります。 すなわち、問題文における「各々」は各曜日(日月火水木金土)のそれぞれを指しています。 そこで、 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という文章をわかりやすく(くどく)書き直すと 「子供が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 となります。 ここで、「子供」には第1子と第2子があるところから、そのいずれにも 「子供が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 という条件を適用するということです。 (第1子も第2子も問題文における「子供」ですから) とてもくどいですが、問題文を二人の子供に具体的に当てはめると、 「第1子が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 「第2子が日月火水木金土のいずれかに生まれる確率は、前記日月火水木金土のいずれについても1/7とする。」 となり、結局、 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という文章からは、 第1子が生まれる曜日と第2子が生まれる曜日とは独立であると解釈する以外にありません。 以上ですが、それでも納得されないのでしょう。 でももうやめましょうね。 φさん へ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月25日(水)08時25分23秒 . 私の言っていることを全て理解くださっているようで ありがたいです。 既に書きましたが、 双子を除く旨の但し書きがあった方が望ましい と同意いただけたことで 自分としては 満足です。 φさんのような人が、アクセス可能な場にいてくださることに感謝します。 (ヤフー掲示板などでは、信頼できる審判や助言者の存在を期待できないことも多いので) ありがとうございました。 Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月25日(水)08時14分49秒 . > No.2483[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 今のところ自分の結論として > 「また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 > という前提条件は、同時に二人の子供が双子である場合を除いている。 > と単純に解釈すればよいのです。 そんな解釈はできない 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 という記述が、 「子供二人が生まれる曜日は互いに独立である」という意味をとうぜんに持つ とは読めない という私の考えは変わりませんし、 eggmanさんの私へのレスでは、私の言っていることを全く分かってくださっておられないまま結論を出しておられるということが見えますが・・ φさんのコメントを見ると、私の主張を完全に分かってくださっており、そのφさんのご説明にも、eggmanさんは「水掛け論」として、これで終了されるということのようなので、私も終了とします。 お相手くださり ありがとうございました。 Re: すでに生まれている子らはサイコロを同時に振る 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月23日(月)07時40分59秒 . > No.2493[元記事へ] φさんへのお返事です。 >上の子も下の子も7曜サイコロを同時に振るのです。 この点に異論はありません。(同時であってもなくてもよいとは思いますが) >で、2つのサイコロは兄弟で連動している場合がありえます。誕生日、名前、血液型などがそうです。 > 「各々」についてしか言ってませんから、連動しているかどうか(独立かどうか)はわかりません。 ここから逆になりますね。私は、 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 という問題文より独立と解釈しました。(第1子も第2子も各々7曜サイコロを振る) 双子の場合のように、独立でない場合はこの問題文から除かれるという解釈です。 >ともあれ、言われるとおり、切り上げた方がよさそうですね。 そうですね。 色々と勉強になりました。感謝いたします。 Re: 自己言及のパラドクス 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月23日(月)03時52分42秒 . > No.2492[元記事へ] victorさんへのお返事です。 いろいろ読んでいただきありがとうございます。 『論理学がわかる事典』の改版は、難点山積なのですが、ともあれ、来月には校了です。 『ゼロからの論証』の中核をなす人間原理については、まだまだ考察中。パラドクス本その他で適宜中間報告しようと思っております。 http://green.ap.teacup.com/miurat/ すでに生まれている子らはサイコロを同時に振る 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月22日(日)23時35分12秒 . > No.2491[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 決して水掛け論ではないのですが、この件は終わりにしましょう。 おおかた日本語の問題であって、さほど興味深い発展もなさそうですしね。 ただ、eggmanさんの7曜サイコロのたとえが不自然なので、最後に注釈させてください。 問題は、すでに生まれている子らについての主観確率の判定を求めている、ということをお忘れなく。 上の子の確率が先で下の子は後、という非対称性を忍び込ませるべきではありません。 上の子も下の子も7曜サイコロを同時に振るのです。条件付き確率を下の子だけにあてはめるのはナンセンスです。(まだ生まれていない子についての確率判断だったら順番があってもよいですけれどね)。 ともあれ、火曜日になるのは2人とも各々1/7です。それだけが問題文の条件です。 で、2つのサイコロは兄弟で連動している場合がありえます。誕生日、名前、血液型などがそうです。 「各々」についてしか言ってませんから、連動しているかどうか(独立かどうか)はわかりません。 フロリダの場合は〈常識的に〉2人が同じ名にならないという形で独立性が破れているので、独立している場合よりも1/2に近くなりました。 双子の可能性がある曜日問題は、逆の意味で独立性が破れるので、1/3に近くなります。 ともあれ、言われるとおり、切り上げた方がよさそうですね。 (8/23の「阿呆理詰日記3294」はこの件に因んだ一句にしようと思います。) http://green.ap.teacup.com/miurat/ 自己言及のパラドクス 投稿者:victor 投稿日:2010年 8月22日(日)22時51分4秒 . 以前、自己言及のパラドクスについて教えていただいた者です。 >お尋ねがあったので、せっかくだから、 この質問を発見するための「論理的な」方法(ひらめき方法ではなく)を、いま作業中の『論理学がわかる事典』改訂版(たぶん「本当にわかる論理学」というタイトルになるか)に入れようと思ってます。 新たに読み出した本の感想をまじえてお返事を書こうと思っていましたが、矢継ぎ早にもう一冊を読みだし、返事が遅くなってしまいました。小説を読もうと思っていましたが、ちょうど終戦の時期だったので、『戦争論理学』を読み、続けて『論理学がわかる辞典』を読みました。『論理学がわかる辞典』は、よい意味で期待を裏切られました。野矢さんや戸田山さんの論理学の入門書を読んで分かっているつもりの基本事項について新しい発見があったり、もう一つ分からなかったことが理解出来たりしました。新版が出るのを楽しみにしています。『戦争論理学』は現在再読中です。時に事実に戦慄しながら、論理的思考の強靭さに感心しながら読みました。考えてもみなかったことが書かれているのはもちろん、おかしいとは思うものの、何故おかしいのか、どうすれば否定できるか分からない主張が数々とりあげられ、問題点が明かされており、大変勉強になりました。 『戦争論理学』を再読しつつ、新たに『ゼロからの論証』も読み始めました。どうしても難しいようなら、先に『論理学入門』や『可能世界の哲学』を読もうと思っています。 なるべく多くの本を読ませていただきますね。 Re: 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月22日(日)21時37分20秒 . > No.2490[元記事へ] φさんへのお返事です。 >たとえ双子であっても兄と弟は別個体であり別人格ですから、火曜日に生まれる事前確率はともに(各々)1/7と言えるのは当然です。 そこまで一致している(?)のに、結論が異なるのは残念です。 本問題では、二人の子供(第1子、第2子)がいることが前提です。 ですので、「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という問題文は、 第1子(兄か姉)が7曜サイコロを振って、各曜日(日月火水木金土)の各々について1/7の確率で生まれ、第1子が生まれた後、 第2子(弟か妹)も、同様に7曜サイコロを振って生まれる曜日を決める。 という解釈が自然であって、 第2子が7曜サイコロを振ろうとしたときに、「お前は振らなくていい」と第1子に言われたらやはり変だと思います。 弟(妹)とすれば、 「え?『各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。』という決まりでしょ。だから7曜サイコロを振るつもりだったんだけど。」 と言いたいところだと思います。 双子の場合は、この決まりを変えるというなら別ですが。 とはいえ、これ以上この点を議論しても水掛け論ですので終わりたいと思います。 Re: 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月22日(日)20時01分9秒 . > No.2489[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > ですので、「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という問題文における「子供」には、当然、第1子の場合と第2子の場合の各々があり、 > > 第1子(兄か姉)がどの曜日に生まれるかの確率は等しく1/7である。 > 第2子(弟か妹)がどの曜日に生まれるかの確率も(第1子が何曜日に生まれたかに関係なく)等しく1/7である。 > > ということを意味すると解釈する(独立条件も規定している)ことが自然であると思われます。 > いやいや、自然ではありません。逆です。 (第1子が何曜日に生まれたかに関係なく)という付け加えは、独立性を意味する新たなフレーズであり、もとの文「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」には含まれていません。もとの文は、各々の子供の誕生曜日の事前確率しか指定されておらず、相互の独立性は意味されていません。 「各々」という句に独立性の意を含ませたのだ、と言いたい気持ちはわかりますが、無理でしょう。「各々」は単にそれぞれ単独で考えた場合、という意味であり、他者のデータに条件付けた事後確率のことはまだ何も言っていないからこそ「各々」なのです。 独立性の正否について判断するには、「各々」を見ただけではダメで、全体的判断が必要です。 「各々」は、辞書的な意味からして、独立性の肯定は含みません。独立性の正否について沈黙している個別的判断だからこそ、「各々」なのです。 したがって、 eggmanさんが8月20日(金)19時05分40秒に書いた 「上の子がどの曜日に生まれようが(例えば火曜日)、下の子がどの曜日に生まれるかは1/7の確率で決まる」という意味を「各々」は含んでいません。 「各々」はあくまで「各々個別に」考えたとき、という意味です。互いの関連は無視するから、各々なのです。 「各々」が独立性を含んでしまうなら、 「女の子がフロリダという名を持つ確率は各々百万分の1」とも言えなくなってしまいますしね。 くどいようですが、 独立性の有無は、「各々」について述べただけではわからず、互いに関連づけて初めてわかるものです。ですから、「各々」は独立性を含意できません。 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」は、 双子の可能性もひっくるめて、2人の子供の各人が各曜日に生まれる事前確率1/7、としか言っていません。 たとえ双子であっても兄と弟は別個体であり別人格ですから、火曜日に生まれる事前確率はともに(各々)1/7と言えるのは当然です。 かくして、 すべての子供のうち双子が占める割合が無視できないパーセンテージであるような場合は、「問題の家族の2人の子は双子でないものとする」といったような但し書きが必要となります。 「各々」 という一言が独立性の意味を含むか含まないか、という一点に絞ってしまいましたが、それで良かったですよね。 含むはずがない、ということです。 Re: 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月22日(日)08時33分47秒 . > No.2487[元記事へ] φさんへのお返事です。 > 兄と弟は対称的で、兄が火曜日に生まれる確率が1/7なら、弟も1/7です。どちらを優先すべき根拠もありません。だから、各々1/7です。 >もちろん、「双子」が火曜日に生まれる確率も1/7です。 この文脈における「対称的」という文言の意味がわかりませんでした。 それはともかく、この問題は、二人の子供がいることが前提です。 ですので、「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という問題文における「子供」には、当然、第1子の場合と第2子の場合の各々があり、 第1子(兄か姉)がどの曜日に生まれるかの確率は等しく1/7である。 第2子(弟か妹)がどの曜日に生まれるかの確率も(第1子が何曜日に生まれたかに関係なく)等しく1/7である。 ということを意味すると解釈する(独立条件も規定している)ことが自然であると思われます。 ですので、 >つまり、子供が火曜日に生まれる確率は各々1/7でありながら、互いに独立でない場合というのは考えられるわけです。 上述のように、問題文の主語における「子供」は、第1子と第2子各々について個別に言っていると解釈することが自然ですので、 「問題文」の条件を満たした「二人の子供」については、考えられないように思います。 双子で第1子も第2子も一緒くたにして考えるというのは問題文の条件を逸脱しているように思います。 「問題文」の条件を満たさない「二人の子供」、例えば双子の場合、 生物学的に同日(同曜日)に生まれてしまう、というのであれば(普通そうですが)、 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という前提条件は、 単に、双子の場合は当然に除かれていると考えればよいだけと思います。 問題文に、双子の場合を除くと念のために記載することは親切かもしれませんが。 以上は、新着順1番目から20番目までの記事です。 追記 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月22日(日)02時54分6秒 . > No.2487[元記事へ] 「フロリダと名づけられる確率は百万分の一、という不偏条件」 という書き方はちょっと紛らわしかったですね。 百万分の1じゃえれぇ偏ってるじゃないかと。 ただ、趣旨は大丈夫でしょう。 各々の場合に対する特定の確率の指定は、各々の場合相互の独立性を含意しないということです。 不偏条件は、確率の指定の特殊な場合ですが、独立条件を含意しません。同様に、 不偏条件の一般化である任意の確率の指定も、やはり独立条件を含意しません。 Re: 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月22日(日)02時27分22秒 . > No.2485[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 生物学的に > 双子の弟には「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 > が「適用されない」ので > 2人の誕生曜日は独立でなくなり > というならわかりますが。 > 兄と弟は対称的で、兄が火曜日に生まれる確率が1/7なら、弟も1/7です。どちらを優先すべき根拠もありません。だから、各々1/7です。 もちろん、「双子」が火曜日に生まれる確率も1/7です。 つまり、子供が火曜日に生まれる確率は各々1/7でありながら、互いに独立でない場合というのは考えられるわけです。 したがって、それを除外するためには、「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」では不十分ということです。 『心理パラドクス』030の「ランダム・ウォーク」にも書きましたが、不偏条件と独立条件とは、互いに独立です。 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」というのは不偏条件を述べていますが、独立条件を述べてはいません。各試行が不偏だが独立でない、独立だが不偏でない、という例は030に挙げたものも含めたくさんあり、火曜日問題にとっては、各々の子供が生まれる曜日が「不偏かつ独立」つまり「ランダム」であることが必要です。 ムロディナウはもちろん1/2となる場合と1/3となる場合の違いがわかっているから「フロリダ」を先に指定したという手順を強調したのでしょう。しかし、それは「珍しい名を選ぶ」(姉妹2人ともフロリダと名づけられる確率を無視するため)目的で「注意深く選んだ」のだ、という但し書きのようにも取れるため(とくにp.170)、読者に対して親切な書き方ではありませんね。(ムロディナウも多少混乱しているのかも?) 名前は、日本だと兄妹姉妹に同じ名を付けるということはまずありませんから、珍しい名だろうがありふれた名だろうが、1/2という事後確率を導くのに支障はないでしょう。そのことも書いてほしかったところです。 「フロリダと名づけられること」は、姉妹の独立性が成り立たない点で、「双子の誕生曜日」と同じです。ただし、双子の場合は一致する確率ほぼ1、名前の場合は一致する確率ほぼゼロ、というふうに正反対ですが。 どの女の子も、どの姉も妹もフロリダと名づけられる確率は百万分の一、という不偏条件を但し書きしただけでは、独立性の有無はどちらとも保証されません。名前の慣習に従って「独立ではない」と解釈するだけです。(たとえば妹がフロリダなら、姉がフロリダである確率はほぼゼロと) この名付けの慣習(非独立であるという慣習)を認めても、「各々の女の子はフロリダと名づけられる確率が百万分の一」と言ってよいですよね? ここから、不偏条件を述べただけでは独立条件は保証されないことがおわかりいただけると思います。「フロリダ」のように、読者は不偏条件を読まされながら独立性を拒否できるのですから。双子の可能性についても同じことです。 Re: 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月21日(土)10時58分37秒 . > No.2484[元記事へ] φさんへのお返事です。 >「フロリダという女児はいますか?」「います」という家族だけ残ったことになり、ムロディナウの計算で合っています。 フロリダ問題の件 ありがとうございました。 ただ、私のような一般の読者の場合、答えを1/3ではなく1/2にするためには そういう条件を満たす必要があるなどとは思いつかないですね。 ムロディナウ自身、このフロリダ問題の場合、設定(文章?)次第で 答えが1/2になることも1/3になることもあると理解して書いたのでしょうか? 新しいパラドクス本の刊行を楽しみに待っています。 (φさんのパラドクス3部作は持っており、今もときどき見ています。) Re: 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月21日(土)10時01分1秒 . > No.2484[元記事へ] φさんへのお返事です。 >>→男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 >>→また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 >というeggmanさんの条件では双子を除外できていない、ということでしょう。 >双子の兄にも弟にも >「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 >は適用されるので。 双子の兄にも弟にも「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 が「適用される」とおっしゃってるのに >2人の誕生曜日が独立でなくなり という結論が理解できませんでした。どのような論理? 生物学的に 双子の弟には「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 が「適用されない」ので 2人の誕生曜日は独立でなくなり というならわかりますが。 そう生物学的に考えるなら、むしろ 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」という前提条件は、 双子の場合を当然に除いていると考えればよいだけではありませんか? 双子、ならびに 『たまたま』 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月21日(土)01時50分52秒 . > No.2483[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 ■ kotobazuさんへのeggmanさんの応答に、どうもズレがあるようです。 kotobazuさんが言っているのは、 双子も、2人とも各曜日に生まれる確率は1/7なのだから(これはeggmanもkotobazuさんに同意しているので、2人の間に争点はありませんね)、 > >→男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 >→また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 > というeggmanさんの条件では双子を除外できていない、ということでしょう。 双子の兄にも弟にも 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 は適用されるので。 ところが、kotobazuさんが指摘するとおり、双子が含まれていると、2人の誕生曜日が独立でなくなり、火曜日問題の正解が13/27でなくなってしまうわけです。 火曜日問題の正解を13/27とする作題意図を実現するには、 > >→男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 >→また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 > という但し書きはまったく効果がなく、むしろ 個々の子どもが各曜日に生まれる確率は独立とする。 あるいは 双子は考えないものとする。 という但し書きが必要です。 なぜなら、「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする」は「各々の子供が何曜日に生まれるかは独立である」を含意しない、というのはkotobazuさんの言うとおりだからです。 私としては、「双子を除外する」という但し書きは火曜日問題に必ずしも必要ないとは思うものの、 「男女のいずれかが生まれる確率は各々1/2」「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7」という但し書きよりは双子除外の但し書きの必要性の方が高いことには同意です。 というのも、男女と曜日については無知のときに主観確率1/2と1/7をあてがうことは暗黙の了解ですが、双子については無知のときに双子の頻度ゼロとすることは暗黙の了解と言いがたいふしがあるからです。 なので、独立性の但し書きの方が男女、曜日の但し書きよりも優先順位が高いというkotobazuさんの指摘(「双子は除外する」はなおさら明記が必要だろう)も、そのとおりなのです。 ■ ところで、『たまたま』を読みました。 結論から言うと、著者ムロディナウは間違っていませんでした。 p.163に、「フロリダ」という名を先に選んだ旨を明記してあるし、 p.171には、「フロリダという名の女児が一人いる家庭にその部屋に留まってもらうように頼む」とあります。この手順であれば、「フロリダという女児はいますか?」「います」という家族だけ残ったことになり、ムロディナウの計算で合っています。 ただ、ツッコミを入れれば、ムロディナウの説明でも誤解の余地は残ります。 すなわち、p.163と問題解決編との間に5頁半の他の話題が挟まっているため、「先に名前ではなく問題とする一家族をピックアップしておいて、自発的にフロリダという女児がいると言ったからフロリダのいる家族を残してみたら百家族残った」という状況であると読者に誤解される怖れがあります。 著者は、そのような設定ではないことを説明し、家族の選び方によって、正解が1/2の場合と1/3のままの場合とがある、と比較説明をすべきだった、というのが私の感想です。 私が今書いてるパラドクス本ではもちろんその比較説明をやりますけれどね。 よいネタが入りました、情報ありがとうございます。 Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月20日(金)22時42分18秒 . > No.2481[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 kotobazuさんがどうして双子の場合に固執されるのかがわからなかったのですが ようやくわかってきました。 私は、2010年 8月18日(水)17時46分58秒の書き込みで (双子だったらそんなことは生物学的にあり得ないなんておっしゃらないように。) と書きました。 でも、kotobazuさんは、そういう場合が頭から離れないのですね。 そうであればこう考えればよいのです。 「また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 二人の子供が双子の場合にこんなことは生物学的にあり得ない。 →だから、生物学的には二人の子供が双子である場合は当然に除かれる。 そうです。 「また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 という前提条件は、同時に二人の子供が双子である場合を除いている。 と単純に解釈すればよいのです。 これで、kotobazuさんも双子の呪縛から逃れられたかと存じます。 Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月20日(金)19時05分40秒 . > No.2481[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 >それは「兄が火曜日生まれの場合に」等、一方についてのなんらかの事実を固定した上でのもう一方の生まれ確率であり(条件付確率?) >そのような,なんらかの条件下での確率まで前提が縛っているとは読めないと思います。 問題文の前提は 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 であり、兄と弟とで生まれる曜日に関する確率を変えるべき理由はありません。 兄も弟も、本問題における「子供」です。 問題文にも、「弟には『子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。』という条件は適用しない。」とは書いてません。 >「兄が各曜日に生まれる確率」自体が1/7 ならば、弟が必然的にそれと一致するようなケースでも >「弟が各曜日に生まれる確率は1/7」でいいと思うのですが。 >あくまで 全体についての前提であり、 >個別の条件下での確率を述べているとは読めないと思うので。 いくらなんでもそれはちょっと無茶ではありませんか。 「兄」であろうが「弟」であろうが、この問題における「子供」ですよ。 しかも、「兄」と「弟」は別人格の子供です。 兄が生まれた曜日に弟が合わせなければならない理由は全くありません。 兄が生まれた曜日に弟が合わせて生まれたのであれば 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 という前提に真っ向から反します。 >そもそも「兄が火曜日生まれの場合」と設定するなら その時点で 兄について生まれ曜日確率についての前提 1/7 が解除され、火曜日1になっていますし。 「兄について生まれ曜日確率についての前提 1/7 が解除され」って何でしょう? 「解除」の意味がわかりません。 >なんらかの条件下で 1/2や1/7という確率が変化するというのが この問題群の意味ならば 1/2や1/7という確率が変化するのがこの問題群の意味って?? 何の確率のことを言われてるのか不明です。 もしかして、男女の生まれる確率や、ある曜日に生まれる確率ですか? それって変化します? >特段の条件が無い場合の、個々の子供についての確率を 1/2 や 1/7 とするというのが、前提の意味ではないでしょうか。 はい、性別や生まれた曜日が個々の子供について互いに独立ということですよね。 上の子が男であろうが女であろうが、下の子が男か女かは確率1/2で決まる。 上の子がどの曜日に生まれようが(例えば火曜日)、下の子がどの曜日に生まれるかは1/7の確率で決まる。 それがおわかりなら >「子供二人が生まれる曜日は互いに独立である」という意味をとうぜんに持つ とは今のところ自分には読めないです。 どうして読めないのかが理解できません。 Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月20日(金)13時31分16秒 . > No.2480[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 という前提に 「子供二人が生まれる曜日は互いに独立であるという意味をもちろん含んでいます。」 というeggmanさんのお考えへの私の疑問から話しが続いています。 > > > > それは無理ではないですか? > > > > その一文に、そういう意味を含ませることは。 > > > そうでしょうか? > > > 子供二人が生まれる曜日が互いに独立でないと > > > 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 > > > という前提に反してしまいますよ。 > > 何故ですか? > 例えば、兄が火曜日生まれの場合に、弟が火曜日に生まれる蓋然性が高いとしたら、 > 弟が各曜日に生まれる確率は1/7ではないということになります。 それは「兄が火曜日生まれの場合に」等、一方についてのなんらかの事実を固定した上でのもう一方の生まれ確率であり(条件付確率?) そのような,なんらかの条件下での確率まで前提が縛っているとは読めないと思います。 「兄が各曜日に生まれる確率」自体が1/7 ならば、弟が必然的にそれと一致するようなケースでも 「弟が各曜日に生まれる確率は1/7」でいいと思うのですが。 あくまで 全体についての前提であり、 個別の条件下での確率を述べているとは読めないと思うので。 そもそも「兄が火曜日生まれの場合」と設定するなら その時点で 兄について生まれ曜日確率についての前提 1/7 が解除され、火曜日1になっていますし。 なんらかの条件下で 1/2や1/7という確率が変化するというのが この問題群の意味ならば 特段の条件が無い場合の、個々の子供についての確率を 1/2 や 1/7 とするというのが、前提の意味ではないでしょうか。 「子供二人が生まれる曜日は互いに独立である」という意味をとうぜんに持つ とは今のところ自分には読めないです。 週末は忙しくなるので、次の訪問まで 間が空くと思います。 Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月20日(金)05時58分4秒 . > No.2479[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 > > そうでしょうか? > > 子供二人が生まれる曜日が互いに独立でないと > > 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 > > という前提に反してしまいますよ。 > > 何故ですか? 例えば、兄が火曜日生まれの場合に、弟が火曜日に生まれる蓋然性が高いとしたら、 弟が各曜日に生まれる確率は1/7ではないということになります。 Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月20日(金)00時01分19秒 . > No.2478[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > そうでしょうか? > 子供二人が生まれる曜日が互いに独立でないと > 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 > という前提に反してしまいますよ。 何故ですか? Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月19日(木)23時34分1秒 . > No.2477[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 > > 子供二人が生まれる曜日は互いに独立であるという意味をもちろん含んでいます。 > > それは無理ではないですか? > その一文に、そういう意味を含ませることは。 そうでしょうか? 子供二人が生まれる曜日が互いに独立でないと 「子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 という前提に反してしまいますよ。 Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月19日(木)22時52分41秒 . > No.2476[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > ちなみに、「また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 > というのは、文字通りどの子供も各曜日に生まれる確率は各々1/7であって はい > 子供二人が生まれる曜日は互いに独立であるという意味をもちろん含んでいます。 それは無理ではないですか? その一文に、そういう意味を含ませることは。 Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月18日(水)17時46分58秒 . > No.2475[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 >このことは 以下の前提によって 全然影響を受けないと思います。 >> →男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 >> →また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 この「全然影響を受けない」という意味がわかりませんでした。 ちなみに、「また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。」 というのは、文字通りどの子供も各曜日に生まれる確率は各々1/7であって 子供二人が生まれる曜日は互いに独立であるという意味をもちろん含んでいます。 (双子だったらそんなことは生物学的にあり得ないなんておっしゃらないように。) Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月18日(水)15時41分34秒 . > No.2474[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 二度目の、eggmanさんのご返事で、基本問題の前提に加えて火曜日問題の前提が書かれていたにもかかわらず 基本問題の前提とされる部分だけを引用して、火曜日問題の話しを進めてしまったことを まずお詫びします もうしわけありませんでした。 ただ 私の主張自体には、そのことは影響しません > 応用問題(例えば火曜日の子供問題)なら > →男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 > →また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 > > という前提を付せば、双子がいようといまいと確率計算には影響を与えませんよね。 確率計算に影響がある というのが私の考えです。 上記の前提では 双子という存在による不具合を排除できない と。 その理由も既に書きました。 三度繰り返しても意味がないので、今回は別な書き方をしてみます。 eggmanさんは、 火曜日問題で想定される母集団が 「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」 であることを認めておられます 正確には 「二人の子がいて、少なくともそのうちの一人が火曜日生まれの男の子である家族」 ですね? この母集団抽出についてφ さんが整理されているのが以下です (設問の男・女が逆になります) > 子供が二人いて、そのうち少なくとも一人が女児である3X組の家族を想定。 > この集合は、女児一人の約2X組の家族と > 女児二人の約X組の家族とから成る。 > 「ここで標本空間の切り詰めに入り」 > ▲火曜日生まれの女児がいる、の場合 > 女児のうち火曜に生まれる確率が1/7なので @> 女児一人の約2X組のうち約2X×1/7=2X/7家族が抽出され A> 女児二人の約X組のうち約X×(1/7+1/7−1/49)=13/49X家族が抽出されます。 > > 求める確率は、 13/49X/(2X/7+13/49X)=13/27 このときのA番、女児二人の約X組 から ▲火曜日生まれの女児がいる家族を切り出すところで 双子というものを想定しないならば 13/49X家族 抽出ですが 双子が、ある割合で存在することを想定すると、抽出数は 13/49X家族 よりも少なくなります。 例えば、双子が1/100の確率で存在すれば 以下となります。 (X*99/100)×(1/7+1/7−1/49)+(X*1/100)×(1/7) 母集団中で、女児二人の家族の数だけが減るのですから もう一人も女児である確率は 13/27 よりも低くなります。 このことは 以下の前提によって 全然影響を受けないと思います。 > →男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 > →また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 Re: 補足しますRe: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月18日(水)12時57分22秒 . > No.2473[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 基本問題なら →男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 応用問題(例えば火曜日の子供問題)なら →男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。 →また、子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 という前提を付せば、双子がいようといまいと確率計算には影響を与えませんよね。 というだけのことで、それ以外の意図はありません。何か問題でしょうか? 前提そのものを否定されているわけではないですよね。 もっとも、双子がいる場合について計算させることを目的とする問題なら 上に書いた前提は変更すべきでしょうが。 補足しますRe: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月18日(水)10時27分53秒 . > No.2472[元記事へ] eggmanさんから私への最初の返事を読み eggmanさんが、 「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 という記述によって 「双子があり得ることの不都合」を回避できると考えておられるのではないかと つまり「双子があり得ることの不都合」を誤解されているのではないか と思ったので わざわざ 以下のように書きました > 念のための確認ですが > 双子が問題となることの眼目は、一卵性が基本同性であることではなく > > 殆どの場合に生まれ曜日が同じである。 > よって、 > 男の子が二人いれば 火曜日にヒットする確率が 1/7 → 13/49 に上がる > という計算が成り立たず、 二人いても、ほぼ1/7 のままである。 > > というところにあることは、分かっていただけてますね? 男の子が二人いる場合には 「火曜日生まれの男の子がいますか?」がヒットする確率が、1/7ではなく13/49に上がるということが もう一人も男の子である確率を1/2でなく 13/27へと上げる要因になるわけでしょうが、 双子に関してはその計算が成立しない。二人とも男の子であってもヒット確率は ほぼ1/7のままだから(日をまたいで生まれる双子がいないわけではないので「ほぼ」が入ります) この不都合の回避に関し、 「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 という記述は、なんら効力を持たないでしょう というのが私の指摘です。 Re: eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月18日(水)08時11分41秒 . > No.2471[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > 「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 > はあくまで基本問題の前提ですが、それで必要十分と思います。 > (双子があり得ることの不都合も論理的に回避できますから) それでは「双子があり得ることの不都合」は、回避できない。 別問題である。 という僕の説明は 読んでもらえてないのですか? Re: eggmanさんへ 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月18日(水)07時54分54秒 . > No.2470[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 お世話になります。 >「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 >という前提を、慣用の原則にまかせずに明記するのならば >「双子は除外する」はなおさら明記が必要だろう 双子にこだわっておられますね。 生物学的にあり得る場合をすべて考慮するなら ・雌雄同体(ふたなり)は男女どちらにカウントする? ・そもそも男女をどうやって判断する? (DNAは完全に男性(XY遺伝子)でも外見的には完全に女性で 結婚してYY遺伝子の子供(男の中の男?、ちょっと凶暴)を産んだ例があるそう。) などなどきりがありません。 「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 はあくまで基本問題の前提ですが、それで必要十分と思います。 (双子があり得ることの不都合も論理的に回避できますから) 応用問題についても厳密に書かなければ気が済まないのであれば 各々の問題に合わせた前提を追記することになりますね。 (それも暗黙の前提ではあるのですが) 「火曜日の子供問題」なら →子供が各曜日に生まれる確率は各々1/7とする。 「午前生まれの子供問題」なら →子供が午前か午後のいずれかに生まれる確率は各々1/2とする。 「特定の月日生まれの子供問題」なら →1年は365日とし、いずれかの月日に生まれる確率は各々1/365とする。 eggmanさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月18日(水)01時22分49秒 . > No.2468[元記事へ] 返事ありがとうございます。 念のための確認ですが 双子が問題となることの眼目は、一卵性が基本同性であることではなく 殆どの場合に生まれ曜日が同じである。 よって、 男の子が二人いれば 火曜日にヒットする確率が 1/7 → 13/49 に上がる という計算が成り立たず、 二人いても、ほぼ1/7 のままである。 というところにあることは、分かっていただけてますね? 返事待たずに 話しを進めてしまいますが、 「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 という前提を、慣用の原則にまかせずに明記するのならば 「双子は除外する」はなおさら明記が必要だろう もし 後者を慣用の原則にまかせて省略するのならば、 前者も当然 省略できるだろう 今の自分には そのように思えるのですが。 φさんへ 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月18日(水)01時19分42秒 . > とはいえ、曜日や月日を使うときにはとくに「双子の場合は考えないことにする」という但し書きが望まれることは確かでしょう。御指摘ありがとうございます。 > > ただ、その但し書きが書いてなかったからといって、欠陥問題になるかというと、そうはならないとは思いますが……、 その方が望ましいという点で同意いただけたことで、自分としては満足です。 考えると最初のお返事でも、僕の考えを否定されていたわけではないのに、ちょっと拘ったレスを返し、お手間をおかけしました。 お相手くださり、ありがとうございました。 Re: 双子の件について 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月17日(火)07時58分7秒 . > No.2466[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 こんにちは 「二人の子供問題」で、そういう細かいことを言い出すときりがありませんね。 厳密には、前提として一言 「男女のいずれかが生まれる確率は各々等しく1/2とする。」 と書いてあればよいでしょう。 普通は、この条件は暗黙の大前提ですが。 Re: 双子の件について 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月17日(火)01時47分41秒 . > No.2466[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 確かに、「双子の場合は考えないことにする」という但し書きが望ましいでしょう。 ただ、必須かというと、 定量化可能かどうかの境界線でしょうから……、 たとえば、夜中零時をまたいで生まれる確率が無視できないとすれば、そういう場合は曜日は確実に異なることになるし、 また、 kotobazuさんが言われたように一卵性双生児は同性ですから、「子どもが2人いる」という時点ですでに同性である事前確率がやや高いとも言えるわけですね。 さらには、母胎の体質によって、男児を産みやすい、女児を産みやすいというのがありますから(どちらの性の精子にとって有利な環境か)、これもおそらく調査によって定量化できて、同性である事前確率がますます高まることになりますか。 とはいえ、曜日や月日を使うときにはとくに「双子の場合は考えないことにする」という但し書きが望まれることは確かでしょう。御指摘ありがとうございます。 ただ、その但し書きが書いてなかったからといって、欠陥問題になるかというと、そうはならないとは思いますが……、 双子の件について 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月17日(火)00時08分27秒 . φ さん。 お返事ありがとうございます。 お返事からすると 一般にこの問題では 双子を除外するような記述は用いられていないということなのですね? 自分の中ではφ さんの挙げられた例と 双子とでは異なるような感覚があるのですが・・ 例えば 二卵性については確率は一定しないようですが 一卵性については > 古来より人種に関わりなく、1000組(1000分娩)に4組の確率で一卵性双生児が誕生する こういう記述がwikiにあります こういうのは「定量化できている要因」になりませんか? もし双子確率が一定でなく 不明とおくとしても 多数の母集団の中には 確実にいると見なすべきで その、x%存在する双子である場合については、きちんと計算式に組み込めるでしょう それをしないで 式を立て、確率を割り出すのならば 「双子は除外しての確率計算です」 という断りがあっていいのではないかと・・思うのですが? 双子の存在を考える場合の計算式は具体的に立てられるのに それを しないわけですから・・ あるいは 「年の違う二人の子がいます」 と言ってしまえば 簡単にすむのですし・・ ただ ともかく 問題となる「特徴」に関し 二人の子が同一である確率が、平均と明らかに異なるような組合せが、定量化可能な具合に存在するような場合には それを除外する旨断るか、そのことを計算式に組み込むかする必要がある ということに関しては 間違いないということでいいですね? 例えば 双子が構造的に1/200の確率で存在する ということが明確な世界を考えるならば、 これは 確実に計算に組み込むか それとも 「年の違う二人の子がいます」 と条件をつけるかすべきだ ということは同意いただけますか? なお 双子であっても 生まれ日が異なるケースがあると、今見たwikiにありました。 そのことは自分は知りませんでした。 そうなると 定量化不能だとは思います。 しかしそれでも、当該問題で式を立てる場合 「双子を除外する」という記述はあっていいのではないかと、未だ思いますが・・ Re: 横から失礼します 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月16日(月)23時06分15秒 . > No.2464[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 > > 一定確率で双生児がいる ということを踏まえれば > 厳密には 13/27 より低い ということでよろしいでしょうか? > 微小な数字なので無視しているということですね? > > 一般の双生児の存在によって 13/27 という確率を押し下げる一方 > 一卵性双生児は性別が同じである(ほぼ)という事実によって > 逆にいくらか上昇させることになると思われますが・・ > 確かに言われるとおりですね。 ただ、そのようなことを考え始めると、 「火曜日生まれの男の子はいますか?」に対して、「いる」と答えられたのは、つまり誕生曜日を覚えていたということは、1人ではなく2人とも男の子だった可能性が高い、つまり1人だけだったら誕生曜日を忘れていた(答えられなかった)かもしれないが2人とも忘れている確率は低いだろう、ということになって、「いる」と答えられた時点でやや確率が上方修正されることになるでしょう。 その他もろもろ、いろんなことを考えねばならなくなりますが、 定量化できない要因に関しては無視するものとする、というのがこういう問題の場合の「寛容の原則」なんでしょうね。 横から失礼します 投稿者:kotobazu 投稿日:2010年 8月16日(月)14時42分48秒 . 「二人の子供問題」は今回はじめて知り、お二人の会話を興味深く読ませてもらっています。 男の子が一人の場合よりも二人の場合の方が、火曜日生まれの男の子がいる確率が高い という事実を もう一人も男の子であるという確率の計算に反映させるべきか否かについては、 指定曜日との たまたまの合致があるのか 事後的に事実を描写しただけなのかで異なる と自分にも思われます ところで話しは逸れますが 「火曜日生まれの男の子はいますか?」「います」 のケースでは 13/27 という確率に お二人とも合意されていると思いますが 一定確率で双生児がいる ということを踏まえれば 厳密には 13/27 より低い ということでよろしいでしょうか? 微小な数字なので無視しているということですね? (「年の違う二人の子供」とかの条件があるのかと思いましたが こちらでの過去ログや Google検索などで見ても そのような条件を付けている記述はなかったので・・) さらに考えると 一般の双生児の存在によって 13/27 という確率を押し下げる一方 一卵性双生児は性別が同じである(ほぼ)という事実によって 逆にいくらか上昇させることになると思われますが・・ なんとなく・・男女比や生まれ曜日による頻度が厳密に1/2 や1/7でないだろうこととは ちょっと違い 「双生児の存在は度外視する」 というような断りが あった方がいいのではないか と・・思われるのですが 単なる誤差ではなく、構造的にはっきり確率計算の過程に反映する要因だから・・かな・・。 私の誤解等ありましたら ご教授よろしくお願いします。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月16日(月)02時18分41秒 . > No.2462[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > このフロリダ問題は、火曜日の子供問題とは本質的に異なるようですね。 > 本質的には異ならず、2人が当の性質を持つという事象が互いに独立かどうかの違いでしょうね。一般的には、相関関係の強弱を変数にして式を立てるべきなのでしょう。 > > 新しく本を書かれるのでしたら2封筒問題についても再度ご検討いただければと思います。 > そうですね、2封筒問題は難解ですね。 ベストアンサーに見られるような、2aとa/2とでは確率が違う、という解答をよく見かけるのですが、私にはどうも飲み込めません。別の方向に正解がある気がするわけですが……、 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月15日(日)11時24分36秒 . > No.2461[元記事へ] φさんへのお返事です。 >もしかしてeggmanさんは、その私の書評を見てムロディナウを持ち出してきた? いえ、全く知りませんでした。 「たまたま」です。 このフロリダ問題は、火曜日の子供問題とは本質的に異なるようですね。 本を読まれた後にもう一度教えていただければ幸いです。 なお、「二人の子供問題」では、本来?の聞き方なら、 加える限定が1/nの確率の事象であると 二人とも男の子である確率は、 2n−1/(4n−1) で簡単に求まります。 例えば、午前生まれならn=2、特定の曜日生まれならn=7です。 ですので、午前生まれでかつ火曜日生まれなら27/55と簡単に求まります。 こういう風に機械的に算出できると思ってましたが、 問題文の書き方によって、そもそもこの式を採用してよいか否かを判断しなければならないとするとやっかいですね。 <蛇足1> ムロディナウの『ユークリッドの窓』は読んでませんが、今度読んでみます。 なお、以下の通りですよね。 ★P「もし三番めが残念賞だったとすると、」 では、司会者がはずれの台を知らないことになって、たまたま開けた三番めのカーテンを開けてはずれだったことを(司会者も)知ったことになってしまう。 ★Q「司会者は、残るふたつのうち残念賞のある方のカーテンを開く。」 なら、司会者ははずれの台を知っていて開けたということ。 モンティホール問題について、φさんが1/2とするべきとした点ですが ベイズ確率の計算でしたら、X/(1+X)のように未知数は未知数のまま残しておくほうが数学的かなという感じはします。 もっとも、頻度確率として計算するのであれば未知数は全く出てきませんが。 例えば、プレイヤーが最初に選択したドアにこだわり続けるなら、 はずれを知ってる司会者が(プレイヤーが当たりのドアを選択したときに) 他の二つのドアのうち一方をどんな条件で選択しようと、 ドアを変更しないプレイヤーが当たる頻度は、大数の法則により選択当初の理論確率1/3に収束します。 ドアを変更しないのであれば、選択したドアをすぐに開けるのと同じことですから。 (常にドアを変更し続ければ1−1/3=2/3) ムロディナウは、「たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する」の86頁で モンティホール問題について、「テレビ番組からの統計データ」を述べています。 選択を変更した人が勝った頻度は選択を変更しなかった人の約2倍であったそうです。 でも、これは頻度確率の話であって、ベイズ確率とは関係ありませんよね。 ちなみに、コンピュータシミュレーションでこの問題の確率を計算しているブログもたくさんあります。 上に書いたように、頻度確率ならシミュレーションするまでもなく自明と思います。 ただ、ベイズ確率と頻度確率を同時に考えると混乱してしまいます。 一発勝負と無限回試行を同時に考えてしまうせいかも。 眠り姫問題はその典型でしょうか。 <蛇足2> 新しく本を書かれるのでしたら2封筒問題についても再度ご検討いただければと思います。 封筒を交換しても期待値は変わらないとする考えと、変わるとする考えがありますので妥当性など吟味していただければ幸いです。 何となくどちらも正しいのかなと思ってしまいましたが。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441439719 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月15日(日)04時55分49秒 . > No.2459[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 なるほど、おもしろいですね! 名前と、生年月日等では事情が異なるわけですね。言われてみればその通り。 一般化して、 女児のうちAと名づけられる確率をPとする。 子供が二人いて、そのうち少なくとも一人が女児である3X組の家族を想定。 この集合は、女児一人の約2X組の家族と (この約2X組の家族のうちX組では、女児が年上で、X組では女児が年下) 女児二人の約X組の家族とから成る。 「ここで標本空間の切り詰めに入り」 Aという名の女児が一人でもいる家族を抽出。 女児のうちAと名づけられる確率がPなので 女児一人の約2X組のうち約2X×P家族が抽出され 女児二人の約X組のうち約X×P×2家族が抽出される。 (このうち、約X×P家族では年上の女児がフロリダ、約X×P家族では年下の女児がフロリダ) この計算だと、名前が平凡だろうが珍しかろうが関係ありませんね。 名前の場合は、2人が同じ名ということはないから、2人とも女の場合は確率を単純に2倍することができ、結果が必ず1/2になるというわけですね。 名の確率に関係なく、1/2になると。 生まれた曜日や月や日だと、確率が低いほど1/2に近づきますね。 名前の独特な性質が確認されて、なかなか言語哲学的です。 念のため同じ計算をこれまでの例でやってみると、 ▲午前生まれの女児がいる、の場合 午前生まれの女児が一人でもいる家族を抽出。 女児のうち午前に生まれる確率が1/2なので 女児一人の約2X組のうち約2X×1/2=X家族が抽出され 女児二人の約X組のうち約X×(1/2+1/2−1/4)=3/4X家族が抽出されます。 (このうち、約3/8X家族では年上の女児が午前生まれであり、約3/8X家族では年下の女児が午前生まれである。) 求める確率は、 3/4X/(X+3/4X)=3/7 ▲火曜日生まれの女児がいる、の場合 女児のうち火曜に生まれる確率が1/7なので 女児一人の約2X組のうち約2X×1/7=2X/7家族が抽出され 女児二人の約X組のうち約X×(1/7+1/7−1/49)=13/49X家族が抽出されます。 求める確率は、 13/49X/(2X/7+13/49X)=13/27 ★ 名前の場合、「フロリダという名を持つ子」として個体が特定され、それが女だとわかっているので、あと1人が女である確率は1/2、という理屈ですね。 ちょうど、「上の子は女である。2人とも女である確率は?」という問題における「上の子」という特定と、名前とが同じ効果を持つわけです。 しかし、この推論のまずいところは、 「上の子」というのはどの家族にも必ずいるのに対して(常に問題が成り立つのに対して)、「フロリダ」という名の子はいるとは限らない(フロリダでこの問題が成り立つとは限らない)、ということです。なので、「上の子」の場合は導入の仕方が問題にならないのに対して、「フロリダ」の場合は、「なぜその名の子がいたのか(なぜその名でこの問題はよしとしたのか)」を考慮しなければなりません。 この違いを区別して論じないと、正しい議論にはならないでしょうね。 ところで、ムロディナウの本は、私、奇しくもかつて一冊書評しておりまして、 http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/euclid-w.htm そこで、ムロディナウがモンティ・ホール・ジレンマを誤って記述しているところを指摘しました。 (新聞では指摘だけ。注は、アップロードしたとき加筆) もしかしてeggmanさんは、その私の書評を見てムロディナウを持ち出してきた? ムロディナウってもしかして確率に関しては結構いい加減な人なんでしょうか? Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月14日(土)23時43分32秒 . > No.2458[元記事へ] φさんへのお返事です。 ご回答いただき感謝します。 レナード・ムロディナウが提示した問題自体は、書き込んだ通りであり、 他に何ら付帯条件はありません。 で、何故(実質的に)1/2なのかですが、 (以下、わざわざ書くまでもないと思いますが、一応書きます。) 細かいことを省きますと、 まず、女児のうちフロリダと名づけられる確率を百万分の一としています。 (その理由の正否はどうでもいいと思います。著者もたぶんそう思ってるでしょう。) そして、子供が二人いて、そのうち少なくとも一人が女児である7500万組の家族を想定します。 そうすると、この集合は、女児一人の約5000万組の家族と (この約5000万組の家族のうち2500万組では、例の女児が年上で、2500万組では例の女児が年下です。) 女児二人の約2500万組の家族とから成り立っています。 「ここで標本空間の切り詰めに入り」 フロリダという名の女児が一人でもいる家族を抽出します。 女児のうちフロリダと名づけられる確率が百万分の一なので 女児一人の約5000万組のうち約50家族が抽出され 女児二人の約2500万組のうち約50家族が抽出されます。 (このうち、約25家族では年上の女児がフロリダであり、約25家族では年下の女児がフロリダである。) 説明は実質的にここまでです。ここまで書けばあとは明らかでしょうという書き方です。 二人の女児の双方がフロリダという場合は極微少でありネグレクトできるというわけですね。 レナード・ムロディナウの本を注文されたとのことですので、読まれた後に改めてご教示いただければ幸いです。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月14日(土)15時19分6秒 . > No.2457[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 「子供の一人がフロリダという名の女児」であることがどうして > わかったのか、その「わかり方」を明確にしていない限り > レナード・ムロディナウの解答は必ずしも正しくないというべきなのでしょうか? > その本はさっそく注文しました。 読んでみないとわかりませんが、お話を聞く限りでは、その解答は完全な正答ではないと言うべきでしょう。「フロリダという名」をどうやって指定したのかを決めなければなりません。 家族を指定してから女の子の名を後から挙げたのでは、まったく意味をなしません。単に女児が1人いる家族すべてにこの問題が成立してしまいますから。(「女児」については、背景説明と問題主文の一致が要求されるので、名前とは事情が異なります) 「フロリダという名」を先に指定して、それに従って家族を選んだのであれば、ムロディナウの解答は正しいと言えるでしょう。 キース・デブリンの問題の場合は、「私の息子」についてでしたから、家族の選択が先にあり、4月1日生まれというのはそれに合わせたデータでした。なので確率は1/3のままです。 どうでしょう、以上の通りでOKでしょうか? 使えそうな問題をありがとうございます。 確率問題は単純なレベルでほとほと奥が深いですね。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月14日(土)12時29分45秒 . > No.2452[元記事へ] φさんへのお返事です。 お取り込み中失礼いたします。 お話はもう終わったようなのでもう一度お願いします。 > ただ一つ、2人の子持ちの話者が自分で自発的に「火曜日に生まれた男の子がいる」と言ったとき、eggmanさんは状況2ではなく状況1タイプとして理解するわけですね。そこだけが私との違いです。 > しかしどうでしょうね、「火曜日に生まれた」と自分で勝手に言った場合、独立の指定との一致がないのですよ? 「何曜日生まれがいますか」と聞かれてただ事実を答えた場合と、そんなに違うでしょうか。★ここがポイントのようですね。★ あと一歩で理解できそうな気がしますが、その一歩がとても長いのです。 二人の子供問題については、色んな人が色んな本を書いています。 例えば、レナード・ムロディナウという物理学者が 「たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する」2009年9月17日発行 ダイヤモンド社 という本を書いています。読んだのは、もちろん日本語訳ですが。 この本の163頁に、二人の子供問題を変形した「異形問題」が載っています。 「子供が二人いる家族で、子供の一人がフロリダという名の女児である場合、子供が二人とも女児である確率はどれほどか?」 著者は、答えは1/3か? いやノーである。 として169頁に 「フロリダ」という名の女の子 という表題を置き、解答を書いています。 もう、ご想像通り(実質的に)1/2という解答を導いています。 ですが、φさんの論理では、たぶん1/3なのですよね。 「子供が二人いる家族で、子供の一人が女児である場合」 「あなたにはフロリダという名の娘がいますか?」「はい」 というようなやりとりがあって初めて、 子供が二人とも女児である確率が(実質的に)1/2になるのですよね。 「子供の一人がフロリダという名の女児」であることがどうして わかったのか、その「わかり方」を明確にしていない限り レナード・ムロディナウの解答は必ずしも正しくないというべきなのでしょうか? Re: ReRe: 「必ず正解の出る質問」について 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月14日(土)05時19分9秒 . > No.2455[元記事へ] victorさんへのお返事です。 嘘つきパラドクスの「この文」逆らえない命令の「この命令」外れない予言の「この予言」などと同じく、「この質問」というのは、まさに自分自身を指しているわけです。他に「この質問」で指示されている質問があるわけではなく。(悪魔は「質問を1つ」と言ってますしね) お尋ねがあったので、せっかくだから、 この質問を発見するための「論理的な」方法(ひらめき方法ではなく)を、いま作業中の『論理学がわかる事典』改訂版(たぶん「本当にわかる論理学」というタイトルになるか)に入れようと思ってます。 ReRe: 「必ず正解の出る質問」について 投稿者:victor 投稿日:2010年 8月13日(金)22時40分40秒 . > No.2454[元記事へ] 早々にお返事いただきありがとうございました。 何故理解できないのかと、不可解な思いをさせてしまったと思いますが、 おかげさまで理解できました。 >この質問にノーと答えた場合 …… 実際にイエスと答えていないので、「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」の正解はノーとなる。そしてノー>と答えているので、正解である 誤って次のように考えていました。 この質問(例えば1+1=2)の答えはノーと思っている場合 …… 実際にイエスと思っていないので、「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」にはノーと答える。「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」という質問には適切に答えているが、1+1=2がノーというのは間違いなので不正解である。 ずっと悩んでいたので、説明していただいて本当に助かりました。 Re: 「必ず正解の出る質問」について 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月13日(金)00時35分51秒 . > No.2453[元記事へ] victorさんへのお返事です。 「逆らえない命令」や「外れない予言」風のアプローチが正しいのですが、 前提としてvictorさんへは、 「逆らえない命令」や「外れない予言」はとくに疑問を感じなかったということでしょうか。 とすれば、とりわけ「必ず正解の出る質問」に疑問を感じたのはどの点なのでしょうか。文章を拝見してもわかりませんでした。 「逆らえない命令」や「外れない予言」とまったく同じパターンなので、詳しい説明は省きましたが、ここではちょっと詳しくやってみましょう。 詳しくといっても10行以内で済んでしまうのですが。 > > 答え 「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」 > 「この質問」=上の文 > 理由 「イエスと答えるか」どうかが質問の内容なので、イエスと答えてもノーと答えても不正解ではない。 > > 問題点 「不正解ではない」というだけでは、「イエス、ノーどちらを答えても、必ず正解となる」という著者の説明とは違う。 > 「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」 この質問は、形式からして、イエスかノーで答えねばなりません。(それ以外の答えをした人は、答えなかった場合と同様、不正解にはなりませんから大丈夫です) ●場合分けをしてみます。 この質問にイエスと答えた場合 …… 実際にイエスと答えたので、「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」の正解はイエスとなる。そしてイエスと答えているので、正解である。 この質問にノーと答えた場合 …… 実際にイエスと答えていないので、「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」の正解はノーとなる。そしてノーと答えているので、正解である。 ●一応、別方向からも確認しましょう。 「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」でイエスが正解となる場合 …… 実際にあなたがイエスと答えた場合。なぜなら、「イエスと答えますか?」「イエス」と事実を述べているから。 「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」でノーが正解となる場合 …… 実際にあなたがイエスと答えない場合。なぜなら、「イエスと答えますか?」「ノー」と事実を述べているから。そして実際に「ノー」と答えれば、「実際にあなたがイエスと答えない場合」にあてはまることになる。 以上です。 いかがでしょうか? イエスと答えてもノーと答えても「不正解ではない」だけでなく、実際に正解なのです。 「必ず正解の出る質問」について 投稿者:victor 投稿日:2010年 8月12日(木)14時06分6秒 . 『論理パラドクス』、『論理サバイバル』、『心理パラドクス』の三冊を読んで、たいへん楽しませていただきました。お名前を知ったのは、『柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方』という本でのことですので、次はそこで紹介されていた『M 色のS景』を読ませていただこうと思っております。 実を言うと、『論理パラドクス』の中に、答えを読んでもどうしても理解出来ず、一週間近く考え続けている問があります。まったく急ぎませんので、僕の考え方のどこに難があるのか教えていただければ大変ありがたいです。 お訊ねたいのは「必ず正解の出る質問」という問題についてです。最初に、タイトルについて質問させて下さい。設問は物語形式になっていますが、その中に「一人でも不正解者がいたら」という悪魔のセリフがあります。解答の説明には、「イエス、ノーどちらを答えても、必ず正解となる/ちなみに、答えを拒む者がいても(中略)不正解を出してはいない」とあります。問題のタイトルは、「絶対に不正解にはならない質問」あるいは、「必ず正解の出る質問(相手が答えた場合に限る)」と理解すればいいでしょうか。 次に僕の考え方を述べます。自己言及が絡む問いとっても、「外れない予言」と「天国への道」とは少し性質が異なっていると思い、二通りのアプローチをしました。 @「逆らえない命令」や「外れない予言」風のアプローチ 答え 「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」 「この質問」=上の文 理由 「イエスと答えるか」どうかが質問の内容なので、イエスと答えてもノーと答えても不正解ではない。 問題点 「不正解ではない」というだけでは、「イエス、ノーどちらを答えても、必ず正解となる」という著者の説明とは違う。 補足 「絶対に答えざるを得ない質問は何か」という問題なら、「この質問に答えますか?」が正解になると思います。語用論的に考えると、イエスやノーなどの返事をすれば「答えて」いることになるし、返事をしなくても「ノーコメント」という「答え」を返したとみなせると思います。 A「天国への道」風のアプローチ 答え 「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」 =「この質問に対するあなたの答えは、イエスですか?」 「この質問」に具体的な命題をいれて考えやすくする。 →「『1+1=2ですか』に対するあなたの答えは、イエスですか?」 質問を整理 →「『1+1=2ですか』(Q1)に対するあなたの答えは、イエスですか?」(Q2) 理由 イエス、ノーどちらを答えても、必ず正解となる!? 問題点 解答者が愚かでない場合 Q1、Q2ともにイエスと答える 解答者が愚かな場合 Q1はノー、Q2もノーと答える!? 「天国への道」とこの問題では、条件が違うように感じます。前者では、嘘つきの答えはQ1とQ2では必ず反対になりますが、後者では普通は同じになるのではないでしょうか?前者のキーワードは「二重否定」ですが、後者には二重否定が期待できないと思います。嘘つきの言説と違って愚か者の言説は予想できないからです。Q1の答えを瞬時に忘れるほど、愚かさの度合いがひどいというのでなければ、Q1に対してノーと答えているのに、Q2にイエスと答えることはないように思います。 補足 「この質問」に「1+1=2」という具体的な命題をいれたのが誤りの一歩目かもしれないとも思っています。天国への道における、「この道が天国への道かという問いに対するあなたの答えは、イエスですか?」という文は、「この問いに対するあなたの答えは、イエスですか」と書き換えられると考えました。具体的な問いを代名詞を使った問いに変えていいならば、「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」の「この質問」という部分に具体的な問いを入れてもよいと判断しました。 答えが理解出来ないのは、@二通りのアプローチのどちらも間違っているからか、Aどちらかは正しいのに、途中に無理解があるからだと思います。先にも申し上げた通り、まったく急ぎませんので、お時間のある時に問題点を指摘していただけないでしょうか?よろしくお願いいたします。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月11日(水)03時18分58秒 . > No.2451[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 あれっ、私と全部同じ答えですね。 すると、私とeggmanさんとで、基本的に確率判断に違いはなさそうです。 結果だけでなく選ばれた経緯も考慮するし、部分集合の方を必ず優先するというわけでもないのですね。 ただ一つ、2人の子持ちの話者が自分で自発的に「火曜日に生まれた男の子がいる」と言ったとき、eggmanさんは状況2ではなく状況1タイプとして理解するわけですね。そこだけが私との違いです。 しかしどうでしょうね、「火曜日に生まれた」と自分で勝手に言った場合、独立の指定との一致がないのですよ? 「何曜日生まれがいますか」と聞かれてただ事実を答えた場合と、そんなに違うでしょうか。★ここがポイントのようですね。★ 独立に指定された条件との一致があれば、1/3から1/2近くにアップしますが、 そうでない場合、1/3のままと見なすのが適切でしょう。 2人の子持ちで、少なくとも一人の男の子を持つ親で、自発的に曜日を発言した親を百万人集めたとき、当然、言われた誕生日はバラバラなわけですが、たまたま一致した誕生日ごとに365グループ作って集めて、「あなたはこのグループの中からランダムに選ばれた親です」と言うことに何の意味がありますかねえ……? Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月10日(火)20時29分39秒 . > No.2450[元記事へ] φさんへのお返事です。 読んで混乱してしまいました。単なる直感ですが一応以下のように回答します。 確率を計算する主体は、問題文を読んだ人か問題文に出てくる「私」です。 状況1 →13/27 理由:「火曜日に生まれた男の子はいますか」という特定の質問に対して「いる」という新しい情報が得られたので1/3から改訂される。 状況2 →1/3 理由: 男の子は必ず何曜日かに生まれたので、それが単に火曜日であったとしても1/3を改訂する理由がない。特定の質問に対する答えではないので状況1とは状況が異なる。 状況3 →13/27 理由: 「私」が質問を忘れても、特定の曜日を聞いて、「いる」という答えがあったのだから、1/3は改訂される。状況1と同じ。 状況4 →1/3 理由: 曜日を特定して聞いたわけではないので、答えを聞き取れようと聞き取れまいと、何の情報も得られていないので、1/3を改訂する理由がない。 状況5 →1/3 理由: 曜日を特定して聞いたわけではないので、どんな答えがあろうとなかろうと、何の情報も得られていないので、1/3を改訂する理由がない。 状況6 →1/3 理由: 曜日を特定して聞いたわけではないので、どんな答えがあろうとなかろうと、何の情報も得られていないので、1/3を改訂する理由がない。 状況7 →1/3 理由: 改訂する理由がない。周囲の人の立場であれば別。 <蛇足> モンティ・ホール・ジレンマについてですが、 多くのブログでは、ベイズ確率と頻度確率を混同して説明しているのであまり納得がいきません。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月10日(火)17時02分12秒 . > No.2449[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 eggmanさんのポイントは、 ★「情報の得られ方にかかわらず、情報が得られた以上、それによって狭められた部分集合を準拠集団とすべきであって、上位概念に固執すべきではない」★ ということになるでしょうね。 「情報の得られ方にかかわらず」のところはモンティ・ホール・ジレンマのような反例もあるし、 「狭められた部分集合を」優先すべきだというのは、シンプソンのパラドクスのような例では、全体集合の中での確率の方が正しく、部分集合の中での確率はあてにならないという場合があります。 ただ、この2人の子ども問題は独特なので、モンティ・ホール・ジレンマやシンプソンのパラドクスをそのままあてはめるわけにはいきません。 ちょっと趣向を変えて、eggmanさんに質問をさせてください。 次の7つの問題です。煩雑ですみませんが。(べつに全部でなくてよいですので、できる範囲で考えお聞かせください。) 状況1 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんに、「火曜日に生まれた男の子はいますか」と訊ねたら、「いる」と答えた。2人とも男の子である確率は? 状況2 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんに、「何曜日に生まれた男の子がいるのか、教えてください」と訊ねたら、「火曜日に生まれた男の子がいる」と答えた。2人とも男の子である確率は? 状況3 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんに、「★曜日に生まれた男の子はいますか」と訊ねたら、「いる」と答えた。しかし私は、自分が★に何と言ったのか忘れてしまった。なので私の知識において母集団は縮まっていない。しかし私が特定の曜日を訊ねたことは確かである。 さて、2人とも男の子である確率は? 状況4 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんに、「何曜日に生まれた男の子がいるのか、教えてください」と訊ねたら、「★曜日に生まれた男の子がいる」と答えた。しかし★のところが聴き取れなかった。なので私の知識において母集団は縮まっていない。しかしAさんが特定の曜日を答えたことは確かである。 さて、2人とも男の子である確率は? 状況5 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんに、「何曜日に生まれた男の子がいるのか、教えてください」と訊ねたら、「火曜日に生まれた男の子がいます。いや、待てよ、違うな。火曜日は結婚記念日だった。息子の誕生日については忘れました」と答えた。私は結局Aさんに何曜日生まれの男の子がいるのかわからずじまいだった。つまり母集団は縮まっていない。しかしAさんが勘違いながら「火曜日生まれ」とした男の子がいることはわかった。その意味では母集団は縮まった。 さて、2人とも男の子である確率は? 状況6 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんに、「何曜日に生まれた男の子がいるのか、教えてください」と訊ねたところ、Aさんは答えかけたが、私はAさんを遮って「いや、いいです。考えてみたらどの曜日かなんて関係ないですから」と言って、別れた。なので私の知識において母集団は縮まっていない。しかしAさんが何か特定の曜日を答えようとしたことは事実である。しかも、Aさんは息子の誕生曜日を知っていることも確認された。 さて、2人とも男の子である確率は? 状況7 Aさんには2人の子どもがいて、少なくとも1人は男の子だという。さて、Aさんは、子どもの誕生曜日を知っており、周囲の人にその曜日を話したこともあるという。 さて、2人とも男の子である確率は? ……………………… 先述のように、私の確率的直観にバイアスがかかっている疑念が我ながらありますので、確認のためよろしくお願いします。) Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月10日(火)11時15分19秒 . > No.2448[元記事へ] φさんへのお返事です。 何度も教えていただきありがとうございます。 でもやはりわかりません。 >つまり、問題の親は、Aのところが異なる7通りのさまざまな発言をした親をスクリーニングなしにただ集めたものです。それが母集団です。どんな曜日であれ、問題とするのに支障はありませんでした。たまたま「火曜日〜」だったというだけです。 ここで躓いてしまいました。 親は、自分の二人の子供について、「一人は火曜日生まれの男の子である。」と具体的に明言しているのであって 「一人はA曜日生まれの男の子である。」 と上位概念で言っているわけではありません。 (男の子が7曜日のいずれかの日に生まれたのは当然ですので、仮にA曜日というような発言をしたのであれば意味がないのは当然です。) そして問題では、「その親」の子供が二人とも男の子である確率を問うています。 「一人はA曜日生まれの男の子である。」と上位概念で発言している親(がいたとしても)については何も問うていません。 なので >問題の親は、Aのところが異なる7通りのさまざまな発言をした親をスクリーニングなしにただ集めたものです。それが母集団です。 とはならないと思うのですが。 誤解がありましたらご指摘ください。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月 9日(月)04時44分47秒 . > No.2447[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > この問題では、冒頭で「一人は火曜日生まれの男の子である。」と明言しています。 > つまり、話者が勝手にそう言ったとしても > 「一人は火曜日生まれの男の子である。」と言ったことは事実であり、 > 「男の子が少なくとも一人いる家族」という上位概念が母集団とはならないはずです。 > > やはり、母集団は「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」 > ではないでしょうか? > 私の理解では、違うんです。 母集団は、「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」ではありません。 あくまで「A曜日に生まれた男の子が少なくとも一人いる家族(Aは任意)」です。 P(E|A)=1なのです。 つまり、問題の親は、Aのところが異なる7通りのさまざまな発言をした親をスクリーニングなしにただ集めたものです。それが母集団です。どんな曜日であれ、問題とするのに支障はありませんでした。たまたま「火曜日〜」だったというだけです。 もしスクリーニングがあったのなら、問題文で述べるべきでしょう。(後から再構成した「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」は、作為的な母集団です)。 ちなみに、男の子、女の子、については、背景説明と問題主文の両方に出てきますから、Eは「A曜日に生まれたBの子(Bは男または女)」とする必要はありません。してもいいですが、背景説明と問題主文の一致がどのみち要求されますから、わざわざ変数化する必要はありません。 曜日については、問題主文に出てこないため、変数化するのが自然です。 たしかに、 私の問題理解が、eggmanさんの「次々に判明した事実を付け加えてゆく的出題」から始まったので、私の理解にバイアスがかかっている可能性はありますが――、それでも私の問題理解は自然ではないでしょうか。 たった一人の親が先にいて、その親についてたまたま成り立っている曜日が述べられているようにしか取れないからです。 なにしろ主語が「私」ですから、 親が先にありき、曜日は従属変数であることは確実のように見えます。(「私」でなくても、固有名詞等であれば同じ効果を持ちます) もしも「私」が勘違いしていて、「火曜日に生まれた男の子はいなかった、月曜日ならいたのだが」という訂正は認められるのでしょうか? 私は認められると思います。問題にそのような変更が認められないという含みはありません。 つまり、「私」の母集団は、「A曜日に生まれた男の子が少なくとも一人いる家族(Aは任意)」であって、火曜日限定で選抜されてはいないのです。 もし火曜日限定で、その時にだけ問題が成立することが作意なら、曜日が独立変数、親が従属変数であることがわかるように「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族から、一家族を選んだ」と書くとか、 もっと簡単には「火曜日生まれの男の子はいますか?」「います」 という応答にすれば、火曜日以外はダメだったんだな、ということがわかります。 (以上の形式に従えば、火曜日以外の任意の曜日でかまいません) もとの問題はそうなっていないので、 Eは「火曜日生まれの男の子がいる」という発言が得られたというデータ、ではなく、 「A曜日に生まれた男の子が少なくとも一人いる家族(Aは任意)」という発言が得られたというデータ、にすぎないのです。 「○○である男の子がいる」という発言が得られた場合、○○が珍しい属性であればあるほど、この問題の正解が1/3から離れて1/2に近づく、という趣旨はもちろんわかります。 デブリンが出している4月1日生まれという例では、計算してみると729/1459となります。(もちろん主語が「私」ですからほんとは1/3ですが。どのみちどの子も何らかの誕生日を持つのです!) 極端な場合は、世界でただひとりしか持たない属性、たとえば「上の子」は男の子である、という問題になります。御存知の通り、その特定された子について男と言ったバージョンだと、2人とも男である確率は1/2ですよね。 しかしその属性は、問題に本質的なものとして特定されていなければなりません。 実は今、次のパラドクス本にこの問題を入れようと思ってちょっと書き始めているのですが、次はその草稿の一部。 …………………… 「Cさんには2人の子どもがいる。そのうち少なくとも1人は男の子である。のみならず、ある世界唯一の属性を持つ男の子がいる、と詳述してよい。誰もがそのような何らかの属性を持つことは自明だからだ。その属性をαと呼ぼう。よって、問いは次のように書き直せる。『Cさんには2人の子どもがいる。そのうち属性αを持つ方は男の子である。さて、Cさんの子どもが2人とも男である確率は?』 ……αがどんな属性であるかはまだわからないが、なあにどうせ存在するのだから問題ない。わかった時点でαに具体的な属性名を代入すればいいのさ」 このように読むと、誰が男の子であるのかを特定していないのに、正解が1/2になってしまう。つまり、次の2つの問題の答えが一致してしまうのである。 A「2人の子のうち、少なくとも1人は男の子である。2人とも男である確率は?」 B「2人の子のうち、上の子は男の子である。2人とも男である確率は?」 …………………… AとBの一致はまずいと私は思います。 つまり、属性αがどんなものであれ、先に指定して、その条件に合致した親を後から選んでくる、という手続きを踏まないと、母集団が「属性αを持つ男の子のいる親」だったことにはならず、正解は1/3のままです。 ……もちろん以上の私見は依然として疑問の余地ゼロでないことは承知していますが。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月 8日(日)20時13分31秒 . > No.2446[元記事へ] φさんへのお返事です。 何度もご回答いただきありがとうございます。 ただ、私の能力ではどうしても理解できないのです。 > ところが、単に男の子が少なくとも一人いる家族からランダムに選んでおいて、調べてみたら火曜日生まれの男の子がいたので、というのでは、単に「事後的に記述している」だけであって、情報価値がありません。何曜日生まれの子がいてもそれに合わせて問題を述べ直すだけですから、たまたま当てはまることなら何を述べようと自由です。結局、「男の子が少なくとも一人いる家族のうち、2人とも男の子の確率は?」と同じことになります。 ここのところが理解できませんでした。 この火曜日の子供問題で多く語られているパターンは以下の通りです。 ↓ 「子供が二人いて、一人は火曜日生まれの男の子である。もう一人の子供も男の子である確率は ?」 "I have two children, one of whom is a boy born on a Tuesday. What's the probability that my other child is a boy?" この問題では、冒頭で「一人は火曜日生まれの男の子である。」と明言しています。 つまり、話者が勝手にそう言ったとしても 「一人は火曜日生まれの男の子である。」と言ったことは事実であり、 「男の子が少なくとも一人いる家族」という上位概念が母集団とはならないはずです。 やはり、母集団は「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」 ではないでしょうか? 結局、 「一人は火曜日生まれの男の子である。」と、話者が勝手にそう言ったとしても 「火曜日生まれの男の子がいるか?」「いる。」との会話があったとしても 確率を計算するための母集団は いずれも「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」だと思います。 そうとすると、答えはいずれも13/27になると思うのですが。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月 7日(土)23時08分6秒 . > No.2445[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 例えば、家族を多数(100万組ぐらい)集めたとします。 > その中で > (1)子供がぴったり2人いる家族 > (2)(1)の中で火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族 > (3)(2)の中で子どもが二人とも男の子である家族 > > について調べたとします。 > この場合、親に聞こうと聞くまいと(親が自発的に話したか否かにかかわらず) > (2)の家族に対する(3)の家族の割合は13/27になるのではありませんか? > これが、求める確率では? > まったくその通りです。 ただし、条件(2)がちゃんと満たされていればですね。 「火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族」について問うことにするのだという独立のモチベーションがなければなりません。 それが満たされれば、(2)の家族に対する(3)の家族の割合13/27が求める確率になります。 ところが、単に男の子が少なくとも一人いる家族からランダムに選んでおいて、調べてみたら火曜日生まれの男の子がいたので、というのでは、単に「事後的に記述している」だけであって、情報価値がありません。何曜日生まれの子がいてもそれに合わせて問題を述べ直すだけですから、たまたま当てはまることなら何を述べようと自由です。結局、「男の子が少なくとも一人いる家族のうち、2人とも男の子の確率は?」と同じことになります。 計算するとこういう感じか。↓ ……………………………………………… P(A) 2人とも男子 P(E) 「火曜日生まれの男子がいる」 P(A|E)=P(E|A)P(A)/(P(E|A)P(A)+P(E|〜A)P(〜A)) ●Eが「火曜日生まれの男子はいる?」「いる」の場合 ●火曜日生まれの男子を持つ親を捜し回れ、そしてその親を問題に使え、の場合 ↑このときは、「火曜日生まれの男子を持つ親」からランダムに選んだことになる。 P(E|A)P(A)/(P(E|A)P(A)+P(E|〜A)P(〜A)) = (13/49×1/4)÷(13/49×1/4+14/(49・3)×3/4) =13/27 ●親を選ぶときは曜日は考慮に入れず、あとから判明した曜日を情報に付け加えた場合 ●「曜日の方は何曜日であってもそれに合わせてこの問題を変えたから関係ないんだけど一応言っとくと、《火曜日生まれの》男の子がいるよ」の場合 ↑このときは、あらゆる親からランダムに選び、「火曜日生まれ」はあとから記述を任意に詳しくしているだけ。 P(E|A)P(A)/(P(E|A)P(A)+P(E|〜A)P(〜A)) = (1×1/4)÷(1×1/4+2/3×3/4)=1/3 ↑選ばれる親にまったくスクリーニングがかかっていないので、「火曜日」は情報価値なし。実質、Eは「A曜日生まれの男の子がいる、ただしAは任意」と同値。 …………………………………………………… 結局、「火曜日」と言いたくなったのはなぜか、ということですね。 火曜日の男子がいたから問題が成立したのか、 結果的に何でもよくて、事実を付け加えただけなのか。 極端な話、曜日とは限らずホクロの位置や血液型や名前など、何を付加するかすら決まっていなかったような場合は、たまたま恣意的に付け加わったその情報が無価値であることは明瞭でしょう。 eggmanさんの7月25日(日)13時25分32秒の記述では、あとから「午前中生まれ」「日曜日生まれ」が付加されていったため、なおさら「情報価値なし」の体裁が濃厚だったわけです。 教えていただいたページ http://sciencenews.org/view/generic/id/60598/title/When_intuition_and_math_probably_look_wrong から http://www.maa.org/devlin/devlin_04_10.html に飛んでみると、 『数学する遺伝子』の著者キース・デブリンが、はじめは1/3と「勘違い」して、よく考えたらこの問題は13/27が正解だと主張していますね。 しかしデブリンの考察は不徹底で、もとのページで言われているように、正解は文脈によります。そして問題提示のされ方からすると、1/3が正解で、デブリンは正解から誤答へ改宗してしまったことになります。 以上は、議論の余地が全くないとは思いません。 私が勘違いしている可能性もあります。 ただ、問題の設定が曖昧で、「火曜日」が導入された経緯がどうだったのか、がポイントであることは確かです。 数学というより哲学ですが(『ゼロからの論証』あとがきに述べたように、哲学の感性とは確率的直観のことだと思います)、しかし厳密にやろうとしたら数学になることも間違いないでしょう。 http://sciencenews.org/view/generic/id/60598/title/When_intuition_and_math_probably_look_wrong" target="_blank">http://sciencenews.org/view/generic/id/60598/title/When_intuition_and_math_probably_look_wrong Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月 7日(土)08時41分17秒 . > No.2444[元記事へ] φさんへのお返事です。 詳細なご説明ありがとうございます。 ただ、余計に混乱しています。 例えば、家族を多数(100万組ぐらい)集めたとします。 その中で (1)子供がぴったり2人いる家族 (2)(1)の中で火曜日生まれの男の子が少なくとも一人いる家族 (3)(2)の中で子どもが二人とも男の子である家族 について調べたとします。 この場合、親に聞こうと聞くまいと(親が自発的に話したか否かにかかわらず) (2)の家族に対する(3)の家族の割合は13/27になるのではありませんか? これが、求める確率では? 何か誤解してましたらご指摘ください。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 8月 7日(土)05時30分51秒 . > No.2443[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > どちらの場合も条件付き確率を計算するための情報は全く同じように思えます。 > 数学に詳しい友人たちにも聞いてみましたが皆違いがわからないと言ってます。 > どちらの場合も、答えは13/27ではないのでしょうか? > 「火曜日生まれの男の子はいる?」と訊かれた場合は、はじめから、火曜日という情報を固定しています。話者の応答とは独立に。だから「いない」という答えがありえました。「いない」でも依然として問題は成立します。男の子2人だった場合の方が当然「いる」という返事の確率は高まりますね。したがって、「火曜日生まれの」という情報が情報価値を持つのであり、1/3よりも男2人の確率は高くなり、13/27です。 しかし他方、話者が勝手に「火曜日生まれの男の子がいる」と言った場合は、火曜日という情報があらかじめ固定されていません。月曜日生まれの男の子がいると言われたら、問題は「月曜日生まれの男の子がいる。2人とも男である確率は?」となったはずです。つまり、情報価値がありません。話者が「いない」と言う可能性がなかったからです。 ただしこの場合も、はじめから「火曜日生まれの男の子がいる」と言った人だけを対象にしよう、と固定していたとします。月曜とか土曜とかと言った人は無視します。「火曜日生まれの男の子がいる」と自発的に言った人がいたので、問題にした。そういう場合は、正解は13/27になるでしょう。 「火曜日生まれ」が母集団を制限していたからです。 このへんは解釈次第なので、両方とも13/27という答えが正しい、という立場の気持ちもわかります。しかし、問題文を見るかぎり、火曜日というのはたまたま結果論的に決まっただけのように読めるので、自発的に言った場合は1/3が正解です。 > > また、「火曜日」という付加的情報は無いとした場合(普通の「二人の子供問題」?)、 > 「男の子はいる?」と訊かれて「いる」と答えた場合と > 話者が勝手に「一人は男の子」と言った場合とでも何か異なるのでしょうか? > これは異なりませんね。 火曜日生まれという情報とは違って、「男の子がいる」という情報は母集団が狭まっていることをダイレクトに伝えています。なぜなら「2人とも男の子かどうか」が問われているからです。前問で、火曜日生まれについては答えの中に含まれていませんでした。だから文脈によっては冗長な余剰情報になる可能性があったのです。「男の子がいる」というのは、問われて答えた場合であれ自発的に言った場合であれ、正解の制限の仕方は同等です。 ちなみに、「男の子はいる?」と訊かれて「いる」と答えた場合には「2人とも男の子である確率を訊こう」と予定していたのでしょうが、「いない」と答えられてしまった場合は問題が成立しません。なので、2人の子持ちの人大勢に聞いて、「いる」と答えた場合の中からランダムに選んで問題にしたということでしょう。 自発的に「男の子がいる」と言った場合は、もしかしたら「女の子がいる」と言ったかもしれません。その場合は「2人とも女である確率は?」という問題になったでしょう。 男の子(女の子)の有無だけが情報として入る場合、2つの事例は、同じと考えられます。 ↑整理していないので、勘違いもあるかもしれません。 趣旨は、「仮説と情報の独立性」が重要ということなのですが。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 8月 6日(金)21時40分28秒 . > No.2442[元記事へ] φさんへのお返事です。 すみません。わかったつもりでしたがやっぱりわかりません。 >話者が「火曜日生まれの男の子はいる?」と訊かれて「いる」と答えた場合なら、正解は13/27になりますか。 >誰に訊かれるまでもなく話者が勝手に「一人は火曜日生まれの男の子」と言った場合は、火曜日生まれという情報は事後的な余剰情報にすぎず、正解は1/3ですね。 最初はなるほどと思ったのですが、本質的な違いが理解できないのです。 どちらの場合も条件付き確率を計算するための情報は全く同じように思えます。 数学に詳しい友人たちにも聞いてみましたが皆違いがわからないと言ってます。 どちらの場合も、答えは13/27ではないのでしょうか? また、「火曜日」という付加的情報は無いとした場合(普通の「二人の子供問題」?)、 「男の子はいる?」と訊かれて「いる」と答えた場合と 話者が勝手に「一人は男の子」と言った場合とでも何か異なるのでしょうか? Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 7月29日(木)02時54分41秒 . > No.2441[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > そうしますと、最近日本でも騒がれているこの事件は数学者たちの大きな勘違いというわけですね。↓ > http://sciencenews.org/view/generic/id/60598/title/When_intuition_and_math_probably_look_wrong > 第2のモンティ・ホール事件かも。 > 面白い記事をありがとうございます。 この問題は日本でも騒がれている、んですか? コメントは読んでませんが、本文を見るかぎり、表現は違うが私と同じことを言ってますね。的確な判定じゃないでしょうか。 「火曜に生まれた男の子」の選ばれ方が定義されていないと、正解が曖昧になってしまうわけですね。 人間は確率の直観が弱いわけではなく、人為的な設定を誤解するだけだ、というのは一応頷けます。 > > 「何も書いてなければ、主観確率1/2とするしかない」とは書いてなかったように思います。 > >ちなみに、↓でも詳細に事後確率を計算していますね。 > http://shiozawa.net/fukuzatsukei/monti_hall.html > ゲーム設定からしてルール1とルール2は明示されていなくても暗黙に読み取れるので、『バタフライ・エコノミクス』監修者は解釈に曖昧な可能性を認めようとしすぎている気がします。問題を一般的に捉えるためには有益な態度ですが。 ともあれ、明確な問いであるためには、そのルール1と2だけ明示されてあれば、あとは必要ないでしょう。 選択のバイアスが明示されていない場合は、等確率と見なすしかありませんから。(かりに「偏りがある」ことだけがわかっているとしても同じです) この点は、『心理パラドクス』053「ラプラスの悪魔」が関連しています。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 7月28日(水)21時23分13秒 . > No.2440[元記事へ] φさんへのお返事です。 >話者が「火曜日生まれの男の子はいる?」と訊かれて「いる」と答えた場合なら、正解は13/27になりますか。 >誰に訊かれるまでもなく話者が勝手に「一人は火曜日生まれの男の子」と言った場合は、火曜日生まれという情報は事後的な余剰情報にすぎず、正解は1/3ですね。 なるほど。 上に挙げた問題では、話者が勝手に「一人は火曜日生まれの男の子」と言っています。 そうしますと、最近日本でも騒がれているこの事件は数学者たちの大きな勘違いというわけですね。↓ http://sciencenews.org/view/generic/id/60598/title/When_intuition_and_math_probably_look_wrong 第2のモンティ・ホール事件かも。 なお、 >司会者の左右の選択に偏りはない、という但し書きは、通常は不要ですよね。 >何も書いてなければ、主観確率1/2とするしかないからです。 とのことですが、x/(1+x)という事後確率は、 φさんの「論理パラドクス」の042 モンティ・ホール・ジレンマに 参考文献として挙げられていた「市川伸一『確率の世界を探る』共立出版」 に書かれていたものでよ。 「何も書いてなければ、主観確率1/2とするしかない」とは書いてなかったように思います。 ちなみに、↓でも詳細に事後確率を計算していますね。 http://shiozawa.net/fukuzatsukei/monti_hall.html Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 7月28日(水)19時58分16秒 . > No.2439[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > もう、確率というより日本語の問題でしょうか。 > そうですね、文章が暗黙に伝える設定の問題です。 > > 以下の問題の答えも1/3でしょうか? > > 「子供が二人いて、(少なくとも) 一人は火曜日生まれの男の子である。もう一人の子供も男の子である確率は ?」 > "I have two children, one of whom is a boy born on a Tuesday. What's the probability that my other child is a boy?" > 話者が「火曜日生まれの男の子はいる?」と訊かれて「いる」と答えた場合なら、正解は13/27になりますか。 誰に訊かれるまでもなく話者が勝手に「一人は火曜日生まれの男の子」と言った場合は、火曜日生まれという情報は事後的な余剰情報にすぎず、正解は1/3ですね。 ところで、「少なくとも」を入れると日本語として変な気がします。 「少なくとも一人は……、もう一人は……」 とは論理的に言えませんから。 「少なくとも」は省くべきでしょう。 > >(モンティ・ホール・ジレンマで、司会者がもともと知っているハズレドアを開けてみせても確率の変化が起こらないのと同じですね) > > これは、プレイヤーがたまたま正解のドアを選択したときに。司会者がハズレのドア(2つ)のいずれかを選択する確率が1/2の場合に限っての話ですよね。 > 司会者の左右の選択に偏りはない、という但し書きは、通常は不要ですよね。 何も書いてなければ、主観確率1/2とするしかないからです。 たとえばサイコロの問題で、フェアなサイコロ、といちいち書く必要はないのと同じですね。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 7月28日(水)07時15分31秒 . > No.2438[元記事へ] φさんへのお返事です。 色々と教えていただきありがとうございます。 もう、確率というより日本語の問題でしょうか。 >問題6 > ある人には子供が2人いる。 > 一人は午前中に生まれた男の子である。もう一人の子供が男である確率は? > この場合、正解は1/3です。 > 問題2の私の解釈がこれだったわけです。 私もそのつもりで問題2を作成したのですが。 それはさておき、以下の問題の答えも1/3でしょうか? 「子供が二人いて、(少なくとも) 一人は火曜日生まれの男の子である。もう一人の子供も男の子である確率は ?」 "I have two children, one of whom is a boy born on a Tuesday. What's the probability that my other child is a boy?" それともう1点 >(モンティ・ホール・ジレンマで、司会者がもともと知っているハズレドアを開けてみせても確率の変化が起こらないのと同じですね) これは、プレイヤーがたまたま正解のドアを選択したときに。司会者がハズレのドア(2つ)のいずれかを選択する確率が1/2の場合に限っての話ですよね。 この確率が変化すると正解する確率はx/(1+x)で変化しますので。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 7月28日(水)03時40分7秒 . > No.2437[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 問題2は問題1を受けており > 「男の子」は「前記男の子」という意味で書いたのですがそうは解釈できませんか? > それは無理でしょう。 問題1は、「男の子はいるか?」「いる」という問いと同じですね。 つまり、「男の子」が特定されていないように読めるからです。 もしも、特定の男の子について述べたいのであれば(正解を1/2にしたいのであれば)、 「上の子は男の子である」「出題者が先に顔見知りになったのはたまたま男の子だった」などと、子どもの特定の仕方を明示しなければなりません。 問題1が正解1/3仕様になっているため、問題2の「男の子」が特定の子どもを指すというのは無理でしょう。 さて、それでは、問題が次のようなものだったら? 問題6 ある人には子供が2人いる。 一人は午前中に生まれた男の子である。もう一人の子供が男である確率は? この場合、正解は1/3です。 問題2の私の解釈がこれだったわけです。 なぜ1/3かというと、「午前中に生まれた」という情報が、事前に試練にさらされていないからです。午前中に生まれた男の子がいなかったとしたら、問題2は「午後に生まれた男の子」と表現が変わっていただけのことでしょう。 「午前中に生まれた男の子はいますか?」「います」というように否定の可能性という試練にさらされて初めて、2人とも男の子である確率が1/3から3/7に上がることになるでしょう。男子が1人だけだったら、「いません」という返事だったかもしれないので、そうでなく「います」だったことが、2人とも男子という確率を上げたのです。 出題者が真実に合わせて(あるいは設定を恣意的に決めて)操作している「一人は午前中に生まれた」という表現だと、情報が反証可能性にさらされていないので、確率の改訂に寄与しません。 (モンティ・ホール・ジレンマで、司会者がもともと知っているハズレドアを開けてみせても確率の変化が起こらないのと同じですね) ちなみに、 問題7 ある人には子供が2人いる。 一人は午前中に生まれた男の子である。もう一人が午前中に生まれた子である確率は? 正解は? 1/3です。男の子であることが反証の試練にさらされておらず、問題設定の上で何の役割も果たしていないからです。 次のような比較をしてみればよいでしょう。 問題8 ある人には子供が2人いる。 一人は目尻にホクロのある男の子である。もう一人が男の子である確率は? 問題9 A ある人には子供が2人いる。 一人は男の子である。もう一人が男の子である確率は? B ヒントをください。ええと、単に男の子というのでなく、そうだな、目尻にホクロのある男の子ってのはいますかね? A いますよ。 問題8の正解は、1/3です。目尻にホクロがあろうがなかろうが、関係ありません。問題状況が実話ならたまたまホクロのある男の子がいたから出題者はそう述べたのだし、虚構ならそういう設定に作ったからそう述べたまでです。 問題9では、出題者の発言がどういうものになるか試練を与え、「いますよ」という回答を引き出した、つまり当てずっぽが見事当たったことにより、2人とも男の子である確率は1/3よりも上がります。男子1人だけよりも2人の方が、「目尻にホクロがある男子」という条件を満たす確率が上がるからです。 独立の条件の一致があるかないかがポイントですね。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 7月27日(火)05時49分41秒 . > No.2436[元記事へ] φさんへのお返事です。 問題2は問題1を受けており 「男の子」は「前記男の子」という意味で書いたのですがそうは解釈できませんか? 問題3も問題2を(当然問題1も)受けています。 ですので、私が書いた問題2と3を独立形式に書き直すと、結局 φさんの問題4、5と実質的に同じなると思いますが。 問題文が誤解を招く文章になっていましたらご指摘ください。 ちなみに 問題3、5の解はともに27/55ですよね。 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 7月27日(火)03時18分45秒 . > No.2435[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 私は、問題2の解答は3/7と思っていましたが間違いですか? > > FM am/am pm/am > MF am/am am/pm > MM am/am am/pm pm/am > > このうちMMは3通りなので、3/7 > ↑ これは、私の 問題4.の正解ではないでしょうか? 「amに生まれたMはいるか?」「いる」という場合のMMの確率になっています。 問題2の場合は、午前か午後かは事後的に事実を述べているだけなので情報価値がなく、男女の確率評価に無関係ゆえ1/3のままでしょう。ただし、論証的に述べるための時間が乏しいので、ちょっと考えたうえ改めてお返事させてください。 なお、問題2を丁寧に読むと、正解は1/5とも考えられます。 なぜなら、問題2の「男の子」はもともと特定された個人ではないため、正確には 「男の子ならば午前中の生まれである」と読むのが妥当だからです。 男の子が少なくとも1人いるという問1の前提と合わせて、 FM am/am pm/am MF am/am am/pm MM am/am のうち、MMはただ一つなので、1/5です。 Re: 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 7月26日(月)16時33分44秒 . > No.2434[元記事へ] φさんへのお返事です。 > eggmanさんへのお返事です。 > > > > > 最近、二人の子供問題のバリエーションが増えましたね。 > > > > 増えたというのは、最近どこかに載っていたということでしょうか? > > 問題1.2.3.とも、正解は1/3ですよね。 ご回答(解答?)ありがとうございます。 私は、問題2の解答は3/7と思っていましたが間違いですか? 男の子をM、女の子をFとします。 2人の子供とその各々が生まれた時刻の組合せをすべて書き記すと FF am/am am/pm pm/am pm/pm FM am/am am/pm pm/am pm/pm MF am/am am/pm pm/am pm/pm MM am/am am/pm pm/am pm/pm の16通りになります。 しかし本問の条件より、一人は男の子であり、一人がamに出生したので、 あり得る組合せは FM am/am pm/am MF am/am am/pm MM am/am am/pm pm/am の7通りになります。 このうちMMは3通りなので、3/7 Re: 二人の子供問題 投稿者:φ 投稿日:2010年 7月25日(日)23時31分23秒 . > No.2433[元記事へ] eggmanさんへのお返事です。 > > 最近、二人の子供問題のバリエーションが増えましたね。 > 増えたというのは、最近どこかに載っていたということでしょうか? 問題1.2.3.とも、正解は1/3ですよね。 むろん、「出題者が問題文に明記する気になった方(先に注目した方)」が男だった、というふうに読めば、注目されなかった方も男である確率は1/2になりますけれどね。ただ、注目されなかった方も「もう一人の子供」として注目されてしまっているので、「出題者の注目」は通常、問題設定の範囲外でしょう。 問題2.3.をちょっとヒネって、 問題4. 「午前中に生まれた男の子はいますか?」と訊ねたら、「いる」という返事だった。2人とも男の子である確率は? 問題5. 「日曜日の午前中に生まれた男の子はいますか?」と訊ねたら、「いる」という返事だった。2人とも男の子である確率は? あんまりヒネったことにもなってないか。 今執筆中の『パラドクス事典』(仮題)では、 三部作で扱った項目すべてを五十音配列してアフォリズム風コメントを付け、 新問題もいくつか加える予定です。 新問題には、シュレーディンガーの猫、EPRパラドクスなどの物理学系や、0の0乗といった数学系を加えようと思っておりますが、論理系パラドクスらしく仕立てるのがけっこう重労働です。 二人の子供問題 投稿者:eggman 投稿日:2010年 7月25日(日)13時25分32秒 . こんにちは 最近、二人の子供問題のバリエーションが増えましたね。 パラドクス3部作のどれかに加えてはいかがでしょうか? 問題1. ある人には子供が2人いる。 一人は男の子である。もう一人の子供が男である確率は? 問題2. 問題1において、男の子は午前中の生まれである。 もう一人の子供が男である確率は? 問題3. 問題2において、男の子はさらに日曜日生まれである。 もう一人の子供が男である確率は? Re: サールの挑戦について 投稿者:原石 投稿日:2010年 4月20日(火)21時38分50秒 . > No.2431[元記事へ] φさんへのお返事です。 済みません。原石です。前回、ハンドルネームが二つになってしまいました。 申し訳ありません。 友人と旧友を1号、2号と呼び話していたら、名前が残ってしまった次第です。 それでも、投稿者の特定はスムースしていただいたようで、 やはり、題名等の記述のクラスターなんでしょうかね。 指示の成功は、レスポンスの連鎖という要素も大きいのかな、と感じました。 > パラメータが何らかの理由で固定されていると考える究極理論に対して、 > パラメータは場所によって違う値をとり、初期条件も異なり、ひょっとしたら法則の形そのものが異なる多くの宇宙から実在は成っている、というのが強い人間原理ですね。 ありがとうございます。やっと、人間原理の肝をつかんだ気がします。 どうしても具体例がないと理解が進みません。 カントのようには、理解力がないので、実例と言うあんよ車が私には必要で、助かります。 > 四次元というのを文字通りにとれば、 > 次元の数もパラメータのひとつですが、多宇宙説によれば、重力定数が宇宙によって異なるように、さまざまな次元数を持つ多数の宇宙があることになります。 なるほど、重力定数が異なるように理解すればいいのですね。 Re: サールの挑戦について 投稿者:φ 投稿日:2010年 4月15日(木)14時12分57秒 . > No.2430[元記事へ] 関西2号さんへのお返事です。 > > いわば究極理論の考え方は、この世界しか認めない3次元的で(実在論的で) > この宇宙は多宇宙の中の環境的揺らぎに過ぎないと見る、人間原理は、 >4次元的に(多世界論的に)捉える視点の違いであると言ってもいいのでしょうか。 > 四次元的という形容が適切かどうかわかりませんが、 パラメータが何らかの理由で固定されていると考える究極理論に対して、 パラメータは場所によって違う値をとり、初期条件も異なり、ひょっとしたら法則の形そのものが異なる多くの宇宙から実在は成っている、というのが強い人間原理ですね。 四次元というのを文字通りにとれば、 次元の数もパラメータのひとつですが、多宇宙説によれば、重力定数が宇宙によって異なるように、さまざまな次元数を持つ多数の宇宙があることになります。 知的生命が発生しうるのは3次元空間+1次元時間を持つ宇宙だけらしいです。 Re: サールの挑戦について 投稿者:関西2号 投稿日:2010年 4月14日(水)20時12分36秒 . > No.2429[元記事へ] φさんへのお返事です。 ありがとうございます。特に注目しました。 > 究極理論なんてものはない、この宇宙は多宇宙の中の環境的揺らぎに過ぎない、という偶然論を採るのが人間原理ということになります。 少し乱暴なくくりなのかもしれませんが、 いわば究極理論の考え方は、この世界しか認めない3次元的で(実在論的で) この宇宙は多宇宙の中の環境的揺らぎに過ぎないと見る、人間原理は、4次元的に(多世界論的に)捉える視点の違いであると言ってもいいのでしょうか。 Re: サールの挑戦について 投稿者:φ 投稿日:2010年 4月 8日(木)12時44分54秒 . > No.2428[元記事へ] 原石さんへのお返事です。 > > 究極理論という言い方は哲学では一般的なのでしょうか? > スティーブン・ワインバーグの『究極理論への夢』Dreams of a Final Theory という本がありましたが、「究極理論」または「万物理論」Theory of Everything (TOE)という言葉は、哲学よりむしろ物理学でよく使われるようですね。 重力定数やプランク定数、光速度、電荷、ハッブル定数など、実際に測定によって決定されるような、「経験的偶然によって決まる数値(物理法則の中のパラメータ空欄にあとから手で入れてやるべき定数)」が実は偶然的ではなく、理論から必然的に導き出されることがわかれば、「宇宙はなぜこのようであるのか」という謎が解け、それ以上問う必要がなくなります。 物理学が他の科学よりも一段高い、根本的な地位を占めるという「物理学帝国主義」は、究極理論がいつか発見されるという信念に支えられていると言っていいでしょう。 究極理論なんてものはない、この宇宙は多宇宙の中の環境的揺らぎに過ぎない、という偶然論を採るのが人間原理ということになります。 Re: サールの挑戦について 投稿者:原石 投稿日:2010年 4月 7日(水)19時21分53秒 . > No.2427[元記事へ] φさんへのお返事です。 ありがとうございました。 違っていることが分かり、理解が進みました。 > パラメータも同様です。 > 相対論や量子論の法則の形(論理構造)と、そこに代入されるべき具体的な数値(物理定数)は、伝統的には相互に独立に変化しうるものと考えますが、これも、物理法則たるもの、物理定数もいっしょに決めるはずだという立場がありえます。 > > 相対論や量子論は、それ自体、初期条件を決定できず、パラメータも決定できません。初期条件とパラメータは、実験や観測によって決めるしかない。究極理論であれば、物理法則の形だけでなく、すべてを決定するはずだというわけです。 究極理論という言い方は哲学では一般的なのでしょうか? Re: サールの挑戦について 投稿者:φ 投稿日:2010年 4月 5日(月)02時36分13秒 . > No.2425[元記事へ] 原石さんへのお返事です。 > > ところで、物理法則と境界条件の区別の「境界条件」、 > 物理法則とパラメータの区別の「パラメータ」はどう理解したらよいでしょうか? > 境界条件は、初期条件と言い直したほうがわかりやすいかもしれません。 物理法則だけ与えられても、全くの無ではなく何らかの初期状態から始めるとすると、物理法則が作動し始めるべき最初の状態は法則の外から与えられねばなりません。 しかし、物理法則というものは初期条件もいっしょに決めるはずだ、という立場もありうるわけです。 パラメータも同様です。 相対論や量子論の法則の形(論理構造)と、そこに代入されるべき具体的な数値(物理定数)は、伝統的には相互に独立に変化しうるものと考えますが、これも、物理法則たるもの、物理定数もいっしょに決めるはずだという立場がありえます。 相対論や量子論は、それ自体、初期条件を決定できず、パラメータも決定できません。初期条件とパラメータは、実験や観測によって決めるしかない。究極理論であれば、物理法則の形だけでなく、すべてを決定するはずだというわけです。 > > 哲学だけが免れるだけでなく、科学も免れない、両者に大きな違いがないと > 理解してよいでしょうか? > 科学のほうがいまや哲学よりも哲学的なところがありますしね。哲学と科学はもともといっしょだったわけですが、いったん別れた両者が、21世紀にはまた合流するのではないでしょうか。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2010年 4月 4日(日)16時23分2秒 . > No.2424[元記事へ] katzeさんへのお返事です。 私の過去の仕事にも興味を持ってくださり、うれしく思います。 > >@「MELI-MELO」(1986.11)という雑誌(?)に >「阿呆リズムの理詰セクション」という文章を書かれていると思うのですが、 >国会図書館の検索にひっかかりません。 > 「MELI-MELO」はいちおう活字出版ではありますが、大学院生の同人誌なので、今はどこにも出回っていないかもしれません。私は誘われて寄稿したにすぎず、「MELI-MELO」についてはほとんどわかりません。私の手もとにもなく、たぶん実家の押し入れに2、3冊あるかもといった感じ。 出版はたしか七月堂だったと思います。 「阿呆リズムの理詰セクション」はアフォリズム集で、それ以前のガリ版刷り同人誌に書いたアフォリズム集も合わせて、「アフォリズム日記」↓の前身です。 http://green.ap.teacup.com/applet/miurat/msgcate4/archive それらの中から選抜したアフォリズムを『蜜林レース』や『たましいの生まれかた』に使いました。 > > A「早稲田文学」95年の公開日記の1月9日の欄に >「「imago」のために「笑い論」20枚以上」と書かれているのですが、 >これは実際に発表されていますか? > 1995年3月号に掲載の「反-感情としての笑い」です。 けっこう反響のあったエッセイで、「笑い」についていくつか新聞の取材をうけました。 いま見ると、「反-感情としての笑い」は http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/m1-works.htm に記し忘れているようですね。 ↑は、最大限復元したものの欠落を免れない記録で、いずれ自分の仕事履歴を整理せねばと思っています。(90年代までの記録は、一応フロッピーディスクの中にあるのですが、磁気異常なのかディスクが読めなくなっており、発表記事記録および未発表原稿が取り出せない状態です) 最近の活動メモは、 に記してありますが、 これも年次順・ジャンル別にまとめるなど、いずれ ひと整理しなければなりません。 Re: サールの挑戦について 投稿者:原石 投稿日:2010年 4月 4日(日)15時49分33秒 . > No.2421[元記事へ] φさんへのお返事です。 ずいぶんと間があいて済みませんでした。 > 物理法則と境界条件の区別、物理法則とパラメータの区別、などにも同じことが言える気がします。 > 言語行為も、宇宙そのものも、基本的成分に分けられるのはあくまで近似であって、結局は緊密な全体なのかも知れません。しかしそれを始めから気にすると一歩も踏み出せなくなりますね。 なるほど、「緊密な全体」を措定しておかなければ、ならないのですね。 ただ、いつも全体全体と言ってばかりいてはだめで、 一歩を踏み出す、進めていくということが重要なのですね。 ところで、物理法則と境界条件の区別の「境界条件」、 物理法則とパラメータの区別の「パラメータ」はどう理解したらよいでしょうか? 前者は、物理法則とそうでない法則との境界があいまいで、厳密な線を引くのが難しい という意味でよいのでしょうか。 後者は、物理法則と一つの変項ないし補助条件との厳密な線を引くのが難しいという意味でしょうか。 > 「完璧主義の誤謬」を逃れて分析に取りかかるにはけっこう勇気が要りますね。 > ある程度目をつぶらないと、われわれはたぶん科学も哲学も出来ないのでしょう。 「完璧主義の誤謬」!なるほど、これには気をつけなければなりません。 どうしても完全無謬へのあこがれは、どこかあります。 でも「科学も哲学も出来ない」という全体的な眺望に感心しました。 哲学だけが免れるだけでなく、科学も免れない、両者に大きな違いがないと 理解してよいでしょうか? (無題) 投稿者:katze 投稿日:2010年 4月 4日(日)10時01分23秒 . 2点質問があります。 @「MELI-MELO」(1986.11)という雑誌(?)に「阿呆リズムの理詰セクション」という文章を書かれていると思うのですが、国会図書館の検索にひっかかりません。もう少しだけヒントを頂けないでしょうか? A「早稲田文学」95年の公開日記の1月9日の欄に「「imago」のために「笑い論」20枚以上」と書かれているのですが、これは実際に発表されていますか? 以上、重箱の隅をつつくようで恐縮なのですが、お返事頂けると幸いです。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2010年 3月 9日(火)01時47分44秒 . > No.2422[元記事へ] 神についての想像もさんへのお返事です。 > > 神を信じ奇跡を信じないのが保守、神を信じ奇跡を演じるものがテロとなる。 > 奇跡を信じ神を信じないのが革新、奇跡を信じ神を演ずるものがファッショとなる。 > ↑ ↓阿呆理詰日記3127 で五分節円環構造へアレンジさせていただきました。 ↓ http://green.ap.teacup.com/miurat/2254.html (無題) 投稿者:神についての想像も 投稿日:2010年 3月 8日(月)16時22分0秒 . 神=閉じた体系の象徴 奇跡=開いた体系の象徴 と考えると、排他的なものを相互に認めざる得ない体系ができ上がる。 それらのバランスにより全体の方向性が決定されると考えられる。 神 奇跡 神 奇跡 ◎ × 聖人 × ◎ 英雄 ○ × 保守 × ○ 革新 ○ ? テロ ? ○ ファッショ 神を信じ奇跡を信じないのが保守、神を信じ奇跡を演じるものがテロとなる。 奇跡を信じ神を信じないのが革新、奇跡を信じ神を演ずるものがファッショとなる。 Re: サールの挑戦について 投稿者:φ 投稿日:2010年 3月 7日(日)03時25分0秒 . > No.2420[元記事へ] 原石さんへのお返事です。 > > しかし、まず指示が行われてから、述定が行われるのだろうか、 >と言語行為の成立の場面を考えると、純粋無垢の事実判断が成り立つのかどうかを >考えるだけでも疑問です。 > 物理法則と境界条件の区別、物理法則とパラメータの区別、などにも同じことが言える気がします。 言語行為も、宇宙そのものも、基本的成分に分けられるのはあくまで近似であって、結局は緊密な全体なのかも知れません。しかしそれを始めから気にすると一歩も踏み出せなくなりますね。 > > 1.制度的条件から人はどれほど純粋であれるのだろうか。 > 2.「同じ条件」の認識に対して人はどれだけ完全であれるのだろうか。 > という点も疑問に感じられます。 > 「完璧主義の誤謬」を逃れて分析に取りかかるにはけっこう勇気が要りますね。 ある程度目をつぶらないと、われわれはたぶん科学も哲学も出来ないのでしょう。 Re: サールの挑戦について 投稿者:原石 投稿日:2010年 3月 6日(土)18時16分2秒 . > No.2416[元記事へ] φさんへのお返事です。 > しかし、サール的なああいう厚かましさこそ、哲学的思考の進歩のために大切なんですね。 > 「ダメに決まってるじゃん」「世界はもっと複雑じゃん」といった東洋的達観は私たちもいいかげん捨てて、「できるところからやってみる」サール流の分析的姿勢に学ばなければなりませんね、この科学時代。 哲学的思考、特に倫理学的思考への影響に関し、非常に感銘を受ける言葉です。 また、感想だけで申し訳ありませんが、サールの分析の前提条件を検討することで、どんなことが学べるか楽しみです。 ともすれば、まず狭隘物を取り除き、純粋な事実判断を行ってから、価値判断をすべきだという言動を見受けます。(フッサールを学んだ人に多い感じがします) しかし、まず指示が行われてから、述定が行われるのだろうか、と言語行為の成立の場面を考えると、純粋無垢の事実判断が成り立つのかどうかを考えるだけでも疑問です。 サール分析に対する反論から、 1.制度的条件から人はどれほど純粋であれるのだろうか。 2.「同じ条件」の認識に対して人はどれだけ完全であれるのだろうか。 という点も疑問に感じられます。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2010年 2月26日(金)04時56分3秒 . > No.2418[元記事へ] 輪廻転生はどーするか?さんへのお返事です。 > > 名を言葉ととらえる > キリスト教 > 名を血統ととらえる > 儒教 > 名を精神ととらえる > 業法輪廻思想 ▼ 名を規約or記憶ととらえる ▼ 不可知論 > 生より死が劣る:死人に口なし > 無神論 > (無題) 投稿者:輪廻転生はどーするか? 投稿日:2010年 2月25日(木)18時36分57秒 . 生と死の優劣によってカテゴライズできる。 生より死が優れる:馬鹿は死ななきゃ直らない 自然宗教 選択的に生より死が優れる:虎は死して皮を残し人は死して名を残す 名を言葉ととらえる キリスト教 名を血統ととらえる 儒教 名を精神ととらえる 業法輪廻思想 生より死が劣る:死人に口なし 無神論 状況から判断して、釈迦の場合は自然宗教に近いと考えられる。 各宗教の当てはめ方は、適当にやったので適時修正してね。 Re: サールの挑戦について 投稿者:ワイネフ 投稿日:2010年 2月15日(月)23時55分30秒 . > No.2416[元記事へ] φさんへのお返事です。 >条件Cは、言語行為を成り立たせるための必要条件であり、「他の事情は等しい」は、成り立っている言語行為の作用が撤回されたり抑制されたりせずに完成に至るための必要条件というわけです。 なるほど。約束の成立そのものに関わるのか、あるいはその約束の撤回・抑制・解除・凌駕に関わるのかの違いですね。ありがとうございます。 サールは蛮勇が魅力ですか。たしかに、シンプルな仮説の提示は刺激的ですね。反対に、大哲学者の説をあれこれつまみ食いしながら人生訓を垂れるような本は3秒で読む気が失せます(笑) >サールは人間的には、外国人留学生の英語の訛りを嘲笑ったり、人種差別的なイヤな奴らしいですけどね。学問的姿勢は別です。 論理的思考に長けた学者が、日常生活では保守的な拘りを持ち続けるというのは奇妙ですね。そこが人間らしさなのかもしれませんが。 どうもありがとうございました。 Re: サールの挑戦について 投稿者:φ 投稿日:2010年 2月15日(月)05時10分24秒 . > No.2415[元記事へ] ワイネフさんへのお返事です。 そうですね、奴隷の例は全く適切ですね。 > > そう考えると、サールの論証は価値判断を前提としている点でも、反証を予め排除する仕組みになっている点でも、成功しているとは言い難いですね。 > ただし、「事実」という素朴な概念を見直し、「制度的事実」という考え方へ橋渡しするにあたって意義があるということですね。 > サールは、あの「中国語の部屋」の思考実験もそうだし、この「事実から価値の導出」の論証もそうですが、突っ込みどころだらけの理屈を臆面もなく出してくる蛮勇が魅力ですね。 ああいうベタな論証は、日本人学者は概して恥ずかしがってやろうとしませんが。 しかし、サール的なああいう厚かましさこそ、哲学的思考の進歩のために大切なんですね。 「ダメに決まってるじゃん」「世界はもっと複雑じゃん」といった東洋的達観は私たちもいいかげん捨てて、「できるところからやってみる」サール流の分析的姿勢に学ばなければなりませんね、この科学時代。 サールは人間的には、外国人留学生の英語の訛りを嘲笑ったり、人種差別的なイヤな奴らしいですけどね。 学問的姿勢は別です。 > > ところで、115ページに登場する「条件C」と「他の事情は等しい」の使い分けが >今ひとつわからないのですが、これはどのように区別すべきものなんでしょうか。 > 条件Cが満たされていない場合は、約束(にせよ何にせよ、当該発言の字義通りの言語行為)が成立しません。 マイクのテストで「本日は晴天なり」と言っても、主張としての効力は持ちませんし、誰にも聞こえない密室で「ごめんなさい」と発言しても、謝罪したことにはなりません。 他方、「他の事情は等しい」が満たされなくても、約束(にせよ何にせよ、当該発言の字義通りの言語行為)は成立します。 当事者の前で「百万円弁償します」と言えば、相手が弁償を求めていなくても、約束は成立します。そして発言者は義務を引き受けたことになります。 相手が「いや、必要ありません」と言った時点で「他の事情は等し」くなくなり、発言者の約束および義務引き受けは依然成立していながらも、その義務をもはや負ってはいないことになります。 演習問題23もご覧ください。 条件Cは、言語行為を成り立たせるための必要条件であり、「他の事情は等しい」は、成り立っている言語行為の作用が撤回されたり抑制されたりせずに完成に至るための必要条件というわけです。 「他の事情は等しい」が満たされているかどうかは、評価が入り込む規範的判断となりますが、条件Cが満たされているかどうかは、おおむね誰もが認める制度的事実の問題でしょうね。 Re: サールの挑戦について 投稿者:ワイネフ 投稿日:2010年 2月14日(日)17時17分33秒 . > No.2414[元記事へ] φさんへのお返事です。 ありがとうございます。なるほど。サールの論証には二重の意味で価値判断が前提されているわけですね。 たとえば、こういうことでしょうか。 奴隷制度社会における主人と奴隷の関係を考えてみます。奴隷は主人のために毎日無償で食料の買い出しにいく義務を引き受けました。ここで「義務を引き受ける者はみな、他の事情が等しければ、義務を負っている」という推論が適用できるのかどうか。 一つ目の問題は、この義務が奴隷制度を前提としていること。この奴隷が仮に奴隷制度のない隣国に逃亡したとしても、制度の外部にいる私たちは義務の不履行を責めることはないでしょう。 二つ目の問題は、「他の事情が等しければ」の条件も価値判断を含んでいるということ。 「他の事情が等しければ」が排除する例とは、たとえば「奴隷が重病になった」「台風がきて買い出しどころでなくなった」「奴隷解放宣言が公布された」などなど。一方、「奴隷の気が向かない」「その日雨が降っている」だと排除する理由にはならない。 では、「重病」「台風」が排除されて「気が向かない」「雨」が排除されない理由は何かというと、そこには事情を天秤にかける何らかの価値判断が下されていることになる。 そう考えると、サールの論証は価値判断を前提としている点でも、反証を予め排除する仕組みになっている点でも、成功しているとは言い難いですね。そもそも演繹による論証では前提に含まれない情報が結論に登場することはないはずですし。 ただし、「事実」という素朴な概念を見直し、「制度的事実」という考え方へ橋渡しするにあたって意義があるということですね。 ところで、115ページに登場する「条件C」と「他の事情は等しい」の使い分けが今ひとつわからないのですが、これはどのように区別すべきものなんでしょうか。 Re: サールの挑戦について 投稿者:φ 投稿日:2010年 2月14日(日)02時41分41秒 . > No.2412[元記事へ] ワイネフさんへのお返事です。 > > ごぶさたしております。(掲示板はいつも楽しみにしています!) > ありがとうございます。 > > ※ここまで質問を書いてみて、これは結局p120〜124の解説と同じことを >言っているのはないかという気がしてきました。こういう理解でもいいのでしょうか。 >それとも根本的な誤解がありますか。教えていただけると幸いです。 そういうことのようです。 煎じ詰めるにサールの論証は、「社会制度*で○○べしとされている」という事実から「○○べし」という価値を導いているわけですが、そこには二つの問題点があります。 ひとつは、その推論には、「社会制度*は正しい」という補助前提が隠されているが、社会制度*が正しいというのはまさに価値判断であるということ。 事実+価値判断から価値判断を導いているにすぎないことになってしまいます。 社会制度にはいろいろあるので、サール的な枠内では、社会制度*が正しいかどうかを見極めることはできません。 つまり、事実から価値を導くことは、当該社会制度*の正しさを前提せずには(*の外では)できる保証がないが、「である」から「べし」を導くというときに私たちが欲するのはまさにその保証であるわけです。 もう一つの問題は、「他の事情は等しい」という補助前提に価値判断が紛れ込んでいるということです。 どちらかというと、2番目の問題のほうがより重要かもしれません。 p.119では、これを「テクニカルな細部」として、マクロ視点からの1番目の問題の方により多くの頁を割きましたが、 今は、どちらかというと2番目の問題の方が根本的にサール論証の難点を示していると私は考えます。 サールの挑戦について 投稿者:ワイネフ 投稿日:2010年 2月12日(金)02時48分10秒 . ごぶさたしております。(掲示板はいつも楽しみにしています!) 『論理学入門』(P114〜)「ジョン・サールの挑戦」について質問があります。 自分の理解のため、試しに集合論で整理してみようと思いました。 すると「これは案外当たり前のことを言ってるだけなのでは?」という疑問が湧いてきました。φさんのご意見を伺えると幸いです。 まず条件Cについては全面的に成り立つものとして、ここでは考慮しません。 次に5段階の命題のそれぞれについて順序対の集合を考えます。(Cのアルファベットは条件Cと重複するので飛ばしています) A={ B={ D={ E={ F={ ここでジョーンズをj, スミスをsとすると、順序対 が成立します。これを「包含関係α」とします(ヴェン図でいえば5重の円になっている状態)。この包含関係αにおいては当然ながら つまり包含関係αを前提とするかぎり、115ページの(1)から(5)が導けるのは当たり前の話になります。また包含関係αの意味を考えると、これはその社会が有する「信念体系α」とも言い換えられそうです。 だとすると、このサールの論証は「信念体系αにおいては、信念体系αを前提とした論証が成立する」という、当たり前のことを言っていることになるのではないか・・・というのが私の素朴な疑問です。 ここで試しに、別の信念体系について考えます。 信念体系β:武士の社会 信念体系γ:現代日本社会 A’={x|xは「私は切腹する」と発言した} B’={x|xは切腹する約束をした} D’={x|xは切腹する義務を引き受けた} E’={x|xは切腹する義務を負っている} F’={x|xは切腹すべきである} 信念体系βでは A’⊂B’⊂D’⊂E’⊂F’ という包含関係が成り立っているとします。 するとβにおいて「私は切腹する」と発言した者はすべて「切腹すべきである」ということになります。 一方、信念体系γでは B’⊂D’ が成り立たないとします(現代日本社会では「切腹する」という約束は法的に無効だとみなされるでしょう)。するとγにおいては「私は切腹する」と発言しても「切腹すべきである」ということにはなりません。 サールの例では(1)〜(5)のステップが一見必然的に見えますが、実のところ前提された信念体系の内部でその体系を承認しているだけなのではないでしょうか。 ※ここまで質問を書いてみて、これは結局p120〜124の解説と同じことを言っているのはないかという気がしてきました。こういう理解でもいいのでしょうか。それとも根本的な誤解がありますか。教えていただけると幸いです。長文失礼しました。 修正 投稿者:φ 投稿日:2010年 1月31日(日)15時05分40秒 . > No.2410[元記事へ] ↓への修正です。 > > I know (∃yJohn knows that y knows (∃x((John knows that x is making the mess)∧(x=y)))∧(I=y)). > > 次に、どうせx=yで、IもJohnもそれは知っていますから、xで統一してしまいます。 > > I know ((∃x John knows that x knows (John knows that x is making the mess))∧(I=x)). > ↑ いまぼんやり見ていたら、括弧の位置がいいかげんでした。 すみません。 修正して丁寧に書き直すと、それぞれこうなりますね。 I know (∃y〈[John knows that 【y knows 〈∃x[(John knows that x is making the mess)∧(x=y)]〉】]∧(I=y)〉). I know (∃x〈[John knows that 【x knows (John knows that x is making the mess)】]∧(I=x)〉). 趣旨は伝わっていたかと思いますが、無用の混乱を生じかねないケアレスミスでした。 括弧の消し忘れとか数え間違いとか、いやはや論理記号に限らず数理的記号一般の問題ではありますが…… Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2010年 1月22日(金)01時46分7秒 . > No.2409[元記事へ] キリーロフさんへのお返事です。 I know that John knows that I know (∃x((John knows that x is making the mess)∧(I=x))). ↑これに対し、前回の方針に準じた措置を施してみましょう。 すなわち、 John knows that の作用範囲内にあるIをすべて変項に変えて、John knows that の範囲外にだけIを残して一人称的同一性を確保しましょう(今回の例文パターンの場合だと、I=a(aは最も左に登場する変項))。 するとこうなります。 I know (∃yJohn knows that y knows (∃x((John knows that x is making the mess)∧(x=y)))∧(I=y)). 次に、どうせx=yで、IもJohnもそれは知っていますから、xで統一してしまいます。 I know ((∃x John knows that x knows (John knows that x is making the mess))∧(I=x)). むろん、いろいろな文脈で微妙な区別を保持しなければならないと予期される場合は、変項をxで統一せず、I know の数だけ変項を残しておく方がよいかもしれません。 > > ‘I know that John knows that I am making the mess.’へ、 > 埋め込まれた場合にもそうでない場合にも、統一的な解釈を与える方法はあるのか。 > 変項を何種類用いるにせよ、 「John knows that の作用範囲内にあるIをすべて変項に変えて、John knows that の範囲外にだけIを残して一人称的同一性を確保」……★ という方針は統一的体系的ですから、 「埋め込まれた場合にもそうでない場合にも、統一的な解釈を与える方法はある」と言えるのではないでしょうか。 上記の方針ですべての場合にうまくゆくかどうかわかりませんが、 問題が生じる文脈をお示しいただければ、微修正で対応できると思われますが、いかがでしょう。 (無題) 投稿者:キリーロフ 投稿日:2010年 1月21日(木)13時47分7秒 . お返事ありがとうございます。 パラフレーズの戦略は想定していませんでした(われながら情けないです)。 私の検討した感じだと、良い候補は @ ∃x(I know (John knows that x is making the mess ∧ (I=x))) B I know (∃x((John knows that x is making the mess) ∧ (I=x))) だと思われます。 B∃x(I know (John knows that x is making the mess) ∧ (I=x)) は(I=x)が‘I know’のスコープをはみ出しているのであまり良くないと思われます。 というのも、私の求める解釈に従うと(って、これがどういう「解釈」なのか自分でも イマイチはっきり言えないのですが)、‘I’は‘John’が‘I'に関する知識をもっている ことを知っていると設定されているからです。 パラフレーズは良いやり方だと思うのですが、気になる点がひとつあります。 それは意味論の「合成性compositionality」とかかわります。 例えば I know that John knows that I know that John knows that I am making the mess. という文は I know that John knows that I am making the mess. という文に‘I know that John knows that’が冠頭されたものです。 ここで後者の文が、例えば、 I know (∃x((John knows that x is making the mess) ∧ (I=x))) とパラフレーズされるとします。ここで、このパラフレーズを前者の長い文の 埋め込まれた文へ適用すると次が得られます。 I know that John knows that I know (∃x((John knows that x is making the mess) ∧ (I=x))). ここでは、I=x が John knows that の作用域内に入ってしまっています。 それゆえ同一の文--I know that John knows that I am making the mess--が、 埋め込まれた場合とそうでない場合で、異なる仕方でパラフレーズされなければ ならないことになります。 φ先生が「問題ごとに個別に少しずつ修正してゆけば」とおっしゃられるのは、 以上のような単純な適用ができないという点を念頭に置かれているのだと思われます。 というわけで--自己的信念の埋め込みについてはいろいろと疑問があるのですが-- さしあたり次の点で何か思いつきましたらご助言いただけますか。 問い: I know that John knows that I know that John knows that I am making the mess.という 文に埋め込まれた文‘I know that John knows that I am making the mess.’へ それが埋め込まれてない場合と同じ解釈を割り当てうるような‘I know that John knows that I am making the mess.’の解釈法はありうるのか。 言い換えれば‘I know that John knows that I am making the mess.’へ、 埋め込まれた場合にもそうでない場合にも、統一的な解釈を与える方法はあるのか。 ひょっとするとないのかもしれません(でしたら、申し訳ないです)。 自分自身の疑問点をあまり明確にできなくて申し訳ないですが、 何か思いつきましたら、よろしくお願いします。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2010年 1月19日(火)01時32分15秒 . > No.2406[元記事へ] キリーロフさんへのお返事です。 > >他方で‘John’は埋め込まれた‘I’を「三人称的に」 > 解釈します(というのもジョンにとっての「私」と私にとっての「私」は > 異なりますので)。 > @ ∃x(I know (John knows that x is making the mess ∧ (I=x))) というようなパラフレーズでは不都合ですか? A ∃x(I know (John knows that x is making the mess) ∧ (I=x)) でもまあまあよさそうですし。 あるいは、 B I know (∃x((John knows that x is making the mess) ∧ (I=x))) 全体の主張者がIである限り、上の3つのパラフレーズのどれでも大して差はないように感じられます。 これらのパラフレーズはあまりに機械的なので、これでは解けない問題があるのだと思いますが、たとえばどんな文脈でその問題が生ずるのでしょう? 問題ごとに個別に少しずつ修正してゆけば、満足のゆく解に辿り着きそうですが……、 > > もし埋め込まれた‘I’がジョンを基準として「三人称的に」解釈されるならば、 > 第一の‘I’にとっても埋め込まれた‘I’は「三人称的に」解釈されなければ > ならないのではないか。言い換えれば、埋め込まれた‘I’を「一人称的に」 > 解釈する術はないのではないか(私たちは埋め込まれた‘I’を「一人称的に」 > 解釈したくなるにもかかわらず)。 > 上の論理式で、I=x が John knows that の作用域内に入ってさえいなければ、さしあたり問題は生じないと思われます。埋め込まれたIは I know の対象としては一人称で(Aでは必ずしもそうではないが)、John knows that の対象としては単なるxです。 ともあれ、難物の文脈をお示しいただければ、一つ一つ考えてゆきましょう。 (無題) 投稿者:追加の追加 投稿日:2010年 1月18日(月)18時52分51秒 . 実際は、やむなきこともあったと思われ。 ちょっと意味を組み替えて説明する。 搾取<暴力<支配<搾・・・ 搾取への怒りが暴力を生み、暴力への怒りが支配を生み、 無限に回転することになる。 そこで、現時点ではこう解釈している。 栄誉−平等−搾取 浪漫−自由−暴力 理想−友愛−支配 三つとも右辺から左辺へと流れるのが自然の理であると。 ただ、この考え方も発展性にとぼしく、別の手法が求められてきている。 と、いう事でアイデア募集中。 (無題) 投稿者:キリーロフ 投稿日:2010年 1月17日(日)01時35分23秒 . φ先生、お久しぶりです。キリーロフです。 (先生のコメントを半年も放置してしまい、非常に申し訳ないです。 いろいろと忙しい境地へ追い込まれたのですが、すみません) 2009年 8月 7日に私は以下のように書き込みました。 >> φ先生のアイデアを聞きたく、書きこませて頂きます。 現在、自己知を含む知識の埋め込み文をどのように理解してよいのか 悩んでいます。例えば次のような例です。 I know that John knows that I am making the mess. 真理条件すらよく分かりません。 よく知られているように、自己知文とその三人称的パラフレーズは同値ではありません。 例えば I know that I am making the mess. と I know that Kirilov is making the mess. は同値ではないです(私が自分がキリーロフであることを知らない場合など)。 ここで I know that John knows that I am making the mess. において‘I’がオペレータ‘John knows that’をまたいでいる点が悩ましいです。 どう理解したらよろしいでしょうか。 >> これに対してφ先生は「自己知の埋め込み文に特有の難しさ(通常の 知識にはみられない難しさ)があるとしたら、どのようなところか」と尋ねられました。 もっともなご質問です(というのも私の上の文章ではこの点が明確になっていません でしたので)。私の考える「自己知の埋め込み文に特有の難しさ」は次です。 ‘I know that John knows that I am making the mess.’において、 第一の‘I’は埋め込まれた‘I’を「第一人称的に」解釈しなければなりません。 なぜなら--上で述べられたように--自己知文とその三人称的パラフレーズは 同値ではないからです。他方で‘John’は埋め込まれた‘I’を「三人称的に」 解釈します(というのもジョンにとっての「私」と私にとっての「私」は 異なりますので)。 かくして、埋め込まれた‘I’の解釈が‘John’と第一の‘I’とでズレてしまいます。 私の疑念は以下です。 もし埋め込まれた‘I’がジョンを基準として「三人称的に」解釈されるならば、 第一の‘I’にとっても埋め込まれた‘I’は「三人称的に」解釈されなければ ならないのではないか。言い換えれば、埋め込まれた‘I’を「一人称的に」 解釈する術はないのではないか(私たちは埋め込まれた‘I’を「一人称的に」 解釈したくなるにもかかわらず)。 どう考えればよいでしょうか(私の説明は十分だったでしょうか?) (無題) 投稿者:追加 投稿日:2010年 1月12日(火)17時36分34秒 . 三宝 仏 法(欲望、恐怖、愛情) 僧 ↓ 六道 天 人 修羅 畜生(欲望)、地獄(恐怖)、餓鬼(愛情) 結局、仏教は脱釈迦の歴史をたどることになった。 投稿者:関係ないかもしれないけど 投稿日:2010年 1月 7日(木)17時59分56秒 . 欲望<恐怖<愛情<欲・・・ これが回転することによって自我が形成される。 と、考えている。 |