三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2008年1~6月)
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Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2008年 6月 8日(日)04時47分32秒
> No.1981[元記事へ]
mariさんへのお返事です。
4コマのほうは古き良きアナクロギャグでしょうか。
(最近では『のだめカンタービレ』が多用していたクチの……)
筆致の違う♀キャラはストーリーマンガ用?
(無題) 投稿者:mari 投稿日:2008年 6月 6日(金)09時49分9秒
わたしも健康まにあです。科学基礎論学会にはいつてました
(無題) 投稿者:mari 投稿日:2008年 6月 6日(金)09時35分10秒
http://tosp.co.jp/B.asp?I=mari12345
三浦俊彦先生の論理学のフアンです。私の漫画をみてください
(無題) 投稿者:reach 投稿日:2008年 6月 2日(月)12時55分51秒
>いずれにせよ、具体的な問題で論ずるのがよいと思います。
確かに具体的な例を提示しなければ不毛な話になりそうです。
ちょっと考えてみます。
ありがとうございました。
Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2008年 6月 1日(日)01時14分55秒
もちろん、二階以上の述語論理でなければ解決できない問題はたくさんあるでしょう。
数学をはじめ人文系を含む多くの学問の命題や論証を記号化すれば一階の論理で間に合うものは比較的少ないでしょうから。
しかし、中学校英語の文法を知っていれば、あとは単語を入れ替えさえすればどんな難しい専門的議論もできるというのと同様、一階の論理を知ってさえいれば、いかに高階の論理もすんなり理解できるはずです。一階の論理で出てこないような、構造にかかわる新概念というものはちょっと思いつかないので。
いずれにせよ、具体的な問題で論ずるのがよいと思います。
(無題) 投稿者:reach 投稿日:2008年 5月30日(金)04時40分16秒
>パラドクスの解決作業のような場合には、1つの文の中で相対的なタイプ差が二段階以上にまたがることを意識せねばならないこともありますが、それも結局は一階の述語論理が理解できていれば応用自在ではないでしょうか。
そういう気もしますが、もっと強い根拠がないものかと模索しております。
何らかのパラドクスのために一階の述語論理だけでは足りない、
ということにならないかと少し不安なのです。
数理論理学の意義についてはどうお考えですか?
Re: 通常の議論における適切な論理は? 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月29日(木)15時30分53秒
> No.1975[元記事へ]
p.67あたりでしょうか。
「普通の論証のためには一階の述語論理で十分」と書いたときの「普通の」は、
大ざっぱな意味での「普通」で、日常の議論の、あるいは学術的だとしても数理論理的でない学問での、といった意味でした。
もちろん、日常会話や文芸評論などの場でも「愛」「友情」「人間」のような述語や集合を変域としてとる二階以上の論理が語られることはよくありますが、
その場合の「愛」「友情」「人間」は個物であるかのような操作をしても十分だということです。
関係の関係、集合の集合を扱う文も、1つの文の中での相対的なタイプ差は一段階のみという場合がほとんどでしょう。であれば、形式的には一階の述語論理の表記に落とせます。項そのものの絶対的タイプは、形式には反映されませんから。(『ラッセルのパラドクス』p.61~)
パラドクスの解決作業のような場合には、1つの文の中で相対的なタイプ差が二段階以上にまたがることを意識せねばならないこともありますが、それも結局は一階の述語論理が理解できていれば応用自在ではないでしょうか。
「中学校で習う英単語をマスターしていれば日常会話は万全」というような意味に理解していただければと思います。
通常の議論における適切な論理は? 投稿者:reach 投稿日:2008年 5月28日(水)08時46分31秒
御著書『論理学入門』を拝読いたしました。
その中で、通常の推論のためには一階の述語論理を理解すれば十分であるとの記述がありましたが、そういえるのはなぜでしょうか?
二階の論理、つまり関係の関係や集合の集合といったようなものも通常の議論において必要となるケースがあるのではないか、そんな風に疑っております。
数理論理学では、2階以上の高階論理つまり(有限階の論理をすべて含んだω階の論理や超限階の論理といったもの)が分析の対象となっていますが、それらは通常の議論においては役に立たないのでしょうか?
このあたりのことについて、ラッセルのタイプ理論との関連をまじえてご教授いただけると幸いです。
現在、私は「通常の議論において適切な論理とは何か?」という問いに頭を悩ませております。私の中では直観主義論理や矛盾許容論理などは、特定の状況には利用できても通常の議論における論理としては不適切であり、やはり古典論理が適切であると考えていますが、高階の論理については判定しかねているところです。
Re: Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月26日(月)02時17分38秒
> No.1973[元記事へ]
情報ありがとうございます。
早速注文しました。
目下、「戦争論理学」にかかりきりで抽象思考の鈍っている私ですが、
届き次第一読しようと思っております。
また考えお聞かせください。
Re: 量子力学と眠り姫問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 5月25日(日)20時36分20秒
> No.1972[元記事へ]<BR>
追記その1:
書き忘れました。ご案内させていただいたこのブルーバックスの本には唯一設定については書いてはいないのですが、私としては唯一設定と量子力学の解釈でいうところの多世界解釈との関連が非常に木になるところです。以下にも書いたとおりです。
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/1947
追記その2:
この本では、主として1/3派の主張とそれに対する反論も一部書いてあり、多世界解釈でいけば1/3派の主張が正しそうに見えるが、眠り姫問題については決定的な同意が得られていないとも書いてあります。
量子力学と眠り姫問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 5月25日(日)20時30分53秒
5/20発売の以下の本に、眠り姫問題について書いてありました。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=257600
ブルーバックス
量子力学の解釈問題
実験が示唆する「多世界」の実在
著者: コリン・ブルース
翻訳者: 和田純夫
発行年月日:2008/05/20
サイズ:新書判
ページ数:324
ISBN:978-4-06-257600-0
Re: 眠り姫と森の射手 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月17日(土)01時21分47秒
そう、「矢に当たったとき」に対応するのは、眠り姫では「月曜と教えられたとき」(問3)ですよね。
森の射手は、それぞれ別個の人格(共時的目覚め)であるのに対し、眠り姫は、一個の人格の多数の目覚め(継起的目覚め)という点で、観測選択効果の問題が先鋭化しているような気がします。
思索の発展を楽しみに待たせていただきます。
眠り姫と森の射手 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 5月16日(金)14時39分31秒
>眠り姫の「目覚めたとき」に対応するのは、森の射手の「矢に当たったとき」ではなく、「目覚めたとき」です。
ああ!!!
このひとことで目が覚めました。
※頑迷な先入観念に陥っている者の理解を助けることって相当に難しいはずなのですが、三浦先生がその労を惜しまずにご教示を下さること、本当に感謝しております。
これでまた眠り姫問題における唯一設定について考えることができます。ありがとうございました。
Re: 眠り姫と森の射手 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月14日(水)23時37分26秒
> No.1968[元記事へ]
スターダストさんへのお返事です。
>
> あ) まず、全体的な状況を俯瞰させるとともに標本空間全体を提示する
> い) ついで、標本空間の部分集合に一人称的私が属していることを提示する
> う) い)のもとで、確率についてたずねる
>
> 矢と目覚めは、ともに、上の い)の設定になっていると思われます。
> 問2に相当しますよね。
まだ矢に射られるかどうかわからない状態で、とにかく神に創られた人間の一人として森で目覚めた状態が い)の設定 です。
う)の設定を「森の射手」で文字通りやるとすれば、創造された人間はみな背番号を付けているとして、「あなたの背番号は5以下である。さて、5人の森か、500人の森か」という質問になります。
一宇宙創造の場合は、1/2説が妥当するので、5人の森である確率が1/2から100/101になります。
二宇宙創造の場合は、1/3説が妥当するので、5人の森である確率が1/101から1/2になります。
実はこれは、矢に当たったとしても計算は同じことです。
ですから、実質、眠り姫の問3の設定が森の射手に相当することになりますね。前回、矢に射られたという設定は眠り姫にはないと言ったのは私のうっかりミスでした。問3(今は月曜日である、と告げられること)が矢に射られることに相当します。
いずれにしても、眠り姫と森の射手は矛盾していませんね。
眠り姫の場合 コインが表(目覚め月曜だけ)の確率は、
唯一設定(1/2説) 目覚めたとき1/2 → 月曜と教えられたとき2/3
反復設定(1/3説) 目覚めたとき1/3 → 月曜と教えられたとき1/2
森の射手の場合、5人の森にいる確率は、
一宇宙創造の場合、 目覚めたとき1/2 → 矢に当たったとき100/101
2宇宙創造の場合、 目覚めたとき1/101 → 矢に当たったとき1/2
スターダストさんのもともとの疑問は、眠り姫の「目覚めたとき」と、森の射手の「矢に当たったとき」を対応させたから矛盾しているように見えたのです。
眠り姫の「目覚めたとき」に対応するのは、森の射手の「矢に当たったとき」ではなく、「目覚めたとき」です。
Re: 眠り姫と森の射手 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 5月14日(水)10時23分20秒
三浦先生、ていねいなお答えをありがとうございます。
私自身、ていねいに御著書を読むべきと反省しております。
*1)と2)について私自身が結論を読み間違っている件
本当にもうしわけございません。 再度確認し理解に努めたいと思います。
*矢を射られること
森の射手の問題において、矢を射られること、は、眠り姫問題において、目覚めること、と綺麗に対応しているのだと感じていました。
あ) まず、全体的な状況を俯瞰させるとともに標本空間全体を提示する
い) ついで、標本空間の部分集合に一人称的私が属していることを提示する
う) い)のもとで、確率についてたずねる
矢と目覚めは、ともに、上の い)の設定になっていると思われます。
問2に相当しますよね。あ)は問1に相当?しているかもしれません。
問3は、標本空間の部分集合を再設定です。
Re: 眠り姫と森の射手 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月13日(火)01時22分6秒
> No.1966[元記事へ]
スターダストさんへのお返事です。
まず第一に、
>
> 御著書における三浦先生の分析結果では、2)において、5人を含む森にいる確率と、500人を含む森にいる確率は、フィフティーフィフティーであるとされておりました。逆に、1)においては、500人を含む森にいる確率は、5人を含む森にいる確率に比べて、かなり高いという論証をなされておいででした。
>
1)についてはスターダストさんの誤解です。
私がp.226に書いたのは逆のことで、500人を含む森にいる確率より、5人を含む森にいる確率が100倍高いということでした。
そこで本題に入りますが、森の射手と眠り姫問題の間に矛盾はありません。
なぜならば、森の射手にあった「矢に射られる」という要素が、眠り姫問題にはないからです。
眠り姫問題と同型なのは、矢に射られる前において「どちらの森にいる確率が高いか」と問われた場合です。
1)では、一方の森しか実現していないので、五分五分です。
2)では、両方の森が実現しているので、人数比に応じて、500人を含む森の確率が百倍高いです。
他ならぬ自分が矢に射られたことによって、今度は、総人数が少ないほう、つまり5人の森である確率が高まります。(このベイズ的修正は眠り姫問題にはありません)
1)では、五分五分だった事前確率が、5人の森が100倍確からしいと補正されます。
2)では、500人を含む森の確率が百倍高い状態だった事前確率が、5人の森が100倍確からしい方向へ補正されて、結果は、相殺されて五分五分になります。
というわけで、眠り姫問題との矛盾はありません。
1)は、先投げ設定の唯一設定に相当します。
眠り姫と森の射手 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 5月12日(月)14時52分27秒
あいかわらず眠り姫問題を考え中です。
三浦先生の「論理サバイバル-議論力を鍛える108問-」なる御著書を立ち読み(すみません)させて頂きました。中でも「森の射手」という題材が眠り姫問題問題と関わりがありそうだと、今頃になって気がつきました。
==森の射手問題==
神が森を創り、そこに人間を創造した。あなたは今、森で目覚め、神に創られた人間であることがわかっている。さらに、神の声によって次のことが教えられた。
1)「私は、二つの森のうちどちらか一方を作ろうと思った。どちらの森にも天使が一人住んでおり、人間を見つけると、ただ1人を、ただ1回だけ、弓矢で射る。さて、一つの森は、その天使のほかに、5人の人間を含んでいる。もう一つの森は、天使のほかに、500人の人間を含んでいる。人間たちは互いに出会うことはない。この二つの森の構想を抱いて私はサイコロを振り、どちらを創るかを決めた。そうして一方だけを創り、その結果、おまえとこの森は誕生したのだ」
神の声が消えてからしばらくして、木々のむこうから矢が飛んできて、あなたの肩に突き刺さった。ここで神の声がした。
「天使の矢に射られたな……。さて推測せよ、私はどちらの森を創ったのだと思うか? 5人を含む森か、500人を含む森か」
2)あなたが目覚めた状況は 1)と同じだが、神の声は次のように言った。
「私は、二つの森を作った。どちらの森にも天使が一人住んでおり、人間を見つけると、ただ1人を、ただ1回だけ、弓矢で射る。さて、一つの森は、その天使のほかに、5人の人間だけを含んでいる。もう一つの森は、天使のほかに、500人の人間を含んでいる。人間たちは互いに出会うことはない。この二つの森を創り、この森はそのうちの一つなのだ」
神の声が消えてからしばらくして、木々のむこうから矢が飛んできて、あなたの肩に突き刺さった。ここで神の声がした。
「天使の矢に射られたな……。さて推測せよ、おまえのいるこの森はどちらの森か?
5人を含む森か、500人を含む森か」
---
「どちらか」可能性の高い方を答えるわけだが、1)と2)は、同じ答えになるだろうか、それとも違う答えになるだろうか。理由をつけて答えてください。
---
==森の射手問題は以上==
御著書における三浦先生の分析結果では、2)において、5人を含む森にいる確率と、500人を含む森にいる確率は、フィフティーフィフティーであるとされておりました。逆に、1)においては、500人を含む森にいる確率は、5人を含む森にいる確率に比べて、かなり高いという論証をなされておいででした。
ここで私は眠り姫問題を想起して、以下のような印象を持ちました。
1)が、唯一設定、すなわち、(眠り姫問題がただ一度限りなされるなら、あるいは多数回なされても被験者自身が自分の実験を他から区別する明瞭な基準を持っているならば)の場合である、なぜなら、神は、ふたつの森のうち片方しか造らなかったからである。
2)が、反復設定、すなわち、(実験が何度も繰り返されており、被験者としては自分がそのうちのランダムな一実験に属しているとの意識しかないならば)の場合である。なぜなら、神は、ふたつの森を造ったからである。
こうしてみると、森の射手においては、1)の唯一設定において、サイコロの丁半のみならず主体の人口比も加味しての確率判定を求められています。 一方、眠り姫問題においては、1/2派ならばですが、唯一設定の時に、コインの表裏だけで確率を決めており、主体の人口比(場合Aの主体数:場合Bの主体数=1:2)を使っていません。
また、森の射手においては、2)の反復設定において、結論としてそれぞれの森にいる確率が1/2となっており、眠り姫問題においては、確率に差が出るはずだ、という結論になっています。
*なんらかの私の誤読でしょうか? 以下と矛盾しているように思えるのですけれど。
---
定説においては、眠り姫問題がただ一度限りなされるなら、あるいは多数回なされても被験者自身が自分の実験を他から区別する明瞭な基準を持っているならば(唯一設定)、1/2説が正しい。実験が何度も繰り返されており、被験者としては自分がそのうちのランダムな一実験に属しているとの意識しかないならば(反復設定)、1/3説が正しい。しかし、ここで私たちは今や、次のように付け加えることができる。唯一設定では1/2説、反復設定では1/3説が正しいが、ただし、コインを後から投げる設定(設定2=後投げ設定)であれば、1/3説が正しい。反復設定では、コインを先に投げても(設定1=先投げ設定)、後に投げても、1/3説が正しい。1/2説が正しいのは、先投げ設定の唯一設定においでだけである。
---
※特に気にしているのは、先投げ(森の射手においても先投げ相当ですよね)の唯一設定のケースです。森の射手では1/2になっておりませんし、眠り姫問題においては1/2だからです。
Re: 「発明の進歩性」という概念について 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月11日(日)20時05分5秒
> No.1963[元記事へ]
UMEさんへのお返事です。
>
> しかし、私が悩んでいるのは、このような具体事例の妥当性の是非ではなく、「実際に知られていない発明」に「簡単に」「到達できる」とは、哲学的にみていったいどういうことなのか?ということです。
>
なるほど……、
可能世界の到達可能関係は「類似性」に基づいていますから、発明品と既製品の「類似」に応用できるかもしれませんね。
2つのものの類似性を測るときに、重視されるべき要素とそうでない要素を区別しなければならないわけですが、可能世界どうしの場合は、一般に、起きている個々の出来事の一致は低く評価され、個々の出来事を統括する法則の一致は高く評価されます。
ですから、製品のレシピの場合は、個々の要素(成分)の一致は低く評価され、組み合わせ方(構造)の一致は高く評価されるのではないかと。この評価は「類似度」についての評価ですから、「新奇性」については逆になりますね。類似度において高く評価される部分が異なっているほど、「新しい発明」と認められるのではないでしょうか。
私が一日一言作り続けているアフォリズムの「発明」について言うと、たとえば次のような「発明」はあまり高く評価されないのではないでしょうか。オリジナルの構造を保ったまま、要素(名詞)だけを入れ替えているから。
友人を選ぶのに注意して注意しすぎることはない(諺)
↓
敵を選ぶのに注意して注意しすぎることはない(オスカー・ワイルド)
構造を決める言葉、たとえば名詞より形容詞、形容詞より動詞、動詞より副詞、副詞より接続詞や助動詞が異なるものにすれば、「新しさ」は増えるでしょう。かりに同じ単語を使っていてもです。
構文を変えれば言うことはありません。
どのような場合に「単に要素が異なる」「構造や法則が異なる」と言えるのかを見分けるのはまた難しいのでしょうが……、
Re: Re: 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月11日(日)19時48分4秒
> No.1961[元記事へ]
蝉さんへのお返事です。
蝉さん曰く
>
>確かに、意識を生み出す諸プログラムの中で、プログラムそのものの簡素さ、つまり初期状態でのメモリーの使用量の少なさではマルチバース用プログラムに勝るものはないでしょう。しかし「物理定数の束をパラメータとして、パラメータにランダムに値を代入する」という文字データーそのものに意識が宿るとは考えにくいですよね。そのプログラムが実行される過程で意識が生じるのではないでしょうか。そしてマルチバース用プログラムは実行の過程で莫大なメモリーを要求しそうです。なぜならシュミレートされる世界の全ての最少構成要素(分子的なもの)がメモリー上の何れかの0,1ビットで表わされている必要がありそうだからです。★意識を生み出すのに十分な数の宇宙、または十分なほどに大きな宇宙を再現することは実際に行われているでしょうが、それを実行できないくらいメモリーが小さいチューリングマシン上で脳だけを再現することはもっと行われていそうです。一たび脳シュミレーターが再現されたならば、(再現している意識の総数)/(意識を再現している段階で使用しているメモリー量)の値が最も大きい脳シュミレーターが、多数派の意識を再現することになるでしょう。
>
★までの部分には同意しますが、★以降は違うと思うのです。
前にも書いたのですが、「メモリーが小さいチューリングマシン上で脳だけを再現すること」は、単発の一品製作ということですが、それがなされるのは、テクノロジーレベルの低い文明においてではないかと。
圧倒的に多くのシミュレーションを行なうのは高レベル文明でしょうから、一品製作よりもマルチバース型シミュレーションが多数を占め、当然、意識も、その中にいる大量生産の産物が多数派になるはずです。
ですから、(再現している意識の総数)/(意識を再現している段階で使用しているメモリー量)の値にかかわらず、高レベル文明によるシミュレーション(それは使用メモリー自体は大きいかもしれないが、シミュレーション実行者の大多数を占める)が、多数派の意識を再現するのではないでしょうか。
たとえば、今私たちのこの時代に限って考えて、手書き時代の原稿のような一品製作による情報と、印刷出版物、紙コピー、ウェブ上のデータ、等々の大量生産情報とどちらが多いかといえば、圧倒的に後者でしょう。生産コストは手書き一品製作が一番少ない(紙とインクしか使わず、複雑な機械も電子技術も要らないから)でしょうが、1つ1つの情報あたりのコストに換算すれば、大量生産型のほうがずっと小さいでしょう。
ひとまとまりの情報の物的具現一個(たとえば1つのパソコン内での具現、一冊の文庫本の中での具現)を1つの意識に置き換えて考えると、意識すべての中で、一品製作の単独意識がいかに少ないかがわかるのではないでしょうか。
「発明の進歩性」という概念について 投稿者:UME 投稿日:2008年 5月10日(土)06時43分40秒
唐突な投稿にて失礼いたします。当方、企業で特許業務を担当する者です。三浦先生の掲示板に集う皆様にお知恵、ご示唆を頂ければと思い、無礼を承知で書き込みをさせていただきます。哲学的知識もほとんどなく、質問が体をなさないと考えられますが、よろしくお願いいたします。
私は、”発明の進歩性”という概念にここ数年ひっかき回されています。これはひとことでいうと、”実際には知られていない(=一応、この世界にはない)発明なんだけど、現実に知られている発明から簡単に到達できる発明は、特許にしない”という理論です。たとえば、”A+B+Cの三成分からなるシャンプーは知られていないけど、A+Bからなるものと、B+Cからなるものが文献に記載されており、これらを組み合わせればA+B+Cのシャンプーが簡単に得られる”といった、特許法上の理論です。生業としてこの判断をするのは特許庁役人や我々のような者であり、審査基準や判例には具体例が山ほど記載されています。
しかし、私が悩んでいるのは、このような具体事例の妥当性の是非ではなく、「実際に知られていない発明」に「簡単に」「到達できる」とは、哲学的にみていったいどういうことなのか?ということです。発明の進歩性についての論文は沢山ありますが、このような視点で論じたものを知りません。
そのような状況のなか、私は三浦先生の「可能世界の哲学」を手にし、到達理論のチャプターにヒントが隠されているように直感し、当該理論をアナロジカルに適用すれば前記問の意味がわかるのではと期待しましたが、現実はそう甘くなく、結局はよくわからない状態が続いています。
そこで皆様にお願いしたいのですが、前記問いを考察するにあたり、哲学的にどのような視点から臨んだらよいか、またそのためにはどのような勉強を必要とするか、について、何か感ずるところがございましたら、アドバイスを頂戴できませんでしょうか?
私自身が前記問いについて暗中模索しているため、そもそも質問になっていないかもしれませんが、何かヒントを頂けますと幸いに存じます。
それでは、失礼いたします。掲示板の場を乱してしまい申し訳ありませんでした。
Re:コメント 投稿者:蝉 投稿日:2008年 5月 9日(金)21時43分26秒
量子コンピューターは興味があって前々から調べていたことなので全然迷惑なんかじゃありませんでした。なお、重ね合わせ状態を利用したアルゴリズムには、ドイチュ-ジョサのアルゴリズム、データベース検索のアルゴリズム、ショアのアルゴリズムの少なくとも3つが存在するようです。観測すると壊れてしまう、一見無意味な量子重ね合わせ状態を上手く利用するこれらの手法は興味深いです。
Re:Re: 投稿者:蝉 投稿日:2008年 5月 9日(金)21時24分33秒
「シュミレーター内の意識は自分本位型意識の確率が高い。しかし我々は物質定位な自己を観測している。ゆえに我々はシュミレーター外の意識でありそうだ。」というのが「一つのシュミレーター内の…」での私の論証でしたが、この論証自体が間違いだったと思い至りました。シュミレーター内の自分本位型意識は全て計算から除外しなければなりませんでした。また、シュミレーター外の意識で自分本位な自己を認識する意識も計算から除外せねばなりません。それら全てを考えると、おっしゃる通り私たちはシュミレーター内の意識である確率が高そうです。
しかし、シュミレーター内の意識が自分本位な認識をする確率は高いという考えは変わりません。
>一つのマルチバース用プログラムで作られる諸宇宙の中に意識が宿る確率はほぼ1です。意識を1個1個作ってゆくより、マルチバース産出用のプログラムを作って、1回あたり多数の意識をほぼ必然的に生み出していったほうがはるかに安上がりでしょう。
私たちは、そうした安上がり意識である確率が圧倒的に大でしょう。
付け加えると、たった一つの宇宙を作る場合も、ある程度以上大きな宇宙であれば、どこかに意識が一度でも宿る確率は1だと思われます。ホーキング放射のような形で、いつかはどこかに、意識が宿るだろうからです。初期設定で物理定数をファインチューニングしておけば、どこかの惑星に知的生命が宿る確率は高いでしょう。マルチバースは必ずしも必要ありません。
マルチバース用プログラムで作られる諸宇宙、または大きな一つの宇宙の中に意識が宿る確率がほぼ1だということには賛成します。ただ、私が言いたかったのは、複数のタイプのシュミレーター(宇宙再現型でないものも含め)が存在する場合、最も意識を宿しやすいタイプのシュミレーターによる制約が多数派の意識に反映されるということです。そしてその最も意識を宿しやすいシュミレーターこそ「一つのシュミレーター内の…」での脳シュミレーターだと思うんです。確かに、意識を生み出す諸プログラムの中で、プログラムそのものの簡素さ、つまり初期状態でのメモリーの使用量の少なさではマルチバース用プログラムに勝るものはないでしょう。しかし「物理定数の束をパラメータとして、パラメータにランダムに値を代入する」という文字データーそのものに意識が宿るとは考えにくいですよね。そのプログラムが実行される過程で意識が生じるのではないでしょうか。そしてマルチバース用プログラムは実行の過程で莫大なメモリーを要求しそうです。なぜならシュミレートされる世界の全ての最少構成要素(分子的なもの)がメモリー上の何れかの0,1ビットで表わされている必要がありそうだからです。意識を生み出すのに十分な数の宇宙、または十分なほどに大きな宇宙を再現することは実際に行われているでしょうが、それを実行できないくらいメモリーが小さいチューリングマシン上で脳だけを再現することはもっと行われていそうです。一たび脳シュミレーターが再現されたならば、(再現している意識の総数)/(意識を再現している段階で使用しているメモリー量)の値が最も大きい脳シュミレーターが、多数派の意識を再現することになるでしょう。
> >水槽の中の脳に宿る意識は、コンピューター次第で物質定位の自己を観測するし、
>また、(私たちよりもはるかに)自分本位な自己だって観測できます。
>実際物質に宿っているにもかかわらずです。
これは、あくまで可能だということであって、自分本位でない形で実在論的に連動した世界を経験する意識のほうがやはり多数ではないかと思われます。
実在論的経験をする意識が多数になる…。より詳しく理由を知りたいです。なお、シュミレーター上の意識として「自分本位型水槽の中の脳」が少数派と思われるのならば、「一つのシュミレーター内の…」で書いた脳障害モデルの自分本位型意識(自分本位と書くより整合性のない認識をすると書いた方がいいかもしれません)を想定してください。
>ただし、意識が因果的に物理的制約を受けているということと、内的世界として物理的に制約された光景を経験するかどうかということは、論理的には独立であり、確かに慎重に吟味しなければなりません。
同じことは、虚空に宿る意識についても言えます。意識が因果的に物理的制約を受けていないということと、内的世界として物理的に制約されない光景を経験するかどうかということは、論理的には独立であり、慎重な考察を要します。
もしも、意識の本質として、他の意識との連動を経験する、つまり実在論的物理環境による制約を被る経験をすることが必然的であるならば、「自分が複雑な物質系である脳に宿っている」という主観的データは、虚空に意識が宿らないことをベイズ的に支持する証拠とはならないでしょう。
確かにそうですね。今の我々が意識の最少構成とすれば我々が虚空に宿っている可能性も捨てきれませんよね。最後に提起された「虚空に宿る意識もまた、脳などの物質に制約された自己を意識せざるをえないかどうか」にも合わせて私の考えを言えば、私たちよりずっと自分本位な(整合性のない)意識はありだと思います。たまに幻覚を見る人にも意識が宿っているとするならば、幻覚しか見ない人にも意識が宿っていておかしくなさそうですし。
コメント 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 5月 6日(火)11時44分50秒
あいまいな私のコメントで蝉さんに大変ご迷惑をおかけいたしました。
蝉さんwrote>ある特定の計算をアルゴリズム次第では
そのようなアルゴリズムが、ひとつ「発見されている」、ということです。
量子チューリングマシンの定義者であるデビット・ドイチェが、量子チューリングマシンについて語っていたことを、先の私のコメントでそのまま引用していましたが、その後なにか進展があったのでしょうね。いずれにせよ、不正確なコメントで申し訳ございませんでした。
Re:一つのシュミレーター内の 投稿者:φ 投稿日:2008年 5月 5日(月)04時45分6秒
「意識を一品製作で作るより、宇宙丸ごと作って諸意識を宿らせる方が安上がり(意識の生産数は多くなる)」という私の意見に対し、自然選択で意識が生ずる確率の低さを考慮に入れると逆ではないか――というコメントとして蝉さんの趣旨を理解しました。
宇宙を一つ一つ作ってゆく方式ではその通りかもしれませんが、高度技術のシミュレーション(それゆえ絶対数の多いシミュレーション)は、物理定数の束をパラメータとして、パラメータにランダムに値を代入する形で大量生産する方式がとられるのではないでしょうか。
現に、私たちが住む宇宙も、そのようなマルチバース型シミュレーションの一つと見なすことができます。この宇宙は、自然のものにせよ作られたものにせよ、単独で生じたのではなく、多数生じた全体の中の一つだと思われます。
すると、一つのマルチバース用プログラムで作られる諸宇宙の中に意識が宿る確率はほぼ1です。意識を1個1個作ってゆくより、マルチバース産出用のプログラムを作って、1回あたり多数の意識をほぼ必然的に生み出していったほうがはるかに安上がりでしょう。
私たちは、そうした安上がり意識である確率が圧倒的に大でしょう。
付け加えると、たった一つの宇宙を作る場合も、ある程度以上大きな宇宙であれば、どこかに意識が一度でも宿る確率は1だと思われます。ホーキング放射のような形で、いつかはどこかに、意識が宿るだろうからです。初期設定で物理定数をファインチューニングしておけば、どこかの惑星に知的生命が宿る確率は高いでしょう。マルチバースは必ずしも必要ありません。
メモリーの使用量についていえば、(私はその方面は疎いので間違っているかもしれませんが)特殊物を作るよりも一般型を与えるほうが情報量が少なくてすむ、ということはあるようなので(たとえば、特定の自然数756をアイデンティファイするためのプログラムより、自然数(の集合)を記述するためのプログラムのほうが単純でしょう。後者の記述対象のほうが内包が小さいからです)、意識を一つ作るより意識というものを生み出しうる宇宙を作るほうが単純なプログラムで済み、一宇宙を作るより多宇宙を作るほうがパラメータの特定が不要なぶん単純なプログラムで済みますね。
>水槽の中の脳に宿る意識は、コンピューター次第で物質定位の自己を観測するし、
>また、(私たちよりもはるかに)自分本位な自己だって観測できます。
>実際物質に宿っているにもかかわらずです。
これは、あくまで可能だということであって、自分本位でない形で実在論的に連動した世界を経験する意識のほうがやはり多数ではないかと思われます。
ただし、意識が因果的に物理的制約を受けているということと、内的世界として物理的に制約された光景を経験するかどうかということは、論理的には独立であり、確かに慎重に吟味しなければなりません。
同じことは、虚空に宿る意識についても言えます。意識が因果的に物理的制約を受けていないということと、内的世界として物理的に制約されない光景を経験するかどうかということは、論理的には独立であり、慎重な考察を要します。
もしも、意識の本質として、他の意識との連動を経験する、つまり実在論的物理環境による制約を被る経験をすることが必然的であるならば、「自分が複雑な物質系である脳に宿っている」という主観的データは、虚空に意識が宿らないことをベイズ的に支持する証拠とはならないでしょう。
「虚空に宿る意識もまた、脳などの物質に制約された自己を意識せざるをえないかどうか」。この問題は、「脳などの物質に宿った意識が自分本位世界を経験しうるかどうか」という問題と表裏というか双対というか、熟考に値しますね。
一つのシュミレーター内の意識の総数と実現可能性 投稿者:蝉 投稿日:2008年 5月 4日(日)04時05分4秒
〉常識的な唯物論的実在論が最もベイズ的に信頼度が高いのではないかと私は考えていますが、
我々が物質定位の自己を観測しているという結果から、我々が虚空に宿る意識でも唯物論的シュミレーター上の仮想意識でもなくシュミレーター外の唯物論的意識でありそうだとするのが「p.s.」での考えです。以下その上で、シュミレーター上の意識はやっぱり(我々よりもはるかに)自分本位な世界を観測しそうだということを「自分本位世界、虚空、シュミレーター」に応える形で述べていこうと思います。
複数の意識を宿すシュミレーター内では、各々の意識にそれぞれの世界を用意するよりもすべての意識が共通に認識し、相互作用し合う世界を用意したほうがメモリーの使用量は少なくて済むという意見に対してですが、これについて考える前に、まずシュミレーターの初期条件とシュミレーターが意識を宿す確率との関係について考えたいと思います。
ごく簡単な初期条件から、(生物以前→)単細胞的仮想生物→多細胞的仮想生物と初期条件以外手を加えずに複数の仮想生物(エージェント)を進化させてゆく方法では(そもそもエージェントが意識を宿すような初期条件が少ないので)シュミレーターが、意識を宿すエージェントを生み出すことはまずないと思います。ある初期条件ではエージェントがそもそも存在せず(エージェント自体を自然選択的に発生させるパターンでは恐らくこれが大部分)、またある条件ではエージェントが意識を宿すほどに多様化せず(もとからエージェントを設定した場合恐らくこれが大部分)。シュミレーター上でランダムに初期条件を設定した場合、エージェントが意識を宿すようになる確率は非常に低いし、人為的に初期条件を設定する場合も、どの初期条件が意識を生み出すかを探る段階で色々な初期条件を実際に代入してシュミレーションしてみる必要があるでしょう。一方、意識を宿す物質の構造をダイレクトに模倣し再現することは数当たり的にならなくていいので実現しやすい。
上記のことを踏まえれば、ここに意識を宿したシュミレーターがあれば、それは我々が認識しているこの世界のように自然選択的に意識を発生するような世界をシュミレートしているのではなく、意識を宿している脳そのものをシュミレートしたもの(以下脳シュミレーター)でありそうだと言えます。
もちろんこれだけではシュミレーター上の仮想意識が自分本位型世界を観測しやすいとは言えません。これから脳シュミレーターが自分本位型の世界を観測しやすいということをプログラム、メモリー量の観点から述べ、脳シュミレーター上の意識の数と自然選択型シュミレータ上の意識の数についても考えていきたいと思います。
まず、水槽の中の脳という思考実験の内容からお話します。
…脳だけが水槽の中の培養液中に浮かんでいる。その脳は水槽に付属した装置から必要な栄養を受け取っているので生きている。さらに本来なら脳から体へと伝わる信号を代わりにコンピューターが受け取り、そのコンピューターは体から脳へ送られるはずの信号を脳へ渡す。つまりコンピューター次第で水槽の中の脳は頭蓋骨の中の脳と同じふるまいもできる。
さて、この水槽の中の脳に宿る意識は、コンピューター次第で物質定位の自己を観測するし、また、(私たちよりもはるかに)自分本位な自己だって観測できます。実際物質に宿っているにもかかわらずです。水槽の中の脳がチューリングマシン上で再現されているとすれば、おっしゃられるところのプログラムによるソフト面での制約とは、この思考実験での物質としての脳やコンピューター等の諸々の装置に当たるのではないかと思います。これはプログラム面で制約があっても意識は自分本位の世界を観測しうる、ということではないでしょうか。
ここでチューリングマシンのメモリー量から考察を加えます。(スターダストさんの提案してくださった量子チューリングマシンについてですが、古典チューリングマシンと量子チューリングマシンとでは計算可能性が等しいことが示されているらしく、量子チューリングマシンとは古典チューリングマシンでいう0,1ビットを確率波の重ね合わせを使った|0>,|1>量子ビットに置き換え、演算の過程で使う論理ゲートを量子ゲートに置き換えることで、ある特定の計算をアルゴリズム次第では古典チューリングマシンよりも早く解けるという代物らしいので、チューリングマシンが存在する宇宙の寿命を考えるような確率計算では古典、量子を分かつ意味があるものの、ここでは簡略のために古典量子ひっくるめてチューリングマシンとさせていただきます→講談社BLUE BACKS「量子コンピュータ」竹内繁樹、Wikipedia量子コンピュータの記事)
生物進化に関係ない情報を持たないタイプの自然選択型シュミレーターは初期条件を代入した地点でのメモリー量は少ないであろうものの、意識を生じさせる段階までいけば、意識を実現する複数の脳にさくメモリー量+意識を宿さないエージェントのメモリー量+その他環境にさくメモリー量が必要になり、その量はかなりのものとなるように思います。他方脳シュミレーター上の意識が自分本位型世界を認識するモデルは、自分の都合がそのまま自分の世界になるので、脳内の記憶を神経情報としてフィードバックしてやれば(後ろに箱があるはずと確信して振り返ればそこに箱をみつける)、脳にさくメモリー量とフィードバック機構で一つの意識が再現されますので経済的です。上記の状態は少し想像しにくく、フィードバック機構のメモリー量が気になるかもしれませんが、ある脳障害を持った人たちは(恐らく自分の記憶に反さないという意味で)本物以上にリアルな幻影、幻臭、幻聴を知覚するそうです。幻痛なんかの存在も考えれば、意識は宿しているがそれらの脳障害がずっとひどい状態の脳こそ自分本位型認識をする脳と言えるのかもしれません。その脳を再現すればほとんど脳だけのメモリー量で意識は再現できそうです。
一つの脳を再現できる程度しかメモリーを持たないチューリングマシン上でも自分本位型意識なら再現できることを考えれば、脳シュミレーターは自分本位型の意識を再現しやすく、一つのチューリングマシン上に宿しうる意識の量も自分本位型脳シュミレーターのほうが自然選択型シュミレーターよりも多いことを考えれば、シュミレーター上の意識は、自分本位型脳シュミレーター上の存在である確率が高く、よって自分本位な認識をする確率が高いとは言えないでしょうか。
一つの文章にたくさんのことを詰め込もうとしたので、自分の表現下手や思考の鈍さもあいまってかなり粗い論証になってしまいました。意味不明なところや、これは言えないだろうみたいなところをどなたでも突っ込んでいただければ幸いです。
自分本位世界、虚空、シミュレータ 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月30日(水)01時56分59秒
蝉さんの提起された論点は熟考に値しますね。
主観的データをもとに、確率的に自分がどのような媒体に宿るかをある程度判定することができると思われます。
常識的な唯物論的実在論が最もベイズ的に信頼度が高いのではないかと私は考えていますが、
蝉さんの次のコメントへの感想は率直に言って「そうかな?」です。
>使用するメモリー量は自分本意に世界を認識する意識のほうが
>物質定位な世界を認識する意識よりも少なさそうです。
むしろ逆ではないでしょうか。
シミュレータはたった1個の意識でなく多数の意識を同時生成するでしょうから(この世界のように自然選択のような仕組みで自動的に)、仮想環境を伴ったその自然選択プログラムは、多数の意識間の整合、および意識と環境の間の整合を強要し、物質定位の主観的経験をもたらすでしょう。そのほうが使用するメモリー量は少なくてすむでしょう。個別に自分本位の意識を生成するのは、意識1個あたりのコストが高くつきます。
>……我々は物質に宿る意識であると言えます。しかし、そう考えると
>我々はチューリングマシン上の仮想意識(シュミレーター内の存在)
>ではなさそうということになります。
「メモリーの大きさという物質的制約」はあるとしても、主観的に物理的外界を感じさせる原因は、意識を作るハード面の制約よりむしろ、プログラムによるソフト面の制約が主でしょう。
スターダストさんに従って量子コンピュータを想定するとしても、
シミュレータ内の意識は、当の意識の自分本位の都合ではなく、外的なプログラムによって動かされることに変わりないでしょうから、あたかも物理的外界によって制約され、他の諸意識とも物理的外界との相互作用によって整合している、と意識せざるをえないはず。
シミュレータは、たった1つの意識を作り出すのであれば別ですが、多数の意識を産出して社会を創発させる場合、その環境は私たちの経験する物理的環境と区別がつかないでしょう。
シミュレータ内の意識の大多数は、「たった1つのシミュレーション」ではなく「社会のシミュレーション」の産物でしょうから、仮想意識かそうでないかは、ごく少数派の「たった1つのシミュレーション」(それはたぶん自分本位の世界を経験する)の場合を除いて、主観的に区別できないはずです。
「虚空に宿る意識」は、「たった1つのシミュレーション」に相当する(主観的に同種の経験をする確率が高い)と思われます。
虚空に宿る意識には、物理的コストも間主観的プログラミングの制約もかからなそうなので(物質に依存しないプログラミングが可能であれば別ですが)、互いに整合している必要がなく、その主観的世界は、自分本位である確率が大です。
★ただし、完全に自分本位の経験というものが可能かどうか、というのは一考に値するかもしれません。
完全に自由な経験というのは、虚無に近いかもしれませんから。
かりにも知性的・内省的な意識であるかぎり、何らかの社会的制約・物理的制約を感知しないでは精神活動がありえない、とも考えられます。
しかし、現実に私たちが経験する世界は、あまりに制約が厳しすぎ、あまりに整合的すぎ、自分の思い通りにならなすぎるので、やはり私たちは物質に宿る意識(シミュレータ内の意識を含む)である確率が大でしょう。
虚空に宿る意識(たった1つのシミュレーション)であれば経験しそうな世界はどんなものか、これは改めて考えねばなりませんが……。
古典チューリングマシン 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月29日(火)13時07分56秒
三浦先生wrote>逆に言うと、1/2説が他の理由で正しいことが証明されれば、多宇宙モデルは偽であることが証明できたことになる???
私自身十分に考えたとはいえませんが、なかなか信じがたいことです。1/3派かつSSAの道筋を追うことは大変かもしれませんが、こちらが正道ではないかと。唯一設定は適用できないと考え1/2説はたぶん駄目であると思いますがなかなか割り切りがたいですね。
※ところで。古典チューリングマシンと量子チューリングマシンの計算能力には雲泥の差がありますので、蝉さんのご意見においては、量子チューリングマシンを使うと良いと思います。原理的には、量子チューリングマシンは、任意の自然現象を適切な実時間、適切なメモリ領域内においてシミュレートできるのだと聞いたことがあります。驚くべきことです。
古典チューリングマシンで計算可能な問題以外に、「非」計算可能な問題というのが自然界にはたくさんありそうです。「非」計算可能な問題のうちの一部のクラスに属する問題を量子コンピュータが計算可能だとするならば、私たちの肉体の脳にも量子コンピュータ類似の未発見な器官が存在していても不思議ではありません。
説明 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月29日(火)04時08分9秒
「p.s.」文中の(=1)とは、チューリングマシンではない物質に宿る意識が物質定位の自己を認識する確率=1ということです。
p.s. 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月29日(火)03時56分53秒
あれから考えたんですが、物質定位の自己を観測する確率は、万能チューリングマシン上の仮想意識と虚空に宿る意識ではおそらく等しいと思われます(万能チューリングマシン上では物質的制約なしで意識をシュミレートできるという前提)。しかしながら無限のメモリーをもつ万能チューリングマシンは、物質が有限の世界には存在し得ません。有限の世界でのチューリングマシン上仮想意識は唯一、メモリーの大きさという物質的制約を受けるものと思われます。しかし「物質定位の認識について」で述べました通り、使用するメモリー量は自分本意に世界を認識する意識のほうが物質定位な世界を認識する意識よりも少なさそうです。なので、チューリングマシン(万能、非万能合わせたもの)上の意識のほうが虚空に宿る意識よりも自分本意型世界を観測する確率が高くなります。
物質に宿る意識が物質定位の自己を認識する確率=物質に宿る意識がチューリングマシン上の仮想意識である確率(P)×その意識が物質定位の自己を認識する確率+(1-P)×チューリングマシンではない物質に宿る意識が物質定位の自己を認識する確率(=1)
がなりたちます。つまりPが十分に小さければ、我々が物質定位の自己を認識していることは奇跡でなくなり、我々は物質に宿る意識であると言えます。しかし、そう考えると我々はチューリングマシン上の仮想意識(シュミレーター内の存在)ではなさそうということになります。
白状 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月27日(日)22時54分55秒
しかしそう考えると今の私達が物質定位の自己を認識していることが奇跡になっちゃうんですよね。やっぱり物質に宿る脳が物質定位の認識をする確率が高いのか。虚空に宿る脳が高確率で物質定位の認識をするとは考えにくいですからね。
物質定位の認識について 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月27日(日)22時18分57秒
虚空に宿る脳が物質定位の自己を観測することがほとんどないということには合意します。たしかに、虚空に宿る脳は高い確率で「自己の内面=世界の全て」な認識をするでしょう。それが必要最小限な主観の構成と思われますから。しかし物質に宿った脳が物質定位の自己を必然的に、あるいは虚空に宿る脳より高確率で観測するということは、やっぱり言えないと思います。つまり物質に宿っている脳も自分本意の世界を観測しうると思うんです。例えば、万能チューリングマシン上で、水槽の中の脳のように、偽の神経情報を受け取り、まるで外界を知覚しているかのように振る舞う脳を再現するとか。その外界が自分本意型世界でもなんら不思議はないです。むしろそのほうが余計なメモリーを必要としない点で経済的かもしれません。また、自分が忘れてたことを周囲が記憶していたり、到底ひとつの脳が達成出来ないような理論体系を我々が学ぶ(と我々が認識する)ことは、確率が低いものの私達が虚空に宿る脳でも可能ではないでしょうか。そのうえで考えると、物質に宿る脳が虚空に宿る脳よりも物質定位の自己を認識する確率が高いと言えなければ、物質に宿る脳が高確率で物質定位の自己を観察するどころか、その逆、物質定位の自己を認識している私達の脳が高確率で物質に宿っているとも言えなさそうです。
なお、実在論的見地から、複雑なメレオロジカル和が大量に存在するので「人間の(物質としての)脳にしか意識は宿らない」と導く考えは、今では間違っていると思ってます。おっしゃる通り、意識を実現するのに無関係な複雑さは有り得ますからね。
物質、意識、1/3 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月24日(木)01時35分33秒
物質に宿る意識であれば、物質の制約を受けるので、現実の物質的歴史に近似した(構造的に同型の)経験をするのは間違いないのではないでしょうか。
蝉さんの御質問の逆をむしろ考えてみましょう。すなわち、
物質に宿る主観的意識が必ず(あるいは高確率で)物質定位の自分を幻視、または現実通りに認識する理由は何でしょうか。→→→
主観的には物質(脳)定位である意識が必ず(あるいは高確率で)主観通りに物質に宿っているという理由は何でしょうか。
私たちのように、自分が物質に宿っているという知覚経験をたえず持っている意識は、まず間違いなく、物質に宿っているでしょう。
たとえば、私が外出前に自分の部屋の真ん中に椅子を移動させておいたとします。帰宅して、いつものとおりに部屋に入り、勝手知ったる自室なので電気を点けず進もうとしたら椅子に足をぶつけてしまった……、こんなことはよくあります。椅子のことなんかすっかり忘れていたのに、ちゃんと過去の経験と辻褄が合うように知覚経験が訪れるのです。私個人の意識だけでなく、多数の意識の間にこのような整合が成り立って、共通経験も成立します。これは、意識の外に外界というものがあって、それが原因となって諸意識が生み出されている確率的証拠となります。虚空に展開する予定調和の確率は大変低い。
あるいは、数学や物理学の体系など、とても1人の脳の力では生み出せない精妙な知の産物が文明を作っており、学ぼうと思えばいくらでも学べます。これも、意識が自己完結していない証拠です。そもそも「驚き」や「不本意」があること自体、意識が自律的でない証拠でしょう。意識が物質に宿っている証拠です。
逆に、物質に宿っていない脳は、自由に主観経験を作り出すことができるはずでしょう。部屋に置きっぱなしにした椅子は、帰宅早々痛い目にあわぬよう都合よく消えているかもしれません。物質の制約がないのですから、忘れたことは忘れたまま、意識の思うままですね。
とすれば、対偶をとって、「驚き」や「不本意」によって制約されている意識は、高確率で物質に宿っているということができます。
なお、結合が刹那的で、背景に対して輪郭を保ち続けない一時的なメレオロジカル和は意識を持ちうると思います。
ホーキング放射ですね。瞬間的スワンプマンとか。
しかしそれは、数からして極めて少ないでしょう。しかもその大多数は、私たちのように物質定位した経験を意識を持っておらず、物質の制約なしのとりとめない経験をしているでしょう。
つまるところ、私たちが物質とは無縁の自由自在な霊魂生活を経験していないということは、物質的脳に定位した意識に他ならないと思われるのです。物質の制約のない意識なら、あえて物質に制約されているかのような主観的経験をするのは不自然ですからね。たぶんベイズ的計算でこのことを証明することもできるのではないでしょうか。私も考えてみますが。
古き実在論VS観念論の現代版ですね。
さて、スターダストさんの言われることは尤もですね。
多宇宙説を採れば、いかに私が明晰な自己同一性を意識しながら眠り姫実験を経験していても、その私は無数の世界にまたがるドッペルゲンガーの集合なわけですから、反復設定だけが妥当し、1/3説が正しいことになります。
唯一設定が妥当するのは、多宇宙モデルを否定した場合だけか?
これはじっくり考える余地があります。
逆に言うと、1/2説が他の理由で正しいことが証明されれば、多宇宙モデルは偽であることが証明できたことになる???
脱線 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月23日(水)11時44分54秒
個人的には眠り姫問題を考え続けてずいぶんたちますけれど、三浦先生の場合にはもっともっとですよねぇ。
少々脱線させてください。
眠り姫問題で活躍する「フェアなコイン」を、本質的に量子論的な乱数発生器で代替するとどうなるのだろうかと、考えてみたのです。言い換えればシュレイディンガーの猫の生死を決める乱数発生器であったとするのです。 ちなみに、この乱数発生器=物理乱数発生器は、すでに販売されているらしく、USB接続でパソコンに接続して利用することができるらしいです。日常にもたらせられつつあるのですね。
眠り姫問題において「フェアな量子論的乱数発生器」を利用したとし、そして、物理学で言うところのエヴェレット解釈(多世界解釈)を採用するならば、乱数発生器を利用したときに世界は分岐し、場合Aの世界と場合Bの世界は、両立し同時に?存在することとなります。
このエヴェレット解釈に従ったときに、はたして、唯一設定にどれほどの意味があるのだろうかと自問してみたのですが、一向に要領を得た説明を思いつきません。
いかがなものなのでしょうか。
可能世界の集合を非常に狭くとっている私としては、しばし考え込んでいるのです。
返答に対する二つの質問 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月23日(水)02時41分24秒
一つの論点について考えようとするとなかなか考えがまとまらなかったので、身勝手と思いながらも本論から離れて質問させていただきます。
”なぜ物質に宿っているような主観的経験が展開するのか、に必然的理由があるならば、主観的には物質(脳)定位だが実は虚空に宿った魂である、という可能性は否定できず、魂仮説は確率的に生き残りますね。
しかし虚空に宿る主観的意識が必ず(あるいは高確率で)物質定位の自分を幻視せねばならない理由ははっきりしません。”
について、物質に宿る主観的意識が必ず(あるいは高確率で)物質定位の自分を幻視、または現実通りに認識する理由は何でしょうか。
また、”瞬間的な脳状態というのは、ホーキング放射において現実に起きているだろう現象でしょうね。しかしその数は極めて少ないでしょう。やはり私たちは、生物学的に進化した脳でありそうです(それは一時的なメレオロジカル和ではなく、持続的システムです)”
について、結合が刹那的で、背景に対して輪郭を保ち続けない一時的なメレオロジカル和は意識を持ちうるとお考えでしょうか。
お答え願います。
Re: 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月21日(月)02時09分49秒
これもひとりごとですが、
複雑さを内的性質としてでなく来歴のような外的関係として捉えるなら(実現のためクリアせねばならない条件の数など)、人間の脳よりも、ノートパソコンのほうがはるかに複雑です。
なぜなら、人間の脳は、ノートパソコンが出現するための必要条件だからです。人間の脳は自然選択で生じたが、自然にノートパソコンが生ずることはまずありそうにありません。
ひとりごとです 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月20日(日)13時47分46秒
ひとりごとです。
鉱石ラジオではプログラムが走りません。エネルギーは不要ですが。
エネルギーを食いますがコンピュータはプログラムが走ります。適切ならば。
おそらく、ヒトはチューリングマシンではないので、上の比喩ははずれまくりなのですけれども。 ・・・プログラムが意識であるならば、それは動的に発展する情報です。 「コト」であって、「モノ」ではありません。 「コト」の発生契機として、「モノ」の「系」が選ばれることはあるのだろうなぁと思いました。
Re:ニセモンティ、Re:Re:Re 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月20日(日)13時43分1秒
三浦先生wrote >具体的なルールとしては、ヒントで開けたカーテンがもし「当たり」だったらノーゲームとしてもう一度、といったものでしょうか。
はい。ノーカウントです。
私が1/2派用(問2=1/2 問3=2/3)と1/3派用(問2=1/3 問3=1/2)と、ふたつのモンテカルロ法によるシミュレータを作ったときも、ノーカウントで再チャレンジ方式でした。細かく言えば、ニュアンスがちょっと違っていて、カウントしないのは、場合Bの火曜日をサンプリングしたときです。これでは、両派が望む結果になって当然なのかもしれません。
選択効果によるバイアスに連結しているあたりが興味深いですね。なるほど気がつきませんでした。勉強になります。
Re:ニセモンティ、Re:Re: 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月20日(日)07時23分40秒
スターダストさんの設定はまさに考えるべき設定ですね。
ヒントとして回答者が選んだカーテン(またはドア)が当たりだった場合は排除して勘定しますから、残り2つのうち最初に選んだカーテンが当たりである確率は1/2になりますね。具体的なルールとしては、ヒントで開けたカーテンがもし「当たり」だったらノーゲームとしてもう一度、といったものでしょうか。
モンティホール問題の本番成立(外れ1個を除外後に二者択一へ)を前提したとたんに、選択効果によるバイアスがかかっているわけですね。『ライアーゲーム』の「闇と光」のカードゲームがそれでした。ヒロインはダマされるわけですが。
何か、さらに面白い設定が工夫できそうな予感です。
さて、蝉さんの言われるとおり、自分の意識が物質に宿っているということ自体が幻想である可能性はあります。なぜ物質に宿っているような主観的経験が展開するのか、に必然的理由があるならば、主観的には物質(脳)定位だが実は虚空に宿った魂である、という可能性は否定できず、魂仮説は確率的に生き残りますね。
しかし虚空に宿る主観的意識が必ず(あるいは高確率で)物質定位の自分を幻視せねばならない理由ははっきりしません。
瞬間的な脳状態というのは、ホーキング放射において現実に起きているだろう現象でしょうね。しかしその数は極めて少ないでしょう。やはり私たちは、生物学的に進化した脳でありそうです(それは一時的なメレオロジカル和ではなく、持続的システムです)。刹那的な素粒子配列によるバーチャル脳状態である確率は低いでしょう。
Re:Re:下の記事について 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月19日(土)16時58分37秒
前回の返答について2点。
”もちろん、意識を実現するのとは無縁な複雑さ・統一性というものは多数ありえますが、そういうものは観測選択効果で「私たち」の候補から除外されます”
確かに。人間の脳以上に複雑で統一的でも意識を宿さない物質がある可能性を考慮すれば、自分の意識が人間の脳に宿っているという観測結果から「人間の脳にしか意識は宿らない」ということは言えませんね。以下考える意味が薄く、今回の推論の前提を外れますが、我々の認識が実は間違いで、実際は意識が脳以外のものに宿っているという事も考えられます。例えばコンピュータ上に、認識される情報ごと意識が宿っているとか。認識される情報を世界の全てと捕らえるなら(これは真っ当な考え方)この先意識の大繁栄はなさそうですね。もしも、「我々の認識が実は幻である」という先の立場を取るならば、意識がどんな物質に宿るかは見当がつきません。
さて次に、”結合が刹那的で、背景に対して輪郭を保持し続ける単位をなしていないから”メレオロジカルな和を意識を宿す物質の候補から外すべき、つまり意識を宿す物質の候補の判定に統一性という基準を導入すべきという考えについてですが、それはどうでしょうか。例えばある一瞬間、とあるメレオロジカルな和が、意識を初めて宿した時の脳の状態と構造的に一致した場合、それはやはりその瞬間だけ意識を持つのではないでしょうか。「意識を初めて宿した時の脳の状態」が、「その他の瞬間の意識を宿している脳の状態」と大まかに存在確率が等しいとすれば、あらゆる瞬間で私がメレオロジカルな和かもしれないということで、やっぱり「人間の脳にしか意識は宿らない」ということは言えなさそうですが、これも「認識を世界の全てとする」という考え(今回の推論の前提であり、私の意識は人間の脳に宿っているとすること)から外れます。
ニセモンティ問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月19日(土)15時05分53秒
ニセモンティ問題(仮称)は、モンティが当たりのカーテンを知らないでカーテンをひとつオープンしてしまう・・・というのが巷の通説だろうと存じます。
実は、これ、モンティの代わりに、チャレンジする客が気分しだいで最初に自分が選択したカーテン以外にヒントとして空けてほしいカーテンを≪選べる≫という設定と同型です。すなわちモンティが当たりを知っていようが知っていまいが、客が空けてほしいカーテンを選んでしまう、これは、モンティが、≪場をコントロールしていない≫ということになるなぁと。 ジャイアンが静ちゃんのために勝手にあけたとか。それでもいいですし。
これ、さらに同型なのが、3本のうち1ポンの当たりくじで、先か後か。。。
Re:モンティホール 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月19日(土)04時37分58秒
眠り姫問題の実験者のコントロールというのは、先投げか後投げかの違いに相当するのではないでしょうか?
モンティホールで司会者が当たりを知っている場合に相当するのが眠り姫では先投げ設定で、司会者が当たりを知らない場合が後投げ設定。
(いや、逆か?)
興味深い問題に思えてきました。
『白い巨塔』1978年版&2003年版を観るのを中断して、じっくり考えてみたくなりました!
モンティホール 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月18日(金)11時38分33秒
モンティが当たりのカーテンをどれだか知らない場合には結論が違ってきます。そのようなニセモンティ問題は、眠り姫問題で実験者が実験をコントロールデキテイナイケースに相当するのであろうと思いました。オリジナルの眠り姫問題の「ヨミ」からは、実験者は実験を完全にコントロールしています。
Re::眠り姫 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月17日(木)05時13分53秒
kotobaduさん
なるほど、場合Bにおいて、「月曜も火曜も」ではなく「月曜か火曜か」にするわけですね。
その場合ははっきり1/2説が正しそうに感じられますね。
1/2説の眼目は、一度でも目覚めるのであれば、場合AもBも確率は等しい、と考えることでしょう。いま目覚めているというデータは、ともかくも生ずるはずの目覚めのときにあたる他はない、という考えです。観測選択効果の基本をふまえていますね。「私は、目覚めている場所にいる」という側面です。
1/3説は、多く目覚めるような場合の確率がそれだけ高い、と考えます。少目覚めと多目覚めがともに起こっているならば、多目覚めに属している確率がたしかに高いです。相対的な目覚め数の比率は仮定的にとどまらず現実的です。この確率判断は観測選択効果のもう一つの基本をふまえています。「私は、諸々の目覚めのうちでは多数派に属しているだろう」という側面ですね。少目覚め実現か多目覚め実現かいずれか一方かぎりならば、「目覚めのうちでは多数派」という推論は無効です。多数派もなにも、一通りしか起こらないのですから相対的な比率は仮定的にしか存在せず、少も多も生じている確率は客観確率そのものでしかありません。
唯一設定と反復設定とで確率判断の違いが生ずるべき理由は以上ですが、
>唯一設定の場合
>それが多数の世界で行われる時の統計的・頻度解釈でも
>1/2 なのですよね?
ほんとうの唯一設定というものがありうるのか、という問題は実は厄介ですね。
『多宇宙と輪廻転生』では唯一設定の存在可能性は当然視して不問にしていましたが、
唯一設定と反復設定での確率の違いについて書かれている良書に心当たりあるかたは、ご紹介いただけると有難いです。
先投げ設定と後投げ設定の相違についても、『多宇宙と輪廻転生』に書いたこと以上に洗練せねばならないことは確実です。しばらく考えてみますが(主に、私の中にある「正解」の説得的な語り方を考えてみますが)、適宜ご意見いただけると有難いです。
以上のことはスターダストさんへのレスにもなりうる内容を含んでいると思われますが、
>問2に対し1/2、問3に関して1/2
ボストロムの説はアドホックだとわりと簡単に片づけてしまった『多宇宙と輪廻転生』ですが、本腰を入れて考察せねばならないことは確かです。
ちなみにボストロムの論文はここ
http://www.anthropic-principle.com/preprints/beauty/synthesis.pdf
↑欠陥があることはたしかなのですが、「問2に対し1/2、問3に関して1/2」と本当に言えればそれに越したことはないので、さらにさらに詳しく吟味せねばならないことは確実です。
眠り姫問題がモンティホールジレンマと同型構造を示していることは事実でしょう。
しばらく考えた上で、また書き込みます。スターダストさんからの刺激的な続報に期待しています。
いままでのハナシは 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月16日(水)12時24分52秒
たぶん、唯一設定であろうと思うのですが。
モンティホールへの帰着 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月16日(水)12時23分7秒
眠り姫問題のモンティホールへの帰着が誤謬ないし詭弁でなければ、次のステップとして、以下の2通りの中からひとつを選択すべきです。
3:問2に対し1/3、問3に関して1/3
4:問2に対し1/2、問3に関して1/2
ここでは、ニック・ボストロムにならって、あっというまに3番の可能性を捨ててしまうほうが直観的です。すなわち、証拠として、月曜日に目覚めてインタビューを受けた後にフェアなコインが投げられる設定では、いかにも問2に対する回答は1/2であろう、というものです。
また、問3に関して1/2という回答は、従来の1/3派の回答と類似していますので、この意味において、4:問2に対し1/2、問3に関して1/2は、1/2派と1/3派の折衷となっています。
ひとつの有力なアプローチではないかとも思えるのですが、一方において、こんな詭弁はたくさんだ、という声もあろうかと思います。(実は私自身、まだ、1/3派の確信派です…)
どこかが間違っているのだろうと信じて、あがいています。
1/2派のためのモンティホール問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月16日(水)12時10分38秒
続いて、1/2派のためのモンティホール問題を考えて見ます。
今度は、重みつきのモンティホール問題を設定しておかなければいけません。客に(眠り姫に)カーテンをまず選ばせ、次に、モンティは、姫が選んだカーテンに「場合A月曜」のカードが割り当てられる確率を1/2にします。残りのカードは、姫が選ばなかったカーテンに適宜割り付けます。
あとは、通常と同じモンティホールジレンマの設定と同様に進行します。
重みつきでない場合と同様に、モンティがはずれのカーテンをあける前後とで、姫が「場合A月曜」のカードを引き当てる確率は、それぞれ1/2です。
申し遅れました。大事なことを付け加えます。ボストロム説とは異なり、ベイズ改定の必要性を肯定しベイズ改定を行っています。それでも当たりの確率は変動しないのです。
1/2派による眠り姫問題は容易に上のモンティホールジレンマに帰着できるに違いありません。前項の1/3派のためのモンティホール問題で触れた論理をそのまま踏襲可能だからです。
以上によって、1/2派の問3に対する回答は、1/2でなければいけないことが論証できました
1/3派のためのモンティホール問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月16日(水)12時03分11秒
さて、1/3派のためのモンティホール問題を考えて見ます。
モンティは、3つのカーテンを用意します。カーテンの後ろにはそれぞれカードが1枚おいてあります。カードにはこう書かれています。「当たり。場合A月曜。(以下A月と略)」「はずれ。場合B月曜」「はずれ。場合B火曜日。」
客はカーテンをひとつ選びます。
問2:さぁ、あなたはカーテンをひとつ選んだ。当たる確率は?
するとモンティは、あなたが選ばなかったカーテンのうち、はずれが入っているほうをひとつオープンしました。
問3:さぁ、当たる確率は?
モンティホール問題の標準的な解釈では、当たる確率は問2でも問3でも同じで1/3であると言います。ですから、カーテンをチェンジすることが許されるならば、商品をゲットする確率が2/3に増えるのでした。
上記のモンティーホール問題は、1/3派による眠り姫問題と同じ相を示しているはずです。ただし、場合Bの月曜日か、場合Bの火曜日かのいずれかが、眠り姫のおかれている立場ではないと教えられる、その上で問3を回答するというものです。1/3派ならこれらの変更は気にしないことでしょう。眠り姫は茫漠なのですから。スターダスト 投稿日:2008年 4月15日(火)12時16分32秒の投稿はこのことについて公準をえるための準備でした。
さて、以上によって、1/3派の問3に対する回答は、1/3でなければいけないことが論証できました。
しかし、これは、はなはだしく直感に反します。間違いであるとすれば、モンティホールへの帰着が間違いであるか、もしくは、1/3派による、3回発生するインタビューそれぞれが発生する確率が「同様に確からしい」という公準の否定か、どちらかを選択しなければなりません。
RE:眠り姫問題での微妙な同意点 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月16日(水)11時49分37秒
…とはいえ、そんなシミュレータだけではなく、以下の4通りのシミュレータが作成可能でした。
1:問2に対し1/3、問3に関して1/2
2:問2に対し1/2、問3に関して3/4
3:問2に対し1/3、問3に関して1/3
4:問2に対し1/2、問3に関して1/2
4通りすべてにおいてベイズ改定を考慮したつもりです。シミュレータはそれぞれなんらかの恣意性が含まれている≪はず≫なのですが、恣意性を明快に抉り出すことが難しいです。
3番4番のシミュレータが、なかば詭弁じみており、なかば真相をついているようでもあり、従来のアプローチとは異なるものです。
これらふたつのシミュレータは本質的に、「モンティ・ホール・ジレンマ」のシミュレータであるからです。
難解な眠り姫問題を、既知の比較的簡単なベイズ確率問題であるモンティ・ホール・ジレンマに帰着せしめよう、というアプローチをとってみたのです。その上で、3番のシミュレータは現実的でないことを示しつつ4番を反駁することは難しい、と示すことができそうです。ただし、詭弁でなければですが。なお、4番のシミュレータは重みつきのモンティ・ホール問題ですが、三浦先生の御著書でも確か触れらていたと存じます。
まずは、いわゆる1/3派の考えを、3番のモンティホールジレンマへの帰着することを試みます。
RE:眠り姫問題での微妙な同意点 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月16日(水)11時27分39秒
眠り姫問題での微妙な同意点(投稿日:2008年 4月15日(火)11時57分28秒 )の続稿です。
ニック・ボストロムは、オリジナルの眠り姫問題に関して、問2に対し1/2、問3に関して1/2、といったボストロム自身の直観的回答を用意し、アドホックな説明として、(特に)問3の状況においてさえも、与えられている情報が有意義でないために確率のベイズ改定が不要であるという論拠を示しました。もちろん、三浦先生はその論法を分析して論破しています。(御著書において)
ボストロム流ではなく、ベイズ改定は≪なされるが≫、問2に対し1/2、問3に関して1/2という回答を出力するモンテカルロ法によるシミュレータが作成してみました。
(続く)
こんにちは 投稿者:kotobadu 投稿日:2008年 4月16日(水)08時07分46秒
一月に論理サバイバルについての疑問点で率直丁寧な返事をありがとうございました。感謝の言葉まで頂き嬉しかったのですが、今までレスできず、すいませんでした。
眠り姫の話についてですが
もし裏であれば二分の一の確率で月 または火に起こす (目覚めは一回
この場合は 反復でも唯一でも、表確率1/2 でいいですか?
1/2解釈の場合 裏での目覚めは2回だが その1回についての評価は 月か火1回の場合と同じ 表の目覚め1に対し 1/2の重みになる と
裏の場合の1回の目覚めを 表の1回と同等に1 と見なすか 1/2の重みと見なすかが 分かれ目ではないかと思いますが
もし 分離脳にしてしまって 三箇所で同時に起こすなら これは1:1:1 であり、表は 1/3
ところが 裏月と裏火が、同時共存でないから、しかもどちらか一方でもなく、両方とも実際に起こされるから それらの重みが 1なのか 1/2 なのか分かれるのかと
ただ 自分には未だ その解釈の分れが 唯一設定と、反復設定によって なされる理由がはっきりしていません
あと
唯一設定の場合 それが多数の世界で行われる時の統計的・頻度解釈でも 1/2 なのですよね?
これと 反復設定とはどう違うのかが・・
一個の心理としての一貫性と与えられる情報の不変 により 1/2 が変化しない というようなことですか?
> 「後投げ設定」(月曜日に目覚めた後にコインが投げられる)または「反復設定」の場合は、1/3説が妥当します。
「後投げ設定」の場合についてですが、後投げの場合の方が 月2 対 火1 各ステージ 表月:裏月:裏火 が 1:1:1 の関係にあると見るのが自然にできるという理解でいいでしょうか? それとも もっと別な相違があるでしょうか?
先投げの場合に
『裏でも表でも月曜には起こす、しかる後 裏の場合のみ 火曜にも起こす』
と表現した場合でも、後投げとははっきり相違があるでしょうか?
なにかヒントをもらえればと 投稿してます
Re:…… 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月16日(水)04時52分19秒
午前3時過ぎにここを見たので、
御三人に対して同じ枠で早書きの答えとなってしまい、失礼いたします。
いずれユックリと考え直すとして、とりいそぎ以下のようなふうにお答えさせていただきましょう。
まず、蝉さんの言われることは尤もです。
ただ、「会話する2つの脳」とか、「コンピュータ+脳」のようなもの(メレオロジカルな和)は、「1つの存在」として数えるには、恣意的のように思われます。結合が刹那的で、背景に対して輪郭を保持し続ける単位をなしていないからです。ある程度持続的なまとまりをなすものを準拠集団のメンバーとするべきではないでしょうか。つまり、複雑性に加えて統一性も評価基準に入れるのです。(単に「複雑な」と書いたのは私の不注意でした)
そうすると人間の脳は宇宙で最も複雑かつ統一的な物体だ、ということはありそうです。むろん、脳以上に複雑かつ統一的な物理系はあるかもしれません。それはやはり意識を宿し、ただし数が少ない(だから私たちがそれに当たる確率も低かった)と言えるのではないでしょうか。(もちろん、意識を実現するのとは無縁な複雑さ・統一性というものは多数ありえますが、そういうものは観測選択効果で「私たち」の候補から除外されます)
メレオロジカルな和を私は否定しているのではありません。輪廻転生関係で結ばれた「私」はメレオロジカルな和ですし、p.341注23で言及したようにメレオロジカルな和を「1つのもの」と認めることにはしばしばメリットがあります。『論理パラドクス』では、「スマリヤンのパラドクス」や「影のパラドクス」を解くのにメレオロジカルな和が必要だという立場を私はとりました。しかし、意識を生じるというような実在的現象をもたらす単位としては、単なるメレオロジカルな和ではなく、統一的な物理系をとるべきでしょう。
スターダストさんの提示されている問題は面白そうですね。しばらく考えてみます。お考えを聞くのを楽しみにしています。
「1/2派も1/3派もベイズ推定を誤っている」というのが本当なら、これは聞き捨てならない発見ですからね!
さて、学ぶものさんの言われることは、ちょっとわからなくなりました。
>言語の習得には他者とのコミュニケーションが必要であるとするならば、
>身体をもたぬ魂は、そのような他者とのコミュニケーションをとることができず、
>したがって言語を習得する確率が低いので、まともな思考をすることもできない
>のではないかと。するとやはり魂仮説の方も観測選択効果が働くことになる?
魂が物質の根拠づけなしに自律的に考え、主観的に意識し、互いにコミュニケーションを取り合うことは想像可能ではないでしょうか。私たち物質的脳に宿る者たちと同じように、生まれてから死ぬまでの私的歴史を持ち、社会を持ち、相互の交流もある。知識も増え、情操も発達する。言語も交わす。何の不合理もないように思われます。単に物質を伴っていないだけです。主観的意識や言語的情報が虚空に飛び交うわけです。
虚空でも十分なそのような「魂」が人間の脳のような複雑かつ統一的な物質と重なる確率は低いので、私が現に脳と重なっていることは、虚空に魂が宿ることはありえない証拠になるでしょう。
言語の話は、魂の本質とは関係ないような気がします。
意識もしくは思考にとって言語が本質的であるにせよないにせよ、非物質的な言語そのもの込みで魂が考えられるからです……
魂について 投稿者:学ぶもの 投稿日:2008年 4月16日(水)01時04分24秒
「多宇宙と輪廻転生」の魂仮説とゾンビ仮説の確率的検証の個所を読んだとき、
ゾンビという存在を、通常の人間から主観的意識をぬきとった存在
というふうに考えて、ゾンビがもたぬ主観的意識の方を魂というふうに
考えたのですが、
しかし、通常の人間から主観的意識をぬきとったものがゾンビであるとするなら
そのとき抜き取られた主観的意識という存在にはどのような機能が
備わっているのかという点が自分の中でどうもはっきりしないのでした。
主観的意識をもたないゾンビは、通常の人間と同様に思考する存在なの
ですから、ゾンビが失っている主観的意識そのものは、思考作用という
機能はもたないのではないかと思ったので、そこからどうして
主観的意識=魂の方は観測選択効果が働かないのだろうと疑問におもって
質問したのでした。
しかし、
>物質とは独立に、主観的心理が灯っているようなものを魂と私は捉えています。
ということなので、主観的心理をもった身体から独立した意識=魂ととらえるならば、
観測選択効果がはたらかないことは理解できました。
たしかに、そちらのほうが「魂」という言葉のイメージにふさわしい気もします。
ただ、そのような身体から独立して存在する主観的心理がともっている主観的意識=魂
というものを考えてみると、思考可能な存在でありながら実際には思考することが
ほぼありえない存在のような気もします。
というのも、そのようなもともと身体をもたない宙に灯る魂という存在は、
言語を習得することができなそうだからです。
言語と思考の関係についてはっきりしたことは知らないのですが、
仮に概念的思考には言語が必要であるとするならば、
魂仮説とゾンビ仮説の確率的検証といった思考をするためには、言語が必要であり、
したがって、魂が思考能力をもっていても、実際に思考する存在であるためには、
言語を獲得していなければならないはずなのですが、身体をもたない宙に灯る魂
という存在に言語を習得することができるのかと考えるとどうも確率的に低いような
気がするのです。
私的言語批判からの一つの教訓は、言語をまったく習得していない段階で、個人の独力で
言語を生み出すという想定は、ありえなさそうだということだったと思います。
(三浦さんはラッセル本で「私的言語批判」批判をしているので、この主張には
同意されないかもしれませんが)
もし、言語の習得には他者とのコミュニケーションが必要であるとするならば、
身体をもたぬ魂は、そのような他者とのコミュニケーションをとることができず、
したがって言語を習得する確率が低いので、まともな思考をすることもできない
のではないかと。するとやはり魂仮説の方も観測選択効果が働くことになる?
しかし、ちょっと議論の方向がずれて三浦さんの興味をひくものではなくなって
いるような気もしますので、一旦このへんでやめておきます。
返答ありがとうございました。
(続)眠り姫問題での微妙な同意点 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月15日(火)12時16分32秒
…さらに、問3-3を考えてみました。
「さぁ、あなたは目覚めた。場合Aである確率は?ただし、以下をふまえて答えよ。
確率mで、あなたは場合Aの月曜日もしくは場合Bの月曜日にいる。
確率1-mで、あなたは場合Aの月曜日もしくは場合Bの火曜日にいる」
この問3-3においても、1/2派と1/3派ともに、問3における回答と同じ値を答えるものと推察いたします。いかがなものでしょう?
私は以上を公準において、眠り姫問題の別局面からのアプローチを考え中です。
おそらく、1/2派も1/3派もベイズ推定を誤っているのではと、アイデアが出たからです。
もう少し考えますが有望です。
眠り姫問題での微妙な同意点 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月15日(火)11時57分28秒
眠り姫問題において、1/2派と1/3派とが同意している点であろうと私の非力な知力が推定してみたことがらがあります。三浦先生、いかがでしょうか。
問3の変形版として。
問3-2 「さぁあなたは目覚めた。今日は場合Aの月曜日か場合Bの火曜日である。場合Aである確率は?]
問3の回答と問3-2の回答は一致すると、1/3派も1/2派も答えるのでしょうか?唯一設定と繰り返し設定とのかねあいはいかがなのでしょうか…
訂正 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月15日(火)06時18分29秒
「今現在、」を「実現可能な」に訂正します。
下の記事について 投稿者:蝉 投稿日:2008年 4月15日(火)05時55分50秒
始めまして。この掲示板をたまに覗かせてもらっている者です。
早速ですが、下の記事に関して気になることがあったので質問させていただきます。
”脳なき意識が可能なら、確率的に言って、私たちは、単なる意識であるときには脳から離れていてもいいはずです。
現実にはそうなっていないらしいということは、思考なき意識もある程度複雑な物質を必要としている、つまり魂はない、という証拠ではないでしょうか?”とありますが、さらに、「物質にしても人間の脳にしか意識は宿らない。」とは言えないでしょうか。つまり人間の脳と大きく異なる構造をしていて、かつ人間の脳以上に複雑な物質にも意識は宿らないと。何故こう言えるのかと言うと、今現在、人間の脳の個数よりも、人間の脳以上に複雑な物質の個数のほうが圧倒的に多いからです。
例として、「相互に作用し合っている2つの脳」。私の意識はそれらの脳が相互作用(例えば会話)を止めた途端に失われるものではないようです。また「電話回線に繋がれた、とあるコンピュータ群とその利用者の脳」。私の意識は停電とともに失われないし、復旧と同時に覚醒したりもしないみたいです。
以上のように、つかの間に生じ、つかの間に消えゆく数多くのどの物質でもなく、人間の脳に私の意識が宿り続けていることは、先の命題の根拠とならないでしょうか。
Re:なぜ魂の存在確率の推論には 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月14日(月)01時39分14秒
意識作用と思考作用は分離可能、とさしあたり考えるなら――
思考する魂は確率的に排除できるとしても、意識する魂は確率的に排除できないのはゾンビと同じではないか、というわけですね。
単にぼんやりした意識だけが中空に漂っている、という「魂」には、ほとんど興味がなかったので、議論の中に入れていませんでした。
>脳のような思考作用を可能にする器官にやどった意識だけが、
>”私が脳に生じた意識であるのはなぜか”という問いを意識する
>ことができるのだから、
思考作用が脳によってのみ生ずるとしたら、意識作用はどうやって生ずるのでしょうか。脳よりも複雑でない物体にでしょうか。あるいは人間の脳よりずっと単純な脳。
そうだとしたら、ミミズやカエルやヤモリの意識はまさにそういうものだと思われるので、
学ぶものさんの言われる魂(思考せず意識だけある魂)が現にそこら中にあることを私たちはすでに知っていることになります。
しかし、ヤモリが何匹いようが魂の存在とは関係ありませんよね。
物質とは独立に、主観的心理が灯っているようなものを魂と私は捉えています。
それゆえ、「魂(意識)のうち脳のような器官にやどった意識だけが思考する」というのは、つぎはぎの唯物論であって、どうもモチベーションがはっきりしません。
もちろん、意識の発生そのものは物質とは独立で、至るところに漂っているのだが、思考作用となると俄然、人間の大脳のような物質を必要とする、という考えも否定はできませんが、
思考は意識の量的拡大に他ならないという主観的証拠が豊富にあります。
私たち自身がまどろんでいる状態(意識はあるが思考はない状態)を思い出してみると、やはり意識は脳に定位しており(働きの鈍った脳でしょう)、真空からいきなり脳へ移る(思考が始まったとたんに脳に収束する)という現象はおそらく経験されていません。脳を刺激されるやいなや覚醒したりします。
脳なき意識が可能なら、確率的に言って、私たちは、単なる意識であるときには脳から離れていてもいいはずです。
現実にはそうなっていないらしいということは、思考なき意識もある程度複雑な物質を必要としている、つまり魂はない、という証拠ではないでしょうか?
なぜ魂の存在確率の推論には観測選択効果が働かないのか 投稿者:学ぶもの 投稿日:2008年 4月13日(日)15時30分35秒
「多宇宙と輪廻転生」での魂仮説とゾンビ仮説の確率的検証の個所で
どうして、ゾンビ仮説の場合には観測選択効果が認められて、
魂の場合には認められないのかが、いまひとつわからないのですが。
p294で、
”AのときもBのときも、いずれにせよ「私」はゾンビであることはできないの
で(ゾンビであったら推論の主体としてこの議論を意識できず、真の「私」では
なくなる)、多寡にかかわらず、心(非ゾンビ)の中から「私」がピックアップされ
ねばならない”
とありますが、魂(というか純粋意識?)仮説の場合も同じになるような気がするのですが。
”推論の主体としてこの議論を意識できる”ためには、たんに意識的存在者であるだけでは
不十分で、推論(つまり思考)する存在者でなければならないはずです。
つまり、意識作用と思考作用は分離可能という仮定にたてば、
純粋意識なるものが宇宙にあふれていても、それらは、いかなる推論もすることのない、
自己が存在していることを自覚することのない、たんなる沈黙する観測者でしかないの
ではないでしょうか。
脳のような思考作用を可能にする器官にやどった意識だけが、
”私が脳に生じた意識であるのはなぜか”という問いを意識する
ことができるのだから、
脳以外に生じた純粋意識たちは、いかなる問いもいだくことのない
沈黙する存在者として端的に存在するだけなのではないでしょうか。
したがって、
なぜと問う自分が脳に生じた意識である確率は、観測選択効果によって
あらかじめ1であることが約束されているのではないかと思ってしまうのですが。
Re: SSAとの関連 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月12日(土)01時10分4秒
反復設定では、SSAが1/3説を導くことは見やすい道理です。
唯一設定の先投げ設定の場合は、SIAに立たないと1/3が正解にならないような気がしますが……、
一応答えを体系化したとはいえ、まだまだ私も考察途上です。
SSAとの関連 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月11日(金)11時59分31秒
本当は、SSAの立場にたちつつ、1/3派(確信派)に立てないかなぁと、、というのが目標です。
2/5説の不十分なところ 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月11日(金)11時57分19秒
2/5説の不十分なところをご説明いただきスッキリいたしました。ありがとうございます。
あの時点で考えていたのは、問い2の答えが、問い1の答えに比べて「事後確率」であるのは明らかとして、どのような情報を元にしているのか? について考えていたのでした。 コインが投げられたのか? という情報を元にしているのが本当なのだろうか? そこで、問い1の回答ですら「事後確率」なのではないか? と自分で設問してみたかったのです。
三浦先生wrote>なぜなら、日曜日には「実験がこれから始まるが、表なら月曜の1度だけ、裏なら月、火の2度、目覚めさせられる」と説明を受けることになっているので、「いまは日曜」とわかるからです。
これは本質を突いていると思われてなりません。 コイン先投げ後投げよりも重要です。 今日が何曜日なのかを知ること。 というよりももっと一般的に言って、「自分はどの曜日の部分集合に属しているのか」を知ることが、事後確率を生み出す情報になる、というふうに自分自身の頭を整理しつつあります。たとえば、自分は「日曜月曜火曜のどれかの主体であって、日曜日に限定されないかもしれない」と思うしかない状況におかれたならば(オリジナル眠り姫問題にはありえない設定です)私は場合Aの確率が2/5であると言うかもしれません。 おかれている可能性のある曜日の集合について考えることが第一、、、そこに情報を与えるのが、オリジナルの眠り姫問題に限れば「コイン投げのタイミング」が重要なキーになっている、という風に考えています。 変形の眠り姫問題について言えば、「コイン投げのタイミング」については慎重に取り扱うことが必要かもしれません。個々にあたっていかなければ・・・
修正 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月10日(木)21時32分11秒
Re:「先投げ設定の唯一設定」 で、一部、誤解を招く表現をしてしまいました。
>コインが土曜に投げられていても、
>日曜に眠らされた直後に投げられるのであっても、同じことです
>(月曜に目覚める前に投げられていたのであれば)。
括弧内の但し書きが余計で、
月曜に目覚めた後に投げられる設定(後投げ設定)であっても、日曜に目覚めたときの場合Aの確率は1/2です。実験開始前(日曜の時点)では、1/2派vs1/3派の対立はありません。
先投げ設定(月曜に目覚める前にコイン投げ)であれ後投げ設定(月曜に目覚めた後にコイン投げ)であれ、1/2派vs1/3派の対立が生ずるのは、実験開始後、すなわち月曜以降の目覚めにおいてですね。
あとの記述は訂正なしです――
Re:「先投げ設定の唯一設定」 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月10日(木)14時26分47秒
いや、2/5はないでしょう。
なぜなら、日曜日には「実験がこれから始まるが、表なら月曜の1度だけ、裏なら月、火の2度、目覚めさせられる」と説明を受けることになっているので、「いまは日曜」とわかるからです。日曜だとわかっている以上(「日曜である」というデータに条件付けた確率だから)、1/3派といえども、場合A(コインは表)の確率は1/2と考えざるをえませんね。
日曜に目覚める回数は表でも裏でも同じですから(少なくとも問題の設定として違いは明記されていない)、1/2派も1/3派も、日曜の段階で「場合A(コインは表)」である確率は1/2と考えるべきです。
コインが土曜に投げられていても、日曜に眠らされた直後に投げられるのであっても、同じことです(月曜に目覚める前に投げられていたのであれば)。
月曜に目覚めた後に投げられるならば、1/3派が正しいことになるでしょう。「今が月曜」と教えられない時点では「場合Aは1/3」月曜と教えられた時点で「場合Aは1/2」となります。
1/2派のデイヴィド・ルイスなどは、月曜と教えられた時点で「場合Aは2/3」となる、と主張します。コインはこれから投げられるのだが、表になる確率は2/3だというのですが、私は納得できません。しかし、目覚めたのが火曜でなく月曜だったということは、ニューカム問題と同じような過去向き因果に似たバイアスがかかっている証拠だから、これから投げられるコインに統計的偏りが生ずるのは当然、というルイス説も捨てがたいものがあります。
したがって、「唯一設定では常に1/2説が正しい」という立場も、まだ検討の余地があります。
「先投げ設定の唯一設定」 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月10日(木)13時37分20秒
性懲りもなくお邪魔いたしております。理解がスッキリせずに苦しいのです。
「先投げ設定の唯一設定」 とは異なる他のケースについてすべてを考えているわけではないのですが、現象論として「コインを投げるタイミング」についてはとても大事なキーワードになろうかと同意いたしております。
というのは、4月 7日(月)10時47分29秒 の私の投稿にある、B-3に差し替えたバージョンとオリジナルバージョンが等価であるという誤認から、私は1/2派であったからです。 B-3では、コインの後投げが出来ませんから…これは、御著書の中にも明確に書いてあったことですが私は読み方を間違えていたようです。気がつきませんでした。「コインを投げるタイミング」は大事です。
…まだ唯一設定について考えるだけの納得ができていないのが現状です。先にコイン投げについて考えたいのです。そこで申し訳ございません。出来ましたらお尋ねしたいのですけれど。
※余談ですが私は1/3派の『亜種』になってしまいました。
実は土曜日中にすでにコインが投げられていたとしたら、1/3派の『亜種』としての私は、問1「場合Aである確率は?」に対して、答えとして、「1/2」を提出できません。 「2/5」であると答えることでしょう。ナンセンスでしょうか?1/3派正統派は「1/2」と答えるのでしょうか?
私自身気味の悪い導出でして今後撤回するかもしれませんが、★コイン投げ済み★である以上、自分が属しているであろう全ての主体を数える必要性があり、それを属しているかいないかに関わらず全ての主体の数で割ってやりたい、それが確率だ、と。 場合Aの主体は日曜月曜の二つ、場合Bの主体は日曜月曜火曜の3つです。
かなり気味が悪い論拠なのですけれど・・・
Re:「先投げ設定の唯一設定」 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月10日(木)04時09分21秒
眠り姫は難問です。
唯一の答えはおそらく出ず、「どのような条件下で、どちらの答えが正しいのか」を根拠づける問題と捉えるのが妥当でしょうが、それがまたむずかしい……、
『多宇宙と輪廻転生』での「答え」は、暫定的な試案です。(他の形而上学的諸問題との関係においての)
「先投げ設定の唯一設定」 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 9日(水)15時15分4秒
※三浦先生、reachさん、ありがとうございます。
三浦先生wrote>「先投げ設定の唯一設定」(月曜日に目覚める前にコインが投げられていて、ただ1回だけ行なわれる実験)の場合は、1/2説が正しいというのが私の診断です。
あ・・・これは・・・考えてきたのと違う結論に・・・もうすこし考えます。
お礼 投稿者:とし 投稿日:2008年 4月 9日(水)10時47分58秒
「自分原理」の投稿に関するご返事ありがとうございました。
一般化 投稿者:reach 投稿日:2008年 4月 8日(火)09時15分56秒
>唯一設定と繰り返し設定で確率や期待値が異なるというのはありうることだと思います。
異なることがありうる、という点にはまだ納得がいっていないのですが、
こういった状況はどのような問題で現れるのか、もっと一般化できれば面白そうですね。
もう少し考えてみます。
お付き合いありがとうございました。
Re:謎は深まるばかり 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月 8日(火)04時52分35秒
唯一設定と繰り返し設定で確率や期待値が異なるというのはありうることだと思います。
眠り姫問題が実際そうなのですから。
また、スターダストさんは「もはや、1/2派に戻れません」と言われますが、
1/2説が正しい設定もあるので、そう簡単ではありません。
『多宇宙と輪廻転生』を読み進めていただければわかりますが、
「先投げ設定の唯一設定」(月曜日に目覚める前にコインが投げられていて、ただ1回だけ行なわれる実験)の場合は、1/2説が正しいというのが私の診断です。
そして、それが「眠り姫問題」の最も自然な読みでもあるのです。
「後投げ設定」(月曜日に目覚めた後にコインが投げられる)または「反復設定」の場合は、1/3説が妥当します。
人類の歴史は、「後投げ設定」に相当し、1/3説が妥当するので、終末論法は正しくない、というふうに議論を進めました。
謎は深まるばかり 投稿者:reach 投稿日:2008年 4月 7日(月)12時36分6秒
To φ さん
私の正解数/目覚め数の期待値計算は間違っていなかったけど、
それは唯一設定を前提にしているということですね。
ほんの少しですが、唯一設定なるものが理解できました。
眠り姫問題の本当の謎に迫った気がします。
それでも私の気持ちとしては、
唯一設定と繰り返し設定で期待値が異なるというのは認めがたく、
期待値1/2を求める計算式には何か誤りがあるのではないか、と考えています。
φ さんは、どう思われますか?
To スターダストさん
私も1/3派ですが、場合A-2、B-2の場合でも、
結局は唯一設定と繰り返し設定では期待値が異なるのではないでしょうか?
(計算したわけではありませんが、多分そうでしょう)
期待値が異なる限り、1/2派を反駁したことにはならず、
それが眠り姫問題の謎の核心ではないかと思います。
was:眠り姫問題についてご質問 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 7日(月)10時47分29秒
もう少し別角度から私が1/2派の「亜種」であった理由を申し上げたく思います。
場合Bのみの設定を場合B-3に変更した、次の亜種の「眠り姫問題」がオリジナルの「眠り姫問題」と等価であると堅く信じていたのです。悟った今となっては、その理由はわかりません。
場合B-3:フェアなサイコロをふり、丁が出たら月曜日に1回起こされて1回インタビューをうけて1回眠らされます。火曜日には目覚めません。サイコロが半であったら、月曜日には目覚めません。火曜日に1回起こされて1回インタビューをうけて1回眠らされます。
私の頭の中で上の亜種の眠り姫についてずっと数週間も、考えていたのです。なんということでしょうか!
was:眠り姫問題についてご質問 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 7日(月)10時41分23秒
1/2派から脱却できたキッカケは、エミュレータを作るために眠り姫問題の設定をいじくり回していたときに気がついた、以下の「亜種」の眠り姫問題を考えたことからでした。場合Aと場合Bの設定をそれぞれ変えて差し替えます。差し替えたものについては、ここでは「-2」のしるしをつけます。
場合A-2: 月曜日に2回起こされて2回インタビューをうけて2回眠らされます。 眠りは深いので起きていたときの出来事は忘れます。
場合B-2: 月曜日に3回起こされて3回インタビューをうけて3回眠らされます。ひきつづき、火曜日に2回起こされて2回インタビューをうけて2回眠らされます。
問題2「さぁ、あなたは目覚めた。場合Aである確率は?」
問題3「さぁ、あなたは目覚めた。今日は月曜日である。場合Aである確率は?」
夕食時にこの亜種を考えたときに「んんんんあっ…」と呆けたのでした。悟りです。(笑)
もはや、1/2派に戻れません。
Re: was:眠り姫問題についてご質問 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 7日(月)10時33分33秒
…まことに恥ずかしながら、過去数週間ものあいだ毎日毎日眠り姫問題を考え続けた私は1/2派(亜種)であったにもかかわらず、昨日夕食時に「んんんんんあっ…」と口に出して家族の者から「馬鹿ですか?」と笑われていらい、1/3派に鞍替えいたしました。 ある意味とても残念です。
---ひとさまに説明しようとして筋道を立てると、自分ひとりで考え込んでいるときに比べ、はるかに明晰になるのですね、再び同じ教訓を得ました。
三浦先生の2008年 4月 6日(日)20時19分47秒の、αに関する式の評価は正しいと思います。1/2派と1/3派とではどちらが正しいかについては、もはや私は1/3派(確信犯)ですので…
線形であるべきである、というイメージがあったのですが、これは、以下の誤解によるものでした。やや特殊化して書きます。
すなわち、「今日が月曜日であると知らされた時の場合Aである確率(眠り姫問題の問題3)」と「今日が火曜日であると知らされた時の場合Aである確率」を、月曜日と火曜日の生起確率による重みをつけて加算すれば、「何も知らされないときの 場合Aである確率になる(眠り姫問題の問題2」
今となってみれば、これは暴論です。
こんなことを基礎に「線形になるに違いない」と思い込んでいたのですね。レベルが低すぎて話になりません。まことにすみません。
Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月 7日(月)02時02分17秒
「起こる確率」と「起こされた数」が紛らわしいので、
以下、「起こされた数」ではなく「目覚め数」と書きます。
……………………
不整合が生じたのは、
ケース1~6の計算が、唯一試行を前提としてなされているからではないでしょうか。
多数試行ではreachさんの計算は成り立ちません。
唯一試行であれば、正解数/目覚め数 は1回しか実現しないので、その期待値をダイレクトに求めてもよいでしょう。
しかし、多数試行を前提とすれば、正解数/目覚め数 の価値はケース1、2とケース3,4,5,6とで同等ではありません。
後者のほうが二倍の重みがあります。すなわち、比率ではなく絶対数で比べるべきです。
したがって、多数試行の場合の計算は次のようになるのではないでしょうか。
ケース1:場合Aで、答えはA――起こる確率は1/2×P、正解数は1
ケース2:場合Aで、答えはB――起こる確率は1/2×(1-P)、正解数は0
ケース3:場合Bで、答え月がA、答え火はA――起こる確率は1/2×P×P、正解数は0
ケース4:場合Bで、答え月がA、答え火はB――起こる確率は1/2×P×(1-P)、正解数は1
ケース5:場合Bで、答え月がB、答え火はA――起こる確率は1/2×(1-P)×P、正解数は1
ケース6:場合Bで、答え月がB、答え火はB――起こる確率は1/2×(1-P)×(1-P)、正解数は2
正解数の期待値=1/2×P+1/2×P×(1-P)+1/2×(1-P)×P+1/2×(1-P)×(1-P)×2 =(2-P)/2
目覚め数の期待値=1/2×1+1/2×2 =3/2
正解数の期待値/目覚め数の期待値=(2-P)/3
これは、1/3説の場合の答えを与えていますね。
P=0つまり常にBと答えた場合に最大値2/3となり、
P=1つまり常にAと答えた場合に最小値1/3となります。
(無題) 投稿者:reach 投稿日:2008年 4月 6日(日)23時02分4秒
>つねにAと答えた場合、「正解数/起こされた数」の期待値は1/3でしょう。
>1/2になるのは、「正解者数/実験の数」ではありませんか?
私が「正解数/起こされた数」の期待値として計算したのは以下の通りです。
被験者がPの確率でA、確率1-PでBと答えるとし、
「正解数/起こされた数」の期待値が最大となるPを見つけようとしました。
まず、すべてのケースに場合分けして、それぞれの確率と「正解数/起こされた数」を求めます。
ケース1:場合Aで、答えはA――起こる確率は1/2×P、正解数/起こされた数は1/1
ケース2:場合Aで、答えはB――起こる確率は1/2×(1-P)、正解数/起こされた数は0/1
ケース3:場合Bで、答え月がA、答え火はA――起こる確率は1/2×P×P、正解数/起こされた数は0/2
ケース4:場合Bで、答え月がA、答え火はB――起こる確率は1/2×P×(1-P)、正解数/起こされた数は1/2
ケース5:場合Bで、答え月がB、答え火はA――起こる確率は1/2×(1-P)×P、正解数/起こされた数は1/2
ケース6:場合Bで、答え月がB、答え火はB――起こる確率は1/2×(1-P)×(1-P)、正解数/起こされた数は2/2
そして、ケースiにおける起きる確率Piと「正解数/起こされた数」Eiの積の合計
つまり、P1×E1+P2×E2+…+P6×E6を期待値と考えました。
そして、実際に計算すると、P1×E1+P2×E2+…+P6×E6=1/2となります。
Pの値に関係なく、どんな混合戦略を使っても(オールA戦略、オールB戦略含む)、期待値は1/2で変化しないため、
これは1/2派を支持する根拠となります。
でも確かに、この実験を繰り返し行えば、オールA戦略の期待値は1/3、オールB戦略の期待値は2/3であることは明らかです。
P1×E1+P2×E2+…+P6×E6を「正解数/起こされた数」の期待値と考えるのは間違っているのでしょうか?
Re: was:眠り姫問題についてご質問 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月 6日(日)20時19分47秒
なるほど、いろいろ考えられますね。
両派それぞれの精神に則って
ごく単純に計算すると、こう↓なるのでしょう。
■1/2派…… 目覚めたときに月曜である事後確率P(月|E)は、P(A)とP(B)の半分だから、α+(1-α)/2=(1+α)/2
P(月|E)=(1+α)/2
■1/3派…… 目覚めたときに月曜である事後確率P(月|E)は、Aの1つの目覚めとBの目覚め2つ各々の起こる確率、の合計のうち、A1つとB1つの分の比率だから、(α+(1-α))/(α+(1-α)+(1-α))=1/(2-α)
P(月|E)=1/(2-α)
グラフに書くとどうなりますかね?
どちらのほうが信憑性ありそうか(自然か)、評価いただけると有難いです。
was:眠り姫問題についてご質問 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 6日(日)15時31分3秒
モンティのパラドクスについて悩みこんでとうとう自作でエミュレータまで作らなくてはいけなかったことを思い出しました。
ところで失礼ながらreachさんのご投稿を拝読いたしまして、シナプスが発火いたしました。2008年 4月 4日(金)12時16分50秒 の私の設問、
問題4:「さぁ、あなたは目覚めた!あなたの環境は場合Bである。今日が月曜日である確率は?」
に関しては、1/2派も1/3派も、答えは1/2ということでした。納得できると思われます。
さて、
問題5:「さぁ、あなたは目覚めた!あなたの環境は場合Aである。今日が月曜日である確率は?」
に関しては、両派とも、確率を「1」であると言明するに違いありません。(これで良いですよね?)
実は、問題4と問題5は、ある問題の特別な場合になっています。すなわち、目覚めた眠り姫に対して、「すまん、フェアなコインであると事前説明したが、実は、確率αで場合Aが、確率1-αで場合Bが生起するのであったのだ。」とインタビューする前に説明があったものと考えるのです。問題4は、α=0,問題5は、α=1 の場合となりましょう。
留意点は、この一般化されたα問題の「境界」になっていることです。境界については、すでにみたように、1/2派と1/3派が同じ回答を与えることは面白いですね。そこで、境界以外について考えて見ます。
問題6:
「さぁあなたは目覚めた!α=1/2である。今日が月曜日である確率は?」
この問題については、おそらく、1/2派と1/3派は異なる答えを返すに違いありません…
そして、αを横軸に、回答で示された確率の値を縦軸にグラフを書いてみると、1/2派では、直線上にプロットされ、1/3派では、「非」直線上にプロットされることでしょう。
私が思うに、この1/3派のグラフは、非常に気持ちが悪いものです。というのは、場合Aと場合Bとは背反事象であるからです。αを連続にスライドさせた場合にはもっと気持ち悪くなることでしょう。
ひょっとしたら、reachさんの例(確率一定)ではないですが、1/3派においては、境界以外において、プロットされるグラフは、横一直線ではないででしょうか? 今のところ私には受け入れがたいことです。
もう少し考えてみたく思います。
was:眠り姫問題についてご質問 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 6日(日)15時10分27秒
三浦先生、ていねいなご解説をまことにありがとうございます。1/3派の気持ちについていくことができず苦吟しておりまして、それならばと、いっそ問題を追加して状況検討のための材料を増やそうとしていたのでした。おかげさまで、ひとつ基礎が増えました。
三浦先生 wrote>スターダストさんが1/3説に納得できない理由は何でしょうか?無数に実験が繰り返されていて、自分がどの実験に属しているかわからないならば、明らかに1/3説が正しいですよね。
1/3説についての直観が私にはまるっきり備わっていない・・というのが正直なところです。先生がおっしゃるところの「自分がどの実験に属しているかわからないならば、明らかに1/3説が正しいですよね。」で、「明らか」という雰囲気をまったく味わうことができないのです。首をかしげるばかりです。もう少し考えなくてはいけません。
三浦先生 wrote>しかしスターダストさんの設定は面白いですね。
質問をコイン表裏から曜日へ変換することは
首をかしげておりますので、いっそエミュレータを作りたいと思ったしだいです。
またお邪魔させてください。
質問がありますので。
Re: 私も眠り姫問題について 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月 5日(土)23時22分23秒
つねにAと答えた場合、「正解数/起こされた数」の期待値は1/3でしょう。
1/2になるのは、「正解者数/実験の数」ではありませんか?
人間に定位すれば(一つの実験ごとに、被験者となる1人の人間は必ず一通りの答えをするように決めて事前に催眠術か何かでそのような調整をしておけば)、実験を何度繰り返しても「正解者数/実験の数」は1/2ですね。
しかし、目覚めに定位すれば(催眠術などの条件はないのだから、記憶喪失した目覚めは各回独立に判断せねばならないと考えるのが普通)、「正解数/起こされた数」は1/3となります。
>確率というものを考えるということは、必然的に頻度解釈的な立場をとらざるを得ないと思うのです。
その通りですが、それでいてなおかつ答えが違ってくるところが眠り姫問題のトリッキーなところではないでしょうか。
人間に定位するか(コイン投げに定位するか)目覚めごとの現場に定位するかで、頻度確率そのものがいくらになるかが違ってきます。人間定位が合理的なら、頻度確率でも正解は1/2となるのです。
難しいのは、人間定位と目覚め定位、どちらの定位が合理的かがデリケートな条件で左右されることです。
この種の問題は、日本の哲学書にありがちな大味な印象議論では埒があかないので、細部の論理に気を遣うことが必要ですね。私もまだあやふやなところがあるかもしれないので、『多宇宙と輪廻転生』の間隙、疑問点、遠慮なくお寄せください。
私も眠り姫問題について 投稿者:reach 投稿日:2008年 4月 5日(土)19時11分25秒
私も眠り姫問題に興味を持ちました。
私には「唯一設定」の意味がよくわかりません。
確率というものを考えるということは、必然的に頻度解釈的な立場をとらざるを得ないと思うのです。
例えば、何らかの事象が起こりそうな可能世界の数とそうでない可能世界の数を比較するといった具合に。
だから、1/2派が正しい状況となる「唯一設定」なるものの存在が理解できないのです。
どのように解釈すればよいのでしょうか?
というわけで、頻度解釈的な理解しかできない私は現在のところ1/3派なわけですが、
「正解数/起こされた数」の期待値を計算すると、
姫がAを選ぶ確率Pに関係なくつねに1/2となります。
つまり、つねにBを選ぶことで期待値をさいこうにすることができるという1/3派と矛盾するわけで、そこが悩みの種です。
私は「期待値」という言葉を1/2派と1/3派が異なった意味で使用しているのでは、
と疑っていますが、それ以上のことはわかりませんでした。
さすが、哲学者達を悩ます難問です。
Re:眠り姫問題についてご質問 投稿者:φ 投稿日:2008年 4月 5日(土)02時43分5秒
どちらの説でも直観的に1/2ということで問題ないと思いますが……。
念のために律儀に計算してみます。
■1/2派…… 目覚めたときに月曜である事前確率は、場合A(表が出た場合)1/2すべてと場合B(裏が出た場合)1/2の半分だから、1/2+1/4=3/4
P(月)=3/4
場合Bとわかったという条件のもとで月曜である事後確率P(月|B)は、
P(月|B)=P(B|月)P(月)/P(B)
1/2説では P(B)=1/2 P(B|月)=1/3なので、
P(月|B)=(1/3・3/4)/(1/2)=1/2
■1/3派…… 目覚めたときに月曜である事前確率は、場合A(表が出た場合)1/3すべてと場合B(裏が出た場合)2/3の半分だから、1/3+1/3=2/3
P(月)=2/3
場合Bとわかったという条件のもとで月曜である事後確率P(月|B)は、
P(月|B)=P(B|月)P(月)/P(B)
1/3説では P(B)=2/3 P(B|月)=1/2なので、
P(月|B)=(1/2・2/3)/(2/3)=1/2
■つまり、どちらも1/2になります。
常識に一致しているので、この点では、1/2説も1/3説もとくに問題ないようです。
スターダストさんが1/3説に納得できない理由は何でしょうか?
無数に実験が繰り返されていて、自分がどの実験に属しているかわからないならば、明らかに1/3説が正しいですよね。ただ1回の場合の確率は一般に、無限回の試行が収束する値に一致しなければならないとすれば、ただ1回の実験の場合も1/3説にそれなりの理があるわけです。
しかしスターダストさんの設定は面白いですね。
質問をコイン表裏から曜日へ変換することは私は真剣に考えませんでした。何か深い洞察に繋がる端緒となるかもです。
(無題) 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 4日(金)12時18分5秒
すみません、スパムよけに、私のメールアドレスには、余分なアンダースコアが2個はいっています。申し訳ありませんでした。
眠り姫問題についてご質問 投稿者:スターダスト 投稿日:2008年 4月 4日(金)12時16分50秒
はじめまして。御著書『多宇宙と輪廻転生』により眠り姫問題について知りました。御著書全体の流れをみると、私の理解がこの眠り姫問題についての章から先へと進めないことに気がつきまして、思い切って掲示板にお邪魔している次第です。私は今のところ、1/2派の亜種です。1/3派の気持ちがぜんぜんわかりません。質問の動機は今述べたところにあります。
最初の質問です。
眠り姫問題の設定を一部下記のごとくに追加した場合に、1/2派と1/3派は、それぞれどのように答え、説明するのでしょうか?
問題4:「さぁ、あなたは目覚めた!あなたの環境は場合Bである。今日が月曜日である確率は?」
つまらない質問で恐縮ですが、どうぞ私の理解を助けてくださいませ。
Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日:2008年 3月25日(火)02時02分3秒
「自分原理」「自我原理」をどのようなものとして考えるかにもよりますが――
「人間原理」の個人版だとすると、「観測される環境は「私」の存在と両立するものでなければならない」となりますね。
これは語用論的にはトートロジーですが、ここから何が導き出せるかは、付帯条件次第でしょう。
輪廻転生観が導ける、と言おうとしたのが『多宇宙と輪廻転生』だったとも言えるのですが。
訂正 投稿者:とし 投稿日:2008年 3月24日(月)09時06分50秒
置き桁物->置き換えたもの
(無題) 投稿者:とし 投稿日:2008年 3月24日(月)09時05分49秒
「自分原理」を思いついたことがありました。「人間原理」の知的生命体を自我に置き桁物です。そうすると、「人間原理」と「自分原理」(渡辺恒夫先生たちのような言葉でいうならば、「自我原理」のようなものには明確な境界線はあるのでしょうか?
Re:人文死生学 投稿者:φ 投稿日:2008年 3月20日(木)05時12分6秒
どうぞおいでください。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1484.html
エジ母の課外授業コンテンツも、何らかの形で公刊できればと考えているところです。
人文死生学 投稿者:とし 投稿日:2008年 3月19日(水)16時05分49秒
研究会ご案内ありがとうございます。いってみようかと思います。
「エジソン」無事終了おめでとうございます。
千葉大学集中講義も興味があるのですが、締め切りですかね。
おしらせ 投稿者:φ 投稿日:2008年 3月 7日(金)14時22分56秒
ここに、人文死生学研究会のお知らせを掲載しました。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1484.html
「死」は、人間原理・輪廻転生観と、戦争論理学とをつなぐ、わが中枢概念と密かに化しつつあるの感あり、ですが――
ありがとうございました 投稿者:reach 投稿日:2008年 3月 5日(水)23時48分47秒
挙げていただいた作品を熟読してみます。
またピンとこないところもありますが。
丁寧にご説明いただきありがとうございます。
Re: 楽しみ方 投稿者:φ 投稿日:2008年 3月 5日(水)02時45分52秒
「普遍」をキャラクター化する、あるいは同じことですが、架空の普遍を創造する、というモチーフについては、たいぶ前に書いたエッセイとして、↓があります。
http://russell-j.com/mybook02.htm
「健康イデオロギー」を背景に、登場人物よりもサプリメント(の各種類)そのものに主人公を務めてもらったのは、これもかなり以前の作品になってしまいましたが、これです。↓
http://russell-j.com/forth-01.htm
また、アフォリズムを露骨にキャラクター化した(つもりの)作品としては、『蜜林レース』でしたが、
アフォリズムの楽しみ方としては、
★構文論的には、レトリックの柔軟体操としての楽しみももちろんあるに加え、
★意味論的には、人生論的なノンフィクションとしてではなく、フィクションとしての教訓を楽しめるかどうかだと思います。
そして★語用論的には、普遍に対しても、個別的人物キャラクターと同様のリアルさや感情移入ができるようになるステップがたぶんアフォリズムであり、そこから、物語と学との往来が自在な突き抜けた境地へ至れると思っているのですが――
…………
なお、拙作以外で記憶にあるものとしては、
丸山健二『千日の瑠璃』が、かなり露骨な形で「普遍」をキャラクター化していました。
『エクリチュール元年』の第4論文の書法は、『千日の瑠璃』のデフォルメ的要素が結構あると思っています。
楽しみ方 投稿者:reach 投稿日:2008年 3月 4日(火)06時51分32秒
パフォーマンスの違い、軸足の違いですか。
なるほど、すっきりしました。
>最も普遍的な法則をも個性化(キャラクター化)してしまうような物語でしょうか。
それを定型化されない手法で行なう。
実際にそれに近い作品があれば教えてください。
左脳人間の自分にとっては物語とかアフォリズムとかは苦手なのですが、
楽しみ方のコツなどがあれば教えてもらえませんか?
Re:物語の意義 投稿者:φ 投稿日:2008年 3月 3日(月)02時16分14秒
論文は普遍的命題・一般的命題を伝え、物語では個別的命題を伝える、という違いは概してありますが、
論文で個別的記述をすることはいくらでもありますし(歴史学に限らず)、物語が普遍的教訓や架空の人生論を伝えてはならないという決まりはありません。
とくに、物語が論文または論文調の記述を部分としてあるいは引用対象として含むことはよくあることですね(学術小説でなくとも)。
こうして論文と物語とでは、意味内容については力点と程度の差があるだけで本質的差異はありませんから、重要なのは、パフォーマンスの違いでしょう。
論文は「論ずる」のであり、物語は「物語る」のである。
換言すれば、
記述対象が普遍的対象であれ個別的対象であれ、
論文は記述対象の普遍妥当性に注目し、
物語は記述対象の一回的側面にこだわる、ということでしょう。
語り手の立ち位置というか、軸足の違いというか。
よい物語とは?
さあ……、
最も普遍的な法則をも個性化(キャラクター化)してしまうような物語でしょうか。
それを定型化されない手法で行なう。
目下継続中の阿呆理詰日記は、論文と物語との凝縮的融合を念頭に、一回的発露を見かけの定型でどんどんくるんでいく非定型パフォーマンスの模索のつもりです↓
http://russell-j.com/d-archiv.htm
物語の意義 投稿者:reach 投稿日:2008年 3月 2日(日)20時47分41秒
論文では伝えることができなくて、物語で伝えることができるものは何なのでしょう?
どういった物語をよいものと考えればよいのでしょう?
補足、お礼 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月22日(金)05時54分19秒
蛇足ですが自動バックアップの話は、胎児を含めた母親全体のバックアップという意味でした。
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なお私は、クオリアの謎は物理主義的には解けないが、物理法則と同レベルにおいて解消できると考えているのです。
それについては、↓3月刊の『感情とクオリアの謎』(昭和堂)↓に寄稿した拙論
「人間原理的クオリア論」
をご覧いただければ幸いです。
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その基本姿勢は私も全く同感です。興味深く拝読させていただきます。
SSAから始まる私のくだらない懐疑に付き合ってくださり、ありがとうございました。
また投稿させていただくかも知れませんが、よろしくお願いいたします。
Re:Re[3]:概念的命題? 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月22日(金)02時58分14秒
歴史を振り返ると、タブーが次第に解体されてきた反面、新たなタブーが発見されてきていて、全体としてのタブーの総量は常に一定のような気が。
それでも、何をタブーとするかに関する基準の合理性(諸理由の整合性)は進歩しているようで、
生命倫理におけるタブーは縮小する方向に向かうでしょう。
意識のコピーはもちろんのこと、同一意識の分岐や複数意識の融合に、内在的悪があろうとは思われません(現在から見てすら)。
子どもがコンピュータゲーム内で意識を作ったり消したりする時代はいずれ来るでしょうね。
むろんコンピュータシミュレーション内の「意識」が、本当に内的意識を持つのかどうかは知りえないにせよ、外面的には意識ある存在と区別できないようなものとして、作り出されるのはテクノロジー的必然でしょう。
>なるべくなら物理的命題のみで解決したいと
これは私も賛成ですね。
ただし、意識・クオリアをはじめ、意味、因果、価値など、物理的命題では尽くせない要素もこの世に溢れていることも事実です。
ヒューム的な、出来事の偶然的隣接だけで成り立つ世界なのか、必然的因果法則のある世界なのかは、すべての物理命題を列挙しても決して区別できませんから。
輪廻転生のある世界とない世界も同様です。物理的には区別のつけようがありません。
意識・クオリアの有無は、まだしも主観的には違いがあるだけ、単なる概念的違いではなく準物理的違い(?)に対応しており、因果や輪廻転生よりもお行儀のよい問題だと言えるでしょう。
なお私は、クオリアの謎は物理主義的には解けないが、物理法則と同レベルにおいて解消できると考えているのです。
それについては、↓3月刊の『感情とクオリアの謎』(昭和堂)↓に寄稿した拙論
「人間原理的クオリア論」
をご覧いただければ幸いです。
http://www.kyoto-gakujutsu.co.jp/showado/mokuroku/detail/ISBN978-4-8122-0808-3.html
Re[3]:概念的命題? 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月21日(木)22時56分55秒
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>もちろん、コピーの使い方を制度的に正しく定めることが重要です。
何が「正しい使い方」なのかはどうやって決めるのでしょうか。
そもそも意識の長期保存自体が「自然」に反していると言われれば、
一つの意識を複数個コピーしたり、複数の意識を一つに合成コピーしたりするのに歯止めができるとは思えません。
分岐や合成に固有の「悪」があるわけではないので。
遺伝子を増やすのと同じノリで「分裂増殖したい」と願う人もいるだろうし、「あの人といっしょになりたい」と融合コピーを望むカップルや家族もいるかもしれません。
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どうやって決めるかは分かりませんが、文明が進歩を続ければ
コピーができるようになるのではないでしょうか?(少なくとも私はそういう世の中を望んでいます)
そうすると少なくとも「正しい使い方を定めるべし」
という社会的圧力はかかるようになるのではないでしょうか。
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フォン・ノイマンやエドワード・ウィッテンのような天才の意識を、さまざまに融合させたり、分割して同じ意識どうしで対話させたりすることで、難問の解決が劇的に促進され、文明の飛躍的進歩も期待されます。
------------------------------------------------------------------------
難問の解決を目的とするなら、ゾンビ的知性を利用すれば十分ではないでしょうか?
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「胎児のときから自動バックアップをとる」といっても、まだ意識がなく潜在的にいかなる意識に育つかが不明の存在のバックアップをとることは不可能です。
------------------------------------------------------------------------
身体を構成する全情報のバックアップということではだめでしょうか。
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さらには、無数の精子と卵子の潜在的組み合わせの非実現(生じうる意識的内容の非実現)について何もフォローしないようでは「私がなぜ生まれたか」が解決できておらず、
したがって2008年 2月 9日(土)22時41分0秒に記したように
sp# さんの第2案は、形而上学的核心を不問にしたまま技術的に輪廻転生効果を保つだけのアドホックな方便にとどまるのではないでしょうか。
------------------------------------------------------------------------
はい。第2案は根本的解決を目指した案ではなく、現段階で根本的解決を目指すには材料が足りない、
ゆえに(コピーができるくらいの時代まで)もう少し待つべしという消極的な案です。
私は物理と情報を勉強してきたせいか、なるべくなら物理的命題のみで解決したいと願っているのだと思います。
Re:自然選択 6 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月21日(木)02時11分26秒
>全ては物質とその性質により、あるがままに移りゆくだけです。
といった紋切り型は万一本当に使えるときまで措いとくとしまして―― …
豪華アンソロジー↓↓などを見ると、次の科学革命の主役は人間原理であることがよくわかります。
かつて人間原理の天敵だったスティーブン・ワインバーグはすっかり人間原理シンパに鞍替えしましたし、定説になりつつあるインフレーション理論の代表者はみな人間原理派です。
無理解者や誤解派は論外として、人間原理への唯一まともな反対者といえばリー・スモーリンくらいになってしまいましたが、スモーリンのブラックホール自然選択説は、ほとんど多宇宙人間原理の親戚みたいなもの。
惑星の位置に関するケプラーの数秘術がニュートンの普遍法則によって偶然的環境要因として一掃されたように、現代の標準理論における物理定数の数秘術は、多宇宙+人間原理の環境的変異の実在観によって一掃されることでしょう。
↓↓については、近く、雑誌に小文を書く予定です。
http://www.amazon.co.jp/Universe-Multiverse-Bernard-Carr/dp/0521848415/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1203526831&sr=1-1
自然選択 6 投稿者:ハム 投稿日:2008年 2月20日(水)09時21分45秒
>個々の主体の偶然任せの実現・非実現の恐ろしさに対して、平静を保っていられないはずなのです――
科学が説明する世界観によれば、自然は一切の恣意がありません。
人間だけが特別ではない。
私など本来は存在しなかったのです。
全ては物質とその性質により、あるがままに移りゆくだけです。
そういう自然の営みを前に我々はただ畏怖するのみです。
科学を信じている人は自然に対して敬虔な気持ちを持っているはずです。
そして、人間原理。
この主観的な世界観。
科学との折り合いをどうつけていくのか、これからが人間原理の正念場だと思います。
もっともっと工夫が必要だと思います。
Re: 自然選択 5 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月18日(月)17時42分21秒
トートロジーにそれなりの敬意を払えず、
「人生一度きり」と尊厳を説くふうを装いながら、他方では中絶や無数の未生に対するシリアスな態度をとろうとしない無自覚さへの警鐘を『多宇宙と輪廻転生』に含ませてあるつもりでもあります。
SIAを本当に信ずる人、あるいは輪廻転生観を本当に信じない人は、
個々の主体の偶然任せの実現・非実現の恐ろしさに対して、平静を保っていられないはずなのです――
整合的な形而上学が要求する実践的態度に目をつぶって、表面上やりくりしてゆく要領の良さは、哲学的思索とは正反対に位置しています。
自然選択 5 投稿者:ハム 投稿日:2008年 2月17日(日)18時06分37秒
私の事前特定はできないわけですから、私の存在確率が極小であっても進化論等の説明により(哲学的な)謎はないと思うのです。
宝くじに当たったということに(哲学的な)謎がないのと同様です。
そういう前提でSSAをみますと、SSAでいう私は意識との同一視にすぎないように感じます。
これは、私(意識)は意識であるというトートロジーにすぎません。
このSSAを輪廻転生に利用すれば妥当な推論だということになるでしょうが、ちょっと空疎に感じます。
ただ、SSAによる輪廻転生という考察自体は初めて聞くもので、これにより何がいえるのかは興味を持って読めました。
Re: Re[2]:概念的命題? 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月17日(日)17時30分46秒
>もちろん、コピーの使い方を制度的に正しく定めることが重要です。
何が「正しい使い方」なのかはどうやって決めるのでしょうか。
そもそも意識の長期保存自体が「自然」に反していると言われれば、
一つの意識を複数個コピーしたり、複数の意識を一つに合成コピーしたりするのに歯止めができるとは思えません。
分岐や合成に固有の「悪」があるわけではないので。
遺伝子を増やすのと同じノリで「分裂増殖したい」と願う人もいるだろうし、「あの人といっしょになりたい」と融合コピーを望むカップルや家族もいるかもしれません。
フォン・ノイマンやエドワード・ウィッテンのような天才の意識を、さまざまに融合させたり、分割して同じ意識どうしで対話させたりすることで、難問の解決が劇的に促進され、文明の飛躍的進歩も期待されます。
こうして技術的に、伝統的意識と身体との交叉的m対n対応が可能になってしまうのだとすれば、
意識コピーの実現可能性は、人格の同一性基準としての心理説を反証し、
むしろ、輪廻転生観の確証になると言ってよいでしょう。(ここはたぶんsp#さんが反対していない部分でしょう)
>輪廻転生観は「この生」の価値(と皆が思っているもの)を減退させて
>しまうのではないか
その通りだと思います。
ただ、人間は本能的に、「現状への執着」を持つので(その心理傾向は自然選択説から帰結する)、まあまあ満足できる生活を営んでいる人たちが、あるいは多少不満な生活を営んでいる人々ですら、ほいほい自殺に走る危険は全くありません。輪廻転生説を心から信じている人でも、現に与えられた人生を全うしてから、次を始めたいと願うでしょう。
〈今すぐ死んで、出生から入学・友達作り・卒業から受験から就職からまた始めからやり直す〉なんてごめんだ、ようやくここまで生きてきたのに、という気持ちのほうが自然です。仏教が解脱を重んじるのも、生きるしんどさを考えると頷けますね。
人生、なんだかんだ言っても歳をとればとるほど、達成した蓄積が増えるので、楽になることは間違いありません。中年・熟年になってその達成を放棄して、しんどい若年の生活に戻ることを望む人は多くないでしょう。輪廻転生観のもとでこそ、老年の充実した蓄積を堪能することができます。「今がいちばんいい……」と。
付言すれば――
「胎児のときから自動バックアップをとる」といっても、まだ意識がなく潜在的にいかなる意識に育つかが不明の存在のバックアップをとることは不可能です。
さらには、無数の精子と卵子の潜在的組み合わせの非実現(生じうる意識的内容の非実現)について何もフォローしないようでは「私がなぜ生まれたか」が解決できておらず、
したがって2008年 2月 9日(土)22時41分0秒に記したように
sp# さんの第2案は、形而上学的核心を不問にしたまま技術的に輪廻転生効果を保つだけのアドホックな方便にとどまるのではないでしょうか。
技術的世界観も、ローカルな便宜に叶えばよいというものではなく、グローバルな形而上学的整合性を満たすことを目指すべきでしょう。
Re[2]:概念的命題? 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月17日(日)10時39分14秒
>意識内容をコピーできるような科学技術
とは単純に、そういうことができるくらいの高度な科学技術を指しています。
私は下記問題に関してのみ、輪廻転生観が活きる余地があると思っていて、
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「私が生まれること」を高い事前確率で保証できたのか、という問題です。
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倫理面での解決に輪廻転生観が必要とは思っていません。
まずは先日の「補足」というタイトルでの投稿を再掲します。
------------------------------------------------------------------------
極限的輪廻転生観は確かに「死」に関する現代人の共通感覚をよく反映してはいるのですが、懸命に生きようとする力を与えにくいというデメリットを抱えていると思います。
前投稿での素朴な反論もそうですし、死んでもすぐ転生するなら「この生」の価値が減退するでしょう。わずかな不幸を感じただけでも転生を望んで自殺することも考えられます。
制限版輪廻転生観では、転生にはかなりの時間がかかります。死んでから転生までの時間を本人が感じることはないとはいえ、やはり死ぬことに漠然とした不安は残るでしょう。
この不安が生きる力を与え、結果として「生」に関する現代人の共通感覚をよく反映するようになると考えます。
また、「この生」を破滅的に不幸だと感じている人にとっては、極限的輪廻転生観のほうが適していると思われるかもしれません。制限版では別人格に転生できず、何度でも不幸な人生を送ることになるわけですから。しかし、そのような人には「死んだら無になる」という日常的「私」の定義があれば十分であり、どのような輪廻転生観ももはや必要ではないでしょう。
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上記では、輪廻転生観は「この生」の価値(と皆が思っているもの)を減退させて
しまうのではないかという心配を述べています。
>意識内容を構成する全情報が記述でき、その記述を安全に長期保存できるように
>なれば寿命の概念が希薄になります。すると
>少なくとも倫理面を考慮して輪廻転生観を持ち出す意義が希薄になります。
次に上記では(言葉足らずで申し訳ないのですが)、永遠の命が保証されるならば
幸せな人生を送っている人にとって輪廻転生観は必要ないということを述べています。
そういう人は下記を認めたがらないでしょう。
>私の同一性は、その心理的具体的内容とは独立である
------------------------------------------------------------------------
妊娠中絶によって奪われた命、幼少の不慮の事故によって意識コピーをする間もなく死んだ者などは、依然として、「二度と生まれることのできないかけがえのない主体が失われた」ことになってしまい、倫理面の解決には程遠いでしょう。
------------------------------------------------------------------------
また上記は、現代の「私の定義」と「目標としての私の定義」に乖離があることが
問題ではないでしょうか。進歩した科学技術においては、幼少の人間の意識は
私たちが想像するような豊かな意識ではないことが判明しているかもしれません。
あるいは胎児のときから自動バックアップをとるという解決も考えられます。
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意識内容のコピーは、技術が進めばコピーの本質からして当然複数個作れるでしょうから、私の死と同時に、コピーどうしで対話させたり喧嘩させたりすることができます。
また、私の死後すぐに、コピーに記憶変換と人格変容を起こすこと同時に、遠くの別人のコピーを生前の私の意識内容そっくりに変換することもできます。
------------------------------------------------------------------------
もちろん、コピーの使い方を制度的に正しく定めることが重要です。
Re:概念的命題? 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月17日(日)01時49分30秒
>意識内容を構成する全情報が記述でき、その記述を安全に長期保存できるように
>なれば寿命の概念が希薄になります。すると
>少なくとも倫理面を考慮して輪廻転生観を持ち出す意義が希薄になります。
意識内容のコピーは、技術が進めばコピーの本質からして当然複数個作れるでしょうから、私の死と同時に、コピーどうしで対話させたり喧嘩させたりすることができます。
また、私の死後すぐに、コピーに記憶変換と人格変容を起こすこと同時に、遠くの別人のコピーを生前の私の意識内容そっくりに変換することもできます。
それらは「私の同一性」を難しくするだけで、何の解決にもならないと思われるのですが。
しかも、妊娠中絶によって奪われた命、幼少の不慮の事故によって意識コピーをする間もなく死んだ者などは、依然として、「二度と生まれることのできないかけがえのない主体が失われた」ことになってしまい、倫理面の解決には程遠いでしょう。
やはり、私の同一性は、その心理的具体的内容とは独立である、とするのが理に叶っていると思われます。
平俗に言うと「気の持ちよう」(コップにもう半分しか水が残っていないと考えるか、まだ半分も残っていると考えるか、のような)になってしまうのですが、気の持ちようが生き方を変えることは大いにあります。人生変革力を持つ考えだとしても、それは依然として単なる概念的命題でしょう。
輪廻転生観は、「気の持ちよう」の中では、形而上学的に最も範囲の広い、影響も最大の、究極の人生論に通ずるはずです。
概念的命題? 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月16日(土)19時10分50秒
>>一例としては、こうです。FTでない宇宙は極端に寿命が・・・
>とくに必要性のあるモデルでもなさそうなので、維持するには値しないのではないでしょうか。
はい、あくまで一例ですので維持できなくても構わないのですが、
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「私が生まれること」を高い事前確率で保証できたのか、という問題です。
------------------------------------------------------------------------
私としては、上記の問題を解決するのに多宇宙で済むならそれにこしたことはないので、
現段階から輪廻転生のモデルに走るのは早いのではないか、と心配しています。
先の投稿で示した2案のうちでも、私が本当にとりたい態度は待機策のほうです。
確かに上記の問題は真に重要な問題ではあるのですが、
だからこそ脳科学や宇宙論のレベルが現状程度のときに迂闊に手を出したくないのです。
もちろん、材料が足りなくても議論を進めるのは意味のあることですし、
φさんが輪廻転生という大胆なモデルを提示されるのは、それがひとえに
概念的命題であるために、物理的命題に迷惑がかからないと思われているからなのでしょう。
しかし上記の問題を解決できるモデルが、本当に純粋な概念的命題でありうるのでしょうか?
広告 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月15日(金)03時20分37秒
ε さん、しばらくぶりです。
ε さんにもおいでいただいた例の「人文死生学研究会」、ことしは3月29日の予定だそうです。
私の『多宇宙と輪廻転生』も俎上に。
お時間あれば、みなさま、どうぞ。場所・時刻は追ってお知らせいたします。
因果性の文献 投稿者:ε 投稿日:2008年 2月15日(金)01時52分15秒
ちょっと別の話題になり、申し訳ありません。
φ さん、皆さん、ご無沙汰しています。例の石飛道子氏の掲示板にしばらく書き込みを続けています。
ちょっとした行きがかり上、本名の江上で登場していますが・・
最近桂紹隆氏というインド哲学の大家が掲示板に現れて、インド哲学の立場から検証を始められたので、かなりアカデミックな雰囲気になりました。桂氏は現代論理学もアメリカでかなり学ばれた方のようなので、興味深いレスが続いています。
さて、以前、西洋哲学における因果性の文献の話が出ましたね。私のブログ(http://mathpl.exblog.jp/)に最近一年くらいに集めたものをアップしておきましたので興味のある方はご覧ください。
http://mathpl.exblog.jp/
Re:自然選択 4 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月15日(金)01時33分16秒
>私を事前に特定することは必要なことなのでしょうか。
もちろん必要ありません。
というより、できません。
「私」が誰であるかは常に事後に決まります。
つまり、どのような意識が生まれようが、「私」が生まれたことになります。
今ここで「私」を意識しているような意識内容を持っていようがいまいが。
これが輪廻転生観です。
自然選択 4 投稿者:ハム 投稿日:2008年 2月14日(木)15時28分25秒
私になる「精子」は必ず選択されたとはいえませんが、選択されやすかったとはいっていいと思います。
私になる「精子」の選択確率はランダムの場合よりも高いはずです。
私の父親と母親、祖父母、曾祖父母、……もランダムに結ばれたわけではありませんよね。
そこには自然選択や性淘汰による選択効果があるはずです。
もちろん、この説明で私の存在が必然になるわけではありませんが、人間(ヒト)の存在の説明になるわけです。
事前に特定すべきものを意識だとすれば、人間(ヒト)の存在を説明すれば進化面でとりあえずは納得できます。
意識ではなく私を事前に特定するとするとSSAのような考え方を導入することになるのでしょうが、意識ではなく私を事前に特定することは必要なことなのでしょうか。
Re:旬な自然選択 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月14日(木)02時27分33秒
私の父親と母親、祖父母、曾祖父母、……
のすべての結婚の実現が自然選択で説明できるとは思えませんので、話は「あのセックスが実現した」ことをかりに認めたところからの条件付き確率に縮まります。なのであまり面白い議論にはなりそうにありませんが、そこにおいてすら、
>私になる「精子」は自然選択されやすかったはずなのです。
人工授精が可能であることからわかるとおり、ほとんどの精子は、人間になる可能性を秘めています。自然選択の根拠となる物理説では、もし、結果として勝ち残った精子以外の精子に私が同定されていたら、私は生まれませんでした。よって、私の誕生確率はやはり極小になってしまいます。
物理説は放棄して、私の誕生は結果論だというSSAを動員せざるをえません。
なお、
>卵子の結合はランダムに起るわけではなく自然選択が働いているはずです。
は間違いでしょう。
父親と母親の「あのセックス」の現場をもう一度再現したならば、別の精子が受精したはずです。何億の精子の中にいつも飛び抜けて優秀な精子が1個あるわけではなく、似たり寄ったりの多数の中から、ランダムな環境的揺らぎによって幸運な精子が辿り着くにすぎないからです。
外界や体内のマイナーな攪乱一つで、別の精子が勝ったはずです。
>長寿命な少数のFT宇宙と短寿命な多数の非FT宇宙が同時に存在していると考えます。
>地球上の生態系も実際そうなっていますから、無理からぬイメージではないでしょうか。
イメージというのは普遍的に共有されるものではないし、とくに必要性のあるモデルでもなさそうなので、維持するには値しないのではないでしょうか。
ちなみに、地球の生態系で一番長寿なのは、個体レベルでは人間ではなくおそらく植物のなかにいるでしょうが(樹木は平気で数千年生きますよね)、植物に意識があるとは思われず、観測選択されそうにありませんね。
Re[2]:旬な自然選択の話題? 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月13日(水)22時42分50秒
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>FTでない宇宙は極端に寿命が短いかもしれない。
>色々な宇宙が生まれ、自然淘汰によりFT宇宙が生き残る。
宇宙が膨大にある中で、見かけ上FTの宇宙がある、ということでないと、FTの謎が解けません。
FTの宇宙が多数派だったりすると、一宇宙説とほとんど変わらなくなってしまいます。
なぜFTが保証されたのかを説明しなければならなくなってしまう。
-------------------------------------------------------------------------------
長寿命な少数のFT宇宙と短寿命な多数の非FT宇宙が同時に存在していると考えます。
地球上の生態系も実際そうなっていますから、無理からぬイメージではないでしょうか。
自然選択 3 投稿者:ハム 投稿日:2008年 2月13日(水)18時55分44秒
>……というわけで、そもそも私を生んだ精子と卵子がこの世に生まれる確率自体が超天文学的に極小です。
なんであれこの世界に存在するものの存在確率は極小でしょう。
物理説以外の説を採用するにしても意識自体の存在確率は極小でしょう。
存在確率が極小だというだけではその説を排除する理由にはならないと思います。
私になる「精子」と卵子の結合はランダムに起るわけではなく自然選択が働いているはずです。
私になる「精子」は自然選択されやすかったはずなのです。
だとすれば、存在確率が増えるはずです。
私になる「精子」が常勝馬ほどであれば、単勝で1倍、卵子と結合できる確率は99%?と予想できるかもしれません。
こういう自然選択効果を無視できないと思います。
Re:旬な自然選択の話題? 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月13日(水)14時15分14秒
ファインチューニングや終末論法や眠り姫と違って、輪廻転生はまだ議論のフィールドがありませんからね。
仏教やヒンドゥー教に反駁しても虚しいし(私たちは虫に生まれ変わることはない、などと力説しても第10章までの言い換えにすぎないし)
まずはテーマセッティング、これからの議論を期待モードにならざるをえませんでした。
さて、
>FTでない宇宙は極端に寿命が短いかもしれない。
>色々な宇宙が生まれ、自然淘汰によりFT宇宙が生き残る。
宇宙が膨大にある中で、見かけ上FTの宇宙がある、ということでないと、FTの謎が解けません。
FTの宇宙が多数派だったりすると、一宇宙説とほとんど変わらなくなってしまいます。
なぜFTが保証されたのかを説明しなければならなくなってしまう。
心理説では、物理説と違って、「私」は必ず意識主体なので、意識のない非FT宇宙がたくさんあることは、「私」の誕生確率を低めることはありません。むしろ高めます。ただ、単なる意識ではなく「特定の心的内容」の誕生が諸FT宇宙の少なくとも一箇所において確保されるかどうかが問題です。
旬な自然選択の話題? 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月12日(火)23時50分3秒
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具体的には、sp#さんのお薦めは、
pp.346~ の、「心理説+多宇宙説」なのでしょう。
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そうです。
今見返してみると、これまでの議論で出てきた内容もササっと書いてありますね。
私としては、貴著は10章までは極めて懐疑的かつ慎重に話を運んでいる印象が
ありましたが、輪廻転生の章になると反論形式の議論がめっきり減ったように
感じられました。それまでのスリリングさを思うと少し残念です。
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「私が生まれること」を高い事前確率で保証できたのか、という問題です。
------------------------------------------------------------------------
生命が、実在可能なA種類の「物理法則と初期条件の組み合わせ」のもとで
必然的メカニズムにより発生することが(シミュレーションなどにより)判明したとすると、
私が生まれる事前確率は「A/実在可能な全ての物理法則と初期条件の組み合わせ」
(式1)で表されます。
「私が生まれることを高い事前確率で保証する」ということは、
式1の分母=分子、すなわち「実在可能な宇宙は全て、生命発生メカニズムを
備えている」ことになるでしょう。ところがこの宇宙はFT宇宙であって、
物理法則を成す各種パラメータが少しずれただけでも惑星などの構造が
自然発生されなくなることが分かっています。つまり、私たちが為すべきは、
実在可能な宇宙の条件がひどく厳しいことを証明することではないでしょうか。
極端な話、A種類の宇宙のみ実在可能であるとすると、事前確率は1になります。
一例としては、こうです。FTでない宇宙は極端に寿命が短いかもしれない。
色々な宇宙が生まれ、自然淘汰によりFT宇宙が生き残る。
であれば「少ない種類の宇宙のみ長寿命であることが可能である」のであり、
長寿命であること=実在すること、少ない=A と置き換えることで
先ほどの「極端な話」が完成します。とはいえ、
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輪廻転生第2弾となるべき著作では、多宇宙が「私」の誕生を保証できるか
どうかを探究するのが課題となります。
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輪廻転生観が必要か不要かという議論を重ねると、
その第2弾の内容を引き出してしまう可能性がありますね・・・
メールで伺ったほうがよろしいでしょうか?
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「私」であるためには、実現した意識的主体からランダムにとられたサンプルだ
というだけで十分である(SSA)、というほうが正しそうではないでしょうか。
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そう思います。
Re:自然選択 2 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月12日(火)23時12分53秒
その確率(1/4億)かける、父親と母親がちょうどその精子と卵子が生まれた期間にタイミングよくセックスする確率(1/10くらい?)かける、母親がその九ヶ月前以内に妊娠しなかった確率(1/2くらい?)かける、父親と母親が結婚する確率(1/1万くらい?)かける、父親と母親をそれぞれ生んだ精子と卵子が合体する確率(1/4億の2乗)かける、その精子と卵子が生まれた期間にタイミングよく祖父母がセックスする確率(1/10の2乗くらい?)かける、祖母が2人とも父母の誕生を阻む期間に妊娠しなかった確率(1/2の2乗くらい?)かける、祖父母が二組ともそのペアで結婚する確率(1/1万の2乗くらい?)かける、……というわけで、そもそも私を生んだ精子と卵子がこの世に生まれる確率自体が超天文学的に極小です。
「その精子と卵子が生じた」場合に条件付けた場合、その精子が卵子と巡り合う確率は1/4億になるかもしれませんが、そもそも「その精子と卵子が生じる」確率がお話にならないほど低いのです。
つまり私の起源を精子と卵子に求める考え方は絶望的です。
このあたりは、p.116~125 とくにp.118近辺にさらっと書いたので、あまり印象に残らなかったでしょうか?
自然選択 2 投稿者:ハム 投稿日:2008年 2月12日(火)19時40分32秒
物理説というのは、私の起源を精子と卵子に求める考え方だと思っていていいのですよね。
その精子が卵子と巡り合う確率は極小であった、だから物理説は採用できない、という趣旨だったかと思います。
一回の射精で放出される精子の数は、1~4億匹だそうです。
この時点で私になるはずの「精子」が卵子と結合する確率は最大で1/4億 ということになります。
私が子供の頃に学校で習った説明によりますと、私になるはずの「精子」は他の4億匹との卵子獲得競争に勝って卵子と結ばれた、という説明です。
この説明は多くの人が信じていると思われます。
どのような低確率の事象でも合理的に説明できればそこに謎はないはずです。
この説明では説明したことにならないのでしょうか?
Re:自然選択(再) 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月12日(火)12時03分52秒
正確には、
「この私」につながる物的起源または座標点がどんな意識であれ意識を宿す確率、および、「このような心」がいつどこであれどこかに生ずる確率、いずれの確率も自然選択のもとで極小です(とくに多宇宙を想定しなければ)。
したがって、「強い物理心理説」のもとではもちろんのこと「弱い物理心理説」のもとでさえ、「私」は生まれずに終わる確率が圧倒的に大です。
Re:自然選択 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月12日(火)03時41分59秒
とりあえず意味が掴みにくいのですが――
自然選択はその起こり方に関してはランダムですから、どの物質が、どのような心を宿すかは偶然です。
「この私」につながる物的起源または座標点が、「このような心」になった確率は自然選択のもとで極小です。
したがって、「弱い物理心理説」のもとでも、心的内容または物理的起源で定義された「私」は生まれずに終わる確率が圧倒的に大です。
『多宇宙と輪廻転生』では、
第一世代の観測者(ロボットやコンピュータシミュレーションが作られる前の世代の)が自然選択で生ずる、というのは暗黙の前提として話を進めました。
自然選択 投稿者:ハム 投稿日:2008年 2月12日(火)00時43分15秒
『多宇宙と輪廻転生』を読了しました。
皆さんの議論とも関係があるので、私の疑問を書かせていただきます。
序章の人格の同一性基準の「物理心理説」において、ダーウィンの自然選択説を導入すれば、私は自然選択されたものであるとして、極小の存在確率だった私の存在が説明できる、と思うのです。
なぜ、ダーウィンの自然選択説を導入しなかったのでしょうか?
Re:この2案は 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 9日(土)22時41分0秒
正直なところ、多宇宙大好きの私も、振動宇宙にはまったく魅力を感じません。
というのも、振動宇宙では、ビッグバンのたびに膨張速度と重力の関係が変化するでしょうから、いつかは永遠に開いたままの宇宙が生じてしまいます。現に、私たちの住むこの宇宙が開いた宇宙である可能性大だそうですし。
つまり、振動宇宙は永久に繰り返すことはありえません。極めて乏しい多宇宙です。
よって、振動宇宙はあってもいいのですが、それだけでは多宇宙の名には値しません。
時間的な継起宇宙だけでなく、同時的な併存宇宙があってこそ真に「多宇宙」の名に値します。永久インフレーションのような、時間的・空間的な多宇宙モデルが正しければ言うことありませんし。
こうして、sp#さんの第1案の「振動宇宙」を「多宇宙」に読み替えれば、多宇宙があれば輪廻転生は必要なくなる、という『多宇宙と輪廻転生』の終章の趣旨に合致しているものと思われます。
具体的には、sp#さんのお薦めは、
pp.346~ の、「心理説+多宇宙説」なのでしょう。
私も「心理説+多宇宙説」に傾きつつある暗示的身振りで『多宇宙と輪廻転生』終章を終えたわけですが、
「心理説+多宇宙説」が輪廻転生観と同じパズル解決力を持っているかというと、多少の疑問を抱いています。
まず、「私が生まれること」を高い事前確率で保証できたのか、という問題です。
多宇宙によって、論理的にとはいわぬまでも少なくとも物理的に可能な心的内容がすべて網羅されていないかぎり、「私が生まれずに終わる可能性」が高確率で残ってしまう怖れがあります。
なにしろ心理説では、あらかじめ特定された心的内容によって「この私」が決定されているので、そのような心的内容が多宇宙のどこにも誕生できなければ、それっきりだからです。
「意識内容のコピー」という第2案も、同様の理由で、私がそもそも存在できたのはなぜかという根本問題に答えていません。
さて、たしかに、
まがりなりにも一度「このような心的内容」が生まれたなら、無限の広さを持つ宇宙、または無数の宇宙を持つ多宇宙では「このような心的内容」は無限回生ずるでしょう。
しかし問題は、そもそも私が生まれることができたか、ということです。
一度「このような心的内容」が生まれたなら無限回生まれる、ということ(輪廻転生観の表層)は多宇宙説によって保証されても、
「このような心的内容」がそもそも生ずる、ということ(輪廻転生観の核心)は保証されません。
核心が保証されないのでは、序章の問題に答えていないことになります。
倫理問題だけに絞って輪廻転生観の表層だけ確保しようとしても、深層の形而上学を解決しないままでは、脆弱な死生観に終わってしまいます。
核心を保証するSSAが、自ずと輪廻転生観の表層を含意する、というのが『多宇宙と輪廻転生』のモチーフでした。
輪廻転生第2弾となるべき著作では、多宇宙が「私」の誕生を保証できるかどうかを探究するのが課題となります。
もう一つは、私の本質として「このような心的内容」を認めることができるか、という大問題があります。事後的に特定されただけの「このような心的内容」と、「私」との間に、どのような結びつきが定められていたというのか。
「私」であるためには、実現した意識的主体からランダムにとられたサンプルだというだけで十分である(SSA)、というほうが正しそうではないでしょうか。
以上の理由で、輪廻転生観は多宇宙によっては不用とされない死生観だと私は考えています。
輪廻転生観と多宇宙説は、ともに真理であるが、それぞれ関連しつつも別個の理由で真なのである、と考えたい気がします。多宇宙説は物理的命題であり、輪廻転生観は物理については何も言わない概念的命題である、と。
(概念的命題については、今さらですが、以下を―― )
http://russell-j.com1/kakuritu.pdf
補足 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 9日(土)11時01分16秒
すみません、言葉足らずでしたので補足します。
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前者は、例えばビッグバンとビッグクランチを永久に往復するような単振動型FT宇宙を想定し、
そこに住むある人物の意識内容は必ず繰り返し出現するとする考えです。単振動FT宇宙でなく多宇宙でも構わないかも知れません。この立場では輪廻転生観のメリットを保ちながら、先の反論も押さえ込むことができます。
--------------------------------------------------------------------------------
極限的な輪廻転生観では全く別人格の間にも同一性を認定しますが、上記は同一性認定範囲を、酷似した意識内容をもつ人格同士に制限せよという主張です。意識内容は身体を構成する粒子の配列パターンによって決まり、FT宇宙が繰り返し再生されるならば、酷似した配列パターンも無限回出現するという考えです。
極限的輪廻転生観は確かに「死」に関する現代人の共通感覚をよく反映してはいるのですが、懸命に生きようとする力を与えにくいというデメリットを抱えていると思います。
前投稿での素朴な反論もそうですし、死んでもすぐ転生するなら「この生」の価値が減退するでしょう。わずかな不幸を感じただけでも転生を望んで自殺することも考えられます。
制限版輪廻転生観では、転生にはかなりの時間がかかります。死んでから転生までの時間を本人が感じることはないとはいえ、やはり死ぬことに漠然とした不安は残るでしょう。
この不安が生きる力を与え、結果として「生」に関する現代人の共通感覚をよく反映するようになると考えます。
また、「この生」を破滅的に不幸だと感じている人にとっては、極限的輪廻転生観のほうが適していると思われるかもしれません。制限版では別人格に転生できず、何度でも不幸な人生を送ることになるわけですから。しかし、そのような人には「死んだら無になる」という日常的「私」の定義があれば十分であり、どのような輪廻転生観ももはや必要ではないでしょう。
この2案はいかがでしょう 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 9日(土)00時47分45秒
前投稿で述べた通り、私は「幻想の枠内に収まるように各種概念の定義を収束させる」ことがまずは重要と考えています。幻想とは日常的同一性に類するものです。
輪廻転生観に対する素朴な反論として、「ある人物から別の人物へ転生できるとしても、意識内容は受け継がれないんでしょう?それならやっぱり転生後の人物のために良い生活環境を残そうという気は起こらないし、死ぬのもやっぱり怖い」などが考えられます。
幻想的私(日常的同一性)とはそのようなものでしょう。私は、輪廻転生観的同一性認定範囲に対し適切な制限を設けるか、ユートピア待機策をとるか、どちらかを提案します。
どちらも幻想的私の定義を保つものです。
前者は、例えばビッグバンとビッグクランチを永久に往復するような単振動型FT宇宙を想定し、
そこに住むある人物の意識内容は必ず繰り返し出現するとする考えです。単振動FT宇宙でなく多宇宙でも構わないかも知れません。この立場では輪廻転生観のメリットを保ちながら、先の反論も押さえ込むことができます。
後者は、意識内容をコピーできるような科学技術が定着する未来までは、輪廻転生観や多宇宙により統一的な説明を与える試みは控えるべきとする立場です。意識内容を構成する全情報が記述でき、その記述を安全に長期保存できるようになれば寿命の概念が希薄になります。すると少なくとも倫理面を考慮して輪廻転生観を持ち出す意義が希薄になります。
また、そのような未来を目標として描くことは、まだ未熟な文明しか持たない私たちにも生きる力を与えるでしょう。
私が前投稿で述べたような疑問を持っているのは、この2つの案と極限的な輪廻転生観を比較してしまうがゆえです。強調すると、2つの案の発端は、
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輪廻転生観は、もともとが、「私の通常の同一性」概念を受け容れるという条件のもとで、輪廻は…… という条件付き命題なので。
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輪廻転生観が受け入れている同一性概念は、「通常」や「日常的・幻想的」ではなく「非日常的」に感じられる、ということでした。
「目標としての厳密な定義」≒輪廻転生観 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 7日(木)03時57分17秒
輪廻転生観が妥当かどうかということと、
通常の「私」概念(あるいは同一性概念)が曖昧かどうかということは、
ひとまず独立だというのが暗黙の前提でした。
(これは、同一性そのものを主題化しているわけではないあらゆる哲学説にあてはまります)。
通常の「私」概念(あるいは同一性概念)を保つ人々に語りかけるさいに、輪廻転生は認められるかどうか、を問うという構成でした。
したがって、次の御心配
>それが人々が受け入れやすい定義かどうかと、前述の
>「目標としての厳密な定義」に近づいているかどうかについて若干疑ってはいます。
はさしあたり無用かと思います。
「目標としての厳密な定義」が得られるかどうかということと、輪廻転生が認めやすいかということは別問題だからです。輪廻転生観は、もともとが、「私の通常の同一性」概念を受け容れるという条件のもとで、輪廻は…… という条件付き命題なので。
(再度念押しすると、「私の通常の同一性」概念を受け容れるか否かと、条件付き命題である輪廻転生観を受け容れるか否かは独立です)
しかし、輪廻転生観が、「目標としての厳密な定義」に近いものかどうかということは(それは『多宇宙と輪廻転生』のテーマではなかったにせよ)気になることはたしかですね。
輪廻転生を導くステップとなる命題であった「誰もが必ず生まれた。生まれずに終わる者はいない」の実践的正しさは、序章と第12章で手を変え品を変え述べたつもりです。
「私」の生まれるチャンスを事前に一度きりに限定されたものと考えると、「私」が今ここにいることが超天文学的・超宇宙論的に不可解だし、妊娠中絶に対してはもっともっとシリアスな態度をとらねばならないはずなのです。
実際は、私たちは「私」の現存に呆然としたりしないし、中絶を大罪だと思ってはいません。
これは、「誰もが必ず生まれた。生まれずに終わる者はいない」という世界観が実践的に正しくなければならないことを示しています。そして、「同一性」とは、結局は実践的な概念なのではないでしょうか。
人物の同一性については、輪廻転生観こそが「厳密な定義」の収束してゆく極限のように思われます。
Re[6]:SSAへの疑問など 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 6日(水)23時51分5秒
おっしゃることはよく分かります。同一性の概念が曖昧であるので、敢えて目をつぶって
「私」の定義にふれなかったのであれば、もはや貴著の内容に(論理整合性という意味で)大きな疑問点はありません。最後のご質問として、以下数点の内容に補足させていただきます。
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厳密な定義ができないからその概念は無意味だ、とするのは「完璧主義の誤謬」です。
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私は上記のように考えてはいないものの、「目標としての」厳密な定義はないといけないと思っています。確かに同一性という概念は、現代の私たちにとってみれば厳密に定義できないように思われます。しかし私たちの脳は、現に「何か」と「何か」が同一であるというイメージを私たちに見せているのです。これは、その類似性が計算可能であることの証拠でしょう。ということは将来的には、今よりは正確な同一性の定義が得られると期待できます。もし脳が見せる同一性のイメージが単なる幻想でしかないことが分かっても、私たちにとって真に重要なのはその幻想なのですから、その幻想の枠内に収まるように各種概念の定義を収束させる努力が必要なことに変わりないと考えます。とはいえ、
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日常的な「私の同一性」「人物の同一性」はひとまず認めざるをえません。
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何もせず将来を待つのも馬鹿馬鹿しいですから、上記は賢明かと思います。
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同一性についてそのような「形而上学的な譲歩、論理的にゆるい立場」をとらねばならぬ私たちであってみれば、
そのような「ゆるい私の同一性」は離散的な心身の間をつなぐことができて当然、ということになるでしょう。
------------------------------------------------------------------------------
その通りだと思います。離散的な心身の間をつなぐことができるような「私」の定義も当然アリです。
しかしながら私は、それが人々が受け入れやすい定義かどうかと、前述の
「目標としての厳密な定義」に近づいているかどうかについて若干疑ってはいます。
そのあたり、どう思われますか?
Re Re[5]:SSAへの疑問など 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 6日(水)01時22分17秒
全く同感です。
「私」の同一性という以前に、人格の同一性そのものがかなりあやふやな概念なのです。
だからこそデレク・パーフィットなどは、人格の同一性は「重要な問題ではない」として、実践的に同一性が装えれば十分という考えを示したのです。
「日常的な同一人物」は、厳密な意味では、成立しません。
しかしそれは、人物に特有の問題ではなく、およそいかなる個物についても言えてしまうのです。昨日見たあの建物といま見ているこの建物は同じ、などと厳密な意味でどうして言えるのか。しかし私たちはそう言わざるをえません。でないと、「同じ」「違う」という語が意味を失います。
したがって、「私」についてとくに同一性の曖昧さを問題視するのは、あまり面白い問題設定ではないでしょう。他の個物と同様に「私」についても同一性を認定した上で、議論を進めるのが生産的です。
厳密な定義ができないからその概念は無意味だ、とするのは(sp#さんはそうしそうには見えませんが)、「完璧主義の誤謬」です。
日常的な「私の同一性」「人物の同一性」はひとまず認めざるをえません。
同一性についてそのような「形而上学的な譲歩、論理的にゆるい立場」をとらねばならぬ私たちであってみれば、(げんにいまφもsp#も、自分を指示するのに「私」という語を使いまくっています)
そのような「ゆるい私の同一性」は離散的な心身の間をつなぐことができて当然、ということになるでしょう。
「私」が曖昧でありかつ不可欠であればこそ、
φとナポレオンが同一の「私」のヴィークルであったという見方に何ら不合理はありません。
そして特定の同一視が実践的に有意義であれば、その同一視には、1時間前のφとここに今いるやつとが同一だと認めるのと同様の真理があるはずです。
同一性関係で結ばれる項が互いに連続しているかどうかとか、類似しているかどうかは本質的な問題ではないでしょう。
Re[5]:SSAへの疑問など 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 5日(火)23時48分12秒
では次に、輪廻転生の話です。
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不可逆的な記憶喪失や記憶変容、性格変容をはさんで同一の「私」が続くことは想像できますよね。
私の脳の内容を情報化してハードディスクに保存したり、人間ファックスで火星で再合成されたりするような、身体消滅をはさんだ同一の「私」の持続も想像できます。
映画『転校生』のような同一性の入れ替わりも想像できます。
------------------------------------------------------------------------------
結論から言ってしまうと私は、ある時点でのある人物Aと、その時点から数時間後のA'についてさえ、日常的な意味で同一人物とは言えないと考えています。なぜならその数時間の間にAの意識内容が変化するからです。「私」という言葉の定義を調整することによって、AとA'を同一の「私」と呼ぶことができるならいいのですが、私にはその定義はいかにも恣意的に思われるのです。
AとA'がどのような関係にあれば「日常的な意味で同一人物とみなされる」のか、考えてみましょう。単純には、「ともに同一の身体に宿るという関係」と、「意識内容が互いに似ているという関係」の2つが考えられます。
前者だとすると、今度は「身体が同一であるとみなされるのは両者がどういう関係にある場合か」を説明する必要に迫られます。これは自明なようでいて難しい問題です。
身体は常に代謝を繰り返していますし、何らかの意味での平衡状態を保っているかどうかすら分からないからです。よって前者の関係を同一人物の定義とするのは曖昧です。
次に、後者だとすると、「何がどうであれば似ていると言えるのか」を説明する必要に迫られます。脳科学が現状程度のレベルでは、意識内容が似ている度合いを定量化することすら難しいでしょう。よって後者の関係を同一人物の定義とするのも曖昧です。
よって、「日常的な同一人物の定義」を厳密に定義することは難しいように思われます(「日常的な同一人物」とは、転生前の人物と転生後の人物の関係は視野に入れず、あくまで「私」と「数時間後の私」のように、普段から直感的に同一だと感じている人物という意味で使っています)。
では、「非日常的な同一人物の定義」はどうでしょうか。
輪廻転生観を前提すると、厳密な定義が得られるようになるのでしょうか。
Re: 086, Re[4]:SSAへの疑問など 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 5日(火)04時27分21秒
クリスティアンさん、例によりありがとうございます。
「むろん」がなければまだしもだったのでしょうか。
未必の故意が認定されるような場合は、ひき逃げも殺人罪になりうるようではありますね。
「殺人罪に値する」とでも書けばよかったのか。
sp#さんの指摘される複数種の「私」の混在については、『多宇宙と輪廻転生』執筆時にあまり意識していなかったというのが実情です。というより、「私」という素朴な一様な概念は保つしかないというのが実感だったため、「私」の宿り方のほうを改訂し、(人生一度だけという常識から輪廻転生観へ)、確率的整合性を回復したというような――。
つまり、「私」という実体を無理にでも保つ(というより、多種の「私」を束ねる)その皺寄せを、輪廻転生観(または、多宇宙)に負担してもらおう、的モチーフが『多宇宙と輪廻転生』に伏在していることは事実です。
しかし「私」は一種類だと前提してきましたけれどね。
Re[4]:SSAへの疑問など 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 4日(月)23時02分12秒
ひとまず「私」の定義について話を続けます。
>「特定の」という「特定」は、生まれてみたあとで事後的に追認された特定にすぎません。空虚な特定です。
それはその通りだと思います。私は、「私」という言葉がその空虚な特定を想起させてしまうところが問題だと思うのです。「私が誰として生まれるか」という文が、日常的な意味ではそもそも変です。「私」という言葉は、ある人物Aが、事後的なAの全ての特徴を指して使うのが普通でしょう。いわば、誰もが感じる錯覚を指す言葉です。生まれる前の視点で「私」を登場させるならば、その「私」が何を指すのかを明示したほうが明らかに親切かと思います。
私は、言葉を正しく定義しなおすならば、日常的な言葉を非日常的な意味で使っても
何ら問題ないと考えています。そうすれば「私が誰として生まれるか」という文も
変ではないと思います。ただし貴著においては、いくつかの種類の「私」が登場しますので、たとえば「私1」「私2」「私3」というように、異なる定義を与えた別の言葉を用意するのが明快ではないでしょうか。
今度は「論理パラドクス」の086に間違いを見つけました 投稿者:クリスティアン 投稿日:2008年 2月 4日(月)21時51分58秒
「むろんひき逃げ犯は殺人罪である」
という記述がありますが、ひき逃げの結果被害者が死亡しても、現在の日本では基本的に殺人罪にはなりません。
車を凶器として用いて、故意に人を狙って轢き殺したとすれば理論的には殺人罪が成立しうるでしょう。
しかし事故を起こした後に被害者を見殺しにして現場から逃げ去った場合、人を轢いた時点で殺意を持っていたことを法廷で立証することは非常に困難なので、今の日本の法体系の下では殺人罪が適用されていないのが現実です。(道交法違反及び業務上過失致死罪どまり)
その結果「逃げ得」になることが問題となっており、危険運転致死傷罪の制定といった厳罰化の動きがある一方で、犯人が逃げて時間が経った場合には危険運転致死傷罪すらなかなか適用できないという限界があります。
(これは問題が間違っているというよりも、今の日本が間違っているというべきかもしれませんが… )
RE:Re:Re:SSAに対する疑問など 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 4日(月)18時27分6秒
>どうしても「任意の」でなく「特定の、ある人物の視点から見た」
>というニュアンスを帯びてしまい、
「特定の」という「特定」は、生まれてみたあとで事後的に追認された特定にすぎません。空虚な特定です。
事前に世界の全ての客観的記述を与えても、「私」が誰として生まれるかは予測できませんでした(ちなみに私が個人史と世界史の記憶を消去されて、歴代の数百億人の名簿と肖像と履歴・性格を与えられ、自分がどれとして生まれたのかを当てろ、といわれたら、私には当てる自信がありません。自信のある人っているんでしょうか?)。
つまり、世界の自然主義的あり方と、私が誰であるかとは、物理的に独立です。したがって、私がφであることはランダムだったのです。
誕生したあとには、ランダムと感じられないのは無理もありませんが、それはナルシシズムによる錯覚(超能力信者や超難問信者にみられる錯覚)だというのが私の診断でした。
私の誕生日、保険証番号、クレジットカード番号、宝くじ番号、諸々の会員番号、等は私の意思とは独立のランダムな数字です。その数が与えられた後からすると、特殊な特定性を帯びて感じられますが、それは、どの他の数に当たっていてもそうだったのです。諸々の数字だけでなく、身許そのものも同様です。
>意識内容が転生によって離散的に変化する「意識主体」とは
>いったい何者なのでしょうか?
不可逆的な記憶喪失や記憶変容、性格変容をはさんで同一の「私」が続くことは想像できますよね。
私の脳の内容を情報化してハードディスクに保存したり、人間ファックスで火星で再合成されたりするような、身体消滅をはさんだ同一の「私」の持続も想像できます。
映画『転校生』のような同一性の入れ替わりも想像できます。
そういった全てが起きて、心身が全て交換される離散的な転生を被ることがあっても不思議ではありません。
それはあくまで「概念的な」事態ですが、その概輪廻転生的概念構成のもとでこそ、整合的かつ合理的な形而上学が保てる、というのが『多宇宙と輪廻転生』前半~終盤の、健全な死生観が保てる、というのが終盤以降の趣旨でした。
私は昨日までαβだったが、今日からφであり、明日からはsp#である、ということも想像できます。同じ私が多数の心身を経巡っていると。
各々の脳の構造からして単一の心身の履歴しか記憶されていませんから、この転生の事実は決して気づかれることはありません。
(ラッセルの5分前世界創造仮説みたいなものです)
↑のようなことすら想像できるのですから、ましてやφという心身の消滅後には、今ここにいる「私」が他の心身から世界を見始める、ということに何の不条理もないでしょう。
単に「想像できる」だけならそれを「真」として受け容れるには程遠いですが、それを「真」とした場合の形而上学的・倫理的メリットが大きいとあれば、認めない手はありません。
むろん、「各種「私」の定義づけを徹底的に行う必要がある」ことはもちろんですね。
まだまだ人間原理的輪廻転生論は、ディテールとストラクチャー双方の洗練を続けるつもりです。(一番の課題は、多宇宙があれば輪廻転生は必要なくなるかどうか、という問題です。これは鋭意考察中ですが――)
Re:Re:SSAに対する疑問など 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 3日(日)22時23分49秒
sp#です。詳しいご返事ありがとうございます。
私はSSAの微修正というよりは、「私」という言葉の解釈の微修正
あるいは明確な定義を必要としているのかもしれません。
-----------------------------------------
サンプルが「ランダム」であるとは、デタラメという意味ではなく、多数からの盲目的抽出という意味でもなく、注目しようとしている特質(ここでは意識内容や出生順位)とサンプル(ここでは「私」の身許)の同一性とが互いに独立という意味です。
-----------------------------------------
上記は、「私」という言葉が「自分自身がFT宇宙を観測しているという事実を認識する任意の意識主体」とでも言い換えていいのであれば納得できます(定義1)。
「私」と言ってしまうと、どうしても「任意の」でなく「特定の、ある人物の視点から見た」というニュアンスを帯びてしまい、それが文章を読みにくくしてしまうと思うのです。
例えば「私」をsp#だと読み替えて、「私(sp#)はランダムに選ばれたのだろうか・・・」と考えるとき、この「私」はsp#の意識内容や身許(sp#の脳)とは切り離せないのであって、
切り離した瞬間にそれは「私」以外の誰かになってしまうでしょう。
一方、輪廻転生の文脈に現れる「私」は、定義1とはまた別の定義を
使っているように思われます。
この「私」もまた意識内容に依存せず、SSAと対立するものでもありませんが、
「私」の同一性を定める範囲は通常よりはるかに広いです
(AがBに転生したとき、AとBは同一の私だという意味において)。
この広さをもつ何がしかを指す「私」の定義にも定義1を用いるとすれば、
「私」は何らかの意味で「意識主体」でなければなりません。
しかし、意識内容が転生によって離散的に変化する「意識主体」とは
いったい何者なのでしょうか?
変化が離散的であれ連続的であれ、変化は変化です。
5歳のときの人物Aと30歳のAは、輪廻転生観にもとづかなければ
別の意識主体ということができますが、それでも多くの人は、
意識内容が連続的に変化している範囲を「私」と認めるものです。
倫理の問題に踏み込むには、上記の常識的な「私」と輪廻転生でいうところの「私」
との関係について、もっと論じなければならないかと思います。
その出発点として、各種「私」の定義づけを徹底的に行う必要があるのでは
ないでしょうか。
Re: SSAに対する疑問など 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 3日(日)03時09分51秒
Re: SSAに対する疑問など 投稿者:φ 投稿日:2008年 2月 3日(日)03時07分33秒
SSAそのものに対する評価と、SSAによって終末論法を支持できるとする考えへの評価とを区別しなければならないでしょう。
察するところ、sp#さんは、SSAによって終末論法(系の議論)を支持できるとする考えに疑問を呈しているのであって、SSAそのものに疑問を向けているわけではないようですね。
「全員が同一の意識を配られている」
という意味がいまいち理解しづらいのですが、それはおそらく、私の意識内容や境遇が決定される仕方は単なる結果論だということでしょうから、全ての意識個体の中からランダムに選ばれたのが「私」だ、ということに他ならないと思われます。
もしかすると、「ランダム」という語の理解に食い違いがあるのかもしれません。
サンプルが「ランダム」であるとは、デタラメという意味ではなく、多数からの盲目的抽出という意味でもなく、注目しようとしている特質(ここでは意識内容や出生順位)とサンプル(ここでは「私」の身許)の同一性とが互いに独立という意味です。
したがって、選ばれ方が一通りしかなくても、論理的・物理的に独立した別の事情との関係において、ランダムでありえます。たとえば、円周率の小数展開百~百九桁までの十桁の数の並び方は必然的に一通りしかありませんが、それは、この瞬間の地球の総人口との関係においては、ランダムな数列です。
ただし、厳密には「私」がランダムでないことについては、
「強い観測選択効果(グルジエフの原理)」の名の下で『多宇宙と輪廻転生』第6、7章以下に展開しました。
「私」は全ての意識個体の中でも「知能が高く、内省力の強い部類にバイアスがかかっている」はずだからです。
しかしこれは、SSAが間違っているということではなく、現に哲学的問題に取り組んでいる場合にのみ当該問題が生ずるという観測選択効果による修正にすぎません。
sp#さんの問題提起が、SSAよりSIAのほうが正しいのではないかというなら深刻ですが、SIAと対比してのSSAではなく、SSAの微修正の必要性を論じておられるようなので、私たちの間に食い違いはないと思われるのですが。
終末論法について念押しすると、
その結論(「長期繁栄仮説」より「早期滅亡仮説」が確証される)は間違っている、というのが私の趣旨でした。
終末論法はSSAを用いた論法ですが、
①仮説とデータの語用論的独立性が確保されていない(常にデータのあとから滅亡の期日候補が設定されている)
②人類より広い知的生命の準拠集団へのSSAの適用を怠っている
③終末論法を真剣に我が事として論じる準拠集団は、早期滅亡がほぼ不可能となる〈銀河植民以降〉には存在できない(従って終末論法の「私」が銀河植民前にいるのは観測選択効果により必然である)
というのが主な理由でした。
SSAの適用によって終末論法が支持できはしないとする点においても、sp#さんと私には不一致はないようです。
ちなみに、壺から玉を取り出す設定が終末論法の比喩として成り立つためには、多くのデリケートな条件を満たすべきであることを第5章「壺の話1~3」によって示しました。
結局、第6章末尾でまとめたように、終末論法はジレンマのどちらの角をとっても成り立たないことになり、否定されます。
ただしこれは、「私」が知的生命の中ではランダムな(もっと正確に言えば、人間原理のような哲学的問題に取り組む知能と好奇心を持つ知的生命の中からランダムな)存在であるうことと矛盾しません。
SSA(正確には、「グルジエフの原理」と合わせたもの)は否定できないでしょう。
SSAに対する疑問など 投稿者:sp# 投稿日:2008年 2月 2日(土)20時38分29秒
初めて投稿します、sp#です。こんにちは。
『多宇宙と輪廻転生』拝見しました。
終末論法と眠り姫問題は初めて知ったので、大変興味深かったです。
最初から最後まで、SSAを真実だと仮定すればおおよそ納得して読めました。
SSAは、「私は全意識の中のランダムなサンプルである」という意味だったかと
思いますが、これが直感と反する気がしてならないのです。
例えば終末論法の文脈で、意識Aが全意識中で極端に早い順位で誕生したとしましょう。
そのような順位でAが誕生する確率は低いというのが終末論法の趣旨ですが、
しかし早い順位で誕生する意識は必ず存在します。
そして存在すれば、その意識は自分の誕生順位を否応なく認識させられます。
この場合、番号の書かれた多くの玉を壺から取り出すのとは訳が違うのでは
ないでしょうか。玉は外部の者が選択しますが、意識はそれ自体が選択します。
もし玉が意識を持っていて、自分の背番号を見てそれが極端に小さい数字だったからと
いって、自分は希な存在だと思うでしょうか。
背番号が、玉に意識が備わる前から貼られているとします。
次に、玉に意識を植え付けます
(どの玉にもまったく同一の意識を配分します)。
それぞれの意識が背番号を認識し、個性を獲得します。
このプロセスのうち、すべての玉に同一の意識を配分する作業は
ランダム選択ではありません。場合の数が1通りしかないからです。
現実の人間も、生まれた段階ではどのような意識に成長するか分からないという
点において、全員が同一の意識を配られていると考えるべきです。
というわけでSSAが怪しく見えるのですが、いかがでしょうか。
RE:Re:Re:震度8 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月29日(火)03時42分55秒
執筆時の意図は想起不能ですが、「震度」と「マグニチュード」の混同ではなく、単に「震度8」があるものと思っていたというだけのことです。たぶん。
喩えや挙例の文はどうも疎かになっている確率が高いようで、目ざとい指摘をこれからもお願いします。
本筋での間違いよりも、単なる例文での誤情報は、読者のサブリミナルに食い込む可能性が高く、意外と要注意です。
Re:Re:震度8 投稿者:クリスティアン 投稿日:2008年 1月29日(火)03時00分48秒
私は地学を学んでいたので、前段のことは知っていました。(だからこそ「震度8」という「ありえない」単語に反応してしまったわけですが)
で、後段で述べているように、ありえないことを前提とした論理であろうか?とも考えてみたのですが、やはりしっくり来ないので、単なる震度についての勘違いだろうとの結論付けました。
そのため「震度8」を「間違い」と書きました。
もしや三浦先生は「震度」と「マグニチュード」を混同していたのではないでしょうか?
各地点での揺れの大きさを表す震度と、地震そのものの規模を表すマグニチュードはしばしば混同されますが、異なる概念です。
マグニチュードは8を超えることもあるので、それを「震度8」と勘違いした可能性があります。
Re: 「論理サバイバル」にもう一つ 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月28日(月)02時00分18秒
やはり「例示」の文は隙が多いようですか。
なるほど、しばしば「震度8」などという言い方を耳にしたことがありましたが、ああいうのは「ありえないこと」「まだ起きていない極端なこと」というほどの用法だったのでしょうね。
御指摘ありがとうございます。
ただ、ざっと調べてみたところ、新たな震度の創設はありうるようです。
現在の震度7も、59年前に「新設された」ものだったそうで。
ただしそれは、1948年福井地震を契機として「震度6までじゃダメだ」と49年に7が設けられて、阪神淡路大震災で初めて「震度7」が記録されたとか?
つまり、震度の新設はあっても、新設前の地震が新しい震度を追認されたことはなかったようです。とはいえ、あらゆる前例をはるかに凌ぐあまりに激烈な地震が生じたとすれば、震度8や9が新設と同時に追認されることは不可能ではないでしょう。
現行制度では震度8以上はないとはいえ、明日、震度8の(として追認される)地震が東京に起こる可能性はあります。(戦前の日本で誰かが、「「平和に対する罪」で起訴される日本人が居るだろう」などというのと同じです)。
もうひとつ。
震度8がありえないとしても、問032では条件付き確率のハナシをしているため、★もしも★震度8の地震が起きたら、震度8の地震が起きる条件付き確率は1、というのは間違いではありません。
同一律の一例だというだけでなく、
確率ゼロのことが起これば、いかなることも、確率1で起きても不合理ではないと言えるからです。
震度8の地震がありえないという前提では、
★もしも★震度8の地震が起きたら、震度999の地震が起きる確率も1、世界中のブタが一斉に空を飛ぶ確率も1でかまいません。
というわけで、震度8がありえても、ありえなくても、いずれにしても問032の記述は「間違い」ではないことになります。
しかし、間違いでないからかまわない、とはかぎらないでしょう。
間違いではないとはいえ、「不適当な表現」であり読者に無用の混乱を与えそうなので、震度7と訂正しておくべきか。
このままにしておくか。
次の増刷の時までに考えておきます。
「論理サバイバル」にもう一つ間違いを見つけました 投稿者:クリスティアン 投稿日:2008年 1月27日(日)15時09分54秒
032に、
東京全域に震度8の大地震
という記述がありますが、震度の階級は0~7までの10段階(震度5と震度6は弱・強の2段階に別れている)であり、震度8というのは存在しないので、不適当な表現だと思います。
(なお、アメリカ等で用いられているメルカリ震度階ではI~XIIまでの12段階なので、震度VIIIというのは存在します)
Re: 私も「論理サバイバル」に 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月22日(火)02時44分25秒
ん? なるほどそうですね?
「いかなる素数も5で割りきれない」?
どうしてよりによって5なんぞ持ってきただか?
御指摘ありがとうございます。
1文字変えればよいのがせめてもの安堵でした。
このような、とくに例文系の記述には執筆神経が行き届かない傾向がありそうで、なんとなくまだまだ間違いが潜んでいるのではないかという気がしてきました……。
さらなる間違いの御指摘(とりわけ新刊の)を歓迎いたします!(間違いが深刻であればあるほど)
(cf.序文のパラドクス(誠実vs賢明)『論理パラドクス』問046)
私も「論理サバイバル」に間違いを見付けました 投稿者:クリスティアン 投稿日:2008年 1月21日(月)21時28分47秒
030の末尾近くの、
「いかなる素数も5で割りきれない」
という命題は、
素数5に対して
5÷5=1 余り0
という「例外」があります。
(これは除数を4とか6とかの合成数にすれば、簡単に解決できますが)
何故こんな明白な間違いが残ってしまったのか? と不思議に思います。
(それとも私が何かとんでもない思い違いをしているのか? と、かえって心配になります。)
公共の福祉 投稿者:Ц 投稿日:2008年 1月16日(水)15時44分14秒
売買春をする権利があると言う人に反論するなら、権利の乱用あるいは公共の福祉に反すると、
最終的にはいずれかに結論付けることができるでしょう。
それらを権利と主張する事、そのものが権利の乱用です。
そう主張した権利、それを無条件に保護するように求めることが
公共の福祉に反します。
売買春をする権利という主張は
本来、Libertyとして区分される自由であると主張するべきです。
そうしないことが、権利の乱用といいます。
Freedomである自由の集合の内にLibertyとして区分される自由が
内包されています。
そして、Libertyとして区分される自由のいくつかは確かに権利として在り、
それは,多くの人に権利として認識され保護されます。
権利は、そう主張しなければ権利として気が付いてもらえない場合が多く、
認識されることも保護されることも無いゆえに、権利は主張するべきです。
同時に、Libertyとして区分される自由の全てをなんでもかんでもが
保護の対象にはなりません。
Libertyとして区分される自由は本来自分自身で守るべきものだからです。
それゆえに、権利の乱用は避けなければならず、無条件に保護されることを
求めるがごときは公共の福祉に反し、
尚且つ公共の福祉の為に権利は行使されなければなりません。
ありがとうございます! 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月12日(土)02時53分51秒
Re:別件にとびます すいません
kotobaduさん、どうやらおっしゃるとおりです!
2件の御指摘について逐一計算してみますと、
■p224 14 の答えは
A …… 2人とも表館 893/990
B …… 2人とも裏館 2/990
E …… 2人いっしょの館 P(A)+P(B)=895/990
P(A|E)=P(E|A)P(A)/P(E)=P(A)/P(E)
=P(A)/(P(A)+P(B))=893/895
Eに条件付けるのを忘れておりました!
御指摘ありがとうございました。
■同じくp.224 16の答えは
A …… サトシが表館 P(A)=95%
B …… あなたが表館 P(B)=95%
E …… サトシと別々の中の一人として「あなたですよ」と言われる
E1 あなたについて調べた場合のE (p.222 12と同じ)
E2 あなたがいれば必ずあなたと言う場合のE (自然な読み)
E3 ランダムに選んだらあなただった場合のE (正解に合致するための読み)
P(B|E1)=P(E1|B)P(B)/P(E1)
=P(E1|B)P(B)/(P(E1|B)P(B)+P(E1|~B)P(~B))
=5%・95%/(5%・95%+95%・5%)=50%
P(B|E2)=P(E2|B)P(B)/P(E2)
=P(E2|B)P(B)/(P(E2|B)P(B)+P(E2|~B)P(~B))
=100%・5%・95%/(100%・5%・95%+100%・95%・5%)=50%
P(B|E3)=P(E3|B)P(B)/P(E3)
=P(E3|B)P(B)/(P(E3|B)P(B)+P(E3|~B)P(~B))
=(1/95)・5%・95%/((1/95)・5%・95%+(1/5)・95%・5%)=5%
↑大急ぎで書いたので、書き間違いなどがあるかもしれませんが、大筋は合っているはず。少なくとも、答えはkotobaduさんが言われたのと一致しています。
p.224の文面は、実験者の答えはE3と解釈できなくもありませんが、自然に読めば、E2ですよね。
ありがとうございました!
これまで、多くの御指摘を読者からいただき、何度か拙著増刷のとき修正させていただきましたが、
今回のはホームラン級です。
『論理サバイバル』増刷のとき訂正しようと思いますが、どちらもちょっと行数などが変わりかねない訂正なので、苦慮するところです。
14はまだしもケアレスミスの範疇に入りますが、モンティ・ホール型の16は御指摘がなければ永久に気づかなかったかもしれません。
やはり確率は難しいですね。
御指摘重ねて感謝いたします。
別件にとびます すいません 投稿者:kotobadu 投稿日:2008年 1月11日(金)13時57分40秒
論理サバイバル について
p224
多数派と少数派のパラドックスの14
二人が同じ建物と知った時 表館である確率
正解は 1-(5/100*4/99) ≒99.8% (自分の計算では0.997979798
とありますが
自分は、二人とも表館に入る確率と二人とも裏館に入る確率の比から求め、
(95/100*94/99)/(5/100*4/99+95/100*94/99) =0.997765363
回答の考え方ですと 表館確率は対して違いませんが
裏館である確率は1-(95/100*94/99) として求めることになり かなり差が出ます(表館確率+裏館確率が1を超えますし)
*****
同ページ
16番
ランダムに選んだ「サトシ」から 異なる館にいる人物を問い 「私」があてはまるケース
この場合
A 異なる館にいる者の中に私がいたから 「紹介するまでもなくあなたですよ」と返事した場合
「私」が入っていれば 「私」に必ず焦点が当たるので
それは 「私」が「サトシと異なる館に入っていますか?」という問いと同等となり
表館確率は50%
B 異なる館にいる中からランダムにピックアップしてみたら 偶然にも「私」だったので 「紹介するまでもなくあなたがいますよ」と返事した場合
ピックアップした対象が 指定の「私」と たまたま一致するという確率と相殺され、「私」表館確率は5%
となると考えました
ところで、回答は5%とありますが
設問の記述からは Aのケースのように自分には読めますがどうでしょうか。
返事ありがとうございます 投稿者:kotobadu 投稿日:2008年 1月11日(金)13時53分58秒
> 1/2以外のどんな確率と判断すればよいのでしょうか。
> 無差別の原理に訴えるしかないということです。特定の差別をえこひいきする情報が何もないのだから。
差別する理由が無いから1/2と考えるのも、反復を前提として 1:1の割合 と考えるがゆえの頻度解釈なのではないか
であれば そこでは反復・頻度により1/2 と考えるのに 目覚め時の 確率推定には 頻度解釈を用いない立場は、最初の頻度解釈をどういう根拠で用いるのか
という疑問だったのですが
今回のご返事を含め また考えてみます
別件にとびます すいません
Re:Re:唯一設定と反復設定 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月10日(木)16時40分34秒
> 月曜である 確率 2/3 × そのとき表である確率 1/2 =1/3
> と考えました
> これは 反復設定- 頻度解釈 なのですね?
そうですね。
各目覚めを平等に1個と数えて比率で確率を考えるのは、頻度解釈です。
ただ一度しか実験がないとすれば、各目覚めは平等ではなく、
表の時のすべてを占める月曜と、裏の時の半々を分け合う月曜・火曜とが対等となり、
確率はそれぞれ1/2、1/4、1/4となります。
したがって、
唯一設定なら、月曜である 確率は 2/3 ではなく、3/4 と考えねばならないはずですね。
> [新たな情報が加わっていない] というのを反論
実験前に比べて、起こされたとき(まだ曜日が教えられないとき)に新たな情報が加わっているかどうかは、唯一設定か反復設定かによって異なります。
さらにもう一つ、
自分の位置がコイン投げと相対的にどこにあるか、という自己認識によります。目覚めたときにコインはすでに投げらているのか、まだ投げられていない可能性もあるのか、という認識です。
このあたりは先走りしすぎるので、必要があればまたその時に。
まずは、唯一設定と反復設定とで合理的な確率判断が異なる、ということが納得できるかどうかですね。
普通は、確率は唯一設定でも反復設定でも正解は同じになるはずですが、観測選択効果が入ってくる場合には異なるので難しいのです。
>コインを投げた時に 表・裏が1/2 と 判断するのは
>どういう根拠を用いるのでしょうか?
1/2以外のどんな確率と判断すればよいのでしょうか。
無差別の原理に訴えるしかないということです。特定の差別をえこひいきする情報が何もないのだから。
たとえば賭けをするときに、1/2以外の確率判断にもとづいて賭けると、損をすることがほぼ確実です。
(表が99/100と本気で判断する人は、コインを5個投げてすべて表になる確率は、99/100の5乗で依然としてかなり高いと考え、その出方に賭けてしまうでしょう。そうではなく1/2の5乗であると考えて、それが起こらないほうに賭けるのが賢明です。)
人につけ込む余地を与えない「最も騙されにくい合理的な判断」を保証するのが、さしあたり、無差別の原理なのでしょう。
(無題) 投稿者:kotobadu 投稿日:2008年 1月 9日(水)12時19分18秒
『多宇宙と輪廻転生』は未だ持っていないので 論理サバイバルを参考にしています
唯一設定のケースは「新たな情報の有無による変動」が問題のようなので
検索してみたところ 主観確率-ベイズ主義 に関係しているのですか?
*************
最初自分は
月曜である 確率 2/3 × そのとき表である確率 1/2 =1/3
と考えました
これは 反復設定- 頻度解釈 なのですね?
で
唯一設定 1/2 への反論の方向として
・[実験前には1/2] というのを反論 実験の手続きがわかっている以上
実験前に 「実験中に起されたとき表である確率」を思考するなら それは 1/2 でなく頻度解釈で1/3 でもいいのではないか
で、「新たな情報が加わっていなくても 1/3 でいい」
・[新たな情報が加わっていない] というのを反論 ・・ 内容は未定
という二つを考えましたが
見込みあるでしょうか 無駄でしょうか?
こういうことが見込みあるなら有名なパラドックスにならない のだとは思いますが・・・
Re:唯一設定と反復設定 投稿者:kotobadu 投稿日:2008年 1月 9日(水)11時44分12秒
唯一設定の場合には 頻度解釈 を使わないということのようですが
その場合 コインを投げた時に 表・裏が1/2 と 判断するのは どういう根拠を用いるのでしょうか?
多分 基本的な(幼稚な?) 質問なのだろうと思います すいません
(キーワードなど教えていただければ 検索して調べます・・
メタ確率? 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月 4日(金)04時24分46秒
「確率判断と期待値計算が複雑な仕方でリンクしている」かどうかというのはちょっと漠然としていて判断できませんが、
もう一点については私は次のように考えます。
↓
> ◆姫が「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/2です。
> ◆また、姫が「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/3です。
◆◆ はやはり変で、健全なのは 注1の ◇◇ ではないでしょうか。
A 唯一設定の場合、
実際に表が出ている可能性、裏が出ている可能性が半々ですから、「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は1です。
実際に表が出ている可能性、裏が出ている可能性が半々ですから、「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は0です。
B 反復設定の場合、
実際に表が出ている場合、裏が出ている場合が1:2ですから、「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は0です。
実際に表が出ている場合、裏が出ている場合が1:2ですから、「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は1です。
C あるいは、唯一設定にしろ反復設定にしろ、実際に出たコインの表裏は一通りに定まっているという極端な客観確率の態度をとると、
実際に出た目(もはや確率1)に照らして、「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は0です。
実際に出た目(もはや確率1)に照らして、「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は0です。
Cの立場では、すべての出来事は起こるか起こらないかなので、確率は1か0の二通りしかないことになり、真と偽の二値ですべてが尽くされ、確率は実質的に空虚化します。
確率判断を行なう文脈では、AかBが有意義な立場でしょう。「表」「裏」という答え方ではなく確率で答えていますから、それが正しい確率は1か0のみとなりますね。
★ところで、
「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/2
「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/3
という状況はありえないかというと、そんなことはありません。
ただしそのような「メタ確率」が意味をなす状況は、おそらく、キリーロフさんが相手取っている単純な眠り姫問題ではなく、二段階の眠り姫問題でしょう。すなわち、
…………………………………………
姫は、次のことを知らされている。
▲サイコロを振って偶数が出たら、自分は唯一設定の眠り姫実験の被験者となる。奇数が出たら、反復設定の眠り姫実験の被験者となる。さて、今目覚めたとき、場合A(表)である確率は?
答え:「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/2
「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/2
ただ「表」とだけ答えるならば、この答えが正解である確率は
1/2×1/2+1/2×1/3=5/12
ただ「裏」とだけ答えるならば、この答えが正解である確率は
1/2×1/2+1/2×2/3=7/12
▼サイコロを振って4以下が出たら、唯一設定の眠り姫実験の被験者となる。5か6が出たら、反復設定の眠り姫実験の被験者となる。さて、場合A(表)である確率は?
答え:「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は2/3
「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/3
ただ「表」とだけ答えるならば、この答えが正解である確率は
2/3×1/2+1/3×1/3=4/9
ただ「裏」とだけ答えるならば、この答えが正解である確率は
2/3×1/2+1/3×2/3=5/9
これらの場合、たとえば▲では
場合A(表)である確率は5/12であるにもかかわらず、「「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は0ではなく、1/2である」という一見奇妙なことになります。5/12≠1/2 なのだから、「1/2」が正解である確率は0であるはずなのに。しかし、「「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/2」といったメタ確率的言辞を意味あらしめるためには、そういう解釈をとるしかないのでしょう。メタレベルと対象レベルとで、確率が異なるわけです。(「1/2」が正解である確率はメタレベルで0、対象レベルで1/2)
いずれにしても、いかなるレベルでも、決定的なポイントは、唯一設定か反復設定かの違いではないでしょうか。
(『多宇宙と輪廻転生』では、コイン投げのタイミングの座標も加えてさらに一般化を目論みましたが――)
Re:Re 投稿者:キリーロフ 投稿日:2008年 1月 3日(木)23時03分49秒
> むしろ「期待値」概念ですか。
> キリーロフさんの3設定の期待値が変化するのは各事態に割り当てられた効用によって
>であり、確率判断によってではないようですね。
その通りです。
ただし、やや微妙な点があるかもしれません(確言はできませんが)。
というのも眠り姫問題には確率判断と期待値計算が複雑な仕方でリンクしている
かもしれないからです。理由は以下の通りです。
眠り姫問題の特徴は、被験者である姫が(自身の視点から)場合Aである確率を
回答する点であると思われます。ここで姫の回答方針は次の二通りのものが考えられます。
(ア)場合Aである確率を客観的に求めることを目指す。
(イ)次のような確率判断jに基づいて場合Aへ確率を割り当てることを目指す。
ここでjとは、それに従うと自分の利得の期待値が最大になるような確率判断である。
この(ア)と(イ)の区別については、考察する意味のない事例と
考察する意味のある事例が存在すると思われます。
(a)無意味な事例
コイン投げギャンブルにおいて、表に賭けて当たれば1万円もらえ、
裏に賭けて当たれば1万円もらえるとする。表に賭けた太郎は、自分の利得の期待値を
できる限り高めるため、《表が出る》という事象へ確率0.99999…を割り当てた。
(これはいわば(イ)の「悪用」と言えます)
(b)有意味な事例
φ先生の著書と同じ眠り姫問題の実験設定(235頁から236頁)において
「問」を次のものとします。
問 さあ、あなたは目覚めた。いま実現しているのが場合Aである確率は?
このとき、
◆姫が「1/2」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/2です(注1)。
◆また、姫が「1/3」と答えるならば、この答えが正解である確率は1/3です。
ここで正解の利得を1、誤答の利得を0とすると、
「1/2」と答えた上での利得の期待値は(1/2×1+1/2×0=1/2より)1/2で、
「1/3」と答えた上での利得の期待値は(1/3×1+2/3×0=1/3より)1/3です。
よって「1/2」と答える方が合理的です。
こうした理屈は、もちろん、「1/2」と「1/3」のどちらが正答であるかが
確実に分かる場合(つまり「1/2」が確率1で正答の場合、あるいは「1/3」が
確率1で正答の場合)には成立しません。ただし「1/2」と「1/3」のどちらも
確率1/2で正答でありうる場合には成立する可能性があります。
こうした(b)に類する事例では「確率判断と期待値計算が複雑な仕方で
リンクしている」ように私には思われます。
そして眠り姫問題の状況も(b)に似ているように思われるのです。
他方で(b)には--一歩引いて考察すると--何らかの誤謬推理が含まれている
ような気もします。
はたして事例(b)は「まともな」事例であるのか。また、確率と期待値計算は
複雑な仕方でリンクしうるのか。φ先生、ご一考お願いします。
(注1)この行と次の行の推論には問題があるかもしれません。というのも、
次のような言い方が成立するからです。
◇もし場合Aである確率が1/2であるとき、姫が「1/2」と答えるならば、
この答えが正解である確率は1である。
◇もし場合Aである確率が1/3であるとき、姫が「1/3」と答えるならば、
この答えが正解である確率は1である。
しかし「問」においては「いま実現しているのが…」と尋ねているので、
私が(b)で記述したような事態(◆)が成立するような気もします。
はたして◆が健全か◇が健全か? この点もご一考下さい。
Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2008年 1月 2日(水)17時41分27秒
> :X氏は~~よりも......へ多くの合理性を帰するので、
> X氏は~~よりも......へ多くの確率を帰する。
> という思考法が有意味になる「確率」概念はありうるでしょうか。
むしろ「期待値」概念ですか。
キリーロフさんの3設定の期待値が変化するのは各事態に割り当てられた効用によってであり、確率判断によってではないようですね。
> (2)の疑問について私は、一方で「もっともな疑問です」と言いたいのですが、
> 他方で「しかし私の考えでは...」とある意見を有しています。
興味深い問題ですので、楽しみにお待ちします。
(無題) 投稿者:キリーロフ 投稿日:2008年 1月 2日(水)00時27分53秒
φ先生の疑問に回答したいと思います。
とはいうものの、正直に言いますと、私の書いたものを再考しますと
そこにはいくつかの問題点がありそうです。
それゆえ以下では、「回答」をするというよりも、
私の意見の曖昧であった点を明確化したいと思います。
私はφ先生の疑問を以下のふたつと理解しました。
(1)「支持する」という言葉がよく分からない。もしこれが通常の意味の「支持する」
とすれば、《なぜ各々の問題設定が「1/3派」や「1/2派」を支持するか》の理由が分からない。また、もし通常の意味でない「支持する」とすれば、その解釈の仕方が
分からない。
(2)私は、「頻度的確率」を採用しているので、眠り姫問題の反復設定へコミットして
いるが、この問題において確率を考える際にはそもそも一回設定と反復設定のどちらを
想定するかが重要ではないか。
(1)の疑問について私は「もっともな疑問です」と答えなければなりません。
また(2)の疑問について私は、一方で「もっともな疑問です」と言いたいのですが、
他方で「しかし私の考えでは...」とある意見を有しています。
以下(1)と(2)に分けて説明します。
(1)私は先の書き込みにおいて「奇妙な」想定を前提していました。それは
「意思決定」と「確率」の関係に関する想定です。
まず、φ先生の書かれたように、私の問題設定は次のように記述されえます。
(1)「1/3派」に似た意思決定を要求する眠り姫問題設定
(2)「1/3派」と「1/2派」の不一致をそのまま保った眠り姫問題設定
(3)「1/2派」に似た意思決定を要求する眠り姫問題設定
しかしながら「1/3派」に似た意思決定を要求する設定が場合Aへ確率1/3を
割り当てるとは限りませんし、同様に「1/2派」に似た意思決定を要求する設定が
場合Aへ確率1/2を割り当てるとは限りません。こうなると「支持する」という
言葉の意味が意味不明になります。さらに、私の設定は次のように解釈されるのが
自然です。つまり、私の問題設定は(反復設定を前提しているので)そもそも
場合Aへ確率1/3を割り当てている--そのうえで、報酬の内容を微調整することに
よって各設定での眠り姫問題への解決が「期待値」あるいは「意思決定の合理性」と
いう点において「1/3派」や「1/2派」の考え方に似せられているにすぎない、と。
こうした反論はもっともです。実際、こうした反論には意思決定に関する
スタンダードな枠組みが前提されています。それは、合理的意思決定状況においては、
まず問題となる選択肢(事象)へ確率が割り当てられたうえで、
期待値が計算され、各選択肢を選ぶ合理性が算出される、というものです。
しかしながら私の先の書き込みの意見はこのスタンダードな枠組みを
崩していました。私の思考の順序は以下のようなものでした。
:私の眠り姫問題設定(1)においては、問い4の回答者は、「場合A」ではなく、
「場合B」と答えるべきであるので、この設定では問い4の回答者は場合Bへ
場合Aより多くの確率を割り当てているはずである。
こうした思考法は、正直言って、奇妙です。こうした思考法が有意味となるような
「確率」概念の解釈が存在すればうれしいのですが...。
ところで、なぜ私はこうした奇妙な思考をしたのでしょうか。
私はまずφ先生の最初の設定の眠り姫問題(235頁から236頁)を考察していたのですが、
その際、この問題は《場合Aである確率は(実際に)いくらか》という記述的問題と
しては解答不可能であり、むしろ《姫は場合Aの実現へいくらの確率を割り当てるべきか》
という規範的問題と見なすべきであると思われました。
そして、こうした「規範性」や「合理性」などの連想から、選択の合理性から
(逆に)確率の割り当てを規定するという思考法へ至ったのだと思います。
結論を述べますと私は私自身の思考法に困惑しています
(φ先生には迷惑な話でしょうが)。はたして
:X氏は~~よりも......へ多くの合理性を帰するので、
X氏は~~よりも......へ多くの確率を帰する。
という思考法が有意味になる「確率」概念はありうるでしょうか。
報われない見込みは大ですがちょっと考えてみようと思います。
(2)については改めて書き込みます(正月中で忙しく申し訳ございません)。