三浦俊彦のページ |
|
無料掲示板は一定の件数を越えると削除されていきます。そこで、古い書込は、電子掲示板の「過去ログ」としてここに掲載します。(新しい記事から古い記事の順番となっています。) (無題) 投稿者:乱層雲 投稿日:2009年12月31日(木)22時43分21秒 返信・引用 このようにSN 12.61はきわめて重要な経典なので、以下に要文を記しておきます。 比丘たちよ、わたしの教えを聞かない凡夫たちも、この四大[地水火風]所造の身については、 厭いの心を生じ、厭い離れて、解脱したいと思うこともある。 それは何故であろうか。 比丘 たちよ、それは、彼らもまた、この四大所造の身については、栄枯盛衰を見るからである。 だからして、わたしの教えを聞かない彼ら凡夫たちも、また、厭いの心を生じ、厭い離れて、 解脱したいと思うのである。 比丘たちよ、だが、彼らは、この心とも呼び、意とも呼び、また識とも称するものについては、 厭いの心を生ずることなく、厭い離れることもなく、解脱することも能わないのである。 それは 何故であろうか。 比丘たちよ、それは、わたしの教えを聞いたことのない彼ら凡夫たちは、いつ までも、愛著にとらわれて、〈これはわが所有(もの)である、これは我である、これはわが本質で ある〉と取著するからである。 比丘たちよ、わたしの教えを聞いたことのない凡夫たちが、この四大所造の身を〈我〉であると するのは、なお、心をもって〈我〉となすよりも、よほどましである。 それは何故であろうか。 比丘たちよ、この四大所造の身は、この世にあって、一年存し、二年存し、三年存し、四年存し、 五年存し、さらに、十年存し、二十年存し、三十年存し、四十年存し、五十年存し、あるいは、 百年存し、さらにながく存続することもあるであろう。 比丘たちよ、されど、この心とも呼ばれ、意とも呼ばれ、また識とも称せらるるものは、日ごと 夜ごとに転変して、生じてはまた滅する。 比丘たちよ、たとえば、猿は、森の中を徘徊して、一つの枝を捉えるかと思えば、またそれを 放して他の枝を捉える。比丘たちよ、それとおなじく、この心とも呼ばれ、意とも呼ばれ、また 識とも称せられるものも、日ごと夜ごとに転変して、生じてはまた滅する。〔SN 12.61〕 (増谷文雄『阿含経典』第1巻 筑摩書房) 前後の段落を省略しました。このあと、縁起の説法へと続きます。下記で英文の全訳が読めます。 http://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn12/sn12.061.than.html 以上、長々と失礼しました。 (無題) 投稿者:乱層雲 投稿日:2009年12月31日(木)22時41分45秒 返信・引用 〜〜〜つぎに、身心のうち、初期仏教では心をどうとらえるか。それには認識論から入っていく必要があります。 > 眼と色とに縁(よ)りて眼識を生ず。三事和合して触あり。触と倶(とも)に受想思を生ず。(『大正新脩大蔵経』第2巻 p.72) 要するに、目と見られるものがあって、目による識別が起こる、と。 認識という心の作用も、それ単独で存在するのではなく、感覚器官と感覚対象の縁から生じるのだ、 という縁起の観点が肝腎なところですね。 こういう縁起観によって、「触―受―想―思等の一々は個々の心作用でありつつ、それが心そのもの であって、作用のほかに心の主体(とくに外教の如き本体)は考えられていない。」(「原始仏教に おける心」『水野弘元著作選集』所収)というように、実体としての「心」を措定せず、心を縁(に より生)起した心理作用ととらえることにもつながります。 〜〜〜以上の理解を踏まえた上で、初期仏教の輪廻観を考察すると、 (1) “衆生”が輪廻する。 SN 1.6.5, SN 15.1 (cf. 沙門果経のゴーサーラ説) (2) “衆生”は五蘊仮和合である。 SN 5.10 (3) 身はおよそ100年後までには滅するが、心(識)は昼夜に生じては滅する。 SN 12.61 1・2・3から導き出せるのは、“衆生”の構成要素である「心(識)」が昼夜に生起と壊滅を 繰り返しており、したがって、構成要素の総体である通念・仮称等としての“衆生”も、 日夜、新たなものと成っている、ということです。 仏教ではこれが勝義(真実の意味)で「輪廻」と呼びうる事態であり、 色(身体)の死を待って初めて起こることではない、ということになるでしょう。 それだからこそ、スッタニパータ(771、855、916、933)で「つねに気をつけて」と説かれ、 また下記の「一日賢人偈」が説かれるのでしょう。 『ゴータマ・ブッダ(人類の知的遺産)』より > 人は過去を追ってはならぬ。未来を願ってはならぬ。 > およそ過ぎ去ったものは、すでに捨てられており、また未来はまだやって来ていない。 > そこで、知者は現在のことがらをいたるところで正しく観察し、 > 揺るがず動かずして、それを修習すべきである。 > 今日こそ、なすべきことを熱心になせ。だれが明日、死の訪れることを予知できようぞ。 > けだし、人はだれでも死魔の大軍と戦わないということがないからである。 > 熱心にして、昼夜に怠らずに住するこのような人、 > 実にかれを善き聖者たちは“一日賢人”とたたえる。 (無題) 投稿者:乱層雲 投稿日:2009年12月31日(木)22時40分37秒 返信・引用 〜〜〜さて、周知のように仏教では人を身心の構成要素、五蘊(ごうん、色受想行識)で説明します。 パーフィット『理由と人格』、大森荘蔵『流れとよどみ』、廣松渉『哲学入門一歩前』等の記す ミリンダ王の車問答では、尼僧ヴァジラーの詩が引用されます。 (以下、SNはパーリ大蔵経の相応部のことで、数字は経典の番号です) > なぜ「衆生」というものを認めるのか?魔よ、汝は(悪しき)見解に陥っている。 > これ[衆生]はただ諸行の集合であり、ここ[諸行の集合]に衆生は認められない。 > 実に部品の集まりから「車」という語が起こるように、 > そのように、諸々の構成要素[=五蘊]が存在するところに「衆生」という通念が起こるのである。 > 実に苦のみが生じ、苦が住し[=とどまり]滅する。 > 苦のほかには(なにものも)生じない。苦のほかには(なにものも)滅しない。〔SN 5.10〕 すなわち、心身を統合したものを、「日常的な意味」での「人物」、「共同体の中の約束事」 (『可能世界の哲学』p.97)として「衆生」「私(cf. SN 22.89, SN 1.3.5)」と呼んでいるわけです。 〔如来に関しては、五蘊の根が断たれており、五蘊で示すことはできない、とします。SN 44.1〕 仏教的には、人物(person)を心(mind)身体(body)でとらえる点は哲学の「身心問題」と 共通ですが、「同じ、異なる」という同一性(identity)という切り口でなく、冒頭の無常偈(げ)に あるように、「生じる、滅する」という点が関心の的になっていると思います。 「生じる」と「滅する」の間を「住異(とどまること、変化すること)」とは見ますが。 ちなみに、バラモン教などの外教で実体と思ってアートマンと称しているものも、実は、 この五蘊についてアートマンだと思いなしているに過ぎない、とします。 「若沙門婆羅門計有我、一切皆於此五受陰計有我。」(『大正新脩大蔵経』第2巻 p.16) ――もしも自由思想家・祭官が〈我がある〉と思いなすときは、すべて、五蘊において〈我がある〉と思いなしているのだ。 (無題) 投稿者:乱層雲 投稿日:2009年12月31日(木)22時39分24秒 返信・引用 除夜の鐘。 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽 ――諸行[形成される諸々の事物]は実に無常であり、生起・壊滅の性質をもつ。 生じては滅するのであり、それらの静められることが安楽である。 生じた物事は滅する、と。すなわち、身体も滅し、心も滅する。 では、それぞれいつ滅するのでしょうか。 回答は下記(3)。 〜〜〜昨年の七夕以来です。過去ログ「2008年 2月 6日(水)01時22分17秒」の議論を受けていますが、 初期仏教の観点から見た「輪廻転生」や「私(と言っても、自意識としての"私"でなく、 人物・自称としての)」もご参考になるかと思い、書き込ませていただきました。 結論的には、 http://homepage1.nifty.com/t-watanabe/academic_meeting_4.htm > 生死には時間が前提されているが、流れる時間というものはなく、「今」しか存在しない。その意味では、私は一瞬ごとに死んでいるともいえる。 http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20091201.html > 太田:そうですよね。そういうことで言うと、僕は毎日死んでいると思うんですよ、ある意味。昨日のおれはもういないだろうっていう考え方ですよね。 といった感じになります。 Re: 斉一性原理 投稿者:φ 投稿日:2009年12月10日(木)15時17分10秒 返信・引用 > No.2398[元記事へ] BTXさんへのお返事です。 御懸念の事柄は、私が『可能世界の哲学』第30節で心配し、人間原理に訴えて暫定的に「解決」した事柄と基本的には同じなのでしょう。 しかしもちろん、おっしゃるとおり、サイコロが突然角砂糖に変化するような状況は、人間原理的に除外されるわけではありませんね。 人間の脳の機能に影響ない範囲で、感覚的に捉えられる変化だけが起こればよいのですから。 様相実在論では、サイコロが突然角砂糖に変化しない理由はありません。 私は『多宇宙と輪廻転生』で様相実在論を信じない方へ方向転換しましたが、人間原理に抵触しないようなマイナー変化や心霊現象・超能力などの不在は、究極法則が論理法則ではなく物理法則であることを強く示唆しており、様相実在論を否定するもう一つの根拠になるでしょう。 ただし様相実在論の否定は、多宇宙を否定する根拠にはなりません。 論理的に可能な宇宙がすべて実在するというのがたとえ偽でも、物理的に可能な(M理論であれ何であれ根本法則が許すような)宇宙がすべて実在する、というのは真かもしれません。たぶん真でしょう。 M理論によると、10の五百乗の物理法則が現実にどこかで成り立ち、それぞれの物理法則ごとに、歴史的に分岐する無数のビッグバンが対応するそうですが、 そうした超膨大な諸宇宙のほとんどは、人間原理とは別の理由で、斉一的な宇宙であると思われます。(すなわち、サイコロが角砂糖に急変することは起こらない宇宙) なぜなら、宇宙の歴史を作るもとになる法則の変異(多様性)は、基本的なレベルの変更に関わり、サイコロ、角砂糖、惑星、岩石のような派生的な揺らぎに直接働きかけるわけではないからです。 紐でも膜でもいいですが、そうした基本的な実在には、ありとあらゆるマイナー変更が許されるでしょう。他方、サイコロ、角砂糖などは基本的実在から何段階も経て派生した偶然の産物ですから、その一部だけを詳細にいじるような変更は物理法則の与り知らぬことのはずです。 重力は紐や膜から1〜2段階を経ただけのかなり基本的な実在でしょうから、紐や膜の変化の痕跡を残す形で、微差の揺らぎは可能だと思われます。 サイコロや角砂糖のような表層的な産物については、揺らぎに恣意的な変更が施されるような仕方では物理法則は働きえないはずです。 ドーキンスが遺伝子の働きについて言ったことを借用すると、 物理法則が宇宙を作るのは、設計図で家を造るようなことではなく、レシピによってパンを焼くようなことでしょう。レシピをいくら変更しても、焼き上がったパンの表層に偶然できた色むらは常になだらかに変化し、定規で引いたような激変は起きにくいはずです。 もちろん、定規で引いたような激変も確率ゼロではありませんから、サイコロが1秒後に角砂糖に変化するように原子が再配列することもありえます。しかしその確率は極小で、M理論のもとでそのような宇宙に私たちがいる確率はほぼゼロでしょう。 > > 私は、その考えから、意識は既に「ちゃんと "ある未来" から辿れた道筋」にだけ降りて来て > それを「再認識する」方法でしか再生されないのではないかと考えました。 > 例えば、シミュレーション・アーギュメント上のシミュレーターが > 「意味ある道筋のトレース」を興味本位で頻繁に再再生を繰り返すことが > 「斉一性のある世界上の意識」の人間原理的母数を増やしているとか… > 本当に「見通している」ものがいるという仮説です。 > そんなメカニズムも特に必要ないのでしょうか。 私は必要ないと思います。 宇宙生成シミュレーターは、アニメーターのように仕事するのではなく、プログラマーのように仕事するのだからです。 表層に関わるアニメーターや設計技師ならば、部分的なディテールを激変させるような仕掛けを恣意的にいくつでも設定できます。しかしプログラマーは深層の変更しか行ないません。表層がどうなるかは偶然の歴史によるので、定規で引いたような断層は生じにくいはずです。 表層のディテールをそのつど作ってゆくような宇宙制作よりも、深層の設定だけおこなってあと自動的偶然的に大量生産する宇宙制作の方が能率的であることは明らかです。また、面白い宇宙が生まれる可能性も高くなります。(将棋で一手一手考える棋士よりはるかに棋力の低いブログラマが、棋士より強い将棋ソフトを生み出せるように) サイコロが角砂糖に急変するような宇宙に私たちがいないのは、物理法則が小説家やアニメーターではなく、プログラマーであるという事実から帰結することではないでしょうか。 (逆に言えば、私たちの日常世界は、基本プログラムからの派生物の派生物の派生物の……、といったごく偶然の揺らぎにすぎないという、人間原理的な認識に帰着します) 斉一性原理 投稿者:BTX 投稿日:2009年12月10日(木)00時38分23秒 返信・引用 サイコロにコーヒーカップを被せて「エイッ」と唱える。 その瞬間に別に意識は「今までの斉一性が壊れてサイコロが角砂糖に変わっている世界」にきていても良いはず。 しかし開けてみるとサイコロはサイコロのままだった。 しかし出現した角砂糖を見て最終的にそっちの世界で頭が狂ったとしても、 サイコロとコーヒーカップの物理分析をして はっきりと「これは絶対におかしい」と論理的に認めるまでは 意識は生き残りそうに思ってしまいます。 脇道は無数にありそうですが。 今まさにコーヒーカップを開けたあとの 10.0 秒後時点にいるとします。 このときは、いきなり出現した角砂糖を見つめたまま、 まだそれが本当の物理法則の破綻ではないかと確かめている最中の意識と、 やっぱりサイコロが出て「まあそうか〜」と思っている最中の意識は、 人間原理に裁かれるほどどちらも主体的論理破綻には陥っていないと思うのですがいかがでしょうか? その時点で既に人間原理はサイコロを見つめる方に意識を集め始めているのでしょうか。 それだと、角砂糖が出た方の世界に行った意識が主体的論理破綻に陥ることを 人間原理はすでに見通してしまっているように思えます。 私は、その考えから、意識は既に「ちゃんと "ある未来" から辿れた道筋」にだけ降りて来て それを「再認識する」方法でしか再生されないのではないかと考えました。 例えば、シミュレーション・アーギュメント上のシミュレーターが 「意味ある道筋のトレース」を興味本位で頻繁に再再生を繰り返すことが 「斉一性のある世界上の意識」の人間原理的母数を増やしているとか… 本当に「見通している」ものがいるという仮説です。 そんなメカニズムも特に必要ないのでしょうか。 Re: 重力定数? 投稿者:φ 投稿日:2009年12月 1日(火)00時19分8秒 返信・引用 > No.2395[元記事へ] 余無さんへのお返事です。 > > それはそれでありうると思いますが、その場合、私たちの意識は、人間原理的制約の破れない宇宙へ飛ぶので、主観的には、斉一性が成り立っているように見えます。 > > この言及はエヴェレット的な並行宇宙仮説にのっとっているのでしょうか? > そうです。 私たちの意識も、日々、多数の宇宙にまたがって持続してきており、現に経験している事柄と矛盾した経験を強いる諸宇宙や、経験を妨げる諸宇宙は次々に分離してゆくわけですから、我々は常に斉一性を経験することになります。 > > 重力定数 G=6.67259 × 10^-11 (MKS単位法の場合) なので、 > 仮に 0.0001 = 10^-4 の差異が生じるとなると、10^7倍だけの質量がそこに生じるので、地球のクラッシュまではいかないでしょうが、地殻変動、対流による異常気象を引き起こすには十分かと思われます。 > 「0.0001 だけ変化する」というのを、私は、「1.0001倍になるか、0.9999倍になるか、いずれかが起こる」と解釈しました。 単位が書いてないのですから、そのような読みが自然ではないでしょうか。 重力定数? 投稿者:余無 投稿日:2009年11月30日(月)18時37分18秒 返信・引用 お久しぶりです。 > それはそれでありうると思いますが、その場合、私たちの意識は、人間原理的制約の破れない宇宙へ飛ぶので、主観的には、斉一性が成り立っているように見えます。 この言及はエヴェレット的な並行宇宙仮説にのっとっているのでしょうか? > 「1秒間だけコカコーラの空き缶についての重力定数が 0.0001 だけ変化する」くらいのことは起きてもおかしくないと思いますよ。 > つまり、検出されていないだけで、実際に起きているのではないでしょうか。 重力定数 G=6.67259 × 10^-11 (MKS単位法の場合) なので、 仮に 0.0001 = 10^-4 の差異が生じるとなると、10^7倍だけの質量がそこに生じるので、地球のクラッシュまではいかないでしょうが、地殻変動、対流による異常気象を引き起こすには十分かと思われます。 変異があるとすれば、プランクレベルの揺らぎくらいではないでしょうか? 1秒間では長すぎます。 むろん、意識の転移で、そのことを知覚しないまま過ごすのでしょうが…。 上げ足を取るような発言ですみませんでした。 http://ameblo.jp/coredumped-turing/ Re: 斉一性原理が壊れないのはなぜでしょうか 投稿者:φ 投稿日:2009年11月17日(火)02時26分41秒 返信・引用 > No.2392[元記事へ] BTXさんへのお返事です。 > > たとえば、今から1秒間だけコカコーラの空き缶についての重力定数が 0.0001 だけ変化するとか。 > それなら議論する私たちの前提を崩さないままで斉一性は部分的に壊れている世界、ということになります。 > 私たちはなぜ、そういう世界には行かないのでしょうか。 > 「1秒間だけコカコーラの空き缶についての重力定数が 0.0001 だけ変化する」くらいのことは起きてもおかしくないと思いますよ。 つまり、検出されていないだけで、実際に起きているのではないでしょうか。 その変化が検出できるほど大きくなると、人間原理的な制約が破れてしまい、こういう問いを問う主体がいなくなります。 それはそれでありうると思いますが、その場合、私たちの意識は、人間原理的制約の破れない宇宙へ飛ぶので、主観的には、斉一性が成り立っているように見えます。 つまり、斉一性は見かけ上のものであり、客観的にはたえず破れている可能性が高いと思われます。 人間原理的制約を超えて破れたとたん、私たちの意識は斉一性を保つような分岐を選んで存続するのでしょう。人間原理的制約内なら、そのまま同じ宇宙にいてよいのですが。 原因なければ結果なし 投稿者:通行人 投稿日:2009年11月16日(月)22時53分59秒 返信・引用 > No.2392[元記事へ] BTXさんへのお返事です。 >私が「1秒後には重力定数は変化しない」と予言することができ、 >それは必ず当たるでしょう。これはなぜなのでしょうか? 変化する理由がないからでしょう。 >私たちはなぜ、そういう世界には行かないのでしょうか。 行く理由がないからでしょう。 斉一性原理が壊れないのはなぜでしょうか 投稿者:BTX 投稿日:2009年11月16日(月)01時45分38秒 返信・引用 物理法則などはいつまでも変わらず在ります。 1秒後に重力定数が変化する未来も考え得る中で、 私が「1秒後には重力定数は変化しない」と予言することができ、 それは必ず当たるでしょう。これはなぜなのでしょうか? いつまでも変わらず在るものを事後的に斉一性と呼ぶのだ、ということはできます。 人間原理的に言えば、斉一性が成り立たないような未来に行った時には、 それこそ議論なんかしている場合ではないでしょう。 だから、議論が行われるのは必ず斉一性原理が、物理法則が、 今も変わらず成り立ったときであって、 そこしか観測し得ないのだからそうなるのは当たり前、とは言えます。 でも、議論の前提が崩れないままで斉一性が崩れる世界も考えられます。 たとえば、今から1秒間だけコカコーラの空き缶についての重力定数が 0.0001 だけ変化するとか。 それなら議論する私たちの前提を崩さないままで斉一性は部分的に壊れている世界、ということになります。 私たちはなぜ、そういう世界には行かないのでしょうか。 意識は未来の斉一性が壊れていない世界線上に沿ってしか生じないなど、 何かうまいからくりがあるのでしょうか。 Re: 矛盾は成立しえない? 投稿者:φ 投稿日:2009年11月 4日(水)04時48分46秒 返信・引用 > No.2386[元記事へ] だいさんへのお返事です。 > > しかし、事象や概念としてはあらゆる所に相反したものが混在して成立していますよ。 > それが真であれば、「相反したものが混在して成立することはない」は偽となります。矛盾律ゆえに。 > > 白か黒かではなかなか割り切れないものです。 > それが真であれば、「白か黒かですべて割り切れる」は偽となります。矛盾律ゆえに。 > >感覚的でかつ論理的な場合も存在します。 > それが真であれば、「感覚的でかつ論理的な場合は存在しない」は偽となります。矛盾律ゆえに。 ちなみに、「感覚的」と「論理的」は互いに矛盾していませんよね。むしろ感覚の鋭い人だけが論理的になれるという傾向が強いでしょう。 > > 最強の矛と、最強の盾。本当にどちらも最強であるならば、 >その矛でその盾をついても互角で、勝負がつかないでしょうね。 > 通行人さんの言われるとおり、「勝負がつかない」の意味が確かに不明ですね。 勝負がつかないように見える場合は、とりあえず盾の勝ち。矛が最強というのが偽だったのです。 そのロジックについては、『論理サバイバル』問076を参照していただければ幸いです。 Re: 矛盾は成立しえない? 投稿者:通行人 投稿日:2009年11月 3日(火)10時18分43秒 返信・引用 > No.2386[元記事へ] だいさんへのお返事です。 こんにちは 突然割り込んで申し訳ありませんが、教えていただきたいことがあります。 >最強の矛と、最強の盾。それらは同時に存在していますからね。本当にどちらも最強であるならば、その矛でその盾をついても互角で、勝負がつかないでしょうね。 「最強の矛」「最強の盾」の「最強」とは、どのように「最強」なのでしょうか? 「その矛でその盾をついても互角で、勝負がつかない」 というのは具体的にどのような状況なのでしょうか? イメージがまるで湧かないので是非お教え下さい。 Re: 矛盾は成立しえない? 投稿者:だい 投稿日:2009年11月 3日(火)04時14分24秒 返信・引用 > No.2174[元記事へ] 矛盾はlogicとしては、言語上は成立しない。(あえて可能性を残して、成立しにくいとしましょうか。)もしくは説得力に欠けるでしょう。突っ込みどころがあるというわけですから。 しかし、事象や概念としてはあらゆる所に相反したものが混在して成立していますよ。 白か黒かではなかなか割り切れないものです。例えば、ある人が、「自分は感覚的だから」といって、その人が論理的ではないという結論には至りません。感覚的でかつ論理的な場合も存在します。 最強の矛と、最強の盾。それらは同時に存在していますからね。本当にどちらも最強であるならば、その矛でその盾をついても互角で、勝負がつかないでしょうね。 Re:Re 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月16日(金)00時32分39秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 > 肉体もしくは記憶の連続性というのが「私」の同定の最優先基準、と考えたいと思います。 > その連続性が追跡できる場合は、他の基準に優先して、同一の「私」と認められるでしょう。 >「私」という概念の根本が、記憶もしくは肉体の連続性ですから。 > 肉体と記憶の連続性がともに欠けている場合は、同一の「私」であることが保証されはしません。 >他者の存在を容認するかぎりにおいて、時間的に重なる別個の意識は、別個の主体であるとすべきでしょう。 >この根拠は、他者という概念の論理によるとしか言いようがありません。 > むろん、「他者」の存在を認めない、つまり「意識」という概念と「自己」という概念が同一だと考えるならば、 >時間的に重なる別個の意識も、当然、同一の「私」に属しますね。 > しかし、「意識」という概念と「自己」という概念が同一というのはどう考えても無理だと思います。 >「他者」という概念は空ならざる外延を持ち、それゆえ、 >他者の存在を容認する「私」の同定基準をとらねばなるまいと思うわけです。 なるほど。肉体や記憶で「私」を同定できない場合、同じ瞬間に存在する者同士が同じ「私」であってもよいということになれば、全ての主観的経験が同じ「私」に属することを否定する根拠がなくなり、「外延を持つ他者」という概念も空虚になる、だから他者という概念を認める以上、少なくとも同じ瞬間に存在する者同士は同一人物であってはならない、ということですね。 人口の増減の微妙な振動から、刹那転生を採用せざるを得ないのではないか、と以前から思っていた私にとって、光円錐の内外表面間の輪廻転生+公理A(あるいは公理Aが定理であるような時間の形而上学の立場)で刹那転生を回避できることは朗報でした。教えていただいたページの通り、刹那転生の倫理的含意は重大ですから。 ただ、記憶も肉体も連続しないのでこう言ってよいのか分かりませんが、輪廻転生は実際の現象のことなので(実際、私は死んだらどうなるのだろう。生まれる前はどうだったのだろう)、経験から確率的に刹那転生を否定できたりしたらなお良かった気もします。 とりあえず、自分の気になっていたことは解消しましたので、一旦この掲示板を去らせていただきます。今回も解答していただき、ありがとうございました。 Re: 記憶、肉体的連続性のないタイムトラベルと、普通のタイムトラベルの違いについて 投稿者:φ 投稿日:2009年10月14日(水)03時18分50秒 返信・引用 > No.2382[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 > > そもそも、時間を虚妄と考えない場合、タイムマシンで未来の自分と話すことは許され(対峙している二人は同一人物)、蝉とφさんが同一人物であってはならない理由はなんでしょう。後者のパターンにおいても、「私」が分裂するわけではなく、いま蝉である「私」の、(経験の順番的な)未来あるいは過去が、いま φさんである「私」ということではだめなのでしょうか。 > 肉体もしくは記憶の連続性というのが「私」の同定の最優先基準、と考えたいと思います。 その連続性が追跡できる場合は、他の基準に優先して、同一の「私」と認められるでしょう。「私」という概念の根本が、記憶もしくは肉体の連続性ですから。 肉体と記憶の連続性がともに欠けている場合は、同一の「私」であることが保証されはしません。他者の存在を容認するかぎりにおいて、時間的に重なる別個の意識は、別個の主体であるとすべきでしょう。この根拠は、他者という概念の論理によるとしか言いようがありません。 むろん、「他者」の存在を認めない、つまり「意識」という概念と「自己」という概念が同一だと考えるならば、時間的に重なる別個の意識も、当然、同一の「私」に属しますね。 しかし、「意識」という概念と「自己」という概念が同一というのはどう考えても無理だと思います。「他者」という概念は空ならざる外延を持ち、それゆえ、他者の存在を容認する「私」の同定基準をとらねばなるまいと思うわけです。 > > (1)…蝉→A氏→蝉の転生が許されるのならば、2つの宇宙と、それぞれに1人の観測者さえあれば、「私」の経験の履歴は永久に続き得る。 > もしも、時間の流れの客観性、つまり「唯一の今」の移動を認めるならば、一度過ぎ去った時刻に戻ることはできません。したがって、蝉→A氏→蝉という逆戻りが出来るとするためには、時間の形而上学において特定の立場をとる必要があるでしょう。 > > (2)…1つの宇宙の中で、厳密に誰かが死んだ瞬間に誰かが生まれるということはまずないだろうから、 >ある肉体として死んだ「私」の次の転生先が、その肉体と同じ宇宙であることもまずない。 > 一つの宇宙の中でも、光円錐の表面上に位置する関係であれば、あるいは内と外に分かれる関係であれば、同時と認定してかまいませんから、「ある肉体として死んだ「私」の次の転生先が、その肉体と同じ宇宙であること」は可能でしょう。この宇宙は、そのくらいには十分広いのですから。 記憶、肉体的連続性のないタイムトラベルと、普通のタイムトラベルの違いについて 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月14日(水)00時24分54秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 >この分野の文献は、『多宇宙と輪廻転生』に挙げたもの以外では、 >そしてその中でも、問題一挙解決的な快挙はまだなされていません。 > ただ、刹那転生に繋がる世界観については、 >渡辺恒夫『輪廻転生を考える――死生学のかなたへ』(講談社現代新書)は絶対の必読書でしょう。 ご紹介いただいた本は、『時間幻想』第二部やφさんの御著書も併せ、時間を見つけて読んでいきたいと思います。 では今は、私の質問がそれらの本やこのサイト内の文章をなぞるだけのものでしたら、その時はその旨をお知らせください。 >タイムマシンの場合は記憶と肉体の連続性が確保されていて、 >かつ経路を無矛盾にたどれるので、同定基準がしっかりしており、 >「過去や未来の自己へと折れ曲がる曲線的履歴」は認めることができます。が、 >記憶も肉体も連続しない場合に限っては、公理Aを有効たらしめるのは不合理ではありません。 そもそも、時間を虚妄と考えない場合、タイムマシンで未来の自分と話すことは許され(対峙している二人は同一人物)、蝉とφさんが同一人物であってはならない理由はなんでしょう。後者のパターンにおいても、「私」が分裂するわけではなく、いま蝉である「私」の、(経験の順番的な)未来あるいは過去が、いま φさんである「私」ということではだめなのでしょうか。 ちなみに、多宇宙間転生の輪廻観は次のような結論を導くように思いました。 (1)…蝉→A氏→蝉の転生が許されるのならば、2つの宇宙と、それぞれに1人の観測者さえあれば、「私」の経験の履歴は永久に続き得る。 (2)…1つの宇宙の中で、厳密に誰かが死んだ瞬間に誰かが生まれるということはまずないだろうから、ある肉体として死んだ「私」の次の転生先が、その肉体と同じ宇宙であることもまずない。 Re: 経験の履歴と物理的時間 投稿者:φ 投稿日:2009年10月12日(月)18時16分42秒 返信・引用 > No.2379[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 > > しかしこの解釈に従うと、 >他の宇宙のA氏が生まれる瞬間は蝉の死ぬ瞬間に等しく、 >A氏の死ぬ瞬間は紫式部の生まれた瞬間に等しいと言えるので >(A氏にとって蝉、紫式部のいる宇宙は他の宇宙だから)、 >「私」の経験の履歴として、蝉→A氏→紫式部といったようなものが可能になるように思えます。 >さらにA氏の生まれる瞬間、死ぬ瞬間は、蝉の死ぬ瞬間、生まれた瞬間に等しいので、 >蝉→A氏→蝉といった履歴も可能になりそうです。 >これは「私」の経験の時間軸と物理的な時間軸が一致しない、時間を虚妄と考えた輪廻転生観ではないでしょうか。 > 互いに時間的同時関係にある者どうしが「同一人物」ということにならない限り、 時間は虚妄ではなく、個々人を縛る実在的な流れであると言えるでしょう。 光円錐の外にいるA氏を介して、蝉→A氏→蝉といった履歴が可能になるとしても、蝉→A氏→φといった履歴が禁止されるかぎりにおいて、時間は虚妄ではないと思われます。 光円錐の内から外へ、また内へ、といった転生において、蝉→A氏→φといった転生パターンを介して、対話している同時存在どうしの転生が生じそうですね。それを禁じる根拠があるかというと、確かにはっきりしませんが、いちど占めた時点においては、複数の空間を占めることはできない、という公理Aを設定することは可能でしょう。 ただしこの考えによると、転生以外の場合も、たとえばタイムマシンで過去の自分や未来の自分と同じ時刻に行くことも、論理的に出来ない、ということになりそうです。しかし実はそうではなく、タイムマシンの場合は記憶と肉体の連続性が確保されていて、かつ経路を無矛盾にたどれるので、同定基準がしっかりしており、「過去や未来の自己へと折れ曲がる曲線的履歴」は認めることができます。が、記憶も肉体も連続しない場合に限っては、公理Aを有効たらしめるのは不合理ではありません。 > > 逆に、「私」の経験の時間軸と物理的な時間軸が一致しないと考えれば、 >ゲリマンダー的「私」観も、地球人以外の知的生命も考えなくて済みそうです。 >ナポレオンとして死んだ「私」はタイムトラベルして、 >間に何者も挟まずにソクラテスや蝉として生まれればよいからです。 > 主観的には、自己が分裂していなければよいだけで、間が空いてもよいように見えます。 が、客観的には意識が存在するのに「私」がいないということがあってもよいならば、そもそも「私」は生まれないのではなく生まれてきたのはなぜか、という謎が残ってしまいます。これをなんとかするためには、客観的に意識がある限り、「私」は必ずいるのだ、という立場をとらざるをえないと私は思うのですが。 この分野の文献は、『多宇宙と輪廻転生』に挙げたもの以外では、そしてその中でも、問題一挙解決的な快挙はまだなされていません。 ただ、刹那転生に繋がる世界観については、渡辺恒夫『輪廻転生を考える――死生学のかなたへ』(講談社現代新書)は絶対の必読書でしょう。 あと… 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月11日(日)23時35分1秒 返信・引用 ふとした疑問から始まった今回の私の質問群ですが、何かの本を読めば簡単に雲散霧消する類の質問のような気もしてきました。 自分の事前知識が不足している感も否めないですし、余計なお時間をとらせるのは心苦しいので、もしそのような本をご存知でしたら、教えていただきたいのですが…。 経験の履歴と物理的時間 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月11日(日)22時44分33秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 >輪廻転生の主体が宿るのは人間だけとは限らず、むしろ知的生命全部に広げるべきでしょう。 >つまり、宇宙全体、さらには多宇宙全体を考えるべきです。 >すると、互いに光円錐の表面上もしくは外にあるものどうしは相対論的に言って >「同時」あるいは同時も同然とみなすことができますから、 >φが死ぬと同時に生まれる者、φが生まれたと同時に死んだ者は無数にいることになります。 用語に詳しくないので勘違いかもしれませんが、「蝉が生まれた瞬間、死ぬ瞬間はそれぞれ、他の宇宙の任意の知的生命の死ぬ瞬間、生まれる瞬間と等しい。」ということでしょうか。 しかしこの解釈に従うと、他の宇宙のA氏が生まれる瞬間は蝉の死ぬ瞬間に等しく、A氏の死ぬ瞬間は紫式部の生まれた瞬間に等しいと言えるので(A氏にとって蝉、紫式部のいる宇宙は他の宇宙だから)、「私」の経験の履歴として、蝉→A氏→紫式部といったようなものが可能になるように思えます。さらにA氏の生まれる瞬間、死ぬ瞬間は、蝉の死ぬ瞬間、生まれた瞬間に等しいので、蝉→A氏→蝉といった履歴も可能になりそうです。これは「私」の経験の時間軸と物理的な時間軸が一致しない、時間を虚妄と考えた輪廻転生観ではないでしょうか。 逆に、「私」の経験の時間軸と物理的な時間軸が一致しないと考えれば、ゲリマンダー的「私」観も、地球人以外の知的生命も考えなくて済みそうです。ナポレオンとして死んだ「私」はタイムトラベルして、間に何者も挟まずにソクラテスや蝉として生まれればよいからです。 Re: 質問ばかりですが… 投稿者:φ 投稿日:2009年10月 9日(金)23時45分11秒 返信・引用 > No.2375[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 > ところで、私の考えていたような刹那転生→今、蝉としてパソコンの画面に向かって文章を書いている「私」の経験の履歴が、 >1時間前には夜勤警備員としてビルの中を見回り、 >10時間前には主婦として夕飯を作り…であり得て、 >同じ瞬間に「私」が異なる経験をしないような「私」観、輪廻観はφさんの考えと相容れないものでしょうか。 > もちろんそのような「私」の同定(ゲリマンダー的同定)も可能でしょうが、 そのためのモチーフが希薄ではないでしょうか。 すでに記憶の連続性と人格の統一性による同定基準がある以上、それが優先され、そのほかの恣意的な切り貼りによる同定基準は正当性を失うように思います。 > >誰かが死んだ瞬間に誰かが生まれる、 >ということが常に成り立つとは考えにくいですから、 > 地球上だけで考えるとそうかもしれませんね。 しかし、輪廻転生の主体が宿るのは人間だけとは限らず、むしろ知的生命全部に広げるべきでしょう。 つまり、宇宙全体、さらには多宇宙全体を考えるべきです。 すると、互いに光円錐の表面上もしくは外にあるものどうしは相対論的に言って「同時」あるいは同時も同然とみなすことができますから、φが死ぬと同時に生まれる者、φが生まれたと同時に死んだ者は無数にいることになります。 つまり、「私の恒常的な存在」を保証するための途切れのないバトンリレーは、多宇宙を考えれば保証されるのではないかと思うのです。 下の訂正です 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月 9日(金)07時42分3秒 返信・引用 少なくとも、一瞬前(一瞬後)は別人として死んだ(生まれる)ということが、起こらなくてはならないと思うのです。 ↓ 少なくとも、生まれれた瞬間でない(死ぬ瞬間でない)自分を経験している「私」が、一瞬前(一瞬後)は別人として死んだ(生まれる)ということが、起こらなくてはならないと思うのです。 質問ばかりですが… 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月 9日(金)07時35分45秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 時間を虚妄と考えず、「私」の本質は主観的経験であるならば、ナポレオンとφさんが同じ「私」であるとして、ナポレオンが死んでからφさんが生まれるまで、「私」はどこにいたのでしょうか(どんな主観的経験だったのでしょうか)。虚空に宿る「私」を認めないのならば、他の肉体に居たということでしょうか。 ところで、私の考えていたような刹那転生→今、蝉としてパソコンの画面に向かって文章を書いている「私」の経験の履歴が、1時間前には夜勤警備員としてビルの中を見回り、10時間前には主婦として夕飯を作り…であり得て、同じ瞬間に「私」が異なる経験をしないような「私」観、輪廻観はφさんの考えと相容れないものでしょうか。φさんの例えにおける、「ナポレオン」「φさん」が、「一瞬前の蝉」「この瞬間におけるφさん」であり得るような観方です。今φさんである「私」が、一瞬前の蝉の記憶も肉体も捨て、この瞬間におけるφさんの記憶や肉体を手に入れた、ということで、辻褄は合わないでしょうか。もちろんこの「私」観は、日常生活する上での「私」観とはかけ離れたものですが、形而上学的な考えをする上では、そこまで無意味とも思えないのです。 と言うのも、「「私」は過去および未来にも恒常的に存在しつづけると考」え、「私」の経験の時間軸と物理的な時間軸が一致し(形而上学的な都合で「私」を宿しうる肉体同士の相対速度が変化したりもしない)、我々が、「私」を宿しうると判断している肉体がゾンビでなく、我々の世界の都合に合わせて「私」を収容、放出してくれる魂のプールが存在しないとすれば、上の刹那転生観が現実味を持って唱えられはじめるからです。誰かが死んだ瞬間に誰かが生まれる、ということが常に成り立つとは考えにくいですから、少なくとも、一瞬前(一瞬後)は別人として死んだ(生まれる)ということが、起こらなくてはならないと思うのです。 Re: そのページでした。 投稿者:φ 投稿日:2009年10月 7日(水)04時15分16秒 返信・引用 > No.2373[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 たとえば、ナポレオンとφの主観的経験は矛盾しないので、二つが同じ心であり、同一人物であり、同じ「私」であってよいと思います。記憶を喪失し、肉体も喪失し、再び生き始めた、ということで辻褄は合っているからです。 ところが、蝉さんとφの主観的経験は矛盾するので(たとえば2009年10月6日にサンマの刺身を味わったかどうかなど)、同じ心ということはできません。よって、蝉さんがφに転生することも出来なければ、その逆も同様です。 刹那転生は、「私」の経験の最小単位が各個人を経巡って、「私」が見かけ上複数の人物であるように分裂するわけですが、同じ瞬間を別様に(相矛盾した形で)経験する瞬間どうしは、同じ「私」に帰属できないでしょう。 「私」の本質は「心」であり、「心」の本質は「意識」であり、相矛盾する意識は、同一の「私」には帰属できない、と、さしあたりそう考えるわけです。単純ですが。 もちろん、時間を虚妄と考えるならば時間を評価軸として「私」の同一性を認定することは無意味となるでしょう。しかし客観的に時間がどのようなものであれ、時間経験は意識の本質ですから、同時経験の中で相容れない意識内容が生じれば、同じ「私」ではありえないでしょう。 時間を再解釈すべきか個人的自己を再解釈すべきか、というところに輪廻転生観の鍵があるといった観察については、重久俊夫『時間幻想』第二部(pp.129-168)をご覧になるとよいでしょう。 http://members.jcom.home.ne.jp/miurat1/sigehisa-tosio.pdf そのページでした。 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月 6日(火)06時24分14秒 返信・引用 教えていただいてありがとうございました。「刹那転生はあり得ない」は、私の勘違いでした。 ところで刹那転生って、死や昏睡や忘我みたいな物理的直接的契機ではなく、非物理的契機で「私」が他の肉体に移り変わる輪廻観だと思っていたんですが、そのうえで「同時に対面している二つの心を同一視することはできない」ことと関係する理由がよくわかりません。 φさんは、刹那転生をどう定義しているのでしょうか。上の定義でなおかつ「「意識」を情報と捉えても物質と捉えても、どちらの場合も、同時に対面している二つの心を同一視することはできないので、刹那転生はあまり役立たない」とお考えでしょうか。これについては、上の引用で「心」を「私」と読み替えた私の解釈が間違いのような気もします。(教えていただいたページの▼▲3つの形而上学的前提▲▼の中に、加えてわざわざ「時間的に共存する複数の観測者は同一の「私」であることはできない。」と書いてあるので。では、「心」とは?) Re: 以前… 投稿者:φ 投稿日:2009年10月 6日(火)03時24分29秒 返信・引用 > No.2371[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 「刹那転生はあり得ない」ですか…… 心当たりとしては、 http://members.jcom.home.ne.jp/miurat/ad040407.htm 『多宇宙と輪廻転生』では「ありえない」とまで言わなかった記憶が。 「意識」を情報と捉えても物質と捉えても、どちらの場合も、同時に対面している二つの心を同一視することはできないので、刹那転生はあまり役立たないとは思っています。ただ、論理的に不可能だとは思いません。 いずれにせよ、刹那転生かその他の転生かは、記憶の連続性を認めない輪廻観をとるかぎり、概念的な同一性再解釈にすぎないので、目的に応じて自由に採用してよいと思っています。 以前… 投稿者:蝉 投稿日:2009年10月 6日(火)01時02分56秒 返信・引用 このサイトか御著書の中で、「刹那転生はあり得ない」といった意味の句を拝見した気がするのですが、その箇所を思い出せません。 よろしければ、どこに有るのか教えていただけませんか。 Re: お世話をかけます 投稿者:φ 投稿日:2009年 9月26日(土)01時47分44秒 返信・引用 > No.2368[元記事へ] エンリケさんへのお返事です。 記述理論については、ラッセルの原論文を読むのがいちばんです。 『現代哲学基本論文集1』勁草書房 それでわかりづらければ、私の 『ラッセルのパラドクス』 あるいは 『虚構世界の存在論』第4章 をご覧ください。 記述理論では通常の個物は述語と量化子に分解され、述語に対する主語の位置に残るのは論理的固有名の指示対象である「センスデータ」です。(後にそれが一般化されて「センシビリア」となります)。 センシビリアだけが特殊者であり、他のものはすべて論理的構成物(論理的虚構)です。 センシビリアを単位として、物質と心をそれぞれ構成する、というのが中性一元論で、記述理論が認識論や形而上学にまで緊密につながっているところがラッセル哲学の魅力です。 クワインの記述理論については私は実はしっかり学んでいないのですが、ラッセルの路線から全然外れていないので、まずはラッセル記述理論を押さえるべきでしょう。 > > 「通常の「個物」は特殊者ではなく論理的主語にはなりえないとする(少なくともその方向を目指す)クワイン〜記述理論」 Re: お世話をかけます 投稿者:エンリケ 投稿日:2009年 9月25日(金)10時50分55秒 返信・引用 > No.2366[元記事へ] 下記の疑問を考えていくうちで、下にあるように意味づければわかる、と思いました。 「あるものは現在フランス王である」「そのあるものは禿である」「そういうものは唯一である」という三つの命題の連言としてこのもとの文を分析した。このことによって、この文章は端的に[存在物との連関を問題にしない]偽(にせ)となり、非存在者について[存在しているかのように]語るという困難は解消した。 自然言語は何かの実在を語ってしまうけれども、記号論理学では実在を語らないので、 非実在を実在としてしまうような自然言語の問題から逃れられている、ということでしょうね。 ありがとうございました。 Re: お世話をかけます 投稿者:エンリケ 投稿日:2009年 9月25日(金)10時30分27秒 返信・引用 > No.2366[元記事へ] すみません、また来ました。 読み返したのですが、下記のような記述理論における特殊者のイメージがわきません。個物(も普遍物も)特殊者になり得ない、という構造にあるというと、特殊者になれるものはたとえば何なのだろうという、という想いなのですが。実在個物や実在普遍物ではない非実在物 を特殊者とする、ということなのでしょうか? 「通常の「個物」は特殊者ではなく論理的主語にはなりえないとする(少なくともその方向を目指す)クワイン〜記述理論」 Re: お世話をかけます 投稿者:エンリケ 投稿日:2009年 9月25日(金)07時56分58秒 返信・引用 > No.2366[元記事へ] おはようございます ご説明くださってありがとうございます。おかげさまで、理解へ一歩近づくことができます。 普遍物と個物の間の対比しか私がしていなかった、特殊についての理解ができていなかったのが、問題だったと思います。もう一度、そこのところに重点を置いて読み返してみます。 原語タイトルは「個物」なのに、たしか、「特殊者」というタイトルの章から始まっていましたね。 φさんへのお返事です。 > エンリケさんへのお返事です。 > > 『個体と主語』の該当箇所をざっと見てみましたが、 > ストローソンは、論理的主語を「個体」と呼んでいるだけで、個体となりうるものの形而上学的身分には限定を付けていませんね。 > むしろ、特殊者だろうが性質だろうが普遍だろうが、ありとあらゆるものが「個体」となり「主語」の位置を占めることができると言っています。 > 第8章もご覧ください。 > > この点で、論理的主語を特殊者に限定し、通常の「個物」は特殊者ではなく論理的主語にはなりえないとする(少なくともその方向を目指す)クワイン〜記述理論とは正反対です。 > > ストローソンは、あくまで日常言語の論理に依拠して、何でも主語になりうる、という立場のようです。 > 人工言語風に固有名を量化と述語に分解していったところで、何を述語とするかという認定基盤には日常言語の主語・述語論理があるんだろ? メタ論理はしょせん日常言語だろ? という立場ですね。 > > しかし読みづらい翻訳ですな……。 > 正直、ある程度以上長い一文はほとんどが意味不明ですよ。文法構造すら定かでない。日常言語を支持する議論なのだから、きちんとした日常言語で書いてほしかった気が。 > こういう訳文は、今だったら編集サイドから意見が付くと思いますが。 Re: お世話をかけます 投稿者:φ 投稿日:2009年 9月23日(水)15時00分4秒 返信・引用 > No.2365[元記事へ] エンリケさんへのお返事です。 『個体と主語』の該当箇所をざっと見てみましたが、 ストローソンは、論理的主語を「個体」と呼んでいるだけで、個体となりうるものの形而上学的身分には限定を付けていませんね。 むしろ、特殊者だろうが性質だろうが普遍だろうが、ありとあらゆるものが「個体」となり「主語」の位置を占めることができると言っています。 第8章もご覧ください。 この点で、論理的主語を特殊者に限定し、通常の「個物」は特殊者ではなく論理的主語にはなりえないとする(少なくともその方向を目指す)クワイン〜記述理論とは正反対です。 ストローソンは、あくまで日常言語の論理に依拠して、何でも主語になりうる、という立場のようです。 人工言語風に固有名を量化と述語に分解していったところで、何を述語とするかという認定基盤には日常言語の主語・述語論理があるんだろ? メタ論理はしょせん日常言語だろ? という立場ですね。 しかし読みづらい翻訳ですな……。 正直、ある程度以上長い一文はほとんどが意味不明ですよ。文法構造すら定かでない。日常言語を支持する議論なのだから、きちんとした日常言語で書いてほしかった気が。 こういう訳文は、今だったら編集サイドから意見が付くと思いますが。 お世話をかけます 投稿者:エンリケ 投稿日:2009年 9月18日(金)08時26分48秒 返信・引用 気長に構えてアクセスしてみます。よろしく。 哲学者はぶれるというのは、心しておかなくてはなりませんね。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 9月17日(木)02時15分4秒 返信・引用 > No.2363[元記事へ] エンリケさんへのお返事です。 『個体と主語』は内容をすっかり忘れているうえ、 実家に置きっぱなしで、手もとになく、文脈がわからないので何とも言えませんが―― 「個物」「普遍」の意味が違うのではないでしょうか。 日常言語学派は常識的な個物を個体と見なし、クワインはそうでない、という違いがあるかもしれません。 しかしべつに両者がある領域で見解一致していても不思議ではありませんね。 師弟関係はなかったかと思いますが。 哲学者個人の説は時期によってぶれるし、文脈に照らさないと引用や言及を読み違えることがありますから、 『個体と主語』を実家から持ってきたときに(たぶん一週間以内)、改めてお答えしたいと思います。 (無題) 投稿者:エンリケ 投稿日:2009年 9月16日(水)11時38分11秒 返信・引用 今日は、初めて書き込みます。 ストローソンが『個体と主語』で書いていることが整理できません。 邦訳書p237で、普遍物を主語としない立場をクワインのものだとしているのに、自分でも個物のみを主語とするべきだとしているのですから、彼とは同じ立場なのでしょうか。 クワインの記号論理学主義と比べると、自然言語の主・述二項展開論理のほうに立っている ということだけの違いでしょうか? ストローソンは彼の弟子? 論理サバリバルの問題 投稿者:ウイング 投稿日:2009年 9月 3日(木)22時35分41秒 返信・引用 早速のお返事、ありがとうございます。 早速そのページを確認してみますと 第6章で発見。 本当に助かりました、ありがとうございます!! Re: 論理サバイバルの問題 投稿者:φ 投稿日:2009年 9月 3日(木)03時33分16秒 返信・引用 > No.2360[元記事へ] ウイングさんへのお返事です。 部分と全体、というだけではすぐには察しはつきかねますが……、 真っ先に思い浮かんだのは『心理パラドクス』の072問、「合成の誤謬、分割の誤謬」ですが。 『論理サバイバル』なら第6章あたり? 論理サバイバルの問題 投稿者:ウイング 投稿日:2009年 9月 3日(木)00時27分33秒 返信・引用 すいません、論理サバイバルにて「部分と全体」についてのことが 書かれていた箇所がどうしても思い出せません…。 部分から全体はどうのこうのって書かれていたと思うのですが…。 Re: 代表性ヒューリスティクス終 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月14日(金)12時57分42秒 返信・引用 > No.2358[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 ハムさんの解釈を唯一成立させる自然な問題文は、こうでしょう。 ★ A氏は元プロレスラーの古本屋店主である。 任意の一人を選んだときにそれがA氏である確率が高いのはどちらか? 1.古本屋店主 2.元プロレスラーの古本屋店主 ★ しかしこれではもとの問題と全然違いますね。 A氏は元プロレスラーの古本屋店主、とストレートに言ってしまわず、 「A氏は筋トレを怠らず、傷跡があり、サインを求められ……」 という当初の設定なら、 問題文を★のようにしても、2.の方が確率が高いとは言えません。 なぜなら、2.は母集団が小さいので、その中にA氏が入っていない可能性も高くなるからです。 > > A氏に関する情報をたくさん書いておいて、それは答えと無関係なのだといえば、それも正解の一つだとしても、詐欺的に感じます。 > もとの問題では、問題文で「元プロレスラー」などとは一言も言っていないので、詐欺的ではありません。(すでに述べたように、現役プロレスラーや柔道金メダリストである可能性もあるので) 代表性ヒューリスティクス終 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月14日(金)09時33分59秒 返信・引用 >●A氏は元プロレスラーの古本屋店主である。 次のどちらが確率が高いか? 1.古本屋店主 2.元プロレスラーの古本屋店主 この問題は、ほとんどの人が元プロレスラーの古本屋店主と答えるでしょう。 1.(元プロレスラーの古本屋店主の集合)/(古本屋店主の集合) 2.(元プロレスラーの古本屋店主の集合)/(元プロレスラーの古本屋店主の集合) ∴1<2 ほとんどの人がこういう解釈をする問題だということです。 A氏に関する情報に価値を認めれば、こういう解釈にならざるを得ない。 A氏に関する情報をたくさん書いておいて、それは答えと無関係なのだといえば、それも正解の一つだとしても、詐欺的に感じます。 私が引っかかるのはここなのですが、この問題はここまでにしておきます。 ここに書き込むことで考えが整理できました。 先の問題を思い出して、また書き込まさせていただきます。 Re: 代表性ヒューリスティクス9 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月13日(木)13時56分32秒 返信・引用 > No.2356[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > こういう問題ならどうでしょうか? > > ●A氏は元プロレスラーの古本屋店主である。 > 次のどちらが確率が高いか? > 1.古本屋店主 2.元プロレスラーの古本屋店主 えーと、何度も同じ指摘をさせていただくのも心苦しいですが、 ↑この場合も、 A氏が古本屋店主である確率は、1/(古本屋店主の集合の要素数)。 にはなりません。 A氏が元プロレスラーの古本屋店主であるという条件下では、 A氏が古本屋店主である確率は、1です。 代表性ヒューリスティクス9 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月13日(木)13時27分37秒 返信・引用 >というハムさんの解釈★が正しくなるような日本語の文脈は存在しない。 そのことを指摘するためだけのたとえなので、形容詞そのものは気にしないでください。 こういう問題ならどうでしょうか? ●A氏は元プロレスラーの古本屋店主である。 次のどちらが確率が高いか? 1.古本屋店主 2.元プロレスラーの古本屋店主 Re: 代表性ヒューリスティクス8 投稿者:フカワ 投稿日:2009年 8月13日(木)02時34分58秒 返信・引用 > No.2351[元記事へ] φさんへのお返事です。 マッチョな人が古本屋店主である確率を、P(古|マ)としましょう。 マッチョな人が元プロレスラーの古本屋店主である確率を、P(古∩元プ|マ)としましょう。 すると、P(古|マ)=P(古∩マ)÷P(マ) P(古∩元プ|マ)=P(古∩元プ∩マ)÷P(マ) 明らかにP(古∩マ)≧P(古∩元プ∩マ)。 確かに、P(元プ|マ)の値のいかんによらず、ただの古本屋店主の確率のほうが高いです。 いやぁ、記号に置き換えてシコシコ計算していけばすぐにわかることが、いやはや・・・。まだまだ未熟のようですね。 Re: 進化論についての件 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月13日(木)02時19分39秒 返信・引用 > No.2353[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 > > これを自分は、前者については [生存する の主語たる「適者」が、生存するということによってしか説明できない] という関係になるからトートロジー > 後者は、そういう関係になく 「(結果的な)適応」と「(予測的な)有利っぽさ」を別々に説明できるからトートロジーではない > と解釈してしまっていました。 ↑そういうことでOKなのですが。 > >『実質的定義(発見的定義)』というのは知らない用語なのですが、 >観察事実によって意味内容が変わる というようなことでしょうか? > 新しい発見によって「じつは違っていた」と定義を改訂しうるような定義です。 暫定的定義と言うべきものですね。 ただ「定義」と言えば、数学用語の定義のような、分析的な規約定義のことでしょう。 > > > 「バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)を、”リンゴ”という」 > > 「”リンゴ”とは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)である」 > > このように倒置した形を並べてある意図はどのように解釈されますか? ???? とくに深い意味はないのでは? 全く同じことを二度述べているだけでは? 「適者生存」がトートロジーだというのは、批判ではないと私は思っていますけれどね。 最大の素数が存在しないというのはトートロジーだとか、二次方程式の解の公式がトートロジーだとか非難しても仕方ありませんよね。 進化論は、自然科学の中では最も論理(学)的な分野なので、トートロジーと言われることもしばしばですが、前回述べたように、どの形質が有利であるか、有利な形質ほど適応度が高いかどうか、については経験的に発見しなければなりません。 その意味で、進化論はトートロジーを基盤としながらもトートロジーでない探究をたくさん含む、というわけです。 Re: 進化論についての件 投稿者:kotobazu 投稿日:2009年 8月12日(水)22時56分1秒 返信・引用 φさんへ すいません 言葉の定義がトートロジーだと言われることと、進化論がトートロジーだと言われること(およびそれへの反論)の関係が、自分には未だ見えない というか納得できていないのです。 言葉の定義が承認された後では、それを記述した命題が分析的である。 ということが、 『>「自然選択(ちゅうかこの文脈では適者生存)」も、この類の話でしょう、というのが僕の意見。』 とどうつながるのか ということです。 それで 前回のφさんの発言を見直して、自分が誤解していたと思われる点に気づきました。 > 個体を単位とした「適者」の定義については自然選択説はトートロジーだが、 > 形質を単位とした「適応」「有利さ」の定義については自然選択説はトートロジーではなく、経験科学である(つまり定義は規約定義ではなく実質的定義(発見的定義)である)、 これを自分は、前者については [生存する の主語たる「適者」が、生存するということによってしか説明できない] という関係になるからトートロジー 後者は、そういう関係になく 「(結果的な)適応」と「(予測的な)有利っぽさ」を別々に説明できるからトートロジーではない と解釈してしまっていました。 しかしそうではなく、φさんは 前者の「適者」は規約的定義だから 定義の承認下では、分析的であって恒真、 後者は 分析的ではない定義だから トートロジーではない ということを言われたのですね? 『実質的定義(発見的定義)』というのは知らない用語なのですが、 観察事実によって意味内容が変わる というようなことでしょうか? φさんは、上記の話が通じているという前提の下に、『リンゴの記述の部分はどう関係があるのか?』という疑問に対し、『あの記述はリンゴの定義と見なしていいから』 と回答下さったのですね? すいません、自分の疑問は 定義がトートロジーであることと 進化論がトートロジーだと批判されることの関係について 未だ 納得していないゆえのものでした。 進化論がトートロジーで意味がない という批判(乃至誤解)は、 適者が生き残る。 適者とは? 生き残る者である。 生き残る者が生き残る。 というような形を想定するがゆえのものではないでしょうか? そしてそこには 一般に定義というものが分析的である ということは特になんの役割も果たしていないのではないでしょうか? なお φさんは、今回の話題にした文章で > 「バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)を、”リンゴ”という」 > 「”リンゴ”とは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)である」 このように倒置した形を並べてある意図はどのように解釈されますか? Re: 進化論についての件 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月12日(水)12時54分9秒 返信・引用 > No.2350[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 > > > 言葉の定義はトートロジー(常に真である命題)だ、と言われることがあります。 > > 「バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)を、”リンゴ”という」 > > 「”リンゴ”とは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)である」 > > 「自然選択(ちゅうかこの文脈では適者生存)」も、この類の話でしょう、というのが僕の意見。 > > これが どう関係するのかが分からないのですが・・。 > リンゴは自然種ですね。 比較的支持されている哲学説(指示の因果説)によれば、名目種と違って自然種は、ステレオタイプで定義されるのではなく(たとえば虎であれば縞模様があるとか牙があるとかで定義されるのではなく)基底的な本質、たとえば履歴である因果的系統関係によって定義される、ということになっています。 だとすると、「秋になると赤い実をつける……」云々は、リンゴの定義とは関係ないことになります。リンゴの実から生まれたものであれば、どんな表層的性質を持っていても、依然としてリンゴです。 しかし、この因果説は、自然種の定義の説明として、多少おかしいだろうと私は思っています。生物種を表層的性質で定義できず、系統関係で定義するとなると、いかなる変異が生じても同じ種に属することになってしまいますが、これは進化論にも分類学にも反します。 因果説は生物種を遺伝子で定義する、とも言われますが、遺伝子の構造や組成は因果関係とは独立なので、基底的性質ではなく表層的性質と言えますしね。 というわけで、リンゴの定義として、「秋になると赤い実をつける……」云々は、とくに的外れではないだろうと思います。 ただし、いまだ優勢であろう自然種の因果説によれば、それはリンゴの「定義」ではなく「経験的記述」だということになりますね。 Re: 代表性ヒューリスティクス8 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月12日(水)12時33分26秒 返信・引用 > No.2349[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > たとえが恣意的に感じます。 > 史上最も背が高いというのは、生まれた月と独立性が高いですよね。 > A氏がFである確率は、1/(Fの人数) ……★ というハムさんの解釈★が正しくなるような日本語の文脈は存在しない。 そのことを指摘するためだけのたとえなので、形容詞そのものは気にしないでください。 A氏の記述とFとが独立であるか否かにかかわらず、★は正しくならないということです。 その理由は、フカワさんも書かれているとおりです。 なお、P(元プ|マ)がいくら大きくても、 A氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率が古本屋店主である確率よりも高くなることは決してありません。(せいぜい等しくなるだけです) Re: 進化論についての件 投稿者:kotobazu 投稿日:2009年 8月12日(水)10時18分39秒 返信・引用 φ さんへ > ダーウィニズムは結果論なので、結果的に生き残れば、それは必ず適応していた(適者だった)ことになりますよね。生き残ったこととは独立に、適応とか適者の基準があるわけではありません。 > ダーウィニズムの本領は、進化力のような生物学特有の法則を否定したことで、一切が偶然に任される(あくまで生物にとっての偶然で、逆に言うと物理学的必然に任される)ということですから、適応は生存および繁殖によって定義されるというのでよいと思います。 完全に同意いたします。 進化論とトートロジー批判については自分は 適応的な者が数を増やす と進化論が前提なり主張しているならば 「適応的とは?」 「数を増やしたもの」と答えれば、トートロジーになる けれども実際には進化論は 「適応的な者が数を増やす」を前提にしていない 取っている前提は例えば 「形質の違いによって残す子孫の数が異なる。」 よってトートロジーにならない と簡単に考えていました。 適応的の定義は、子孫が増える ということで為されていると。 ただ、 増えそうな形質 と目を付けたものが実際に増えるかどうかを見る作業は要るんだろうな と思っていたところ、 今回そのことを含め、すっきりした説明を頂き ありがたいです。 ただ、 それでも自分には、 > 言葉の定義はトートロジー(常に真である命題)だ、と言われることがあります。 > 「バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)を、”リンゴ”という」 > 「”リンゴ”とは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)である」 > 「自然選択(ちゅうかこの文脈では適者生存)」も、この類の話でしょう、というのが僕の意見。 これが どう関係するのかが分からないのですが・・。 これはもともとφ さんの関係しない文章でしたから、ご迷惑でしたら ここで打ち切ってください。 代表性ヒューリスティクス8 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月12日(水)09時30分24秒 返信・引用 たとえが恣意的に感じます。 史上最も背が高いというのは、生まれた月と独立性が高いですよね。 A氏は史上最も背が高いという情報ならば、古本屋店主と答える人が多くなるでしょう。 また、A氏は元プロレスラーの古本屋店主だという情報ならば、元プロレスラーの古本屋店主という答えでいいはずです。 ★桃の節句が大好きな人αが、3月生まれの確率とその他の確率はどちらが高いか? とでもすると、3月生まれと答える人が多くなりそうです。 A氏の情報がA氏に関する判断に影響するはずで、そういう考え方は普通に行っていることで間違いではないと思います。 このことの説明は、集合が適当だと思いますが、他にいい説明方法があるでしょうか? 一般の解釈を間違いだと断罪しても、解釈とは一般の解釈のことのはずです。 フカワさんへ この問題は正解を一つにしていない、というのが私の主張です。 一般の解釈とφ様の解釈の対立で、どちらともいえないはずです。 (無題) 投稿者:フカワ 投稿日:2009年 8月12日(水)01時11分2秒 返信・引用 >φ先生 いつぞやのお礼の返信をしようと思いましたが、かなり時期をはずしたようです。えへへ。 >ハムさん 「1/(古本屋店主の集合)」は、A氏が特定の古本屋店主である確率です。 (たとえば、売り上げシェア最大の古本屋の店主、最も身長が高い古本屋店主など) いまA氏は傷だらけのマッチョであることしかわかっていませんし、その性質は古本屋店主であることとほぼ独立でしょうから、 A氏が古本屋店主である確率は、(古本屋店主の人数)÷(総人口)になるのでは? 同様に、元プロレスラーの古本屋店主の確率は、(元プロレスラーの古本屋店主の人数)÷(総人口)です。 そして、(古本屋店主の人数)>(元プロレスラーの古本屋店主の人数)は明らか。 もちろん、元プロレスラーであることとマッチョであることは独立ではないので P(マ|元プ)>>0 が成立すると思います。(これは同意が得られると思いますし、もっと同意を得られやすい例を作ることも不可能でははずです) しかし、P(元プ|マ)は、手元に情報がないうえに、推測の仕様もありませんので、不明です。P(元プ|マ)<P(マ|元プ)なのは明らかですが。 これを何の根拠もなく高く見積もってしまうと、元プロレスラーの古本店主の確率を古本屋店主である確率よりも高く見積もってしまうのではないでしょうか。 Re: 代表性ヒューリスティクス7 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月12日(水)01時06分35秒 返信・引用 > No.2346[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > しかし、ほとんどの人が元プロレスラーの古本屋店主と答えるわけですから、絶対の解釈というわけではないと思います。 > 間違える人が多いからといって、その間違いが「正しい解釈」になるわけではありません。 > > A氏は一人でしょうが、その性質は集合を構成しますので、集合で考えて良いと思うのですが、個体で考えても同じになりませんか? > A氏一人から成る集合、という抽象的なものがどういう性質を持つか、などと問われているわけではありませんね。そもそも集合は古書店主や元プロレスラーではありえませんから。だからあくまでA氏は個体なのですが、 > > A氏が古本屋店主である確率は、1/(古本屋店主の集合)。 > A氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率は、1/(元プロレスラーの古本屋店主の集合). > ↑これは全然ダメですよね。 この推論が成り立つなら、↓次の推論も正しくなってしまいます。 (ハムさんの意図を汲んで、分母に「の要素数」を付け加えました) ★史上最も背の高い人αが、3月生まれである確率と、その他の月の生まれである確率はどちらが高いか? αが3月生まれである確率は、1/(3月生まれの人の集合の要素数) αがその他の月の生まれである確率は、1/(その他の月の生まれである人の集合の要素数) (3月生まれの人の数)<(その他の月の生まれである人の数) ∴ 1/(3月生まれの人の集合の要素数) > 1/(その他の月の生まれである人の集合の要素数) 史上最も背の高い人αが、3月生まれである確率のほうが、そうでない確率よりも高い。 ↑この推論が終始メチャクチャであることは一目瞭然ですよね。 αが3月生まれである確率は、1/(3月生まれの人の集合の要素数)ではなく、1/12ですし。 3月生まれである確率、そうでない確率を、 オランダ人である確率、人間である確率、に置き換えても同様です。史上最も背の高い人αは、オランダ人である確率よりも人間である確率のほうが圧倒的に大です。 代表性ヒューリスティクス7 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月11日(火)12時02分45秒 返信・引用 >日本語の解釈として、それは絶対です。 しかし、ほとんどの人が元プロレスラーの古本屋店主と答えるわけですから、絶対の解釈というわけではないと思います。 >「A氏」は、集合ではなく、個体です。 A氏は一人でしょうが、その性質は集合を構成しますので、集合で考えて良いと思うのですが、個体で考えても同じになりませんか? ・元プロレスラーの古本屋店主を答えとする考え方。 A氏が古本屋店主である確率は、1/(古本屋店主の集合)。 A氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率は、1/(元プロレスラーの古本屋店主の集合). (古本屋店主の集合)>(元プロレスラーの古本屋店主の集合) ∴ 1/(古本屋店主の集合) < 1/(元プロレスラーの古本屋店主の集合) Re: 代表性ヒューリスティクス6 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月11日(火)04時50分47秒 返信・引用 > No.2344[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 一般には、Aというマッチョな人の集合が、古本屋店主の集合に占める割合と、元プロレスラーの古本屋店主の集合に占める割合を比べます。 > ですので、ほとんどの人が、元プロレスラーの古本屋店主と答える。 > この読み方が一般的です。 あの問題は、問題文のもとでの選択肢の確率を答えるべき問題であり、 選択肢のもとでの問題文の確率を問うてはいません。 日本語の解釈として、それは絶対です。 しかし、あえてハムさんのように、 選択肢のもとでの問題文の確率を答えるものとしてみましょう。 それでも、「元プロレスラーの古本屋店主」の確率は「古本屋店主」を下回ります。 理由は以下のとおり。 「A氏」は、集合ではなく、個体です。 問題文で、A氏は……、と紹介された時点で、A氏は一人であるという了解が自然だからです。 問題文は、抽象的な人物類型の措定ではなく、プロフィールの記述だということです。 なので、紹介された内容にあてはまる全員の集合が「A氏」として導入された、と考えるのは不自然、というよりハッキリ無理でしょう。 つまり、A氏というのは固有名詞であり、性質や集合の名前ではありません。 すると、「選択肢のもとでの問題文の確率を答える」というのは、 各選択肢が指示する集合が、A氏をメンバーとして含む確率を答えることになります。 これは、各選択肢が指示する集合にA氏が属する確率ですから、 A氏が各選択肢に属する確率ということになり、 結局、「問題文のもとでの選択肢の確率」 と同じことに帰着します。 つまり、「A氏」は集合や性質ではなく一人の人物を指している以上、「元プロレスラーの古本屋店主」の確率が「古本屋店主」の確率より高くなるという解釈は不可能ということになるのです。 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2341 に述べたように、A氏を自由変項として解釈できればハムさんの読みも成り立ちえますが、逸話的なプロフィールでA氏を人物紹介した場合、その解釈は百%無理ではないでしょうか。 代表性ヒューリスティクス6 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月10日(月)10時25分35秒 返信・引用 この問題は解釈の問題になるのですよね。 一般には、Aというマッチョな人の集合が、古本屋店主の集合に占める割合と、元プロレスラーの古本屋店主の集合に占める割合を比べます。 ですので、ほとんどの人が、元プロレスラーの古本屋店主と答える。 この読み方が一般的です。 もう一つの読み方として、φ様の読み方があります。 3つの集合を同時に考えて占める割合を答える読み方です。 この問題ではどちらの読み方をすべきか明確ではありませんので恣意的に感じるのです。 ただ、φ様の読み方は以外なので、我々の常識に挑戦する趣があって面白く感じることは確かです。 Re: 代表性ヒューリスティクス5 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 9日(日)01時31分15秒 返信・引用 > No.2342[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > マッチョなA氏が古本屋の店主である確率は小。 > マッチョなA氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率は1に近い。 > それは逆ですね。 古本屋の店主がマッチョである確率は小。 元プロレスラーの古本屋店主がマッチョである確率は大。 とくに、「A氏」と定項で指示されたとたんに、A氏の性質がどうあろうとも、A氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率は、古本屋店主である確率よりも低くなります。 代表性ヒューリスティクス5 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 9日(日)00時42分22秒 返信・引用 そうなのですが、代表性ヒューリスティクスも同じ解釈ができるのです。 マッチョなA氏が古本屋の店主である確率は小。 マッチョなA氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率は1に近い。 私は何回読んでもその解釈をしてしまいます。 Re: 代表性ヒューリスティクス4 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 8日(土)17時30分48秒 返信・引用 > No.2340[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > ホホホ、正解は2なのです。 > 2は必ず火を吐く生物のタマゴです。 > つまり、その確率は1です。 > ん? 問題文のもとでの選択肢の確率ではなく、選択肢のもとでの問題文の確率を問いたかったと? そのようにしたい場合は、 > > Aは火をはく生物である。次のどちらが確率が高いか? > 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ > ではなく、 @ * * Aは火をはく生物である。次のどちらの場合に、Aが産んだもの(あるいはAを産むもの) *である確率が高いか? * 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ * と書くべきなのでは? (ゴジラが吐くのは火じゃないのでは、という疑問はおいといて) もとの形では、Aの候補として1.と2.の選択肢が与えられています。タマゴはれっきとした生物ですから、この読みこそが優先的で、2.を正解とする日本語の解釈はありません。 @のような書き方であれば、2.が正解と言えるでしょう。 表現でのヒッカケクイズは、通常の読みから逸脱する特定の読みを必然化するような伏線が張られていないと、正解が後出しジャンケン的に恣意的となり、ヒッカケの価値が無に帰すのでは? (もし私が2.と答えたら、1.が正解、と言えてしまいます。それが言えない仕組みになっていないと(2.が必然化されていないと)「ぎゃふん」といわせるクイズにはならないわけです) さて、 @の表現も微妙なところで、たとえば次のABのような書き方だと、はっきり1.が正解になってしまいますね。 A * * Aは火をはく生物である。次のどちらが、Aが産んだもの(あるいはAを産むもの) *である確率が高いか? * 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ * B * * Aは火をはく生物である。Aが産んだもの(あるいはAを産むもの) * である確率が高いのはどちらか? * 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ * じつは、@の書き方ですら、2.が正解であるとは言い切れません。 問題文の冒頭で「Aは」といかにも定項を使っていますから、その段階でAは種としてすでに特定されていると読むのが妥当です。すると、Aがゴジラ以外の火吐き生物だった場合には、2.のもとでは「Aが産んだもの(あるいはAを産むもの)である確率」はゼロ。1.のもとでは、「Aが産んだもの(あるいはAを産むもの)である確率」は極小ではあれ、ゼロではありません。かくして、正解は1。 したがって、紛れなく2.を正解とするには、変項を用いて、次のような問題文とすべきでしょう。 C * * 任意の火吐き生物をxとせよ。次のどちらの場合に、xが産んだもの(あるいはxを産むもの) *である確率が高いか? * 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ * 要は、 「1、2のいずれのほうが、火吐き生物のタマゴである確率が高いか?」 もとの問題文ではその解釈は不可能で、 @ですらその解釈は分が悪い、ということになりますね。 もとの問題文のままで、巧みな伏線によってCの読みを強要している問題が作れれば、傑作クイズになるでしょう。 代表性ヒューリスティクスにひっかかる素朴な人と、伏線を見抜く鋭い人が正解し、知的レベルが中間程度の人がほとんど間違える、そういうクイズになりますね。 代表性ヒューリスティクス4 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 8日(土)09時42分34秒 返信・引用 ホホホ、正解は2なのです。 なぜかならば、あらゆるタマゴの中で火を吐く生物のタマゴの確率は極小です。 ニワトリ、ウズラ、アヒル、ダチョウ、カエル、タラコ・・・・。 1を選ぶと、火を吐く生物のタマゴである確率は極小なのです。 2は必ず火を吐く生物のタマゴです。 つまり、その確率は1です。 この問題はφ様を引っ掛けあそばすための問題です。 私がφ様のご本によって受けた精神的苦痛の仕返しなのです。 あまんじて、お受けくださいませ。ホホホ。 Re: 代表性ヒューリスティクス3 補足 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 7日(金)16時38分13秒 返信・引用 > No.2337[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > φ様への問題です。 > Aは火をはく生物である。次のどちらが確率が高いか? > 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ そりゃあもう、タマゴでしょう。 (口が外に露出していて?)火を吐くことのできるタマゴというのは実在しないでしょうし、 ある小説家または漫画家が火をはく生物を描いたことだけがわかっているとして、それがタマゴである確率も低いでしょうが、 いずれにしても 1.だが2.でないことはいくらでもある反面、2.なら必ず.1.ですから。 火を吐くことのできるタマゴにも、無数の種類がありえますからね。 ある可能世界に火を吐くタマゴがあるとして、それが次のそれぞれである確率はいくらか? ゴジラのタマゴ、ガメラのタマゴ、ドラゴンのタマゴ、サラマンダーのタマゴ、ベムラーのタマゴ、ラゴンのタマゴ、ジラースのタマゴ、ペスターのタマゴ、バニラのタマゴ、ヒドラのタマゴ、ジャミラのタマゴ、テレスドンのタマゴ、ゼットンのタマゴ、パンドンのタマゴ ↑ゴジラのタマゴである確率は1割以下ではないでしょうか。 そもそも「火を吐く」とだけ言われれば、ゴジラの放射能熱線よりも、ドラゴンや初代ガメラが吐く純然たる炎のほうが確率高そうです。 マッチョ全体の中で、元プロレスラーが占める割合もかなり低いはずです。 代表性ヒューリスティクス3 補足 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 7日(金)10時04分16秒 返信・引用 今の話題の虚構とも関係ある問題を考えました。 φ様への問題です。 Aは火をはく生物である。次のどちらが確率が高いか? 1.タマゴ 2.ゴジラのタマゴ 代表性ヒューリスティクス3 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 7日(金)09時51分38秒 返信・引用 実際にはA氏のようなマッチョな古本屋店主など見たことがないのですから、この確率はゼロをふくむ小さな確率になると思えます。 そうすると、A氏のようなマッチョの集合と古本屋店主の集合の重なりは、無いかほんの少ししか重なっていないと思えます。 こういうゼロという特異点での話なのですから、直感通り元プロレスラーの古本屋店主と答えていいと思えるのです。 一般の会話でもA氏のマッチョぶりは、古本屋店主を志向せず、元プロレスラーの古本屋店主を志向します。 まあ、この手の直感に逆らうことがこの問題の面白さなのでしょうが、私はいつ読んでも引っかかります。 ちょっと詐欺的な臭いがするのです。 Re: 自己知の埋め込み 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 7日(金)04時05分47秒 返信・引用 > No.2334[元記事へ] キリーロフさんへのお返事です。 「共通知識Common Knowledge」は、無限の自己知の無限の埋め込み文が真であることとして定義されますよね。 私とJohnがあす特定の時刻・特定の場所で会うことを約束する場合、電話で約束すれば一瞬にして ……I know that John knows that I know that John knows that ……We made the appointment. が成り立ちますが、 メールで確認し合う場合は、どれだけ確認メールの返信を送りあったとしても、有限回のレベルでストップしてしまい、完全に相手がこちらの確認を了解できているか、確信が持てません。 実のところ、電話での会話においてすら、完全な共通知識を実現することは厳密には不可能でしょう。テレビや新聞での広報も同様です。 さらには、共通知識だけでなく、知識そのものが厳密にはどのようなときに成立するかが不明ですね。 というわけで、自己知の埋め込み文に特有の難しさ(通常の知識にはみられない難しさ)があるとしたら、どのようなところだとキリーロフさんはお考えなのでしょうか? 自己知の埋め込み 投稿者:キリーロフ 投稿日:2009年 8月 7日(金)01時18分7秒 返信・引用 φ先生のアイデアを聞きたく、書きこませて頂きます。 現在、自己知を含む知識の埋め込み文をどのように理解してよいのか 悩んでいます。例えば次のような例です。 I know that John knows that I am making the mess. 真理条件すらよく分かりません。 よく知られているように、自己知文とその三人称的パラフレーズは同値ではありません。 例えば I know that I am making the mess. と I know that Kirilov is making the mess. は同値ではないです(私が自分がキリーロフであることを知らない場合など)。 ここで I know that John knows that I am making the mess. において‘I’がオペレータ‘John knows that’をまたいでいる点が悩ましいです。 どう理解したらよろしいでしょうか。 Re: 定義 について教えてください 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 6日(木)16時48分7秒 返信・引用 > No.2332[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 > > この、正確に言うと真でも偽でもない というのはフィクションのみに該当し、定義の方には該当しないということですか? > それはフィクションでは作者のみが物語世界を設定し、定義はそうではないからでしょうか? いや、前回に述べたように、 最初に設定された時点で真でも偽でもないのは、定義もフィクションも同じです。 二度目からは、真または偽になるというのも同じです。 > > 引用開始 > 『世間でよく言われている誤解のひとつが、 > 「自然選択はトートロジーである」というものですね。 > これは、「自然選択」というのを「因果関係」として捉えようとしたために生じた誤解です。 > 実際には、「ある形質が環境に適している」というのと、「ある形質を有する個体が生き残って子孫を増やす(傾向がある)」というのとは、因果関係ではなくて、どちらも「適応」の説明(定義)に過ぎないのですけれども。 > ※ > 言葉の定義はトートロジー(常に真である命題)だ、と言われることがあります。 > 「バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)を、”リンゴ”という」 > 「”リンゴ”とは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)である」 > 「自然選択(ちゅうかこの文脈では適者生存)」も、この類の話でしょう、というのが僕の意見。 > その人の言っていることはだいたい正しいと私は思います。 ダーウィニズムは結果論なので、結果的に生き残れば、それは必ず適応していた(適者だった)ことになりますよね。生き残ったこととは独立に、適応とか適者の基準があるわけではありません。 ダーウィニズムの本領は、進化力のような生物学特有の法則を否定したことで、一切が偶然に任される(あくまで生物にとっての偶然で、逆に言うと物理学的必然に任される)ということですから、適応は生存および繁殖によって定義されるというのでよいと思います。 ただし、それは個体レベルの適応についてみれば、の話で、 形質別にその適応価をみる文脈では、本当に有利な形質を持っていた者が適応できたのか(生き残って繁殖したのか)、が検討されねばなりません。 たとえば、クジャクの尾羽は、派手なほどその持ち主は「適者」になりますが、派手な尾羽そのものは明らかに生存にとって不利でしょう。 単独でみれば適者を生み出しにくいはずの形質がなぜ適者に受け継がれてゆくのか、不利な形質の適応価がしばしば高いのはなぜか、という問題は、形質の物理的性質と適応価とのズレを解明する問題です。 クジャクの尾羽の場合は、♀の気まぐれな美意識による性選択のランナウェイによって説明できるでしょうし、ツバメの尾であれば、寄生虫への抵抗力を示す適応度指標だということになるでしょう。こうした発見は、「有利さ」を「適応」とは別に定義して初めて可能となります。 形質そのものから物理的に予測されるのとは正反対の有利さを個体にもたらす形質については、前適応、多面発現、性間拮抗、ハンディキャップ、超優性(ヘテロ接合体)、等々、進化論の中で膨大な説明装置が工夫されていますよね。 はじめから「自然選択された形質は何でも有利な性質だったはず」と割りきってしまうと、そうした進歩はないでしょう。「自然選択された形質は何でも適応の結果であるはず」というのも同様です。それ自体は適応の結果ではないが、適応の付随的副産物であるような形質はいくらでもあるからです。 適応の結果からは独立に「この形質は適応価が高いはず」という予測を立て、それを現実の適応と照らし合わせて、当たり外れを判断し、メカニズムを解明する、という作業が必要なはずです。 形質の「有利さ」を「自然選択での適応」と分離して(独立に考えて)、ではなぜ有利でない形質が生き残るのか、さらには有利な形質より適応価が高いのか、を追及するという意味では、自然選択説はトートロジーではありません。 とりあえず私の考えは、 個体を単位とした「適者」の定義については自然選択説はトートロジーだが、 形質を単位とした「適応」「有利さ」の定義については自然選択説はトートロジーではなく、経験科学である(つまり定義は規約定義ではなく実質的定義(発見的定義)である)、 というものです。大ざっぱで申し訳ありませんが。 Re: 定義 について教えてください 投稿者:kotobazu 投稿日:2009年 8月 6日(木)10時16分31秒 返信・引用 『Aという言葉の意味はBである』というような、定義語と被定義語の関係を述べる命題を定義と考えるのですね? そしてその定義が受け入れられているもとでは、その命題は恒真だと。自分でも最初そのようにイメージしたのですが、 サモンの『論理学』で、 定義についての立言(ある定義が世間で認められた規約を表現している というような立言)は真や偽でありうるが 定義自体は真でも偽でもない と断定してあるのを見て分からなくなり、質問に伺ったのでした。 『そこに含まれる言葉の定義だけで真となる立言を「分析的立言」、』とサモンは書いているので、 『Aという言葉の意味はBである』はそのような命題に含み 定義自体はそういう命題ではない と考えているのでしょうか・・ それとも、定義としての命題が俎上に上がるたびに、それを承認するか否かが新たに求められている という感じなのかな とかも考えたのですが。 (それともサモンの教科書は古いのでしょうか?) フィクションの分析等の分かりやすい説明ありがとうございました。 > フィクションも、作者が物語世界を定義するのであり、作者以外の人が「それは違う」と異を唱えることができないという点で、いわば必ず真であり、つまり真偽の区別ができず、正確に言うと真でも偽でもないのです。 この、正確に言うと真でも偽でもない というのはフィクションのみに該当し、定義の方には該当しないということですか? それはフィクションでは作者のみが物語世界を設定し、定義はそうではないからでしょうか? 実は『言葉の定義はトートロジーだと言われる』と見た最初は、定義を述べる命題が分析的真だという意味だろうと思ったのですが それ以外の理由があるのかを知りたくて サモンを調べ、かえって分からなくなったのでした。 何故それを知りたかったかと言うと 進化論についての以下のような記述を見たからでした。 引用開始 『世間でよく言われている誤解のひとつが、 「自然選択はトートロジーである」というものですね。 これは、「自然選択」というのを「因果関係」として捉えようとしたために生じた誤解です。 実際には、「ある形質が環境に適している」というのと、「ある形質を有する個体が生き残って子孫を増やす(傾向がある)」というのとは、因果関係ではなくて、どちらも「適応」の説明(定義)に過ぎないのですけれども。 ※ 言葉の定義はトートロジー(常に真である命題)だ、と言われることがあります。 「バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)を、”リンゴ”という」 「”リンゴ”とは、バラ科リンゴ属の落葉高木樹で秋になると赤い実をつける・・・(以下略)である」 「自然選択(ちゅうかこの文脈では適者生存)」も、この類の話でしょう、というのが僕の意見。 』ー引用終わり この後半部分が自分には疑問に思えるのですが、φさんはどう思われますか? 次々と質問してすみません。 Re: 定義 について教えてください 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 5日(水)18時31分44秒 返信・引用 > No.2330[元記事へ] kotobazuさんへのお返事です。 最初に定義したそのときは、既定の事実を述べているのではなく、そこで初めて決めたわけですから、「記述」ではなく「決断」であり、提案や命令と同じく、真でも偽でもありません。 ところが、その定義が承認されたあと、同じ定義を二度目以降に述べる場合は、言葉の定義の「記述」になりますから、分析的命題を述べることになり、最初の定義(提案)に合致していればトートロジーで真、合致していなければ矛盾で偽となります。 (「トートロジー」という語は、狭義にはP⊃Pのような命題論理の恒真式のことを言いますが、広義には述語論理の分析的真理すべてを含んでもよいでしょう) ジョン・サールらのフィクションの分析が参考になると思います。 小説家が物語を書いていくときは、その記載は真でも偽でもありません。物語を創造している最中であり、読者に対して「このような世界を思い描け」と命令していることになります。 ところが、いったん書かれた物語については、真偽の区別ある命題を述べることが可能ですね。 シャーロック・ホームズの相棒の職業は何か、と言うクイズが出されて、「弁護士」と答えれば間違いで、「医師」と答えれば正解です。 コナン・ドイルが最初に小説を書いたときは、ワトソンの職業を何に設定してもかまわず、真偽はなかったのですが、いったん決まれば、その決定への一致不一致が問えるわけです。 このように、定義はフィクションと類似しています。 フィクションも、作者が物語世界を定義するのであり、作者以外の人が「それは違う」と異を唱えることができないという点で、いわば必ず真であり、つまり真偽の区別ができず、正確に言うと真でも偽でもないのです。 これについては、『虚構世界の存在論』の簡略版として『ゼロからの論証』中の3-4「虚構 fiction」をご覧いただければ幸いです。 > > ところで、 > そこに含まれる言葉の定義だけで真となる立言を『分析的立言』、同様の理由で偽となる立言を『矛盾的立言』とサモンの本では書いてありますが、 > このとき 『ある定義を用いれば』とか『ある定義が合意されるもとでは』とかの前提は要らないのでしょうか? > なんらかの定義が正しいというのは暗黙の前提の下で、『分析的立言』『矛盾的立言』と判断するのでしょうか? > 定義が承認されたあとは、当然、「その定義のもとで」というのが暗黙の前提となるでしょう。 文学史のテストで、いちいち「シャーロック・ホームズの物語を前提としたとき、ホームズの得意な楽器は何であるか?」などと問いません。暗黙の了解ですからね。 これは、別に定義やフィクションに特有の問題ではありません。 世界史のテストでも、「現実の人類の歴史を前提にしたとき、第二次大戦開始は西暦何年か?」などといちいち前提明示などしませんからね。 私たちの会話のすべてが暗黙の前提に依存しています。 定義 について教えてください 投稿者:kotobazu 投稿日:2009年 8月 5日(水)11時36分9秒 返信・引用 別な件なのですが、 某所で 『言葉の定義はトートロジー(常に真である命題)だ、と言われることがあります。』 という文章を見ました。(その理由についての説明はなく、また、書き手は確実に素人なので、正しいことを書いているという保証はありません) それで サモンの本を見ると、 定義自体は規定であって、提案と同じようなもので、真でも偽でもない。 というようになっています。 『言葉の定義はトートロジーだと言われる』というのはなにか根拠があるのでしょうか? 間違いでしょうか? 定義を用いて分析的命題(自分の見た本では『分析的立言』)を作ることができる というようなことなのか しかし それをして『言葉の定義はトートロジー』とは言えないだろう とか 考えているのですが。 ところで、 そこに含まれる言葉の定義だけで真となる立言を『分析的立言』、同様の理由で偽となる立言を『矛盾的立言』とサモンの本では書いてありますが、 このとき 『ある定義を用いれば』とか『ある定義が合意されるもとでは』とかの前提は要らないのでしょうか? なんらかの定義が正しいというのは暗黙の前提の下で、『分析的立言』『矛盾的立言』と判断するのでしょうか? 代表性ヒューリスティクスの件 投稿者:kotobazu 投稿日:2009年 8月 5日(水)11時33分16秒 返信・引用 φさん 返事ありがとうございます > 「万が一のケース」は考えられますが、それは万が一なのであって、それ自体が確率が低いことです。 > > 確率を考えるときには、あらゆる場合を平等に考えます。 > よって、「万が一」の場合の但し書きは必要ありません。 > というわけで、AとBが概念的に独立であるときは、 > 「A」の確率は「AかつB」の確率より確実に高いことになります。 分かりました。 『3が、1より正解確率が高いことはありえない』というのは、『同じの場合はある』ということではなく、正解確率の高い順に並べる場合に、一見3が高いと見てしまう誤解もあるけれど実際には3が高いということはありえない という説明だったのですね? ハムさんも『1(が高い)が正解となっている』ことを書かれていたのだから、自分の勘違いでした。 Re: 横からすいません 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 4日(火)16時50分3秒 返信・引用 > No.2327[元記事へ] ハムさんとkotobazuさんへのお返事です。 だいたいkotobazuさんの言うとおりです。 > > マッチョな古本屋店主がたまたま全員 元プロレスラーであって、元ボデイービルダー等などプロレスラー以外であった人が絶無であるという 万が一のケースを想定して > 1.古本屋の店主の正解確率 の方が高い > ではなく 3の方が高いことはあり得ない(等しい場合は完全に排除はできない) > ということなのかな・・・・ > 「万が一のケース」は考えられますが、それは万が一なのであって、それ自体が確率が低いことです。 確率を考えるときには、あらゆる場合を平等に考えます。 よって、「万が一」の場合の但し書きは必要ありません。 というわけで、AとBが概念的に独立であるときは、 「A」の確率は「AかつB」の確率より確実に高いことになります。 横からすいません 投稿者:kotobazu 投稿日:2009年 8月 4日(火)11時19分27秒 返信・引用 ハムさん こんにちは。 > A氏を特徴づける要素の集合と古本屋店主の集合の重なり、と、 > A氏を特徴づける要素の集合と元プロレスラーの古本屋店主の集合の重なり、とどちらが大きいかという問題で、これはどちらともいい難いのです。 > ですので、A氏を特徴づける要素の集合とより重なっている元プロレスラーの××を選ぶのが妥当だと思えるのです ハムさんは 古本屋店主の集合の中でのA氏的な人物の割合(占有率) と 元プロレスラーの古本屋店主の集合の中のA氏的な人物の割合 を比べてることになるのかな・・。 それだったら マッチョな人物がいる確率は 元プロレスラーの古本屋店主の集合 の方が高いと思いますが、 出題は、A氏と指された人物が 古本屋である確率と 元プロレスラーの古本屋である確率の比較なので 回答でいいのだと思います。 元プロレスラーである古本屋店主の集合は 古本屋店主の集合に完全に含まれてます。 だからA氏が元プロレスラーの古本屋店主ならば A氏は必ず古本屋店主なので。 ところでA氏が 古本屋店主であって元プロレスラーでない場合も普通は当然あるので(マッチョだからプロレスラーとは限らない) だいたいは 1.古本屋の店主の正解確率 の方が高い と思います でも マッチョな古本屋店主がたまたま全員 元プロレスラーであって、元ボデイービルダー等などプロレスラー以外であった人が絶無であるという 万が一のケースを想定して 1.古本屋の店主の正解確率 の方が高い ではなく 3の方が高いことはあり得ない(等しい場合は完全に排除はできない) ということなのかな・・・・ 代表性ヒューリスティクス2 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 4日(火)09時42分10秒 返信・引用 >現役プロレスラーの古本屋店主かもしれないし、元柔道金メダリストの古本屋店主かもしれないし、俳優の古本屋店主かもしれないので、明らかに「元プロレスラーの古本屋店主」は分が悪いです。 A氏を特徴づける要素の集合は、古本屋店主の集合よりも元プロレスラーの集合とより重なっていて、古本屋店主の集合とは少ししか重なっていないと思えるのです。 この問題は、 A氏を特徴づける要素の集合と古本屋店主の集合の重なり、と、 A氏を特徴づける要素の集合と元プロレスラーの古本屋店主の集合の重なり、とどちらが大きいかという問題で、これはどちらともいい難いのです。 ですので、A氏を特徴づける要素の集合とより重なっている元プロレスラーの××を選ぶのが妥当だと思えるのです。 なにも情報がなければ、A氏は古本屋店主である確率が高いのですが、A氏がマッチョだという情報は、A氏が元プロレスラーの古本屋店主である確率を高めていませんか? 宝くじ4 投稿者:蝉 投稿日:2009年 8月 3日(月)21時58分56秒 返信・引用 >始めに当たりを引いて、二度目以降に外れた人が観察されれば、 >説明Aは事前確率が低くなりますね。 >前回は、他人の結果が互いにわかっているという前提で考えていました。 >(よって、「自分」でない他の人々からすれば「単なる偶然」ですまされる、と論じたのでした) 確かに、そうですね。他人の引いたくじを観測できるかどうかについては、無自覚でした。 しかし、おかげで気になっていたことは全て納得できました。 逐一解答していただき、どうもありがとうございました。 Re: 宝くじ3 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 3日(月)20時58分39秒 返信・引用 > No.2321[元記事へ] ハムさんと蝉さんへのお返事です。 > >「1.古本屋の店主」の正解確率は「3.元プロレスラーの古本屋店主」の正解確率と >同じになるのではないでしょうか? > 現役プロレスラーの古本屋店主かもしれないし、元柔道金メダリストの古本屋店主かもしれないし、俳優の古本屋店主かもしれないので、明らかに「元プロレスラーの古本屋店主」は分が悪いです。 > > 次の説明についてはどうでしょう。 > > B'説明A……始めに当たりを引くと、その後立て続けに8回当たりを引くように仕組まれていた。 > > Aは、くじを引いた10億人のうちの特に「私」をアイデンティファイしているわけでもなく、事前確率の高い説明ではないでしょうか。Aの時にB'が起こるという条 付き確率(尤度)も1/10で、偶然説より1億倍も高いのですが。 > もしAの事前確率が高いのなら、["「私」が当たったことに対する事前確率の高い説明が存在しない"ならば"「誰か」に当たる確率が高い"]という命題の妥当性はともかくとして、["「誰か」に当たる確率が高い"ならば"「私」が当たったことに対する事前確率の高い説明が存在しない"]という命題は偽だということになります。 > 始めに当たりを引いて、二度目以降に外れた人が観察されれば、説明Aは事前確率が低くなりますね。 他人の結果について観察が一切できないものとすると、 説明Aではなく、むしろ次の説明Bが正しそうです。 説明B……じつは、すべて当たるように仕組まれていた。 説明Bは説明Aに比べて尤度が10倍であり、事前確率も高そうです。 前回は、他人の結果が互いにわかっているという前提で考えていました。(よって、「自分」でない他の人々からすれば「単なる偶然」ですまされる、と論じたのでした) 下の文の… 投稿者:蝉 投稿日:2009年 8月 3日(月)20時42分56秒 返信・引用 尤度は、φさんの使った意味とは違うかもしれません。 宝くじ3 投稿者:蝉 投稿日:2009年 8月 3日(月)20時17分8秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 >1−((999999999/10億)の10億乗) >1−((1−(1/10)の9乗))の10億乗) の式に関しては、私も同じ式でした。この値、計算機で計算したんですが、約0.63となり、意外と低いんですよね。しかし1/2より高いですし、@'もB'も、「誰か」が当たる確率は高いというφさんの意見に賛成です。 >Bとは異なり、誰かは当たるはずだったのであり、 >「偶然」という以外に事前確率の高い説明は存在しません。 次の説明についてはどうでしょう。 B'説明A……始めに当たりを引くと、その後立て続けに8回当たりを引くように仕組まれていた。 Aは、くじを引いた10億人のうちの特に「私」をアイデンティファイしているわけでもなく、事前確率の高い説明ではないでしょうか。Aの時にB'が起こるという条 付き確率(尤度)も1/10で、偶然説より1億倍も高いのですが。 もしAの事前確率が高いのなら、["「私」が当たったことに対する事前確率の高い説明が存在しない"ならば"「誰か」に当たる確率が高い"]という命題の妥当性はともかくとして、["「誰か」に当たる確率が高い"ならば"「私」が当たったことに対する事前確率の高い説明が存在しない"]という命題は偽だということになります。 >@、@'、B'のいずれも、素朴な主観確率(自分についての奇跡への驚異)を、 >客観的な視点によって修正しなければならない例だと思われます。 このくじについての客観的な視点と言うよりも、普段から自分が観測している他の事例からでしょうが、守護霊説などは事前確率が1/10億より遥かに小さいのでしょうね。 代表性ヒューリスティクス 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 3日(月)19時29分18秒 返信・引用 今の話題と私の中では同じ種類の問題である昔より引っかかりまくっていた問題について投稿させてください。 「心理パラドクス」の001「代表性ヒューリスティクス」 ●きょうはA氏の55歳の誕生日。毎日プロテインのサプリメントを飲み、筋力トレーニングを続けているおかげで、身長196センチ体重120キロという体格が25年間維持されている。・・・ さて、A氏について、次のどれが正しそうだろうか。正しい確率の高い順番に並べてみよう。 1.古本屋の店主 2.・・・ 3.元プロレスラーの古本屋店主 4.・・・ 正解は1で、理由は1に元プロレスラーという条 が付く3が、1より正解確率が高いことはありえない、というものです。 しかし、この場合はA氏の特徴を説明する要素がすべて元プロレスラーの要素と重なっています。 古本屋の店主の集合よりも、元プロレスラーの集合の方が正解確率が高い。 ですので、この場合は、「1.古本屋の店主」の正解確率は「3.元プロレスラーの古本屋店主」の正解確率と同じになるのではないでしょうか? Re: 下の文の補足 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 3日(月)15時43分6秒 返信・引用 > No.2318[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 @'……1/10億のくじを、引いてから戻す、という操作を10億人が行う場合。 少なくとも一人が当たる確率は、 1−((999999999/10億)の10億乗) これっていくらになりますかね? 1に近いでしょう。 だとすれば、@と同じく、誰かは当たるはずだったのであり、「偶然」という以外に事前確率の高い説明は存在しません。 もちろん、当たった「自分」にとっては、当たりは奇跡的であり、守護霊か何かを信じたくもなるでしょう。それは@も同様です。 しかし、「自分」以外の人からは(客観的な立場からは)、そのような説明は相手にされないでしょう。 B'……1/10のくじを、引いてから戻す、という操作を9回繰り返すことを10億人が行う場合。 少なくとも一人が当たる確率は、 1−((1−(1/10)の9乗))の10億乗) これは? @'と同じ数値になりますが、1に近いでしょう。 だとすれば、Bとは異なり、誰かは当たるはずだったのであり、「偶然」という以外に事前確率の高い説明は存在しません。 もちろん、当たった「自分」にとっては守護霊か何かを信じたくもなるでしょうが、「自分」以外の人からは相手にされないでしょう。 @、@'、B'のいずれも、素朴な主観確率(自分についての奇跡への驚異)を、客観的な視点によって修正しなければならない例だと思われます。 下の文の補足 投稿者:蝉 投稿日:2009年 8月 3日(月)07時24分47秒 返信・引用 @'は、そして私が当たりを引いた場合(他の人も当たりを引くかもしれない)、 B'は、そして私が当たりを9回全て引いた場合(他の人も当たりを9回全て引くかもしれない)です。 宝くじ2 投稿者:蝉 投稿日:2009年 8月 3日(月)07時15分1秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 > 10億枚のうち「当たり」がただ一枚だけあらかじめピックアップされており、 >ただ1回の試行で10人のうち一人が当てたとなると、単なる低確率ではなく、 >特定されたターゲットに低確率で当たったことになりますから、 >「単なる偶然」という命題よりもよい説明になりうる仮説がたくさんあるはずです。 > > 「不正操作がなされた」と、「このようなクジ引きは何度もなされていて、 >今たまたま当たったから話題になっているのだ」という二仮説が双璧でしょう。 大分解ってきた気がしますが、確認のため、2つ質問をさせて下さい。 @'……1/10億のくじを、引いてから戻す、という操作を10億人が行う場合。 @に事前確率の高い説明が存在しないとする立場で、@'に事前確率の高い説明が存在する、と思われますか。 B'……1/10のくじを、引いてから戻す、という操作を9回繰り返すことを10億人が行う場合。 Bに事前確率の高い説明が存在するので、B'にも事前確率の高い説明が存在する、と思われますか。 連続当り確率2 投稿者:ハム 投稿日:2009年 8月 2日(日)12時21分55秒 返信・引用 > 1回ごとに当たり一枚のクジN回としても、N個当たりのクジN回としても、いずれにしてもすべて特定の一人に集中して当たるとなると、偶然と片づけることは許されず、説明が必要です。 特定の人に連続して当る確率は、任意の人が当る確立よりもはるかに小さいので、それが起ったとなると偶然では済まされないでしょうね。 蝉さん>20枚に2枚の場合も、同じ操作(2/20×2/20=1/100)をすべきではないでしょうか。ハムさんの使われる「還元」という言葉の意味にもよりますが。 問題は、特定の人が連続して当る、ということなのです。 蝉さんの計算は任意の人が当る確率ですよね。 実はこれ、ギャンブラーの誤謬は誤謬ではないのではないか? という論に展開できるのですが、自信が持てる論になったら今度投稿します。 Re: 皆既日食と宝くじについて 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 2日(日)01時55分21秒 返信・引用 > No.2313[元記事へ] 蝉さんへのお返事です。 > > @の、1/10億のくじを引く者が10人である場合。……C > > Cは「誰か」に起こること自体が低確率ですが、@を説明不要(単なる偶然)と考えるべきならば、Cも説明不要と考えるべきなのではないでしょうか。 > Cは、@と違って、しかるべき説明が必要です。 「ただの偶然だ」という「説明」で納得できる度合が@とCとで同じだと考える人は、騙されやすい人でしょう。 10億枚のうち「当たり」がただ一枚だけあらかじめピックアップされており、ただ1回の試行で10人のうち一人が当てたとなると、単なる低確率ではなく、特定されたターゲットに低確率で当たったことになりますから、「単なる偶然」という命題よりもよい説明になりうる仮説がたくさんあるはずです。 「不正操作がなされた」と、「このようなクジ引きは何度もなされていて、今たまたま当たったから話題になっているのだ」という二仮説が双璧でしょう。 不正操作説も多試行説もともに、単なる偶然説よりも、事前確率はさほど劣っていません(ほぼ同じくらいでしょう)。 すると、現に当たりが出たというデータに照らすと、事後確率において、単なる偶然説はぐんと信憑性を落とすことになります。なにしろ単なる偶然説の尤度が一億分の1であるのに対し、不正操作説も多試行説もともに尤度がほぼ1なのですから、勝負にならないわけです。 皆既日食と宝くじについて 投稿者:蝉 投稿日:2009年 8月 1日(土)14時19分12秒 返信・引用 ハムさんへのお返事です。 >けして「1:400地点近傍に限られ」るわけではありません。 恒星、惑星、衛星の一般的な質量関係と大きさ関係を考えた場合、金環日食と皆既日食の両方が見られる状態と、月が存在できる状態が、思ったより(前情報無しの距離の比で考えた場合より)一致すると思っていたのですが、 >衛生が恒星の前を横切る蝕は 1:n のどの地点でも起こりえます。 (φさんからの引用です) >現状のような皆既日食はある天文ファンの試算によると、 >地球の誕生から32.5億年から51.4億年まで起ることだそうです。 >(現在は45.5億年)地球の寿命を100億年とすると約20%の期間です。 であるのでしたら、考え違いだったようですね。 >話を単純に、10枚に1枚当たりであるくじを、2回引いてすべて、私が当たった。 >普通に計算すると1/100ですね。 > >この問題、20枚に2枚当たりであるくじを、2回引いてすべて、私が当たった。に還元できませんか? > >そうすると、1/190。 10枚に1枚の時、10枚から1枚引いて、引いた1枚を戻してから、また10枚から1枚を引くという操作(1/10×1/10=1/100)をしているので、20枚に2枚の場合も、同じ操作(2/20×2/20=1/100)をすべきではないでしょうか。ハムさんの使われる「還元」という言葉の意味にもよりますが。 φさんへのお返事です。 >Aは、そもそも誰かの身に起こること自体が低確率です。 > 必ず誰かの身に起こるはずの@とは異なります。 >B……10枚に一枚当たりであるくじを、9回引いた。すべて、私が当たった。 > > これは、「凄い事じゃない」ように解釈する必要があります。 > @は説明不要(単なる偶然)と考えるべきだとしても、 > Bを説明不要(単なる偶然)と考える人は、よほど騙されやすい人でしょう。 > Bは、わが身に起きた場合であれ、他人に起きた場合であれ、等しく説明が必要と感じられるはずです。 これには、未だに納得がいきません。たとえば、 @の、1/10億のくじを引く者が10人である場合。……C Cは「誰か」に起こること自体が低確率ですが、@を説明不要(単なる偶然)と考えるべきならば、Cも説明不要と考えるべきなのではないでしょうか。 >説明が必要な理由の最たるものは、すでに述べましたが、真である事前確率の高い説明が存在するということでしょう 結局のところ、前提条 がどれだけ信じられるかによりそうですね。くじを作る操作が公開されていたなら、「くじの当たりが周到に一人に集中するよう仕組まれていた」は事前確率の高い説明にはなりえないでしょうし。 Re: 連続当り確率 投稿者:φ 投稿日:2009年 8月 1日(土)04時46分4秒 返信・引用 > No.2311[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 1回ごとに当たり一枚のクジN回としても、N個当たりのクジN回としても、いずれにしてもすべて特定の一人に集中して当たるとなると、偶然と片づけることは許されず、説明が必要です。 説明が必要な理由の最たるものは、すでに述べましたが、真である事前確率の高い説明が存在するということでしょう。 連続当り確率 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月31日(金)19時05分44秒 返信・引用 >B……10枚に一枚当たりであるくじを、9回引いた。すべて、私が当たった。 >Bは、わが身に起きた場合であれ、他人に起きた場合であれ、等しく説明が必要と感じられるはずです。 話を単純に、10枚に1枚当たりであるくじを、2回引いてすべて、私が当たった。 普通に計算すると1/100ですね。 この問題、20枚に2枚当たりであるくじを、2回引いてすべて、私が当たった。に還元できませんか? そうすると、1/190。 そう考えると明らかに低確率です。 Re: 皆既日食7 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月31日(金)01時48分29秒 返信・引用 > No.2309[元記事へ] ハムさんと蝉さんへのお返事です。 > >@もAも、主観的に等しく珍しい事象で、説明の必要度も同じだと思うのですが、 >どうでしょう。 > 既述しましたが、Aは、そもそも誰かの身に起こること自体が低確率です。 必ず誰かの身に起こるはずの@とは異なります。 したがって、自分の身に起きる確率は@とAとは同じでも、Aの場合だけ説明が求められることになります。 > >@もAも、……個々の信念への疑いは適当に振り分けられ、漠然と、 >「良く分からんが、1つか複数の"どれか"の信念が間違いで、 >考えていたよりは凄い事じゃないのかもしれないなぁ。」 >と思う程度ではないでしょうか。 > @と、次のBとを比べるともっと鮮明でしょう。 B……10枚に一枚当たりであるくじを、9回引いた。すべて、私が当たった。 これは、「凄い事じゃない」ように解釈する必要があります。 @は説明不要(単なる偶然)と考えるべきだとしても、 Bを説明不要(単なる偶然)と考える人は、よほど騙されやすい人でしょう。 Bは、わが身に起きた場合であれ、他人に起きた場合であれ、等しく説明が必要と感じられるはずです。 > > そんなことは不思議でもなんでもないのだ、人間原理的にあたりまえなのだ、とか言われるとあんまり面白くありません。 > 皆既日食の不思議を、知的生物の進化の不思議へと還元できるとすれば、それはそれで納得のゆくことだと思います。 > > なぜ、ディラックの大数仮説のようなファインチューニングがあるのか? > なぜ、今観測している皆既日食のようなファインチューニングがあるのか? > なぜ、ハビタブルゾーンに地球があるようなファインチューニングがあるのか? > 多宇宙には、とてつもなく多くの、とてつもなく広い諸宇宙が含まれるから、 どこかでは皆既日食等々が起こる、が正解でしょう。 あとは人間原理の出番、一 落着です。 皆既日食7 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月30日(木)18時16分28秒 返信・引用 蝉さん>太陽が全部隠れるほどに月が大きく見えれば観測される現象なのではないでしょうか。 確かにそうなのですが、今観測しているような日食を話題にしています。そこは寛容の原則ということで。 蝉さん>思っていたより1:400地点近傍に限られているわけです。 現状のような皆既日食はある天文ファンの試算によると、地球の誕生から32.5億年から51.4億年まで起ることだそうです。(現在は45.5億年)地球の寿命を100億年とすると約20%の期間です。けして「1:400地点近傍に限られ」るわけではありません。 >ハムさんの問いは、「私たち知的生物が存在するのを不思議がるのはおかしいのでしょうか?」と同じことですね。 結局そうなってしまうのですね。 今観測するような皆既日食が人間にとって必要なら、そのことだけでも、とてつもなく低確率な現象だと思えます。 他にもファインチューニングは必要でしょうから、人間の存在はそれこそ気の遠くなるような低確率な現象なのでしょう。 それをですよ。 そんなことは不思議でもなんでもないのだ、人間原理的にあたりまえなのだ、とか言われるとあんまり面白くありません。 >というわけで、皆既日食は、大いに説明を必要とするでしょう。その説明はもちろん、知的生物の存在への説明とほぼ一致します。 ぜひ、その説明を聞きたいのです。 なぜ、ディラックの大数仮説のようなファインチューニングがあるのか? なぜ、今観測している皆既日食のようなファインチューニングがあるのか? なぜ、ハビタブルゾーンに地球があるようなファインチューニングがあるのか? ・ ・ ・ なぜ、これらのファインチューニングが同時にしかも人類に対して起っているのか? ちなみに、太陽のハビタブルゾーンは0.97〜1.39AUだそうです。 その範囲は約0.4です。 ここでも、またまた摩訶不思議数4です。 摩訶不思議な謎↓ なぜ、ファインチューニングは数字の4が関係するのか? 下の文の訂正 投稿者:蝉 投稿日:2009年 7月30日(木)16時11分50秒 返信・引用 n=0.0001とかいう事態は非常に実現しにくいのではないでしょうか。 ↓ n=0.0001とかいう事態は、n=400やn=1000に比べ、非常に実現しにくいのではないでしょうか。 に訂正します。 Re:Re皆既日食について 投稿者:蝉 投稿日:2009年 7月30日(木)16時05分44秒 返信・引用 φさんへのお返事です。 >@と違ってAは、説明を必要とします。 理由は2つ。 一:「自分を「誰か」に置き換えたとき、「誰か」の身に起こること自体が驚くべきことだったから。」 二:「単なる偶然という以外の、事前確率の高い説明がありうるから。(たとえば、三つのくじの当たりが周到に一人に集中するよう仕組まれていた、など)」 一について。 宝くじに当たることに関しては、観測選択効果が働くことはないので、とりわけAの場合にのみ説明を必要とすることはないのではないでしょうか。観測選択効果が働かない以上、@もAも、主観的に等しく珍しい事象で、説明の必要度も同じだと思うのですが、どうでしょう。 二について。 @もAも、1等の当選を実際に観測した場合、それに関する信念(理論)を全て「かつ」で接続した命題(「当選確率は1/10億」かつ「1等の当選は事実である」かつ「自分の当選確率を上げる不正な操作は無かった」かつ…)の確度が大きく下がるとは思います。しかし、具体的な個々の信念(上の例は、更にもっと基本的な信念に分割できそうです)を否定するほどではないと思います。個々の信念への疑いは適当に振り分けられ、漠然と、 「良く分からんが、1つか複数の"どれか"の信念が間違いで、考えていたよりは凄い事じゃないのかもしれないなぁ。」 と思う程度ではないでしょうか。 「仮に皆既日食が珍しい現象だったとしても、既存の説を確率的に否定したり、新しい説を打ち立てるようなこと(=説明を要すること)はない」と書いたことと矛盾するように見えますが、 私は、仮に皆既日食が珍しい現象だった場合、 >皆既日食は、大いに説明を必要とするでしょう。その説明はもちろん、知的生物の存在への説明とほぼ一致します。 というφさんの意見に賛成です。 ただ、「知的生物の存在への説明」を説く立場というのは、 「では、なぜ、知的生物が存在できる環境で○○が観測されるのか?我々が観測している謎は解決したが、知的生物が生存できる環境についての謎にすり替わっただけではないか。○○が低確率の謎を解消していないではないか。」 という再質問に対して、 「確かに○○は低確率かもしれないが、特定の理論を否定したり、新しい理論を打ち立てることはないだろう。」 と、答える立場だと思うのです。 >「日食時に月が存在できる地点は、思っていたより1:400地点近傍に限られている」などということは決してなく、 >衛生が恒星の前を横切る蝕は 1:n のどの地点でも起こりえます。 天体に関してはあまり明るくないのですが、一般的には恒星の質量>惑星の質量だろうから、恒星にかなり近い衛星が存在すること、例えば日食時の、n=0.0001とかいう事態は非常に実現しにくいのではないでしょうか。 Re: 皆既日食について 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月30日(木)02時09分11秒 返信・引用 > No.2305[元記事へ] ハムさんと蝉さんへのお返事です。 > >この説明では皆既日食の低確率の謎を解消していませんよね。 >皆既日食を不思議がるのはおかしいのでしょうか? > ハムさんの問いは、「私たち知的生物が存在するのを不思議がるのはおかしいのでしょうか?」と同じことですね。 どこかに一度でも知的生命が存在するということはさほど低確率のことではないでしょう。 そして、それらの知的生命が私たちであるのは必然です。 (SSAもしくは逆観測選択効果により) > > 月の軌道の長径、短径はどこまでも大きくなれるわけではなく >(地球から離れれば離れるほど、他の天体の引力の影響が大きくなるので)、 >月は、太陽、地球のうち、かなり地球よりを回ることになると思います。 >太陽と地球の質量比から考えても、 >1:400地点より大きく太陽側に存在することは無いでしょう。 >つまり、日食時に月が存在できる地点は、 >思っていたより1:400地点近傍に限られているわけです。 > 「日食時に月が存在できる地点は、思っていたより1:400地点近傍に限られている」などということは決してなく、衛生が恒星の前を横切る蝕は 1:n のどの地点でも起こりえます。恒星と衛星の大きさのバリエーションを考えると、客観的には(観測選択効果を考慮に入れなければ)皆既日食と金環日食の実現はとんでもなく低確率であるというのは確かでしょう。 > > あと、仮に皆既日食が珍しい現象だったとしても、 >それは既存の説を確率的に否定したり、新しい説を打ち立てるようなこと >(=説明を要すること)はないのではないでしょうか。 >宝くじで1等が当たったからと言って、確率論を疑ったり、 >運勢理論を打ち立てたりしないことと同様に。 > 宝くじは、誰かが当たらなければなりませんからね。 一度だけのクジで、十億枚に一枚の当たりが自分に当たっても、それはそれとして受けとめるしかないでしょう。……@ しかし、3回だけのクジで、それぞれ千枚に一枚が当たりのとき、3回とも自分に当たった場合はどうでしょう。……A Aは、自分にそのようなことが起こるのが十億分の1の確率という点では、@と変わりありません。 しかし、@と違ってAは、説明を必要とします。 理由は2つ。 Aは、@と違って、自分を「誰か」に置き換えたとき、「誰か」の身に起こること自体が驚くべきことだったから。そして、Aは@と違って、単なる偶然という以外の、事前確率の高い説明がありうるから。(たとえば、三つのくじの当たりが周到に一人に集中するよう仕組まれていた、など) というわけで、皆既日食は、大いに説明を必要とするでしょう。その説明はもちろん、知的生物の存在への説明とほぼ一致します。 皆既日食について 投稿者:蝉 投稿日:2009年 7月29日(水)13時32分57秒 返信・引用 下の皆既日食の話題について素朴に思ったんですが、皆既日食は月と太陽がほぼ同じ大きさに見えなければ観測されないのではなく、太陽が全部隠れるほどに月が大きく見えれば観測される現象なのではないでしょうか。 そう考えると、「なぜ皆既日食が見られるのか?」よりも、「なぜ、金環日食、皆既日食の両方が見られるのか?」=「日食時の、地球から月、月から太陽の距離の比で考えたとき、なぜ月が地球から最も遠のいている地点と、近づいている地点が、1:400地点をまたぐのか?」に疑問をシフトさせた方が、ハムさんの疑問に合致すると思います。 その上で、金環日食と皆既日食の両方が観察されることはそこまで特殊な現象なのでしょうか? 月の軌道の長径、短径はどこまでも大きくなれるわけではなく(地球から離れれば離れるほど、他の天体の引力の影響が大きくなるので)、月は、太陽、地球のうち、かなり地球よりを回ることになると思います。太陽と地球の質量比から考えても、1:400地点より大きく太陽側に存在することは無いでしょう。つまり、日食時に月が存在できる地点は、思っていたより1:400地点近傍に限られているわけです。 あと、仮に皆既日食が珍しい現象だったとしても、それは既存の説を確率的に否定したり、新しい説を打ち立てるようなこと(=説明を要すること)はないのではないでしょうか。宝くじで1等が当たったからと言って、確率論を疑ったり、運勢理論を打ち立てたりしないことと同様に。 皆既日食6 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月29日(水)10時45分10秒 返信・引用 >太陽と月の見かけサイズの一致は、さもありなん的一致かもしれません。 人間原理では、宇宙は人間の存在を許すようなものでなければならない、というのですよね。 そうすると、太陽と月と地球の関係は人間の存在を許すようにファインチューニングされているということで、それが皆既日食だとなるわけでしょうか。 この説明では皆既日食の低確率の謎を解消していませんよね。 皆既日食を不思議がるのはおかしいのでしょうか? Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月28日(火)04時58分49秒 返信・引用 > No.2301[元記事へ] フカワさんへのお返事です。 > > 「これが○○ならば、これは◎◎である」というふうに、アルゴリスティックに当てはめて考えるだけではダメなのですね。まったくコトバってのはややこしいです。 > > コトバがややこしいのか、生物というのがややこしいのかはわかりませんが。 > おそらく、爬虫類、鳥類、脊椎動物、などの単語は、そもそも分類学のような学問的営為があって初めて調達された言葉であり、トリ、トカゲ、サカナ、などは日常言語の自然発生的単語として生じた、というような違いではないでしょうか。 個々の個体に直観的にあてはまるのが自然言語的単語で、分類という人為に沿ってのみ使われる高階の単語が爬虫類、鳥類、ヒト科、等々というのが私の理解です。 むろんこれから、幼稚園児でも爬虫類とか哺乳類とかしょっちゅう言うようになれば、トリやムシやサカナと同レベルの(個体をじかにメンバーとする)概念へ変じていくかもしれませんね。 Re: 皆既日食5 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月28日(火)04時51分19秒 返信・引用 > No.2300[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 たしかに見かけの大きさの一致は奇妙ではあります。 太陽の熱エネルギーと、月の潮汐力とが、ちょうど地球を生命居住惑星に仕立てるためには、まさに熱と重力がちょうどであればよいので、見かけの大きさは関係ないですから。 むろん、熱と重力の値からそれぞれ距離と質量が決まり、自ずと見かけの大きさの一致が帰結するのですが、なんだか不必要な帰結には違いありません。 しかし、生物の発生には無数の「バランス」が必要であることを思えば(というより生物そのものがとてつもない「バランス」であることを思えば)、太陽と月の見かけサイズの一致は、さもありなん的一致かもしれません。 宇宙定数が0付近に調整されていないと生物が発生できない、というのと同種の理屈でしょう。 Re: (無題) 投稿者:フカワ 投稿日:2009年 7月27日(月)23時43分46秒 返信・引用 > No.2284[元記事へ] φさんへのお返事です。 > 「爬虫類を列挙しなさい」 > といきなり言われたら、たいていの人は、 > 「えーと、トカゲ、ワニ、ヘビ、カメ……」と言うような気がします。 > 一匹一匹のトカゲやヘビを指差そうとはしないでしょう。 これはわかりやすかったです。 僕も「えーと、ヘビ、カメ、トカゲ、イグアナ・・・」と答えると思います。(えーとの部分の含めてww) 「これが○○ならば、これは◎◎である」というふうに、アルゴリスティックに当てはめて考えるだけではダメなのですね。まったくコトバってのはややこしいです。 コトバがややこしいのか、生物というのがややこしいのかはわかりませんが。 皆既日食5 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月27日(月)15時56分30秒 返信・引用 皆既日食をしのぐスペクタクルはたくさんありそうですが、ただのスペクタクルではなく同一性のスペクタクルは珍しいわけです。 大きさ比と距離比が400倍で同じというような異なった物理量の比率が同じになる確率はものすごく低いと思えます。 実際に太陽系では皆既日食が起っているのは地球だけです。 特に月の場合は、地球に比べて大きすぎるのです。 月のサイズは地球の約1/4(ここでも摩訶不思議数「4」!)で、この比率は太陽系で最大です。 Re: 皆既日食4 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月25日(土)22時08分40秒 返信・引用 > No.2298[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 個々の物体やその位置関係までもが我々の存在によって許容範囲が決まるとしても、 >皆既日食のようなファインなチューニングまでは要請しないのではないでしょうか。 > Re: 皆既日食3 でも述べましたように、 ファインなチューニング〜美的な天体現象ということなら、皆既日食をしのぐスペクタクル(しかも地球では決して経験できないもの)はいくらでもあると思われます。 美的な序列でいけば、皆既日食はたぶん中ぐらいでしょう。 だとすれば、とくに皆既日食が生命誕生とは独立の理由で始めに特定されていない限り、地球で皆既日食が観測される、ということに何の特別な意義もありません。 美的にダントツでない現象なのですから、美という基準で事前特定することはできず、 いわば宝くじの当たりではない平凡なハズレクジに相当します。 そのような皆既日食を事後的に指差して「こともあろうにああいうものが観測される環境だったとは!」と感慨に耽るのは、「意識の超難問」と同じ幻想でしょう。 むろん、月の質量・位置と、太陽の質量・位置は、居住可能惑星にとっては自ずと特定範囲に定まりますから、私たちの生存にとって皆既日食は必然でしょう。 ただ皆既日食は、液体の水、地磁気、空気、プレートテクトニクス、木星、等々の存在と同程度の美的価値しか持たないでしょう。 ** 一つ修正です。 10の40乗という無次元数には、単位は関係ありませんでしたね。 「単位と」は削除して、 * *たまたま選ばれた十進法のゆえに4が偶然出てきただけで、何の深い理由もないのでは? * と書くべきでした。 皆既日食4 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月25日(土)13時47分47秒 返信・引用 >たまたま選ばれた単位と十進法のゆえに4が偶然出てきただけで、何の深い理由もないのでは? まあ、四捨五入した結果なのでしょうが、皆既日食でも4が関係する確率は1/10でしょうから、偶然だとしても許容はできますね。 そして次の問題なのですが、 我々が存在する以上は皆既日食が起っていなければいけない、とまで言ってしまっていいのでしょうか。 個々の物体やその位置関係までもが我々の存在によって許容範囲が決まるとしても、皆既日食のようなファインなチューニングまでは要請しないのではないでしょうか。 これはあまりにも奇妙ではないでしょうか。 Re: 皆既日食3 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月25日(土)01時18分5秒 返信・引用 > No.2296[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > 我々が観測するファインチューニングは何故「4」という数字が関係するのか? > > 「4」という数字は美的ではないですよね。 たまたま選ばれた単位と十進法のゆえに4が偶然出てきただけで、何の深い理由もないのでは? しかも、初期には10の40乗と称されていた「魔法の無次元数」は、最近では「10の36乗」と言われることが多いようです。 いつのまに1万倍も小さくなったんでしょうね? まあ、物理学では1万倍程度はunityの範囲内だそうですから、もともとがそう厳密なハナシではなかったわけですね。ディラックはあたかも大変な一致であるかのように誇大広告していたようで、それに無理して合わせて反論するとすればディッケのような観測選択効果の節約論法で切り抜けられますよ、という話だったのでしょう。 ところで、BTXさんの言う美的観測選択効果ですが、 私は天文ファンではないのでアバウトな話で申し訳ありませんが、 美的な天体スペクタクルといえば、地球をはるかに凌ぐ光景があちこちの惑星上に当たり前のように露呈されていると思われます。 たとえば、恒星系のうちかなりの割合を占める連星系にある惑星から見れば、主星と伴星による蝕は、皆既日食などよりも遥かに複雑壮麗な光景かもしれません。 あるいは、複数の衛星が作る蝕や、衛星から見た惑星と恒星の蝕、三連星の蝕など、とてつもない光景が繰り広げられている惑星はたくさんあるはずです。 連星系の惑星には生物は進化できないので、結局、最高の美的天体ショーのほとんどは、もったいないことに知的観測者のいない場所で展開されている、ということかもしれません。 あと、天文学的探究に最も適している場所にしても、 インテリジェント・デザインの人たちが言うのとは裏腹に、観測が大気によって邪魔されない恒星間空間でしょうしね。 皆既日食3 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月24日(金)09時59分1秒 返信・引用 >とくに皆既日食にこだわる必要はないと思います。 それは、BTXさんもいう(美的?)観測選択効果であって、我々はそれを必然的に選択してしまうだけなのだ。 結構です。 そういうことだと妥協しましょう。 ところが、まだ謎はあるのです。 ディラックの大数仮説 ・電磁気力と重力、10の40乗倍。 ・光が陽子の半径と宇宙の半径を進む時間、10の40乗倍。 ・陽子と中性子の数、10の40乗倍の2乗です。 ・ ・ ・ 皆既日食 ・太陽と月の大きさ、400倍。 ・地球からの太陽と月の距離、400倍。 我々が観測するファインチューニングは何故「4」という数字が関係するのか? 「4」という数字は美的ではないですよね。 Re:皆既日食 投稿者:BTX 投稿日:2009年 7月24日(金)01時34分48秒 返信・引用 ・皆既恒星食はサイズ的に結構簡単に起こる ・皆既月食はサイズ的に結構簡単に起こる ・皆既W食はサイズ的に結構簡… ・皆既X食はサイズ的に… ・皆既日食はサイズぴったりでめったに起こらない(!) ・皆既Y食はサイズ的に起こらない ・皆既Z食はサイズ的に… という稠密な食現象系列の中からの "美的" 選択効果により、 どれかの食現象が「サイズぴったりでめったに起こらず摩訶不思議」と選択される確率は1… というのでどうでしょうか。かつ、「珍食」がひとつもなければスルーされて謎が想起されないと。 私は「お手軽な皆既月食」の存在の方に逆説的ヒントがある気がします。 >よりによって何故あの唯一の太陽と月の皆既日食なのか? >うまい説明はないものなのでしょうか? なぜ「メイン天体 No.1 と No.2 による見た目サイズ一致皆既食」だったのか? 「目視でサイズを感じるメイン天体が2つあるとすると高い確率でそれは自星の公転中心の恒星と自星の衛星である」 でいいでしょうか。あとはそれが「見た目サイズ一致皆既食」を起こす部分ですが、そこは先ほどの美的選択効果で。 こうなるとバラバラとランダムに天体を配置してシミュレーションしたくなってきます。 あまりいい方法で考えすぎると ST の事前確率が高まって…? p.s. 私は今年の皆既日食を見に行ってきました。あいにく曇りでしたが。 雲間・チューニングや仕事スケジュール間・チューニングなど、 想像以上の定数一致が必要でした。 Re: 皆既日食2 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月24日(金)00時58分33秒 返信・引用 > No.2293[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > よりによって何故あの唯一の太陽と月の皆既日食なのか? > うまい説明はないものなのでしょうか? > とくに皆既日食にこだわる必要はないと思います。 月と太陽は地球人にとって確かに重要な天体で、その見かけの大きさが一致するというのはなんとも出来過ぎには思われます。 しかし、 @皆既日食そのものはめったに経験されず、稀な観測の機会もしばしば雨や雲であっけなく妨害されてしまう(今回のように)という、ランダムな攪乱要因にかき乱されている。とりたててファインにチューニングされているとも思われない。 A皆既日食が人類の知的探究を促進する必須要因であるなら、確かにウルトラファインなチューニングであるが、それは「私たち」が真に内省的探索的な私たちであるための必要条 であるにすぎず、人間原理的に当たり前のことである。 皆既日食のないどこか他の惑星上に知的生命がいるかもしれないが、彼らは探究と内省が発達していないため「私たち」である確率はもともと低かった。 というわけで、皆既日食はそれほど不思議ではないと私は考えています。 皆既日食2 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月23日(木)10時26分26秒 返信・引用 聖書の民達の聖書臭い説明は、日本では人気がないようです。 人類のアフリカ・イブ起源説もにわかには信じない方がいいと思います。 ファインチューニングを観測することに不思議はないのですが、それがよりによってあの皆既日食だったというのがすっきりとしないわけです。 我々にとって唯一の、古代より神のように崇めてきたあの太陽と月をあたかも指定したかのようにファインチューニングがあるのは何故かというわけです。 もっと他のありふれた物にファインチューニングがあるのが自然だと感じるわけです。 この意味で、ディラックの大数仮説は皆既日食よりもありふれたファインチューニングだと思えます。 よりによって何故あの唯一の太陽と月の皆既日食なのか? うまい説明はないものなのでしょうか? Re: 皆既日食 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月23日(木)03時07分51秒 返信・引用 > No.2291[元記事へ] ハムさんへのお返事です。 > > 我々が観測する月と太陽は、そのような400倍の関係でしか観測されないのだ。 > なぜかならば、月のほうが大きく見える遠い過去の時代では人間は進化していなかったのだから。 > > > こういう説明はどうしても釈然としないものが残るのですよね。 > 皆既日食がなければ、太陽のコロナ観測などから恒星成分を知ったり、重力レンズ効果の実証で一般相対性理論を検証したりすることができず、宇宙の認識が獲得できなかった。神(もしくは知性的創造主)が、人間に科学的探究をさせるために、生存可能ゾーンと科学的探究に好都合なゾーンとを一致させたのだ。 ↑こんな説明をするインテリジェントデザイン一派がいます。 彼らは同じ議論を、銀河系内における太陽系の位置や、銀河系の形などにも適用しています。 彼らの情熱は凄まじいものがあります。 たしかに、私たちは意識を持って生きていれば十分なのであって、科学的探究に好都合な環境にすんでいる必要はなかったでしょう。 が、『多宇宙と輪廻転生』第W部「皆既日食の原理」で述べたように、科学あってこその「ファインチューニングを論ずる私たち」だとするならば、強い観測選択効果によって、皆既日食の成立する環境に私たちは存在せざるをえなかった、ということになります。 つまり太陽と月の見かけの大きさの一致には、何の不思議もないわけです。 ただし、皆既日食があるからこそ宇宙の正しい認識が可能になる、という前提はかなり疑わしいわけですけれどね。 皆既日食 投稿者:ハム 投稿日:2009年 7月22日(水)10時45分30秒 返信・引用 ご無沙汰しております。 日本で46年ぶりの皆既日食があります。 これは太陽と月がほぼ同じ大きさに見えるから起ることです。 月と太陽の大きさの比は約400倍です。 距離の比も約400倍です。 これは大変に不思議なことに感じます。 地球にとって唯一の太陽と月が400倍の関係で同じに見える、その確率たるやおそらく極小でしょう。 そういえばディラックの大数仮説も「4」という数字がキーワードでした。 日食も「4」00倍。 不思議です。 この不思議さに対して人間原理ならこう↓いうのではないでしょうか。 そんなことは不思議でもなんでもない。 我々が観測する月と太陽は、そのような400倍の関係でしか観測されないのだ。 なぜかならば、月のほうが大きく見える遠い過去の時代では人間は進化していなかったのだから。 こういう説明はどうしても釈然としないものが残るのですよね。 もっとすっきりと釈然としたいのです。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月21日(火)04時14分45秒 返信・引用 > No.2289[元記事へ] 報復絶倒さんへのお返事です。 > あれ、記事書いた新聞社からは新聞もらってないのですか? >インタビューまでとっているのに、 >それ載せる記事は本人に見せんでもよいだろうってことなんですかね? > 取材は共同通信から来たのでした。出来た記事をいくつかの新聞社に配信したということでしょう。 そのうちのどのくらいの分量を、どのようなデザインで掲載するかは各新聞社の裁量、ということだと思います。掲載時期も2週間くらいの範囲でまちまちなんじゃないですかね。 > >ちなみにこの記事は、サプリばっか取る食事に対して少し批判的な内容でした。 >自分はなんか釈然としませんでしたけど。 > 新聞はまあ色々あっていいんですけど、テレビだと、カップめん+錠剤一気飲み映像を見ながらスタジオで栄養学者が「こういうのはいけませんねぇ」とコメント、という定型でしたね。 自然がよいと思い込む誤り、現代の三度の食事が自然だと思い込む誤り、この二大誤りを私に語らせてくれるならともかく、 紋切り型の「栄養は三度の食事で」を繰り返すための素材になるのはさすがにもうお断りってことにしてます。 生物進化論的に冷静に考えると、サプリで栄養とった方がいいに決まってるんですよね。 私みたいに成分よりデザインやタイトル重視主義ってのは体によくないでしょうけど。 Re: (無題) 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 7月20日(月)11時06分5秒 返信・引用 > No.2288[元記事へ] φさんへのお返事です。 > 私はまだ見ておりません。そのうち共同通信から何種類かの新聞を送ってくれるとのことで。 あれ、記事書いた新聞社からは新聞もらってないのですか?インタビューまでとっているのに、それ載せる記事は本人に見せんでもよいだろうってことなんですかね? > 実演型でなく「話を」という場合は応じることにしているのですが、なぜか「お話はけっこう、とにかく錠剤を皿に盛り上げてカップめんを食べていただければ」てのが多いんですよね。 記事に使われてた写真はまさにそんな感じでした(笑)。ちなみにこの記事は、サプリばっか取る食事に対して少し批判的な内容でした。自分はなんか釈然としませんでしたけど。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月20日(月)01時11分15秒 返信・引用 > No.2287[元記事へ] 報復絶倒さんへのお返事です。 私はまだ見ておりません。そのうち共同通信から何種類かの新聞を送ってくれるとのことで。 「錠剤生活の取材」はとにかく需要が絶えないようです。 紙媒体は基本的に応じますが、テレビの密着や食事実演型依頼は、一時期応じてましたが、文化的に意義が極薄なことがわかったので今は断っています。 実演型でなく「話を」という場合は応じることにしているのですが、なぜか「お話はけっこう、とにかく錠剤を皿に盛り上げてカップめんを食べていただければ」てのが多いんですよね。 Re: (無題) 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 7月19日(日)20時39分23秒 返信・引用 > No.2286[元記事へ] φさんへのお返事です。 > やはり語用論は、まずは主観確率論と言っておきたいです。 主観確率論って事はやはりベイズ確率論ですか?うう、確率論の勉強も避けては通れんのですね。 ところで北日本新聞7月19日号の総合面に「1日300錠の”食事”」という見出しのφ様に関する記事載ってました。φ様ご本人は見られましたか? Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月14日(火)05時23分28秒 返信・引用 > No.2285[元記事へ] 報復絶倒さんへのお返事です。 > > ああ、やっぱり語用論について書かれた教科書というのは少ないのですね。 > もちろん、オースティンの『言語と行為』やグライスの『論理と会話』のような名著はありますが、語用論を意味論的論理に直結させているかというとかなり疑問ですね。 やはり語用論は、まずは主観確率論と言っておきたいです。 (無題) 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 7月13日(月)22時55分29秒 返信・引用 > 主観確率が関わる仮説検定は、意味論と語用論が自然にリンクしてくるので、 そのあたりの本ということになるでしょう。 結局は、人間原理関係ということになるのですが、教科書風のものはなかなかありませんね。 今もって、ボストロムの例の本くらいでしょうか。 あとは、眠り姫問題を論じた論文などを漁るのが手かもしれません。 ああ、やっぱり語用論について書かれた教科書というのは少ないのですね。 自分は外国語のはおろかそもそも研究論文を読みこなせるレベルにはいないので 語用論をちゃんと理解するのはまだ無理のようです。 まだしばらくは入門書レベルの意味論と統語論を完全に制覇することに専念したほうが無難のようですね。 Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月13日(月)02時11分32秒 返信・引用 > No.2283[元記事へ] フカワさんへのお返事です。 > > 三浦先生は、「トカゲと爬虫類の関係は、集合と要素の関係」と書かれていましたが、「これがトカゲならば、これは爬虫類である」という文章は明らかに正しいのではないでしょうか。 > > そうですね、なかなか難しいですね。 生物学の分類の仕方も、分岐学、表形学、進化分類学、等々が対立していて、さらに種は個体かどうかなど、さまざまな立場があるようです。 生物学も気にしつつもさしあたり日常言語の単語で考えるとして、 「爬虫類を列挙しなさい」 といきなり言われたら、たいていの人は、 「えーと、トカゲ、ワニ、ヘビ、カメ……」と言うような気がします。 一匹一匹のトカゲやヘビを指差そうとはしないでしょう。 ただ、ここでは「トカゲ」「ワニ」「ヘビ」などを暗黙に種の名前として使っています。 厳密には、種の名前は「○○トカゲ」「△△ワニ」などとなるわけですが、個別のトカゲの種と「トカゲ」との関係は、部分・全体関係だと思います。「トカゲ」という言葉は、ふつうそのくらいに種名っぽく使っていると思います。 しかし、「爬虫類」となると、あきらかに上位分類の名として使っていて、その要素となるのは個体ではなく種であると感じられます。 「トリ」「サカナ」などと言えば「トカゲ」「カメ」等と同じく、鳥や魚の各々の種と全体・部分関係にあり、個々の個体を要素とすると思うのですが、 「鳥類」「魚類」などと言えば、これは「爬虫類」と同じく、種を要素とするのであり、個体を要素としないと思います。 「あそこを飛んでいるのはトリだ」は普通の言い方ですが、「あそこを飛んでいるのは鳥類だ」というのは明らかに変です。何かの省略形――「あそこを飛んでいる生き物の種は、鳥類に属する」――としか考えられません。 あくまで日常言語についての私の直観で、確信はありません。 そもそも「種は個体だ」という有力な説があって、その説によれば、個体と種の関係は細胞と個体の関係のようなもので、集合で捉えることは不適切ということになります。 したがって、私の以上の直観は、個体と種の関係が要素・集合関係であるという前提に立ってのものですが、 閉じた生殖システムをなす種と個体の関係よりも、 そうした閉じたシステムをなさないコモドオオトカゲと爬虫類の関係のほうが、 要素・集合関係で考えやすい(部分・全体関係では捉えにくい)ような気がするわけです。 あくまで直観です。整合的な言語活動を最大化するであろうという直観。 (無題) 投稿者:フカワ 投稿日:2009年 7月12日(日)22時12分34秒 返信・引用 三浦先生のさまざまな本を楽しく読ませていただいています。 「心理パラドクス」を読んで一つ疑問に思ったことがあって、書き込みさせていただきます。 「計算機科学者・坂間千秋との導入的討論」にもあるのですが、そこでも触れられていないようなので・・・。 集合の部分と要素の関係ですが、「A⊆B」と「x∈A⇒x∈B」は同値であると理解しています。つまり、「AがBの部分である」と「任意のものについて、それがAの要素ならば、それはBの要素である」という文章はまったく同じ意味を持つということです。 三浦先生は、「トカゲと爬虫類の関係は、集合と要素の関係」と書かれていましたが、「これがトカゲならば、これは爬虫類である」という文章は明らかに正しいのではないでしょうか。さらに、∈は無定義語ですから、要素も部分もどちらも正しいように思えるときは∈を使わないほうがいいのではないでしょうか。 大学の先生で、もうすぐ試験でお忙しいと思いますが、ご検討よろしくお願いします。 Re: 間隔空きました 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月12日(日)20時51分24秒 返信・引用 > No.2281[元記事へ] 報復絶倒さんへのお返事です。 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/2249 からですね。 > > 何か語用論的背理法は他の背理法と違いが大きすぎて自分は苦手です・・・。 > 語用論を意味論と統語論との関係まで包括してしっかり学べる本というのは何かないのでしょうか? > 主観確率が関わる仮説検定は、意味論と語用論が自然にリンクしてくるので、そのあたりの本ということになるでしょう。 結局は、人間原理関係ということになるのですが、教科書風のものはなかなかありませんね。 今もって、ボストロムの例の本くらいでしょうか。 あとは、眠り姫問題を論じた論文などを漁るのが手かもしれません。 間隔空きました 投稿者:報復絶倒 投稿日:2009年 7月12日(日)04時24分59秒 返信・引用 φ様、どうもお久しぶりです。事情によりしばらく家に帰れなかった為、 前回の返事のお礼が遅くなりましたその節はありがとうございました。 > だいたいそうですが、今やテクノロジーによって、誰も子どもを産まなくても、 対外授精、人工子宮、クローンなどによって人間を増やせるので、産まないことが義務で あるような社会も、存続できるのではないでしょうか。 あらら、これは予想外の答えですが、確かに小規模な社会なら近い将来、実現可能になる気がします。実現させようと考える人がいるかどうかはわかりませんが・・ 何か語用論的背理法は他の背理法と違いが大きすぎて自分は苦手です・・・。 語用論を意味論と統語論との関係まで包括してしっかり学べる本というのは何かないのでしょうか? Re: あの方 投稿者:φ 投稿日:2009年 7月 8日(水)14時46分26秒 返信・引用 > No.2276[元記事へ] ch7さんへのお返事です。 早々に御本人からメールでお知らせいただいたので、見ました。 で、 「「68の指摘」それぞれについて反論いただければ面白いですね。そのうち一つでも「なるほど〜」と思わせる反論があったら、私はそちらのブログ上で謝罪します」 と御返事したのですが、 「68に一つ一つ答えることには、あまり意味を見いだしません」 とのことで、議論なさる気はないようです。68の内容全部について一括して反論することだけが可能、というニュアンスでした。 そういうアバウトな言説をいくら公示しても誤解を増殖させるだけですから、私も背を向けることにします。 私はIntelligent Design系の本が好きでけっこう読むのですが、ああいうトンデモ系は、主流科学が異端思潮を常に弾圧もしくは無視する、という被害妄想に囚われているようです。 実際は逆で、現行の物理学なり論理学なりが不備もしくは誤謬であることがなんとか暴露されれば面白いと、学者らは虎視眈々としているのですが。 見込みある異端学説が出てきたら、主流派内部でむしろもてはやされるはずです。 Deviant Logic の市場が、単なる便宜的応用を超えて形而上学レベルで衰えないのもその理由によるでしょう。 Intelligent Designとプ○ダ論理学の違いは、前者が正統ダーウィニズムを一応正確に理解した上で宗教的バイアスに囚われているのに対し、後者はそもそも論理学の基礎を理解できていないということです。 目標の本性を理解せぬままでは議論に参加できない、と(無意識に)自覚している点では、「あの方」は正しいと言えるでしょう。 あの方 投稿者:ch7 投稿日:2009年 7月 8日(水)08時09分7秒 返信・引用 φ様 あの方が、 http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2009/06/post-1.html と仰っています。これはどうなのでしょうか。 |