三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2007年7~12月)
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追伸 投稿者:φ 投稿日:2007年12月29日(土)16時03分44秒
質問風の付け加えです。
キリーロフさんの
(1)「1/3派」を支持する眠り姫問題設定
(2)「1/3派」と「1/2派」についてニュートラルな眠り姫問題設定
(3)「1/2派」を支持する眠り姫問題設定
の「支持する」という語はやや誤解を招きそうですね。
(1)「1/3派」に似た意思決定を要求する眠り姫問題設定
(2)「1/3派」と「1/2派」の不一致をそのまま保った眠り姫問題設定
(3)「1/2派」に似た意思決定を要求する眠り姫問題設定
と表現するのが正しいのではないでしょうか。
たとえば、(1)問4については、「1/2派」の人も「B」と答えるのが合理的決定です。Aと答えたときの期待値は1/2×100万円、Bと答えたときの期待値は1/2×200万円となるからです。「1/2派」でありながら、表面的に「1/3派(期待効用の設定なしの場合のもともとの)」であるかのような選択になりますね。
(3)問6も同様。確率的判断としては「1/3派」であっても、表面的に「1/2派(期待効用の設定なしの場合のもともとの)」であるかのような選択に至ります。
ところが、(2)問5についてはよくわかりません。問5も単に「1/2派」と同じ決定をしているだけではないでしょうか? これがどうして
「1/3派」と「1/2派」についてニュートラルな眠り姫問題設定
と呼ばれているのか。
問5も問6も、回答に対する効用(あるいはリスク)にバイアスを設けて「1/3派」の意思決定を補正し、結果として「1/2派」と同じ決定に導いているだけのように思われます。
キリーロフさんは眠り姫問題で混合戦略が可能だという前提に立っているので、反復設定を念頭に置いているようです。つまり、(1)(2)(3)すべてが、「1/3派」の観点で書かれています。
それでよいのか、よいとしたらどのような状況のもとでか、というのが、もともとの眠り姫問題でした。(前回書いたように、唯一設定では――たとえば現実世界だけが実在で他の可能世界は単なる仮構と考える場合――「1/2派」が正しいというのが「定説」です)。
というわけで、
AAABBAAAAABA…… か、
aaabbbbaaaaabbabbabbbbbbbb…… か、
という選択肢に関しては、このような頻度解釈に翻訳した時点で、「1/3派」つまり後者を支持する文脈に身を置いたことになります。(姫が迫られているのは、「あなたは」どう答えるか、ではなく、「今のあなたは」どう答えるか、ですから)
もしかしたら、
「1/3派」を支持する眠り姫問題設定/「1/2派」を支持する眠り姫問題設定
というキリーロフさんの表現の意図を私が誤解しているのかも。(「支持する」の正確な意味がわからないので)
――お時間あるときにお教えいただければ幸いです。
Re: 眠り姫問題 投稿者:φ 投稿日:2007年12月29日(土)02時51分52秒
キリーロフさんの設定は大変面白いですね。
まさに言われるとおりで、眠り姫問題は、状況設定によって正解が変わります。
オリジナルの質問は確率を答えさせるものですが、端的に表(場合A)か裏(場合B)かを答えさせて、正解・不正解のそれぞれの場合の報酬やペナルティを変えることで、状況設定を操作することができますね。
オリジナルの確率の質問では、
「反復設定」(主観的に区別できない多数回の実験のうち一つが目下の実験である、という認識のもと)では、「1/3」が正しく、
「唯一設定」(一度かぎりの実験であるという認識のもと)では、「1/2」が正しい、
というのが「定説」です。
ただ、『多宇宙と輪廻転生』での私の問題意識は、眠り姫問題を「設定によって正解が異なる」と片づけてしまうことではなく、「どの設定が現実的パラドクスに近いのか」を考えることでした。つまり、
眠り姫問題のような「人為的なパラドクス(設定変更可能な人工的パラドクス)」が有益なのは、終末論法のような「現実的なパラドクス(作らずとも自然に生じてしまったパラドクス)」を解くのに使えるからなのです。
終末論法は、自然に生まれたパラドクスであるために、設定はむやみに変えられません。よって、現実の終末論法が、いろいろな設定の眠り姫問題のうちどれに似ているのかを探ることで、終末論法の是非が判定できることになります。
(ただし、現実の終末論法も、地球外文明の総数に関する仮定など、さまざまな変数が含まれるので、眠り姫問題と同様の複数設定に開かれており、アナロジーを複雑にしています)
いずれにせよ、
終末論法が、眠り姫問題の諸設定のうち「1/2」が正解である設定と同型ならば、終末論法は正しいことになります(つまり、日付が判ったとたんに、早期終末仮説は事前確率1/2から、客観確率より高い事後確率2/3へと高まります)。
他方、終末論法が、眠り姫問題の諸設定のうち「1/3」が正解である設定と同型ならば、終末論法は間違っていることになります(つまり、日付が判ったときに、早期終末仮説は事前確率1/3から、客観確率と同じ事後確率1/2に戻るだけです)。
『多宇宙と輪廻転生』で私が主張したのは、終末論法の元になっている〈人類の歴史と私の誕生との関係〉は、眠り姫問題のうち「1/3」が正解である設定と同型だというものでした。
したがって、終末論法は間違った推論なのです。
『トリック』の多手品によるタネ明かしを認めない人が犯したのと同じ誤謬ですね。
『論理学入門』では、終末論法を人間原理の正しい応用として紹介しましたが、今回はそれを撤回し、終末論法は誤謬であると述べたことになります。
(ここもご参照ください→ http://green.ap.teacup.com/miurat/1401.html)
「眠り姫問題」の2つの章は、『多宇宙と輪廻転生』の中で最も難しい部分です。
さらにさらに、御意見をいただけると有難いです。
眠り姫問題 投稿者:キリーロフ 投稿日:2007年12月28日(金)14時20分14秒
φ先生、新著を読んでおります。
「眠り姫問題」に興味を持ちました。年明けにはルイスやエルガの論文を
調べてみようと決心しましたが、さしあたり思いついた点を皆さんに吟味して
いただきたいと思います。
私の結論は《眠り姫問題へのふたつの解答(1/2派と1/3派)は、どちらかが正しく
どちらかが間違っているというものではなく、それぞれが異なる確率計算の
視点に立っている》というものです。
「異なる確率計算の視点」という抽象的な言葉を以下で説明しますが、その際、
論点を明確化するために、眠り姫問題にいくつかの変更を加えたいと思います。
以下、
(1)「1/3派」を支持する眠り姫問題設定
(2)「1/3派」と「1/2派」についてニュートラルな眠り姫問題設定
(3)「1/2派」を支持する眠り姫問題設定
という区分で私の考えを説明しますが、こうした区分がまとを得たものかは
自身がありません。ご批判お願いします。
(1)「1/3派」を支持する眠り姫問題設定
眠り姫問題の実験手続きはφ先生の著書(235頁から236頁)と同じものとします。
他方で「問い」を次のものに変え、
問4 さあ、あなたは目覚めた。いま実現しているのは場合Aか場合Bか?
そして《正解するとその都度100万円もらえる》という条件を加えます。
このとき姫は「A」と答えるべきでしょうか、「B」と答えるべきでしょうか。
(コメントがあります。ここで問われていることは《確実に正解するためにはどう
答えるべきか》ではありません。こうした問へは解答はないと思われます。むしろ私が
この設定で問いたいことは《姫は、自分の得ている情報を総合的に吟味し、どのように
答えるのが合理的か》ということです。つまり、問題は《姫の利益になるアベレージの
高いであろう回答の仕方は何か》です。そして、「アベレージ」を考えるために、複数の
可能世界で複数の姫が同様の実験を受けていると想定します。
そして、すべての姫へ一様な「回答戦略」を与えて、すべての姫の得られる利得の総計が
最大となるような戦略を考えます。こうした戦略が問4に対する最も合理的な回答の
仕方となります)
問4に対しては「B」と答えるのが合理的と思われます。理由は以下です。
まず、ある世界で場合Aと場合Bのどちらが実現するかはコイン投げによって
決められるので、すべての世界のうちでA世界とB世界の数は同じです。
他方で《A世界で質問される問4》の数と《B世界で質問される問4》の数は
後者が前者の二倍です。よって「A」と答えるより「B」と答える方が
すべての姫の獲得金額は多くなります。
もちろん、この現実世界がA世界であり、現実世界の姫が「B」と答えることによって
一円も得られないことはありえますが、このことは回答の合理性には関係しません。
また、下手な混合戦略(確率pで「A」と答え確率qで「B」と答える戦略)よりも、
この場合は、つねに「B」と答える純戦略の方が合理的であると思われます。
なぜこの問題設定が「1/3派」を支持すると私が考えるのかは後に触れます。
(2)「1/3派」と「1/2派」についてニュートラルな眠り姫問題設定
眠り姫問題の実験手続きはφ先生の著書(235頁から236頁)と同じものとします。
他方で「問い」を次のものに変え(問4と同じ)、
問5 さあ、あなたは目覚めた。いま実現しているのは場合Aか場合Bか?
そして《正解すると、場合Aが実現している場合はその場で100万円がもらえ、
場合Bが実現している場合はその場で50万円がもらえる》という条件を加えます。
このとき姫は「A」と答えるべきでしょうか、「B」と答えるべきでしょうか。
この場合は複数の回答が考えられます。
(ア)確率1で「A」と答える。
(イ)確率1で「B」と答える。
(ウ)確率0.5で「A」と答え確率0.5で「B」と答える。
このケースでは混合戦略が合理的な選択に入っています。
(3)「1/2派」を支持する眠り姫問題設定
眠り姫問題の実験手続きはφ先生の著書(235頁から236頁)と同じものとします。
他方で「問い」を次のものに変え(問4と同じ)、
問6 さあ、あなたは目覚めた。いま実現しているのは場合Aか場合Bか?
そして《間違った回答をすると直ちに殺される》という条件を加えます。
このとき姫は「A」と答えるべきでしょうか、「B」と答えるべきでしょうか。
この場合は、複数の可能世界のすべての姫へ一様な「回答戦略」を与えて、
生き残る姫の数が最大となるような戦略を考える必要があります。
この場合は「A」と答えても「B」と答えてもよいですが、
混合戦略(先ほどの(ウ))は選ぶことができません。
というのは、(ウ)を採用した場合、一方でA世界については半数の姫が生き残ります。
しかしながらB世界の姫は生き残るために二度「B」と答えねばならず、その確率は
0.25です。よってB世界の姫は四分の一しか生き残りません。
以上が(1)と(2)と(3)の問題設定でした。
ここから私が導き出したい教訓は次です。
それは《具体的な問題設定状況に応じて確率計算(何を同様に確からしいものと数えるか)が異なってくる》ということです。
以下、このことを説明します。
まず、ある世界で場合Aと場合Bのどちらが実現するかはコイン投げによって
決められるので、A世界とB世界の分布は、例えば、次のようになります。
(AとBの出現頻度がそれぞれ0.5のランダム列のつもりです)
AAABBAAAAABABABBBBBABABBAAA...
この場合A世界での質問(a)とB世界での質問(b)の分布は次のようになります。
aaabbbbaaaaabbabbabbbbbbbbbbabbabbbbaaa...
B世界では二回質問がなされるのでB質問の頻度はA質問の二倍になります。
ここで一般的な「眠り姫問題」の「問2」の問う確率は、AB列の中のAの頻度を
問うているのでしょうか。それともab列の中のaの頻度を問うているのでしょうか。
私は1/2派が前者の問を答え、1/3派が後者の問を答えていると考えます。
これが「異なる確率計算の視点に立っている」という言葉の意味です。
そしてどちらの立場もケース・バイ・ケースでもっともらしい考え方である
と思われます。
例えば私のあげた(1)のケースでの合理的意思決定では1/3派の確率計算が
もっともらしく、(3)のケースでの合理的意思決定では1/2派の確率計算が
もっともらしいと思われるからです。
1/3派と1/2派のどちらが優位かは、個別的な実践上の問題と思われます。
長々と書いてしまいました。これで切りにします。
その4行のアフォリズムは真実っぽいですね。
モテる(と思っている)人は、結婚どころか、恋愛すらしづらいのではないでしょうか。
1人に決めてしまうと、少なくとも当面は、他の可能性が潰されてしまうから。
他の可能性が手に入りうると思っていると、1人に決めたとたん「機会コスト」が膨れあがってしまうのですね(コストは可能的パートナーの総計ですから、どんな理想のパートナー1人だってかないっこありませんよ)。
これは意外と、オカルト志向や「意識の超難問」の水源に関係していたりします(機会コストを絡めたアナロジーは『多宇宙と輪廻転生』第2章2節で触れました)。
クオリティの高い女や男にかぎって意外と恋人がいない、という逆説は、そんなところに原因があるとも言えます。
これも進化の道を外れた一夫一婦制の呪いか?
確認作業 投稿者:やえ 投稿日:2007年12月27日(木)10時41分17秒
相手を失うリアルシュミレーションの時に、すぐに次が現れたら(あるいは次の相手に乗り換えて破局したなら)戻らなかったでしょうねえ。
結婚したがる人に三種。
実家から出る理由が欲しい人。
社会制度の通念に従う楽さを好む人。
モテない人。
…なんて。
あの時死ななかった、ということで、その後の人間関係にありがたみを感じることはありますね。
客観的に考えると、自殺未遂以前以後で質量ともに変化はないように思えますが。
それでも、繰り返してしまう自殺未遂。
本当に死にたくて失敗した自殺未遂と、仮死状態を望む準自殺未遂があり、後者は中毒性が高いです。
生への執着ゆえに確認する快楽。
Re: 自力本願 投稿者:φ 投稿日:2007年12月27日(木)02時31分50秒
一度破局することで、「相手を失う」状況のリアル・シミュレーションができて、本当の自分の志向が確かめられるということがあるのでしょうな。
自力・他力ならぬ状況本願。
その意味では、自殺未遂の経験ある人は、人生と(全体論的にいうならば宇宙の自分以外のものすべてと)の間に一度ワカレを経験してやり直すわけですから、百回破局したパートナーシップにもまして強固な絆を宇宙との間に結べているとも言えそうな。
自力本願でも諸行無常 投稿者:やえ 投稿日:2007年12月26日(水)12時42分14秒
ビジネスにおいては便利な言葉なんですよね。
愚痴ばっか言ってないで自分が変われよ、っていう。
相手は鏡なんだからさ、とか。
その場合、自分が変われば自分を含む全世界は変わりますが、自分以外の部分が一切変わらなければ無駄骨ですね。
自力本願の仏教(うちも禅宗です)にとって都合のいい言葉かもしれません。
生きることへの執着がある間は。
しかし諸行無常ならば、全てを諦めるのもまた推奨されるような…。
先日さらした内輪のものは、大学の方針の中で授業内容がこれ、というおかしみでしょうか。
ほのぼのしていてスパイシー、クスっと笑える授業でした。
一度破局した相手と結婚した友人が、とても楽しそう(に見せかけている?)結婚生活を送っています…。
Re: 英語の墨跡 投稿者:φ 投稿日:2007年12月26日(水)04時54分35秒
全体論的宇宙観ですね。
一部が変われば全体が変わる。一部の性質は全体の性質でもあり、全体の性質は一部の性質でもある。全体が変われば一部も変わったことになる。
『ラッセルのパラドクス』の第2章では、とりあえずラッセルに同調して全体論的宇宙観を批判しておきましたが、全体論のロジックはともかくとして「ものの見方」そのものは面白いと思います。とくに、逆命題をとって、
Whenever any little part of the world changes, I change.
と読むと、私が変わるためには私自身があくせくする必要はなく、ただ黙ってすわっているだけで世界がたえず私を変えまくってくれることになります。
通俗的には他力本願的な人生観に通じてしまいますけれどね。
英語の墨跡 投稿者:やえ 投稿日:2007年12月25日(火)21時15分45秒
実家が寺なので掛け軸の在庫は(実家に)結構ありますが、さすがに英語のものはこれ一点でした。
合掌童子という作品で、作者の名前は読めません…。
合掌童子、という名前にしては、墨絵の童子は頬杖をついているのが気になりますが。
When I change
the whole
world changes.
と、書いてあります。改行もこのままです。
Re: 仏の顔 投稿者:φ 投稿日:2007年12月24日(月)03時01分49秒
「内輪の恥をさらす」という成句をもじったwash one's clean linen in public という表現がワイルド製アフォリズムに出てきましたが、先日は内輪の何をさらしたことになるだろう?
英語の墨跡……?
4月発足のわが文化総合芸術専修の半分は書道コースなので、その種のクロスオーバーな作品は大層なネタになります。
今日的芸術と伝統芸道とを両方含む専修なのでどう運転すべきか試行錯誤が悩ましいところです……
http://fantasy-as-antifantasy.net/gca/gca_top.htm
仏の顔 投稿者:やえ 投稿日:2007年12月23日(日)12時44分23秒
先日はどうも。
近年の情緒偏重からロジカルハイを思い出せて、大きな収穫でした。
今更過去の書き込みを掘り返しますが、仏様の顔について。
インドの仏像はやたら彫りが深くインド人の顔に見えました。
中国の仏画では中国人の顔に見えるし、日本の仏像は日本人の顔に見えます。
作る人が自国の顔に仕立てちゃってるんでしょうかね?
話はそれますが、上京に際し父から贈られた掛け軸、英語の墨跡という珍品です。
Re: 輪廻転生 投稿者:φ 投稿日:2007年11月28日(水)02時54分32秒
輪廻転生は、肉体でも精神でも、客観的に連続した何かが同定できて、これとこれが繋がっている、という基準がないところに、初めて認められるものだと思います。
例えば、今日のφは、一年前、昨日、明日、あさって、1年後、φと名乗った、名乗るであろう人物と同一です。それは、記憶や身体という連続的基準があるからですね。
脳分割やハードディスクへの転写も同様。
しかし、φをいま名乗っている個人が誕生する前、あるいは、死んだ後(記憶も身体も消滅した後)、というのは、同定基準がありません。ないということは、どのような同一性関係を認めても自由ということでしょう。
P⊃Q のPが成り立つ場合が空ならば、Qが何であれ全体は真、という論理規則に似ています。
自意識があるかぎり、「私」は、すでに生まれており、いつまでも生まれ続ける。
その根拠は、「多重人格と輪廻」(『ユリイカ』2000年4月号)に書いたのですが、そのエッセイ調論文を12月刊の『多宇宙と輪廻転生──人間原理のパラドクス』序章に配置しました。
(「人間原理のパラドクス」はサブタイトルにまわりました)
しかし我ながら難しい問題です。
輪廻転生 投稿者:ユンパミン 投稿日:2007年11月27日(火)23時31分2秒
「私」という意識は、今朝シャワーを浴びた私、10年前登山をした時頂上から地上を見渡した景色を覚えている私、といった
意識が記憶されることで発生するものだと思います。
つまり、ついさっきやったこと、10年前にやったことを記憶できないような「意識」には、
「私」という意識は生まれないのではないかと思います。
(記憶を伴わない「私」はない。つまり「私」には連続性が不可欠。)
そこで気になるのが、φ氏の考える輪廻転生において、転生するのは「私」なのでしょうか?それとも
ただ漠然と何かを感じ取ることができる「意識」なのでしょうか?
現実的に考えれば、「私」の記憶が遡れるのは幼少の頃から今日までである以上、転生するのは「意識」なのだと想像します。
では、時代ごとに集合離散してゆく「意識」というのは、一瞬何かを感じたりすることなのでしょうか?
死後、新しく生まれた知的生命体の一瞬の意識を感じ取る、ということなのでしょうか?
また、記憶に関してですが、
>(たとえば脳を左右半球に分けて別の身体に移植すれば、同じ記憶を持った二人に増えることができますし、
>ハードディスクに記憶を転写できれば、「私」はいくらでも増殖できます、
移植と転写は人為的な行為が必要です。
「記憶」の転生は、「私」の転生を意味すると思うのですが、「記憶」される意識された経験は、全て一回性のものなので、
人為的行為を伴えば可能なのかもしれませんが、自然にまかせた輪廻転生ではありえないのではないかと思います。
しかしクローン人間なんかだとどうなるのか、もしかして記憶は違えど「私」が増殖する可能性があるような気もします。
クローン人間に関しては、もう実験が行われていると思うのでそこのところ早く知りたいのですが・・・・。
ありがとうございます。 投稿者:由美子 投稿日:2007年11月20日(火)02時42分58秒
大変不躾な書き込みに、早速ご返事くださってありがとうございます。
柳瀬尚紀氏に、お手紙を出す術さえわからない私です。ご住所だけ
でも教えていただければ、誠に幸いです。本来ならば、このような場合、
本名を名乗ってお願いすべきところ、公開の掲示板でというのに、
さすがに躊躇いがあり、申しわけありません。
http://home.tiscali.nl/morinokuni/
Re: (無題) Re: 突然、大変恐縮です 投稿者:φ 投稿日:2007年11月20日(火)00時57分31秒
由美子 氏 の件は、柳瀬さんに尋ねてみないとわかりませんので、後ほど感触をお伝えしましょう。(ここかメールにて) とりあえず柳瀬さんには伝えます。ただ、いずれにしても手紙は出されてみるとよいと思いますよ。
ユンパミン氏の設問は、かなり重要ですね。
以前書評したこの本でも、
http://russell-j.com/r-taiken.htm
時代による人口変動、とくに急激な人口増加が、輪廻転生への強力な反論として挙げられていました。
ただ、これは、反論にはならないと思うのです。
私たちの身体にただ一つの「意識」が棲んでいるわけではなく、いくらでも分裂しうるので(たとえば脳を左右半球に分けて別の身体に移植すれば、同じ記憶を持った二人に増えることができますし、ハードディスクに記憶を転写できれば、「私」はいくらでも増殖できます)、数に関しては無数の意識が一つの身体(脳)に同居していると考えるべきでしょう。
それが、時代ごとに、有限の身体(脳)の中へと集合離散してゆくのが輪廻の本性ではないでしょうか。(あくまで比喩的なモデルですが。心は「物質」ではないので……
突然、大変恐縮です 投稿者:由美子 投稿日:2007年11月19日(月)19時48分29秒
私はオランダに住む、オランダ語翻訳を手がけている者です。
三浦様のページへは、キーワード「柳瀬尚紀」で辿りつきました。
つい先刻、三浦様と柳瀬氏とのハガキ通信を発見して、感激しているところです。
実は、私も柳瀬氏と同じく半猫人です(愛猫は2匹です)。そして、
只今、日本でまだ、一度も紹介されたことのない、オランダの
猫文学の翻訳を準備しています(英語版もありません)。
そして、これをなんとか日本で出版することはできないだろうかと、
うっすらしたツテを辿り、企画ファイルを送り始めたところです…が、
私の日々の生活の基盤はオランダであり、ちょっと帰国して出版社を
たずね歩くというわけにもいかず、こうしてインターネットを頼りに
お願いしています。
オランダ語は、マイナー言語です。オランダ文学、特に大人の読み物は、
今まで日本ではほとんど紹介されていません。オランダ語から日本語へ直に
翻訳する翻訳者も数えるほどしかいません。出版社にしても、オランダ
ではいかに有名な作家のものでも、日本での知名度ゼロ、読者の期待値も
読めないものに、見向きもしないかもしれない、そんな厳しい状況は
私も重々承知の上ですが、私はオランダ文芸翻訳をどうしてもやって
いきたいと思っています。
こんなところで、本当に申しわけありません。でも、もしも、三浦様が
「猫」翻訳の第一人者でもいらっしゃる柳瀬尚紀氏に、私がお手紙
を差し上げて、なんらかのアドバイスをいただける可能性をご存知でしたら、
ご教示いただけないでしょうか?
場違いな書き込み、後で削除していただいても構いません。
藁にもすがる気持ちで書き込んでしまいました。
でも、私のHPをご覧いただければおわかりになると思いますが、
決して怪しい者ではありません。
長々と失礼いたしました。
http://home.tiscali.nl/morinokuni/
(無題) 投稿者:ユンパミン 投稿日:2007年11月19日(月)01時39分51秒
輪廻転生について質問があります。
死んだ「私」の数と、今生きている「私」の数の誤差についてはどのように考えられているのでしょうか?
活動メモ新設" 投稿者:φ 投稿日:2007年11月15日(木)02時03分17秒
先ほどのアドレスだと
「ログインが必要なサイトです」と弾かれるのではないかと思います。
そこで従来のブログの中の「活動メモ」カテゴリとしました。
http://green.ap.teacup.com/applet/miurat/msgcate10/archive
活動メモ新設 投稿者:φ 投稿日:2007年11月15日(木)00時28分39秒
「活動メモ」の更新を長らくサボっており、自分でもわが仕事の全貌が見えにくくなってしまいました。
新たに、ブログで「活動メモ」を随時メモっていくことにします。
ここに設けました。まずは新刊情報です↓
http://blog.zaq.ne.jp/miurattttt/category/1/
論文、エッセイ、その他の活動を適宜広報する予定です。
(無題) 投稿者:新 投稿日:2007年11月12日(月)14時13分14秒
いじめ撃退法
Re: Re: Re: >お釈迦様 投稿者:φ 投稿日:2007年11月 1日(木)02時33分9秒
なんとなく、お釈迦様にはモンゴロイドであってほしいですねえ。
ずっと「東洋」の宗教というイメージを持っていたし、ダライラマっぽい外見をずっと想像してきましたし。
コーカソイド発の宗教はいま世界各地で紛争の主原因となり続けていますが、モンゴロイド発の宗教は、それとはまったく違う知恵を発信し続けていて、仏教はその代表だという感じがしていましたし。
人種なんてさしあたりどうでもいいようなもんですが、生物学的な刻印が思想にも残されているというのはありうる話です。
Re: Re: >お釈迦様 投稿者:クリスティアン 投稿日:2007年10月31日(水)02時38分53秒
世界各地のお寺に祀られている仏舎利をDNA鑑定すれば、判明するでしょう…
と言いたいところですが、仏舎利を全部合わせると象数頭分にもなるそうなので、その中から本物を分別するのはほとんど不可能でしょうね(笑)
宗教的には、信じているかぎり全てが本物の仏舎利ということになるらしいですが。
ガンダーラの仏像は顔の彫りが深くて白人的ですが、BC4世紀にアレクサンドロス大王の遠征に従ってインド北西部に入植したギリシャ系住民の子孫が、AD1世紀頃に製作した像なので、釈迦の風貌を正確に伝えているかどうかは定かではありません。
Re: >お釈迦様 投稿者:φ 投稿日:2007年10月31日(水)01時39分1秒
仏教のイメージがだいぶ左右されるので、お釈迦様の外見についてはできるかぎり詳しく知りたいところですが――、古代エジプト人やキリストの肌の色をあれこれ詮索する系の人々同様あまりいい趣味ではないかもしれませんナ。しかしイメージは宗教の命なので。
>お釈迦様 投稿者:クリスティアン 投稿日:2007年10月30日(火)23時51分8秒
ゴータマ・シッダルタはクシャトリア(王族)階級の出身であり、インドに侵入してドラヴィダ系の先住民族を支配下に置いたアーリア系(コーカソイド)民族だという説が有力であると思いますが。
Re: >観測選択効果 終 投稿者:φ 投稿日:2007年10月28日(日)00時56分13秒
「人間関係フェチ」を輪廻転生的に解釈すると、「現在の自己」に執着がないことの表われということかもしれません。
だから遺伝子を残すことにも執着がない。
自分が誰であってもいいじゃないかという達観が蔓延している。
実際、社会構成員の利他性は
、
ネグロイド<コーカソイド<モンゴロイド
だそうです。
ついでに、不安性の度合も
ネグロイド<コーカソイド<モンゴロイド
だとされています。
お釈迦様はたぶんモンゴロイドのメンバーだと思いますが、
輪廻転生的な没我の思想は、反・遺伝子的フェチと結びつきやすいのかもしれません。
(強引)
>観測選択効果 終 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月27日(土)12時28分23秒
>同様に日本では、自殺がタブーだからこそ、
例に挙がった、芸術家や一高生の模倣自殺、神風や腹切りなどは別の解釈も可能です。
日本人は死よりも大事なことがある、と無意識に信じているのではないかと感じます。
神風や腹切りの場合は、国家とか家とか責任、芸術家や一高生の模倣自殺の場合は、一種の自己掲示。
共通項は人間でしょうか。
自分の死よりも周りの人間のことやその影響、ようは人間関係を大事にしている。
この人間教で、欧米から見た変な日本人を結構説明できます。
>その理由は、日本人はフェチが多いからではないでしょうか。
これも人間教で説明しますと、日本人は人間関係を絶対規範としているため人間関係がわずらわしくなりやすい。
ところが性欲はあるので、わずらわしい人間以外を対象としてしまう、ということになります。
Re: >観測選択効果 7 投稿者:φ 投稿日:2007年10月25日(木)19時48分25秒
容認度と頻度が比例するとはかぎりません。
禁酒法時代のアメリカでは、それ以前よりもアルコール消費量が増えてしまいました。
同様に日本では、自殺がタブーだからこそ、むやみにロマンチックな価値付けがされ、昔から芸術家や一高生の模倣自殺がそのつど流行したりしてきたのでしょう。
非常時に神風のような自殺攻撃が奨励されたり、武士が腹切りを特権としたりしたのもタブーの裏返しの美意識だと思われます。
中絶は、自殺と違って、ロマン化――美意識を生むメカニズム――が考えにくいので、頻度と容認度は比例するかもしれません。
で、妊娠中絶が日本に多くないというのは知りませんでしたが、その理由は、日本人はフェチが多いからではないでしょうか。
売春以外のイメクラやブルセラやSMクラブやファッションヘルスやフェチ産業が日本ほど発達している国はないと聞いたことがありますし、hentai は、国際的に通用する未だ数少ない日本語単語の一つだそうです。
性倒錯の比率は、 ネグロイド<コーカソイド<モンゴロイド
であることもわかっています。
挿入を伴う通常セックスの回数との比率で言えば、日本では中絶はかなり多くなるのではないでしょうかね?
>観測選択効果 7 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月25日(木)12時44分11秒
>日本では妊娠中絶については、諸外国に比べ高い容認度を誇っていますが、自殺に対してはまだまだの気がします。
事実として、日本の自殺率は先進国で1番です。
他の国を混ぜても、約100か国中10番です。
日本の自殺率は高いといわざるをえません。
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html
日本の妊娠中絶は、近年出生比が30%を下回っているそうで、特に多いとはいえないようです。
ロシアなど200%を超えています。
http://deztec.jp/design/05/08/19_fertility.html
データをながめているかぎり、何らかの思想による差というよりも、国内の政治経済の混乱が原因のように感じます。
Re: >観測選択効果 6 投稿者:φ 投稿日:2007年10月25日(木)02時47分6秒
ともあれ、自殺は実際の倫理的価値とは不釣り合いなほど、タブー視されているのではないかと。
日本では妊娠中絶については、諸外国に比べ高い容認度を誇っていますが、自殺に対してはまだまだの気がします。
輪廻転生観は、主に自殺と中絶に関して、容認の論理的根拠を与えるものでした。
読んでいただいたとおり他にも、過去断罪、過去容認、環境保護、節約政策、などを正当化する根拠として使えるのが、輪廻転生観の自慢です。
>観測選択効果 6 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月24日(水)11時57分41秒
>全知的生命の平均値が幸福度6だとして、幸福度2の人が幸福度4に上がるよりも、その人が消えてくれたほうが、平均値が上がります。
幸福度は絶対評価でも平均評価でもなく、偏差評価が適当だと思います。
幸福の範囲にあれば幸福だと判断するのです。
幸福度3や4の「なんとなく自殺願望」の人たちも幸福の範囲の底辺として許容できます。
幸福感といってもいろいろあるわけですから、自殺実行してしまうレベルを不幸、それ以外を幸福と定義するのに不都合はないはずです。
幸福度2以下を「不幸な人」とします。
自殺容認対象者です。
この人たちに、医術や心理療法やクスリを処方して、幸福度3以上にしさえすれば社会の幸福度はアップしたことになります。
この議論は善悪判断ではない、ことを私も強調しておきます。
Re: >観測選択効果 5 投稿者:φ 投稿日:2007年10月24日(水)02時33分33秒
>「不幸な人」を自殺容認するよりも、
>「幸福な人」に変える方が社会の幸福度がアップしますね。
必ずしもそうではありません。
「私」が知的生物からランダムサンプリングされるSSAでは、幸福の絶対数よりも、平均値のほうが重要です。
人間原理の輪廻転生も「最大多数の最大幸福」の原則に従いますが、「最大多数」とは、絶対値のことではなく、比率のことです。なるべく多くの割合の人が、と。
全知的生命の平均値が幸福度6だとして、幸福度2の人が幸福度4に上がるよりも、その人が消えてくれたほうが、平均値が上がります。
(将来の人々がそういう自殺方針に従ってくれれば、「私」の転生先の人間の幸福度の期待値は上がります)
だから、
>「不幸な人」を自殺容認するよりも、「幸福な人」に変える場合、平均値以上に幸福にできるのでないかぎり、その投資を、もともと幸福な人や平均的な人に与えたほうが能率的です。
これは、無情な切り捨て政策ではありません。
「不幸な人を殺せ」というのではないからです。
あくまで、どうしようもなく不幸な人(「この病状では・この痛みでは・この環境ではどうしたってダメだ」と絶望している人)の自発的な自殺を温かく見守ろう、というだけのことだからです。
なお、連載第12回では、文学的・人生論的な憂鬱のようなものは、自殺が勧められる不幸のうちには入らない、ということを強調したつもりです。
「人生不可解」と悩むことができるほど覚醒した人生は、むしろ幸福な人生だと知るべきなのです。
そういう人も自殺したければ自由ですが、せっかく濃く悩むことができているのに(普通の人より自覚的に生きることができているのに)、それを断ち切るのはあまり賢くはありませんね。
自殺によって逃れることが正解である人生とは、どうしようもない肉体的苦痛や逆境に苛まれている人生のことであって、「人生不可解」や「ぼんやりした不安」のような人生ではありません。
>観測選択効果 5 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月23日(火)18時33分59秒
>いずれにしても、現状においては、自殺は必要以上にタブー視されているのではないでしょうか。少なくとも、非婚・セックスレス以上にタブー視されるべきではありません。
自殺の悪は本能なのですよ。
自殺したがる赤ちゃんがいないようにです。
ならば、こういう理屈はどうでしょうか?
社会の幸福度をアップするためには、幸福だと思う人が増えた方がいいですね。
そうするためには、「不幸な人」を自殺容認するよりも、「幸福な人」に変える方が社会の幸福度がアップしますね。
であれば、「不幸な人」に対して医学なり心理学なりを施して、「幸福な人」にしてしまえばいい。
具体的には、不幸の原因を排除し、幸福感を養成する方法が取られますが、どうしてもダメならクスリを使います。
Re: >観測選択効果 4 投稿者:φ 投稿日:2007年10月23日(火)01時22分20秒
人の数を心配するのであれば、自殺よりも非婚のほうがはるかに懸念されるはずです。
自殺者が増えても、その何割かは子どもをもうけてからのことでしょうから、そのぶんは人数に影響はありませんし、親に自殺された子どもの中には適度な試練を経験して医学や科学に貢献する者も出てくるでしょう。
非婚・セックスレスの場合は、そのすべてが少子化の原因となります。自殺と違って、非婚・セックスレスはその人数のぶんだけ、人は確実に減っていきます。
よって、人口減への関わりは、非婚・セックスレスのほうが効率がよい。
人口増または人口維持のためには、自殺をタブーとするよりも、結婚を義務とするほうが重要でしょう。
ところが、実際はそうすべきだとは思われていません。
やはり、個人の自由や幸福が優先されるからです。
非婚やセックスレスでいるほうが幸福だと思う人は、無理して子どもを作る必要はありません。
同様に、自殺したほうがよいと感じる人は、自殺するべきでしょう。
自殺を思いとどまらせる理由は、結婚を押しつける理由よりも合理的だとは思えません。結婚を強制するのは、たとえ親であっても、人権侵害と見なされるのです。
いずれにしても、現状においては、自殺は必要以上にタブー視されているのではないでしょうか。少なくとも、非婚・セックスレス以上にタブー視されるべきではありません。
>観測選択効果 4 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月23日(火)00時04分39秒
>自殺した人がもし自殺していなかったら、という想定には意味がありません。
自殺の容認は、自殺を容認しない場合よりも数が減りますね。
それは自然淘汰に不利でしょう、ということです。
自然淘汰はランダムに起こるのだから、サンプル数を多くしてやるわけです。
>優秀な(文化を指導する)遺伝子はどんどん絶える傾向にありますが、そちらのほうがハッキリと憂える理由のある現象です。
これは心配には及ばないと思いますよ。
優秀な両親でも、その遺伝子を混ぜると違うものができますからね。
タカがトンビを産んだり、トンビがタカを産んだりです。
>科学技術の発展に、不幸など必要ないでしょう。
>積極的な好奇心こそが最も崇高な進歩の原動力でした。
たとえば、医学は不幸な人がいないと成り立ちませんよね。
Re: >観測選択効果 3 投稿者:φ 投稿日:2007年10月22日(月)22時12分18秒
自然淘汰はランダムに起こり、「……であるべし」というシステムを蔵していません。『ゼロからの論証』に繰り返し述べたように、自然選択は百パーセント結果論です。
自殺した人がもし自殺していなかったら、という想定には意味がありません。
それよりむしろ、高学歴の(統計的にIQの高い)人ほど、男女ともに結婚しない傾向にあり、ましてや子どもを作らない傾向が強く、その限りにおいて、優秀な(文化を指導する)遺伝子はどんどん絶える傾向にありますが、そちらのほうがハッキリと憂える理由のある現象です。
だからといって、「結婚しろ」「子どもを産め」と強制することはできません。
同様に、「自殺するな」と強制するのは不幸な人にとって酷な話です。
>「不幸な人」がいなければ、「不幸な人」に対する科学技術が発展しません。
科学技術の発展に、不幸など必要ないでしょう。
積極的な好奇心こそが最も崇高な進歩の原動力でした。
>観測選択効果 3 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月22日(月)18時17分34秒
>自殺を肯定することは、少数のごく不幸な人の救いにこそなれ、
「不幸な人」のような遺伝子を持った人は必ず生まれてきます。
生命は自然淘汰に生き残るために両親の遺伝子を混ぜて、なるべく違うものをたくさん生みだそうとするからです。
そして、「不幸な人」が自然淘汰されて、我々が生き残るという保証などありません。
「不幸な人」が自然淘汰で生き残る遺伝子を持った人かもしれないのです。
(温暖化や二酸化炭素に適性があるとか、隕石の毒ガスに適性があるなど)
これは自然主義の誤謬ではないはずです。
人類の滅亡は「社会の幸福度」ゼロでしょうから、自殺を容認はよろしくない、といえませんか。
>宗教さえなくなれば、貧困や戦乱がなくなって、現代科学技術をもってすればほとんどの地球人が幸福になれるはずなのです。
私もまったく同感です。
しかし、現代科学技術が自殺を容認することはないと思います。
「不幸な人」がいなければ、「不幸な人」に対する科学技術が発展しません。
Re: >観測選択効果 2 投稿者:φ 投稿日:2007年10月22日(月)01時34分34秒
大多数の人が自殺するなどということは起こりえないので、自殺を肯定することは、少数のごく不幸な人の救いにこそなれ、文明の破壊には決して至らないでしょう。
なお、
「キリスト教社会では不幸な人の自殺が社会の幸福度を下げる」という前提が疑わしいし、
かりに「キリスト教社会では輪廻転生+観測選択効果(人間原理)の自殺容認は間違いだ」ということであっても、「輪廻転生+観測選択効果(人間原理)の自殺容認」が端的に間違いということにはなりません。
キリスト教やイスラム教などの一神教は、現代のすべての戦争の原因になっています。
(外見上は民族紛争であるものも、バルカンやアイルランドなど、よく見てみるとすべてが宗教紛争であることが判明します)
宗教さえなくなれば、貧困や戦乱がなくなって、現代科学技術をもってすればほとんどの地球人が幸福になれるはずなのです。
旧開発途上国のうち、アラブ圏がいつまでも貧困であり、中国がかなりうまくいっているのは、中国には宗教がないのに対して、宗教のせいでアラブ人が真面目に働こうとしないからでしょう。
キリスト教は、先進諸国で時代的な役割をうまく果たしたので弊害が目立ちませんが、これからもキリスト教原理主義的な立場を保ちつづける国は衰退するはずです。
>観測選択効果 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月22日(月)00時00分55秒
>自然淘汰で有利なものが善いならば、人種差別やよそ者嫌い、男女差別、戦争などはみな善いことになってしまうでしょう。
おっしゃるとおりなのですが、唯一例外があると思います。
意識の存在です。
意識を生む自然だけは正しいと肯定せざるをえないはずです。
生きて産むことを誤謬としていては、意識が産まれないことになります。
生きて産むことにとって自殺は悪だと思います。
>第一に、
>聖人に自己満足を遂げるチャンスを与えるために、多くの不幸が温存されるべきだ、
これもおっしゃるとおりなのですが、キリスト教社会が実際に存在し、そこでは不幸な人の自殺が社会の幸福度を下げるのであれば、キリスト教社会では輪廻転生+観測選択効果(人間原理)の自殺容認は間違いだということになってしまいます。
Re: >観測選択効果 投稿者:φ 投稿日:2007年10月21日(日)12時42分54秒
>これは自然淘汰による要請だと思われます。
>自殺はこの要請に反しています。
自然淘汰に代表される「自然の傾向」が正しいことなのだ、という考えは、
「自然主義の誤謬」の一種です。
(ここで「自然」が重なっているのは偶然で、「自然主義の誤謬」とは、倫理的または美的規範と、何らかの記述的事実とを同一視する誤謬を言います。ここではその記述的事実にあたるのが、「自然淘汰上の有利」となります)
自然淘汰で有利なものが善いならば、人種差別やよそ者嫌い、男女差別、戦争などはみな善いことになってしまうでしょう。
>不幸な人が自殺してしまえば、
>イエスの愛を実践できる人が減ってしまうということになります。
第一に、
聖人に自己満足を遂げるチャンスを与えるために、多くの不幸が温存されるべきだ、という考えは、間違っているでしょう。聖人が不要である社会こそ、理想の社会であるはずです。
第二に、
輪廻転生+観測選択効果(人間原理)は自殺を容認するのであって、不幸な者はみな自殺するべきだ、というのではありません。ちょうど、売春を容認することが、誰もが売春せよと勧めることでないのと同様です。
自殺は悪だとか、売春は悪だとかいう無根拠の差別意識は、輪廻転生倫理によって否定されます。
自殺するのがふさわしい人は自殺するがいい、売春が天職である人は売春するがいい、というだけのことです。
どんな立派な行為も職業も、全員がそれをやろうとしたら社会は成り立ちませんね。
輪廻転生観の自殺の勧めは、自殺するにふさわしいほど不幸な人の自殺のみを肯定するという意味です。
>観測選択効果 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月21日(日)10時06分54秒
>しかし、われら北モンゴロイドが進化したシベリアのような環境では、食べ物が乏しいかわりに環境が安定していて長期計画が立てられるので、少なく産んで大切に育てるのが子孫繁栄の秘訣でした。
多いか少ないかはデータによりますが、生きて産むことを否定している民族はいないはずです。
民族というよりもあらゆる生物の性質です。
これは自然淘汰による要請だと思われます。
自殺はこの要請に反しています。
>その意味で、輪廻転生+観測選択効果(人間原理)は、きわめて倫理的な世界観なのです。
不幸な人の自殺によってその社会の幸福度が上がる、といえるでしょうか?
例えば、キリスト教社会では、不幸な人がいるからイエスの愛が実践できる、という考え方があります。
この社会では、不幸な人が自殺してしまえば、イエスの愛を実践できる人が減ってしまうということになります。
つまり、自殺者によって社会の幸福度が下がってしまうことになります。
とすれば、輪廻転生+観測選択効果(人間原理)は自殺を容認するといえないのではないでしょうか。
Re: re:観測選択効果 投稿者:φ 投稿日:2007年10月21日(日)00時30分59秒
ははぁ……、印度哲学に近縁で、たぶん近頃御無沙汰な「変態友人」といえば、だいたい候補が絞られてきました。
輪廻転生については、
青土社の近刊にてかなり論じていますが、そこに収録しない論考としては、↓で輪廻転生を支持しました。
ゾンビ、霊体、輪廻転生を比較した議論の運びにかぎっては、青土社近刊より↓のほうがやや詳しくやっております。
http://russell-j.com1/kakuritu.pdf
re:観測選択効果 投稿者:変態友人 投稿日:2007年10月20日(土)23時04分47秒
「自意識を持つ知的生命」が何故、痴者でない人間に決定できるのか分かりません。
> 候補を生物に限定するとしても、もし「私」が何にでも生まれえたなら、
> 個体数で抜群のバクテリアにいま生まれていないのが不思議でしょう。
インド的輪廻では、正に現在五体満足で自由な人間に生まれていることが希有とされ、
現在の幸運を逃したら、いつ獲得できるか分からないとされます。
これ以上、質問をするのは φさんに失礼なので、以前頂いた『論理学入門』を読み直してから、また伺うことにいたします。
φさんの輪廻転生に関しては、何を読んだらよいか教えていただけると助かります。
丁寧にお答えくださりありがとうございました。
観測選択効果 投稿者:φ 投稿日:2007年10月20日(土)12時40分40秒
>虫や動物に生まれる可能性は考慮されないのでしょうか?
虫や動物が「私」である確率は、ゼロです。
私が岩石や空気として生まれる確率と同様です。
候補を生物に限定するとしても、もし「私」が何にでも生まれえたなら、個体数で抜群のバクテリアにいま生まれていないのが不思議でしょう。
観測選択効果により、「私」は必ず自意識を持つ知的生命です。
人間の中でも、重度知的障害者や、幼くして死ぬ者など、自意識を持たぬ者として転生する確率はゼロです。
未来社会の知的生命のうち、A%が幸福であれば、その時代に私が幸福に生まれる確率はA%ですね。社会全体の幸福向上が、利己的に見て望ましいことになります。
その意味で、輪廻転生+観測選択効果(人間原理)は、きわめて倫理的な世界観なのです。
(無題) 投稿者:変態友人 投稿日:2007年10月20日(土)00時44分4秒
なるほど、輪廻と言ってもインド的輪廻とは全く別なものだと分かってきました。
「単純に地球人を母集団にとったとき」ということは、虫や動物に生まれる可能性は考慮されないのでしょうか?
Re: re: 幸福の確率 投稿者:φ 投稿日:2007年10月20日(土)00時09分0秒
単純な確率
的原理ですが……。
「私」がxとして生まれる可能性のあるというようなxの候補の母集団の中で、幸福者の比率が高ければ高いほど、「私」は、その母集団で幸福を享受する確率が高くなります。
地球外生命は考えないとして、単純に地球人を母集団にとったとき、幸福な社会が実現されればされるほど、未来に「私」は幸福な環境に生まれやすくなります。
全員が不幸になった場合、当然のこととして、「私」が幸福に生まれる可能性はありません。
自殺幇助や嘱託殺人が容認されると、地滑り的に不当な殺人がなされうるので、社会が不安定になり、幸福者の比率が下がってしまうでしょう。
すると、来生での幸福を求めてせっかく自殺しても、幸福な環境に生まれるどころか、今生よりも不幸になってしまうかもしれません。
re: 幸福の確率 投稿者:変態友人 投稿日:2007年10月19日(金)23時40分58秒
> 自殺によって親族や関係者などに不幸な者を大量に生み出し、社会に悪影響を及ぼした場合、
> その悪影響は、転生したとき当人に返ってきます。
> 極端な話、 当人の自殺によって人類全体が不幸に陥った場合、
> 当人が転生先で幸福な意識として生まれる確率はゼロになってしまいます。
上はどういった因果関係、あるいは作用によってそうなるのでしょうか?
それとも論理的に要請される形而上学的理念なのでしょうか?
幸福の確率 投稿者:φ 投稿日:2007年10月19日(金)23時00分6秒
輪廻転生観にとって重要なことは、この世から不幸な者が極力少なくなることです。
理想は、全員が幸福になることです。
そうすれば、「私」は、転生先で、幸福な人生を得る確率が1となります。
自殺教唆や自殺幇助、嘱託殺人は、他人のことに介入するわけですから、間違いが起こる可能性が高いでしょう。自殺すべきかどうか、いつ自殺するのが適当かは、最後の瞬間まで、当人が決めるのでないとマズイでしょう。自殺は、まがりなりにも周囲の人々に影響を及ぼすので、自殺者以外の人の迷惑も考えねばなりません。それについては、当人だけが正しく是非を判断できます。
自殺によって親族や関係者などに不幸な者を大量に生み出し、社会に悪影響を及ぼした場合、その悪影響は、転生したとき当人に返ってきます。極端な話、当人の自殺によって人類全体が不幸に陥った場合、当人が転生先で幸福な意識として生まれる確率はゼロになってしまいます。
転生したときになるべく幸福な人生に生まれる確率を高めるよう、当面の自殺の影響を考慮すべきなのです。
(無題) 投稿者:変態友人 投稿日:2007年10月19日(金)00時10分15秒
人間原理的な輪廻転生観は、ゲームみたいですね。
それだと、リセットして来世の最スタートなんでしょうか?
来世の生を形成する原因となるものは、ないのでしょうか?
> 人間原理的な輪廻転生観でも、殺人や自殺教唆が悪であることはもちろんです。
> 自殺教唆や自殺幇助、嘱託殺人は、歯止めが利かなくなるので、一切禁止するのが筋でしょう。
上は、どのような根拠で悪なのでしょうか?
Re: 輪廻と自殺 投稿者:φ 投稿日:2007年10月18日(木)23時13分40秒
「仏教」「自殺」「否定」で検索してみたところ、上の方にこういうのがありました。↓
http://d.hatena.ne.jp/macha33/20070911
http://d.hatena.ne.jp/gginc/20070914/1189734581
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html
少なくとも、仏教学者や仏教界が積極的に自殺を否定はしていない、と公言できるくらいの現状ではあるようですね。
いずれにしても、仏教の専門的なことについては、私は全く固執するつもりはありません。
人間原理の輪廻転生は、おそらく、仏教の輪廻転生とは全く別のものです。
人間原理的な輪廻転生観は、
>自殺の結果、より悪い状態になるので、
という因果応報的なロジックは一切含んでいないため、本当に辛いだけの人生であれば、そこからサッサと脱したほうが得、となります。
自分の意思による自殺のみが肯定されます(場合によっては推奨すらされます)。
が、人間原理的な輪廻転生観でも、殺人や自殺教唆が悪であることはもちろんです。
自殺教唆や自殺幇助、嘱託殺人は、歯止めが利かなくなるので、一切禁止するのが筋でしょう。
したがって、自殺する能力のない末期患者などの願いを聞いて第三者が殺してやる、という慈悲殺も認められるべきではありません。自殺の権利はあっても、他人の自殺の権利を実行させる権利や、協力する義務などは誰にもないからです。(『論理パラドクス』問095)
輪廻と自殺 投稿者:変態友人 投稿日:2007年10月18日(木)21時21分45秒
「輪廻転生観では自殺は否定できない」は、インド的輪廻観からすれば全く逆です。
輪廻するから、自殺しても逃れられないというのが、インド的輪廻観です。
そして輪廻の中での来世の状態は、今までの身体・言語・意識的行為の結果ですから、
自殺の結果、より悪い状態になるので、輪廻を前提とする世界観では自殺は否定されます。
ですから当然、仏教でも自殺は否定されます。
それは例えば、律の殺生戒についての因縁に詳細に書かれています。
例外は、解脱した状態での自殺です。
この場合は、もう輪廻しないので自殺しても問題ないのです。
輪廻と自殺 そのほか 投稿者:φ 投稿日:2007年10月17日(水)23時25分52秒
>こういう子孫繁栄は、自殺を否定することになりますが、
全くそんなことはありません。環境によります。
アフリカのような環境では、食べ物が基本的に豊富なかわりに環境が不安定で予測ができないため、とにかく多く産んでどんどん食わせてどんどん増やすのが子孫繁栄の秘訣であることは確かです。アフリカ人にとって、若者の自殺は嘆かわしいことでしょう。
しかし、われら北モンゴロイドが進化したシベリアのような環境では、食べ物が乏しいかわりに環境が安定していて長期計画が立てられるので、少なく産んで大切に育てるのが子孫繁栄の秘訣でした。したがって、子孫の量より質が重要であり、育てても甲斐のない素質しか持たない子どもは間引いて、新たに優秀な子を設けたほうが得でした。
そして、生きる意欲のない隣人が自殺してくれるのは我が家の食いぶちが増えて歓迎でした。
我が家の子どもが自殺しても、しっかり生き延びて優秀な孫を残せる兄弟が残っていればOKです。
r戦略とK戦略の違いですね。
仏教界は自殺防止キャンペーンで協力を求められても消極的だそうですが、もともと仏教に自殺否定の教えがないからでしょう。輪廻転生は、論理的に、自殺を容認する、さらには正しい自殺であれば奨励するのではないかと思われます。
さて、手数決のパラドクスですが、
>多数決の欠陥というより 党内意見が異なるのだから当たり前
もちろんそうですが、選択肢A、B、Cのうち、AとBは表面上違っているように見えるが実はよく似ていて、Cだけ表面どおり大変異なるような場合、AとBで多数派の票が微妙に割れてしまって、Cが選ばれてしまう、ということはよくあります。
Cを選んだ少数派が団結していたからというよりも、選択肢のあり方が適切でなかった、ということでしょう。選択肢の意味づけられ方はいちいち予測できませんから、やはり、多数決そのものに弱点がある、と考えるべきではないでしょうか。
回答ありがとうございます 投稿者:kotobazukuri 投稿日:2007年10月17日(水)12時32分16秒
> 結果に合わせて辻褄を合わせることはいつもできますが、世の中、いつもそれで納得がゆくわけではありませんね。党とか性別とか国籍とか、始めに自然に分けておいた「派」による多数派の個々人がみな不満足に終わり、少数派が得をした。多数決だったのに……、というパラドクスでした。
回答が 「多数決という手段には欠陥がある」 ですね
なんか 当該投票における意見が相違する集団の個々人が満足できない結果 というのが 当たり前じゃないか
と思え、多数決の欠陥と思えないのですが
例えば参議院で民主党が多数派だとし しかし
ある投票で党内意見一致せず 民主党の1/3が自民党案に投票、(自民党は一枚岩で全員一致)
この場合、自民党案が勝ち、その時 多数党である民主党の2/3 という多数派議員は満足できないですが
多数決の欠陥というより 党内意見が異なるのだから当たり前 と自分には思えるのですが
それで このケースでも、例題の回答で「3/4で可決ならパラドックスが生じない」
とされていることと一致するし
問題の構造は同じな気がするのですが
多数決の欠陥と思えない というのがあくまで自分の感性にすぎないのでしょうか
それとも 自分に勘違いがあるのでしょうか
二重効果のジレンマ2については ご教示のところをよく読んで また考えて見ます
自然淘汰と輪廻転生 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月17日(水)09時26分28秒
10月号の輪廻転生について、やはり書いておきます。
生命には「生きる、産む」という性質がありますが、この性質と輪廻転生は相容れないところがあると思うのです。
この「生きよ、産め」という性質は子孫繁栄という要請でしょうか。
子孫繁栄は、自然淘汰に対抗するために生命が編み出した有効な戦略です。
両親の遺伝子を掛け合わせて新たな遺伝子を持つ生命をたくさん生みだすことによって、
自然淘汰に対して少しでも生き残れるものを作ろうとする。
多品種多量生産といえる戦略、まあ、下手な鉄砲も数討ちゃ当たる、戦略です。
こういう子孫繁栄は、自殺を否定することになりますが、輪廻転生観では自殺は否定できない。
自然淘汰は輪廻転生観にも影響を及ぼす、よりメタな原理でしょうから、輪廻転生観が自殺を容認しないような修正が必要なのではないかと思うのです。
二つの問題 投稿者:φ 投稿日:2007年10月17日(水)02時53分57秒
アンスコムのパラドクス
に関しては、もちろん、子どもを一人ずつ分けて「少数派」と考えれば矛盾はなくなります。しかしそれは後から矛盾解消のためにしたアドホックな解釈であって、結果を見ないうちにまず始めに「親と子ども」という対立陣営を設けておいた場合に、多数派である子どもが負け組になってしまう、という事態が生じうること自体が問題なのです。
結果に合わせて辻褄を合わせることはいつもできますが、世の中、いつもそれで納得がゆくわけではありませんね。党とか性別とか国籍とか、始めに自然に分けておいた「派」による多数派の個々人がみな不満足に終わり、少数派が得をした。多数決だったのに……、というパラドクスでした。
二重効果のジレンマ
は、「あえて曲がる」という行為をしたことは「作為」であり、切り替えをしないのは「不作為」である、という違いが厳然とありますから、その点では医師の手術と同じことです。
引き込み線への待避の操作がかなり複雑であるような場合を考えれば、作為と不作為の区別ははっきりするでしょう。問題の論理構造を変えないまま物理的事情を複雑化して考え直す思考実験は、枝問の8、9、10あたりと共通します。
もう一つ論理パラドックスから 投稿者:kotobazukuri 投稿日:2007年10月16日(火)22時16分7秒
87二重効果のジレンマ2 ですが
医師は ほっておいたら死ぬ者を「助けずそのまま死なす」か 一人を「殺す」か
という人数とは別に重みの異なる選択
運転士は五人を轢き殺すか、一人を轢き殺すかの人数だけの異なる選択 なのではないでしょうか
そのまま走れば轢き殺される五人を助ける と解釈しても 轢き殺すのは自分なわけで
また 一人の方に曲がるという選択をしないことは その一人を助ける とも解釈できますし
結局 同じ重みの行為で 人数が異なるだけだから
医師のケースとは違う という答えはダメなのでしょうか?
論理パラドックスから 投稿者:kotobazukuri 投稿日:2007年10月16日(火)22時07分59秒
論理パラドックスの85アンスコムのパラドックスなんですが
多数派の子供が何故負けるか とされていますが
子供どうしの組あわせ三組すべてで 三個中一個しか意見一致してない
親どおしは三個とも一致
ここで 一個しか一致していない連中は それぞれ一人の少数派
(二人一致の項目がバラバラでもあり)
一致の多い親が二人で多数派 なのではないでしょうか?
Re: ついに 投稿者:φ 投稿日:2007年10月 7日(日)18時52分33秒
『論理学入門』の第Ⅱ章は、いま見ても人間原理入門としては必要十分で、大いにお勧めしたいと思います。
ブックガイドのp.234~で指摘したとおり、人間原理については平然とウソを書き立てている科学者やジャーナリストが多いので、要注意でしょう。できればカーターの原論文の一読をお勧めします。
最近の啓蒙書では、ここにもすでに書きましたが、
アレックス・ビレンケン『多世界宇宙の探険』(日経BP社)
レオナルド・サスキンド『宇宙のランドスケープ』(日経BP社)
リチャード・ドーキンス『神は妄想である』(早川書房)
の3冊が、人間原理入門として極めてすぐれています。
『論理学入門』では、終末論法を正しい議論として紹介しましたが、まもなく一冊にまとめる連載では、終末論法の致命的欠陥を指摘しました。
『論理学入門』では人間原理の一応用例として終末論法を紹介しただけなのでさしあたりあれで問題なかったのですが、今回は、終末論法の適用法に突っ込んだ分析を施しました。終末論法そのものは論理的には正しいが、現行の終末論法は適用法(具体的には、事前確率の評価)が間違っているというのが私の考えです。人間原理の応用にはくれぐれも注意が必要ですね。
『虚構世界の存在論』で提示した虚構実在論は、「しょせんメイクビリーブではありながらメイクビリーブであることをあえて明示せずそのままを主張しましょうよ、本当にほんとかどうかにこだわるのは却って実在論的世界観に囚われている証拠よ」的スタンスで提示した立場です。ロジックに破綻をまだ見出していないので、虚構は唯一の可能世界を描く、という路線はまだ採っているつもりです。
(なお、それじゃあ可能世界てそもそも何なの? という問題は『虚構世界の存在論』では棚上げして、『可能世界の哲学』で取り上げたのでした)
今はむしろ、論理空間よりも現実世界のファインチューニング問題のほうにたまたま興味が向いているので、主題として人間原理に取り組んでいるというだけです。
むろん、(主題としてというより方法としての)人間原理は物理学にも虚構論にも人生論にも向いている汎用的原理なので、瞬時に転換自在なのですが。
ついに 投稿者:のなめ 投稿日:2007年10月 7日(日)02時17分30秒
>青土社より単行本化される予定です。おそらく年内に。(改題する可能性が高いです)
待ち望んでいた人間原理論が読める!
先に『論理学入門』(まだ読んでいなかった)で予習しておきます。(つまり、人間原理論がどういうものか分かっていないということですが。)
>論文、書評、討論
も期待しています。(「討論」がスカトロ云々のサブカル系でないことを祈って……。)
ところで、以前掲示板に「最近は、可能世界は論証にのみ使うことが多く、形而上学的議論は人間原理(ファインチューニングと多宇宙説)に絞っているのが現状です」と言っていましたが、『虚構世界の存在論』で提示した立場(虚構実在論)も捨てたということでしょうか?
人間原理のパラドクス 投稿者:φ 投稿日:2007年10月 6日(土)04時41分50秒
のなめ さま
ここに↓
http://russell-j.com/m1-works.htm
↑随時更新するはずの活動メモをサボっており、御迷惑をおかけしております。
改めて整理せねばならぬのですが、活動メモ以降は
論文は『現代思想』1年分だけです。
他に、次のようなものが主な公刊物です。
本
『論理学入門』韓国語訳(2007年1月)
『のぞき学原論』(三五館、2007年1月)
エッセイ、インタビュー等
「いま人気のモノ、売れてるモノ なんでもベスト10 ヘルシーフーズ・ドリンク」『ダカーポ』611(8/1号)
『サイゾー』9月号 「特集 日本のタブー 〈ウンコを啓蒙せよ!! 我らスカトロ座談会〉」(井口昇、藤田紘一郎と)pp.77-9
(他に、論文、書評、討論等を4編(おそらく)2007年度内に発表)
まだあまり活動履歴は増えていません。
「人間原理のパラドクス」に注力していたしるしだと我ながら思っています。
「人間原理のパラドクス」は、
青土社より単行本化される予定です。おそらく年内に。(改題する可能性が高いです)
そろそろ本格的に手を入れ直さねばなりません。大きな間違いは含まれていないはずですが――
訂正 投稿者:のなめ 投稿日:2007年10月 5日(金)23時10分39秒
「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」はすでに『ゼロからの論証』に所収されていましたね。
(無題) 投稿者:のなめ 投稿日:2007年10月 5日(金)23時06分15秒
2006年1月~2007年9月までに掲載された論文で、下記のほかにありましたか?
また、それらはいずれ単行本化されるのでしょうか?
■『現代思想』2006年02月号
「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」
■『現代思想』2006年11月号
「人間原理のパラドクス1 -仮説と証拠の、正しい関係-」
■『現代思想』2006年12月号
「人間原理のパラドクス2 -擬似問題から純問題へ-」
■『現代思想』2007年1月号
「人間原理のパラドクス3 -多宇宙説がすべてを解く?-」
■『現代思想』2007年2月号
「人間原理のパラドクス4 -「私」の誕生:どこに確率が作用するのか-」
■『現代思想』2007年3月号
「人間原理のパラドクス5 -「論理で終末を予測」できる時代1-」
■『現代思想』2007年4月号
「人間原理のパラドクス6 -「論理で終末を予測」できる時代2-」
■『現代思想』2007年5月号
「人間原理のパラドクス7 -「論理で終末を予測」できる時代3-」
■『現代思想』2007年6月号
「人間原理のパラドクス8 -皆既日蝕が本当に意味すること-」
■『現代思想』2007年7月号
「人間原理のパラドクス9 -眠りの森の美女-」
■『現代思想』2007年8月号
「人間原理のパラドクス10 -眠り姫:安眠のための徹底考察-」
■『現代思想』2007年9月号
「人間原理のパラドクス11 -霊体、ゾンビ、そして輪廻転生-」
■『現代思想』2007年10月号
「人間原理のパラドクス12 -輪廻する倫理-」
Re: 哲学的ゾンビ 15 投稿者:φ 投稿日:2007年10月 4日(木)04時06分29秒
アンチ人間原理派のハードボイルドな物理学者が近年次々と人間原理へ転向しつつある状況は、
アレックス・ビレンケン『多世界宇宙の探険』(日経BP社)
レオナルド・サスキンド『宇宙のランドスケープ』(日経BP社)
などで見ることができます。
「宇宙定数がゼロでなかったら(美しい対称性が成り立たないということで、物理学者は人間原理に頼らざるをえなくなるから)私は物理学をやめる」と宣言していたひも理論家が、宇宙定数≠ゼロと知って考えを変えるくだりなど、けっこう感動的です。
究極の人間原理の適用は、最近のこれあたりでしょう。
http://arxiv.org/PS_cache/arxiv/pdf/0704/0704.0646v1.pdf
物理学が多世界解釈やインフレーション理論をはるかに超えて、ついに様相実在論にまで行き着いてしまいました。
↑このあたりの境地から見ると、クオリア問題などやさしいパズルに思えてきます。
以前は私は、「クオリア問題が解けるには1万年かかる」と思っていましたが、最近は、あと2、3年で十分と思えるようになりました。(たぶん錯覚ではありません)
>書き上げたばかりの論文は、我々が読めるのでしょうか。
公刊されたら、ご案内します。
「人間原理的クオリア論」というタイトルで、かなり試論的な(論証抜きの)ものです。(クオリア問題は、ファインチューニング問題の特殊例にすぎないという提言)
自殺、環境問題、原爆投下などについては、世論に重大な誤りがあると私は考えているので、これからちょくちょくロジカルな(非政治的な)枠組みで指摘していきたいと思っています。
おかげさまで先月、完結を迎えた連載の内容に関して何かご意見ご批判ありましたらぜひ。12月の単行本刊行(予定)までに御指摘を反映させることができるかもしれません。
哲学的ゾンビ 15 投稿者:ハム 投稿日:2007年10月 3日(水)20時14分56秒
物理学は意識の説明をする目的がありませんから、意識を説明するのは他の科学ですよね。
組織やシステムを扱う科学が有力だと思います。
哲学の方からは人間原理等が論理的に意識を追及していけば意識の解明も近い、と思いたいですね。
書き上げたばかりの論文は、我々が読めるのでしょうか。
現代思想の今月号の自殺に関する論述がどうにも納得しにくいところがありますので、もう一度読んでみて反論できそうなら書き込みみます。
感想としては、親鸞の浄土真宗と似ている、というものです。
輪廻転生も極楽浄土も自殺を推奨するような理屈ができますが、親鸞は絶対他力本願ということをいって、これを防ぎます。ところが絶対他力は何もしないということで、親鸞は実際まったく何もしない人になりました。
間違った理屈は、取り繕うためにさらに間違った理屈を生むような感じです。
Re: 哲学的ゾンビ 14 投稿者:φ 投稿日:2007年10月 1日(月)20時35分58秒
かりに、驚くべきことに物理法則が数学に還元できたとしても、ファインチューニングはなくなりません。
物理法則による機能的心の実現に、意味論的モデルどおりの意識が伴うのはなぜかが説明できないでしょう。
外面的機能を備えたゾンビだけがひしめく世界であってもよかったはずだからです。
こうして、内面的意識の実在は、物理学だけでは説明がつかず、人間原理による説明に頼らざるをえなくなるはずです。
と、いう趣旨の論文を書き上げたばかりですが。
哲学的ゾンビ 14 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月30日(日)13時59分57秒
物理学の歴史は統一への歴史ですよね。
量子電気力学(電気と磁気の統一)
↓
統一理論(量子電気力学と弱い力の統一)
↓
大統一理論(統一理論と強い力の統一)
おっしゃるように、素粒子の電荷や質量などの物理量が定数として持ち込まれているようです。
この問題と重力を扱う一般相対性理論の統一を目指すのが超ひも理論なわけですが、プランク定数だけは定数として残るはずです。
プランク定数は世界の最小単位で、ひもの大きさです。
これが定数として組み込まれることは経験科学として限界だと思います。
超ひも理論の完成によって、ビッグバンや多宇宙、時間と空間、物質と力などがよどみなく説明されるはずです。
であれば、様相論理などでいう必然的な理論になるのかもしれません。
残るのは意識の問題、ということになります。
Re: 哲学的ゾンビ 13 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月28日(金)00時53分17秒
>ひも理論が統一理論として成功したとしても
統一理論として成功する、ということは論理的にありえません。
他の値から導出できずマニュアルで決めねばならないパラメータが一つでも残ってしまうと、「なぜその値なのか」という謎が解けず、人間原理に訴えざるをえなくなるからです。
そして、パラメータがゼロということは、物理学が数学に還元されたときで、それは経験科学としてありえないでしょう。
「必然的」という概念は、数学や論理学固有の概念としてのみ残るか、
または、一定の法則が与えられた場合にこれこれの下位法則が必然的である、といったような相対的必然性のみが物理学に許される必然性ということになるでしょう。(それは物理学者たちも先刻承知ではあるはずですが)
哲学的ゾンビ 13 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月27日(木)09時38分1秒
おっしゃる意味ですと、この宇宙で成立する法則はすべて必然ではないのでしょう。
ひも理論が統一理論として成功したとしても必然ではないでしょうし、引力が斥力でない宇宙も考えられます。
自然淘汰ではなく、ラマルクの獲得形質遺伝が成立している他の宇宙もあるでしょう。
哲学的ゾンビと機械が戦争している宇宙だってありそうです。
この意味ですと必然的なものは、何?、なのでしょうか?
人間原理は必然っぽいですね。
Re: 哲学的ゾンビ 12 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月27日(木)02時33分33秒
「変な法則」という感覚自体、近隣至上主義の現われでしょう。
私たちの宇宙で実証されつつある物理法則がいかに恣意的で必然性を欠いたものであるかに思いを馳せれば、それが唯一の法則であるという前提を疑うことは簡単なはずですよね。
物理学者の大半が、未だに「唯一の統一理論」を探しているとは驚くべきことに思われます。
量子力学ですら、すべての宇宙で成り立つという保証はありません。
哲学的ゾンビ 12 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月26日(水)18時32分30秒
>観測選択効果で絞り込まれたきわて特殊な法則にすぎない
物理学では実証しますので、変な法則は排除されます。
ですので、観測選択効果による観測の片寄り等はあまり問題にならないような気がします。
より根本的な問題が「観測問題」でしょうか。
観測することによって、波束の収縮やら、多世界中のある世界やらが観測される。
観測前は観測されるべき特定の値がない。
というのは、人間原理の観測選択とかなり違っています。
人間原理の場合は、観測前に観測されるべき値が観測者の存在を許すべき値だと決まっています。
まあ、人間原理は物理の法則よりもメタな原理だということでしょうね。
Re: 哲学的ゾンビ 11 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月25日(火)02時07分10秒
観測事実から実在の客観的相貌を突き止めるのが科学なので、観測選択効果は科学で根本的な役割を果たしますね。
観測的に普遍的な事象が、客観的には例外的ということがままあるもので、この観測選択効果を忘れると、観測された法則を客観的実在全体にあてはめてしまいます。
リサ・ランドールのように、このニュートン時代の普遍主義的誘惑にとらわれてしまうと、物理学は停滞するのではないでしょうか。客観的実在の典型は、観測された領域とは似ても似つかぬものであるという可能性を、どれほど虚心に認められるか。私たちが知っている物理法則は、観測選択効果で絞り込まれたきわて特殊な法則にすぎないことが、やがてわかってくるはずです。(自然選択で生き残っている個体・種が、膨大なジャンクの中のきわめて特殊な者たちであるのと同じようにです)
哲学的ゾンビ 11 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月25日(火)00時01分8秒
物理学がニュートンの確定的な物理から量子論の不確定的な物理へ発展することによって、我々の世界観が変わりましたよね。
これはダーウィンの自然淘汰説に匹敵する世界観の変化だと思います。
物理学の対象は物質ですから、人間原理の全面的な適応は難しくないですか。
人間と物質の関係では観測選択効果ぐらいではないですか。
人間原理は特定の学問領域ではなくて、全領域に関係するもっと普遍的な原理のような気がします。
普遍的なだけにダーウィンの自然淘汰説よりも弱い原理のような気がします。
Re: 哲学的ゾンビ 10 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月24日(月)03時14分37秒
>機械であってもゾンビであっても、そこに観測可能な意識があれば、
>その意識が物理であっても純粋な論理であっても、いいわけですよね?
「ゾンビであっても」はよくわかりませんが、人間原理でいう観測者は、自己を意識できていなければなりません。
物理学は、ニュートン以来、実は根本的に進歩していませんね。逆に見通しは悪くなっているのではないでしょうか。相対論も量子論も、ニュートン力学の精密化にすぎず、本当の革命とは言えないでしょう。
ダーウィン革命が物理学に採り入れられたとき、具体的に言えば多宇宙+人間原理が精緻化されたときに本当の発想の転換がなされますが、多宇宙+人間原理が(物理学者が考える意味で)物理学の「進歩」と認められることはないのでしょう。いま20コくらいある相互独立のパラメータを一つに絞り込めれば、物理学の躍進と認められるのだと思いますが、きっと無理でしょうね。
いま話題の人らしいリサ・ランドールさんは、『ワープする宇宙』p.401で、「人間原理が答えとなるような世界は間違いなく残念なものだし、とても満足のいくシナリオではない」と。
ドーキンスより百年遅れてますね――
フォークランド戦争を頑張った「鉄の女」マーガレット・サッチャー流というか、女性は負けるもんかと却って突っ張ってしまう傾向があるようですね。政治も科学もマッチョは時代遅れで、これからはソフト化の時代なのに。
哲学的ゾンビ 10 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月23日(日)12時15分10秒
>人間原理的には、「私」が岩や消しゴムでないのと同様、「私」はゾンビではありえません。少なくとも現在この瞬間の私は。
人間原理でいう観測者は、機械であってもゾンビであっても、そこに観測可能な意識があれば、その意識が物理であっても純粋な論理であっても、いいわけですよね?
>物理学者の意識は、進化生物学者より120年は遅れていると言っていいでしょう。
しかし、意識とかクオリアの問題となると120年前と何も変わっていないのではないですか。
物理学は120年前と劇的に進歩しています。
生物学ではダーウィンの功績が偉大すぎて、現在の生物学者はダーウィンの飼い犬だという批判がドーキンスなどの主張に同意しない人達からありますよね。
アリストテレス → ゲーデル
ニュートン → 量子論やひも理論
ダーウィン → ○○
こういう○○が出てきていいころだと思うのですが。
Re: 哲学的ゾンビ 9 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月23日(日)02時12分59秒
「私たちはゾンビかもしれない」と真面目に論ずる物理主義者が多くて困るのです。
人間原理的には、「私」が岩や消しゴムでないのと同様、「私」はゾンビではありえません。少なくとも現在この瞬間の私は。
ところでドーキンスは、
「[多宇宙+人間原理]は物理学の世界では案外嫌悪されているらしいが、私にはその理由がわからない。[多宇宙+人間原理]は美しいではないか。私の意識がダーウィンによって高められているせいかもしれない」
と、一見傲慢、しかし全くの正論を新刊で書いています。
物理学者の意識は、進化生物学者より120年は遅れていると言っていいでしょう。
哲学的ゾンビ 9 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月23日(日)01時43分3秒
>本能的に、痛みを避け、嫌うことは誰でもするが、そこに「クオリア」を認めるのは、もしかしたらクオリアについて考え始めてからなのかもしれません。
これって、人間原理的ですね。
私たちはクオリアを考えるはずである。
私たちはクオリアを考えなければならない。
リチャード・ドーキンスというと、傲慢な自然淘汰啓蒙家という印象ですが、人間原理の理解者だというのは初めて知りました。
彼は今回の議論でいう典型的な物理主義者ですね。
訂正 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月22日(土)20時01分7秒
↓『宗教は妄想である』ではなく、『神は妄想である』でした。(早川書房)
Re: 哲学的ゾンビ 8 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月22日(土)00時44分41秒
触覚にしても、「痛み」がどういう感じかについては、厳密には、言語化して反省するまでは漠然としているかもしれません。本能的に、痛みを避け、嫌うことは誰でもするが、そこに「クオリア」を認めるのは、もしかしたらクオリアについて考え始めてからなのかもしれません。
つまり、意識について哲学的反省をし始めるまでは、みなゾンビかもしれないのです。
(という系統の人間観に対しては今執筆中の論文では反論しているところですが)
>物理学者があれだけの功績を出したのですから、できるはずです。
リチャード・ドーキンス『宗教は妄想である』では、自然淘汰のような包括的説明が物理学では発見されていない、と言っています。その唯一の候補が人間原理である、とも。
進化生物学者がようやく人間原理の価値を認め始めたのは嬉しいかぎりです。
ドーキンスはさすがで、並の物理学者より遥かに適確に人間原理を理解しています。
物理学が、見た目に反して、生物学よりもかなり遅れていることは事実なのです。
「ニュートン・アインシュタインをダーウィン化する」(『ゼロからの論証』所収)で私が述べたのもそのことでした。
哲学的ゾンビ 8 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月21日(金)09時36分34秒
>クオリアはまずは、方法的に、五感に限定するのがよいのだと思われます。感情や抽象思考の「クオリア」は、感覚クオリアからの合成物でしょう。
そうだとして、色に関するクオリアが感覚クオリアなのかどうかです。
直接身体に触れる触覚は感覚クオリアでしょうが、その他の視覚・聴覚・味覚・嗅覚はどうなのでしょう。
例えば、ネコににらまれたハムスターの恐怖は、視覚、聴覚、嗅覚から起るのでしょうが、生まれたばかりのハムスターにはこの恐怖は起らないと思われます。
何らかの学習後身に付く感覚だと思えます。
母親を学習し、母親と違うものに恐怖するようになるとか。
見えたものに関する感覚は学習なのではないでしょうか。
とすると、他の聴覚、味覚、嗅覚も学習っぽい。
いずれにしろ、生物学者や心理学者にはもっと頑張ってもらわないと困ります。
物理学者があれだけの功績を出したのですから、できるはずです。
Re: 哲学的ゾンビ 7 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月21日(金)04時29分17秒
抽象概念のクオリアというのは果たしてある(自分の中に特定できる)ものかどうか?
もっと細かい構成要素に分解できるもののような気もします。
そのつど、別々の感覚的クオリアを流用しながら、イメージを柔軟に変えつつ成り立つ派生物のような。
他方、
「悲しみのクオリア」「喜びのクオリア」などと、個々の感情をそれぞれ別個のクオリアと見なす人もいるようですが、たとえば怒りと恐怖と驚きは、意味づけがあって初めて区別されるもので、感覚としては同じではないかと。
クオリアはまずは、方法的に、五感に限定するのがよいのだと思われます。感情や抽象思考の「クオリア」は、感覚クオリアからの合成物でしょう。
哲学的ゾンビ 7 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月20日(木)09時05分22秒
抽象的な概念の場合はどうでしょうか?
例えば、自由、平等、友愛。
この概念は幼児にはただの記号ですが、哲学を論じるほどの意識であれば固有の感覚を持っています。
この感覚は経験によって身に付くものでしょうが、痛みなどの生存に必要な感覚以外は、すべて経験によって身に付く感覚なのではないかと思います。
生存に必要な感覚だけを持たせた「哲学的ゾンビ」も、教育しだいで哲学者にすることは可能だと思います。
Re: 哲学的ゾンビ 6 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月20日(木)05時11分27秒
色や音のクオリアは言葉によって鮮明になってゆくということはあるでしょう。
ただしそれは、言葉と経験を照らし合わせるからであって、言葉だけによって色や音のクオリアを獲得することは決してありませんね。
痛み、痒み、熱さ、冷たさ、空腹のようなクオリアは、言葉で特定されなくても、原初的な意識状態においてすでに鮮明なのではないかと思われます。とくに根拠はありませんがそんな気がします。生存に直接関係するような場合についてはです。
哲学的ゾンビ 6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月18日(火)23時40分31秒
>赤い感覚に伴う生理的作用・心的機能や、赤と他の色との関係は理解できても、赤のクオリアを言葉によって学べたとは思えませんが。
我々の感覚も同じことなのではないかと思うのです。
私は幼稚園の入試で、色の訓練を受けたことがあります。
赤いものを指して「これは何色?」との質問に「赤」とか答えるのです。
はじめは悩みました。
指された色が何なのか、「あか」だったか「あお」だったかです。
指された色の感覚が鮮明ではなかったのです。
その後、自信をもって赤だといえるようになります。
このとき、色の感覚が鮮明になったのだと、今思えるのです。
動物の感覚も入試前の私の感覚と同じようなもので、経験によって鮮明な感覚が得られるようになるのではないかと思うのです。
動物の場合は、色に関する経験がないので、いつまでも鮮明にはならない。
つまり、色の感覚は色に関する経験によって鮮明になる。
であれば、色の感覚は訓練によっても鮮明にできることになります。
コウモリの超音波クオリアは、それを感じる物理のない人間には感じることはできないのかもしれませんね。
Re: 哲学的ゾンビ 5 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月18日(火)01時58分56秒
ヘレン・ケラーは、赤を見ずして、赤を知ることができたのでしょうか?
赤い感覚に伴う生理的作用・心的機能や、赤と他の色との関係は理解できても、赤のクオリアを言葉によって学べたとは思えませんが。
ヘレン・ケラーは厳密には先天的盲人ではありませんが、先天的盲人が赤のクオリアを知ることが出来るならば、私たちも、
生物学者にあれこれ説明してもらうことによって、コウモリの超音波のいろいろなクオリアや、ミツバチの紫外線のいろいろなクオリアを学べることになるでしょう。
しかし学べるのはあくまでその機能であって、内在的な質、つまりクオリアは絶対知ることはできないのでは?
(もちろん、私たちの脳と感覚器官をコウモリの脳・感覚器官と同組成のものへ改造する手術は原理的に出来るでしょうが、その場合はもはや「私たちが」コウモリの持つクオリアを意識的に学べたことにはなりませんね)
つまり、私がこの私のままで、コウモリの超音波クオリアを知ることは、言葉によっても、直接体験によっても、不可能です。(クオリアが物理学の外にあると言えるためには、言葉によって学べないということだけで十分ですが)
哲学的ゾンビ 5 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月17日(月)15時00分16秒
我々は「赤い」という言葉によって、赤い感覚を生み出せます。
ヘレン・ケラーの自伝には、色に関する記述があり、彼女は色の感覚を持っていたと考えざるをえません。
我々は言葉によって感覚を共有できます。
記号によってクオリアをコントロールすることは、物理的なのではないでしょうか。
また、ある種の薬物によって感覚をコントロールすることができますが、これも物理的といえると思います。
言葉を持たないもののクオリアも、科学技術が進めば、どこかの刺激等でコントロールすることが可能になるかもしれません。
ネコの脳のある部分に電極をつないで電流を流すと必ず怒る、という実験を見たことがあります。
クオリアによる主観的な内在的質と思われているものも、科学技術が進めば物理的に解明されてくるのではないでしょうか。
このことを疑う理由はないように思います。
Re: 哲学的ゾンビ 4 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月16日(日)19時29分51秒
①が物理学に反するというのは、「物理学からはみ出す」と言ったほうがよかったかもしれません。
たとえば、盲人は、「赤い感覚」を生み出す脳状態についてすべてを(言語的に、物理学的に)学び知ったとしても、赤そのものを知ることはできません。つまり、赤は物理学で記述不可能です。記述不可能なものが存在すると認めるのは、物理学に反しています。
とまあ、そういう具合です。
盲人でなく晴眼者も、たとえばコウモリをいかに詳しく解剖して調べても、超音波によるいろいろなクオリアを知ることはできません。ミツバチによる紫外線のいろいろなクオリアを知ることもできません。
地球外生命の感覚となるとさらにお手上げでしょう。
他方、地球外だろうがどこだろうが、クオリア以外のものについては、素粒子の振る舞いを知っていれば、運動や変化をすべて予測できます。
クオリアだけは無理です。
クオリアをいかに説明しようとも、その(偶然的)物理的役割しか説明できず、主観的な内在的質は絶対に言葉で伝達できません。
よって、クオリアは、確実に存在していながら、物理学の外にあるのです。
逆に言うと、クオリアが一切なくても物理学は支障なく世界を記述できます。
哲学的ゾンビ 4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月16日(日)12時45分27秒
>①意識もクオリアも(存在するとしたら)物理的なものだ、という考えです。
>②意識もクオリアも(物理的なものでないとしたら)存在しない
やっと哲学的ゾンビなるものの意義が分りました。
だとすれば、物理主義が正しいと思います。
>しかし、①も②も信じる理由がありません。①は物理学に反するし、②は直接経験に反しています。
①は物理学通りではないですか?
世界は物質で構成されています。
唯一物質ではないと思われていた法則もゲージ粒子という物質であり発見されています。
②は意識もクオリアも物理的なものであれば否定しないのですよね。
であれば、意識もクオリアも物理的なものとして存在するということで、何の問題もないように思います。
哲学的ゾンビにないという「主観的内面」は物理として存在すると考えれば、哲学的ゾンビというのは我々の真の姿だということになりますよね。
だとしても(物理的なものである)意識とは何か、は何も解決しませんよね。
Re: 哲学的ゾンビ 3 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月16日(日)05時57分50秒
物理主義は、この世に物理的なもの以外は存在しない、という考えです。
つまり、①意識もクオリアも(存在するとしたら)物理的なものだ、という考えです。
同じことですが、②意識もクオリアも(物理的なものでないとしたら)存在しない、という考えです。
だから、意識ある人間のゾンビレプリカは不可能だということになります。
しかし、①も②も信じる理由がありません。①は物理学に反するし、②は直接経験に反しています。
人間AとそのゾンビレプリカZは、原子レベルで物理的に全く同じなので、物理法則に従い、同じ環境では同じ振る舞いをし、同じ言葉を発します。しかしZには「主観的内面」がないのです。「内面」などなくても神経系が物理法則に沿って動けば十分なので、ZはAと正確に同じ振る舞いをするはずです。
外部情報を遮断した環境でも同じ。AとZは物
理的構造が全く同じなのだから、意識の有無にかかわらず、同じ環境では同じ動きをせねばなりません。
哲学的ゾンビ 3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月15日(土)20時48分15秒
確認したいのですが、
哲学的ゾンビというのは、意識・クオリアをもたないのですね。
つまり、物理的なものですね。
>ゾンビは不可能だという物理主義者は、
哲学的ゾンビの物理主義というのは、哲学的ゾンビが不可能だ、という主義なのですか?
物理主義というネーミングから、なんでも物理で説明できる主義と考えがちなのですが。
いずれにしろ、哲学的ゾンビと人間を見分ける方法としては、外部情報を遮断した環境においてみれば分りそうですね。
哲学的ゾンビはじっとしているでしょう。
人間はソワソワするはずです。
哲学的ゾンビは情報に対する反射のみで、人間は情報に対する判断とか感情がありそうです。
Re: 哲学的ゾンビ 2 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月14日(金)02時43分48秒
感覚的意識と哲学的意識を分けて考えるべき といっても、
哲学的意識は言語という機能的側面で尽きているわけではなく、必ず非言語的・非構造的な「主観的質感」が伴いますよね。
感覚的意識は身体に影響を及ぼさない「随伴現象」にすぎないが、
哲学的意識はそれ自体の作用力があって身体に影響を及ぼす、
というわけでもありませんし。
哲学的意識も、脳の偶然の産物に他ならず、意識を度外視して脳神経系の動きをすべて記述すれば、すべて記述できたことになるでしょう。意識独自の因果作用は入り込む余地はありません。
物理主義的には意識の場所はナシ。ところが意識は現にある。よって、二元論が必要になり、哲学的ゾンビも可能であるわけです。
哲学的ゾンビ 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月13日(木)12時51分2秒
私も②を否定すべきだと思います。
ただし、哲学を論じられるような哲学的意識ではなく、動物にもあるような感覚的意識の場合です。
動物にもクオリアはあるわけですから。
哲学的意識の場合は、哲学的ゾンビとは違うモデルが必要だと思います。
哲学的意識はクオリアの問題ではなく、言葉の問題だと思います。
人間が何かを指示し名前を付けた時から、言葉は無矛盾な存在を表現するために論理を身につけ、やがて思想、哲学を生むに至った。
意識といった時、感覚的意識と哲学的意識を分けて考えるべきだと思うのですが。
Re: 哲学的ゾンビ 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月13日(木)03時44分43秒
>このことは現代思想でも説明してほしかったです。
そうですね、
「ゾンビ」に馴染みのない人も多いでしょうから、単行本化するときに注釈的に加筆することにしましょう。
「面白い」という意識(クオリア)が原因となってツッコミという物理的状態が生ずるとしたら、意識が物質に影響を与えることになります。
しかし、物理主義によれば、物理系は因果的に閉じており、物理以外の何かが物理系に影響することはないはずです。
ゾンビは不可能だという物理主義者は、
① 意識やクオリアを無視しても神経生理学的な因果関係は記述し尽くせること、
② にもかかわらず「面白さ」という非物理的なクオリアが筋肉や声帯に影響を及ぼしていること
を矛盾なく説明しなければなりません。
私は、②を否定すべきだと思います(②を肯定して①を否定すると、念力や心霊も認めざるをえなくなるでしょう)。
しかし②の否定は、物理的因果系とは別個の「意識」を認めない、ということではありません。意識は現にあるのですから。
哲学的ゾンビ 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月12日(水)22時39分35秒
そうなのですか。
このことは現代思想でも説明してほしかったです。
そういう理解で、もう一度読み直さなければなりません。
だから、先の発言↓になるのですね。
>哲学的ゾンビは想像できないと言う素朴な物理主義者は、機能の問題と主観的意識の問題を区別する直観が働かないだけでしょう。
私とまったく同じで、同じ言動をしながら、内面的意識がすっぽり欠けている存在。
私も物理主義者に入りそうですが、私のは言葉に意識が宿るのだから哲学的ゾンビは想像しにくい、という理由です。
誰かが海を指差して「シー」だと言ったとします。
私のゾンビレプリカはなんと答えるのでしょうか。
私は「欧米か?」とつっこみます。
それが面白いからです。
私のゾンビレプリカが「欧米か?」とつっこむ理由はなんなのでしょう?
それが面白くもないのに?
面白くもないのに「欧米か?」とつっこむ理由は考えにくいです。
意識が無ければ発言意欲も動機もないはずだと思います。
Re: >Re: 物質が意識を 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月12日(水)21時08分17秒
>哲学的ゾンビというのは、現代のロボットを想像すればいいのですよね。
これは違うようですよ。
現在のロボットはもちろん、チューリングテストに合格するような会話を自由に操るロボットも、いわゆる古典的な行動主義的ゾンビです。
現在の哲学でいう哲学的ゾンビは、外見や行動、機能だけでなく、人間と同種の脳状態を持ちながら内面的意識がないような存在です。
極端な場合はゾンビレプリカで、実在の人間、たとえばハムさんと細胞・分子レベルまで全部同じ、つまり全く同じ脳状態を持ち、同じ言動をしながら、内面的意識がすっぽり欠けている存在です。
内面的には岩石や椅子と同じ無生物。言動だけが生きた人間。
物理的に同じでも、そこに宿る主観的意識は異なりうるのではないか、という極限的事例がゾンビですね。(極限的でない事例は逆転クオリア)
ホラー映画のゾンビは、外見や行動からして内面がなさそうなので、哲学的ゾンビとは言えません。
哲学的ゾンビやゾンビレプリカが可能かどうかについては、科学者や工学の人たちは概して不可能、哲学者は可能と言う傾向がありますが、哲学者の中でも不可能とする物理主義者が増えてきているようです。私は、可能とする二元論のほうに共感しますが。
>Re: 物質が意識を 投稿者:ハム 投稿日:2007年 9月12日(水)13時02分8秒
面白そうなので参加させてください。
哲学的ゾンビというのは、現代のロボットを想像すればいいのですよね。
昔のフランケンシュタインもゾンビですよね。
ミイラ怪人とかも。
吸血鬼はゾンビではなさそうですね。
ドラエモンもゾンビではない。
エレファントマンはゾンビだと思われていたら、彼は聖書を暗唱したのですよね。
このことによって、彼がゾンビでないことを人々は理解したのでしたね。
つまり、クリアな意識とは言葉ではないかという話です。
ロボット、フランケンシュタイン、ミイラ怪人は言葉を持ちません。
(ロボットの会話は言葉ではなくプログラムだということで)
吸血鬼やドラエモンはしゃべるゆえにゾンビではない。
どうもこの話、おそらく間違いはなさそうなのですが、いかに論証するかが難しいです。
Re: 物質が意識を 投稿者:φ 投稿日:2007年 9月 6日(木)03時26分56秒
これこそまさに当面、私が悩んでいるテーマです。結局締切までには書けなかったので、再挑戦です。
>意識など無く物質のふるまいのみがある
の物理主義で当面行けるところまで行こうとするのは学術的な倫理とも言うべきものでしょう。しかし、意識については物理主義では立ち行かないという強固な直観を私たちは持っています。
>物質から意識が生み出されるなんらかの仕組み
とは一体何なのか、皆目見当もつかないというのが現在の知的状況ですね。
哲学的ゾンビは想像できないと言う素朴な物理主義者は、機能の問題と主観的意識の問題を区別する直観が働かないだけでしょう。物理主義が正しいという言説は勿論のこと、物質に意識がスーパーヴィーンするというのが何を意味しうるか、私には見当もつきません。
今月中には見当をつけねばならないのですが。
物質が意識を生んでいるか、いないかの論争 投稿者:ラズロ 投稿日:2007年 9月 6日(木)00時50分47秒
ご無沙汰しています。
物質が意識を生み出すというところで究極的には物質から意識が生み出されるなんらかの仕組みが見出されるか、
それとも、意識など無く物質のふるまいのみがあるか、
どちらかだという論争があります。
この論争についてどう考えますか?
(無題) 投稿者:関係ないけど 投稿日:2007年 8月26日(日)19時43分13秒
訂正 親愛→愛情
トリビアル 投稿者:φ 投稿日:2007年 8月25日(土)00時44分58秒
まあ、〈私〉以外の〈あなた〉や〈彼ら〉には〈私〉の脳は見えても〈私〉のクオリアは見えない、という意味で、茂木氏は〈私〉とクオリアを結びつけたのだと思いますが、
クオリア生成のために〈私〉は必要ではないですよね。
(たぶん十分でもありません。クオリアのない自意識というのもありうると思います。ただこちらはやや疑わしい――)
・・・ 投稿者:ラクシュン 投稿日:2007年 8月24日(金)20時16分0秒
茂木氏に関してはその「トリビアル」路線が濃厚だと思うんですけどね。
>φさん 投稿者:ラクシュン 投稿日:2007年 8月24日(金)20時09分59秒
> 意識とクオリアは、外延がズレるということです。
ここは、同じようなことを言っている人が他(Web)にもいました。
コメントありがとうございました。
Re:意識って 投稿者:φ 投稿日:2007年 8月24日(金)14時13分11秒
クオリアについては、ちょうど今月中に書かねばならない論文があり、『現代思想』連載最終回その他の複数の書き物と重なって、今四苦八苦です。
さて、常識中の常識というより、逆に、
「私たちが感じるクオリアが、<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在しえない」というのが「事実」というのはおかしいと思いますけれどね。
「私たちが感じるクオリアが」 というところですでに 「<私>という主観的体験」 が前提されているのであれば単にトートロジーの文章ということになってつまらないかぎりですが、そういうトリビアルな読みはやめて、「私たちが感じる【ような】クオリア」と解すれば、
「私たちが感じる【ような】クオリアが、<私>という主観的体験の枠組みと無関係に」存在しうると思われます。
ヤモリやヒキガエルには自我も意識もなく、<私>という主観的体験の枠組みはないでしょうが、痛みや光のクオリアはおそらく持つでしょう。
意識とクオリアは、外延がズレるということです。
胎児は、意識なし・<私>抜きのクオリアを感じていると思います。中絶されるときは、地獄の苦しみが生じているのではないでしょうか。ただし自我がないので、「誰の苦しみ」でもなく、倫理的な興味には乏しいわけですが。
意識って ホントに何なの? 投稿者:ラクシュン 投稿日:2007年 8月23日(木)17時07分32秒
:::::::::::::::::::::::::::
私たちが感じるクオリアが、<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在しえないという事実は、次のようなことを考えてみてもわかる。
夜空の星を見上げるAさんの脳の中で神経細胞が活動し、その結果「キラキラ」としたクオリアが感じられたとしよう。このクオリアは、網膜から視床を経て、大脳皮質の後頭葉の視覚領域に至る一連の神経活動によって生み出される。この時、Aさんにとって、暗闇の中で「キラキラ」光るクオリアのユニークな同一性(<あるもの>が<あるもの>であること)は、それを疑うことができない、切実な事実である。Aさんにとって、その中に星空も含むこの世界は、Aさんの脳の神経細胞がつくり出すさまざまなクオリアの同一性によって支えられている。
一方、Aさんの脳を客観的な立場から観察するBさんにとってはどうだろうか?
仮に、BさんがAさんの脳の神経活動を、何らかの方法で詳細に観察できたとしよう。この時、Aさんの脳を観察しているBさんの主観的体験を支えるクオリアを生み出しているのは、Bさん自身の脳の神経活動である。Bさんにとっては、Aさんの脳の一〇〇〇億のニューロンの活動をすべて見渡せたとしても、そこに、どのようなクオリアが生み出されているのか、直接的には明らかではない。
::『意識とはなにか-<私>を生成する脳』(ちくま新書):
よく解らないのですがぁ、この文章ってなんかヘンじゃないですか?
「クオリア」問題が難問中の難問というのは知っていますが、ふつーに考えて、「クオリアが、<私>という主観的体験の枠組みと無関係には存在しえない」などということは常識中の常識で、ワザワザ本の中で茂木さんに教えてもらわなければならないような事柄ではないような気がするのですが。
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2007/06/1_108a.html#more
http://science6.2ch.net/test/read.cgi/rikei/1162689738/l50
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1185110161/l50
(無題) 投稿者:普通はね、 投稿日:2007年 8月13日(月)22時11分12秒
生け贄ではなく、起源や真実と為したのではないかと。
他にもありそうだけど、グノーシス主義については
とりあえず勘弁してください。
(無題) 投稿者:φ 投稿日:2007年 8月13日(月)04時34分5秒
広告を消したついでに、他掲示板への投稿と同文のものを削除させていただきました。
三浦和義 投稿者:林浩司♂ 投稿日:2007年 8月 1日(水)18時05分20秒
三浦和義の掲示板があったが消えてしまっている。あすこは三浦和義の宗教的な掲示板だったみたいだ。ruhーとかいうのがいたのだが、偉そうに説教するのが好きみたいで、人の会話に入り込んでは水をさしたりしていた。
ruhーは言っている事は立派で学識もあり、教養あふれるヤツだ。だが、中には間違ってたりしていることも多かった。俺は法学部出身なので、法律において間違ったことを得意げに言ってたが、何も知らないやつめと知らん顔してビールを呑んでいた。そのruh-とは一度議論したことがあるのだが、議論を喧嘩と間違っているようなところがあり、まるで上から見たような発言や人を小バカにしたような鼻に付く態度だった。俺以外にも度々モメていたが、なぜか ruhーの味方が多かった。自演をしてたかもしれない。
そのころネット事態が初心者でネットや掲示板のルールをよく知らなかったが、今では教養あふれるruhーと議論してみたいものだ。
Re:天皇の降伏12 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月22日(日)15時28分42秒
日本人全体の責任だという考えには、私は賛成です。
日本人全体には、もちろん、戦後生まれの私たちも含まれます。
再三述べたように、原爆投下が戦後の日本の地位を高めたことは確かです(象徴的な意味付けのみならず、太平洋戦域のステータスを高め、日本は実際以上に「手強かった敵」として第二次大戦史に残ることになりました)。
原爆投下のおかげで、徹底抗戦したのと同じ効果が遥かに少ない被害によって得られました。
なので、日本は結局、徹底抗戦してしまったドイツに比べると遥かに得をし、その恩恵は戦後世代の日本人を潤しています。
私たちは、広島長崎に足を向けて寝ることはできません。
もちろん、戦争をしなかったほうが日本は現在、より高い国際的地位を占めていたでしょうが、戦争してしまったという条件下では、原子投下による収束が日本の国益に最も利したのでした。
日本軍のシゴキについて思うのは、たとえば、パットン将軍が野戦病院を視察して、負傷してないのにベッドにいる戦争神経症患者を「弱虫め」と殴り、それがマスコミ報道されてアメリカ国内で大問題となったことです。
戦争中もアメリカは人権の国だったのであり、兵士一人一人をモノ扱いしていた日本とはえらい違いでした。
(★これから出張なので、ネカフェに入る暇がないかぎり、ここでのResやアフォリズム日記を25日までお休みします。
その間、〈たまのPR↓〉でも。)
http://green.ap.teacup.com/miurat/1230.html
天皇の降伏 12 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月22日(日)09時38分37秒
>徹底抗戦以前の降伏というものは、とかく混乱を伴いがちで、原爆はその混乱をも防いだのです。
>軍上層部が、米英は鬼畜でないと知りながら、民間人や負傷兵の殺害を兵に教育していたのは、
>日本政府と軍は、降伏したら全員虐殺されると国民に信じ込ませていたのだから、
この辺から説明が難しくなってくるのです。
ちゃんと説明するために一冊の本を書いたとしても成功させるのが難しい。
旧軍人が戦後、ほとんど何も話さないのは、日本の場合は説明の難しさもあります。
なにか話せば、必ず誤解されるのです。
まず、日本軍の教育です。
徴兵検査で甲種合格でも二等兵から訓練されます。
日本軍の教育はおそらく世界一厳しいものです。
それは、就寝前のシゴキにあります。
例えば、セミ、自転車、など他にも調べればたくさんあります。
こういう教育によって、命令には一定の反射をするような軍人を育てるのです。
だから、日本軍は命令一つで何でもできます。
終戦命令があれば、何の混乱も無く服従します。
戦争の末期は将兵の年齢が下がります。
沖縄戦など10代の将兵がたくさんいました。
こういう若い将兵ほど、鬼畜米英などの教育を鵜呑みにしていたのです。
年配の将兵は事実に気づいていますが、どうすることもできません。
日本軍や政府は「鬼畜米英」が象徴するように、敵に対して拒否、嫌悪するような考え方を持っています。
これは日本人全体の考え方なのではないかと思います。
アメリカは敵である日本を研究し、日本語通訳を養成しましたが、日本は逆に拒否し英語を禁止していきました。
日本軍のシゴキは、今のいじめ問題ともつながっているように思います。
当時の軍や政府は、日本の文化から生れたもので、現在にも引きずっているのではないか、と思うのです。
だから私は、当時の軍や政府の責任というものは、結局は日本人全体の責任になるのではないかと思っています。
Re:天皇の降伏11 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月21日(土)14時11分53秒
オーストラリア軍によるボルネオ作戦はすでに始まっており、「兄が終戦直前にボルネオで戦死した」などという人にも会ったことがあります。
前述のように、蒋介石政権の崩壊→人種戦争化がつねに懸念されていましたから、日本軍が占領地に根を下ろすことを連合国は恐れていました。奪回作戦は意外と急がれたのです。11月までには、太平洋での貢献量を挽回して大英帝国を復元しようとするイギリス軍もビルマで活発化し(いわばソ連と同じ動機で)、英米豪連合軍の各地侵攻(の兆しだけでも)→日本の統治崩壊→現地人・日本人居留民虐殺が始まっていたはずです。
>たいした混乱もなく終戦を迎えるわけですから。
原爆というわかりやすい弁明がなければ、詔勅にも説得力がなく、混乱が生じたでしょう。あのイタリア軍ですら、突然の降伏時には、興奮した指揮官によって暴走が生じました。武装解除の時にイタリア兵1万人以上が死んでいます。徹底抗戦以前の降伏というものは、とかく混乱を伴いがちで、原爆はその混乱をも防いだのです。
日本軍の中で、鬼畜米英の捕虜になったときの運命を鵜呑みにしていたのは、下層の兵士だけでした。
繰り返すと、私が言ったのは次のことです。
軍上層部が、米英は鬼畜でないと知りながら、民間人や負傷兵の殺害を兵に教育していたのは、悪質な切り捨て戦略であると。沖縄で死んだ二十万の民間人は、ほとんどが米軍でなく日本軍の手で殺されました。日本兵死者ですら、大半が同じ日本兵によって処分されました。
日本政府と軍は、降伏したら全員虐殺されると国民に信じ込ませていたのだから、原爆を落とされたからといって抗議するのは偽善的もいいところです。
大東亜戦争の文脈では、国民総動員で全員兵士でしたから、日本の観点からは敵に何をされようが文句は言えません。
いまの私たちが責めるべきは、当時の日本政府でしょう。
天皇の降伏 11 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月21日(土)11時34分35秒
>1945年8月~11月の間にどのくらいの被害がありえたか、
まず、日本軍がジャングルへ逃げ込んでいた地域では、この被害は少ないでしょう。
日本軍が統治できていた地域では、この被害はなお少ないでしょう。
たいした混乱もなく終戦を迎えるわけですから。
戦地では、終戦は命令によって行われたのです。
>このスローガンを信じて民間人を殺したものもいるでしょう。しかし、部隊レベルで全員がそれを信じていたなどというのは都市伝説もいいところです。
おどろくなかれ、これを信じていたのです。
だから、あの戦争は現在から見ると理解に苦しむことが多いのです。
このことを理解して、あの戦争を見てみてください。
全てが納得できるようになります。
一つ例をあげます。
日本軍の捕虜がどうしてああも何でもペラペラと喋ったのか? ほとんどの人が理解に苦しみます。
日本軍の捕虜は、はじめは「殺せ、殺せ」と喚きます。
しばらくすると放心状態になります。
そして、聞かないことまでもペラペラと喋るようになるのです。
捕虜の気持ちを書いてみます。
・鬼畜につかまってしまった以上、なぶり殺しにされるだろう、いっそ早く殺してくれ。
・オレをなぶり殺しにしないし、やさしい、これはいったいどういうことだ?
・オレが信じていたことはウソだったのだ、日本軍がオレを騙していたのだ。
まあ、こんな感じです。
日本軍の捕虜は喋った後、日本に送り返されることを一番恐れました。
日本に返されたら、日本になぶり殺しにされるだろうと思っていたからです。
要するに、日本軍というのは高度に洗脳された集団だったのです。
洗脳するために敵のことは一切教えないようにしました。
野球なども日本語にしました。
アメリカが対日戦争にそなえて、日本研究をしていたのと対照的です。
Re:天皇の降伏10 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月21日(土)01時15分0秒
>インドネシア、マレー、インドシナは他の地域に比べて戦闘規模が全然違います。
>この地域を例に出すのは、フィリピン等の大規模地域の後にすべきです。
話が錯綜しているようですが、1945年8月~11月の間にどのくらいの被害がありえたか、が問題でした。
継戦中のフィリピン、ニューギニア、中国、ビルマよりも、1945年8月~11月に新たに死傷者が急増しそうなのはインドネシア、マレー、インドシナ、満州です。とくに新たな作戦地域となるインドネシアと満州。日本軍の敗走時の虐殺と集団自決が生じます。
>鬼畜米英に捕まったらひどい目にあわされた後に虐殺される、という認識なのです。
>だから、民間人を守れなくなったときに、情けとして殺してしまうのです。
これは、戦略上のスローガンであって、捕虜になったら軍人ばかりか民間人までも虐殺されるなどと信じていた人は、指揮官レベルには居ません。もし日本軍の上層部がこれを信じていたとしたら、こちらも連合軍捕虜も皆殺しにしていたはずです。確かにヨーロッパに比べてアジアでは連合軍捕虜の死亡率は高率でしたが、皆殺しには程遠い。
そもそも、「鬼畜米英に捕まったら虐殺される」などと日本軍将校レベルが信じていたとしたら、救いようのない知的レベルの低さでしょう。諜報活動はどうなっていたのか。日本軍は道徳的にどうしようもない外道集団だったと私は思いますが、知的にはそれほど愚劣な集団だったとは思えません。
「鬼畜米英に捕まったらひどい目にあわされた後に虐殺される」という民間人への脅しは、はっきりと、機密漏洩防止のための方便でした。ただ、下層の兵士の中には、このスローガンを信じて民間人を殺したものもいるでしょう。しかし、部隊レベルで全員がそれを信じていたなどというのは都市伝説もいいところです。
天皇の降伏 10 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月20日(金)11時53分46秒
軍人同士の同士討ちは誤射以外考えられないのですが、民間人を殺害した例はありますよね。
これは、おっしゃるような「機密が洩れてマズイ」という事と違います。
当時は、鬼畜米英に捕まったらひどい目にあわされた後に虐殺される、という認識なのです。
だから、民間人を守れなくなったときに、情けとして殺してしまうのです。
沖縄戦でも日本軍が撤退するときに民間人のいる洞窟に手榴弾を投げ込んで撤退した例が証言されていますが、これも、どうせアメリカ人に蹂躙されて殺されるなら、情けとして殺してあげた、わけです。
硫黄島での味方同士の殺害もほぼ同じ意味です。負傷した兵は軍が移動するときなど、オレを殺してから行ってくれ、と頼むのです。武士の情けをかけてくれ、というわけです。頼まれた方も必死です。ほとんどの人は殺せなかったと思いますが、殺せた人もいるはずです。
上官を恨んで殺したなどというのは例外中の例外です。
インドネシア、マレー、インドシナの日本人戦没者数です。
スマトラ・ジャワ・セレベス・小スンダ 25,400
タイ・マレーシア等 21,000
仏領インドシナ 12,400
日本軍がジャングルへ逃げ込んだ地域の日本人戦没者数です。
フ ィ リ ピ ン 518,000
東部ニューギニア 127,600
ビスマルク・ソロモン諸島 118,700
インドネシア、マレー、インドシナは他の地域に比べて戦闘規模が全然違います。
この地域を例に出すのは、フィリピン等の大規模地域の後にすべきです。
>特に映像はヤラセの宝庫です。
これは事実で、大学の授業でも、
http://green.ap.teacup.com/miurat/683.html
従軍カメラマンがさまざまな演出手法をあとで語っているDVDを学生に見せました。いまテレビ番組がやったら大問題になるようなことを当時は平然とやっていますね。
>同士討ちについては、誤射以外ではありえません。
これは大違いでしょう。
サイパンや沖縄では、投身自決をためらっている民間人を日本兵が背後から射殺する光景をアメリカ軍が数多く報告しています(民間人を要塞建設に協力させたので、民間人が生きて捕虜になると、機密が洩れてマズイので。大和魂の精神主義にかこつけて、本当は実利的な理由で民間人は自決を強要されました)。
硫黄島では、戦死者よりも味方同士の殺人による死者のほうが多かったと言われます。大半は負傷者を殺したのですが、命に別状なくても、動けないものは殺しました。捕虜になって機密を漏らすのを防ぐためでした(捕虜になると本国の家族まで非国民扱いなので、日本兵は捕らえられると諦めて米軍の尋問に何でもペラペラ喋ったらしい。捕虜になっても戦闘員の気概を捨てなかった他国の兵士とは大違いです)。
故意の同士討ちは日本軍ばかりでなく、ドイツ軍、ソ連軍でも多く見られました。ただし、日本軍はとくに、訓練時の理不尽なシゴキがあったので、どさくさに紛れて上官を撃って恨みを晴らした兵も多かったそうです。(さすがに将校が殺された例は少ないでしょうが)
>終戦までに撃破された島々では日本軍はジャングルへ逃げ込んだのです。
>ジャングルには民間人はいません。
インドネシア、マレー、インドシナ、中国では、日本軍の支配地域は8月現在まだ広大かつ安泰でした。日本軍は敗走とともに機密保持とスパイ容疑のため住民を大量殺害しますから(沖縄では標準語を喋らぬ住民は処分する旨、軍命令の布告が証拠として残っています)、東南アジアで8月以降死者が10万を超えるのはあっというまでしょう。
原爆は落ちるべきではありませんでしたが、日本軍・政府があのように国体と名誉にこだわっているかぎり、アメリカは原爆投下で解決すべきだったでしょう。結果として徹底抗戦せずに日本の名誉が守られたのですから、これ以上正しいことがあるでしょうか。広島長崎の犠牲で日本軍・政府は我を通せたというわけです。
犠牲者のためにも、本当に間違っていたのは投下したアメリカではなく、日本軍・政府だったと認めるべきなのです。
天皇の降伏 9 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月20日(金)00時11分4秒
戦記もいろいろあります。
特に映像はヤラセの宝庫です。
もっと残酷に、もっと悲惨に、と過激な表現を重ねていきます。
映像作家の方はといえば、怖いもの見たさの聴衆に媚びるだけのものから、戦争をことさら醜く描くことによって反戦を気取っているもの、などいろいろです。
・同士討ちについては、誤射以外ではありえません。
・人肉食もウソです。硫黄島戦の末期に焼かれて墨状になったものをかじったという証言があり、これが限度です。
その理由は説明できますが、長くなりますので今は簡単に書いておきます。
・銃を撃つ場合も必ず上官の命令が必要です。独断で打てばその兵はひどい目にあいます。日本軍ではこういう教育は徹底しています。
・ジャングル戦では多くの将兵が餓死しましたが、餓死するときは必ず食料を一握り残して餓死するのです。日本軍には人肉を食べるという発想自体ができません。
終戦までに撃破された島々では日本軍はジャングルへ逃げ込んだのです。
ジャングルには民間人はいません。
中国でも末期は小競り合いばかりでしょう。
何万人も人が死ぬような派手な戦闘は沖縄戦が最後でしょう。
終戦を決めた8月9日には日本は文字通り死に体だったのです。
原爆が止めになっただけです。
Re:天皇の降伏8 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月19日(木)19時10分12秒
>日本軍の組織的な反撃はなかったはずです。
民間人の殺害が起こりやすいのは、戦闘時ではなく、敗走の時です。(あるいは南京のように、掃討戦の時です)
対米英戦でアジアの民間人がとくに多く殺されたのは、日本軍、連合軍のいずれかが攻勢に出て要地を占領するまでの間でした。1942年2月のシンガポールや1945年1月のマニラがその例です(いずれも加害者は日本軍)。
原爆が投下されなかった場合、沖縄戦までのペースと同様に通常戦争が続きますから、ボルネオ作戦が進行し、日本軍の敗走時にインドネシア各地で虐殺が起きたことは大いに考えられます。そうなると、戦後のインドネシア独立戦争のために日本軍が進んで武器を供与することもできず、戦後日本はアジアで一層まずい立場に立たされていたでしょう。インドネシアは唯一占領統治がうまくいき親日感情を得られた土地なので、大東亜共栄圏の題目に信憑性を与え、わずかに日本を免罪しているからです。
また、フィリピンとニューギニアでは、追い詰められた日本兵どうしが殺しあって戦友の肉を食うという悲惨な状況でした(『ゆきゆきて、神軍』では、白人兵・黒人兵しか食べてないと言っていますが、インタビュー集『軍艦武蔵』(DVDあり)では、海軍兵が通るのを陸軍部隊が待ちぶせして射殺し、喰っていたという証言がなされています)。
ビルマ、中国では戦闘が継続中でしたから、3ヶ月で死者数十万は軽いでしょう。ソ連は原爆投下を見ずとも8月末までには参戦したはずなので、満州・朝鮮でも何十万もの民間人死者が出たことは確実です。3ヶ月でソ連が北海道に上陸できたかどうかはともかく、ソ連軍の流す血が多くなればなるほど、日本降伏後、スターリンが北海道を要求する権利が増し、日本は分断統治されていたはずです。
あの時点での3ヶ月はきわめて大きいでしょう。
というわけで、やはり原爆投下は善かった、としか言えないのではなかろうか。
アメリカでは、欧州戦の死者は対日戦の二倍近くであるにもかかわらず、どちらかというと対日戦のほうが今もって重視され、欧州戦は真珠湾や原爆のような劇的事件がなかったせいか、記念日なども無視される傾向があるようです。そんなことで喜んでも仕方ありませんが、原爆投下が戦後の日本の地位を高め、国益にプラスになっていることは事実なのです。
原爆投下も本土決戦もナシで日本が降伏していたら、太平洋戦域は欧州戦の終結によって自然消滅した二流の戦域という評価が定着し、日本政府は「ドイツの威を借りて国民を欺いていた政府」(これは確かに事実に反する)として軽蔑されていたのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、原爆投下は、大惨事を未然に防いだのみならず、日本の名誉を救ったのです。(チャーチルも原爆をそう評価していました)
天皇の降伏 8 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月19日(木)13時45分1秒
1945年8月頃に捕虜になった日本兵が約51千人ということは、この時までに310万人以上の日本兵が海外で戦死したということです。
この時期は中国を除く戦線ではアメリカの掃討作戦が行われていた時期で、日本軍の組織的な反撃はなかったはずです。
ですので、終戦が3か月延びても亡くなる人が民間人を含めても多くはないことは想像できます。
今後もアメリカは必ず広島・長崎を肯定してきます。
その時に我々は必ず反論すべきなのです。
そうすることが象徴として、「二千万(WW2全体で六千万)の戦災者」の弔いにもなると思うのです。
Re:天皇の降伏 7 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月19日(木)02時35分50秒
>1945年8月頃に捕虜になった日本人は、約51千人だそうです。
この数字の意義がよくわかりませんが、日本人兵士は1945年8月15日段階で海外だけで約400万人(国内も合わせると約700万)。3ヶ月でこのうち何人が死んだかは「?」ですが、十万の大台に乗るか乗らないか程度でしょうね。
「1937年以降のアジア太平洋では、平均して1ヶ月20万人が戦争を原因として死亡していた」と私が言ったのは、日本軍兵士のことではなく、ほとんどアジアの民間人のことです。
オリンピック作戦開始までの3ヶ月に、原爆被災者を大幅に上回る民間人がアジア各地で死亡したであろうことは確実でしょう。(ただし、太平洋戦争がいつ終結しても、直後に中国内戦、蘭仏の植民地戦争などの死者がただちに続いて厳密な区別がつかないと言えば言えますが)。
日本人死者の大半は、最終年に生じています(1945年の半年だけで百万人以上)。
それ以前は、日本人の20倍もの海外民間人が日本軍の行為により死んでいたのです。
原爆被害は、もちろん大変なことですが、世界の注目を集め、有意義視されたあの歴史的事件での被害者であるということは、言葉は悪いですが、戦災者の特権階級だとも言えます。片田舎での名も付かない無数の小事件で虐殺されたり餓死・病死したりした二千万(WW2全体で六千万)の戦災者のことを思うと、つくづくそう感じられてなりません。
国民感情を主張することをやめたらおしまいですが、それを支える合理的な根拠がどれほどあるかを反省することもまた重要でしょう
天皇の降伏 7 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月19日(木)00時19分40秒
広島、長崎の原爆犠牲者は戦後もまぜて約335千人だそうです。
1945年8月頃に捕虜になった日本人は、約51千人だそうです。
つまり、原爆が無く11月の本土上陸で終戦になったとして、捕虜になるはずの人達が全員戦死したとしても原爆の犠牲者の約6分の1です。
そしてここが重要なのですが、原爆の犠牲者は民間人だということです。
亭主が留守のうちに、女性、子供、老人を何の予告も無く焼き殺したのです。
原爆の効用などは、全てアメリカの言い分です。
特に、原爆の方が犠牲者が少ないというのはまったく間違っています。
要するに、いいわけなのです。
我々日本人は、日本が続く限り、広島、長崎の原爆投下を非難し続けます。
そしてアメリカは日本の真珠湾攻撃を非難し続けるでしょう。
それでいいのだ、と思います。
Re:天皇の降伏 6 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月18日(水)13時36分45秒
「君側の奸」論を侮ることはできません。
天皇のいかなる和平希望表明も、「君側の奸」の一言で説得力を失いました。天皇と直接接触できる人間が限られているので、敗北主義的言説が誰の真意なのか確かめようがないからです。
前述しましたが、原爆投下前は、天皇自身も「一撃論」を信じていました。本土決戦のどのあたりの段階で天皇が諦めたかは、推測の域を出ません。
そんなあやふやな希望的観測にすがるよりも、原爆投下で即、天皇を動かそうとするのは、戦略的に当然のことです。
かりに、原爆投下無しのシナリオのうち、最善のものを考えてみましょう。(確率的には極小ですが、可能性として)
11月の本土上陸まで、日本本土へは海上封鎖だけが行なわれ、11月の上陸作戦開始と同時に日本が降伏したとします(つまり本土決戦の犠牲者が皆無だとします)。
その場合も、大陸と島々において原爆投下以上の犠牲者が出たことは確実です。1937年以降のアジア太平洋では、平均して1ヶ月20万人が戦争を原因として死亡していたからです。(45年8月~11月には、中国、満州、ビルマ、ボルネオ、ニューギニア、太平洋の潜水艦戦等が予想される被害地です。ちなみに、ソ連軍が11月までに日本を降伏させていたとは考えられません。ソ連軍は地上戦の準備しかしておらず、上陸部隊は不備だったので、占守島などでは失敗しています)
さらに、いまはすっかり忘れられていますが、当時、米英はたえず、蒋介石政権の崩壊を心配していました。
ただでさえ汚職と権力争いで腐敗していた国民党は、一号作戦の結果さらに弱体化していて、中国を代表する政権と言えるかどうか米英に疑念を醸していました。明号作戦の結果かえって基盤を強化していた大陸日本軍に蒋介石が屈することになろうものなら、今さらながら白人対アジア人の人種戦争になってしまい、アジア民族主義への影響も懸念されて、とてつもなく面倒なことになっていたという心配は理解できます。
原爆は、中国の戦線離脱(大東亜戦争の人種戦争化)という不安を払拭してくれました。
もちろん、天皇と日本政府の決断を大幅に早めたことも事実であり、陸軍の責任を体よく解除したことも事実であり、徹底抗戦を表明して後に引けなくなっていた日本の名誉を救ったことも事実です。
どうみても、いいことずくめでした。
天皇の降伏 6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月18日(水)00時15分54秒
原爆投下
↓
天皇を含む陸軍以外の人達の終戦の意向
↓
御前会議
↓
天皇への意見要請
↓
天皇の終戦決意
↓
終戦
天皇の終戦決意というよりも、天皇を取り巻く人達の終戦への意向が御前会議を開かせ、天皇への意見要請によって御前会議の決議としたわけです。
天皇は意見を求められなければ意見を述べなかったのは二.二六事件以来です。
天皇を取り巻く人達は終戦への意向が高まっていたと思われます。
特に海軍は戦艦や空母を失って戦争継続能力を失っていました。
当時の鈴木首相は海軍出身なので、日本の戦争継続能力を熟知していたはずです。
しかし、陸軍が強健に本土決戦を主張するので意見がまとまらない。
そこで、天皇の決断を仰ぐために御前会議が開かれたわけです。
そのきっかけが原爆投下であることは事実だと思われますが、原爆投下がなくても事情に変わりはない。
原爆でなければ、ソ連の参戦、でなければ、敵の本土上陸あたりでこういう結果になったと考えるのは、当時の事情を振り返れば妥当だと思われます。
>天皇は松代に移動して徹底抗戦を黙認しただろうし、
これがあったとすると、陸軍による天皇の拉致監禁ですが、これは天皇の意志とは違います。
Re:天皇の降伏5 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月16日(月)19時50分14秒
私は正反対の解釈をとっています。
天皇が(戦争継続を諦めるほどに)国民の生命を心配したという形跡は、原爆投下以前には皆無です。彼の関心は、一貫して「天皇家の安泰(≒国体護持)」でした。国体護持が確保されないかぎり降伏しない、というのが陸軍のみならず和平派(外務省など)も含めた政府全員の意見であり、天皇も例外ではなかったのです。
原爆投下を見て裕仁は初めて本気で終戦の意向を側近に洩らすようになりましたが、これは、一発で皇室メンバー全員が即死させられる可能性が出てきたため、国体にこだわることが無意味になってきたからです。現に、三発目の戦略原爆は東京に落とす予定だったといわれています。(その前に戦術原爆が九州で十数発使われていたでしょうが)
>8月9日の御前会議が開かれたのは、陸軍大臣を除いて天皇にポツダム宣言を
>受諾してほしい、という思いからだったと思います。
天皇以外の要人はまだ国体護持の題目に未練があり、連合国への日本政府の返答は、この期におよんで「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求はこれを包合しおらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾するというものでした。
この「条件付き降伏」を、アメリカ側が強引に無条件降伏と解釈して戦争を終わらせてくれたというのが真相です。
いずれにしても、原爆の脅威に直面しなければ、天皇は松代に移動して徹底抗戦を黙認しただろうし、かりに終戦を命じたとしても(「命じる」ことはもともと規定上不可能でしたが)、説得力に欠け、「君側の奸」論が力を得て陸軍大臣は参謀たちの反乱計画に承認を与えていたかもしれません。軍が天皇の意向を無視して暴走するのは、満州事変や日中戦争の時に証明済みです。
天皇の人格がどうであったか、戦争責任があるかないかは別として、原爆投下のような「わかりやすい」ショックに支援されなければ、天皇に陸軍を抑える力がなかったことは確実です。
天皇の降伏 5 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月16日(月)11時33分46秒
>原爆のおかげで天皇が名目上の救世主たりえて、すんなり生き延びたという感じですね
これは誤解だと思います。
8月9日の御前会議が開かれたのは、陸軍大臣を除いて天皇にポツダム宣言を受諾してほしい、という思いからだったと思います。
天皇が受諾すれば国民は納得することを皆知っていたのです。
だから、法律にはない天皇の玉音放送を国民に放送した。
その放送さえ阻止できれば本土決戦に持ち込めると陸軍が画策し行動したことは「日本の一番長い日」に詳しく描かれています。
つまり、原爆などではなく、天皇の決意で国民は納得したのです。
そして、天皇がこの決意をするということは、天皇の死を意味していたのです。
天皇もそれを覚悟したのです。
戦後、マッカーサーに自分が責任を取ることを告げますが、この意味は自分を処刑し責任追及を終了させ、国民に食料を与えてほしいという意味なのです。
マッカーサーはこの天皇の態度に、「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」と語っています。
天皇が戦争責任で処刑されなかったのは、相手がアメリカだったからだと思います。
実際に天皇は立憲君主でしかなく責任はないのですが、相手がソ連だったら間違いなく処刑されていたでしょう。
この辺のことなどを考えると、日本は本当に運が良かったのだと思います。
Re:天皇の降伏4 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月16日(月)02時17分32秒
>原爆投下がなくても、いつかはこういう御前会議が開かれて
>同じ結果になったのではないかと思います。
予定の進行の中で「降伏する」というのは、特攻死した若者たちの遺族を納得させられないと思われます。
理不尽な死を強いられた戦死者や罹災者たちの無念に抵触することなく戦争終結できるのは、原爆のような超自然のパラダイム変換あってこそでしょう。
現在、三百万人の戦死者の遺族たちのほとんどが奥崎謙三にならずに済んでいるのは、「原爆が落ちたのでは中途終戦も仕方なかった」と諦めがついたからでしょう。本土決戦の最中に「終わり」では、「徹底抗戦を信じて夫は・息子は・兄は・弟は命を捧げたのに」と、政府と天皇に対する国民の怨みが相当残ったでしょうね。(むしろそのほうが、天皇制解体の気運をもたらして戦後日本のためにはよかったかもしれませんが。――原爆のおかげで天皇が名目上の救世主たりえて、すんなり生き延びたという感じですね)
予想外の事件といえばソ連参戦もそうでしたが、ソ連はもともと仮想敵国だったので、陸軍が名誉を失わずには降伏できなかったはずです。御前会議で終戦が決せられても、陸軍大臣が辞職して白紙に戻したでしょう。やはり、陸軍の責任とは無縁の、軍事兵器というより政治兵器である「原爆投下」こそが、軍を宥める切り札になったのではないでしょうか。
天皇の降伏 4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月15日(日)14時33分39秒
天皇がポツダム宣言を受諾した8月9日の御前会議の証言があります。
内閣書記官長として列席していた、迫水久常(さこみずひさつね)氏の証言です。
「 第二次世界大戦末期において、国土は原爆を投下され、数多くの同胞を、国土内、のみならず、あるいは北海の地に、あるいは南溟の空に失いました。それにもかかわらず、当時の最高戦争指導会議においては、ポッダム宣言の受諾か本土決戦覚悟の戦争継続か、議論は二つに分れて、どうしてもきまらなかったのであります。そこで、まとまりをつけるためには、陛下の御聖断を得るほかなしと、当時の鈴木総理は決意をして、昭和二十年八月九日の二十三時から、地下十メートルにある宮中防空壕内の一室で、歴史的な御前会議をひらくことになりました。
鈴木総理の司会で会議は始まります。
・迫水久常 ポツダム宣言を読み上げる。
・外相 ポッダム宣言を受諾すべき意見を述べる。
・阿南陸軍大臣 本土決戦を主張する。
・米内海軍大臣 外務大臣の意見に同意する。
・平沼枢密院議長 外相に同意する。
・総理 『本日は列席一同熱心に意見を開陳いたしましたが、ただ今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫しておりまして、まったく遷延をゆるしません。おそれ多いことではございますが、ここに天皇陛下の思し召しをおうかがいして、それによって私どもの意見をまとめたいと思います』
そこで天皇は、『それならば自分の意見をいおう』と発言されます。
『自分の意見では、外務大臣の意見に同意である』として、理由を述べます。
「太平洋戦争がはじまってから、陸海軍のしてきたことをみると、予定と結果が、たいへんちがう場合が多い。大臣や総長は、本土決戦の自信があるようなことを、さきほどものべたが、しかし侍従武官の視察報告によると、兵士には銃剣さえも、ゆきわたってはいないということである。このような状態で、本土決戦に突入したらどうなるか、ひじょうに心配である。あるいは日本民族は、皆死んでしまわなければ、ならなくなるのでは、なかろうかと思う。そうなったら、どうしてこの日本を子孫につたえることができるであろうか。自分の任務は、祖先から受けついだこの日本を、子孫につたえることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらって、その人たちが将来ふたたび立ち上がってもらうほかに、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。このまま戦をつづけることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分は、明治天皇の三国干渉のときのお心もちをも考えて、自分のことはどうなってもかまわない。堪え難いこと、忍びがたいことであるが、かように考えて、この戦争をやめる決心をした次第である…」。
まず、天皇が御前会議で意見を述べることは異例のことです。
そして、その意見は、本土決戦はできない、戦争をやめる、ということです。
この証言から以下ことがいえると思います。
・意見を求められなければ、天皇は意見を述べなかった。
・天皇は、本土決戦はできない、という意見を持っていた。
・この御前会議の参加者は陸軍大臣を除いて、ポッダム宣言受諾という意見だった。
おそらくは、原爆投下がポッダム宣言受諾派を増やし、この御前会議が開かれる結果を招いたと思いますが、原爆投下がなくても、いつかはこういう御前会議が開かれて同じ結果になったのではないかと思います。
Re: 天皇の降伏3 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月15日(日)02時32分48秒
>本土への敵の上陸という、国民の一大事にも降伏を聖断しただろうと考えても、
>おかしくはありません。
これは9割9分ありえないでしょう。
「国民の一大事」ということでは原爆投下も連合軍上陸も同じですが、決定的な違いがあります。
原爆投下は青天の霹靂だったが、連合軍上陸は予想どおりの出来事だということです。
予想されたこと(というより百%確実なこと)が起きてから降伏するくらいなら、その前に降伏するのが筋です。それができなかったから、ズルズルと戦争を続けてきたのが現実です。
予想されたことが起きてしまってから降伏するのは、不作為による大量殺人(見殺し)と同じです。
実際、原爆なみの被害を生じた東京大空襲や沖縄戦がすでにして「国民の一大事」でしたが、そのとき裕仁は終戦のシュの字も口にしていません。予想された被害なのだから当然です。
予想外の原爆投下の直後であれば、そこで降伏しても国民に対する裏切りにはなりません。
通常戦争・本土決戦による一億総玉砕という予定内の進展の途中でいきなり終戦の詔勅が出されたら、国民は、なぜ今さらと天皇に裏切られた気持ちになるだけです。「残虐なる爆弾」に言及できなければ、降伏の名目が立たず、継戦派の「君側の奸」論がまかり通って、へたすると国内で内乱が起きていたでしょう。
当時の日本は、原爆投下という「パラダイム変換」無しには降伏できるはずのない状態だったことを、いとも簡単に日本人が忘れてしまっていることが不思議です。
国民総動員で待ちぶせしていた本土決戦が予定どおり始まったからといって天皇の介入が合理的になされ得たか? そんな確率はほぼゼロだったと思われます。
以上は、新着順81番目から100番目までの記事です。
天皇の降伏 3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月14日(土)14時04分42秒
>立憲君主であろうと努めた裕仁は、二・二六事件と終戦時の二度の介入は憲法に反した「間違い」だったと述懐しています。
この二回だけ立憲君主の道を踏み外したと述懐していますよね。
二・二六事件のとき西園寺公望から諌言され、その後は「君臨すれど統治せず」の態度を徹底していました。
御前会議で報告されたことは全て肯定していたのです。
国民が決めたことを否定しない、という態度です。
御前会議で、もしポツダム宣言を受諾することを報告すれば、天皇は肯定したはずです。
この辺から、人の話を良く聞き、正邪を判断し、決めたことを守り抜く意志の強い人柄がうかがえます。
また、天皇は生物学が趣味で、天皇の名が付けられた生物がいます。
この辺から、論理的な思考能力は優れていたことがうかがえます。
そして、マッカーサーとの対談から、自分のことよりも国民を大事にする考え方を持っています。
天皇は、原爆投下という国民の一大事に降伏を聖断しましたが、
本土への敵の上陸という、国民の一大事にも降伏を聖断しただろうと考えても、おかしくはありません。
Re:天皇の降伏2 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月12日(木)23時39分37秒
かりに、できるかぎりの迎撃をしていたにしても(あれで精一杯であったのならなおさらのこと)、サイパンを落とされた時点で降伏するのが筋だったはずです。燃えやすい大都市を有した脆弱な国土、海上封鎖で干からびてしまう島国では、長期戦をやったらどうなるかくらい予想がつきそうなものです。
天皇は、軍にすっかり感化されて「一撃論」の信奉者でしたから、通常戦争の流れでは降伏を命ずることなどありえないでしょう。対支一撃論以来、太平洋戦争が不利になってからは、「一度大きな戦果をあげて相手に出血を強い、有利な講和を」と変わりました。本土決戦のどこかでこの「一撃」が期待できると裕仁は思っていました。
そもそも、あの聖断が憲法の規定を超えていました。
立憲君主であろうと努めた裕仁は、二・二六事件と終戦時の二度の介入は憲法に反した「間違い」だったと述懐しています。やむをえない過ちだったと。過ちによってでも日本を救うという天皇の決断は、原爆投下のショックでしか実現できませんでした。
大西瀧治郎が神風特攻隊を「特攻は統帥の外道」と言いながら開始したときも、大西の甘えた期待に反して裕仁は終戦の断を下さず、「いっそう頑張るように」と激励してしまいました。裕仁には、特攻隊員数千の死の責任があるといえます。
裕仁という人は意外に好戦的であり、海軍が考えてもいなかった大和特攻も裕仁の一言によってなされた作戦です。大陸打通作戦の時も「昆明まで占領できないのか」などと催促していました。
原爆によって皇室の壊滅の危険を感じなかったら、裕仁は本土決戦を大いに激励し続けたことでしょう。
天皇の降伏 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月12日(木)21時35分0秒
>日本軍がちゃんと迎撃していたら、米軍は高々度爆撃を保たざるをえず、東京大空襲の惨害も生じなかったはずです。
日本軍はできる限りの迎撃をしていたのです。
にもかかわらず、アメリカの進撃を防げなかったのです。
これは日本軍の責任などではなく、アメリカの勝利なのです。
日本軍の責任だというなら、軍や政府だけではなく全日本人の責任です。
兵器の質や量を上げるには、軍や政府だけではできないのですから。
>通常兵器での戦闘にとどまるかぎり、少なくともドイツなみの死者を出すまでは日本軍の組織的抵抗は続いたのではないでしょうか。
ここで、天皇の人柄を考察しなければならないと思います。
原爆投下のニュースを聞いて、無条件降伏、という思考ができる人間は当時では天皇一人です。
天皇の人柄の分る話があります。
戦後のマッカーサーとの対談です。
マッカーサーはどうせ命乞いだろう、と迎えにも出なかったのですが、天皇は責任は自分にあることと国民に食料を与えることを頼んだといいます。
天皇の思考の中心には国民があるのではないか、と想像できます。
とすると、原爆がなくても本土上陸の前後に無条件降伏を聖断した可能性が高いと思います。
あと、この↓奇麗ごとにも反論しておきます。
>「天皇に原爆ショックを与え、和平に介入させる必要があった。つまり、原爆投下の目的は戦争を早期終結させ、無駄な犠牲者を出さないことだった。」
アメリカは原爆投下以外の戦術を何一つ考えていません。
他の戦術を考えないのに原爆投下という戦術が「無駄な犠牲者を出さない」などといえるわけがない。
Re:天皇の降伏 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月12日(木)01時38分21秒
B29は対日戦にだけ投入されたので、たしかに、日本がドイツに比べてきわめて能率的な破壊を被った弁明にはなるでしょう。B29はB17にはない与圧システムを完備していたので、搭乗員は防寒服も酸素マスクも無しで行動できました。遠隔操縦の防御砲火は、朝鮮戦争でもジェット戦闘機ミグ15に善戦したほどです。B29は第二次大戦のレベルを超えた兵器だったと言えます。
日本の木造家屋の弱さもあり、対ドイツ空爆の11分の1の投下量でほぼ同数の人間が殺されてしまいました。
しかし、ドイツに比べて日本の防空体制がおろそかであったことは事実で、戦後のアメリカ戦略航空軍のレポートにもそれは指摘されています。日本の迎撃の弱さを知ったアメリカ軍は、B29の高々度爆撃の性能は必要無しと判断し、機銃を取り外して大量の焼夷弾を積んだ低高度爆撃に切り替え、大被害を与えました。日本軍がちゃんと迎撃していたら、米軍は高々度爆撃を保たざるをえず、東京大空襲の惨害も生じなかったはずです。
戦争体験者のどの話を見ても、終戦は意外で、突然の印象があったといいます。今から見れば原爆がなくても日本は降伏していただろうなどと脳天気なことが言ってられますが、私にはそうは思えません。通常兵器での戦闘にとどまるかぎり、少なくともドイツなみの死者を出すまでは日本軍の組織的抵抗は続いたのではないでしょうか。その場合、ソ連軍による大規模レイプによって(ドイツでは届け出があったものだけで200万件以上)、従軍慰安婦などは戦後問題にもされなかったでしょうね(現にドイツの従軍慰安婦はホロコーストの陰に隠れて戦後一度も問題化していないようです)。
太平洋戦争は、「途中で終わった戦争」でした。原爆という派手な事件のせいで日本は徹底抗戦した場合と同等の印象を残し、戦後、その戦争努力は過大評価されることになりました。有難く思わねばなりません。
天皇の降伏 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月11日(水)21時55分28秒
>国民保護の意志など始めから無かったと言わざるをえないでしょう。
>責められるべきは、どう考えても日本政府ですね。
ドイツが迎撃していた爆撃機は、B―17です。
日本が本土で迎撃していたのは、B-29です。
簡単な性能比較↓です。
B-17 最大速度:510km/s 実用上昇限度:10850m
B-29 最大速度:581km/s 実用上昇限度:11580m
ゼロ戦 最大速度:564km/s 実用上昇限度:11050m
雷電 最大速度:604km/s 実用上昇限度:11500m
つまり、ゼロ戦ではB-29は撃墜が不可能なのです。
このB-29を撃墜できるのは海軍では、雷電と紫電改ぐらいしかないのですが数が足りない。
こういう科学技術工業力の差は如何ともしがたい。
この差は、保護の意志の問題ではありませんし、責められる問題ではないでしょう。
>「天皇に原爆ショックを与え、和平に介入させる必要があった。つまり、原爆投下の目的は戦争を早期終結させ、無駄な犠牲者を出さないことだった。」
これはアメリカの言い分ですが、原爆によって天皇が降伏を決意したのは歴史的事実ですよね。
>原爆投下も是認せざるをえないでしょう。
だからといって是認はできません。
原爆が、天皇に降伏を決意させましたが、
天皇の降伏の決意に、原爆が必要だったわけではないからです。
「平和的な手段」はいくらでも見出せたはずです。
Re:1945年の原爆5 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月11日(水)01時04分23秒
Usedさんのリンク先の、元エノラ・ゲイ航空士ダッチ・バンカーク氏の発言が的を射ています。
「天皇に原爆ショックを与え、和平に介入させる必要があった。つまり、原爆投下の目的は戦争を早期終結させ、無駄な犠牲者を出さないことだった。」
>チベッツの下で原爆投下のナビゲーターを務めたバンカークは、
>原爆がアメリカを勝利に導いたという考え方を否定する。なぜなら、
>日本は原爆を落とされるずっと前から敗北していたというのである。
>しかし、軍部は敗戦や無条件降伏を認めようとせず
>「1億総特攻」という玉砕作戦さえ議論されていた。
これは全く真実です。
「原爆が勝利をもたらした」という肯定論は、「日本はとっくに敗北し、和平を求めていた」という無用の反対論を招いてしまいます。
バンカーク氏の言うとおり、日本は原爆などなくても敗北していました。しかし通常兵器では降伏できなかったのです。軍のせいで降伏できない日本を降伏させるためには、一種超自然の天皇の介入が必要でした。介入させるためには、原爆のような超自然兵器以外には手はなかったのです。
小園大佐の態度が示すとおり、当時は、最後まで戦わずに降伏するのは「間違い」でした。しかし、今の私たちからみると、降伏は正しかったのです(あくまで当時は間違いであったことを認めつつ、今の観点では正しい、とすべきです)。
当時としての「間違い」である降伏を実現するには、原爆という「間違い」が必要だったわけですね。日本の降伏を正しいとする現在の立場では、原爆投下も是認せざるをえないでしょう。
いずれにしても、ドイツが全力を挙げて防空に努め、国土上空で5万人以上の連合軍搭乗員を殺し、地下防空壕設備や家屋喪失への補償も完備させていたのに比べ、お粗末な防空体制でたった1700人のB29搭乗員しか殺せなかった日本には、国民保護の意志など始めから無かったと言わざるをえないでしょう。本土決戦では、民間人を盾として使う戦法も公式に立案されていました。ハムさんの言うこともわかりますが、責められるべきは、どう考えても日本政府ですね。
(無題) 投稿者:Used 投稿日:2007年 7月10日(火)02時21分19秒
1945年の原爆4 訂正。5行目。
(訂正後)
トルーマンによる決断のメインの動機を
1945年の原爆5 投稿者:Used 投稿日:2007年 7月10日(火)02時16分24秒
> 終戦になったとき、厚木の司令官が諦めきれずに降伏を拒み、反乱を企てたのも同情できますね。
小園安名大佐のことも知りませんでしたが、いろいろ読んでいくうちに小園大佐の奥様がマッカーサーに宛てて書いたという嘆願書に行き当たりました。このような人たちがいたのかと、驚くばかりの内容でした。
http://blog.livedoor.jp/teruteru101/archives/23349564.html(嘆願書が本物かどうかの事実確認はできません)
また、まだ温存方針が有力でない頃かと思いますが、とても迎撃とはいえない規模と陣容の中での戦闘機によるB29への果敢な攻撃があったことも今回初めて知った次第で、そのような多くの人たちに対して申し訳ない思いがしました。
吉本隆明は東京大空襲の時、「もう面倒臭いや」と「開き直」って防空壕から出て、このB29爆撃機とゼロ戦との空中戦を見たそうです。
(『私の「戦争論」』 吉本隆明 P.195 ぶんか社)
これは原爆肯定論ではありませんが、二つの国家の中枢の間にいて重要なことは何も知らされていない、当時のごく一般の一国民の感慨として次の回想は貴重な証言かと思います。
> 原爆投下のニュースは、どこで?
> 吉本 富山県の魚津市にいたとき、原爆が投下されたことを知りました。富山県の魚津市
> に日本カーバイトの工場があって、そこで僕は徴用動員として働いていたんです。当時、
> 新聞では「新型爆弾」という言葉が使われていました。大量殺戮が可能な新型の爆弾がで
> きたんだなと思いました。でも、それがために、日本が降伏するのはおかしい、本土決戦
> で徹底的に戦うぞというのが、そのときの僕の気持ちでした。 (同上 P.204)
--------
> その意味で、広島の原爆慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」と、アメリカ側ではなく日本自身に反省を迫るニュアンスになっているのは正しいと言えます。(Re:朝日と読売)
碑文を書かれた人の意図は別として、この文章の意味が通るような、初めての解釈を見せていただいたように思います。
吉本隆明はこの言葉に対して『誰が誰に謝っているのか、あいまいで、わからない。また、何を「過ち」といっているかも、わからない。要するに、ごまかしなんです。そういうごまかしは、「終戦」という言葉づかいにも表われています。』と言っています。(同上 P.206)
> 日本の新聞もそうです。気に食わねえ。「何、いってやがるんだ!」って僕は思いました。(同上 P.206)
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話題がそれてしまったかもしれません。
1945年の原爆4 投稿者:Used 投稿日:2007年 7月10日(火)02時07分46秒
三浦先生
主にネット情報ですが、原爆投下に関連する記事や、まだ途中ですがトルーマンの手紙の一部などを探して読んでみました。
http://www.inaco.co.jp/isaac/kanren/kanren.htm
> ただ、ラッセルが挙げるそういった理由は、ちょっと邪推かなという気がします。
トルーマンによる決断のメイン動機を「戦争早期終結」目的以外に求めるのはやはり難しいようです。
もし「男らしくない奴だと軍に思われたくなかった」というのが隠れた真の動機であれば他の全ての合理的と思える推測を凌駕するかもしれませんが、それを立証できる会話を録音したテープでも出て来ない限り無理でしょうし、また軍事費の不正使用を糾して高い評価を受けていたという彼にすれば(Wiki情報:トルーマン)「国民に内緒の開発費20億ドル」の意味と重さは事の他大きかったと思われます。一刻を争う、祖国の存亡を賭けた原爆開発競争での勝利や砂漠での一応の実験成功も、戦後の政敵からの烈しい攻撃に対応するためには不十分な実績だったかもしれません。
2003年8月17日放送の「ザ・スクープ」で「東京原爆投下計画」について検証していましたが(※1)、それが事実であれば、戦争の早期終結が原爆投下の主目的であったことはより一層明白かと思います。(実験の意味合いの少ない、既に破壊された都市への投下ですし、なにより、皇居があります。)
(※1)
ご覧になったかもしれませんが、番組の概要が以下のサイトに整理されています。
版権の事情等があって現在は動画が見られないようなのが残念です。
「ザ・スクープ」58年目の取材スナップから~なぜ、原爆は落とされたのか?~
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/special/030806_1.html 1-4
「第4回スクープスペシャル」.......<世界初証言!幻の東京原爆投下計画>
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/toppage/030723.html
降伏しない悪? 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 9日(月)22時35分13秒
>降伏を遅らせた日本が悪い
私は、これは変な理屈だと思うのです。
例えば、柔道の試合において、骨を折られて負けるぐらいなら、もっと早く降参すべきだ、などといえるでしょうか?
例えば、相手がソ連だったとしても、もっと早く降伏すべきだ、といえますか?
シベリアへ抑留されて、原爆の被害者よりも大勢亡くなるかもしれないのです。
そして、ポルポトのように文化人を皆殺しにするかもしれないのです。
戦争に負けたら、ひどい目にあう、というのは常識だった時代です。
原爆の惨禍を見てもなお、負けるよりはましだと思うものなのではない
でしょうか?
私たちは現在、アメリカという国を知っています。
アメリカ人は、ひどいことをしないと知っています。
だからいえることなのではないですか?
日本がアメリカに負けたのは、本当に運が良かった。
天皇がいたから、ドイツのように首都を制圧される前に降伏できたのだ、と思います。
Re:朝日と読売 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 9日(月)00時38分16秒
侵略した日本が悪い、だけでなくて、降伏を遅らせた日本が悪い、という観点ですね、本来持つべきは。
たった3機のB29が戦闘機の護衛無しで領空侵犯してまったく迎撃されないのだから、この時点で、日本は戦争を諦めていたと言えます。(本土決戦のために迎撃機を温存していたというが、国民を守る余力を失った時点で戦争を続ける資格はありませんでしたね)
たしかに、降伏拒否は積極的な「行為」ではありませんが、ポツダム宣言に対して「黙殺」と応じたり、対ソ交渉を続けて米英をヤキモキさせたりしたことは、立派な「行為」であり、その意味で、広島の原爆慰霊碑の「過ちは繰返しませぬから」と、アメリカ側ではなく日本自身に反省を迫るニュアンスになっているのは正しいと言えます。
原爆投下は戦争努力の一環だったことは確かなので、行為側の勝利に貢献していないホロコーストや南京事件に比べて大幅に悪の程度は低いと考えるべきでしょう。
朝日と読売 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 8日(日)16時56分0秒
今回の防衛相発言については、擁護する人は皆無ですよね。(日本では)
前の「生む機械」発言同様、その見識の低さはあきれるばかりです。
政治家には余計なことを言わせないで、実務だけに専念させるべきですね。
朝日と読売の論説の差は、朝日の方がちょい利口なだけかもしれません。
責任は行為に対して発生するということを逆手にとられたくないだけかもしれません。
侵略は行為ですが、原爆を投下されるのは日本の行為ではないですからね。
原爆を投下された日本が悪いというなら、同じ論法で侵略された中国が悪い、となりますからね。
侵略した日本が悪いし、原爆投下したアメリカも悪い、ということを朝日はいいたいはずです。
こういう正論で一貫しているのならいいのですが、旧ソ連や中国の行為については言葉を濁すのです。
>「新爆弾の惨害に大御心
この表現はいいですね。
防衛相も見習って欲しいものです。
Re:ラッセル・アインシュタイン宣言5 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 8日(日)02時29分9秒
核兵器は、科学知識を放棄しないかぎりいざとなれば作れるので、戦争をなくさないかぎり、核兵器だけなくしても意味がないとRA宣言が言っていることについては、異論の余地はないでしょう。
平易な文章はそのままに読み措くとして、
今回の防衛相発言については、朝日が右寄り、読売が左寄りの論説を掲げていたのが面白く感じました。大日本帝国の戦争の侵略性についてはあれだけ熱心に追及する朝日が、原爆投下を招いた責任については日本政府を擁護しているのがちょっと不思議というか。読売のほうが健全な大日本帝国批判を展開していましたね。
国民感情の核心に触れる話題(今回は原爆被害)に触れると、メディアは本音を表わすのかもしれません。朝日はやはり本質的には国粋的なのか。
終戦の日に、
「戦争終結の大詔換発さる」「新爆弾の惨害に大御心 帝国、四國宣言を受諾 畏し万世の為太平開く」と、原爆が平和をもたらしたことを見出しで強調したのは朝日新聞だったんですけどね。
ラッセル・アインシュタイン宣言 5 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 7日(土)19時41分59秒
RA宣言でいう戦争は、戦争前だ、などとは述べられていません。
もちろん、戦争中を含むとも述べられていませんが、戦争前から戦争終了までの状態、つまり全ての状態にRA宣言を適応することに彼らは異議ないと思いますよ。
なぜかというと、「大量破壊兵器の発達の結果として生じてきた危険」つまり「人類の存続を脅かしているという事実」があるからです。
現代においては、大量破壊兵器を使ったら最後、人類の存続が脅かされるのです。
このことは専門家ほど熟知していると述べています。
「瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数の者はじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊していく。 多くの警告が著名な科学者や権威者によって軍事戦略上から発せられている。」
人類の存続が脅かされる事態は、なによりも優先して防がなければならないでしょう! (戦争よりも)
このRA宣言が効を制してか、現代では戦争において大量破壊兵器を使いません。
あとはテロです。
テロにも対応したRA宣言を世界人類の代表者をして決議すべきだ、と思います。
>ラッセルもアインシュタインも、核時代以前からの反戦主義者でした。核による全滅のビジョンは、戦争反対の立場を強化したにすぎません。
なぜ戦争反対なのかといえば、自由が奪われるからです。
彼らは自由が奪われるようなことに反対するはずです。
戦争、大量破壊兵器、テロ、社会主義、独裁、・・・。
こういう自由を大切にする考え方は、全ての文化人が持っています。
(無題) 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 7日(土)16時13分53秒
RA宣言ではなく、RE宣言と書くべきでしたか。ついローマ字の頭文字で作ってしまいました。ただ、Re: と紛らわしいので、AlbertのAのほうをとってRA宣言のままとします。
Re:ラッセル・アインシュタイン宣言4 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 7日(土)14時46分19秒
>1.戦争がすでに起っている場合(例、広島や長崎)
>RA宣言がそのまま使えます。
>戦争ではなく、平和的な手段を見出すべきです。
↑これは違いますよ。
広島・長崎への原爆投下の事実は、単に、RA宣言の前提に合致しているだけです。
「前提 戦争は、核兵器が使用される。」
戦争で核を使うな、という主張は、むしろ戦争を起こしやすくするので、RA宣言の精神には反しています。
すでに戦争が起きている場合については、RA宣言は、「核が使われるだろう(使われてもしょうがない)」ということ以外、何も言っていません。
RA宣言が戦争廃絶を訴えていることがかりに文面から読み取りにくいとしたら(普通に読めばOKなはずですが)、背景を考えましょう。
アインシュタインが、ヒトラーの世界制覇を阻むためにはアメリカによる原爆開発が必要だと大統領に進言したことを思い出してください。
ラッセルに至っては、戦後、スターリンの野望を事前に阻むには、アメリカは原爆を投下するぞとソ連を脅して屈服させ、世界政府を作れとまで言っています。
ふたりの立場が反戦であって反核でなかったことは明らかです。
ラッセルもアインシュタインも、核時代以前からの反戦主義者でした。核による全滅のビジョンは、戦争反対の立場を強化したにすぎません。
ラッセル・アインシュタイン宣言 4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 7日(土)11時46分38秒
この宣言では、戦争は必ず核兵器が使用される、という前提ですが、この宣言の趣旨は重要だと思われますので敷衍してみます。
前提 戦争は、核兵器が使用される。
事実 核兵器の使用は、人類の存続を脅かす。
結論 戦争ではなく、平和的な手段を見出す。
1.戦争がすでに起っている場合(例、広島や長崎)
RA宣言がそのまま使えます。
戦争ではなく、平和的な手段を見出
すべきです。
2.戦争で核兵器が使用されない場合(例、湾岸戦争やイラク戦争)
RA宣言の前提が崩れるので、RA宣言は使えない。
3.戦争ではなく核兵器が使用される場合(例、テロによる核兵器使用)
RA宣言の前提が崩れるので、RA宣言は使えない。
現代では、2や3のようなRA宣言が想定していない事態が多いので、RA宣言をその趣旨を踏まえて拡張すべきだと思います。
RA宣言 拡張版
事実 大量破壊兵器の使用は、人類の存続を脅かす。
結論 大量破壊兵器の使用ではなく、平和的な手段を見出す。
Re:ラッセル・アインシュタイン宣言3 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 7日(土)02時03分28秒
前提 戦争は、核兵器が使用される。
事実 核兵器の使用は、人類の存続を脅かす。
結論 戦争ではなく、平和的な手段を見出す。
なくすべきは核兵器よりも、戦争そのものだという結論です。
繰り返し引用すると、
「人々は、近代兵器(≒核兵器)さえ禁止されるなら、おそらく戦争は続けてもかまわないと思っている。この希望は幻想である。」
RA宣言のどこをどう読んでも、核兵器廃絶ではなく、戦争廃絶を訴えています。
核兵器廃絶は、せいぜい、「核兵器を放棄する協定は、最終的な解決を与えはしないけれども、一定の重要な目的には役立つであろう」といわれている程度です。
戦争を放棄しなければ、意味がないのです。たとえ核兵器を廃棄しても、戦争が起これば、核兵器が作られてしまうのだから。
以上が自然な読解で、それ以外はありえません。
戦争が起きてしまった後のことについては、むしろ核兵器使用を当然のことと見なしています。ですから、間接的に、太平洋戦争終結のための核使用は、RA宣言の趣旨からすると、否定されていません。
ラッセル・アインシュタイン宣言 3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 6日(金)18時59分53秒
この宣言は、こういう↓構図ですよね。
前提 戦争は、核兵器が使用される。
事実 核兵器の使用は、人類の存続を脅かす。
結論 戦争ではなく、平和的な手段を見出す。
この事実がなければ、この結論はでませんよね。
この前提がなくても、結論が「核兵器の使用ではなく、平和的な手段を見出す。」となるだけで、元の趣旨と差はありません。
だから、この事実はこの前提よりも重い、と思うのですがね。
Re:1945年の原爆3 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 6日(金)04時01分54秒
情報ありがとうございます。
『ヴェトナムの戦争犯罪』は実家に置きっぱなしなので、今度持ってきて確認してみます。
ただ、ラッセルが挙げるそういった理由は、ちょっと邪推かなという気がします。
ヒトラーが敗戦直前に、ソ連軍と米英軍がベルリンで鉢合わせすれば互いに戦いあうに違いないと期待していましたが、日本もそれと同じ幻想を持って、対米英の終戦工作をソ連に託して、彼らの対立を利用して少しでも有利な講和を遂げようとしていました。1945年当時は、今私たちが考えるのよりずっと冷戦の兆しは小さく、アメリカの主敵はやはり最後まで日独であって、ソ連ではありませんでした。その証拠にトルーマンは、ポツダムで原爆実験成功の報を聞いた後ですら、スターリンの対日参戦の約束確認を得て大喜びしています(日記や妻への手紙に吐露された心情ですから本物です。ただしすぐに考えを変えますが)。
原爆投下の最大の動機は、やはり戦争早期終結でしょう。事前警告やデモンストレーションといった代替案もありましたが、日本のつけ込む隙であるアメリカの厭戦気運(弱腰)を疑われること、不発などで失敗した場合逆効果になること等で、警告無しに使用して最大限の効果を得ることにしました。なけなしの2発の新兵器だったことを考えると、無理もありません。国民に内緒の開発費20億ドルについて後で議会に説明しなければならないのですから、当然の決定です。
>もう戦闘機は飛べなかったのだと思っていました。それで無防備だったのだと。
終戦時に日本は、約一万機の飛行機を持っていたそうです(ただし特攻機としてのみ使える練習機も含めて)。
たとえば厚木基地では、B29への迎撃を禁じられ、戦闘機を多数温存していました(本土決戦は半ば以上本気だったのです)。終戦になったとき、厚木の司令官が諦めきれずに降伏を拒み、反乱を企てたのも同情できますね。
1945年の原爆3 投稿者:Used 投稿日:2007年 7月 6日(金)01時35分33秒
三浦先生
> アメリカの公式見解は相変わらずですね。ただ、ロバート・ジョセフ核不拡散問題特使の言葉に日本側が反論するにしても、反発ではなくきちんと「反論」できなければなりませんよね。
そうでした。ニュースを見たりして納得できない時、私もそう心掛けたいと思います。
今回その公式見解を読んだとき虚を突かれる思いでした。理由は多分、アメリカの公式見解の内容をこれまで、「原爆投下によって数万人の米将兵の命が救われた」、とだけ記憶してきたからだと思います。日本人の命への言及を全く知りませんでした。
ラッセルの名前に触発されて随分久しぶりに『ヴェトナムの戦争犯罪』を開いてみましたが、「まえがき」に、二つの原爆を(都市に)投下した理由としてラッセルが考えていることのいくつかが書かれてありました。
(ラッセルは先生のご専門と存じますが失礼して少し書き出してみます)
・ 二つの都市で種類の異なる二つの原子爆弾を用いた人体実験。
・ ソ連への威嚇。
・ (「心理的な動機」。これは「嘘の理由」「建前の理由」というほどの意味かと思います。)
原爆を日本人の上に投下したことが、日本人をして降伏させる上に決定的な効果があった」(という神話)。
(但し「こうした神話を到底信じていなかっただろうと考えられる」ソ連の指導者たちを除く、西洋の普通一般
の人々に向けてのもの)
ここまではよく聞くことですが、次の一節は全く読んだ記憶がなくて、不勉強な私にはとても衝撃的でした。
・ 「いろいろあるけれども、要するにこの恐ろしい原爆行為をもくろんだのは、ただ、アジアの民族主義者たちを 恐怖させるるためにほかならなかった。」(『ヴェトナムの戦争犯罪』 B・ラッセル P.27 河出書房)
民族主義者ではない私ですが、今正直に"原爆"のことを考えると、そこにあるのは人道に反する行為云々よりもいざとなったら原爆を投下して都市と人間を灰燼に帰すことを辞さない国家への恐怖だと実感します。先に先生が、原爆投下による「WW2全体の中での太平洋戦域の比重」について述べられていましたが、ふと、日本の民族主義者にはラッセルのこの指摘はどう映るのだろうかという思いが過りました。
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> 自国民を守れなくなった段階ですぐに降伏しなかったのが間違い(Re:1945年の原爆2)
> ところが原爆については、日本の学界もジャーナリズムも、当時の日本政府を批判する姿勢が足りないのではないでしょうかね。(同上)
> 日本人の国民感情からすると、原爆投下肯定は、もしかすると皇室以上のタブーなのでしょうか? それは論理を殺すことに繋がりかねないのですが……(Re:久間防衛大臣の)
ポツダム宣言からはその条項が故意に消されていて、原爆投下後に日本政府が、天皇の地位を保証するならば受諾するとアメリカに伝達したという経緯が事実であれば、上記の先生の三つのご指摘と合わせて考えてみると、原爆投下肯定へ向かう議論は、終局、当時の日本政府への批判を経由して天皇批判に行き着いてしまうおそれがあるので避けられてしまうのかな、とも感じました。
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> 本土決戦のために戦闘機を温存し、B29を迎撃せずに爆撃し放題にさせた結果があれです。(Re:1945年の原爆2)
もう戦闘機は飛べなかったのだと思っていました。それで無防備だったのだと。
年に一度、夏になるとTVの終戦特番をじっと見ているだけの知識では情けないものがあります。
いろいろ教えていただいて、ありがとうございました。ご本を楽しみにしています。
Re:ラッセル・アインシュタイン宣言2 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 6日(金)00時14分28秒
そうではないでしょう。
核兵器が可能になった現状では、たとえ核兵器を廃棄したとしても、戦争が起これば、必ず核兵器が作られ使われ、悲惨なことになる。よって、戦争そのものを廃棄しなければならない。それがラッセル・アインシュタイン宣言の骨子です。
第二次大戦では、戦争中に核兵器が発明されました。
そのような状況については、核兵器使用が善か悪かについてこの宣言は何も述べていません。
第二次大戦後の状況、すなわち、始めから核兵器を持っている、または廃棄したとしても作ることができる、そのような状況についてのみ、この宣言は「戦争を放棄しよう」と言っているのです。
「問題は、戦争ではなく核兵器だということ」というハムさんの読解は、宣言とははっきり矛盾します。
「人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争は続けてもかまわないと思っている。この希望は幻想である。」(第14段落)
戦争放棄という宣言の趣旨を核兵器放棄と取り違えると、今までのような戦争では済まなくなる、とラッセルは言いたいわけです。
むしろ、「もし戦争になったら確実に核兵器が使われること自体は容認したまえ。だからこそ、戦争はいけないのだ」というのが宣言の趣旨です。
いずれにしても、個人の立場からすれば、原爆で殺されようが銃弾で殺されようが、理不尽な死には違いありません。WW2でソ連は、銃弾や通常爆弾で核戦争なみの死者を出しました。被爆者の死を特権化する発想は、危険だと思います。
ラッセル・アインシュタイン宣言 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 5日(木)23時27分15秒
この宣言のはじめにこうあります。
「大量破壊兵器の発達の結果として生じてきた危険を評価し、ここに添えられた草案の精神において決議を討論すべきである」
問題は、大量破壊兵器だということが分ります。
決議では、戦争 → 必ず核兵器が使用される → 人類の存続を脅かす のだから、「平和的な手段を見出すよう勧告」しています。
核兵器は人類の存続を脅かすのだから、戦争ではなく「平和的な手段を見出すよう勧告する」わけです。
問題は、戦争ではなく核兵器だということです。
戦争であろうとなかろうと、そのような大量破壊兵器を使用すれば、人類の存続が脅かされるのです。
「しょうがない」とか「戦争の早期終結に必要だった」などというお話ではない、人類が滅亡してしまう、というわけですね。
Re:ラッセル・アインシュタイン宣言 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 5日(木)13時49分18秒
宣言が述べていることは、「戦争はいけない」「核兵器廃棄(したと互いに信じられること)が戦争防止に役立つ」ということです。
最も危険視されているのが、「近代兵器さえ禁止されるなら、戦争は続けてもかまわない」という「常識」です。
つまりラッセルは、「核兵器使用を防ぐためには、戦争をなくさねばならない」と言っているのであって、「戦争になったとしても、核兵器を使用してはならない」とは言っていません。むしろそのような考えは戦争を起こりやすくし、危険だといっています。
大国どうしの戦争では、必ずや水爆が使われるだろう、そして使ったほうが勝つのだからそれは当然だ、とラッセルは述べています。つまり、ラッセルも「しょうがない」論を支持しているようです。ラッセルは、根本的に戦争をなくさねばならない、といっているのです。
ラッセルは一応、別の著作において広島長崎への原爆投下を非難はしていますが、ラッセル・アインシュタイン宣言に関するかぎり、「戦争中の核兵器使用」を否定した箇所は認められません。
戦争勃発後の核使用は当然なので、「真珠湾式奇襲」のほうが危険だと言っているのです。
「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実から見て、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然と認めるよう勧告する。」
ラッセル・アインシュタイン宣言 投稿者:ハム 投稿日:2007年 7月 5日(木)10時07分46秒
http://archive.hp.infoseek.co.jp/1955RusselEinstein.html
この宣言には、日本人の学者である湯川秀樹教授も署名しています。
「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実から見て、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然と認めるよう勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らの間のあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段を見出すよう勧告する。」
この宣言は、広島・長崎以前でも正しいと思います。
「しょうがない」とか「戦争の早期終結に必要だった」とかとか・・・。
「平和的な手段を見出すよう」あらゆる努力をすべきなのです。
戦争や原爆等のその手段を容認する思想は、この宣言と相反すると思います。
Re:1945年の原爆2 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 5日(木)02時05分13秒
アメリカの公式見解は相変わらずですね。ただ、ロバート・ジョセフ核不拡散問題特使の言葉に日本側が反論するにしても、反発ではなくきちんと「反論」できなければなりませんよね。
単純に国民感情を押し出した、小林よしのり的修正主義の言論はそれなりに存在意義はあるのでしょうが、いくら何でも視野を日本だけに限定していてよい時代ではありません。国際的な説得力を考えなければ。
真珠湾攻撃については、アメリカの学界もジャーナリズムも、日本批判と同等またはそれ以上に、当時のアメリカ政府を批判することに熱心ですよね。ルーズベルトの陰謀などというウソまで信じられているくらいですし。あれは日本の非道であるとともに、アメリカの恥辱であると捉えられているようです。奇襲だったとはいえ圧倒的に戦力の勝る根拠地でたった三百機程度の飛行機に敗北したのですから自己叱責も当然でしょう。
ところが原爆については、日本の学界もジャーナリズムも、当時の日本政府を批判する姿勢が足りないのではないでしょうかね。
戦争責任や天皇制などについては私はいつも朝日派なのですが、今回の久間問題関連の社説の中では、読売の社説にいちばん共感できました。原爆については日本人は、どう考えても、日本政府を責めるべきなのです。本土決戦のために戦闘機を温存し、B29を迎撃せずに爆撃し放題にさせた結果があれです。戦争中なのだから、自国民を守れなかった政府が責めを負うのは当たり前です(自国民を守れなくなった段階ですぐに降伏しなかったのが間違い)。原爆投下は、誰かが罪の意識を持つべきものというより、日本政府+日本軍の恥と見るべき事柄でしょう。
読売社説「……そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある。仮想敵ソ連に和平仲介を頼む愚策をとって、対ソ交渉に時間を空費し、原爆投下とソ連参戦を招いてしまったのである。しかし、野党側は、「米国の主張を代弁するものだ」「『しょうがない』ではすまない」などと感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった。……」
↑ウム、今度ばかりは読売は偉い! まったく正しい。
原爆容認論を日本人学者がちゃんと述べていないかどうか、調べる必要がありそうです。誰も述べていないとしたら嘆かわしいことですから。
元長崎市長のような「日本も悪いことをしたのだから因果応報だ」的な(ほんとはちょっと違いますがそう曲解されがちな)短絡的な原爆容認論じゃなくて、論理的に原爆投下容認している論説、お気づきの方はぜひお教えいただけると有難いです!(もちろん、Used氏にご提供いただいたような文学者の言葉も歓迎です。なにせ私は政治関連の語録に疎いもので……)
1945年の原爆 2 投稿者:Used 投稿日:2007年 7月 4日(水)23時45分14秒
三浦先生
ご丁寧にありがとうございました。
>小林よしのりなんかは原爆のことは何か言ってましたかね?
野坂氏以外の発言はまったく印象に残っていませんので試みにネットを見てみましたが「オーマイニュース(編集長:鳥越俊太郎氏)」の対談の中に次のような発言がありました。
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「小林よしのり氏が語る日米論・防衛論──編集長インタビュー」
http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000003189
>小林 要するに、読売新聞の『検証戦争責任』の中でも、原爆投下のことが日本の政治家の責任になっちゃってるんだから。無茶苦茶じゃないですか。アメリカのトルーマンの責任に決まってるんだから。
>小林 ......広島なんか何度も行って、(平和記念資料館の)展示も全部一生懸命見てるんですよ。それで、核に対するどうにもならないアレルギーがわしの中にあるんですよ。
-----------------------------------------------------
これを久間発言に対応させれば「原爆投下は容認できない」という立場になるかと思います。
ここから先の氏の展開については自主防衛の形としての日本の核武装化については述べていますが当時の日本はそれではどう対処すべきだったかという点についてはその対談では話題にならなかったようで不明です。
--
よく知られた『火垂るの墓』の著者でもある野坂昭如氏が書かれた先の原爆投下についての文春の記事を初めて10年ほど前に読んだ時も(とても説得力があり)違和感は感じませんでした。
沖縄戦と同等かそれ以上苛烈な本土決戦が必至の情勢だったと思われる当時の状況・戦況の困難さをあらためて思います。
---
ただ以下の本日付のニュースには非常な違和感を感じました。
http://www.asahi.com/politics/update/0704/TKY200707040381.html
> 米特使、「原爆使用が何百万人もの日本人の命救った」
> 米政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)は3日の記者会見で、広島・長崎への原爆投下について「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語った。
つい読み替えてみたくなります。
> 米政府のロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)は3日の記者会見で、ナチス・ドイツによるシカゴとデトロイトへの原爆投下について「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と語った。
Re:1945年の原爆 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 4日(水)01時53分1秒
Usedさん、ありがとうございました!
やっぱり文学者は言うべきことを言ってますね。
野坂氏の書いていることは、ほとんどの戦争体験者の本音だろうと思います。公に口にできるかどうかは別にして。
玉音放送が「残虐なる爆弾」に言及できたからこそ、「一億総玉砕のはずだったが状況が変わったので戦争をやめざるをえない」という格好が付いたのだと言えます。
直接の衝撃はソ連参戦のほうが遥かに大でしたが、降伏の言い訳としては原爆こそまさに天佑だったでしょう。もともと仮想敵だったソ連が参戦したからといってそれだけでは降伏などできなかったはずです。しかもソ連がピースメーカーになってしまったら東アジアは大変なことになっていたはず。
しかし
「しょうがない」発言で大臣が辞めて、論理的な議論なしに被害者感情優先で事態があっさり収束しそうな今、国家総動員で考えも無しに一丸となった日本民族の全体主義がよくわかる気がします。まあ、戦前と何も変わってないってことですな。
ところで、学者や評論家では原爆肯定論を説いてる人はいるんでしょうか。小林よしのりなんかは原爆のことは何か言ってましたかね? 直観的には、原爆投下はWW2全体の中での太平洋戦域の比重を飛躍的に押し上げ日本の地位も上昇させたのだから、日本の右翼は内心大いに原爆を有り難がっているはずだと思うのですが……。
1945年の原爆 投稿者:Used 投稿日:2007年 7月 3日(火)11時01分50秒
三浦先生へ
はじめまして。一読者です。
「日本人論客の原爆投下肯定論に関して」ですが、以前、作家の野坂昭如氏が週刊誌の連載で言及されていました。確認してみたところ偶々その号を保存してありましたので下記に転載します。
お役に立てば幸いです。
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「もういくつねると」 野坂昭如 絵・黒田征太郎
神戸の現状についてマスコミはなぜ真実を伝えないのか
一九九五年一月十七日、淡路島、神戸市の主に須磨区長田区兵庫区中央区灘区東灘区芦屋市西宮市に、甚大な被害をもたらせ、尼崎市伊丹市大阪、京都府にも、死者、家屋の倒壊、堤防決壊を生じせしめた地震は、自然の営みである。戦争でも内乱でもない。
’95年は戦後五十年、八月十五日というまやかしの日を中心に「戦後」のあれこれ取沙汰された。一九四五年九月ニ日、日本政府と軍の代表、二本立てで降伏文書に調印、このあたりを思い出すと、ぼくは、アメリカの原子爆弾投下、ソ連対日宣戦布告のおかげで、生命を長らえ得たとつくづく思う。「玉音放送」に至るまでの、大日本帝国指導者の考え方を見直してみろ。’95年の夏、書店に堆(うずたか)く積み上げられていた「終戦」がらみの、どんな安手な本にも、七月末から八月十日、いや十四日までの彼等のいい加減、無責任、自己保身ぶりが記されている。二つの原爆、ソ連参戦がなかったら、彼等は「国体護持」のため、昭和二十年いっぱい九州、関東で始まった米軍上陸を、迎え撃つなんてものじゃない、非戦闘員十五歳から六十歳、女十八歳以上四十五歳を、国民義勇兵として、その武器はスコップ、クワ、竹槍、弓。軍艦の砲に用いる炸薬を、野球のポール、ベース状に成形した、対戦車体当り人間カミカゼ。要は民草を楯として、軍が、まあ天皇陛下をお守りする。この場合、直接の戦闘で一千万人、その後の飢えと寒さで三千万人は死んだ。「玉音放送」「御聖断」をありがたく思うのは当然。その前提となった残虐なる新型爆弾、国際法ふみにじったソ連軍進攻にも、生き残った者は感謝していい。(以下、略)
週間文春’96.1.4・11(1月4日・11日新年特大号)P74 文藝春秋
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以上です。
Re:久間防衛大臣の 投稿者:φ 投稿日:2007年 7月 3日(火)00時51分31秒
そうですね――
今執筆中の『戦争論理学』は、大半を原爆投下論に費やす予定なので、「これはいいマクラができたわい」と喜んでおります。
一言で私の感想を言うと、「当たり前ですよね」「アホか」の両方となりますが。
あの時点で原爆投下を控えていたら、米国にとっても日本にとっても途方もなく厄介なことになった。そのことに疑いの余地はないので(疑いの余地のある人にはぜひ『戦争論理学』をお読みいただくこととして)、久間氏の発言自体は全く正しいですね。疑問提示発言と受け取れば、なおさら否定できない。
しかし、あの立場(地位)にいる人がああいう発言をしたらどういう反応が生ずるかを予見できないというのは全くアホの極みですよね! 「政治家には言論の自由などない」ということが未だに政治家自身に理解されていないようですね。
当時の原爆投下そのものは日本の国益に合致していましたが、いま原爆投下肯定を公言することは、国益に一致するとは思えません。政治家は論理よりも国益を考えてほしいですね。政治家には言論の自由だけでなく、論理に従う自由もないのですから。
ただ、言論の自由、論理の自由を保証された私ら非政治家の中にも、公の場での原爆投下肯定論がめったに(全く?)みられないのは不思議なことだと私は思います。もちろん、現代唯一の〈本音のメディア〉インターネット上では、エノラ・ゲイ機長を代弁したような日本人の発言なぞいくらでも読むことができるし、私も、大学・大学院の授業や市民講座でたびたび原爆投下肯定論を喋ってきましたが、べつに抗議を受けたことはありません。
雑誌などで活字になると事情は違うようです。原爆関連ではありませんが、第二次大戦関連の記事で私も読者からかなり強硬な抗議を受けて手紙3往復やりとりせねばならなかったことがありますし。(事の性質上、これはHPでは報告していなかったかも。『のぞき学原論』第5章最後の脚注にちょっと書きましたが)
日本人の国民感情からすると、原爆投下肯定は、もしかすると皇室以上のタブーなのでしょうか? それは論理を殺すことに繋がりかねないのですが……
ただ、今回は発言者がああいう人なので、「核武装を認めるのか」「政争の道具にされるのがわからないのか」といった余計なファクターが入っており、純粋に原爆論に対する日本社会の反応を探るチャンスにはなっていないかもしれませんね。
(「あの原爆投下」と「核兵器使用一般」とが混同されがちなのも、また、「原爆投下は必要だった」と「あの人々を殺傷することが必要だった」とが混同されがちなのも、論理思考の演習材料としてぴったりです)。
私が個人的に話をしたかぎりでは、原爆投下を「しょうがない」とか「正しかった」とすら同意する日本人はけっこう居るのですが、集団的な意見形成では違った様相を呈するのでしょうね。ここで述べたことがちょっと思い出されました↓
http://green.ap.teacup.com/miurat/1033.html
原爆投下肯定論(あの1945年の原爆について)を公の媒体で語っている日本人って、いるのでしょうか? アメリカにはいろんな意見があって面白いのですが、日本人論客の原爆投下肯定論は見たことがない。
私は論壇に疎いので知らないだけでしょうか? どなたか知っている人、教えてください。新聞、テレビ、雑誌、大衆向けの本といったおおやけ度に限らず、専門書のレベルでもいいです。
久間防衛大臣の原爆投下容認発言 投稿者:クリスティアン 投稿日:2007年 7月 2日(月)01時53分3秒
野党やマスコミはもちろん、与党内部から国粋派右翼まで糾弾の嵐ですが、持論が防衛大臣の意見に近いと思われる三浦先生の意見を是非お伺いしたいと思います。