三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2007年1~6月)

過去ログ索引

 無料掲示板は一定の件数を越えると削除されていきます。そこで、古い書き込みは、電子掲示板の「過去ログ」としてここに掲載します。(新しい記事から古い記事の順番となっています。)



(無題) 投稿者:なんとなく、 投稿日:2007年 6月15日(金)04時45分22秒

反証を足すと仮説。
結論を足すと実証。
理由・仮説・実証、なんとなく科学っぽい。

夜空の星を掴むようなものだが、そのうち目処がつく。
そしたら、またでてくる。


Re:>□Fx 6 投稿者:φ 投稿日:2007年 6月 3日(日)05時05分4秒

 人間原理の論理そのものは様相実在論だろうが多宇宙説だろうが同等に使えますが、他の可能世界と、現実世界内の他の宇宙との区別如何は、なかなか込み入った問題です。

 論理的根拠はありませんが、直観的に言うと、簡単な数学的プログラム(法則)に初期条件を与えた結果が多宇宙、簡単な数学的プログラムでは書けない恣意的な変化も含んだ時空が可能世界ということになるのだと思います。
 たとえば、この現実世界から、ただ昨日だけを抜き取ったもの(一昨日から今日へ飛ぶ以外はこの現実そっくりの)〈世界〉は、可能世界としてはありますが、現実世界内の他の宇宙としてはそういうものはおそらく無いでしょう。そのような〈世界〉は、恣意的な論理的可能性でしかないからです。
 ただし可能世界は恣意的なものばかりでなく、現実世界内の他の宇宙にそっくりな可能世界(一宇宙だけから成るものも多宇宙から成るものも)もなければならないので、そこが難しいところです。


>□Fx 6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 6月 2日(土)19時01分49秒

>かなり説得的で有望な書き換えであると感じられます。

意味が明確になりますね。

□∀xPx

∀w∀x((Ww&Ixw)⊃Px)

∀x□Px

∀x(Ix@⊃□Px)

∀x(Ix@⊃∀y∀w((Ww&Iyw&Cyx)⊃Py))

この最後の式というのは、現世界と同じ他世界ということですね。
それですと、□(必然記号)の意味を制限していることになりますよね。
しかし、∀xが現世界を含んでいるでしょうからこの意味になるのですね。

ということは、
□∀x は、制限のない様相論理に対応していて、
∀x□ という型だと、制限された様相論理だと思っていてよさそうですね。

∀x□というのは、論証のときによく条件にする「他のことが等しいならば」にも対応していると考えてよさそうですね。
人間原理は、どちらかというと∀x□型の論理になりそうですね。


(無題) 投稿者:キリーロフ 投稿日:2007年 6月 2日(土)09時37分39秒

ええ、正しいのは、φ先生の指摘どおり

∀x(Ix@⊃∀y∀w((Ww&Iyw&Cyx)⊃Py))

です。最後の変項はxでなくてyです。

>様相実在論を採ると、一つの現実世界の中での並行宇宙論(多宇宙説)と区別がつかない>のですね。

これは言われてみればそんな気がします。
現実世界(多宇宙的な)と他の可能世界(多宇宙的でも非多宇宙的でもある)を
区別するのに、実在性と非実在性というメルクマールを用いることができれば、
現実世界と他の可能世界をきちんと区別できていることになるでしょうが、
すべての可能世界が実在性を有するとなると、
何を基準に現実世界と他の可能世界を区別しているのか分からなくなりますね。

ちなみに、今気づいたのですが、
「人間原理」は、可能世界の実在論を同等の(少なくとも同じぐらいの仕事をこなす)
道具立てを供給するのではないでしょうか。
これも考え方によるのでしょうが、人間原理に基づいて知られる複数の宇宙の中には、
私たち普通考えるような可能世界が含まれると見なしてよいと思われるからです。


Re:>□Fx 5 投稿者:φ 投稿日:2007年 6月 2日(土)02時46分40秒

  ∀x(Ix@⊃∀y∀w((Ww&Iyw&Cyx)⊃Px))
は、
正しくは
  ∀x(Ix@⊃∀y∀w((Ww&Iyw&Cyx)⊃Py))
 かな?

先日
∀x∀w((Ww&Ixw)⊃Fx)

 などと適当なことを書きましたが、
   対応者(カウンターパート)という面倒なことを考えなくてよいなら(可能世界の実在論~様相実在論を採らずにすむなら)Cyxは不要になるわけですね。

 『可能世界の哲学』では、ルイス流様相実在論に最大限好意的に書いたのですが、
 第21節の反論があれ以来どう考えても難物で、様相実在論を採ると、一つの現実世界の中での並行宇宙論(多宇宙説)と区別がつかないのですね。
 やはり現実世界以外の可能世界というからには、本当に物理的に実在してしまってはならないような。(いくら因果的・時間的関係がなくても、実在したら、定義上、たちどころに現実世界の一部に取り込まれてしまうような……)

 ということもあって、私は最近は、可能世界は論証にのみ使うことが多く、形而上学的議論は人間原理(ファインチューニングと多宇宙説)に絞っているのが現状です。


>□Fx 5 投稿者:キリーロフ 投稿日:2007年 6月 1日(金)10時14分8秒

(ちょっと長いです。すみません)

∀x□Px  ① と
□∀xPx  ② の違いを考えてみましょう。

ここでは、新しい発想がふたつ導入される必要があります。

第一の発想は《問題になっている論理式はどの世界で真偽を判定されるのか?》と いう問いと関係します。
例えば、「すべてのものは必然的哲学者である(∀x□Px)」という言明は、
そこに登場する「すべてのもの」が、
私たちの世界の「すべてのもの」と見なされる場合と、
ある別の可能世界の「すべてのもの」と見なされる場合とで、
意味を違えるだろうからです。
ここでは上の論理式①も②も、私たちの世界で真偽を判定されると仮定しましょう。
また私たちの世界を記号で@と表すことにします。

第二の発想は「対応者counterpart」という概念に関わります。
記号Cxyで「xはyの対応者である」を表すとします(これもルイスの記号です)。
以下、この概念を具体例で説明します。
アリストテレスは私たちの世界@では哲学者ですが、
ある可能世界uが存在し、uにおいてアリストテレスはミュージシャンであるとします。

ここで
@の哲学者アリストテレスとuの音楽家アリストテレスは厳密に同一でしょうか?
ここに厳密な同一性を認めることを避けたくなる多くの理由が存在します(φ先生の
『虚構世界の存在論』で紹介されたいわゆる「チザムのパラドクス」などです)。
ただ、さしあたりは難しく考える必要はないと思われます。
とりあえず@の哲学者アリストテレスとuの音楽家「アリストテレス」は、
別々の可能世界に属すので同一の個体ではありえないが、
互いに類似しているので対応者関係にあると理解しておけばよいでしょう
(もちろん、@のアリストテレスのuにおける対応者が「アリストテレス」と
呼ばれる必要はありません)。

以上の概念を用いて①と②を書き換えて意味の違いを明確化してみます。
以下は、書き換えのひとつの案(これもルイスのもの)ですが、
かなり説得的で有望な書き換えであると感じられます。

②はこれまでと同様です。
②は ∀w∀x((Ww&Ixw)⊃Px) と書き換えられ、
「あらゆる可能世界について、そこに存在する個体はすべて哲学者である」と
読むことができます。

他方①はこれまでと若干異なります。
①はまず ∀x(Ix@⊃□Px)と書き換えられ、
さらに  ∀x(Ix@⊃∀y∀w((Ww&Iyw&Cyx)⊃Px))と
書き換えられます。
読み方は「私たちの世界に存在する任意の個体について、それの任意の世界における 対応者は哲学者である」となります。

ここから ∀x□Px と □∀xPx の違いは――もし違うように読むとすれば――
‘∀x’がどの範囲の個体を動くかにあると言えます。

あと、ハムさんの

>>xに代入してしまえば命題化ができますよね。
>P(ウサギのウサくん)
>P(カラスのカーくん)
>「割り当て」という手続きには、これと違う意味があるのでしょうか。

という疑問ですが、たしかにとくに違う意味はないかもしれません。

他方、意味が違うと考えた方が便利な立場として僕が思いつくのは次のような発想です。
それは、自由変項を有する論理式で《指示詞を含んだ言明》を形式化しようとする ものです。D・カプランの論文にこういう考えが登場します。
ここで「指示詞」とは、指さし行為を伴って発声する「これ」や「あれ」 などとします。
「割り当て」概念を用いると自由変項と指示詞はちょっと似てきますよね。
例えば、再び、
割り当てν は変項xに「ウサギのウサくん」を割り当て、
割り当てμ は変項xに「カラスのカーくん」を割り当てるとします。

ここで論理式Pxが「これは白い」を表すとします。
すると

ν(Px)=真 という事態は、発話者がウサくんを指さしながら「これは白い」と 発話している状況を表し、
μ(Px)=偽 という事態は、発話者がカーくんを指さしながら「これは白い」と 発話している状況を表すと考えられます。

ポイントは
論理式 P(ウサギのウサくん)と P(カラスのカーくん)はそれぞれ
「ウサギのウサくんは白い」と「カラスのカーくんは白い」をピンポイントで
表現していますが、
論理式Pxは割り当て(実践的には「指さし行為」)に応じて表現する 命題を変更できるという点だと思います。
(もちろんPxの方が優れているというわけではありません。
「ウサギのウサくん」など名前を用いた指示は、状況によらずに 特定の対象を選び出すことができるという利点も有しています)


>□Fx 3,4 投稿者:φ 投稿日:2007年 6月 1日(金)01時09分2秒

∀x□Px を a で例化して □Pa を導いたのか、
□∀xPx を a で例化して □Pa を導いたのか、

結末だけ見ると区別はつきませんが、意味合いは異なるわけです。

 □と∀だけを組み合わせるより、◇や∃を混ぜたほうがリアルですね。
 変項の範囲を暗黙に制限しないと、 ∀xFx が真となる単純な述語(命題関数)はめったにありませんから。
 

  >□Fx 4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月31日(木)23時47分23秒

>つまり《自由変項を有する論理式も割り当てと相対的に真理値を有しうる》ということになります。

xに代入してしまえば命題化ができますよね。
P(ウサギのウサくん)
P(カラスのカーくん)

「割り当て」という手続きには、これと違う意味があるのでしょうか。

□P(アリストテレス) P:哲学者である
は偽ですよね。
アリストテレスがミュージシャンであった世界が可能です。

これで先の式を考えてみましょう。

関数
Px 哲学者かどうか
□Px 必然的哲学者かどうか

命題
∀xPx すべてのものは哲学者である。
∀x□Px すべてのものは必然的哲学者である
□∀xPx すべてのものが哲学者であるのは必然的である

最後の二つは差が微妙ですね。


(無題) 投稿者:2chの末路 投稿日:2007年 5月31日(木)22時07分32秒

商法と手法が同じ、サンバン国家に
口をださせるから、こうなる。


(無題) 投稿者:Re:Re:三浦様のお友達が。 投稿日:2007年 5月31日(木)21時46分59秒

732 名前:名無しのひみつ[] 投稿日:2007/05/31(木) 21:18:54 ID:eKXbWkts

なんだかなー。
またへんな釣り師が来たよ。
間違いを指摘されて勝ちを宣言する??
リアル世界でどんな生活してんだろうな。
http://news21.2ch.net/scienceplus/

過大評価だよ。
しばらく流れが止まっただろ。


>□Fx 3 投稿者:キリーロフ 投稿日:2007年 5月31日(木)14時22分33秒

はい、僕も‘□Fx’でde re様相のことを話題にするつもりでした。
ハムさんの疑問に触れるかたちで、この式の意味について考えたいです。

まずは一般的に、自由変項をもつ論理式Pxをとりあげます。
ここに登場する述語記号Pが「~は白い」と解釈されるとき、
式Pxの真偽はどう定まるでしょうか。
ハムさんのように真理値は定まらないと見なす立場もあると思われますが、
定めることができると考える立場もあります
。 後者の立場では「割り当て」の概念が使用されます。
例えば、
割り当てν は変項xに「ウサギのウサくん」を割り当て、
割り当てμ は変項xに「カラスのカーくん」を割り当てるとします。
すると次が成立します。

ν(Px)=真
μ(Px)=偽

つまり《自由変項を有する論理式も割り当てと相対的に真理値を有しうる》ということに なります。
問題の□Fxについても同様のことが言えます。

例えば述語記号Fが「~は偶数である」と解釈され、
割り当てν が変項xに自然数4を割り当てるとします。
すると

ν(□Fx)=真

となると考えられます。というのは個体4はどのような世界においても
〈偶数である〉という性質を有していると考えられるからです。

他方、述語記号Pを「~は哲学者である」と解釈し、
割り当てν が変項xへ個体アリストテレスを割り当てるとします。
するとこの割り当てのもとで論理式□Pxは真でしょうか偽でしょうか?

とりあえずは偽となると予想されますが、
それよりも問題にしたい点は、□Pxを割り当てν のもとで偽と判定するとき、
複数の世界に存在するアリストテレスを吟味しているという点です。
こうした点については、もちろん、φ先生の著書ですでに詳細に論じられていますが、
あらためて考察したいです。
というのは、そろそろ、日本の哲学界でも「可能世界」概念が、真剣な思索に 寄与する有用なツールとして使用され始めているからです。


>□Fx 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月31日(木)12時34分18秒

>de re様相を認めない学者もいますが、哲学者は大半が認めます。

では私もそう考えることにします。(哲学徒の端くれだと思っていますので)

ただ、意味はどうなのでしょうか。
□Fx 「Fxであることは必然的だ」?  真偽が定まらないのに?
まあ、そういうものだと考えておきます。

命題のときに成立する様相論理の規則は、すべて成立すると考えていていいのですよね。


Re:>□Fx 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月31日(木)02時03分14秒

キリーロフさんが □Fx で表わしたかったことは、

∀x□Fx か、
∃x□Fx かのいずれかでしょう。

 事象様相(de re様相)ですね。
 様相が命題にかかる
 □∀xFx
 □∃xFx
 などは、言表様相(de dicto 様相)と呼ばれます。

 ∀x□Fx を可能世界言語に翻訳すると、
  ∀x∀w(Fx)w
 ルイスのその論文の表記では、 □∀xFx
 ∀x∀w((Ww&Ixw)⊃Fx)

 de re様相は、命題関数に様相がかかり、モノが様相付き性質を持つかのような格好になります。
 de dicto 様相とde re様相については、『可能世界の哲学』第9節以降に書きましたが、 『ラッセルのパラドクス』でもp.118以降(とくにp.125)に関連事項を書きました。

 ラッセルの記述理論を見れば、様相が命題にかかる場合と、命題関数にかかる場合を明確に区別できます。(de re様相を認めない学者もいますが、哲学者は大半が認めます。
 何と言っても文法的にも直観的にも問題ないので)
 

>□Fx 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月31日(木)00時56分34秒

様相が命題関数に係る、というのは一般的なのでしょうか?

私が知っている様相は命題に係ります。
つまり、□Fです。
だとすると、φ様流に∀w(F)w ということになります。
キリーロフさん流だと、∀w(Ww&F)ということでしょうか。

こういう流派の問題は、あまり問題ではないように思います。
問題は意味だと思うのですが、命題関数の様相って何?


(無題) 投稿者:変態友人 投稿日:2007年 5月30日(水)21時17分31秒

掲示板荒らし、大変失礼しました。


(無題) 投稿者:キリーロフ 投稿日:2007年 5月30日(水)20時39分16秒

様相論理の話をもう少し継続させましょう。
「様相論理が述語論理に吸収できるのでは」というハムさんの発想は 僕にももっともらしく思われます。

この発想は論文「対応者理論と量化様相論理」におけるD・ルイスの述語

Ww  wは世界である
Ixw xはwに存在する

を導入すると、もう少し具体的に展開できます(φ先生には釈迦に説法でしょうが)。
上の述語を用いると、例えば

□∀xFx すべてのものがFであることは必然的である



∀w∀x((Ww&Ixw)⊃Fx)
  任意の世界についてそこに存在する任意のものはFである

と書き換えられます。

様相概念を含む言明のこうした翻訳の利点は、当の言明の真理条件を明確化することです。

他方で、こうした翻訳は可能世界とそこに存在する個体の上の量化を含みます。
つまり「すべての世界について」とか「ある世界について」や
「ある世界のある個体について」などの量化を含んでいます。
このことは可能世界と可能的個体の存在へのコミットメントという問題を引き起こします。

可能世界は存在するのでしょうか。
可能的個体は存在するのでしょうか。
みなさん、どのようにお考えですか。

ちなみに、上の方針に従うと、次の論理式

□Fx

はどのように書き換えられるでしょうか?

この論理式は、‘□∀xFx’と異なり、自由変項を有しています。
読み方は「xは必然的にFである」となります。
つまり、個体について、それへ《必然的F性》を帰属する論理式です。
これを翻訳するにはさらなる概念が必要と予想されますが……


Re:>最近 2 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月29日(火)23時22分10秒

省略されるのは(というより多くの人に気づかれていないのは)世界変項だけでしょう。
普通はFxを単にFと書くことはしませんから、
□(H⊃F) とは書きませんね。 □(∀x(Hx⊃Fx) となります。

 多重量化と言ったのは、世界変項そのものがいくつも重なるような場合があるということです。

 命題関数の変項を省略して独立した記法になるのは、慣習的に命題と見なせる場合だけでしょう。


>最近 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月29日(火)13時09分23秒

世界変項wとして、
∀w(∀x(Hx⊃Fx))w  こう書くのと、
□(H⊃F)  こう書くのと同じだと考えていていいのですね。
煩雑になる場合は、□∀x(Hx⊃Fx)と書けば便利だということですね。

ありがとうございます。


(無題) 投稿者:招き猫 投稿日:2007年 5月28日(月)17時40分24秒

仏教学の部屋 掲示板 http://bbs1.nazca.co.jp/17/dirgha/
方便心論を巡っては、↑の[146]-[148]もご参考に。


変態友人さんへ 投稿者:ヒロヘロ@電波男 投稿日:2007年 5月28日(月)13時45分53秒

つまり、あなたの言い分には形式的にも不備があり、無効であることを 非形式的なものとして主張・理由・例示に分けてご説明して差し上げた次第です。
第一に、形式論理として分析できる代物ではありませんし、それにかなっているとも思えません。
私が変態友人さんの言説を形式論理、或いは現代論理学に基くものとして分析していると論点を先取して喧伝されるのも非常に迷惑です。
形式論理にさえ当てはまらない、それ以前の非形式というφさんのご意見が全てを言い表しています。


変態友人さんへ 投稿者:ヒロヘロ@電波男 投稿日:2007年 5月28日(月)13時25分21秒

φさんの以下のご説示で全て終ってるんですが、それがお分かりにならない?

| 形式論理ではなく非形式的な議論ということであれば、「主張、理由、
| 例示」でよいと思いますけれどね。あと重要なのは「反証」でしょうか
| (「理由」に含まれるのでしょうが)。自説に対してあえて反証を試み
| る。自説に不利な最強の立論を提示して再反論しておく。それがないと、
| 科学的な議論にならず、単なる政治宣伝か布教になってしまいますね。


Re:>最近 投稿者:変態友人 投稿日:2007年 5月28日(月)11時09分55秒

φさん、変態友人です。巧い答えなんですが、ご迷惑でしょうが彼にはハッキリと示さないとわからないので、

> 239:霊能者バスターズ ◆KNcoA0o1ck :sage:2007/05/25(金) 10:57:50
> >>238
> 提供しないと発言しました。
> でも、主婦は>>226で、提供してくれと騒いでいます。
> 蝙蝠パーコにも家族があるから、ボクの怒りを見て、すっこんでいてくれたら保護意識が働
> くのですけどね。
> 自分の状況が見えないほど子供じゃないと思うんですが。。。

始まりは、上の ヒロヘロ@電波男=霊能者バスターズ の発言に対して、次の発言をしたことです。

> 243 +3:本当にあった怖い名無し ::2007/05/25(金) 11:11:33
> 「ボクの怒りを見て、すっこんでいてくれたら保護意識が働くのですけどね。」
>
> オレが怒ってんだ。それが分からんのか? 分からんヤツはバカだから、
> 分かるまであらゆる手段で叩く権利がある。
>
> こういうのがパスタン論理、いつも自分中心の倒錯者。一般的にこのような論理思考
>をする人をヤクザと世間で言います。
>
> 関わらないようにしましょう。

それに対して彼が、

> 248 +3:霊能者バスターズ ◆KNcoA0o1ck (178) :sage:2007/05/25(金) 11:22:38 ID: cQz81JDY0 (28)
> >>243
> 論理的にかなり多くの瑕疵を有する。
>
> 1 概念定義の曖昧性
> 2 各項目の前提や客体の名辞化妥当性検討の欠落
> 3 判断形式における致命的錯誤
> 4 価値判断基準の無検討
> 5 判断提示における無説明
>
> 論理を言うのであれば、上記を先ずクリアしていただきたい。

そもそも、非形式的な議論をしてるのに形式論理、論証形式に適ってないというのが、可笑しいと思うのですが、
そう言っても彼には通用しななかったので、次のように、

> 419 +1:本当にあった怖い名無し ::2007/05/26(土) 13:39:20 ID: AQTDWbIJ0 (23)
> 自分で言ってて矛盾してるは説明できないは、ハッタリはつらいね。
>
> >>248
> >1 概念定義の曖昧性
> >2 各項目の前提や客体の名辞化妥当性検討の欠落
> >3 判断形式における致命的錯誤
> >4 価値判断基準の無検討
> >5 判断提示における無説明
>
> 「概念定義の曖昧」だよね。「判断形式における致命的錯誤」はなんでなんだい。
> ハッタリじゃなきゃ、説明できるよね。今、誰もいないし。

それに対して、

> 426 +2:霊能者バスターズ ◆KNcoA0o1ck (178) :sage:2007/05/26(土) 14:22:15 ID: v1vkGfQ/0 (23)
> >>419
> 同義反問の虚偽を犯してるんだけど?
>
> 1 主張    :これがバスタ論理である
> 2 理由    :常に事象を自分中心であると考える倒錯者であるから。
> 3 例示    :一般的にこのような論理思考をする人をヤクザと世間で言います。
> 4 評価結論 :関わらないようにしましょう。
>
> 1の主張によって、4の評価結論に導いているわけだよね?
> 2の理由説明において、判断しか示しておらず、事実の提示や一定の価値基準による意味づけ作業を行っていない。
> つまり、理由を述べるべき箇所で判断を積み重ねている。
> これを「判断形式における致命的錯誤」であり、「価値判断基準の無検討」、さらに「判断提示における無説明」といったのだ。
>
> このような論述で4のような評価を出すのは詭弁であり、侮辱目的だと考えざるを得ない。
> また「論理」と言う言葉をつかうのなら、その周辺タームや知識にもとづいて話が展開されることを覚悟すべきだな。

問題は、この「主張、理由、例示、評価結論」のような形式論理があるかってことだと思うのですが、違いますか?


Re:>最近 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月28日(月)03時15分28秒

 形式論理ではなく非形式的な議論ということであれば、「主張、理由、例示」でよいと思いますけれどね。あと重要なのは「反証」でしょうか(「理由」に含まれるのでしょうが)。自説に対してあえて反証を試みる。自説に不利な最強の立論を提示して再反論しておく。それがないと、科学的な議論にならず、単なる政治宣伝か布教になってしまいますね。

 >様相を命題関数の量化と考えたラッセル的様相観

 様相を量化で考えるのは可能世界意味論の骨子ですね。
 ラッセル的にいうと、
 Hx⊃Fx という命題関数は ∀x(Hx⊃Fx) が真なので、必然的です。
 Hx∧Fx という命題関数は、∃x(Hx∧Fx) が真なので、可能です。
 この場合の量化の範囲は、適当なタイプの全てのものです。

 ∀x(Hx⊃Fx)の ∀x がすべての可能世界を範囲としているわけではありません。(「世界」はおそらく個々の人間とはタイプが異なるでしょうし)
 どんな命題も、実は書かれざる変項を隠し持っており、それが可能世界を領域とする変項だということです。

 ∀x(Hx⊃Fx) は、明示されていないが変項(w)を持っていて、本当は
 ∀x(∀x(Hx⊃Fx))w  と書くべきなのです(表示法はもっと便利なのもありそうですがさしあたりこれで――)。

  ∀w(∀x(Hx⊃Fx))w が真なら、命題 ∀x(Hx⊃Fx) は必然的
  ∃w(∀x(Hx⊃Fx))w が真なら、命題 ∀x(Hx⊃Fx) は可能

 ということになります。

 どんな命題にもこの解釈は使えます。
  ∀w(1+1=2)w が真なので、  1+1=2 という命題は必然的。
  ∃w(1+1>2)w が偽なので、  1+1>2 という命題は不可能。

 といった具合です。

 本当は、
 (1+1=2)w という命題関数は必然的
 (1+1>2)w という命題関数は不可能

 と言うべきなのですが、慣習的に、世界変項wを無視して「命題」と言ってしまうわけですね。
 なので、様相記号は不要です。量化で書き換えられます。(それが可能世界意味論の成果です)
 ただし、複雑な文だと、多重量化になったりして、煩雑になるので、様相記号で書いたほうが短くなり、見た目は便利なのです。

 以上は、『可能世界の哲学』第2節に書いたことと基本的に同じです。
 

>最近 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月27日(日)22時33分32秒

ヒロヘロ@電波男 さん、すいませんが、その流れにしたくないもんで、ゴメンm(_ _)m

「『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)書評への反論」の最後にこうあります。

>様相を命題関数の量化と考えたラッセル的様相観・・・

そう考えると様相論理で使われる□や◇記号はいらなくなりませんか?
一般に、∀x(Hx⊃Fx) (すべての人間は死ぬ)こう書いたとき、この「すべて」は諸可能世界を含むすべてなのでしょうか?

そうだとすると、様相論理というものは述語論理に吸収できるのではないですか?
∀≡□、∃≡◇として様相論理を見てもほとんど困らないのです。
困るのは、世界間の関係ぐらいです。

どう考えるべきなのでしょうか?


Re3:三浦様のお友達が。。 投稿者:ヒロヘロ@電波男 投稿日:2007年 5月27日(日)16時31分24秒

私が紹介いたしました巨大掲示板での詭弁人は、またまた詭弁で私を攻撃し始めています。
やれやれ。。

この手の詭弁を弄する人は主観ではありますが、中観思想やチベット学の一部の人に多く見出すことが出来ます。
この人たちの特徴は「あの方」に代表される、前提の検討の甘さにあり、主張の一貫性に矛盾が生じていることを理解しない点があげられます。

例えば、
「輪廻転生を主張することを肯定しない」と主張についての論及が、
「輪廻転生が存在しないと主張するのは断見だ」と決め付けます。
また、唯識思想に関してテクストに沿って
「認識の根拠として、外界を否定するのであって、外界の存在については言及しない」
と主張したら、
「外界を否定するのだから、外界の存在を否定するものである」
と言う古来の解釈を捨てようとせず、テクストを見ようとしません。

この巨大掲示板の虚偽論を基に、仏教内部の間違った論理による主張についてサンプリングして分析して行きたいと思いますが、いかがでしょうか? かの人を信奉するのが現在の仏教学の水準なのですから、、、。


Re2:三浦様のお友達が。。 投稿者:ヒロヘロ@電波男 投稿日:2007年 5月27日(日)09時59分23秒

お久しぶりです。
下らない事を持ち込み、ご迷惑をお掛けいたしましたことをお詫び申し上げます。
メディアが全体主義化しないための存在意義を私も期待しているのですが、双方向の対話が確立出来るための努力が前提に無ければ、今回のような知的水準が低く、ただ罵倒し、侮辱するだけの人の存在を許してしまうという弊害が生じますね。

相手の発言を分析するとき、主張・理由・例示・結論に分けることができ、
その発言内容の虚偽性を指摘したのですが、「例示」は論理学にはないと
息巻いています。「小項目はその具体的な例示である」と説明できるのですが、
相手には対話の意思がありません。困ったものです。

ところで、あの方の出版ボツは何が原因だったんでしょうね。(笑)


Re:三浦様のお友達が。。 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月27日(日)04時21分40秒

まあ友人にも歴代、いろいろいましたので。
秀才あり天才あり不適応者あり変態あり犯罪者あり。
まぁ、原爆肯定論や民族差別や皇室罵倒などが大規模に見られるのは匿名掲示板だけなので、やたら建前本位のメディアが全体主義化しないためにもそれなりの存在意義があるんだろうと思ってますが――


三浦様のお友達が。。 投稿者:ヒロヘロ@電波男 投稿日:2007年 5月26日(土)18時15分40秒

皆様お久しぶりでございます。
お話が『ブッダ論理学』から政治問題になったので発言を控えさせていただいて降りますうちに、脚が遠のいてしまいました。
実は某巨大掲示板にて【三浦様の友人】を語る人物より粘着攻撃を受けており、話題が「論理学」に及びましたので、冷静な議論をここで致したく誘導した次第でございます。

三浦様に言及した彼には驚きました

=======
【最低】似非・自演者が叩かれる24【最卑】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1176381340/443

443 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2007/05/26(土) 16:46:25 ID:AQTDWbIJ0 >>433
なんだ一番得意なのはインド学じゃなかったか。インド論理学の基礎も知らんのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%98%8E

ほら、 君が出した、主張、理由、例示は、主張(宗)・理由(因)・実例(喩)の三支作法にピッタリ当てはまるだろう。因の三相は、理由(因)が持つべき三つの条件のことだ全く別のことだ。

> ボクの論理学基礎はインド論理学じゃないんだけど?分析哲学に即した必要学としての論理学

へー、オレが知る限り「主張、理由、例示」なんて術語を用いる形式論理学、記号論理学は知らんけどね。

三浦俊彦:前提1、前提2、結論
が一番近いが、野矢茂樹、クワイン、清水義夫などの現代論理学にも哲学辞典にも見られない、伝統的形式論理学にも見られないが、一体、誰がそんなインド論理学みたいな形式、術語しようしてるんだ。相変わらず、何も知らないのにハッタリばっかだ。

【そういえば、三浦俊彦さんの掲示板に偉そうに書き込んで、完全に無視されてたな。】
======

また、彼に議題が違うから三浦様の掲示板に移ろうと提案したところ、

======
【最低】似非・自演者が叩かれる24【最卑】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1176381340/446

446 名前:本当にあった怖い名無し[] 投稿日:2007/05/26(土) 17:07:23 ID:AQTDWbIJ0
>>445
アホ、三浦さんに迷惑だ。彼は友人だ。
お前みたいな何もしらないトラブル・メーカーがなんで彼の所で話す必要がある。
ただただ、三浦さんみたいな権威者に認められたいからだろう。
無視されたことで、彼が君を全然認めてないことに気づけよ。

スレタイみろ、君が叩かれれば、スレに適ってるんだ。
逆に主婦や、原告、被告について語ることがここではスレ違いだ。

全く何も知らんくせに。ちょっと囓るとなんでも通だと勘違いして。
=======

このような輩が三浦様のご友人とは思えませんが、とりあえず、因明と論理学との対比、そして彼自身の出自を明らかにするために、ご迷惑でしょうが発言させて頂きました。
よろしくお願いいたします。


最近 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月26日(土)02時06分58秒

――なにやら早くも懐かしい「あの御方の件」ですな――
勘違いとか、わら人形とか、議論拒否とか、水掛け論以前とか、論争とあら探しの混同とか、いろいろありますが、最近
http://tmiurat.cool.ne.jp/Hanron-Takamura.pdf
なんぞも書いてみて、つくづくディベートは難しいものだと思います。


(無題) 投稿者:無能な働き者 投稿日:2007年 5月26日(土)01時52分6秒

あの御方は無条件降伏してでも守ったのではありませんか?
責任逃れのため生け贄にして何になるのというのですか?
間抜けなビジネスマンにも程があるのではないですか?

これは酷い。巻き込むなよ。
(無題) 投稿者:あの御方の件 投稿日:2007年 5月25日(金)23時52分40秒
http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2007/05/post_adf7.html
だそうです。出版社にボツにされたそうですが。
はたしてφ様の
http://russell-j.com/murikai-logic.pdf
にたえうるのでしょうか。


(無題) 投稿者:Re:『のぞき学原論』 投稿日:2007年 5月24日(木)22時28分9秒

動物化、環境管理権力、ユビキタス、なめらかな社会、
ギートステイト、クオリア革命、ブッダ論理学徒、古い脳。
何でこんな奴らに税金使ってるんだ?

近くの書店になかったです。あきらめます。


Re:>Re:UFT 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月 7日(月)23時19分3秒

『のぞき学原論』レポートの続きはここ↓に書きました。
http://green.ap.teacup.com/miurat/1129.html

 版元の三五館は、ほとんどの出版物をamazonの「なか見!検索」で公開している自信あふれる出版社ですが、
 この『のぞき学原論』は、amazonで「なか見!検索」公開されるのに2ヵ月以上かかったようです(ふつうは、送本して2週間ほどで反映されていたそうですが)。
 なぜでしょうね。タイトルを見て、amazonが覗かせ方に凝ってくれていたのでしょうか。


>Re:UFT 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月 5日(土)00時10分4秒

>あくまで事前に特定された特殊な環境について、UFTを言う意味があるでしょう。

なるほど、これが人間原理を科学たらしめている境界というわけですね。
この境界を越えるとトンデモになってしまう。
良く分りました。

『のぞき学原論』などという怪しげな本を出されたのですね。
読むべきか読まざるべきか、それが問題です。


Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月 2日(水)02時58分26秒

ありがとうございます。
そろそろ『のぞき学原論』出版3ヶ月記念のレポートを「アドホック日記」に書かねば。

 5分前誕生仮説、『心の分析』でラッセルが思いつきのように出した譬え話がそこそこ有名になっていますね。
 言われてみれば、なるほど確かに似ている点もあり――
 5分前仮説を論破するとしたら、確率的に私がそんなに若いはずがない、という感じになるでしょうね。つまり「反-5分前仮説」が終末論法と似ていることになります。
 ただ、終末論法を論破したからといって、それが5分前仮説を復権させることになるのか、それは定かでありません。いずれにしても、過去に向かって裏返した終末論法も一度考えてみる必要がありそうですね。


(無題) 投稿者:ジークフリート 投稿日:2007年 5月 1日(火)22時29分0秒

こんばんは♪
三浦さんの本を何冊か読ませていただきました。面白かったです!!
ほかにはどんな本があるんだろうって検索したら、ここにたどり着きました。

…。なんかミィハァなカキコで終わるんもアレなんで一言。
終末論法は、「世界が五分前にできた」の未来バージョンとして捉えてました。でも、本当に論破できるんならおもしろいですね。


Re:UFT 投稿者:φ 投稿日:2007年 5月 1日(火)01時36分23秒

 SIAというより、「意識の超難問」に舞い戻ってませんか。

あくまで事前に特定された特殊な環境について、UFTを言う意味があるでしょう。
本人にだけ意味を持つ問いを問うても、客観的な「チューニング」はそこに成り立っていないので、UFTは言えません。
 科学理論と違って芸術作品にはチューニングはない(追認によって認められるだけ)、と書きましたが、同様に、個人の同定については追認だけがあって、事前の何かとのチューニングはありません。

 いずれにしても、「強い観測選択効果」で準拠集団をさらに狭める場合、SIAからさらに遠ざかって、知的生命の真部分集合のメンバーだけが「私」の候補となっています


UFT 投稿者:ハム 投稿日:2007年 5月 1日(火)00時07分7秒

現代思想5月号を読みました。
UFT(ウルトラファインチューニング)は人間原理の説明力にとっては必要のない過剰な秩序であり、「強い観測選択効果」が「皆既日蝕の原理」(UFT)をうまく説明できるらしいということですね。

ここでまたまた疑問がわいてきました。

強い人間原理の主語は、宇宙、ですが、
この主語を、地球から見る太陽と月の位置は、と変えるとUFTが正当化できるのではないかと思うのですが、この考え方をさらに進めると、
ハムという私のいる環境は、CUFT(超ウルトラファインチューニング)(例えば私の両親)である、ということになりませんか。
これはSIAだと思うのです。


(無題) 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月29日(日)01時00分46秒

↓よその2006/08/24という日付の日記からのコピペですが、こういうのどうしますかね……
スパムではないらしく、御本人かもしれないので、いちおう置いときますか――
(下記、いずれ削除するかも知れません)


(無題) 投稿者:すまん 投稿日:2007年 4月28日(土)23時56分25秒

しかし、進歩がなかったよな。
擬態と便乗ばっかし。

裏の裏の裏の裏の裏の裏を読もうとしているうちに、だんだんわけわかんなくなってついカッとなってガソリンかけて火を付けて、全てが燃え尽きたあとの焼け野原を歩いていたら、小さな花が一輪だけ咲いているのを見つけてハッとして「ああ、これが答えだったのか」と思うような、そういう感覚が割と好きなんですが、だからといってまだ裏の裏くらいしか読んでないうちにめんどくさくなって火を付けても焼け跡からは何も生えてこないし、ちゃんと面倒な手順を踏んだとしても、何度も繰り返し焼き畑をしていると、すぐに何も生えてこないのです。
答えが降ってくる瞬間というのはそれだけ奇跡的な尊い瞬間で、たぶん自分自身が成長していく1ステージにつき2回までみたいな回数制限があるのかもしれません。だからこそ、大切にしなきゃいけませんね。

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Re: 「論理で終末を予測」7 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月22日(日)01時51分12秒

「人類には終りがあるとする前提」ではなく、正確には、
「知的生命には(自意識には)終わりがあるとする前提」でしょうね。

しかし、終末論法を考える自意識には終わりがあると考えても、私が今生きていることに不思議はありません。
 終末論法を考える者たち(集団M)の中で、私がランダムな(特殊でない)位置にいればよいだけのことだからです。

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「論理で終末を予測」7 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月21日(土)19時13分39秒

4月号は「私は終末論法を考えている」を集団Mとして、相殺効果(Cでの条件付け)を無効化しているのですね。

私は「終末論法」の前提が気に入らないのです。
人類には終りがあるとする、という前提です。
この前提の根拠には、私が確率の低い今生れた、ことがありますが、今生れる確率が低くないことが示せればこの前提を受入れなくて済みますよね。

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Re:「論理で終末を予測」6 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月20日(金)00時50分34秒

まさにそれですよね。
4月号(今売ってる号)以降の主題はそれです。
つまり、宇宙旅行が始まって恒星間植民がなされてしまうと、人類の早期滅亡は難しくなりますから。
終末論法が論じられるのは、宇宙旅行が始まるまでの間だけですね。

 しかしそれで本当に終末論法を論破できたかどうかは、まだ慎重な考察が必要です。

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「論理で終末を予測」6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月19日(木)23時03分57秒

間違えました。

未来を含めてランダムにピックアップされた私が「終末論法」を問題にしているのは、「終末論法」を問題にできる時代に生れたからである。

つまり、「終末論法」にとって私の存在は確率が低くない。

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「論理で終末を予測」6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月19日(木)22時53分0秒

こんなのはどうでしょうか。

未来を含めてランダムにピックアップされた私が「観測問題」を問題にしているのは、「観測問題」を問題にできる時代に生れたからである。

つまり、「観測問題」にとって私の存在は確率が低くない。

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Re:「論理で終末を予測」5 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月19日(木)02時43分9秒

1.「今、未来に生れることは不可能」は終末論法の議論に全く関係ありません。

2.終末論法が論じられるときにだけ「私」はいる、というのは4月号以降で論じた主題です。ただ、「とうの昔に解決されているはず」というのは無関係です。(解決されればもちろん終末論法を論じる人はいなくなるが、「解決」される必要はない)
3.は意味不明。21世紀に居る私たちより意識明瞭な自意識の強い人たちは、過去にもいたし未来にもいるはずです。
4.知的生命が続くかぎり、そこには「私」が生まれていきます。
5.の人口減少は事実上の滅亡レベルまで減らないと何億年も保証できません。
6.はすでに「語用論的独立性」として論じたこと。
7.はランダムという意味が私の出生と特定順位が独立であるかぎり独立と言える。

 大まかにそんなところです。

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「論理で終末を予測」5 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月18日(水)23時27分55秒

今日は反論を思いつくままに挙げてみます。

1.人類が永遠ならば私は生れる確率の高い未来に生れるはずだ、と今考えるわけですが、今、未来に生れることは不可能です。
2.仮に遠い未来(100億年後とか)に私が生れたとして、そのときに「終末論法」を論じるでしょうか。
  「終末論法」など、とうの昔の西暦21世紀?に解決されているはずです。
3.宇宙は今、地球時間で21世紀です。活動している意識が21世紀にしか生れないのは必然ではないでしょうか。

以下はおまけです。
4.私が未来に生れるかどうかは分りません。
5.必ずしも未来の方が生れる確率が高いかどうか分からない。(人口が減少に転じて何億年も続くとか)
6.「終末論法」はいつの時代でも論じることができます。それは偽を前提しているからではないのか。
7.ランダムという概念は時空を越えて使えるか否か。

このくらいにしておきます。

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(無題) 投稿者:最後の宇宙論? 投稿日:2007年 4月18日(水)19時40分10秒

万物が水なら、拡散しない。流転する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E5%86%B7%E5%8D%B4
http://www.ws-inc.jp/content/thermoacoustic.html
とか。

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Re:「論理で終末を予測」4 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月18日(水)03時36分16秒

>今、2000年後に生れることは不可能ですよね。

その通りです。しかし、
 「今」を「二千年後」に変えて、

>2000年後、2000年後に生れることは不可能ですよね。

 は偽でしょう。
 2000年後に、その同じ時(2000年後)に生れることは必然です。

 21世紀の経験を前提すれば21世紀に生まれていることは必然ですが、
 なんの前提も設けなければ、生まれて経験しているのが21世紀だというのは全くの偶然です。

 「今」と認識されている時代が、21世紀初頭でなければならない理由はどこにもありません。21世紀初頭を経験するまでは(事後的追認以外には)、その時代を選び取る根拠などないのです。
 
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「論理で終末を予測」4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月17日(火)22時45分35秒

今、2000年後に生れることは不可能ですよね。

(未来人を含めて)「ランダムにピックアップされた・・・」というのはその不可能なことを前提しています。

今の私の存在は必然的だ、と思います。

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Re:「論理で終末を予測」3 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月17日(火)01時09分55秒

「私は未来には生まれない」は、次の二つの意味があります。

 A「現在の私は、未来には生まれない」……論理的に真
 B「(いつの、という限定なしで)私は、未来には生まれない」……おそらく偽

 たとえば、2000年後に生まれるある人物Kは、自分を「私」と意識するでしょう。
 私がKとして生まれるかφとして生まれるかは、φが生まれる前の時点では、どちらになるかはわかりません。
 視点を変えれば、どちらでもありうる、あるいは両方でありうるのです。
 よって、「現在」として選ばれている原点が、たまたまφの自意識であってKの自意識でなかったことは、偶然です。
 これは、「現在」が2000年前でなかったのが偶然であるのと同様です。Aの意味で今が過去でないのは必然ですが、Bの意味では、現在は過去でありえたのです。

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「論理で終末を予測」3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月17日(火)00時17分47秒

『心理パラドクス』問033「文明はなぜ永遠に続かないか」は、②を前提とする問題のようです。
①人類には終りがある、ことの証明に②(未来人を含めて)「ランダムにピックアップされた・・・」を前提するわけですね。

この論法は私がいつ生れても成立しますよね。
私が未来に生れることが絶対にないからです。

つまり、真実は私は未来には生れない、ということではないですか?

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Re:「論理で終末を予測」2 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月16日(月)02時23分41秒

①人類に終わりがある、は、人類に終わりがない、よりは受け容れやすいでしょう。
 人類に終わりがないとすると、私たちから見て、宇宙の過去と人類の過去はほぼ同じになるはずです。ところが実際は大幅に違う。これは、人類の歴史が無限であれば確率ゼロでしか起こらないことです。
 『心理パラドクス』問033「文明はなぜ永遠に続かないか」をご覧ください。

②「私が現在にしか生まれないのは必然」というのは、言葉を曖昧に使っていますね。
 「現在」とは「私が生まれた時代」のことですから、
 どんなクジでも、「私が「私が引いたクジ」を引いたのは必然」となってしまいます。
 後付けの、空虚な必然ですね。
 
------------------------------------------------------------------------
「論理で終末を予測」2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月15日(日)22時43分37秒

「「論理で終末を予測」できる時代1」の趣旨は理解できます。
「終末論法」の前提を受入れたうえで反論が構成できることに驚いています。

以前より私は、「終末論法」の前提は受入れ難いと思っていたので、ちょっと確認したいのです。

①「真ん中の九五パーセントに属している。」
ということは、初めから終りまでの全体の九五パーセントですよね。
人類には終りがあるとして、という前提ですが、これは受入れ難くありませんか?
②「ランダムにピックアップされた個人である私は・・・」
私が現在にしか生まれないのは必然ですよね。
それを未来にも生まれえるような前提は受入れ難いのです。

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Re:「論理で終末を予測」 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月15日(日)02時28分59秒

①「真ん中の九五パーセントに属している。」
これが95%の人に当てはまることは確実です。論理的真理です。
ただし、「「論理で終末を予測」できる時代」での私の趣旨は、これは事前確率の修正に使えるだけなので、事前確率の絶対値がわからなければ、事後確率は導き出せない、というものです。
②「ランダムにピックアップされた個人である私は・・・」
これについての私の趣旨は、「私」は全人類からランダムにピックアップされてはいない、というものです。これは終末論法の性質に係わり、この論法の性質上、「終末論法を考えている人間」からランダムにピックアップされたのが「私」だ、と言えるにすぎません。  なお、
  >誰も未来に生まれることは不可能です。
というのであれば、同様に、
  >誰も過去に生まれることは不可能です。
ということにもなって、あまり実のある反論になりそうにありませんね。

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>「論理で週末を予測」できる時代1 投稿者:ハム 投稿日:2007年 4月14日(土)17時06分8秒

を読みました。
「終末論法」に真っ向から斬りつける反論、さすがです!

私は「論理学入門」でこの「週末論法」を知りましたが、そのような仮説もあるのか、というような感想でした。
「週末論法」の前提が認めがたいと感じたのです。
①「真ん中の九五パーセントに属している。」
②「ランダムにピックアップされた個人である私は・・・」

①は人類には終りがある、という前提です。
②は時空を超えて私が生まれえる、という前提です。

①が真か否か、私は偽だと思います。
②は、私はランダムな個人ですが、未来の人類まで含めてランダムだとは思えません。
誰も未来に生まれることは不可能です。

こういう前提の批判で「終末論法」の足元をすくう論法もあると思うのですが?

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(無題) 投稿者:訂正 投稿日:2007年 4月 6日(金)09時35分48秒

△世界観
○世界像
間違いではないし、必要でもある。
好くも悪くもロボットや封建的資本主義っぽさが前面にでているので。

個人的にはどっちでもいいんだけどね。

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Re:虚構世界 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月 6日(金)00時50分47秒

 作者が意図しようがなんだろうが、想像できる事態へと読み替える努力をしなければ、作品の解釈というものはつまらぬものになってしまいます。
 作者の「矛盾を意図した」というメタ意図をそのまま認めるほどの義理を、読者の想像力は作者に対してもともと持っていませんから。
 ただし、詩の場合は別でしょう。詩は「フィクション」ではないので、物質としてのコトバ表層の面白さを味わえればよく、矛盾を矛盾として認めてよいでしょうね。
 小説では、無矛盾でリアルな世界を再構成する個性的な「解釈」こそが命でしょう。

 なお、「そういう夢を見た」式の虚構内虚構についても、リアルな世界を復元すべきだと思います。私たちが夢を解釈する場合も、「矛盾が起きている世界だったのさ」で納得できているかというと、できていないはずです。
 ただし、夢には複数の定義がありえて、世界を表わしているのではないそれこそ詩句の暗唱のようなことが睡眠中になされているという言語的定義(視覚的補助を伴った言語的実体として)で規定できるならば、意味的な矛盾をそのまま認められると思います。

 ただ、キャロルやエッシャーを「虚構内の夢」として片づけると、まことにつまらない解釈となります。むりにでも想像力を発動してリアルに解釈すべきでしょう。

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虚構世界 投稿者:ε 投稿日:2007年 4月 5日(木)23時43分13秒

人文死生学研究会とその後の食事会では久しぶりにお会いでき、
また、素人の議論に付き合っていただいてありがとうございました。
掲示板ではご無沙汰していますが、最近の話題の”虚構世界の存在論”で納得できなかったのは、

>>虚構世界の中に矛盾が認められた場合は、整合的なモデルに対応するよう、最小限の意味的変更を施して、いわば「比喩的に」矛盾的言説を解釈し直すべきでしょう。

この考え方です。著者が明らかに、矛盾を意図していると考えられる場合はどうでしょう。
キャロルの”死者の書”とか、エッシャーのだまし絵のような場合は?

まあ、最終的には
”そういう夢を見た”とか”シミュレーション論法の中の世界である”とすれば、たいていは合理的に解釈できるとは思いますが。

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(無題) 投稿者:田中 投稿日:2007年 4月 4日(水)06時56分2秒

 虚構世界内存在 さま

 虚構世界内存在さまがおっしゃていることと私が主張していることにはなんら矛盾はありませんし、虚構世界内存在さまのご見解はもっともなのでしょう。

 私じしんも「虚構世界の自然さ」なるものを尊重しておりますし、また愛好家でもあります(シェークスピア、ゲーテ、トルストイは、どんな読書歴、人生経験を持つ人が読んでも初めて読んだ時にはそれなりの感銘を与えると信じます)。

 ただ、もっと面白いのは現実世界の自分自身の経験はだと思います。すなわち主観的経験、主観的知識が各々の人生でもっとも重要でしょう。安楽いすの哲学者は自覚しようとしまいが独断論者であり、独我論的な傾向が強いのです。百聞は一見にしかずといいますが、理論の真偽でなく、人生を生きるという観点からは、正しい実践指針です。

 しかし、主観的知識を追い求めるうえでも、客観的知識が重要なのです。自身の主観的知覚だけをもとにしても何も構成できません。裸の事実の認識、センスデータの認識、クオリアの認識etcは神話です。すべての認識は理論(仮説)で満たされています(言語的であれ、非言語的であれ)。
 客観的理論は主観が何回テストしようが変わりませんし、客観的事象の確立は主観の信念にも知識(らしきもの)にもまったく影響されるわけがありません。

 経験と認識(知識)の根源を知覚と解することを同視するのは誤りです。認識の根源として知覚を最高権威として崇めるのはバカバカしいということばがもつあらゆる意味でバカバカしいが、経験は重要です。理論のテストは経験で試すのです。

 認識論の誤解(無理解)が人生で最重要な主観的認識をはなはだしく後退させるのです。  権威、流行、本質、帰納、これらのバカげた概念(私は概念という概念が嫌いですが)は主観的知識を根本的にゆがめて、なんらかの独断主義へ主観の認識を後退させるでしょう。
 
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なぜ「直接的支配欲型性的萌え」は正義なのか? 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 4月 3日(火)22時58分21秒

田中さんに捧げる

女から排除されたことがない(少なくとも本人はそう感じ取っているものとする)にもかかわらず、虚構世界の美少女に欲情することができるということ、また、女から何度も排除された経験があるにもかかわらず、虚構世界の美少女に欲情することができないこともあるという2種類の事例から、われわれは、虚構世界(の美少女)との親和性が高い者と虚構世界(の美少女)との親和性が低い者との間には感覚的な懸隔があるという結論が導出され、したがって、女から排除されたことと虚構世界の美少女に対して性欲を持つことの間に因果関係が成立しないという考えに正当性を付与することができるのである。

多くの人びとが思い違いをしているのは、自然性にはただ1つしかないということである。
しかし実際には、この世界=現実世界の自然さと「2次元的」虚構世界の自然さの2種類がある。(現実世界における武力的闘争を「2次元的」虚構世界に持ってくる、あるいはその反対のことを想像してみよ。)
したがって、現実世界の自然さを以って虚構世界を測定しようとする企てと、虚構世界の自然さを以って現実世界を測定しようとする企てはともに失敗するのである。
このことから「3次元的」虚構作品が自然性を有していない理由が判明する。
「3次元的」虚構作品は現実世界の存在者を無理やり虚構化するために自然さを消失してしまうのである。(これは演技の問題では決してない。むしろ演技が優れていると評されるようになればなるほど、現実世界の自然さからかけ離れていくようになる。)

かつては直接的支配欲を惜し気もなく発露させており、それが自然なことであった。
ところが、明治時代が形式的のみならず実質的に確立したときから、西洋中心主義をファッション化、ステータス化するようになり、男と女の性的関係が変質し始めたのである。
そして、その勢いは止まるところを知らず、道徳という名の悪などとともに直接的支配欲が忌避されるようになっていき、現在の荒唐無稽な事態に至る。
「変化を受け入れろ」という声が聞こえてくる。
それに対しては「いつまで近代を続けるつもりなのか。変化を選好するならば、いい加減に近代的文化からの脱却を果たせ」と返そう。

流行が、社会の変化がこのわたし個人の変化に追いついてこないのだ――。(最速変化野郎,2007年)

【参考】
虚構世界内存在「淫乱肉便器と淫乱肉便器候補」,ぁゃιぃ虚構世界,2006年
  http://pub.ne.jp/lewd_mistress/?entry_id=550132
虚構世界内存在「淫乱肉便器の紹介」,ぁゃιぃ虚構世界,2006年
  http://www11.plala.or.jp/schicksal/data/lewd-carnal-chamber.html
虚構世界内存在「オタク概念の整備」,ぁゃιぃ虚構世界,2005年
  http://pub.ne.jp/lewd_mistress/?entry_id=550086
斎藤慶典『シリーズ・哲学のエッセンス -デリダ:なぜ「脱‐構築」は正義なのか-』,日本放送出版協会,2006年
  http://www.amazon.co.jp/dp/4140093358/
http://cgi43.plala.or.jp/schicksa/lvs/voting.cgi

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実践的解釈 投稿者:田中 投稿日:2007年 4月 3日(火)20時20分35秒

 決定論については山ほど議論があります。
 そして、これは明言する人がほとんどいませんが、原理的にこの問題は不可知です。
 しかし、実践的な解釈はありえます。

 われわれは人間(の意思)に関しては非決定論を採用すべきです。

 決定論的にものごとを考えていると、
 おそらく
 ポルノ(虚構世界)にひたって、現実のまじめな異性との交流をさけることの言い訳や、
 たばこや酒を飲んだり、その他の社会的にも肉体精神的にもわるいと評価されていること(人に迷惑をかけない限りまったく自由なので勝手なのですが)をやるさいのいいわけになりやすいと思います。
 おれは自然の摂理にしたがってたばこがやめられないんだ。とか

 明らかに、ある日本に住んでる一人の男は少しばかりの金と時間があれば
 たとえば、ラーメンを食うか、カレーを食うかも自分の意思で決められますし、
 ポルノに浸って虚構世界の快楽に耽るか、もしくは現実世界の現実の恋愛に挑戦するか、それらを自由に自分の意思で決定できるはずです。
 
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解決 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 4月 3日(火)11時24分11秒

ありがとうございました。
おかげで解決しました。
(「意図」と「何かを意図しているという思い込み」を区別したのはよかったのですが、後者を意図と見なさなかったことが混乱の原因であることが分かりました。)

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意図、決定論 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月 3日(火)01時27分22秒

Re:意図
「何かを意図し得ているという思い込み」は、「メタ意図」と称するべきでしょうね。メタ意図そのものは「何かを意図しよう」という充実した意図になっていますが、対象の意図そのものはしばしば空虚でありうるわけです。
 なお、作品の意味は、作者の意図とは独立です。作者が表現した言語の論理にしたがって、作者の意図とは無関係に決定されねばなりません。

 Re:決定論
決定論か非決定論かについては、私は特定の意見を持っていません。自由意思が決定論と両立するのかしないのかについてもとくに考えていないというのが率直なところです。
 ただ、確率についてはある程度考えがありまして、
 主観確率は、決定論とも非決定論とも両立する。頻度説以外の客観確率は、決定論とは両立せず、非決定論とも両立しがたい。頻度説は個別の出来事には成り立たない。というのが私の考えです。
 
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決定論 投稿者:田中 投稿日:2007年 4月 2日(月)19時40分52秒

 >>非決定論的世界でのみ客観確率が意味を持つ(主観確率は決定論とも非決定論とも両立する)と書きましたが、>>

 まさか、三浦先生は形而上学決定論(未来を科学的に完全に「予測」できるとする科学的決定論はもちろんしりぞけますよね)、すなわち、われわれの世界は、宇宙のはじめから終わりまですべて決定されている、とする考えをとられているのですか。自由意志の存在も認めないのですか。ラッセルにならって。
 
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意図 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 4月 2日(月)18時35分11秒

矛盾がある状況下での対処法は分かったと思います。(両者=わたしと反論者の意見は両極端で、非建設的である。)
ただ、立場の異なる複数の人びとがそれぞれに再解釈したものを持ち寄って検討した結果、どうしようもなさそうな場合はどうなるでしょうか?(あるいはそういった事態は想定できない?)

また、それ以前に虚構作品の送り手が、
  (1)背景に理論を持っていると明言しているが、それを受け手に提示していない場合、
  (2)背景に理論を持っているかどうか分からない場合、
  (3)背景に理論がない場合、
における、送り手の意図についてはどのように考えればよいでしょうか?

(1)と(2)の場合、理論があるかどうか、あるとすればそれがどのような理論であるかを検討し、整合性のある答えを提出できない限り、彼の意図がどうであるかを論じるのは無意味であると思います。それは、何らかの枠組みに依拠している場合にのみ意図が成立する=有意味であると考えるからです。
(3)の場合(あるいはそこまでいかなくとも送り手が理論の問題について考慮しなかったり、曖昧にしていたりする場合)、上記の考えから即座に意図が成立しない(ただし、送り手自身が自分は何かを意図しているんだと思い込むことはできます。)と判断でき、やはり送り手の意図を論じるのは無意味であると思います。

この考えに対してなされた反論が、
  ■背景に理論がなかったり、理論体系に矛盾があったりする場合に意図が無意味になるのであり、有意味であれ、無意味であれ、「意図それ自体」は存在する。
というものです。

これに対して、わたしは、そこで言われている「意図」は実は「何かを意図し得ているという思い込み」ではないのかという感想を持ちました。

おそらく、虚構作品の送り手がその作品において重要であると考える場面を描き出すときには、「何か」(観念?)を持っているという点では合意を得ているのですが、その「何か」が、背景的理論の有無や理論体系の矛盾(体系間の矛盾を含む)にかかわらず常に「意図」であると考えるかどうか〔常に「意図」は成立すると考えるか、場合によっては「何かを意図し得ているという思い込み」になると考えるか〕という点で意見が対立しています。
簡単に言えば、「意図」という語の定義が問題なんだろうと思います。
それでは「意図」とはいったい何なのでしょうか?(状況によって異なる場合、ある虚構作品の全体、あるいは虚構作品の部分をつくるときの「意図」をどのように捉えればよいか。)

なお、わたしの考えに対して異論を述べた人は、「意図」と「何かを意図し得ているという思い込み」を同一視する意味はあり、その理由を「虚構世界?ではともかく、現実では、これを区別すると世の中が「妄想」だらけになるという甚大な被害が出るからである。」と締め括りました。
これはいわゆる燻製ニシンではないでしょうか?

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芸術、確率 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月 2日(月)14時03分38秒

Re:芸術と可能世界と論理

 虚構世界の中に矛盾が認められた場合は、整合的なモデルに対応するよう、最小限の意味的変更を施して、いわば「比喩的に」矛盾的言説を解釈し直すべきでしょう。
 (「実は有意味なことは何も語り得ていない」と突っぱねるよりは、比喩的再解釈のほうが実りがあると思います)
 比喩的再解釈をしないで、字義通りにこだわり、想像できもしない矛盾的事態をあたかも想像できたかのように振る舞うのは、想像力の行使を怠った、安易な道です。「自分の想像力を甘やかしてはならない」(『虚構世界の存在論』p.140)のです。あくまで、想像できる世界を再現せねばなりません。想像できもしない「矛盾的世界」を容認できたかのようなふりをするのは、「よい観賞者」とは言えないでしょう。
 理論体系に矛盾があったところでモンダイはない と言う人は、想像力を甘やかしているか、「矛盾」という語を甘い意味で使っているか、どちらかなのでしょう。

Re:確率について

 確率は、「無差別の原理」のような「論理的原理」によってただ前提すべきものだと私は思うので、「傾向性」のような実体を設定すべきだとは思っていません。
 あえて言えば、論理的確率と主観確率で十分だろうと考えます。客観確率というものには懐疑的です。もし主観的意識が存在せず、主観的な過去や未来が無く、予測も行われない世界であるなら、すべてのことはただ起きているか起きていないかのどちらかであり、確率は0か1しかありません。主観的意識との係わりでこそ、中間の確率が意味を持つでしょう。
 主観確率と言っても、合理的判断は確率論の公理にしたがわねばならないので、計算の上では客観確率と区別がつかないわけですが。

 『心理パラドクス』問053「ラプラスの悪魔」では、非決定論的世界でのみ客観確率が意味を持つ(主観確率は決定論とも非決定論とも両立する)と書きましたが、今では私はもっと主観確率寄りになり、客観確率は、頻度解釈以外は意味を持たない(したがって、一回限りの事柄については主観確率だけが意味を持つ)と考えるようになりました。

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傾向性解釈 (実在論の擁護) 投稿者:田中 投稿日:2007年 4月 2日(月)10時29分12秒

 ポパーの提案した確率の傾向性解釈は、相対頻度説と同じく確率を客観的な事態を表すものととらえる考え方です。ポイントは、次の三つの点です。

(1) 傾向性解釈では、単一事象の確率について語ることができる。
(2)傾向性とは、可能な事態を生起させる実在する性質である。
(3)実験によって確率を決定する場合、傾向性は実験設備の全体によって決まる関係的な実在である。

(1)相対頻度理論では、単一事象の確率について語ることはできません。ポパーが相対頻度理論について不満をもった第一の点はこれです。ミーゼスと同じくポパーも相対頻度理論は、「ある単一事象が相対頻度を持った事象の系列の一要素である場合に限り、その単一事象に確率を与える」と理解してます。
 これに対して確率の傾向性解釈は、単一事象の確率について有意味に語ることを可能にします。「傾向性解釈は、現実の系列の要素としてというよりはむしろ、事象の仮想の系列の、ないしは思考可能な系列の代表者としての単一事象に確率を付与する。この解釈は、この仮想の系列を定義する条件を考えることによって、事象aに確率p(a,b)を付与する。」
 頻度解釈ではこの言明は意味をもたないが、傾向性解釈では単称確率言明は、中心的な役割を演じます。傾向性解釈は単一事象を、可能な事態を実現させる実在する物理的な傾向の現れと見るのです。

(2)常識的な確率概念では、確率とはわれわれの知識の欠如のゆえにしかたなく導入される主観的な概念でした。つまり、確率はわれわれの知識の状態を表現しているととらえられています。これに対して、傾向性解釈では、確率はまったく客観的な概念です。隠れていて直接には観察できないが、起こりうる事象を生起させる物理的実在の傾向、潜性を数値で表したものが確率なのです。だから、相対頻度は、この実在の傾向性の現れとしてとらえられます。
 ただし、万有引力の法則などに現れてくる力は、ある一定の条件を満たせば必ず、例外なく現れてくるという意味で、その確率が1の傾向性としてとらえられます。つまり、傾向性の特殊なケースなのです。そして、確率とは、この傾向性の測度として考えられます。

(3)確率は実在する傾向性の測度として客観的に解釈されるわけです。
 しかしこの傾向性を、たとえばサイコロやコインに内在する属性と考えてはだめなのです。傾向性は「客観的な状況全体の関係的な属性」なのです。
 実験を繰り返す際には、繰り返される実験の条件が同じであるということが重要です。金属疲労をテストする実験のように、実験を繰り返すほど(衝撃を与える)ある事象が起こりやすくなる(実験対象の金属の切断)ような実験もないわけではないですが。
 繰り返される実験系列の要素である個々の実験は、その前後の実験から独立でなければならなりません。
 このように、傾向性は実在に潜む性向であるといっても、それはなんらかのカント的な「物自体」に備わっている絶対的な属性ではなく、ある事象を生起させる状況の諸関係によって決まる相対的な属性なのです。アリストテレス流の本質主義的なものの見方になれた人は、関係的な属性を実在するものとは見なさず、われわれの観点に依存するものと考えがちですが、この習慣が確率の主観的解釈に通じているのです。
 
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確率について 投稿者:田中 投稿日:2007年 4月 1日(日)20時30分19秒

 芸術についてはおっしゃるとおりでしょう。

 ところで先生は、現代思想の連載や哲学的著作の中で、分析するさいに確率論の考えを使用されてます。
 確率の解釈についてなのですが、客観的実在世界の事象の確率が主観によって変わるとお考えなのですか。または事象の確率は主観とは独立した客観的なものであり、主観に影響されないと考えますか。

 私は実在論者ですから、量子力学の主観的解釈を受け入れたことはありませんし(ポパーいわくコペンハーゲンでは何かが腐ってる)、確率の(ベイズ的な)主観的解釈も社会科学
的分析における参考程度の道具としてしか受け入れたことはありません。

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追加 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 4月 1日(日)17時49分3秒

論理の箇所で追加があります。

(3) http://game12.2ch.net/test/read.cgi/gamerpg/1174393499/353
  →(2)の立場の補足

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芸術と可能世界と論理 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 4月 1日(日)17時08分19秒

■芸術
芸術を否定的に〔嘲笑的に、あるいは皮肉として〕使用するのは、ほとんどの人にとって本来的でないのでは?
ある人の行為やその結果としてできあがった物に対して皮肉を込めて芸術という語を適用する人でも、「芸術は素晴らしい(価値が高い、賞賛すべきだ)」という信念(「よく分からないけど何かすごいものなんだろう」という信念も含む)を基礎に据えているのではないかということです。
そういう受け取り方をしているのと、価値についてどのように捉えるのが正しいかということが分からないため、わたしは芸術を肯定しておらず、また他者への皮肉や嘲笑として芸術という語を用いていませんが、こういう立場は非常に珍しいと思います。

■可能世界
虚構世界は可能世界の一種と考えてよい〔不都合はない〕か。
一階述語論理の論理形式ですら(と書くのは一階述語論理の論理形式がそれ自体で=単独で完全であるということを前提としているからですが)誤っているような可能世界はあり得るか。
可能世界では矛盾も成立するか。(たとえば、この世界とまったく同一の数学理論が成立しているにもかかわらず、「1+1」の答えが「2かつ2でない」という事態が成立し得るか。)

■論理
三浦俊彦さんに以下の議論についての判定をお願いしたい。

(1) http://game12.2ch.net/test/read.cgi/gamerpg/1174393499/343
  →立論
(2) http://game12.2ch.net/test/read.cgi/gamerpg/1174393499/346
  →反論

わたしは、(わたしの挙げた例が失敗しているとしても)意図というものもまた空虚になる=何かを語り得たつもりになっているが、実は有意味なことは何も語り得ていない可能性はあると考えているのですが。
空虚になるときとは、たとえば(物語の送り手が)どういった理論体系が成立しているかを提示できないときや、その世界における各理論体系が相互に矛盾しているときです。

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「芸術」 投稿者:φ 投稿日:2007年 4月 1日(日)02時23分58秒

「ドキュメンタリー芸術」が否かは別として、「ドキュメンタリー」であることは確かでしょうね。
――「芸術」という認定がふさわしいかどうかは文脈によりますが、「○○は芸術だ」という言明が「○○は素晴らしい(価値が高い、賞賛すべきだ)」という意味を含んでいるとはかぎりません。
    ↓参考
http://russell-j.com/i-believ200602.htm
「ホロコーストは20世紀最大の芸術だ」と言う人は、ホロコーストを誤解している。
「ホロコーストは20世紀最大の芸術だ」という言葉に怒る人は、芸術を誤解している。
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(無題) 投稿者:田中 投稿日:2007年 3月31日(土)13時48分43秒

 トイレ盗撮がドキュメンタリー芸術として認められるという時代は、われわれの時代から何光年も遠ざかっていると思います。
 しかし、カント(そして多くの偉大な哲学者たち)が立てた問題、つまり「われわれはどこまで(人間をとりまく宇宙すなわち世界を)知ることができるか」という大問題に立ち向かうに際しての、試行錯誤のひとつとしては、「のぞき学」はなんらかの試論として有効になりうることは、あたまから否定できない、ということになるのでしょう。

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Re:のぞき学について +センスデータ 投稿者:φ 投稿日:2007年 3月31日(土)04時01分54秒

ラッセルからの引用箇所は、私も、比喩的にでなく論理的に捉えるならば正しくないと思います。
素朴実在論→物理学 の関係は因果関係ですが、
物理学→素朴実在論の否定 の関係は論理関係です。
したがって、素朴実在論は自らの否定を論理的に導いているわけではなく、したがって、背理法のような自己否定に陥っているわけではありませんね。

センスデータについては、純粋なそういうものがあるかどうかはわかりませんが、かりにあるとした場合にはどうか(そしてそこから何が構築できるか)、という議論をすることは有意義でしょう。センスデータの実際の有無とは別に、「それがあるとして」という議論は可能であり、有意義です。

『のぞき学原論』の後半は、性欲を主題的に論じたわけではなく、どちらかというと〈映像芸術論〉〈視点論(パースペクティブ論)〉であり、ドキュメンタリー論の一種になっているはずなのですが、トイレ盗撮ビデオなどというものをドキュメンタリー芸術と認める習慣が俗世にも学界にもないがゆえに、どうしても性欲論(セックス論)ととられてしまうかもしれませんね。
 セックス論となると必要に応じさらにディープなスカトロジーを扱わねばなりませんが、その方面も私の得意分野だとはいえ、まだしばらくは論ずる予定はありません。

 いずれにしても、人類の中のランダムなサンプルである「私」がスカトロ派であるというデータから、コペルニクス原理により、「スカトロジストは案外多数いる」という結論を秘かに導き出していたのですが↓、目下のところ、『のぞき学原論』第3章以降への共感者が名乗り出てくれた例はまだ無く、人間原理的サンプリング仮説の修正を迫られているところです。

http://green.ap.teacup.com/miurat/1090.html

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のぞき学について 投稿者:田中 投稿日:2007年 3月30日(金)23時16分56秒

 もうひとつお聞きしたいのですが、先生の新著は排泄や盗撮ポルノの研究ですか?私はすべての人は哲学者であり、ある人は通常より、より哲学者であり、三浦先生はもちろん通常人より哲学的であります。
 私はつねづね、ほとんどの職業的哲学者が取り上げないセックスについての哲学を期待しておりました。ほとんどの人(えらい先生方を含む)はこの問題について取り上げておりません。死の問題についてあまりにも不釣合いに重みがおかれてます。死の問題にふれるならば生(性)についてふれなければなりません。
 昔ポルノが解禁されていたコペンハーゲンではポルノショップがたくさんあり、もの珍しさからか大変繁盛していましたが、今ではだれも見向きもせず、みやげ物屋等になっているらしいです。
 わたしはポルノは完全に自由にすべき(国家が口出しすべきでない)と強く信じているものであり、それについて哲学的な三浦先生が論じたことに対して高く評価しております。
 しかし、通常人のいう変態的性欲(のぞき、排泄物欲)を主題にしたのはいささか勇み足ではなかったのか。
 
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(無題) 投稿者:田中 投稿日:2007年 3月30日(金)19時03分20秒

 そうですか。
 ところで、先生はラッセルの『An Inquiry into Meaning and Truth』(pp14f参照)のアインシュタインをいたく刺激したラッセルの議論について引用されています。
 「観察者が自分は石を観察しているのだと思っているとき、彼は実際には、もし物理学が信じるに足るものとすれば、石が彼自身に及ぼす効果を観察しているのである。それゆえ、科学はみずからと相抗争するように思われる。・・・・・・素朴実在論は物理学へと導く。そして物理学は、もしそれが正しいとすれば、素朴実在論が偽であることを明らかにしている。それゆえ、素朴実在論は、もしそれが正しいとすれば、偽である。結局素朴実在論は偽である」
 最後の部分を引用なさっていますが、この議論はまったく受け入れられないものであると思います。

 センスデータにしてもクオリアにしてもそれを認識の絶対確実な基礎とみなすのであるならば、それは認識(知識)について正しくないものです(絶対確実なデータの知覚の誤謬可能性に関しては未曾有の混乱があります。)われわれは絶対確実な認識は得られません。常識的認識論(特に『哲学の諸問題』におけるラッセルの主観的認識論)が誤っているのはこの点です。
 そもそも純粋なセンスデータやクオリアが存在したとして、それがどのように問題解決のための認識に役立つのでしょうか?
 常識的認識論は知識の間接的で推測的な性格を見落としてます。われわれの感覚器官でさえも(それら器官が伝達することの解釈はいうまでもなく)すべて理論に満たされたものであり、また(健康な有機体にあってはごくまれに)誤りを免れません。
 私は実在論およびその生物学的知識論でさえひとつの推測であることを認めます。常識的知識論はラッセルに見られるようにつねに実在論の一形態から出発し、常に認識論的観念論か操作主義などの泥沼に陥ります。そして常識的知識論は自己矛盾的なものとして論破されます。しかしこれは実在論に支障をきたしません。
 すべての認識(知識)、理論は仮説です。すべての理論は覆されえます。テストの反証子たる基礎言明ですら絶対確実なものではなく、批判に開かれてますので絶対確実な反証すらありえません。
 カントが誇らしげにコペルニクス的転回と呼ぶ観念によると「知性(悟性と訳されますが私はこの語を好みません)は、その法則を自然から導き出すのではなくて、その法則を自然に課すのである」(プロレゴメーナ37節)
 この見解によればわれわれが受動的な観察者であり、自然によってその基礎性がわれわれに刻印されるのを待っている、という見解を捨てなければなりません。
 その見解に代えて、われわれが、センスデータやクオリア(純粋なそれらがあるとして)を消化するときに、能動的にわれわれの知性の秩序と法則をセンスデータ等に刻印する、と言う見解をとらなければなりません。この宇宙はわれわれの精神の刻印をおびているのです。
 カントがどうしようもなく誤っているのは、われわれの理性が法則を自然に押し付けようと試みるだけでなく、その試みが必ず成功するといった意味合いが含まれている点です。これをポパー的に理性は思考錯誤によって進化するととらえると考えます(ダーウィン的に)。
 
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Re:存在 認識 投稿者:φ 投稿日:2007年 3月30日(金)14時52分42秒

――そうですね、実は私も、中性一元論は、センスデータを基本にするかぎり、観念論に近いという印象を持っています。
 センスデータは、近頃の言葉で言えば「クオリア」ですが、ラッセルはそれを物理学的な対象と捉えていたのが面白いところです。クオリアについては近く論文を書かねばならないので、少しずつ考えているところなのですが。

 ところで、御報告遅れましたが、以前ご指摘あるいは示唆いただいた『論理学入門』の箇所を修正しました。今年2月発行の第11刷から、以下のように訂正されています。2箇所(5点)。

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42頁下から4行目
 原子命題 → 命題

144頁下から6行目
 観測選択効果とは → 選択効果とは

145頁上から14行目
 人間の存在 → 観測者の存在

145頁上から14~15行目
 観測者の存在そのものが対象を選択してしまう場合
    をゴチックにする。

145頁上から15行目末尾(段落末尾)に次の一文を付加
   それを特に「観測選択効果」と呼ぶ。

 …………………………………………

 田中さんのご指摘に感謝いたします。

 拙著の増刷時の修正については、まとめてそのつど公開せねばならないところですね。
 専用の正誤表ページをそのうち設けることにしたいと思っております。
 
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存在 認識 投稿者:田中 投稿日:2007年 3月29日(木)21時41分17秒

 お久しぶりです。三浦先生は『ラッセルのパラドクス』で中性一元論について論じられてますが、この考えは本当に中性なのでしょうか?先生ご自身はいかにお考えでしょうか?観念論的思考に慣れきった人には中性に思えるのかもしれませんが、この考えは単なる観念論なのではないでしょうか?
 認識の問題について知覚から入るのは職業的哲学の先生方の間で侵しがたい伝統になっているようですが、たとえばセンスデータなるものを知覚できるとお考えなのですか?

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人文死生学研究会 投稿者:φ 投稿日:2007年 3月17日(土)14時11分28秒

昨年の今ごろと同様、「人文死生学研究会」&「「心の科学の基礎論」研究会」が開かれます。興味のあるかたはどうぞ。
詳細はこちら↓

http://www.01.246.ne.jp/~koma2/kokoro/

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「私」の誕生 完 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月28日(水)11時26分5秒

分かりました。ありがとうございます。

そうすると、SIAは説明されなければならないとてつもない謎だということになりますね。
IDや創造論による説明も無下にできなくなりそうです。
だから、SSAの方が正しそうかというと、これも納得しかねます。

答えは別のところにあるはずです。←直感

3月号を読みつつ考えます。

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Re:「私」の誕生12 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月28日(水)01時36分51秒

>存在はモノを具体化するのだから、「組成」「形状」が問題となる文脈で存在は「独立に特定」されている。

 答えはもちろんイエスです。「ある」は事前に特定された特別な特徴づけです。
 だからこそ、「この世に何もないのではなくモノがあるのはなぜか」という問題が、形而上学でしばしば設定されるわけです。
 「ある」と「ない」の境界は、「意識」と「無意識」の境界と同様、説明を要する区別です。

 ただし、同じ「ある」ものの中で、「なぜこの形状か」という質問は、事前に「この形状」が何らかの特定をされていないと、無意味です。単なる後付けで疑問をでっち上げても良い質問にはなりません。

    cf.『論理学がわかる事典』第1章、とくにp.32~52 !
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    「私」の誕生12 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月27日(火)22時45分47秒

意識は「独立に特定」されたものである。

この意味がどうもよく分りません。
そこで質問させてください。

1.こういう↓ことなのかと考えたのですが、この例えは例えになっていますか?

  存在はモノを具体化するのだから、「組成」「形状」が問題となる文脈で存在は「独立に特定」されている。

この1.の答えがノーのときだけ、以下の質問もお願いします。

2.意識が「独立に特定」されていないとしたら、実際の意識はどうなりますか?

3.意識の「独立に特定」というのは定義、性質のどちらですか、他の何かですか?

3月号はぜひ読んでみます。

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Re:「私」の誕生11 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月27日(火)02時45分49秒

 とくに宗教は関係ないでしょう。
 超意識も必要ありません。論理だけで十分です。
 意識は自己実現的に「意義」「特定」という概念を具体化するだけですから。「意義」「特定」が問題となる文脈で意識が(事前に)特別なものと扱われるべきなのは当然です。特定の石ころの形状には、そうした自己実現的な意義はないでしょう。意識に補佐されて初めて石ころも意味を持ちます。

 「事前の」特定と言えるためには、時間的に先立っている必要はなく、「独立の」根拠が見出せればよい、という点については、3月号の p.13- あたりに書きましたので御参照いただければと思います。

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「私」の誕生11 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月26日(月)14時43分35秒

意識は「独立に特定」されたものである。
意識があろうがなかろうが、宇宙があろうがなかろうが、というわけですね。

ここから宗教の領域に入っていくような気がします。
このような超意識?ともいうべきものを定義する必要があるのでしょうか?
その意義や正当性はどのようなものなのでしょうか?

こういう超意識?を前提するのならば、「「私」の誕生」の中で明記すべきだと思います。
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Re: 「私」の誕生10 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月26日(月)03時47分8秒

 「事前の特定」というのは、時間的に以前に特定されている、という意味ではありません。
「独立に特定」と言った方が正確でしょう。つまり、当該物が実現したこととは独立の基準で意義を特定できるかどうか、ということです。
 石ころの形状や私の素性(固有名)は、石ころや私の実現と独立の基準では意義を持ちません。後付けでしか。それに対し、意識は、実現するかどうかとは独立に、「意義」の源泉であるという意義を備えています。

 事前、という概念と同様の誤解を受けやすいのが、ランダム、という概念でしょう。ランダムに選ぶ(決まる)というのは、デタラメに選ぶ(決まる)ということではなく、何らかのシステムに従って選ばれてもよいのだが、問題としている条件とは独立のシステムに従って選ばれる、という意味ですね。
 生物進化がランダムというのも、自然選択はデタラメではないが、各個体や種の有利不利とは独立に変化してゆくので、個体や種の利益に対して(相対的に)自然選択はランダムと言えます。

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「私」の誕生10 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月25日(日)19時10分58秒

意識は、「特別な意義」「事前の特定」を付与されていて、語用論的な前提だというのも認められます。
しかしそれは、意識が存在した後の話ではないですか?

意識が存在する前に、「特別な意義」や「事前の特定」を付与のしようがありません。
意識が存在する前の「語用論的な前提」などは、語義矛盾です。

意識の存在前に、意識を「事前に特定されているに等しい特別な現象」と考えるのは、語用論的独立性の要請を犯しているのではないでしょうか。

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Re:「私」の誕生9 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月25日(日)04時09分42秒

『ゼロからの論証』5-3の「特殊性の要請」のところでも述べましたが、たとえば、「特別な意義」「事前に特定」などの概念は、意識があって初めて生じます。
 ということは、意識そのものは、意識以外の現象に対して、「特別な意義」「事前の特定」を付与されていると認められます。自己言及的な一致が生じるので。
 もう一つは、意識がなければ、人間原理的な議論そのものが生じません。つまり、意識の存在は、語用論的な前提です。よって、人間原理の議論の枠内では、「意識」は事前に特定されているに等しい特別な現象なのです。それが現に生じて、実際に議論が生じていることは、特別な説明を要することなのです。
 石ころのたまたま唯一無二の形状については、そういった特別な意義は当てはまりません。

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「私」の誕生9 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月24日(土)17時45分15秒

世界認識が可能な意識は人間だけにそなわっています。
人間が生れれば、やがて意識を持ち、新たな「私」に育つことはあたりまえです。
つまり、意識∈人間 という関係です。

人間への進化は研究が盛んで、少しずつ説明されてきています。
その説明には、「他の現象から事前に区別」はありません。
偶然の積み重ねであったようです。
人間の誕生は極小の確率だったことが分ってきています。

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Re:「私」の誕生8 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月23日(金)14時05分13秒

 事前に形状が指定されていて、ランダムに選んだ石ころの形状がそれに一致すれば、とてつもない謎です。(事前に指定されていなければ、石ころにはどのみち何らかの形状がなければならないのだから、特定の形状をしていても謎ではありません)
 意識もそれと同様でしょう。世界認識や自己反省や議論をするためには、意識が必要です。この意味で、意識は、他の現象から事前に区別されています(他方、女であること、日本人であること、名字がア行で始まること、背が百八十センチ台であること、等々は、世界認識・自己反省・議論のために必要ではないので、不思議がるには及びません)。
 よって、私が意識的存在としてあることは、SIAにおいては、〈ランダムに選ばれた石ころの形状が、無限の形状のうち事前指定された一つとたまたま一致した〉というほどに不可解なことなのです。

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「私」の誕生8 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月22日(木)23時47分18秒

石ころの組成に注目すればそのようにいえると思いますが、その石ころの形状まで考えると存在確率は極小でしょうから、「私」が存在する確率と同じと考えていいのではないでしょうか。

その石ころとまったく同じ形状の石ころが見つかったりすれば、その石ころの存在は謎めいてきますが、ただの石ころがどのような形状だろうとその形状が奇跡だろうと不思議ではありませんよね。

同じことが「私」にもいえませんか。

この石の組成と形状の関係は、意識と「私」の関係に相当すると思います。

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SIAがダメな理由 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月21日(水)04時16分24秒

>SIAで「私」が存在する確率というのは、路傍のこの石ころが存在する確率と同じですよね。

それは大違いでしょう。石ころの組成が成立する確率のほうが、脳が成立する確率よりはるかに大きいので、SIAのもとでは、「私」が存在する確率は、路傍のこの石ころが存在する確率よりはるかに小さいです。
 このことは、任意の時空点に電子が存在する確率と、大脳皮質が存在する確率を比べれば一目瞭然でしょう。
 私が真空でなく石ころにあたるのも十分不思議ですが(ただし「私」の本質に意識が含まれるとすると、私が石ころであるというのは私が存在しない場合の特殊例にあたる)、私が大脳皮質の生成場所に重なったというのはとてつもない奇跡です。宇宙誕生以来、脳は石よりもはるかに少ない時空しか占めてこなかったからです。
 
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「私」の誕生7 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月20日(火)18時02分58秒

SIAで「私」が存在する確率というのは、路傍のこの石ころが存在する確率と同じですよね。 極小の確率でしょうけれども、1/全物質 の確率だと分かります。
それが「私」でなければ何かなわけで、必ず何かが当ります。
指示は事後になされているわけですから、宝くじと同じ仕組みではないですか。

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Re:「私」の誕生6 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月19日(月)04時24分26秒

 SIAは、(2月号にも書きましたが)「私」は意識とは限らず、ありとあらゆるモノを準拠集団(母集団)としてそこからのランダムなサンプルが「私」だ、とする考えです。
 あるいは、「私」の本質は意識だと考えれば、「私」は存在しないこともありえた、とする考えです。
 いずれのバージョンでも、SIAは不合理に陥ります。モノ全体の中で知的生命の占める割合が極小であることを考えれば、「私」が意識を持つ確率(第二バージョンでは、「私」が存在する確率)は極小となってしまい、アプリオリに排除されます。

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「私」の誕生6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月18日(日)16時35分36秒

非決定論的ということだと、「私」の誕生を必然にするSSAよりSIAではないですか。

というより、これは定義の問題であるように思います。
「私」=意識ならSSA、「私」=ハム(自分の名前)の意識ならSIA。
本来は、ハムの意識∈意識という関係ですから、同列に並べればSSAの確率が高いに決まっています。

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Re: 「私」の誕生5 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月17日(土)01時11分46秒

「霊魂」は持ち出してもいいのですが、持ち出さなくてもいいでしょう。どのみち物理的なものではなく概念的なものでしょうから、役立つなら設定すればいいし、無益なら無しで済ませばよい。死んだ瞬間、何グラムか軽くなってそれが霊魂の重さだ、などということでないかぎり、霊魂を設定するのは自由でしょうね。この私を、過去の誰と結びつけても自由です。(ただし、他の条件が等しければ、主観的内面が似ているものどうしが同一人物として結びつくべきでしょう)

どの時代にも「私」はいたという証明は、以前エッセイ風論文を書いたのですが(「多重人格と輪廻」『ユリイカ』2000年4月号,pp.156- 164.)電子データがないのでアップロードしてません。非決定論を前提すると、確率的にはそう考えるしかなくなる、という話です。
『現代思想』でもそのへんまで話を進めるかもしれません。

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「私」の誕生5 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月16日(金)09時12分24秒

起源による同定をするとビッグバンに行き着くというのは科学的な説明であって、その意味でしか識別ができない。
それが指示の因果説の意味だということですよね。

夢の中の私とその夢を見ている「私」の関係は、今の「私」と過去の私の関係と同じではありません。

過去にも「私」がいたというようなことは霊魂でも持ち出さないかぎり、合理的な説明は不可能だと思います。

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Re:「私」の誕生4 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月15日(木)01時34分50秒

全ての個体の起源をビッグバンとしてよいなら、起源による同定は識別に役立たないことになります。指示の因果説は途中から相対的区別のために恣意的に導入されるにすぎません。

どの時代にも「私」はいたのであり、たとえば、目覚めてみたら21世紀という遠い未来の夢を見ていたことが判明し、実は石器時代に生きていた、ということも可能です。その場合、「今」は「私」に合わせて定義し直されるだけです。もちろん、その場合、21世紀の夢はおそらく正確な予知などではなく、現実の何万年後に対応しているという保証はありません。

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「私」の誕生4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月14日(水)19時14分39秒

「私」の指示に原因を含めて考えればSIAでも良いのではないでしょうか。
ビッグバンが全ての原因なのは物理で説かれるところですし。

>「今の私」(「私」ではない)が「過去」にいないというのは単なる分析的事実。

SSAはその分析的事実と矛盾すると思うのです。
矛盾させないためには、輪廻転生などを前提しなければならなくなります。

輪廻転生については未だに理解不能です。

>過去の各時点にも「私」はいた。

こういう

「私」というのは、共通認識とは違うものです。
「私」の必要条件の一つには「私」の記憶があるはずです。
過去にいたとかいう「私」には「私」の記憶がありません。
つまり、過去にいたとかいう「私」は「私」ではなく「誰か」です。

過去にいた「私」というのは、「私」の魂、つまり霊魂のことではないのでしょうか。

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Re:「私」の誕生3 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月14日(水)03時58分13秒

 >生まれる前の同定を考えるのなら階層的な(例えば家系図のような)同定を考えるのはダメですか。

同定したい諸個体と諸起源の間に一対一対応がなくなってしまいます。ビッグバンの特異点ではすべてが同じものになってしまう。どこかで起源を区切るわけですが、その区切り方が、記述説が言うように、顕著な特徴を手掛かりにする他ない。つまり「私」は、いずれにせよ、生命・意識を宿す時空に起源を同定されるわけです。これはもはやSSAです。

>過去にあった膨大な意識に「私」が宿る確率の方が圧倒的に高いわけですから。

もちろん、過去の各時点にも「私」はいた。生物の仕組みとして、脳が滅びると記憶は連続しないので、「今」たった一度しか自分はいないと錯覚しているだけです。私が「輪廻転生は事実である」と言うのは、そういう意味です。
http://russell-j.com/i-believ.htm

 「なぜ私は過去にいないのか」は、2つの意味で錯覚です。
 1.私は過去のどの時代にもにいたのに「いない」と思い込んでいる。
 2.私はどこかには目覚めていなければならない。たまたま目覚めた時点より前を「過去」と呼ぶので、「今の私」(「私」ではない)が「過去」にいないというのは単なる分析的事実。

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「私」の誕生3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月14日(水)00時09分46秒

SIAでの起源による同定ですが、生まれる前の同定を考えるのなら階層的な(例えば家系図のような)同定を考えるのはダメですか。
宝くじの例は、「私」が当った理由は確率で説明できるのですから、「なぜ」と問えるとしても謎ではありませんよね。

「今」というのは暗黙の前提だと思います。
誰も過去の話をしていません。
とすると、なぜ今生まれた意識だけに「私」が宿るのかをSSAは説明する必要はありませんか?
過去にあった膨大な意識に「私」が宿る確率の方が圧倒的に高いわけですから。

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Re:「私」の誕生2 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月13日(火)04時46分59秒

 SIAがダメなのは、「私」の存在確率を極小にしてしまうことに加えて、起源による同定が後知恵以外では不可能だからです。

 SSAに難点はないでしょう。
 なぜ今「私」なのか、といっても、SIAのもとで「私」が生まれえた確率に比べれば、ずっと高いわけです。
 なぜ今「私」なのか、の理由は、すでに連載第2回に書きましたが、「私」がいる時点を「今」と呼ぶからです。「私」と「今」を独立に指定しないと、「なぜ今、私なのか」という謎は成り立ちようがありません。宝クジの場合は、アタリと私とが独立に指定されているため、それらが一致すれば「なぜ」と問うことは有意味です。
 
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「私」の誕生2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月12日(月)23時43分46秒

SIAがダメなのは、「私」の存在確率を極小にしてしまうことが理由であるように読み取ったのですが、
これは例えば、宝くじに当たる確率が極小だというのと同じだと思ったのです。
誰かが当るわけで、それがたまたま「私」だったとしても、そこに謎はないように思います。

SSAの難点は、二つ挙げられます。 ・なぜ今「私」なのか、ということです。なぜ過去の膨大な意識の中に「私」がなかったのか。
・「私」の個体以外に「私」の意識が宿ることが可能なのか。
 (「私」の身体的な特徴が「私」の意識の特徴だと思えます。)

SSAの方が難点が多いように思います。

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Re:「私」の誕生 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月12日(月)01時57分40秒

 SIAって、全然ダメじゃないでしょうか。
 指示の因果説が、個体の同定に使えないことは、pp.26下段~27上段あたりで決定的に述べたつもりです。
 起源を重んじる指示の因果説は、存在論としては無価値で、日常生活の実践で便宜的に採用される相対的な規約にすぎません。
 起源で同定するとしてもどこかで、顕著な性質による同定がなされねばなりません。「私」の場合であれば、自己意識を持つという性質です。
 時空点ではなく性質を同定根拠とする指示の記述説こそが、根源的に存在論に関わる指示理論でしょう。
 
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「私」の誕生 投稿者:ハム 投稿日:2007年 2月11日(日)15時44分1秒

-どこに確率が作用するのか-(現代思想2月号)

を読みました。 いろいろと考えさせられます。

SIA(自己指示仮説)とSSA(自己抽出仮説)。

SIAは、自己をこの両親(この卵子と精子)、この祖父母・・・とさかのぼっていける。(IDや創造論へつながっていく危険)
SSAは、意識があればそれは「私」だという説。

直感としてはSIAが正しそうです。
現在までに存在した全意識のなかで「私」は唯一だからです。
しかしこれは、「私」の存在確率を極小にしてしまう。
SSAは、「私」の存在確率を1にする。

確率の高い方が起りやすいし、そう考えるべきだということでしょうか。

どんなに奇跡的なことでも、そのメカニズムさえ説明できれば不思議がることもないと思いますが、どうなのでしょうか。

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Re:ファインチューニングの統計からの説明 4 投稿者:φ 投稿日:2007年 2月 1日(木)03時47分30秒

>人間が自然状態で生存できる気温から、地球なるものを予測するのと同じだと思います。

全地球上の温度(赤道~極地)から、バクテリアの生存できる温度の+-%を割り出すというふうに譬えを変えてみましょう(バクテリアは地球上で可能な温度幅を超えて適応できます)。そこから全宇宙の温度の確率分布を推測できるとも思えません。
 ファインチューニング内での偏りの観察は、それを越えた全実在のあり方の推測には無力でしょう。

>これは、考えてみますと我々のあらゆる観測についていえることで、

 あらゆるデータが生物学の事情によってフィルタリングされているからこそ、客観的な物理の評定が難しいわけです。
 一宇宙内に限るなら、いわゆる「無次元の数」、つまり諸定数どうしの比率を表わす、単位のない数値は、生物にも無生物にも等しく妥当する絶対的客観的な数です。その普遍的な無次元数が対称性の破れで決まらないがゆえに、「客観性」そのものが多宇宙説では分岐するわけですね。

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ファインチューニングの統計からの説明 4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月31日(水)23時01分25秒

おっしゃるような気温のファインチューニングに対して「統計からの説明」を試みた場合、地球上で気温のファインチューニングが起こっている割合になるでしょうね。
宇宙に対して、気温のファインチューニングが起こっている割合にはなりませんね。

それは、前提が成立している世界について予測するわけです。
強い相互作用が成立している世界は宇宙全体でしょうから、そこから宇宙なるものを予測するわけです。
人間が自然状態で生存できる気温から、地球なるものを予測するのと同じだと思います。

パラメータについては、おっしゃるとおりだと思うのですが、まずはパラメータごとに分析するしか手立てはないのではないでしょうか。
その後で関係や相関を考えていけばいいと思います。
この辺の事情は多宇宙論でも同じだと思います。

>ファインチューニングの場合、高次の組織をめぐる生物学の事情によってフィルタリングされた偏ったデータばかりが観測されている

これは、考えてみますと我々のあらゆる観測についていえることで、そこから客観的に考えていくわけですから、強い相互作用を観測し、そこから強い相互作用のファインチューニングを考えたのなら客観的だといえませんか。

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Re:ファインチューニングの統計からの説明 3 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月31日(水)02時40分57秒

 たとえば、人間が自然状態で生存できる気温は、他の条件(湿度、気圧、食物など)が一定であれば、私の居住空間周辺の、-100%~+100%くらいでしょうか。毛皮など自然な防備を許せば、-200%~+100%くらいですか。こうした地球環境の変動幅は、では宇宙の温度の上限と下限について何か語るでしょうか?
 語らないと思うのですけれどね。湿度、気圧などが一定という条件が必要であることからわかるように、他のパラメータが少しでも変動したら-200%~+ 100%という幅は無意味になってしまいますし、現実に、地球上のような温度は宇宙できわめて稀です(20世紀以前にはそれは確信できなかったでしょうが)。
 パラメータが1個だけならば、「統計からの説明」ができるのかもしれませんが、観測選択効果による偏りがある場合は、それすら難しいのではないでしょうか。そのへんの統計については私は自信ありませんけれど、ファインチューニングの文献をこれまで読んできたかぎりでは、「統計からの説明」が可能というのは見たことがありません。
 ファインチューニングの場合、高次の組織をめぐる生物学の事情によってフィルタリングされた偏ったデータばかりが観測されているので、純粋な物理学を復元するのは簡単にはいかないでしょう。
 
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ファインチューニングの統計からの説明 3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月30日(火)12時55分51秒

ファインチューニングされた強い相互作用の幅(-2%~+1%)は、客観的なデータになりませんか?
現実の強い相互作用の値は観測選択効果の結果でしょうが、この幅はどうなのでしょう。

私は、この幅が現実の値から±1.5%でないところがいかにも客観的で信頼できそうだと感じています。
その中心からのずれを「統計からの説明」でも利用したのですが、ランダムに抽出したデータが平均からずれていることは当然のことですので、現宇宙がランダムに抽出された宇宙であることの一つの裏付けになるのではないかと思っています。

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Re:ファインチューニングの統計からの説明 2 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月30日(火)03時46分35秒
 ファインチューニングは、観測選択効果によって偏ったデータなので、客観的分布の典型を表わしていないと考えるのが妥当です。地球環境を見回して宇宙の平均的環境をそのまま推測したり、この宇宙の定数から多宇宙各々の諸定数を推測したりはできません。
 多宇宙説も、確率分布の山を認める余地はありますが、観測されたファインチューニングされた値にたまたま山が一致する確率は低い、と考えるでしょう。

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ファインチューニングの統計からの説明 2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月29日(月)18時49分38秒

横軸に強い相互作用をゼロから無限大、縦軸に度数を取ると、「ファインチューニングされた強い相互作用の幅」に山があるだろうと考えるのが「統計からの説明」です。 (現在の強い相互作用を仮に100としましたが、これは100でなくてもかまいません。)
これに比べて、山がないと考えるのが多宇宙論なのでしょうね。

この「統計からの説明」は、前提さえ認めれば、他の基礎的な物理定数のファインチューニングにも応用できます。
ただ、サンプルが物理的、構造的に一つしかない対象に統計学を適応することには、統計学の方から苦情が殺到しそうです。

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Re:ファインチューニングの統計からの説明 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月29日(月)03時02分1秒

言わんとすることがよくわかりませんが、
 「ファインチューニングされた強い相互作用の幅」と「可能な強い相互作用の幅」とをごっちゃにしていませんか?
 -2%~+1%というのは、可能な幅との相対的割合は考慮に入っておらず、単に、この現実の値が-2%~+1%変化した範囲までが生物誕生可能、という意味です。強い相互作用がどのくらいの幅で「可能」なのかは不明ですが、ランダムに対称性が破れたとき、強い相互作用が現実の値の-1兆%~+1兆%の幅で可能だということも考えられます。つまり、百パーセントを限度とするなどという根拠はありません。
 それから、強い相互作用だけでなく、
the approximately 26 dimensionless fundamental physical constants のすべてがランダムに変化しうることも考えねばなりません。強い相互作用だけがチューニングされていても、他の定数もうまく合っていないとファインチューニングにはなりません。
 さらには、核力も重力も電磁気力もなくて、まったく異質な定数だけから成る宇宙も考えられます。特異点からの対称性の破れは、いわば完全シンメトリーな無からの偏りの発生なので、強い相互作用に対応する何物も発生しないということもありえます。

 というわけで、多宇宙の実在以外にはファインチューニングは説明できないのではないでしょうか。
 
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ファインチューニングの統計からの説明 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月28日(日)15時40分15秒

強い相互作用のファインチューニングは、-2%~+1%だそうです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fine-tuned_universe

3%の幅がありますので、これを中心から±1.5%の偏差と考えます。
つまり、現実の強い相互作用を100としたとき、可能な強い相互作用の平均を99.5と考えるわけです。

現実の強い相互作用(100)は、強い相互作用のファインチューニングの中で特別ではなく平凡な値だと考えると、可能な強い相互作用の平均(99.5)との差を標準偏差と考えることも許されるのではないかと思います。
そうすると、現実の強い相互作用(100)-可能な強い相互作用の平均(99.5)=強い相互作用の標準偏差(0.5)となります。
ファインチューニングの偏差は±1.5ですから、標準偏差(0.5)の3倍です。
チェビシェフの定理によると、標準偏差の3倍の範囲には全度数の9分の8以上、つまり8/9=88.9%以上の度数が含まれることになります。

こう考えると、強い相互作用のファインチューニングは88.9%以上の確率で起こりやすいことになります。
多宇宙論でも9個の宇宙あたり8個の宇宙の割合で、強い相互作用のファインチューニングが起っている計算になります。

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(無題) 投稿者:??? 投稿日:2007年 1月26日(金)15時47分3秒

リーダー、教え、世界観、全体は避ける。
なんとなくリーダーが一つ。
民主的には多宇宙説も妥当ではある。

じゃ。

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Re:「多宇宙説がすべてを解く?」9 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月22日(月)03時16分57秒

>多宇宙論でも各宇宙がファインチューニングされている確率が高くなる。

かどうかはわかりませんが、そうならないというのが現代科学の現時点での認識でしょう。宇宙創成時の「対称性の破れ」はランダムに起こるらしいので、とんでもないグチャグチャ法則や定数に固着してしまう場合が大半でしょう。

 Re:追加

 トンデモ科学はいろいろあれど、IDはまだマシなほうかもしれません。「神」とはどういうものを指すのか曖昧である点を除くと、いちおう、「何を言っているか」は明晰ですからね、IDの人たちは。
 並の学者よりずっと勉強していて自説の主張にも熱心だし、教えられるところは多いです(情報面でも、姿勢でも)。根本で狂っているのが悲惨ではありますが。

http://www.amazon.co.jp/Improbability-God-Michael-Martin/dp/1591023815/sr=8-1/qid=1169313569/ref=sr_1_1/250-1042020-3693808?ie=

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追加 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 1月21日(日)17時17分20秒

●不連続的差異論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%CF%A2%C2%B3%C5%AA%BA%B9%B0%DB%CF%C0
http://www.doblog.com/weblog/myblog/53913
http://ameblo.jp/renshi/
http://antares2.seesaa.net/
http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/
http://blog.kaisetsu.org/?cid=24553
ドゥルーズを起点に、プラトン、アリストテレス、フッサール、ニーチェ、スピノザを統合しているらしい。
「不連続的差異論について、簡単にご説明しますと、これは、純粋な科学ではありません。数学と哲学がベースになっている文理統一理論(仮説)で、その証明のために、現代物理学等に準拠します。この理論は、プラトンのイデア論のポストモダン的進展と言うべきもので、今日の物質主義的科学とは全くことなる考え方をもっています。イデアである不連続的差異を前提としています。」だって。
「不連続的差異論を、超ひも理論やペンローズのツイスター理論と比較検討することで、最終的に、不連続的差異論は、文系、理系の分化を超克した絶対的超統一理論として完成すると考えられる」らしい。

●プラトニック・シナジー理論
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%d7%a5%e9%a5%c8%a5%cb%a5%c3%a5%af%a1%a6%a5%b7%a5%ca%a5%b8%a1%bc%cd%fd%cf%c0
http://theory.platonicsynergy.org/
「不連続的差異論が、不連続的差異としてのイデアないし差異の創造によって、ポストモダンないしポスト構造主義の欠点を克服した、脱構造主義としての差異論であると考えられる。それに対して、本理論は、不連続的差異・イデアの零度共振シナジーの様相に着目した点で、さらに進展したものと考えられるのである。不連続的差異の零度共振シナジー様相は不連続的差異の共立するダイナミックな様相であり、本質的に創造的ないし共創造的な領域である。」らしい。
「鈴木大拙氏の即非の論理がもっとも明快・明確に、差異共振シナジー様相を説明するものと考えられる。なお、ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』の「第三の論理学」も、これを説明するものと考えられる。」らしい。

この2つも何かうさんくさい。

●構造構成主義(上2つとは関係ない)
http://academy5.2ch.net/test/read.cgi/philo/1109657365/l50
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E9%80%A0%E6%A7%8B%E6%88%90%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://structuralconstructivism.googlepages.com/saijo
というのもある。

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「多宇宙説がすべてを解く?」9 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月21日(日)15時44分50秒

そう考えることにします。
そうすると、現代思想12月号の「擬似問題から純問題へ」p.28の①諸定数の値が現実の値に定められる必然的な理論的理由は発見されていない。
から考え直さなければならなくなります。
というのは、諸定数の値が現実の値でない現象は発見されていないからです。

現実の値が必然ではないからといって、ゼロから無限大の値が可能なのではなく、現実の値を標準とする分布(標準偏差のような)を考えるのが妥当だと思えるのです。
例えば、強い相互作用がゼロだったり無限大だったりする宇宙など想定できませんよね。
強い相互作用があるとすると、現実の値と似たり寄ったりだろうと思います。
そうすると、宇宙は○○%の確率でファインチューニングされているとかの説明が可能かもしれません。
多宇宙論でも各宇宙がファインチューニングされている確率が高くなる。

ファインチューニングをIDで説明するのは科学的ではないと思います。
多宇宙論での説明は理屈としては理解できますが、観測不能なのが難点です。
統計からの説明が納得しやすいように思います。

Re:「多宇宙説がすべてを解く?」8,ID 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月21日(日)02時25分53秒

10の40乗の一致を要請するのは、弱い人間原理です。
ファインチューニングというのは、物理法則それ自体が生命の誕生に都合よい値になっていることが本義なので、10の40乗の一致のような、この宇宙の中でのローカルな事情はとくに関係ありません。

IDは私もずいぶん読みましたから知っていますが、きわめて幼稚な思考にとどまっており、あんなものでダーウィニズムをどうこうできるなど、学問をナメるにもほどがあります。『心理パラドクス』問044や、『現代思想』誌1月号pp.21-23に述べたことで十分なのですが、幸い日本の学界はアメリカの学界ほど幼稚ではないので、IDを真剣に論破するなどという無駄な仕事に手間取らずにすみます。ちなみに、いま私が必要上読みつつあるファインチューニングとIDの関係を論じた本は、↓です。

http://www.amazon.co.jp/Improbability-God-Michael-Martin/dp/1591023815/sr=8-1/qid=1169313569/ref=sr_1_1/250-1042020-3693808?ie=

ダーウィン進化論の終焉 投稿者:虚構世界内存在 投稿日:2007年 1月21日(日)01時24分48秒

これはどうですか?

http://www.worldtimes.co.jp/special2/id/main.html

「多宇宙説がすべてを解く?」8 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月21日(日)00時09分53秒

強い人間原理は、10の40乗の一致を要請しないのですか?

ファインチューニングといったとき、10の40乗の一致も含んでいるように考えていました。

Re:「多宇宙説がすべてを解く?」7 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月19日(金)01時09分43秒

 事前(誕生前)に告げられることはできないので、もちろん事後に、「ファインチューニングの場合だけ呼ばれることが事前に決まっていたよ」と告げられるわけです。

 ファインチューニングとは、10の40乗が成立している時期という意味ではありません。10の40乗の一致は、弱い人間原理のトピックなので、多宇宙とは関係ありません。(一宇宙の多時代説を確証していると言うべきか)
 多宇宙は、強い人間原理で動員されます。ファインチューニングも、もともとは強い人間原理の概念。(地球が奇跡的に生命の都合にファインチューニングされている等、弱い人間原理でもファインチューニングという語は流用されますが)
 ファインチューニングとは、現実の宇宙の諸定数を少しでも変えると、生命が誕生しえない宇宙になってしまうという、「微調整」現象のことです。
 
「多宇宙説がすべてを解く?」7 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月18日(木)23時00分37秒

また新たな疑問がわいてきました。

私たちがファインチューニング宇宙を観測することは予定されていませんでしたので、ゾロ目ゲームに例えるときには、呼ばれることが告げられていない設定にしなければ同じになりません。
そうすると、呼ばれた人がゾロ目を目撃したときに、多投された、と推測することは「逆ギャンブラーの誤謬」だということになりますよね。

強い人間原理という前提が、ゾロ目が出れば呼ばれるという前提だということでしょうが、ゾロ目以外の連番、偶数、奇数でも呼ばれるとして、その目を目撃したときに多投を推測すれば、「逆ギャンブラーの誤謬」である度合いは大きくなりますよね。

ということは、ファインチューニングの特異性の度合いによって、この議論が有効か否かが分るということになると思うのです。
ファインチューニングは本当に全事象の中で特異なのでしょうか?
例えば、電子と宇宙の大きさの比が10の40乗である期間は結構永いのです。

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Re:「多宇宙説がすべてを解く?」6 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月10日(水)23時36分9秒

よく意味がわかりませんが、何度も繰り返すなら、多宇宙でしょう。
宇宙を多数回試行しないとファインチューニングは出そうにないので、少なくとも一つのファインチューニング宇宙を出すには、膨大な死産した宇宙があるはずです。死産したとはいえ、知的生命に内部観測されなかったというだけで、物理的には実在するので、立派に多宇宙です。

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「多宇宙説がすべてを解く?」6 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月10日(水)18時02分23秒

>いや、わかりません。実際に呼ばれた時点で初めて、「多投されたな」とわかります。

実際に呼ばれるとすると、1投目より多投目でしょうし、
呼ばれないとすると、イカサマとかの前提違反を除くと、多投していない可能性がありますね。
だから、実際に呼ばれた時点で初めて、「多投されたな」と分るわけですね。

そして、ファインチューニング宇宙は観測されたのだから、宇宙はたくさんあると考えるべきである、というわけですね。

疑問の余地はないように思います。
が、しかし、最後に一つ疑問を呈させてください。
ゾロ目のゲームでは1投が1宇宙に対応していたので、1宇宙毎に繰り返して何番目かでファインチューニング宇宙が実現したと考えると、一宇宙論になりませんでしょうか?

Re:「多宇宙説がすべてを解く?」5 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月10日(水)03時20分28秒

>「ゾロ目が出れば必ず呼ばれるよ」
>という条件が告げられた時点で、
>多投されるだろうことが分りますね。

いや、わかりません。実際に呼ばれた時点で初めて、「多投されたな」とわかります。

>事後的なのは分りますが、何振り目か、というのは重要でしょうか?

 重要ではないと思います。
 重要だとすれば、事前に指定されていたことになってしまいます。
 結局、何振り目であれ一度でもゾロ目が出れば(知的生命が生まれれば)「私」が呼ばれた(生まれた)と考えるべきでしょう。
 
「多宇宙説がすべてを解く?」5 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月10日(水)01時31分42秒

>「ゾロ目が出れば必ず呼ばれるよ」という条件が告げられていればよいのです。

なるほど分りました。
「ゾロ目が出れば必ず呼ばれるよ」という条件が告げられた時点で、多投されるだろうことが分りますね。

>しかし、実際投げてみないと、何振り目にゾロ目が出るかわからないので、何振り目に呼ばれるかは、事後的にのみ決まります。

事後的なのは分りますが、何振り目か、というのは重要でしょうか?

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Re:「多宇宙説がすべてを解く?」4 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月 9日(火)23時19分1秒

>「事後的にのみ決まる」のであれば、
>呼ばれる前に2の条件を知らないのと同じだと思うのですが。

そんなことはありません。
「ゾロ目が出れば必ず呼ばれるよ」という条件が告げられていればよいのです。
それが、最初のゾロ目(振りとしてはたとえば8投目)であれ10番目のゾロ目(振りとしてはたとえば76投目)であれ、ゾロ目が出ればあなたは呼ばれる、と。
 事前にそれが何度目の振りかはわかっていません。現にゾロ目が出てみないと。
 一投説では、あなたは呼ばれずに終わる可能性大です。多投説では、約束からして、必ず(あるいは高い確率で)呼ばれます。
 しかし、実際投げてみないと、何振り目にゾロ目が出るかわからないので、何振り目に呼ばれるかは、事後的にのみ決まります。

 ちょうど、人類史の開始前に、「精子が赤ん坊になったらあなたが生まれるよ」とだけ約束されているようなものです。史上何個目の精子があなたに当たるかは、実際どの精子が受胎するかが決まらないと、事前に予言はできません。
 
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「多宇宙説がすべてを解く?」4 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月 9日(火)13時31分47秒

1.>★目撃される(呼ばれる)のはゾロ目のときだけ
2.>★何回目にゾロ目が出れば自分が呼ばれるかはゾロ目が出たあと事後的にのみ決まる(事前には指定されていない)

私が釈然としなかったのは、この2の条件のようです。

この2の条件が必要な理由は何なのでしょうか?

「事後的にのみ決まる」のであれば、呼ばれる前に2の条件を知らないのと同じだと思うのですが。

もちろん、呼ばれる人(主観者)にとってです。
このゲームの主催者が何を知っていようと、呼ばれる人に影響する事はありませんよね。

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Re:「多宇宙説がすべてを解く?」3 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月 9日(火)01時18分47秒

>ゾロ目を目撃したときに、サイコロは数多くふられた、と考えることが「逆ギャンブラーの誤謬」

★目撃される(呼ばれる)のはゾロ目のときだけ
★何回目にゾロ目が出れば自分が呼ばれるかはゾロ目が出たあと事後的にのみ決まる(事前には指定されていない)

 この2条件が満たされていない場合のみ、「逆ギャンブラーの誤謬」と言われます。2条件が満たされていれば、サイコロ多投を推論するのは誤謬ではありません。正しい推論です。

 「私たち」の誕生も、上の2条件を満たしているので(第2条件を満たしていないというのが〈この宇宙〉論だった)、ファインチューニングから多宇宙を推測するのは正しい推論となります。
 
「多宇宙説がすべてを解く?」3 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月 8日(月)21時51分5秒

汎知性論は正しそうではない、と思います。

宇宙がたくさんあれば、その中にファインチューニングされた宇宙もあるだろうとは思います。
しかしそれは、サイコロを数多くふればゾロ目が出ることもあるだろう、というのと同じことだと思うのです。

ゾロ目を目撃したときに、サイコロは数多くふられた、と考えることが「逆ギャンブラーの誤謬」ならば、
ファインチューニングされた宇宙を観測したときに、宇宙はたくさんある、と考えることも「逆ギャンブラーの誤謬」なのではないかという疑いが消えません。

「3 逆ギャンブラーの誤謬?」章での論説は、〈この宇宙〉論に対する反証であり、上記疑問は消えていません。

そもそも、人間原理が多宇宙説を要請してはいないと思っているのですが。
これは、間違っているのでしょうか?

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Re:「多宇宙説がすべてを解く?」2 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月 8日(月)16時16分6秒

 それは、P.20の 2.汎知性論 に相当しますかね。
 ファインチューニングされた宇宙が観測選択される確率は、少なくとも多宇宙説のもとでは、大です(注1参照)。一宇宙説のもとでも、ファインチューニング(のような観測)が生ずるには、本当にファインチューニングされた宇宙でなければなりません。
 結局、一宇宙説のもとでは、「ファインチューニングされている宇宙の観測」は起こりにくいということです。唯一宇宙がファインチューニングされそうにないということ、知的生命が生じそうにないということ、ファインチューニング(そして安定)されていないのにされているかのような幻想が生じている、というのも無理だということ、等々。
 多宇宙説のもとでなら、現実の宇宙のファインチューニングを無理なく説明できます。
 
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「多宇宙説がすべてを解く?」2 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月 8日(月)11時12分55秒
〈この宇宙〉論については分りました。

新たに疑問を呈させていただくとするとどうでしょうか?
つまり、1宇宙説でも多宇宙説でも観測選択された宇宙がファインチューニングされる確率は、他にいくつ宇宙があろうとなかろうと関係ない。
1宇宙説のもとでも多宇宙説のもとでも、観測選択された宇宙がファインチューニングされる確率は極小であることに変わりない。、

これが「逆ギャンブラーの誤謬」による正統な批判だと思うのです。

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Re:「多宇宙説がすべてを解く?」 投稿者:φ 投稿日:2007年 1月 8日(月)04時21分35秒
 その可能性はないでしょう。
 知的生命が生まれれば、それが「私たち以外の誰か」であっても、彼らによってその宇宙が観測選択されていることは〈この宇宙〉論者も認めるはずです。
 私たちに認識された場合のみ観測選択される、ということだと、私たち以外の知的生命には主観的意識がないことになってしまいます。それは一種の独我論で、根拠がありません。

 ……「私たち」が生まれなければ、他の人々が何人いようが、私の世界は無である。他人による観測選択は、「私たち」とは無縁である。物理学が描く世界は、「私たち」の世界のはずだ。他の知的生命ではなく、他ならぬ「私たち」が生まれることが保証されなければ困る。……といった趣旨ですね、〈この宇宙〉論は。
 
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「多宇宙説がすべてを解く?」 投稿者:ハム 投稿日:2007年 1月 8日(月)00時35分1秒

(現代思想1月号)の「3 逆ギャンブラーの誤謬?」章での論説なのですが、P.28の下段を、
多宇宙説「多数の宇宙が生じて、n個目(この宇宙)がファインチューニングされた場合のみ観測選択される」、
と解釈するとどうでしょうか?
(元の文章は「観測選択される」が「私たちは誕生」となっています)

<この宇宙>論者は、この意味で強い人間原理を批判している可能性はありませんか --------------------------------------------------------------------------