電子掲示板(過去ログ2006年7〜9月)  過去ログ索引
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卑劣の相対性 投稿者:Σ 投稿日: 9月30日(土)22時03分55秒

宣戦布告しなければ卑劣。すれば正当という論理は如何でしょうか。
戦争とは国の諸権限を武力で拡大する行為であり、それ自体の卑劣性は論じられないのでしょうか。
日本が対米戦争をするに到ったのは米国の石油封鎖などの「卑劣な」追い込み政策があったからとも言えます。先に卑劣だったのはどっちなのか?
よくよく考慮すべきです。因果関係の論と同様、複雑系の問題ですし。 米国の情報操作戦略により日本人は自虐史観に陥っているという、その戦略は卑劣ではないのでしょうか?
そういうことなど、諸々あるでしょう。

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- 戦争の公理3 投稿者:ハム 投稿日: 9月30日(土)21時56分29秒

戦争論での出版には反対が多いようですが、この掲示板でやるぶんには良いんじゃないでしょうか。

先の私の発言でテロというのがあったので、そのことについて書かせてください。

戦争がなんでもありだといっても、双方の戦争認識は絶対に必要です。
宣戦布告という手続きです。
これが人間社会の最低限のルールだと思います。
イスラム過激派のテロが卑劣なのは、この宣戦布告という手続きをふんでいないからです。

この意味で、日本の真珠湾攻撃は卑劣です。
真珠湾攻撃についてのアメリカからの非難には我々は返す言葉がありません。
卑劣だったと認めざるをえないのです。

ただ、日本政府は宣戦布告直後の攻撃を計画していたそうです。
それが、アメリカでの役人の手違いで宣戦布告前の攻撃になってしまった。
これさえ守っていれば、我々はもっと胸をはれたはずです。
ですので、アメリカ人には宣戦布告予定時刻での書類の提出が事故(過失?)によって遅れたのだ、といいわけするしかないのですが、日本が卑劣だったことには変わりありません。
このことだけは悔みきれない気持ちです。

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そうですか 投稿者:S・K 投稿日: 9月28日(木)23時38分59秒

 学部生からは新しい刺激を受け、学院生にはひやりと汗を垂らすような大学からの“引き”がなくならないか、心配です。ほどほどになさってください。

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Re:やっぱり 投稿者:φ 投稿日: 9月28日(木)02時17分25秒

しばらくのあいだメインは依然として人間原理で、勘違い族がいなくなるまで挑発的力説を続けます。『現代思想』での連載もそろそろ始めますし。

単行本として次に出す本は、戦争よりある意味もっと血の気の多いテーマ。戦争論理学に本格的に取りかかるのは、そのあとになるでしょう。政治には興味がないので論理に集中します。

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やっぱり書かれるんですか 投稿者:S・K 投稿日: 9月28日(木)00時45分12秒

「私は頭が最もよく働くときに数学をやり、少し悪くなったときに
哲学をやり、もっと悪くなったときに歴史と社会問題に手を出した」
と、ラッセルは言ったそうですが、戦争の論理の話しは、もう少し
お年を召してからでいいのではないでしょうか。

 宇宙物理学は無機的であるためか、理論が先行する数少ない科学
分野のようですが、「ラッセル、ゲーデル、めくるめく宇宙<副題
:科学は宇宙をどこまで解き明かせるか>」な〜んていうテーマ、
どうでしょう? 私、読んでみたいです。買いますよ。

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 9月26日(火)01時12分10秒

また不思議なのは、実名出すと色が付いてあれですがたとえば牟田口廉也のように、愚劣な作戦で多くの日本人を無駄死にさせた人間が、戦後生きながらえて天寿を全うしていることです。ビルマ戦線を崩壊させて連合軍に利益をもたらしたため戦犯にはならなかったわけですが、日本人自らの手でも戦犯を裁いていたら、多くの犯罪者が戦後日本を支配することもなかったでしょう。玉音放送を聞いていながらその後に沖縄住民を殺害した日本軍部隊指揮官も戦後を生きながらえています。

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(無題) 投稿者:Transit 投稿日: 9月25日(月)20時18分21秒

「細川日記」あたりで読める戦争末期の日本政府首脳部連中の、国民が蒙る災厄をよそにした敗戦責任を擦り付け合う「エンガチョごっこ」ぶりを見るにつけ、原爆はこやつらの頭上にこそ落とされたのではないかという感を強くします。
社会的に葬り去られるべきなのは、上のような厚顔無恥の寄生虫どもでしょうね。

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本心? 投稿者:λ 投稿日: 9月25日(月)09時19分0秒

戦後、日本政府中枢が原爆の効用について語ったとことが果たして本心だと言い切れるのでしょうか。
できるだけ立場が良くなるように戦勝国に媚びを売る人間は今でも無数に存在しています。
パキスタン大統領のように米国に脅されて友好を演じる者もいるのですから。
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200609220001.html

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和平工作 投稿者:φ 投稿日: 9月25日(月)02時20分4秒

まったくその通りで、たとえば蒋介石との間には何度和平工作が日本側から試みられては日本側からぶちこわしたことか。
終戦間際にソ連に依頼した工作も、かりにソ連が善意を持っていたとしても日本側の国論がまとまらずダメになっていたに違いありません。

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訂正 投稿者:ハム 投稿日: 9月25日(月)00時30分20秒

「絶えがたきを」

「耐えがたきを」

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戦争の公理2 投稿者:ハム 投稿日: 9月25日(月)00時21分36秒

確かに、アメリカは日本が原爆の開発に成功するということは考えていなかったようですね。
ドイツに対しては、先に原爆を開発されることを真剣に恐れていたようです。
ドイツは、V1やV2という世界初のミサイルでロンドンを攻撃していましたし、 Me262という世界初のジェット戦闘機を実用化し、B−17を撃墜していて、アメリカはこのMe262というジェット戦闘機の量産によってはベルリンの爆撃が不可能になることを想定していたそうです。

日本という国は今でもそうですが、無条件降伏といっても誰もそれを決断しません。
ソ連に仲介を頼んだという話も、国体護持や南京のときにドイツに仲介を頼んだとか、いろいろな話がありますが、全て責任が明確ではないのです。
政府、官僚、陸軍、海軍が独自の動きをしていて、情報が混乱している。
結局は昭和天皇がおっしゃっているように、自ら決断するしか方法はなかったようです。

昭和天皇は自らの誤りとして2つ挙げています。
1つは2.26事件の決断、もう一つはポツダム宣言受諾の決断、です。
立憲君主としては、自ら決断などしてはいけない、というのが自制だったようです。
が、このときだけは自ら決断せざるを得なかったということです。
天皇機関説にしても、天皇自ら、機関説でいいじゃないか、といっていたそうです。

その意味で、パラダイム変換なる原爆を天皇が知って、天皇に、もはやこれ以上国民を苦しめるわけにはいかない、と思わせたことは事実でしょう。
しかし、アメリカの日本本土上陸の早い時期でも天皇が敗戦を決断しただろうことも想像はできます。

日本国民は、政府、官僚、陸軍、海軍のいうことよりも、天皇のいうことだけに従ったはずです。
天皇が、「絶えがたきを耐え・・」、と国民に放送したから国民は従ったのです。
このことは陸軍が警戒していて、玉音放送を阻止すべくいろいろな活動をしたと聞いています。
陸軍の厚木基地では、玉音放送後も戦闘行為をしていたそうです。

日本の敗戦が決まった、その天皇の敗戦決意を早めたのが原爆だというのはおそらくは間違いがないことでしょう。

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Re:グローブ効果 投稿者:φ 投稿日: 9月24日(日)23時12分52秒

ちょっと違うような気がします。
 第一に、今アメリカが核兵器を使ったとしても、太平洋戦争末期のようなインパクトは得られません。もうみんな核兵器のことは知っているので、反発を受けるだけのことです。
 広島のニュースを聞いてハイゼンベルクらドイツの科学者が「ウソだろう!」と驚愕したそうですが、1945年当時は原爆投下は科学史上の快挙でもあったのです。現在はもうそれ級のパラダイム変換的衝撃は望めません。
 第二に、現在のイラクには1945年当時の日本と違ってアメリカと戦っている当事者政府がないので、責任の所在がわからず、どこに核を使っていいのかわかりません。テロリストには大日本帝国の天皇に相当するような「失うもの」の怖れもありませんし。核兵器使用が効果アリとはとうてい思えません。
 現在は、核兵器を使うことに、1945年当時のような効果も栄光も認められないのです。

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ふわふわの大きなグローブ効果かも 投稿者:Σ 投稿日: 9月24日(日)22時56分10秒

お久しぶりです。
三浦先生の仰る通り、確かに、超自然力的原子爆弾の威力・・圧倒的威嚇効果・・は、敗戦国を民主化するためには、一番かも知れません。
現代は核爆弾が禁止されているがゆえに、アフガニスタン・イラクで泥沼の戦いになっていますが、イラクを第二の日本のように民主化したい米国にとって、もしももしも゛原爆が禁じ手でなかったら、数発打ち込むことで、イスラム過激派からなにから宗教勢力全員を「全面降参」という心情を抱かせることに成功し、民主化政府にすんなり移行できたかもしれません。そう考えると、イスラム教徒が手に負えないのではなくて、安全のためにボクシングのグローブを大きくするような「禁じ手作り」が逆に、延々とノックダウンさせられずに打ち合いを続けるボクサーのごとく、長引く凄惨な地獄を作り出しているのかもしれません。

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Re:戦争の公理 投稿者:φ 投稿日: 9月24日(日)22時05分45秒

 「アメリカの焦り」はもちろんありましたが、それは先に原爆開発されるかもという焦りではなく(とくに日本はドイツと違ってウラン鉱石を持っておらず、工業力も必要レベルに達していなかったので原爆開発についてはまったくライバル視されていなかった)、ソ連参戦の役割が大になることへの焦りでした。

 連合国が無条件降伏への固執をやめれば早期和平できたはず、とはよく言われますが、安易な考えだと思います。日本がソ連に仲介を頼んでいたことからもわかるように(広島に原爆投下された後はさらに対ソ依存姿勢を強めたのです!)、日本政府は、単なる国体護持よりも有利な条件を求めていました。無条件降伏放棄といっても、アメリカがそこまで譲歩できるはずがありません。

 日本軍は、参戦国中で唯一、部隊単位の降伏例が一件もないという、どうしようもない軍隊でした。(ドイツ軍やソ連軍ですら、司令官が大部隊を率いて投降することが何度もありました)。そんな宗教国家日本が、ましてや国家単位で「降伏」など、ありえなかったのです。核兵器登場というパラダイム変換に遭ってこそ、前提の撤廃による「含意のパラドクス」に従って(前件の否定によって任意の後件が許される)、ようやく降伏できたわけです。

 もし、原爆投下のような劇的な事件が起こらぬまま日本政府が「国体護持させてくれるんですね、はい、いうとおりにいたします」と降伏しようものなら、国民が納得しなかったのではないでしょうか。一億総玉砕のかけ声で息子を夫を特攻に送り出していた国なのだから。日本人が敗戦を受け容れたのは、やはり原爆という、天皇に匹敵する超自然力が降ってきたからです。

 原爆というパラダイム変換によって前提がチャラになった。それが日本降伏の必要条件だったのだと思います。アメリカとしては、天皇制許容の条件を申し出たりしてもし日本に拒絶されようものなら、世論の激昂はただではすまなかったでしょう。とくに国務省としては、そんなリスクを冒すことは論外でした。

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戦争の公理 投稿者:ハム 投稿日: 9月24日(日)20時49分47秒

あたりまえのことですが、戦争には独自の公理といかルールがあります。
それは、敵に勝つ、ということです。
敵に勝つ、ことにおいて禁止事項はありません。
原爆、毒ガス、細菌、ミサイル、スパイ、テロ、ゲリラ、デマ、・・、なんでもありです。

敵に勝つ、というルール(公理)しかない戦争に対して、別の理(例えば、善悪)でもって議論するということは、メタ戦争な議論であって戦争自体にとってなんの関係もありません。
そして、戦争とは必然です。
ヒットラーの世界支配には、世界は戦わなければなりません。
日本の中国支配から、世界は日本を追い出さなければなりません。
社会主義の世界支配もしかり、フセインの石油支配もしかり、イスラム過激派のテロもしかり、です。

敵に勝つ、ことにおいて戦略は重要です。
首都である東京を壊滅するには、サイパン島からのB―29による爆撃を、途上にある硫黄島のゼロ戦や雷電?に撃墜させるわけにはいかない。
P−51戦闘機等による援護は、サイパン島ー東京間は無理だったのです。
従って、硫黄島を攻略し、そこからP−51戦闘機等による援護をしつつB―29による東京爆撃は戦略上必須事項でした。
このことは日本軍も承知していて、硫黄島を死守することが敵に勝つ?(負けない)ことの条件でした。

栗林中将はバンザイ突撃を厳禁し、最後まで戦うことを厳命します。
この命令によって、潔く死ぬことも許されない日本兵は、硫黄が噴出す熱地獄の地下壕にこもって持久戦を強いられたのです。
これがいかに苦しい戦闘だったのか、先日NHKで生存者の証言を放送していました。
硫黄島戦での日本の生存者は、ほとんどが意識不明の状態で捕虜になったようです。

戦後、硫黄島を慰問した元兵士の一人が、突然何か叫びながら海に飛び込んで死んだ、という話を山本七平氏が聞いて、私もそうするかもしれないというようなことをいったそうです。
山本七平氏はフイリピン戦での生き残りだそうです。
体験者だけに分かる地獄があったのでしょう。

当時のアメリカにとって、敵に勝つ、絶対必要条件は原爆だったはずです。
アメリカが一番恐れたのが、ドイツや日本がアメリカより先に原爆の開発に成功することです。
もしそうなったら、ドイツや日本の勝利が決定します。
だから、アメリカはドイツや日本が原爆を開発する前に降伏させる必要があったのです。
広島や長崎の原爆投下にはアメリカのこの焦りがあると思います。
特に長崎への投下の必要性は、アメリカのこの焦りによっても説明できます。

なんか、支離滅裂になっちゃいました。m(_ _)m

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Re:原爆投下の目的 投稿者:φ 投稿日: 9月24日(日)20時08分15秒

 本一冊書こうってんですから、そのへんの事実については私は十分勉強していますので、まかせてください。

 人命のためでないとすると、「実験のために原爆を落とした」とか、「戦後の米国の権勢を確保するために落とした」とかですかね。そういう要因は、副次的には含まれていたにせよ、原爆投下の主因は、やはり戦争の早期終結でした。
 「もっと早い時期での停戦も考えられた」のは事実ですが、そのためにアメリカは、43年段階からソ連に対日参戦を催促していました。原爆など使わなくても済むようにです。
 アメリカが原爆を使いたいと思うようになったのは、終戦のわずか1ヶ月前にアラモゴードで実験成功してからです。それまでは、アメリカは一貫してスターリンに対日参戦を迫っており、実験成功を境に対ソ姿勢を急変させます。
 いずれにしても、連合国は、ドイツ優先戦略をとっていましたから、日本を早期降伏に追い込むことは不可能でした。最後までやってしまったヨーロッパ戦域に比べると、太平洋戦域は、「中途で終わった戦争」であることがよくわかります。ちょうど、北アフリカ戦域が終わってノルマンディー上陸が始まる前、そんなタイミングで太平洋戦争は終わったと言えるでしょう。おかげで日本の死者はドイツの三分の一程度です。こう言うと反発を食らいそうですが、原爆投下のおかげでです。
 当時の内大臣・木戸幸一など政府中枢の人たちも「原爆とソ連参戦がなければいくさはやめられなかった」とBBCの番組で証言していますし、もっとあからさまには海軍大臣・米内光政が「原爆は天佑だ」と言ったのも本心だったでしょう(名誉ある終戦のための口実ができたという意味)。

 つまり私は、原爆投下は正しかったと言いたいのではなく、アメリカより日本の責任が大きかったと言いたいのです。

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原爆投下の目的 投稿者:λ 投稿日: 9月24日(日)18時29分57秒

米国は将来失われるかもしれない兵員の命を救うために原爆を投下したとは言い切れないと思います。
米国が原爆や無条件降伏にこだわらなければ、もっと早い時期での停戦も考えられたし、両国の犠牲者も遙かに少なくてすんだでしょう。
これを医師の場合に当てはめるのは苦しいのでは・・・

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医師:運転士=原爆:硫黄島 投稿者:φ 投稿日: 9月24日(日)01時51分1秒

「将来失われるかもしれない兵員の命」を救うため犠牲もやむなし、という理屈は、アメリカは自国兵士にも適用してきました。
 たとえば、米軍が硫黄島攻略を強行したのは、日本上空で被弾したB29の不時着基地にして搭乗員を救うため、という名目でした。将来何人のB29搭乗員が救われるかは不確実であるのに対し(そしてそもそも日本本土空襲の緊急性が未知であるのに対し)、硫黄島攻略で米兵数千人が死ぬことは確実でした。
 現在失われる数千人の命より、将来の未知数のほうが重要とされたのです。
(もっとも、将来の損を防ぐため現在の人命を犠牲にするというのは、戦争に共通の論理ではあります)

 ただし、硫黄島の場合は、米兵が一人も傷つかなくても飛行場占領さえ成れば米軍の目的達成には関係ないのに対して、原爆投下の場合は、奇跡的に日本人が一人も傷つかなかったとしたら目的が達成されなくなります。その点で、硫黄島は『論理パラドクス』087の運転士の場合、原爆投下は086の医師の場合に相当し、原爆投下のほうがより「疑問度が高い」と言えるでしょうね。

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誰も葬式の場で「原爆投下は正しかった」と言えとは主張してはいません 投稿者:クリスティアン 投稿日: 9月24日(日)00時57分16秒

「被害者や遺族の感情」を錦の御旗にして、戦争に関して長い間思考停止してきたことの反動が、最近のネット右翼などの台頭であることを考えると、感情を排し、論理的に戦争に於ける行為について考えることは極めて重要だと思います。
ただ、「原爆投下はより多くの人命を救ったので正しかった」という結論には異論があります。これは「論理パラドクス」の問86と良く似ており、「将来失われるかもしれない数百万の兵員の人命」を助ける為という理屈で「女子供を含む数十万の民間人」の虐殺を認めることは出来ない、と考えます。

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 9月23日(土)23時33分43秒

たとえばポツダム宣言ひとつとっても、論理トリックや多義性が含まれており、演習材料としてもってこいです。このことに気づいている人は少ないでしょう。
ダルラン取引とポツダム宣言の因果関係、大和特攻と原爆投下の類似性、ヒトラー暗殺計画と宮城事件の対照性など、WW2は構造研究の宝庫ですしね。

戦争というと史実としても論争の場でもすぐ敵と味方に分けて単純化したり、出来合いの「大量破壊兵器否定」「人命尊重」の結論を先決めして非論理的な説教に終始したり、そのレベルのばかり蔓延している今日だからこそ、政治色や感情に流されない戦争論理学が求められると考えています。

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今度は戦争 投稿者:ハム 投稿日: 9月23日(土)13時25分23秒

ですか。
これは身内を亡くしている人が大勢いますので、発言には十分すぎる注意が必要です。
特に善悪の判断は絶対に避けられることをお勧めします。
余計なお節介かもしれませんが、私は心配です。
できれば避けた方が無難なテーマです。

例えば、原爆が正しかったという議論。
母親や子を原爆で亡くした人に、正しかったなどと説得することは不可能です。
葬式で、正しかったなどといえば、そう言った人は社会的に葬られるでしょう。

戦争論での出版には反対です。
必ず読者を敵と味方に分けてしまいます。
戦争論はこの掲示板でやりましょうよ。
私も私の戦争論を書き込んでみます。

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(無題) 投稿者:Transit 投稿日: 9月23日(土)12時54分4秒

『ブッダ論理学』の論理的誤謬をめぐる議論が、いつしか原爆投下是非論にすり替えられてていますね。
三浦先生はそんな代物にまで付き合われる必要はないものと思います。

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- Re2:2つの原爆 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月23日(土)08時41分10秒

回答ありがとうございました。
個人的には、東京大空襲、原爆投下は、非戦闘員の虐殺に過ぎず正当化の余地はないと基本的には考えております。
φさまが『戦争論理学』にて、どのような論を展開するか楽しみにしております。

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戦争にはいろいろな顔が 投稿者:λ 投稿日: 9月23日(土)06時24分42秒

「戦争の早期終結」のみを「善」として原爆投下を評価することには無理があると思います。
また、日本の全てを一方的に「悪」とするのも乱暴過ぎるでしょう。
世界のシステムが多少変わろうとも、原爆投下したアメリカという国は続いているのですから、他国の「大量破壊兵器」を無条件で一方的に非難することはできないと考えます。

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 9月23日(土)02時54分50秒

http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II_casualties
によると、六千万人以上がWW2で死んだことになっています。
せっかくこれだけ死んだ大事件を題材にしない手はないでしょう。
二百余万の日本軍兵士の死者のうち戦闘で死んだのは三分の一足らず、あとは餓死と病死。
彼らの惨めな死を意味あらしめるための一番の祀りは、エンガチョごっこみたいな護国神社に奉って誤魔化すことではなく、戦争の本性を論理的にわれわれが考え続けることでしょう。

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反対です 投稿者:S・K 投稿日: 9月22日(金)23時54分22秒

 三浦さんともあろう人が取り組むべきテーマではないでしょう。
せっかく類稀な表現力を持っていらっしゃるんですから、何もそん
なテーマで書かなくてもと思いますが…

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Re:2つの原爆 投稿者:φ 投稿日: 9月22日(金)20時04分30秒

長崎への原爆投下にはさしもの私も怒りを感じざるをえないところがありますが、長崎原爆を非難するには、次のような言い分に首尾よく再反論できなければならないでしょう。

 ★一発だけでは、「もう持っていない」と思われる可能性があった。2発使って初めて、「アメリカはまだ何度も原爆攻撃をしてきそうだ」との恐怖を日本に与え、ポツダム宣言第13項の連合国の決意を証明することができる。
 ★従って、広島の惨禍を無駄にしないためには、間髪入れず第二撃を与える必要があった。「迅速且完全ナル壊滅」はポツダム宣言で警告済みなのだから。
 ★トルーマンは、広島の直後に、原爆であることを公表している。ただちに応答しなかった日本政府が悪い。即答が可能であったことは、長崎の翌日、ポツダム宣言への初応答をしたことからもわかる。
 ★9日にソ連が参戦した直後の長崎原爆は、日本の降伏の理由がソ連参戦ではなく原爆かもしれないと思わせる余地を残した。ソ連の役割を相対的に縮小し、アメリカによる日本単独占領を実現した。
 ★ソ連をピースメーカーにした降伏は、陸軍の強硬派の反発を招き、宮城クーデターが成功していた怖れがある。戦闘ではなく原爆なる政治的道具が降伏の主因だということで、ようやく陸軍の面子も立って丸く収まった。

 ちなみに、トルーマンの投下命令そのものは、「8月3日頃以降、天候が許し次第、順次投下せよ」というもので、広島の後改めて第2発投下の大統領命令を発してはいません。政治レベルでは、広島・長崎は一つとして考えられるべきものでしょう。これが、長崎原爆を正当化する方向に働くか、広島原爆を批判する方向に働くかはむずかしいところですが。

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2つの原爆 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月22日(金)05時45分3秒

φ さま

2つ目の原爆に関しても、正当化できるとお考えなのでしょうか?

参考URL:
http://www.j-world.com/usr/sakura/japan/hiroshima_nagasaki.html
ヒロシマとナガサキの相違--- 長崎への原爆使用は必要だったか ---

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やはりまったく異なるのでは 投稿者:φ 投稿日: 9月22日(金)02時19分14秒

現在アメリカがイラクで何をしているかよく知りませんが、大量破壊兵器を使っていないことだけは確かでしょう。
そして、アメリカが使った唯一の大量破壊兵器・原爆は、あくまで論争の的であって、「悪」と無条件で言い切れるものではない、というのがもともとの私見です。

 まず「新兵器」の意味ですが、
1945年の原爆は、政治軍事だけでなく科学技術革命の産物であり、戦略そのものの革命でした。
原爆の物理的・政治的実効性そのものが、新しかったのです。

第二次大戦は、戦後のいかなる戦争とも違って、先進国どうしの総力戦でした。日本の基準からすればアメリカは楽勝だったように思われがちで、実際楽勝と言えるのですが、前線で戦っていた米軍兵士の意識は決して余裕綽々ではなく、沖縄戦だけでも死者14000人、死傷者で勘定すると6万人で、日本軍と大差なくなってしまいます(もちろん民間人を入れると日本人は計25万人死んでますが)。現在の戦争との違いを強調するために一応述べておくと、沖縄戦では米軍の最高司令官は日本軍の最高司令官より先に戦死しています。

 また、1945年8月になっても日本軍はまだ中国・インドシナ・マレー・インドネシアの広大な面積を占領したままで、中国とフィリピンで虐殺が日々続いていたことも忘れてはならないでしょう。本土が気息奄々だったため、このことは案外忘れられがちです。
 これら広大な地域をことごとく軍事力で解放していくのは(成功率百%ではあっても)、欧州戦終結によって世論に厭戦気分が見え始めたアメリカにとって、気の滅入る苦役だったに違いありません。原爆を使わなければ、戦死者の遺族から大統領は訴えられていたでしょう。

 アメリカにとって、沖縄戦をさらに大規模化した本土上陸を避けるためには、日本国内の和平勢力をして軍国主義勢力に勝たせる必要がありました。日本の国論を統一させるのに最適な手段が、原爆だったのです。また対ソ戦略の面でも、極東をヨーロッパの二の舞にすることを避けるためにも、太平洋戦争の早期終結が必須で、それは日本の国益にも合致していました。

 と、長々連ねましたが、このような戦略的・政治的必要性は、今日の戦争においてはまず考えられません。1945年以前には、世界情勢は今日よりはるかに複雑であり、核兵器の意味は全然違っていたのです。

 第二次大戦で原爆が果たした意義に比肩できる効用を、今日の大量破壊兵器が持てるものか、誰か教えてほしいものだと思います。

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無理な単純化 投稿者:λ 投稿日: 9月21日(木)23時13分58秒

 新兵器だから、国際条約で禁止されていない兵器だから使用が許されるということにはならないと思います。
 今度のイラク戦争でも米国は新兵器の実験をしており、イラク人を虐殺しています。  それを「仕方ない」で流すことはできません。
 大日本帝国の過ちを指摘するためにことさら米国を正当化してはならないと考えます。

 システムは第二次大戦の前後で、異なることもあれば同じこともあるでしょう。それを「まったく異なります」と言われても・・・

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Re:ミクロも無意味ではないが 投稿者:φ 投稿日: 9月21日(木)21時58分24秒

 「第二次大戦後に」と区切る必然性は大ありだと思います。
 ヤルタ体制以前と以後では、世界のシステムがまったく異なります。(ちなみに、冷戦が終わって多極化した現在ですら、いまだに世界の大枠はヤルタ体制が決めていると言えます)。むしろ、ヤルタ体制以前と以後に同じ倫理基準を当てはめることこそ、誤謬のもとになるでしょう。

 また、「米国の退役軍人の原爆投下礼賛」は、現在の核兵器使用を肯定するものではなく、あくまで第二次大戦の終結をもたらした原爆使用に限った肯定であり、それなりの論証にはなっているので、頭ごなしに否定できるものではありません。反駁するためには周到な論理的議論が必要です。1945年における原爆は「新兵器」であり、現在の核兵器とはまったく異なる存在だったからです。兵士や民間人を対象とした人体実験の例からもわかるように、当時は、アメリカ自身が核兵器の何たるかを正確に理解していなかった状況なのです。

 すでに国際条約で禁じられていた毒ガスや細菌兵器を実戦で用いた大日本帝国やイラクの犯罪性と、新兵器である原爆を用いたアメリカの犯罪性とは、同列には論じられないでしょう。

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ミクロも無意味ではないが 投稿者:λ 投稿日: 9月21日(木)04時28分56秒

φさま
 確かに「第二次大戦後に」という訂正を加えれば文として成り立つのかもしれませんが、「第二次大戦後に」と区切る必然性は見当たらないと思います。
 イスラム世界では十字軍だって昨日のことだし、米国では退役軍人の原爆投下礼賛が世論を支配し、日本では多少制度が変わっても天皇制が相変わらず続いているのですから。  「第二次大戦後に」などという近視眼的な歴史認識で考えを進めるのは危険なことではないでしょうか。

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一号作戦 投稿者:φ 投稿日: 9月21日(木)00時46分14秒

 昭和天皇は、一号作戦の成功に喜んで、「昆明まで占領できないか」などと、終戦の年になっても率先して陸軍を激励してましたしね。勝ってるときはどんどんやれやれ、だったようです。
 原爆投下の意義は、昭和天皇にアピールして、「ああいう爆弾が使われるようでは……」と終戦を決意させたことでしょう。軍の専門的見地からは圧倒的にソ連参戦のほうがショックでしたが、俗人である天皇はわかりやすい原爆の惨害に動揺し、終戦の日の新聞見出しも「新型爆弾の惨害に大御心」と謳って、軍のメンツを守ることができました。

 というようなことを2ちゃんの原爆スレにたまに書き込んで、世界史愛好者たちの反応を探ってみたりしてますが。『戦争論理学』の事前リサーチの一部として。

 戦争論理学といっても、論理学で政治や倫理の是非を判定できるはずもなく、判明している諸事実との関連で戦略の論理的誤謬を摘出・比較するのが狙いですけれどね。ポツダム宣言〜原爆投下あたりは論理学的演習の宝庫です。

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『戦争論理学』楽しみです。 投稿者:G.O 投稿日: 9月21日(木)00時27分2秒

ネット関連では、西村博之氏との交流があるとのことで、自身のブログで同氏のことを賞賛している。[1]当時、河野は法務副大臣であったが、その立場を超越した度量・見識を示した。

49 名前:KingOfUniverse ◆667la1PjK2 [] 投稿日:2006/09/20(水) 15:55:25
人の脳を読む能力を悪用する奴を潰せ。

50 名前:ぴか ◆pikaMw.D1M [] 投稿日:2006/09/20(水) 15:56:03
>>49
死ね

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『戦争論理学』楽しみです。 投稿者:G.O 投稿日: 9月20日(水)23時07分30秒

福島社民党党首・志位共産党委員長すら親王誕生おめでとうを表明する中、堂々と天皇制反対の信条を公にする態度は立派に思います。(右も左も頭から湯気を立てそうな信条ですが)
↓のようなアラシはどんどん削除してしまってください。

ところで、満州事変でもなく、太平洋戦争開戦の詔勅でもなく、終戦の詔勅でもなく、

「昭和天皇に戦争責任があることは、一号作戦の経緯に照らしても、明らかである。」

と一号作戦(大陸打通作戦)を特に取り上げるのは何故でしょうか?
これも『戦争論理学』で明らかにされるのか、期待しています。

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大量破壊兵器 投稿者:φ 投稿日: 9月20日(水)05時28分25秒

 それは実は投稿した後で気づいたのですが、やっぱり批判が出ましたね。
 そうです、うっかりしました。
 ただし、「大量破壊兵器」という言葉が今の意味で(NBCR兵器の意味で)使われるようになったのは、1970年代以降です。Weapons of mass destructionの語はスペイン内乱が初出だそうですが、そのときは、爆撃機なども指していました。

 というわけで、前回投稿に「第二次大戦後に」という訂正を付けることにします。

 なお、「ワガ信条」は、単に私が強く「感じている」ままの「素材」を列記しています。よって、論理的に考えたとき修正を要するものもあります。
 論理的に熟考すると、広島・長崎は「全面的に、日本政府の責任である」わけではなく、おそらく「8割方、日本政府の責任である」というあたりが妥当という気がします。

 なぜアメリカより日本の責任が重いか、そのへんは目下構想中の『戦争論理学』で明らかにしましょう。

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米国の大量破壊兵器 投稿者:λ 投稿日: 9月20日(水)04時05分59秒

>イラクは英米と違って、大量破壊兵器を実際に使った前歴がありますから

φさまは米国が広島・長崎に原爆を投下したことを知らないのでしょうか
投下したのは日本政府だとでも言われるのでしょうか
http://russell-j.com/i-believ200602.htm

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イラクの大量破壊兵器 投稿者:φ 投稿日: 9月20日(水)00時40分0秒

p.134あたりを読むと、イラクに対して「大量破壊兵器」を英米が使ったかのような記述になってますね。
これ、まずいですね。石飛さんは「大量破壊兵器」の意味を知らないのでしょうか。
なお、湾岸戦争後に大量破壊兵器を自主廃棄したにせよ、イラクは英米と違って、大量破壊兵器を実際に使った前歴がありますから(イラン・イラク戦争のとき)、p.130以下のあれで英米の理屈を批判できるなどということはありえないでしょう。むしろ、実証的な裏付けなく軍事行動に出てしまった点で英米は批判されるべきで、イラクの大量破壊兵器と英米の核兵器を同列には論じられません。(装備した時期も異なるし)
 複雑な国際社会問題を、論理だけで簡単に評決できるかのようなあのへんの記述は、社会科学を侮辱するものでしょう。

 それから、(2)(3)もそうですが、それらに対応する「これがあるときかれがある」「これがないときかれがない」は、表現ミスですね。それぞれ真理表の第1列、第4列にあたるそうですから(p.64)、「これがありかつかれがある」「これがなくかつかれがない」と書くべきでしょう。
 そう書かれないと、(2)(3)を「実行する」というのが無意味になってしまいます。条件文表現のままだと、(3)「大量破壊兵器がないとき、それによる死はない」は、大量破壊兵器を持ちつづけることで「実行された」(真とされる)ことになってしまいます。

 論理学の本と銘打つ以上、いくら何でももう少し正確な記述をしていただかねば……。

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あるがまま 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月19日(火)23時41分42秒

さて、「素の自分」ということで非常に興味深いことを仰ったので、それに対し、大乗仏教ではどのように答えるべきか、考えて見ましょう。(この話は真宗のある「中論」の学者さんが実践論として「中論」をどう考えるべきかという講話を自分なりにアレンジしています)

まず、最初に「素の自分」「本当の自分」 を知るために、自分の身を清め、精神を清め、身の回りを清めるために修行をするのだと思います。掃除は身の回りを清め、瞑想は精神を清め、お経は教養を清め、蒔き割りは肉体を清め、反復は気力を清めるものだと思います。

これは清めているのでしょうか?そうではありません。そのような意図でこのような行為をするということは、中論の実践論からをするとこれは「素の自分」に対して余計なものを足しているに過ぎません。

>今までうまくいかなかった人生が簡単にうまくいくようになったそうです。
そのような意図で行なった善行為はいわば「個体的な五蘊が作り出す架設的なエゴ」を満足させるためにしているに過ぎません。善行為なのですから、確かに善因善果なのですが、これは法でいえば世間諦(世間レベル)であり、真諦(悟りへ行くためのレベル)ではないのです。

では、どうすれば良いのかとお尋ねかもしれませんが、それは善智識にお尋ねなさい。ただ、私が言えるのは、あなたの言うようなやり方で清めていっても、いつか自分が「本当に」清くなっているのか疑問に思うときがきます。まあ禅魔とか疑悩とか言うのですがね。そこからが本当の「修行」なのであって、まだあなたはそのレベルのはるか手前です。「素の自分」(「あるがまま」とか「仏性」だとか)が見えてくるのはそれを越してからです。

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善智識 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月19日(火)23時03分14秒

>いろんなとこで悟りについて話し合ってますが、みなさまそれぞれ悟りについて考え方がちがうようですね。

HPでいくら話してもそれは「群盲象を撫す」です。そのような場所に出入りしている人のほとんどには「見えていない」のですからいくら話し合っても意見の相違は当然です。

まず、アドバイスできることとしては、仏教でいえば善智識、ヒンドゥーでいえばグル、キリスト教でいえば霊的な導き手を探しなさい。よほどの素質のない人間でない限り、独りで行なうのは不可能です。あなたがどのような人や教義に帰依するかは、生来の素質や環境によって違いますので一概に言うことはできません。ただ、選ぶ基準としては、言っていることに一貫性があるか(敢えて論理的とはいいません)、反社会的な行動を要求していないか(信徒に世俗的な要求をする所はその時点で×です)そして自分が少しでも感覚的に肌に合わないと感じたらその時点でそこから一旦離れて、その感覚がどこからくるのか完全に突き止めるまでそこから離れていなさい。

かなりキツイことを書きましたが、悟りを開くつもりがカルトに迷い込む人がかなりいますので、敢えて書きます。

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無宗ださん、F.Nakajima さん 投稿者:ε 投稿日: 9月19日(火)21時43分41秒

無宗ださん

因果というものがどんな因果でもよければ、(2)はまさしく因果を語ったものであり、米英の主張と同じ内容です。ただ、石飛さん、無宗ださんの言われる気持ちもある程度わかります。つまり、「イラクには大量破壊兵器がある」という主張は暗に「大量破壊兵器は大量の死をもたらしうるもので、したがって、人類にとって脅威である」と主張していると取られたのでしょう。しかしそれは実際の米国の主張ではない。自らの首を絞めるような主張をするわけはない、そこが問題だとおっしゃると思います。欺瞞があることは東洋人に限らず、「子供でもわかる」ことですが、語り方の違いというのとは違うでしょう。

F.Nakajima さん
どういう勉強の仕方がよいかは、向き不向きにもよりますし、到達目標にもよります。たとえば、数学の研究者になるためには、以前に述べた基礎知識と専門の最新知識が必要になります。最初のご質問の中で、論理学の勉強のためと言われていましたが、それなら、数学における証明について(どんな分野でも)体験してみるというのが最初のレベルで、あとはもちろんできるだけ広く、深い知識が望ましいのはいうまでもありません。

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F.Nakajima 様 投稿者:林浩司 投稿日: 9月19日(火)08時30分23秒

>いつか悟りを開いてみたいと思っています
>こういう理由から修行するのならおやめなさい

こういう理由なのであるから修行をしたいのです。お釈迦様は悟りを求め、出家したと言われています。悟りを開き、よりよい人生を送りたいというわけです。悟りが関係ないのであらば、おそらく修行をしようとは思わないでしょう。
安易に考えていると思いかもしれませんが、そんなことはありません。むしろ必死です。いろんなとこで悟りについて話し合ってますが、みなさまそれぞれ悟りについて考え方がちがうようですね。
俺の場合の悟りと言うのは、北条早雲で、かれは52歳で悟りを開き、今までうまくいかなかった人生が簡単にうまくいくようになったそうです。いろんなことを他スレで話し合っているうちに、俺の中では悟りとは 「素の自分」 という結論に達しました。世の中は煩悩だらけで自分のいいところも悪いところも見失いがちです。「素の自分」、つまり本当の自分とは自分が何者であるかを知ることであり、それが 「本当の自分」と思います。
「素の自分」「本当の自分」 を知るために、自分の身を清め、精神を清め、身の回りを清めるために修行をするのだと思います。掃除は身の回りを清め、瞑想は精神を清め、お経は教養を清め、蒔き割りは肉体を清め、反復は気力を清めるものだと思います。
 この他、水を浴び、心身を清める、仏様に懺悔をし、「素の自分」を清める。これらが修行と思います。北条早雲がなぜ自分の人生がうまくいくようになったかというのは 「本当の自分」 を知ったからだと思います。

悟りを開くために修行とは不純な動機に思うかもしれませんが、もし、悟りがなければ、修行をしたいとは思わないというのが俺の自論です。ただ、 「素の自分」「本当の自分」を知るということには魅力がありますが。

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RE:ブッダ論理学第4章の続き 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月19日(火)00時46分21秒

εさま

> 言われることはいちいちもっともですが、論点は「因果を語る」と「自己を語る」の違いについてのものです。私は米英の言っている(であろうこと)を忠実に繰り返したに過ぎません。そして「因果」であろうが「自己」であろうが、実際に受け取る印象としてはほとんど同じであると言いたかったのです。

私のこれから書くことは、ちっとも論理的でないかもしれませんが、

「自己を語る」のであれば、
(1)イラクには大量破壊兵器がある
(2)イラクに大量破壊兵器があるとき、親米周辺諸国および米英にとって脅威がある
(2)’イラクの大量破壊兵器を探索、除去して、親米周辺諸国および米英にとっての脅威を取り除こう
で、完結して構わないと思います。

ただ、「因果を語る」という立場をとると
(2)イラクに大量破壊兵器があるとき、親米周辺諸国および米英にとって脅威がある
これには、必ずセットで
(2)米英に大量破壊兵器があるとき、その周辺諸国およびイラクにとって脅威がある
これも、もれなく付いてくるという印象があります。

わたしにとっての、「因果を語る」と「自己を語る」の違いはここになります。

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岩波数学入門シリーズ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月18日(月)22時23分41秒

ご助言ありがとうございます。とりあえず、図書館で上記のシリーズが一そろい揃っているのを発見しましたのでとりあえず、それで興味を引くトピックの巻を借り出して見ようと思います。

>系統的に勉強なさりたいのですね
というか質問なのですが、数学というのは体系の全てを有る程度のレベルまで理解していくのか、それとも自分の気に入ったトピックだけを深く掘り下げていくべきなのか、どちらの方が良いのでしょうか?

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数学書、ブッダ論理学第4章の続き 投稿者:ε 投稿日: 9月18日(月)22時03分48秒

Nakajimaさん
系統的に勉強なさりたいのですね。それなら、目的によってコースが分かれると思います。
だだし、高校のテキストからというのはあまりお勧めしません。入試問題作りなどで見る機会が何度かあったのですが、テーマが細切れになっているし、論理学を学ばれているNakajimaさんなどには、厳密性のレベルで物足りないと思いました。

個人的な興味と書かれた、1.自然数論と2.集合論は1冊にまとまっている本が多いと思います。また、また、代数学と幾何学については、高校までのイメージと専門分野としての内容がまったく異なるのでこれだけではなんとも言いかねます。微分積分は論理的順序はどうあれ、大学で最初に学ぶことになっているので、読み始めるのは用意でしょう。

数学専攻のカリキュラムだと、基礎知識の習得に3年ほどかかります。たとえば

1,2年:線形代数、微分積分を2年くらい、集合論を1年、あとは確率、複素関数論の基礎がそれぞれ半年くらい
3年:いわゆる抽象数学、位相空間、測度論、代数(群、環、体などの抽象代数)を1年、最近だと多様体論などもはいっているでしょうか。

位になっていると思います。これだけ学べば、数学のどんな分野の専門的入門書でも、まず読み始められるようになります。しかし、上記の分野の本を全部読みきるには大変な忍耐を要することになるでしょう。独学の場合、1番読みたい本をとりあえず入手して、必要な知識を補っていくというやり方もありだとおもいます。

今日、大きな書店に行って初心者用の数学書をいくつか見てきました。目に留まったものは、

自然数論;足立恒雄 数-体系と歴史 朝倉書店、これは集合や論理の解説もあります。

解析の基礎:田島一郎 イプシロン−デルタ 数学ワンポイントシリーズ
      共立出版 述語論理が使われる場である極限の理論が易しく解説してあります

あとは高校レベルから大学教養程度の数学を本格的に解説してある

松坂和夫 数学読本(1−5) 岩波書店

ついでに同じ著者の

集合・位相入門  岩波書店

は、私が2年くらいのとき読んだ懐かしい本ですが、今でも出ていました。

また、高校数学に関連することから進んだ話題に向かうトピック的なものとして、復刊された

岩波数学入門シリーズ

があります。

無宗ださん

言われることはいちいちもっともですが、論点は「因果を語る」と「自己を語る」の違いについてのものです。私は米英の言っている(であろうこと)を忠実に繰り返したに過ぎません。そして「因果」であろうが「自己」であろうが、実際に受け取る印象としてはほとんど同じであると言いたかったのです。

それにもう一つ、(1)について、石飛さんの本には、わざわざ改行してまで「イラク」という言葉を引用からはずしています。それは実際の米英の主張ではありません。核廃絶というようなそれ自身としてはもっともなところのある政治的主張に強引に結び付けようというもので、到底学問的態度とは言えません。

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確定記述 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月18日(月)20時47分35秒

つーか、ラッセルの確定記述理論を因果関係に適用することはできないでしょうか。

「夏の暑い中、缶ビールを車の中に放置していたら爆発した。」
これを時間的な前後関係があって、日光によって熱せられて、etc etcというふうにつないでいって確定記述化することによって因果関係を説明する。というのはだめですか?

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因果の論理化 投稿者:ハム 投稿日: 9月18日(月)17時52分2秒

こんなのじゃダメなんでしょうか。
原因が起こった現場を0として、結果が起こった現場を1とする。

p⊃◇q、0

0r1 (rはaccessible)
q、1

0r1のときの真理値

P,0  ◇q、0  p⊃◇q、0  q、1
1    1     1       1
1    0     0       0
0    1     1       1
0    0     1       0

つっつまり。
原因があろうがなかろうが、結果があるときはある。(^^;)ゞ

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(無題) 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月18日(月)12時51分1秒

「罪悪生死の凡夫であることの自覚=悟り」

浄土門の公式見解は現在でもそれです。明治以前も以後も変わっていません。但し、それを成し遂げることは実はすごく難しい。易行と言っていますが、逆に言えば難信で難易度は実は他の宗派とそんなに変わらないんです。

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倶舎論による因果関係 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月18日(月)12時33分7秒

>私は仏教の縁起論は、原因を特定する学問ではないと把握しています。決定的原因は特定できなくともよいのではないでしょうか?特定できなくとも、「何らかの原因がある」と言える(考えられる)ということが仏教の縁起論ではないでしょうか?

ふと疑問に思ってしらべてみました。
仏教における因果関係だけに絞って考察した仏教学者の論文を所持しているので(源 哲勝 業の認識)一応チェックしてみましたが、確かに特定はできないと考えています。つまり「因」があっても「果」が現れるには「縁」とぶつかる必要があると考えていますから。そして縁が何時「因」とぶつかるか予測ができないために、「果」より「因」の特定は難しいと考えられています。

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Re:法機について 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 9月18日(月)12時17分8秒

淨土学的な知見をここではさむ必要性を私は感じません。「悟り」の概念が異なるだけで、「罪悪生死の凡夫であることの自覚=悟り」という英断を明治以降の淨土門ができないだけではないでしょうか?

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Re:仏教縁起論 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月18日(月)12時13分42秒

私がウィトゲンシュタインみたいに、
5.134 要素命題から他の要素命題が導出されることはない
5.135 ある状況が生起していることからそれとは全く別の状況の生起を推論することはいかなる仕方でも不可能である。
5.136 そのような推論を正当化する因果連鎖など存在しない。
5.1361 現在の状況から未来の出来事へと推論することは「不可能」なのである。因果連鎖を信じること、これこそ「迷信」にほかならない。

といえたらどんなに楽でしょうかね。だって私を含めた皆(株式市場からIMFからどこぞの仏教学者までw)因果連鎖を信じ込んでいるんですから。

ふっと思いつきましたが、これこそ無明に近づく鍵かもしれませんよw

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法機について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月18日(月)11時53分17秒

さて、私とΣさん、二つのまるで正反対の論が並立しています。おそらくこの質問を出された方は(どちらが正しいんだろう?)と思われるかもしれません。

少々、解説を入れたほうが良いかもしれませんが、私はウパニシャッド一元哲学を否定していません。(仏教徒にあるまじき行いですがね)私の見解が相違するのは、一元哲学の論証は不可能だろう。(つまりatmanの存在だとか、梵我一如とはなにかとは等)ということであって別に法を否定しているわけではないのです。

で、話を戻しますが、なんで、私が修行者の発心(修行しようとする意思の契機)に対して否定的でΣさんが肯定的かというと、ものすごく厳しいんですよ。この道は。ある程度形になるまで(最終地点といっていないことに注意)に脱落する人が山ほどでてきます。

で、多分Σさんはその厳しい道を逆に楽しめる人であって、私は厳しい道なのですが、現世の苦を逃れる方法が他にみつからなかったらこの道を選んだという道の見方の相違に過ぎません。

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Re:仏教縁起論 投稿者:φ 投稿日: 9月18日(月)04時37分11秒

 たとえば、Fを同一性関係とすると、Fxyという表現でのFは、本来は「非論理定項」なのですが(つまり述語論理学の基礎語彙には入ってないのですが)、∀x∀y(Fxy≡∀R(Rx⊃Ry))などと定義して、Fxyを特別に x=y と書く規約を設け、他の非論理定項(関係述語)とは区別して、同一性記号(等号)を論理定項のように扱っています。

 F.Nakajima さんが言うように論理学の外にあるゆえ非論理定項である因果関係述語についても、同様に、うまいこと論理定項のように扱って、∀x∃yFxyが成り立つFとして特別に x因y などという記法を登録することもできそうです。
 ただし、困るのは、∀x∃yFxyが成り立つのは因果関係だけではないことです(たとえば、≦、≧、⊇なども満たしてしまいます)。
 x=yを定義した∀x∀y(x=y≡∀R(Rx⊃Ry))に匹敵するような因果関係固有の定義付けがほしいところですが、それが難しいので、哲学者は四苦八苦しているのですね。

 もちろん、自称ブッダ論理学のように真理表で因果関係がわかるなどは論外です。

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修行について 投稿者:Σ 投稿日: 9月18日(月)00時25分39秒

これから私の語ることは自らの宗派(般若宗)の教義において、自らの体験より語ることです。そしてこの宗は他の宗派・宗教を総て、インテグラル(全包括的)に呑み込んでしまうウパニシャッド一元哲学ヴィジョンなので、そうした視座からのものだと、ご了承願います。

修行にどんな意味があるのか? 簡単に言えば、個体的な五蘊が作り出す架設的なエゴの自家性の営為によって増大する「エントロピーを縮減する」、ということが霊性修行の意味と目標になります。
個我自家性の(つまり放縦な)営為が宇宙の法秩序を乱してエントロピーを増大させていると意識しそれをあなたの良心が自己反省的な目で否定的に評価するときに、修行を欲する菩提心が生じます。

>いつか悟りを開いてみたいと思っています

こういう理由から修行するのも一つの契機として許容されます。動機に幾ばくかの不純性があっても「正しい修行」がなされさえすれば問題ありません。
悟りというのは、言ってしまえばスーパースターになることであり、ファンタジスタになることです。といっても、単なるスーパースターやファンタジスタになることを意味するのではありません。「ディヴァイン・ヒーロー」としてのそれです。仏陀はまさしくディヴァイン・ヒーローでした。それゆえ、いまでも崇拝され目標にされるのです。「佛」とは「人+非」と書きます。つまり、人を超越したスーパーマンになることが「仏陀になる」ことです。それも、米国のスーパーマンとは異なる、神聖な超人を意味します。「神聖超人」とは、哲学的に表現すると、「完璧なる(パーラミター)絶対精神に到達する」ことを意味します。そして、そのとき、あなたの個我自家性の野心は一切滅却されております。

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修行について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月17日(日)21時11分21秒

これから私の語ることは自らの宗派(浄土真宗)の教義において、自らの体験より語ることです。よって、他の宗派においては違うことを言っているかもしれませんが、ご了承願います。

修行にどんな意味があるのか?それは話が逆で自分とは何か、自分の人生にどんな意味があるのか理解するために修行するのです。ですからそういうことに疑問を持つ人が修行するのであって、疑問を持っていない人はするべきではありません。

ですから、
>いつか悟りを開いてみたいと思っています
こういう理由から修行するのならおやめなさい。
悟りというのは言ってしまえばスーパースターになることでも、ファンタジスタになることでもありません。逆で、究極的に言えばもしかしたらそうなるかもしれない自分の可能性を自分の意思で切り離してしまうことです。

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縁起説≠仏陀の悟り 投稿者:Σ 投稿日: 9月17日(日)17時30分41秒

中嶋さまへ

>私は、前にも言いましたが縁起説=ブッタの悟りだという日本の仏教学者は全て職務怠慢だと思っています。

そうですね。ここでも意見の一致をみましたね。
中嶋さまが私の主張の協賛者になる日も近かったりして(笑)。

誤解を受けないように私の立場について少しだけ触れておきます。(ここで明言すると石飛女史に剽窃される可能性もあるのでそれはしませんが・笑)
ここで言わずとも空王寺サイトの電子書籍で明確に立場表明しているわけですが(笑)
私は、「縁起説=仏陀の悟り」説に対して、明確に強く反対の意を唱える者です。
この点は一致していますね。但し、その先が、中嶋さまと同じかどうかは、私の立場をできるだけ早く私のサイトで「龍樹解説」致しますので、それを御覧になり、後日判断して下さい。

>そりゃだめです。だって、yがxの原因である、ということは論理学の外で、つまり物理学だとか生物学だとか「宗教学」とかで証明しなきゃなりません。

私は仏教の縁起論は、原因を特定する学問ではないと把握しています。
決定的原因は特定できなくともよいのではないでしょうか?
特定できなくとも、「何らかの原因がある」と言える(考えられる)ということが仏教の縁起論ではないでしょうか?
尤も、修行法としては、「滅したいものの原因を特定してそれを滅する」という方法がありますが、何を滅すればよいのか、ここをしっかり特定でき、実行できている人は、僅少だと思っています。(既にそれを特定している論はあるのですが、多くの人に無視されています。但し、「生を滅すればよい」と述べる頓珍漢説は除外します。)
私の龍樹解説では、その点(原因特定)を明確にして行きたいと思っております。

さて、私の提出した

   ∀x∃y F(x, y)

実はこの論理式の思考形式は、「y」を「事象に限定しない」ように定義変更するならば、カントの思考でもなされています。
「現象」を「x」、「物自体」を「y」 としたときに、「y」は特定できませんし認識不可能なのですが、
諸点を勘案してそこからの「総合判断」として、現象の原因としての「基体」として「物自体」がない諸現象を説明できない、という推論になるわけです。
「y」としての「物自体」が「有る」と証明できた人はいません。証明不可能なのですが、それを承知で、カントはそれを基本に据えて論理展開するわけですね。

>ここで、石飛女史が頑として十二支縁起をつないでいるのは演繹だといって論理が崩壊しているのにがんばっている理由は、演繹だったら論理記号の操作だけで「十二支縁起が真である」と証明できる、というムシのいい話だからで、それがなくなると石飛説のメインフレームが崩壊してしまうんです。

同感です。「演繹操作だけで一切が語れる」という主張は、どう見ても狂気の沙汰でしょう。
このような人が「真っ当な学者」なのでしょうか(苦笑)。
宮元教授の推薦があったのしもしれませんが、大学側で彼女を非常勤であっても雇っている「教授会」の責任ではないでしょうか(笑)。
ちょっと、この言い方、キツイですか?(笑)。
しかし、教授会の見識が、真面目に問われる場面ですね。

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(無題) 投稿者:林浩司 投稿日: 9月17日(日)14時02分0秒

すみません。これ消しておいて下さい

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(無題) 投稿者:林浩司 投稿日: 9月17日(日)14時00分13秒

お寺の修行とはどんなものなのでしょうか ?
そして、それにどんな意味があるのか教えてください。

一休さんとかでみるお寺の修行というのは、座禅を組んだり、巻き割をしたり、掃除をしたり、お経を唱えたりみたいですが、どんな意味ががるのでしょうか ? 何かの本では右脳教育みたいなことが書いておりました。
お寺の修行は日常では出来ません。それで、もし出来るのならば、「反復」と言っておりました。それを言った人は、みなさまもご存知と思いますが、三浦道明と言うお坊さんです。この反復は、滝で煩悩を払うような効果があるかもしれません。
比叡山の修行で千日回峰行といものがあるらしいですが、千日で4万Kmくらい歩く荒行で50年にひとりほどやり遂げる者がいるそうです。これも、煩悩を取り払う「反復」といものかもしれません。ボクは一時期毎日15Kmくらい歩いて実戦したことがありました。
ボクはお坊さんになりたいとまでは思いませんが、いつか悟りを開いてみたいと思っています。お寺の修行はどんなものがあり、その意味を教えてください。

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Σさんへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月17日(日)10時53分47秒

そりゃだめです。
だって、yがxの原因である、ということは論理学の外で、つまり物理学だとか生物学だとか「宗教学」とかで証明しなきゃなりません。

十二支縁起にしたって、十二支縁起の定型文を論理記号すること通常言語を論理記号に置き換えるだけですから簡単です。しかし、十二支縁起を数珠つなぎにつないでいる十二の要素間に因果関係が成立しているか、観察できた修行者は後にも先にも釈尊だけです。

ここで、石飛女史が頑として十二支縁起をつないでいるのは演繹だといって論理が崩壊しているのにがんばっている理由は、演繹だったら論理記号の操作だけで「十二支縁起が真である」と証明できる、というムシのいい話だからで、それがなくなると石飛説のメインフレームが崩壊してしまうんです。

私は、前にも言いましたが縁起説=ブッタの悟りだという日本の仏教学者は全て職務怠慢だと思っています。経典に書かれているから、という理由ではなく、ブッダが十二支縁起を見たところを再現していただきたいものです。

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おわび>Σさん 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月17日(日)09時14分45秒

申し訳ありません。
>  ∀x∃y F(x, y)
を、あるyが、あるxの原因であれば、あるyはすべてのxの原因であると、読み間違えてしまいました。
大変失礼いたしました。

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re:石飛女史がやりたかった仏教縁起論の論理記号化 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月17日(日)08時48分48秒

私の場合、本を書かずとも、「たった一行」で同じことを成し遂げることができます。(笑)

フレーゲの量化理論(quantification theory)の記号を使えば簡単です。

任意の事象(当該宇宙でも世界でも、それらの任意の事象、あるいは複数化できる個体的存在単位の一切)を x  や  y とします。
そして、Fを「xは yという原因を持つ」 とします。もう少し詳しく定義すれば、Fを「xは yという原因要素を含む(限定的)因果関係にある」 とします。
このとき、

   ∀x∃y F(x, y)

以上が、「仏教縁起論の論理記号化」 ということになりましょうか。
これに著作権があるなら、仏教縁起論を史上初めて論理記号化したのは私なのですか?(笑)。

これだと、(x=あおみ、y=ごきぶり)として、
「あおみは ごきぶりという原因要素を含む(限定的)因果関係にある」
も成立しちゃいませんか?

http://green.ap.teacup.com/miurat/512.html
この辺を参考に修正が必要なのでは?

で、結局のところΣさんのいいたいことは、「仏教縁起論の論理記号化」においては超越神は不要ということですね?

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石飛女史がやりたかった仏教縁起論の論理記号化 投稿者:Σ 投稿日: 9月17日(日)08時07分48秒

石飛女史の『ブッダ論理学』で彼女は何を言いたかったのだろうか?

私はあのようなヘボ書を何度も読むほど暇人ではありませんが、上記の疑問については真摯に考究して、彼女の掲示板は時々覗いて、彼女の「頓珍漢な頭脳の中身」即ち「誤解の構造」の分析をしておりました。
そうして、一つの結論を得ました。それをここに記します。
彼女はあの本で、仏教の縁起論を、論理学で説明したかったのだと。(これ、当たり前か?笑)

しかし、彼女は、「わたしは、鈍根タイプの筆頭なんですね」(石飛女史マニカナ掲示板投稿1893番)と述べている通り、鈍根なので、仏教の縁起論を論理学で表現しようとしたときに、
「因果の真理表」という、「真理表」概念を逸脱した、わけのわからない「真偽表」を持ち出して、
「これで一切を語れる・・・つまり、一切は縁起であるとの主張が可能」と息巻いたのでしょう。

う〜む。やはり「鈍根の筆頭」との自己分析が謙遜ではなく真実であると思わせる「お仕事」ですね。

私の場合、本を書かずとも、「たった一行」で同じことを成し遂げることができます。(笑)

フレーゲの量化理論(quantification theory)の記号を使えば簡単です。

任意の事象(当該宇宙でも世界でも、それらの任意の事象、あるいは複数化できる個体的存在単位の一切)を x  や  y とします。
そして、Fを「xは yという原因を持つ」 とします。もう少し詳しく定義すれば、Fを「xは yという原因要素を含む(限定的)因果関係にある」 とします。
このとき、

   ∀x∃y F(x, y)

以上が、「仏教縁起論の論理記号化」 ということになりましょうか。
これに著作権があるなら、仏教縁起論を史上初めて論理記号化したのは私なのですか?(笑)。

三浦先生、私が見たところ、以上が石飛女史が『ブッダ論理学』でやりたかったことだと思います。
彼女はこの場合の「y」の求め方を、「つたない子供論理」なりに、考えたわけですね。
ゆえに、上記の目標が、彼女の本では、論理的にどういう点で達成されていないのかを論じ、うまく指摘することができるならば、(或いは、三浦先生の方がより正確ですぐれた記号表現説明を提示できれば) 石飛女史の心(主観)にも、本当にぐさっと突き刺さるような、強力なる「無理解のサンプル」になると思います。

(追伸)
同一律に関する回答、誠に有り難うございます。後日、お礼かたがた返答致します。 ヒロヘロさんにもレスしたいと思っております。

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re 数学書 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月16日(土)13時06分17秒

やりたいのは。。。自然数論からはじめるべきなのか、現在の高校の数学のカリキュラムに沿ってやっていくべきなのか悩ましいところです。

個人的な興味の優先順位を書くと
1.自然数論
2.集合論
3.幾何学
4.代数学
5.微分積分
となりますが、この順番で学んでいくのが互いの分野の関連付けもあるでしょうから良いことだとも思えませんし。

P.S.
ちなみに高校の参考書を読んで驚いたのですが、「ゆとり教育」のせいなのか、私が中学時代学んだ因数分解などは今は高校のカリキュラムに入っているんですね。εさんの目からみて、ゆとり前→ゆとり後というのは学生の質ってどのくらい違っているのでしょうか?少々不安です。

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re:ブッダ論理学第4章 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月16日(土)06時15分57秒

εさま

> re:社会性、ブッダ論理学第4章 は無宗ださんへのレスのつもりでした。マニカナ掲示板でブッダ論理学第4章について聞かれたのでここで返答をしたほうがいいと思ったわけで・・・

申し訳ありません。 あのレスをした後で、実はそうではないかと思い当たったのですが、改めて考えてみると、書きたいこと、書きたくないことが自分の中で錯綜しレスを付けれないでいました。
まず、第一に言っておきたいことは、私はあの本の著者でもないし、編集でもありません。何の責任も無い立場です。
そして私は石飛先生が現在執筆中の龍樹本をとても楽しみにしており、執筆者には気持ちよく執筆作業に勤しんでもらいたいと考えております。ここをご理解いただけるとありがたいです。

さて、
>(2)大量破壊兵器があるときそれによる死がある
これに関しては、特に抵抗無く、すんなり読みました。
(全世界から)
(3)大量破壊兵器がないとき、それによる死はない。

そして、(2)(3)は、子供でもわかる論理だと考えます。

>(2)イラクに大量破壊兵器があるとき、親米周辺諸国および米英にとって脅威がある
が真であれば、
(2)米英に大量破壊兵器があるとき、その周辺諸国およびイラクにとって脅威がある
もまた真でなければなりません。

ですから、
イラクの大量破壊兵器だけを問題視するのはおかしい
というのは、子供でもわかることではないでしょうか?
では、何故、こんな子供でもわかる論理が通用しないのか?

三浦先生の『論理パラドクス−論証力を磨く99問』
83★核戦略のパラドクス
の答えは感動ものでした。

子供の論理が、現実における大人の事情で否定されることはままある。
たとえば、キリスト教における、
「汝ら罪なき者、あの女を石もて打て(今まで自分は罪を犯したことがないと言える者だけが、あの女に石を投げなさい)」
も、現実的ではないという点では同じだと考えます。

さて、では、西郷隆盛の西欧批判は子供の論理なのか否か?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog429.html
<−−
 予嘗(かつ)て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢ
やと云ひしかば、否な文明ぞと争ふ。否な否な野蛮ぢやと
畳みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、実
に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々
説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に
対する程むごく残忍の事を致し己れを利するは野蛮ぢやと
申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑は
れける。

(私は、かつてある人と議論をしたことがある。私が西洋
は野蛮であると主張すると、その人はいや文明国だと主張
し議論になった。私が再度西洋は野蛮だと畳みかけて言っ
たところ、その人はどうしてそれほどにまで西洋を野蛮と
いうのかと私に尋ねてきた。私が本当の文明国であるなら
ば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説
き諭して文明化に導くべきであるのに、未開蒙昧の国であ
ればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野
蛮であると言った。すると、その人は口をつぼめて何も言
い返すことが出来ないと苦笑していた。)
−−>
種子島に伝来した鉄砲が日本の戦を変えたことを考えれば、「日本はもとは野蛮ではなかった」などとはいえませんが、
・西欧は野蛮であった。
・西欧に支配され滅ぼされないためには、日本も西欧の野蛮さを取り入れるしか道はなかった。
とも言えるでしょう。

さて、
>(4)フセイン体制を打倒し、イラク国民に自由を与える

(4)’独裁者があるとき、国民に自由はない
と因果的に言い換えても何ら問題はない。

この言い換えには問題はないのですが、これを
(5)独裁者がないとき、国民に自由がある
と言い換えれないのが問題です。ここが(2)(3)との大きな違いではないかと考えます。
現在我々が目にしているのは、
(6)独裁者があるとき、(独裁者による)秩序がある
(7)独裁者がないとき、(独裁者による)秩序がない
ではないでしょうか?

この点、十二支縁起の最後の二支は徹底していると思います。

生に縁って、老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある
生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる

結局、苦の滅のために、生まれること自体を否定しています。
人の生き方自体に関しては、「悪いことをするな、善いことをせよ」
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/syoaku.htm
と三歳の子供でわかることを説いているわけですが、生きること自体には価値を見出してはいなかった。
そしてこの姿勢は、
「いちばん大事にしなければならないのは生きることではなくて、よく生きることだ」──(「クリトン」より) に通じるものがあるように感じます。

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Re:s 投稿者:φ 投稿日: 9月16日(土)04時37分14秒

◎Re:同一律
A=B は、外延の同一性ですね。内包が異なるので別の記号で示していますが、「t1での当該宇宙=t2での当該宇宙」のようなこと(異なる外延の同一性)を述べているわけではありません。
 なお、前回書き忘れましたが、A≠A と明示される場合はしばしばあります。ただしそれは、x≠xのときxの指示対象は存在しない、という規約の応用としてです。つまり、A≠Aが成り立つ場合はあるが、それは、Aの指示対象が存在しない場合に限るのです。非存在(無)を論じる論理学は自由論理、代入的量化、マイノング主義など幾種類もあり、そこではしばしばA≠Aが成立します(Aが非存在であることのしるしとして)。

◎Re:余計なこと
 『ゼロからの論証』の5−1では、ある本を、『ブッダ論理学』と同じようにケチョンケチョンにやっつけています。むろん「感情に走って」ではなく、論理的な間違いを放っておけないからです。ただしその本の誤りは専門書の域で生じているので、編集者には全く責任はないと私も思っています。
 しかし『ブッダ論理学』のレベルの啓蒙書・教養書の場合は別でしょう。著者の責任が第一なのはもちろんですが、その著者が全く無自覚のままである以上、周囲の責任者も多少は火の粉を浴びても仕方ないのでは。むろんそんな火の粉は本来不要なので、編集者論議はもうやめにしましょう。

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数学書 投稿者:ε 投稿日: 9月16日(土)03時23分11秒

Nakajimaさん、数学にかかわる者としてとてもうれしいご質問ですが、いざ言われてみると難しいですね。
どういう方面の本がご希望かわからないので、私の関係する分野の本を挙げておきます。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4894714213/sr=1-1/qid=1158343012/ref=sr_1_1/503-2051529-7247131?ie=UTF8&s=books

このレベルの本は他にもありますが、新しい話題にも触れているし、1章ずつが短くていいと思いました。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4320010019/sr=1-1/qid=1158343876/ref=sr_1_1/503-2051529-7247131?ie=UTF8&s=books

これは古く(初版はたしか戦前)、分厚く、高いという3重苦(笑)の本ですが、私が学生時代に一生懸命読んだ本です。専門家にとって参考になる部分もあるくらいがっちり書いてありますが、予備知識はほとんどいりません。

週末れすできませんが、月曜あたりにまた思いついたら紹介します。もっとも面白いと思われたらとりあえず買ってしまっていいと思いますが・・

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余計なこと 投稿者:λ 投稿日: 9月15日(金)23時38分44秒

φさま

 φさまの編集者に対する考え方は理解できます。しかし、今回のように編集者と執筆者とのどのようなやりとりの中でできあがった本か分からないのに、独りよがりな推測で編集者を批判の対象にするのは止めた方がよいと思います。(φさまがこの本の編集に深く関わっているのなら別ですが。)あくまでも、本の第一責任者は執筆者であり、批判は執筆者に向けられるべきでしょう。
 CMについてですが、φさまのHPですので、もちろんCMは自由です。ただ、感情に走った非論理的な文章を並べて他を批判し、その中でしかCM(その気がなくても、結果的に)ができないとなると残念であり、聞きたくないので言わせてもらいました。

 「常識的に変だとすぐわかる」をφさまの意図したように読める人はどれだけいるのでしょうか。私の読解力が不足しているのでしょうか。

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εさまへの質問 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月15日(金)22時38分59秒

一つお願いしたいことがございます。

最近、論理学の教科書なんかを読んでいくうちに、(数学をもう一度やり直さなきゃだめだな)と思うようになりました。
で、ある大きな書店へ行って「数学書」のコーナーへ行き(5pぐらいで挫折するかな)と思いながら代数学の初学者向けの本を取ってみました。
仰天しました。私は高校の三角関数と代数で挫折した人間なのですが、そのような人間でさえ読んでいて「え、数学ってこんなに面白かったの?」というくらい解りやすく書かれていましたので。
で、いい気になって買おうと思ったとき、その本の隣に並んでいる代数の本が気になり、取ってみました。驚いたことにその本も興味を持って読むことができました。
というわけで色々読んでみたのですが、どれも面白いので一冊に決めることができません。やり直しの初学者向けとして、推薦できる書籍を紹介していただけないでしょうか?

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Re:同一律と当該宇宙 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 9月15日(金)07時29分52秒

フレーゲでは ”A=B”として扱いますね。つまり「宵の明星」=「明けの明星」として。それが記号論理学の基礎だと思うのですが、A=Aとの違いは意味と意義の違いにあると思います。
で、仏教では諸行無常、諸法無我を大前提にするのでA=Bを認めない場合が生じます。時系列で追った対象やその変異相に適用されますが、そのままでは無理が生じるので、一部自業自得を導入して繕います。つまり、倫理目的に論理をこじつける訳ですから詭弁のオンパレードになるわけですね。ただし、論理学的にも残された問題は沢山あると私は考えております。その問題解決の手法として多値論などが実利目的として出てきたのだと認識しております。

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Re:誤字指摘 Re:同一律 投稿者:φ 投稿日: 9月15日(金)01時32分45秒

 誤字ご指摘ありがとうございます。そしてどうもすみません。大学院生のとき教室で配布した発表レジュメには最後まで書いてあったのですが、活字にしたのは半分まで。ただ、後半は大味な哲学論になるので、実質的な趣旨は前半でほぼ尽きています。

 さて、
同一律というと、「AならばAである」のAには文(命題)が入る形として考えるのが普通ですが、Σ さんは、「AはAである」のAに名詞(個体)が入るバージョンを想定されているようなので、それでいきましょう。

 矛盾律や排中律を否定する論理学はありますが、同一律を否定する論理学というのはあまり聞きませんね。もちろん、矛盾を認める(矛盾した文が特定の事実的情報を伝えると認める)Paraconsistent Logic の一種として、同一律を否定するバージョンも可能でしょうが、同一個体どうしの同一性については、それを否定する論理学は知りません。ただ、どんな突飛なことも一応考えるのが論理学なので、A≠Aというのが定理となる論理学もどこかで営まれている確率は高いです。内容は想像つきませんが。

 ただ、Σ さんの問いは、「t1での当該宇宙と、t2での当該宇宙では、同一だと言えるか」といったものですね。この問いは、同一律とは関係ありません。同一律を厳守したままで、「t1での当該宇宙と、t2での当該宇宙では、同一ではない」と言えます。
 あらゆる時点にまたがる当該宇宙全体ならば、ただ1個だけであり、

  あらゆる時点にまたがる当該宇宙=あらゆる時点にまたがる当該宇宙
  t1での当該宇宙=t1での当該宇宙

    等々となります。そして、

  あらゆる時点にまたがる当該宇宙≠t1での当該宇宙
  t1での当該宇宙≠t2での当該宇宙

    等々です。これは、私≠私の右腕 私の左足≠私の右足 というのと同じ理屈です。私の左足と右足は同一ではなく、同一の私に属している別物です。同様に、昨日の私と今日の私は同一ではなく、同一の私に属している別物です。単純な考えですけどね。
 同一性の問題は、分析哲学の形而上学部門で重要な地位を占めており、時点ごとに切った単位であるタイムスライスを空間的な部分と同じように扱うのが主流でしょう。時間と空間を同列に扱う「四次元説」については、↓の第7章が簡便です。(各章独立しているので、分析哲学系の形而上学を総覧するには便利な本です)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0199282269/250-1042020-3693808?ie=UTF8

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誤字指摘 投稿者:田貫夢路奈 投稿日: 9月14日(木)23時45分16秒

 φさま

 http://russell-j.com/m1-wkp03.htm の中に
「事実の錯誤と法律の錯誤 : 二つの大審院凡例から脱構築論争へ」とありますが、
"大審院判例"の誤りですね。

 ところで、この論文、
本文中に続編が予告されていたので検索したのですが、みつかりません。
 続編は出なかったのですね?

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般若パーラミタ 投稿者:Σ 投稿日: 9月14日(木)22時07分9秒

『大智度論』にはハラミタの詳細な解説もあります。
それに比べると、
宮元教授の、(無宗だ氏がこの掲示板に紹介した)あの論文の、般若パーラミターの解説は、超絶的に「ひどい」ものですね。

四、菩薩の波羅蜜と誓願
菩薩と真実(satya)

宮元教授も『大智度論』を一度も読んだことがないまま上記のそれを書いていたのでしょうね。通説を無視しての、理由付けもないままの、「般若パーラミタが一番実践簡単なもの」と臆面もなく表明する仏教学者の・・・・いえ、しかし、「私は仏教徒ではない、あくまで部外者の外在的視点から見た仏教なるものを書いているだけ」というお決まりの「無責任丸出しの言い訳」が用意されているために・・・
もうここまで来ると、「さすがに進歩的文化人ですね」と、称賛する以外ありません(苦笑)。

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大智度論と大乗の精神 投稿者:Σ 投稿日: 9月14日(木)21時18分40秒

石飛女史は9月13日付けブログで始めて『大智度論』を読み、その素晴らしさに読みふけってしまった、この本は間違いなく龍樹の手によるものだにゃあ〜という感想をもらしております。
これ、どういうことか?
私が口うるさく、大智度論を読みなさい、と述べた意味がわかりましたでしょうか?
私は大智度論が龍樹の手になるという説に無条件で首肯する者ではありませんが、とにかく、これまでの彼女の語る龍樹は、インチキ龍樹なのですが、大智度論を踏まえた龍樹になれば、本当の龍樹になりえます。

大智度論に無知丸出しの石飛女史から、大智度論を知った石飛女史に変身する日は来るでしょうか(笑)。
「論語読みの論語知らず」「仏典読みの仏典知らず」という人もいますからね。
「詰めが大甘」と自覚されている、かのo氏の如く。

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同一律と当該宇宙 投稿者:Σ 投稿日: 9月14日(木)21時00分17秒

三浦先生へ

いつもお世話になっております。
お尋ねしたいことがあります。
標準論理学では同一律、「AはAである」が基本になりますが、単純に「AはA」とアプリオリな判断を前提とすること、これに対して疑義を唱える非標準論理学はありますでしょうか?

たとえば、我々の住む当該宇宙が加速的膨張を続けていると仮定した場合、
t1の時点での当該宇宙と、t2の時点の当該宇宙では、同一だと言えるのでしょうか?
同一判断のための要件(というか依拠要素)、というようなものは提唱されているのでしょうか?
もし、変な質問でない場合には、ご教示戴けると有り難いです。

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外界 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 9月14日(木)17時40分29秒

原始仏教、少なくとも古層では

1 認識対象が外界に存在すると断言しない
2 認識するのであるから、そのものはあるのかもしれない
3 よって、認識対象が外界に存在しないとも断言しない
4 更に、他人も私が認識しているであろう対象を認識すると親告するから
5 同じ対象を見ても違う観察になり、完全同一になることはない
6 よって、対象は認識内容であり、「心の投影」と考えるのが妥当である
7 それは対象観察において必ず先入観を伴うのであって
8 先入観を伴わない観察などありえない
9 なぜなら認識主体である心は欲求や記憶などをはじめとする精神作用に支配されているから

という素朴実在論に近い思想を持ち、思考のすべてを「わたし」に集約する傾向があります。「わたし」は「心」に置き換わっており、ダンマパダなどにはこのことを前提としなければ意味が通じない箇所が多々あるのです。

二諦説を中心に添えた観点から原始仏教を理解しようとする試みはどう見ても外れです。

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編集の地位 投稿者:φ 投稿日: 9月14日(木)04時36分22秒

 私は執筆歴のデビューが小説であるため、編集者とガンガンやりあうのに慣れているせいか、たしかに本作りにおける編集者の責任を大きく評価する傾向があるかもしれません。小説の世界では、作家に賞を取らせねばならないので、編集者による執筆者の鍛え方が違うのですよ。文芸批評業界のツボは作家より編集者のほうがよく知っていて、作家の創造性を尊重しつつも生存競争にいかに勝たせるか、編集技術の比重は大きいと思います。そして今思うと、編集者のアドバイスはおおむね的確でした。

 学術書の場合、専門書では著者任せなのは当然ですが、啓蒙書になると、編集者の責任は大でしょう。
 私も、たとえば『論理学がわかる事典』の原稿では、応用論理学のつもりで最終章に、本文既出の論理学概念を総動員して〈売買春の善悪判断〉を論じる対話編を書いたのですが、「論争を煽るのがこの本の目的ではありません」と、編集者に全部削られてしまいました。その時は腹が立ちましたが、今考えると、よくぞ削ってくれたと感謝しています。あのまま出していたら、内部分裂したいびつな本になっていたところでした。

 というわけで、私が編集者の責任を言い立てるのは、編集という仕事を尊敬しているがゆえなのですよ。λ さんは誤解しているようなので、念のため。コマーシャルなんてしてませんよ。(むろん私の掲示板なのだからコマーシャルは自由ですけど)
 いずれにしても、編集者はプロなのだから、叩かれたっていいのです。出版界には、手がけてきた書物の質により編集者に与えられる賞だってあるのですからね。

 なお、「常識的に変だとすぐわかる」という意味は、流し読みする読者でもすぐわかるという意味ではなく、熟読した担当編集者ならすぐ気づくという意味です。そういう箇所は、『ブッダ論理学』にはいくらでもありますよ。ε さんの指摘したp.130周辺をはじめ、あれら粗悪な擬似論証は、もしブッダ論理学ではなくアリストテレス論理学と題した本であれば、「こんなんで、いいんですか?」と必ずや編集者が待ったをかけているはずです。ブッダもほとほと軽く見られたものですよ……。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 9月14日(木)03時07分37秒

re:社会性、ブッダ論理学第4章 は無宗ださんへのレスのつもりでした。マニカナ掲示板でブッダ論理学第4章について聞かれたのでここで返答をしたほうがいいと思ったわけで・・・

さて、編集者についてですが、やはり著者の責任が大きいと思います。
記号論理は大学のレベルの話で、それに慣れていないと判定は難しい。私は分析哲学系では大森氏、野矢氏の論文集を読んだことがあるのですが、理学部教養レベルの数学さえ彼らはわかってないと感じました。それでも著者がこれでいいと主張した場合、編集者がそれに反対することは難しいと思います。
他の例として、NHKブックスでも「相対性理論の矛盾を解く」というのがあります。これはいかにもトンデモ本なのですが、著者が専門誌に掲載された論文を持っているので、そのまま出版されました。私にはどうも変だと思うことがいろいろあったのですけど、物理の専門家ではないのでどこがおかしいか、特定できないでいました。しかし2chの物理板などを見ると、物理の院生などがおかしい部分を指摘しています。

私の考えるに、「ブッダ論理学」にはよいところもあるのが事情を複雑にしていると思います。

以下、よいところ、悪いところを書いてみましょう。

良い点:「方便心論」のほうはあまり問題がない。つまり、文献、歴史的には確かに新しい発見があるように思います。ナーガールジュナと原始仏典の関係など、インド哲学、論理学史などにおける発見であるように思いました(よくはわからないのですけど)。

ちょっと怪しい点:インド論理学が演繹論理という点、これはクワインの分析哲学を副専攻として学んだ桂紹隆氏と意見が食い違うところ、かなり無理なところがあるように思います。

トンデモな点:真理表の穴、チャッカなど。

マニカナ掲示板で石飛さんと話してわかったのですが、彼女はフレーゲの「概念記法」などにまで目を通しているにかかわらず、変な誤解をしているのですね。多分、彼女は文献をすごい速さで読む能力はあると思うののですけど、論理学などは数学と同じで、目を通すだけではいけなくて、基礎概念について何ヶ月も考えて納得するというプロセスを踏む必要がある。実際問題に適用したり、練習問題を解くとかをやってないのでは。だから、ごまかしているわけでなく、本気で誤解しているのでしょう。

これはひところはやりのポストモダン系哲学で、科学や数学に関するトンデモな理解がそのまま流通しているのと同じだと思います。それについても編集者は何も言ってないと思います。

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(無題) 投稿者:λ 投稿日: 9月14日(木)01時38分58秒

φさま

 あまり細かくは書きたくなかったのですがご希望ですので・・・

 推測で他の本の編集者にまでケチを付け、自分の本がいかに素晴らしいかをコマーシャルするφさまの手法がいやらしく感じられるのです。そして、そのコマーシャルに乗せられるほど読者は馬鹿でないので、コマーシャルはお止めになった方が良いですよと、余計なことでしょうが、アドバイスさせていただいたのです。

 「自分の本では」と言うべきところを「西洋哲学の本であれば」と一般化したり、「私は変だとすぐわかる」と言うべきところを「常識的に変だとすぐわかる」とすり替えたりするのもみっともないと思います。

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水先案内人 投稿者:Σ 投稿日: 9月13日(水)22時31分23秒

私も三浦先生のご意見に賛同します。
私が尊敬する刑法の団藤重光博士は、「法学入門」を著した時に、うろ覚えですが、初心者を教える水先案内人として本当によい案内をできるのは、その道の達人だけであって、私などはまだまだで僣越だが・・というような序文があって、その謙虚さに敬服したのを覚えています。

あちらの掲示板のザポザポさんは、「ブッダ論理学」は啓蒙書だから、石飛女史の「真理表の定義」も初心者にわかりやすいような、正式なものではない、あのような(杜撰な)もので何も問題ない、というような擁護発言をしていました。
(つまり、読者を低くみて、この程度のものを出しておけばそれでいい、的な考えをもっているということでしょう。)

その上、石飛女史は啓蒙書ではなく専門書ならもっと簡単に書けたわよ〜(大意)、との言明を出して、oさんから苦言をもらっていましたね。

それなら、ブッダ論理学を論理学学会への論文として、専門家用に書き換えて、ホームページにアップしたらよいでしょうに。 そっちのが簡単だというのならば、です。
彼女の実力は三浦先生の指摘をみても一目瞭然ですから、そんな芸当はできないはずです。
ということは、「見栄・虚栄を張っての発言」だと、お里が知れるわけです。

というわけで、
石飛女史は、果たして謙虚で適切な、良き水先案内人と言えるのか?
それとも、盲人が盲人を手引きする罪、に該当するのか?  という問題でしょう。

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余計な? 投稿者:φ 投稿日: 9月13日(水)05時26分47秒

 ちょっとわからなかったのですが、「読者はそんなに馬鹿ではありませんよ」という御指摘は、どう係わってくるのでしょうか? 私が述べたことと無関係のように見えるのですが。
 せっかくの御指摘なので、御教示いただければと思います。

 もちろん読者はよくわかっています。だからこそ、『ブッダ論理学』に対して、みなさんから的確な疑念や苦情が吐露されてきたのではありませんか?
 私もレビューにはだいぶ教えられました。Amazonで言われたとおり、パラドクス三部作に索引を付けなかったのはまずかったと反省しています。内容本位に走り、読者の使い勝手に想像力が及びませんでした。そこで索引を兼ねた『パラドクス事典』を第4作として出版する計画を立てましたが、半分まで書いて挫折したので、項目索引だけでもいずれHPに載せるつもりでいます。

 ……………………
 「科学書ならともかく哲学書だからこのくらいでいいだろう」「哲学ではなく文学なのだからこれで十分」「理系ではなく文系だからこの程度で」「専門書ではなく啓蒙書だから」……
 こうした無雑作な差別が、西洋哲学と東洋哲学をめぐっても生じているのではないか、と感じた次第です。
 常識的な規範については、理系よりむしろ文系、専門書よりむしろ啓蒙書のほうが余計気をつけねばならないのに、専門性の度合をそのままあらゆるレベルでの許容度に敷衍してしまう甘えた思考が東西の対比にもはびこっているとしたら、由々しきことでしょう? それを口にすることがどうして「空威張り」と受け取られるのか、気になりますね。

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余計なこと 投稿者:λ 投稿日: 9月13日(水)04時23分31秒

φさま

 どうして「東洋思想に対する差別意識」、「編集側の偏見による怠慢」まで飛躍するのでしょうか。
 φさまの本は、そんなに立派な本なのでしょうか。

 読者はそんなに馬鹿ではありませんよ。
 読者はそれぞれの本の良いところをしっかりと見ていますよ。

 φさまが「読者に対する差別意識」(私にはそう感じられる)を振りかざし、強い口調で「空威張り」を続けられると、せっかくのφさまの本の価値も無くなってしまうと思うのですが。

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気づいたこと 投稿者:φ 投稿日: 9月13日(水)01時49分13秒

εさんの挙げておられるp.130のような「論証の体をなしていないものを妥当な論証であるかのように装った部分」は枚挙に暇がないわけですが、
 どうしてあの本がああいうことになったのか考えてみたところ、「東洋思想に対する差別意識」が働いているのではないかと思いました。

 西洋哲学の本であれば、ふつう、ああいう杜撰な本作りは許されません。編集者がいろいろチェックを入れます。専門知識がないことを自認する編集者でも、「ここは記号が違うのではないですか?」「ちょっと詭弁のような印象があるので補っては……」等々、著者に対して果敢なフィードバックが返ってきます。大半は、編集者の読み間違いであったり、見落としであったりするのですが、それでも、こちらはフィードバックを参考にしつつ誤解の生じないよう書き換えたりします。(内容と紙数の兼ね合い上、限度はありますが――)

 『ブッダ論理学』には、常識的に変だとすぐわかる箇所が多数残っており、これは、編集側の偏見による怠慢ではないかと最近気がつきました。
 「東洋哲学なんてどうせいい加減なものだろうから、まあいいか、あれこれ口出しして出版が遅れても面倒だし……」的な(無意識の、悪くすると意識的な)姿勢が編集サイドにあったかもしれない、ということです。

 西洋哲学の書物では考えられない穴が散見されるのは、そうした「どうせ東洋哲学」式の差別意識に祟られたからではないか。
 東洋思想を愛する者たちは(私も含め)そうした風潮に怒らにゃならんと思います。

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(無題) 投稿者:林浩司 投稿日: 9月12日(火)05時40分21秒

三浦和義のHPなら昔あった。

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re2:社会性 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月12日(火)04時59分57秒

数学者エスこと、εさま、おはようございます。

> 宮元氏は原始仏教と大乗仏教には歴然とした差がある。大乗仏教はヒンズー経の考え(誓戒(ヴラタ))を取り入れているという意見だと思いますが。

そうですね。

「聖者」ガーンディーと真実 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/gandhi.html
の中の、
四、菩薩の波羅蜜と誓願

釈迦がブッダとなって輪廻から最終的に解脱し、安楽な、涅槃といわれる絶対的な境地にいたったのは、瞑想(禅定)によって智慧を得、その智慧によって根本的生存欲(渇愛、無明)を滅ぼしたからではなく、サッティヤの力によるのだということになる。つまり、菩薩行という概念は、古来の仏教における修行理念とはまったく異なる次元に立つのである。。
とあります。

菩薩と真実(satya)
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/bosatsu.html

こちらのURLを紹介した方が良かったかもしれません。

> 社会性 投稿者:Σ 投稿日: 9月10日(日)16時14分38秒
> 石飛女史の発言では、ブッダは論理学体系を説いたと理解しています。御布施だけで悟れるなら論理学は必要条件でなくなります。
に対応して、

原始仏教には、戒定慧の三学という修行体系、理論的裏づけがあった。
大乗仏教の波羅蜜は、その機能面からいえば「なにがなんでも守り通すこと」以外ではありず、論理学は不必要。

ということになると考えます。

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 9月12日(火)01時11分6秒

>問題は、(1)、(1)’は

これは

(2)、(2)’は

でした

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re:社会性、ブッダ論理学第4章 投稿者:ε 投稿日: 9月12日(火)01時05分41秒
こちらでははじめまして、数学者エスです。

横レスですが

ちなみに、Σさんが、石飛女史の盟友と呼ぶ宮元教授は、
> 『大智度論』でもその一つだけ、たとえば「お布施」の行だけでも悟りに到れる、とちゃんと解説しています。

このこと等は、とっくの昔に理解しているようです。

宮元氏は原始仏教と大乗仏教には歴然とした差がある。大乗仏教はヒンズー経の考え(誓戒(ヴラタ))を取り入れているという意見だと思いますが。

「ブッダ論理学7つの難問」第4章を読み返してみましたので、こちらに書き込みます。

ここは最悪の章だと思っています。非常に腹が立ちました。つまり、論理学と直接関係はないのに、社会的、政治的に口当たりのよい主張をちらつかせるのはよくあるあるやり口です。こういう文科系の人間に対するレッテルは昔からいろいろあって、進歩的文化人とか、うす甘いサヨクとか・・・

具体的に書きましょう。
130ページ

>戦争には大義がいる。米英の両国があげた理由の最大のものが、イラクには

(1)大量破壊兵器がある

これがまず悪質なトリックで

(1)イラクには大量破壊兵器がある

であるはず。そして、米英両国は原水爆の惨禍をこうむってないので

>(2)大量破壊兵器があるときそれによる死がある

でなく

(2)イラクに大量破壊兵器があるとき、親米周辺諸国および米英にとって脅威がある

でしょう。すると、

(2)’イラクの大量破壊兵器を探索、除去して、親米周辺諸国および米英にとっての脅威を取り除こう

と自己を語る言い方で何ら問題はない。

また、

>(4)フセイン体制を打倒し、イラク国民に自由を与える



(4)’独裁者があるとき、国民に自由はない

と因果的に言い換えても何ら問題はない。

というか、米英で実際にそういう言い方はなされていると思います。因果だろうが自己を語ろうがそんなものは何とでも言い換えうるものに過ぎません。

問題は、(1)、(1)’はイラク国民は喜ばないであろうこと。(4)、(4)’はイラク国民のためになる(と米英が勝手に思い込んでいるに過ぎないかもしれない)と考えられることの矛盾にあり、より深くは、石油利権が絡んでいるのはもう明らかなようだということにあると思います。

だから結果的に米英が大義のない戦争をしたという結論には異論がないのですがね。

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re:社会性 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月10日(日)16時48分18秒

Σさんへ

> 石飛女史は私と対話をした時、大乗仏教に関する知識が希薄でした。つまり、彼女が「大乗仏教」という単語を述べてもその内容が空虚なのです。大乗の基本は六パーラミタですが、『大智度論』でもその一つだけ、たとえば「お布施」の行だけでも悟りに到れる、とちゃんと解説しています。無宗だ氏が引用する石飛女史の発言では、ブッダは論理学体系を説いたと理解しています。御布施だけで悟れるなら論理学は必要条件でなくなります。
> この点一つを取っても、彼女の「大乗」概念の空虚さは、明らかです。
なるほど。
つまり、Σさんは、

あなたがあの掲示板で「活躍?」する以前の
「部派の仏教と大乗の仏教は、対立するところもありながら、いずれも、ともにブッダの直系であると思います。」
というコメントの「大乗の仏教」という表現からは、「大乗」概念の空虚さがあなたには感じられるが、

あなたの「厳しい批判」を受けることで、彼女は勉強し、成長しました。
そして、「大乗仏教も正しい」発言をするまでに理解力が成長しました。
この「大乗仏教」という表現からは、もはや「大乗」概念の空虚さが感じられません。

ということを言いたい訳ですね?

私の乏しい感受性では、その具体的な違いはわかりませんが、Σさんの主張はわかりました。
解説ありがとうございました。

PS:
ちなみに、Σさんが、石飛女史の盟友と呼ぶ宮元教授は、
> 『大智度論』でもその一つだけ、たとえば「お布施」の行だけでも悟りに到れる、とちゃんと解説しています。

このこと等は、とっくの昔に理解しているようです。

参考:
「聖者」ガーンディーと真実
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/gandhi.html

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社会性 投稿者:Σ 投稿日: 9月10日(日)16時14分38秒

石飛女史は私と対話をした時、大乗仏教に関する知識が希薄でした。つまり、彼女が「大乗仏教」という単語を述べてもその内容が空虚なのです。大乗の基本は六パーラミタですが、『大智度論』でもその一つだけ、たとえば「お布施」の行だけでも悟りに到れる、とちゃんと解説しています。無宗だ氏が引用する石飛女史の発言では、ブッダは論理学体系を説いたと理解しています。御布施だけで悟れるなら論理学は必要条件でなくなります。
この点一つを取っても、彼女の「大乗」概念の空虚さは、明らかです。

以上−−下らなぬ愚論を振り回して、人格攻撃・誹謗中傷に終始して自己満足を味わっているプログラマーのあなたは、社会性に乏しい未熟な人のように感じられます。
道子先生から、よく人格指導を受けて下さい。

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RE:石飛女史の弁証法【補足】 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月10日(日)15時30分4秒
空王寺 碧海龍雨(あおみ りゅう)こと、Σさんへ

補足します。
つまり私には、

「大乗仏教も正しい」
というコメントと、
「部派の仏教と大乗の仏教は、対立するところもありながら、いずれも、ともにブッダの直系であると思います。」
というコメントとの間にあまり差は感じられません。

つまり、この2つのコメントの間に誰かの感化を感じることはできません。

何かにつけて自分のおかげを強調し、「恩義や感謝」を要求する人間は、とても心の卑しい人間だと私は思います。

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あちらでご活躍下さい 投稿者:Σ 投稿日: 9月10日(日)15時18分29秒

無宗ださまへ

どうぞ、あちらの掲示板でご活躍下さい。
この掲示板まで、私を追いかけて来ることはないでしょう?
ストーカーでしょうか(笑)
どうぞ、方便心論の研究をお続け下さい。そしてプログラミングの勉強も頑張って下さい。

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RE:石飛女史の弁証法 投稿者:無宗だ 投稿日: 9月10日(日)12時43分46秒

Σさん

> この発言は、私があの掲示板で「活躍?」する以前には考えられなかったものです。
> 彼女は、それまで、原始仏教原理主義的立場で発言していたからです。そのことは、あの掲示板のほかの人も知っていることですし、盟友の宮元教授が一番よく知っているでしょう。

この発言の根拠は、何でしょうか?

以下のコメントも、原始仏教原理主義的立場で発言とみなされるのでしょうか?

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2005/12/post_4fba.html
そして、部派の仏教と大乗の仏教は、対立するところもありながら、いずれも、ともにブッダの直系であると思います。今のところ、論理で手一杯なのですが、仏教史にも関心があります。いま、なぜ部派から大乗へと仏教が変遷していかなければならなかったのか、考えているところです。あ、でも「論理的に」という観点からですけど(笑)。
大衆部との関連性ですね。これから気をつけて見てみます。アドヴァイスありがとうございます。何かでるといいなぁ。がんばります。
投稿 管理人エム | 2005/12/29 22:26:53

http://manikana.cocolog-nifty.com/main/2005/10/post_ecc6.html
以上を総合して、わたしは、ブッダが説いたのは論理学体系だったのではないかと思ったわけです。実践体系としては、倫理学の体系です。アビダルマは、学問を追求する論理方面に進んだのだと思います。これに対して、龍樹は、その誤りを正そうとした。
また、一方では、般若経典は倫理方面を追求して、議論・論争にはふれない方向に進んだというのが、今のところ、到達した考えです。
投稿 管理人エム | 2005/10/29 19:22:50

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石飛女史の弁証法 投稿者:Σ 投稿日: 9月10日(日)11時13分4秒

εさまに対して、石飛女史がコメントしました。
「大乗仏教も正しい」と。
この発言は、私があの掲示板で「活躍?」する以前には考えられなかったものです。
彼女は、それまで、原始仏教原理主義的立場で発言していたからです。そのことは、あの掲示板のほかの人も知っていることですし、盟友の宮元教授が一番よく知っているでしょう。
私の「厳しい批判」を受けることで、彼女は勉強し、成長しました。
そして、「大乗仏教も正しい」発言をするまでに理解力が成長しました。
しかし、彼女に、彼女の成長を考えて、アンチテーゼを熱心に諫言した私に対しては、「恩義や感謝」を感じる心性は、まだ育っていないかもしれません。
それにしても、彼女が弁証法的に、その見解を向上させ拡大させている事実が見えたことは、一つの収穫だと思っております。

仏教に限らず良い宗教全般は、矛盾教義の併存によって成り立っています。なぜなら、弁証法的に、信徒は、ジンテーゼの認識を重ねることで、その奥義へと向上して行くことが予定されているからです。
その意味で、一部を取り出し一面的にその矛盾を「突く」というのは、あまり有効ではない、ということにもなるので、ややっこしく、厄介な話なのです(笑)。

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別異な2者の同値的すりかえの誤謬 投稿者:Σ 投稿日: 9月10日(日)10時52分41秒
εさまへ

興味深いご意見誠に有り難うございます。
εさまは、比喩として、「無限人の一生」という映画が「あります」 と仮定して下さいました。
ただ、この問題については、ラッセルの一言を引くならば、
「恐らくは、このテーマについて議論を述べる論者につきものの曖昧さによって、間違った方向へ導かれている。」
のではないか、と思います。
その曖昧さとは、たとえば一つには、その映画フィルムは1秒間に何コマで撮影されるものなのか? という物質的・技術的限定に関する曖昧さです。
よく知りませんが、1秒間に16コマとか32コマとか・・あるのでしょうが・・そうした技術的なフィルムの一コマの秒数が、「生後n年からn+1年までのエピソードは1/2^n 時間で紹介」される「限界点」になりましょう。それ以上になると、1コマ未満で撮影するということになり、事実上実現不可能になるからです。

>もちろん、物理的にこんな映画は造れませんけど、想像することはできるでしょう

というわけで、限界点を超えた1コマ未満のコマ映像を、想像するのは困難なようです(笑)

これを解決するには、一秒間に、n+1コマ送りという無限界の高速回転を実現する(それだけの負荷がかかっても決して切断されない強い)フィルムと、無限の高速フィルム送り映写機が必要です。う〜む。これも想像不可能です(笑)。
それに、一コマの幅を固定とするなら、フィルム送りはある時点から強烈な超加速的フィルム送りにしなければならない・・・(笑)。
ということは、二時間の終了近くになると高速フィルム送りになり銀幕には映像が映らなくなる、というか、人間の目では判別できないものとなり、無地の銀幕に等しくなり、そうして二時間目の終了を迎えるということになるでしょう。つまり、最後の部分が尻切れトンボになってしまいますね。(笑)

このように、数学的な観念世界(可能世界)では思考実験としての想像は自由(無制約)である(ある意味、自由度∞)けれども、現実の物質世界における諸存在は「被制約的有限」の「壁」に囲まれているように見えます。
光速が現世界の最高速度だとするならば、光速を超えた速度のフィルム送りは不可能でしょうし、相対性理論からして、超光速度ではフィルムの体(てい)を成さず崩壊してしまうことでしょう。
宇宙が加速的に膨張しているとしそれが無限に続くと仮定したとしても、膨張している外縁があるわけで、外縁たる有限が刻々突破され行く「有限の無限更新」として認識されるでしょう。

映画「無限人の一生」というパラドックス−−−こうした矛盾がなぜ惹起するか、については、カントが深く考察し、その解決を  「物自体と現象の峻別」換言すれば、「悟性の能力的限界を超えた越権的推論判断をしないこと」に求めました。
また、アンリ・ベルグソンは、「時間は細分化できない純粋連続体だ」と考えました。それを「分割可能」と考えるから矛盾が生じるのだと。
いずれにせよ、「自由すぎる想像力」が矛盾を生む可能性が指摘できます。

尤も、εさまの比喩は三浦先生のビッグバン直後の「宇宙卵」のモデル記述を私に理解させようとして出されたものですので、その点、感謝申し上げます。

確かに、映写機では著しい無理が生じるお話であっても、私が出した「宇宙卵」という宇宙の始原的な特異な状態としての「高密度・超高温・超高圧の特殊物理的環境」にあっては、特段の物理的無理(無茶)は発生しない、ということも考えられるとは思います。

しかし、ここでもカントの考察が有効です。
(a)時間経過的に因果を遡って行く遡源的連鎖系列「内」(その連続性の集合の中)に、世界(存在)は存在するのか?
(b)または、世界(存在)は、そうした遡源的系列ではない「超越的自立性」のうちに存在するのか?
という問題です。
そして、カントが「物自体」を「超越的存在」と位置づけ、「物自体の認識は不能」としたことは、後者の立場を表明するものです。
カントが(b)を採る理由は、(a)を採ると、単なる「論理的可能性の認識」に過ぎないものを、いつのまにか「実在(現実)的可能性の認識」と同値的にすりかえてしまう(無意識的な)「仮象論理による誤謬判断」の混入を許すものになってしまうからだ、ということになります。

ところで、アインシュタインは重力について一般相対性理論で幾何学的に記述することに成功したので、残りの3つの力についても幾何学的に記述できないか模索していたということです。
その後、カルツァ・クライン理論で一般相対性理論を「5次元時空」で考えることで、重力と電磁気力を平等に扱うことができたという成果をみるに到り、学者たちはこぞって「色々な余剰の高次元(10とか11次元など)」を加えた数学的世界を想定して「超ひも理論」が構築されつつあるのが現在であり、ブレーンワールド仮説やエキピロティック宇宙論が唱えられています。
このように、宇宙物理学では、「数学の自由性」の大空で、自由な想像がめぐらされています。
こうした数学的な自由な想像を、「ぶっとび過ぎている」として苦言を呈する学者も一方にいます。

但し、超ひも理論などの大統一理論に関する考究においては、多数の「論理的可能性の認識」の候補の中から、「現象事実との一致度」を調べることによって、論理写像の正しさを検証して行くことで、「実在的可能性の認識」を取捨選択して絞り込んで行くことになります。

その意味で、映画「無限人の一生」の考え方や、ビッグバン直後の「宇宙卵」における、「0」に無限に近接しつつも「0」には決して到達しない無限遡源系列の実在など−−を認めることは、物理現象事実と著しく乖離した逆理であり、こうした「論理的可能性の認識」を無制約的に受け入れるのは、極めて危険で、誤謬認識に陥る可能性が極めて大きい、と、私は考えております。

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RE:物質の外的有限と内的無限 投稿者:ε 投稿日: 9月 9日(土)22時02分3秒

私の理解する限り、数学で言う、実数の部分集合における「有限集合」と「有界集合」の違いだと思います。
有界というのは、範囲が限られていることで、A={x:0<x<1}のようなもの、有限集合というのは、B={0.1、0,7,1,1}(3個の元からなる)ように、個数が有限なものです。前者は範囲が限られていても、無数の元を持つことがあります。たとえば、Aの元、0.1、0.01、0.001、...のような系列を考えればよいでしょう。有限集合ならば、最大数と最小数がありますから有界集合ですが、有界集合は上の例のように、有限にならないことがあります。

有界集合は有限という感じがしますが、無限個の元を含むときにはゼノンのパラドクス(数学的には4つのどれもパラドクスではないですが)のように、面白い現象がいろいろ出てきます。

>ビッグクランチの瞬間というのは主観的には決して訪れず、宇宙のエネルギーの密度が無限大に近づくにつれて、情報処理の速度も速まり、知的生命の経験する出来事は無限に多くあり続けるとのこと。外的には終わりを迎える宇宙が、内的にはいつまでも続くわけですね。<

この部分について、次のような説明はどうでしょう:
「無限人の一生」という映画があります。最初の1時間では生後1年までの、次の1/2時間では、生後1年から2年までの、次の1/4時間では生後2年から3年までの生涯のエピソードが紹介され、以下同様に、生後n年からn+1年までのエピソードは1/2^n 時間で紹介される。そうすると2時間で映画は終了するのですが、それはすべての自然数nに対して、n年目のエピソードを含みます。
2時間後には無限人の墓が写り、そこには「無限に生きた人、ここに眠る」と書いてあります(笑

もちろん、物理的にこんな映画は造れませんけど、想像することはできるでしょう

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物質の外的有限と内的無限 投稿者:Σ 投稿日: 9月 8日(金)22時44分30秒

εさまへ

お返事有り難うございます。
三浦先生は、Frank J. Tipler の著書「 Physics of Immortality Modern Cosmology God and Resurrection」などを例に挙げ、

>ビッグクランチの瞬間というのは主観的には決して訪れず、宇宙のエネルギーの密度が無限大に近づくにつれて、情報処理の速度も速まり、知的生命の経験する出来事は無限に多くあり続けるとのこと。外的には終わりを迎える宇宙が、内的にはいつまでも続くわけですね。<

と語ります。

>宇宙の始まりのビッグバンという正反対の特異点についても言えるでしょう。つまり、宇宙開闢の瞬間があったとしても、内的に見ると、第一原因に相当する単位的存在はないということです。

そしてこの補足として、
■全体が有限であっても内的には無限でありうるので、単純に「第一原因」に訴えることはできない。
■ただし、メレオロジーで第一原因を構成することはできる。
■再びただし、その構成が正当であるかどうかは、議論を要する。

としています。
そして、再度このように仰いました。

>「種子としての自分」と言えるような「最初の個体」が無いという状況を私は想定しています。つまり、外的に見れば始まりがあるにしても、内的な単位としてはどこまでも遡っていけるような個体の集合です。
 {x|0<x<1}のような実数の集合モデルで考えていただければよいでしょう。物理学者に言わせると、宇宙とはそういうものらしいですから。(最近の観測結果によると、宇宙は収縮に転じず永久に膨張を続けるらしいので、ビッグクランチの訪れない{x|0<x}のようなモデルのほうが正確でしょう。ここでxは実数を模倣していますが、もちろん実際は具体的な個体(物質またはエネルギー)です。<は、時間的先行(因果的原因)の関係を表わします。

★外的には存在全体は0という下限で区切られていますが、内的には0に到達することはなく、無限に先行者が有ることになり、第一原因は有りません。
★そこで、メレオロジーの出番となり、たとえば{x|0<x<0.0000000000000001}なるxのメレオロジカルな和mを作ります。
 このmは、第一原因として認定することができると思う、というのが私の立場です。 ★mを実体として認められさえすれば、mは、自分の内部に自分を生み出す原因をすべて持っていることになるでしょう。mを構成要素にまで分割してしまうと、mを構成するいかなる特定の単位的個体も、必ず他の単位的個体に依存しているわけですが。

−−−−−−−−−−
三浦先生の見解は実に興味深いものです。 「外的には終っている(物質の滅亡)にも拘らず、内的には無終の無限存続」
このミラーとしての「外的には物質の発生がある(第一原因有り)にも拘らず、内的には無限先行原因物質が有るゆえに第一原因物質はない」という論です。
加えて、しかしメレオロジカルな和としての「全体(総体)としのm」は第一原因体と見ることが可能だろう、と。
−−−−−−−−−−−−−

思うに、三浦先生の語用法からすると、「単位的物質存在」には「外的/内的」の区別があり、「外的には有限だが内的には無限」な存在だとのことです。
これは私の語用法からすると、「単位的物質存在は(外的)有限と(内的)無限の合成体である」ということに通じますが・・・それはともあれ、

そこで
三浦先生、そしてεさまにお願いがあります。
「単位的物質存在は(全体として、という条件付けは必要?)外的には有限でも内的には無限」 について、もう少し敷衍したご説明を願えますでしょうか?
宜しくお願い申し上げます。

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RE:修正的maxD/Scc 投稿者:ε 投稿日: 9月 8日(金)06時02分45秒

Σさん、はじめまして、

今までの流れを完全には把握してないのですが、この集合{x|0<x<0.0000000000000001}
は時点の集合ではないですか?それならば、現在の標準的な物理学では、時間の最小単位はない..つまり通常の実数を使っているので三浦さんのようなモデル化でいいと思います。

ただ、これを第一原因としてよいかということについてはちょっと疑問があります。つまりこの内部構造によってそれ以後の現象が変わってくることがありうるのではないかということです

不十分な解答ですみません。

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修正的maxD/Scc 投稿者:Σ 投稿日: 9月 7日(木)22時16分23秒

εさまへ

今晩は。Σと申します。以後宜しくお願い申し上げます。
ε さまに数学者の見地から、一つ、お尋ねしたいことがあります。

以前、三浦先生にお聞きした論点ですが、少々、修正を加えたいと思います。
三浦先生も、出張からお戻りになり、ご意見があればお伺いしたいと思います。

以前、「最大限度(MAX)の依存性(D)」というものを想定しました。それは、
(1)他の存在に全面的に依存しないでは存在発生できない(発生面での依存性)
(2)他の存在に全面的に依存しないでは、生起した自己存在を一瞬たりとも維持存続させられえない(存続面での依存性)
(3)他のもの(存在又は力)に全面的に依存しないでは運動する(或いは動態となる)こと一瞬もあたわず(運動面での依存性)

以上の「3局面での全面的な他依存性」が、
ある個体(存在)に備わっている、という関係を、「Sx」で表し・・・・
としましたが、これを変更し、
「ある物質に備わっている」という関係を「Sx」で表し、ある存在(x)が他の存在(複数可)にそうした「全的依存する」関係を  Sxy と記述するとします。

「Sx」を「物質に限定」しますので、
三浦先生の見解、
>たとえば{x|0<x<0.0000000000000001}なるxのメレオロジカルな和mを作ります。このmは、第一原因として認定することができると思う、というのが私の立場です。

このような無限に微細過ぎる物質を想定可能とするのではなく、個体物質とそれ以外との境界が在る立場を採るというか、または、超ひも理論が正しいと仮定しても良いのですが、超ひも理論のように素粒子を突き詰めると、ある時点から物質ではなく「波動」になってしまうと考えた場合、そうした「無形の波動」などは物質以外として「Sx」に含まないこととします。

この場合、maxDの反対概念としての「Scc」は、物質限定ですから「不成立」、すなわち、
−−−物質世界に限るなら、「Scc」なる存在は決して発見できない−−−
と観察的にも論理的にも推測できると思うのですが、
この、仏教世界観における最大の重要論点について、どうお考えになりますでしょうか?

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体系の分岐 投稿者:φ 投稿日: 9月 7日(木)04時09分42秒

 なるほど、それはたぶん、数学は理科に比べて自由度が高く、ターミナルからの分岐可能方向が多様なせいかもしれませんね。どの結節点に戻っても新しい分岐が開拓できる、ということなのでしょう。
 たった一つの現実宇宙を相手取る自然科学では、能率を重んずると歴史は端折らざるをえないでしょうね。ヒューリスティクスとしての意義は依然科学史は持つにしても。

 あすから11日まで出張してきます。ここ自由に使っててください。
 某論理学の件は客観的決着についてはもはや疑問の余地なしと思いますが、主観的にはまだ色々ありそうだし、いずれ増補改訂版をアップしなきゃなりませんし。

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はじめまして、μさん 投稿者:ε 投稿日: 9月 7日(木)00時19分59秒

数学基礎論(logic)を勉強されているそうですね。εと申します。半年ほど前からこちらにでいりしている中高年数学教員です。前から分析哲学には興味があったので、こちらでいろいろ教えてもらって楽しんでいます。

最近、この掲示板で話題になっているウィトゲンシュタインについての評価はまさにわが意を得たりという感じです。彼の数学の哲学は本当にひどいものだと思いますが(戸田山さんなどもそういう意見のようですが)故O森さんとかN矢さんなど持ち上げる人が多いので・・

φさん、理数系の学問における歴史の軽視についてですが、少なくとも私の分野(整数論)ではそうでないと思います。初心者用のテキストで最初に出てくる定理の一つは素数の無限性に関するユークリッドの定理だし、私も19世紀の論文を読んで、それに関連する論文を書いたことがあります。もっと前のオイラーの原論文からアイディアを得ていると主張する人もいます。もっとも数学でもトポロジーなど新しい分野ではそうでないようだし、分子生物学の研究者など図書館不要論を唱える人もいると聞きました。

石飛さんの掲示板にしばらく書き込みを続けたのですが、彼女とはどうもこちらからあわせようとしても話が食い違うようです。まあ、3人ばかり意見は異なっても話の通じそうな人はみつけたのですが。

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哲学的感度 投稿者:φ 投稿日: 9月 4日(月)03時32分21秒

 N井さんたちは、篤実ながら、誇大妄想気味のところがありますね。
 「選択された自己」を論じておきながら、主観確率にも観測選択効果にも一言も注釈を入れていないあたり、感度の鈍さが見えてしまいます(御本人のポーズに反して)。もし「確率は関係なし」と言うつもりなら、無視しないで一応は論じなければ哲学にはなりませんね。

 『ブッダ論理学』の著者にも言えることですが、狭い世界で思い込みに囚われてしまうと、オープンな修正的討論という哲学的スタンスへの復帰は難しくなるようです。

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Re: 哲学、歴史、【論理学とは?】 投稿者:μ 投稿日: 9月 3日(日)22時33分25秒

 お忙しいの中、丁寧にお教えいただき、ありがとうございます。

 ラッセル『哲学入門』の最終章を参照しました。ラッセル(とそれに賛同する三浦俊彦)の哲学観に賛同してしまいました(これは理屈ではなく、感情的に)。「哲学は科学の先遣隊」という端的な表現もいいですね。
 永井均さんや中島義道さんの著作に見られる「哲学的感度」を中心に据えた哲学観にはしっくりこないものがあったのですが(ということは、私の「感度」が悪いことを意味しているのでしょうが…)。でも、「感度」争いって、「自分はこんなに素晴らしい性感帯があるんだぞ」とか「性感の悪い者は性行動には向かない」とか言っているのと同じに聞こえてしまいます(大きなお世話!)。相手を感じさせるテクニックを誇るならまだしも…。

 『ゼロからの論証』、本日入手しました。まずはパラ読みしましたが、精読するのが楽しみです(特に、ダーウィン的論理が物理学に対して持つ意義について)。
 なお、『ブッダ論理学五つの難問』も一緒に入手しました。こちらも、まずはパラ読みしました。『可能世界の哲学』で「様相論理学」や「可能世界論」を初めて知ったときのようなロジカル・ハイが得られたらいいなぁと…(実は、『可能世界の哲学』を書店でみつけてパラ見した時は、トンデモ本だと思っていったん書棚に戻したのですが、やはり気になって購入したのです)。

 では、失礼します。

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Re: 『プリンキピア・マテマティカ』への言及 投稿者:μ 投稿日: 9月 3日(日)16時12分1秒

 ご教示ありがとうございます。
 なるほど、述語論理を利用していること自体が、Fregeへの言及なのですね。我々が活動する土台そのものを創造してしまったために、創造者自身への言及が無いという…。あらためて、Fregeの偉大さ感じます。
 Principia Mathematicaの直接の引用が少ないということも、類似の現象なのでしょうね、多分。
 なお、情報科学の教科書には、よくKripkeの名が出てきますが、数理科学方面の人たち(少なくとも学部生レベル)は、Kripkeが哲学者ということもあまり知らない、というか興味が無い雰囲気です。個人的には、一見浮世離れした様相論理学のような形而上学的議論が、計算機科学の基礎理論になっていると思うだけで、ある種のエクスタシーを感じるのですが(笑)。分析哲学では、文系/理系といった区別が無意味なのだなあ、とあらためて感じます。

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哲学、歴史、【論理学とは?】 投稿者:φ 投稿日: 9月 3日(日)15時51分52秒

 ウィトゲンシュタインは『エチカ』を読んでましたかね? 過去の哲学書はほとんど読まない人だったようですが。あの明晰の権化のようなヒュームの本に対してすら「こんなもの読めたもんじゃない」と辟易していたそうです。
 ラッセルは、スピノザ大好きでした。ウィトが直観的に捉えたスピノザ的思想に、ラッセルが意識的に反応し、ウィト世に出るの目出度い結果を生んだのかもしれません。
 しかしいまだに『論考』は、専門哲学者の誰彼が「私の読みが正しい」と互いに矛盾したことを言い合っているありさまですから、ああいう書き方はどうかと思いますね。ラッセルも、前期ウィトは認めても、後期ウィトについては価値ゼロと見なしていました。

 さて、ウィトゲンシュタインの歴史嫌いじゃありませんが、
 理数系では、歴史と先端的体系とを分けて、一々歴史的背景まで言い及ばないからでしょうね、フレーゲの名が出てこない等というのは。
 たとえば今『数理論理学とタイプ理論』(丸善)をパラパラめくったところ、人名はあまり出てこず、タイプ理論の創始者であるラッセル(+PM)からして計3箇所しか言及されません。文科系の本なら、主要テーマの創始者の名は出まくりになりますけどね。  歴史の軽視は、能率的に研究するには有利なので、理数系の強みだと思われます。が、その反面、理系が哲学と境を接する分野(人間原理とか)においては、歴史的テキストの無視がトンチンカンな議論を量産しており、私たち文科系の人間を苛々させます。「理科系の学者にはテキストへの敬意がいかに乏しいか」の実例について、『ゼロからの論証』p.104で苦情を述べてしまいましたよ。(『論理学入門』の巻末ブックガイドでも)

 哲学とは何か、については、私は、ラッセル『哲学入門』(ちくま文庫)の最終章の哲学観に全面的に賛同します。「未完成の科学」「感性を保つ思弁」という二面でラッセルは捉えていますが、ともに重要でしょう。意識や宇宙の起源など、哲学の領分とされたテーマが明確な知識を生むにつれて科学へと分類し直しされてゆく。哲学は科学の先遣隊であり、哲学が「曖昧で不毛」のように見えるのは、単に見かけ上(呼び方)の問題なんですね。不毛でなくなくなった部分から「科学」と呼ばれていくのだから。
 むろん、永久に科学にはなりえないような問題も臆せず追究するのが哲学の役目で、日常性に埋没しがちな好奇心を全方位的に研ぎ澄ますのが哲学者の使命だと思っています。
 ということから帰結するのですが、
 哲学的論理学と数理論理学は、強調点の違いであって、私はほぼ同じものと捉えていますが。つまり、科学や数学の論証や基礎だけでなく日常的推論の構造までも記号化して再吟味するという数理論理学には、「形式化する(できる)とはどういうことか」という反省が必ずつきまとうので、多かれ少なかれ哲学的にならざるをえないだろうからです。数理論理学が哲学的かどうかは、程度問題でしょうね。

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もしや、ユダヤ人の伝統承継主義では? 投稿者:Σ 投稿日: 9月 3日(日)14時52分31秒

三浦先生のウィトに関する論評とその取り巻き衆批判、興味深く拝読しました。
ご見解有り難うございます。
外野の一人としてちょっと感じたこととしては、

ウィトが「論証のできない人」という評価は、「彼の著作を単独で見ると」という条件付きではないか、と思うのです。

ウィトゲンシュタイン曰く
「おそらく本書は、ここに表されている思想−−ないしそれに類似した思想−−をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」 と序に書いています。
これは「一般普遍的な論証はやらないよ宣言」 と言えるように思います。

なぜ、こんな態度をウィトは取るのでしょうか?
「ここに表されている思想乃至それに類似した思想」とは何でしょうか?

(あまり表だっては表明されない)ウィトの世界観(一元的な世界アートマン観)に共感する私から見ると、そうした思想を既に考えたことのある先哲とは・・・・・恐らくスピノザであり、彼の『エチカ』の思想であるように思います。

ここに、ユダヤ人の伝統が脈打っているように思います。ユダヤ人は若い時から『エチカ』などを基本教養として読むことが多いようだからです。
ということで、既にユダヤの先哲スピノザが成した論証を繰り返す無駄を踏むことなく、或いは、エチカの(ある意味、精緻なQ.E.D.)論証が、無信仰一般人に対しては無意味であり実効性・訴求力・説得力ともに皆無であること(「論理では倫理や宗教は語れない」参照) を深く承知した上で、
そうした条件のもとで、「スピノザ的ユダヤ世界観」を裏から超越論的に論じ直す、というところに彼の「書く行為」の主眼があったものと推察します。

ラッセルとウィトとの個人的対話の中では、『エチカ』の話題もあったかもしれません。 とすれば、ラッセルはそうしたことを折り込み済みで、合格点を与えたとも推察可能かと・・・
ちょっとそんな風に思ったりしました。

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『プリンキピア・マテマティカ』への言及 投稿者:三浦さんではありませんが 投稿日: 9月 3日(日)14時32分59秒

私がもっている『数学基礎論入門』(前原昭ニ著)には『プリンキピア・マテマティカ』へ言及がありました。
入門書関係だと名前がでてくるのではないでしょうか。

ちなみに、ゲーデルが不完全性定理を発表した論文の題名は
「『プリンピキア・マテマティカ』やその関連体系での形式的に決定不可能な命題について」というものでした。

たいていの論理学の本は
公理系PMに言及していると思いますが、そのPMが「プリンピキア・マテマチカ」
の略なのです。

フレーゲは述語論理という道具を完成させた人という感じでしょうか。
フレーゲに直接言及がなくても述語論理を使うことによってどの数理論理学の本も
間接的にフレーゲに言及していると考えればいいのではないでしょうか。

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質問2点 投稿者:μ 投稿日: 9月 3日(日)08時18分37秒

【問1:哲学とは?】
 三浦先生は,7月22日(土)14時38分57秒の投稿「部分的な回答ですが」の中で,「論理学と哲学や数学との関係をどのように考えておられますか。」という問いに関して,「失礼ながら、基礎の出来ていない人ほど、「哲学とは」といった大味な議論に飛びつきたがる傾向があるようです。」とお書きになっています.
 ですが,ご著書の一読者として,うかがいたいのですが,三浦先生にとって「哲学」を一言で定義するとどうなるのか,お教えください.

【問2:論理学とは?】
 私は数学基礎論を専攻することを考えている学生です.数学という本業で学ぶことはいくらでもあるのに,ラッセルをはじめ,「科学哲学」や「数学の哲学」といった分野も気になって仕方がありません(三浦先生の著作も私の本業を邪魔しています!).
 で,数理論理学関係の図書には,ラッセルはちらっとは出てきても,フレーゲの名を見たことがありません.『プリンキピア・マテマティカ』への言及も私は見たことがありません.
 三浦先生や野矢氏・戸田山氏等が,哲学するために利用している論理学というのは,数理論理学とよばれている分野ともまた異なったもの(哲学的論理学?)なのでしょうか?

 以上,よろしくお願いします.

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Re:re 補足 投稿者:φ 投稿日: 9月 2日(土)21時22分7秒

 たしかに謎ですねえ。
 考えられるのは、ウィトゲンシュタインは論文は絶対に書けない人だったということ。だから突っ返したらそれっきりだったでしょう。(今残っているノートのいくつかも、ラッセルが強制的に口述させています)
 前提として、『論考』がラッセルの数理哲学への批評・反論として価値があったということがありますね。ラッセル自身が自説を展開するに際して、参照文献として『論考』を世に出しておかねばいろいろやりづらかったのでしょう。(『論考』出版前から、ラッセルはウィトゲンシュタインに自著で言及しています)
 しかも数理哲学は、当時新進の萌芽的成長産業ですから、ラッセルは自説との関係は別にしてもなんとか戦力を世に出したい、と熱望していたと思われます。哲学界での数理哲学の地位固めもあるし。

 結局、論文一つ書けず、教育者が学生にお手本としてとうてい示せない著作家であるにもかかわらずメジャーになれたウィトは、時代の波の幸運に浴したということでしょう。ウィト並みの「書けない天才」は現在も世にたくさん埋もれているでしょうに。この掲示板に来てる人の中にもいそうですかね?

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re 補足 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 9月 2日(土)21時03分34秒

ちょっと三浦先生の専門外かもしれませんが、ラッセルとウィトゲンシュタインとの関係で質問があるのです。
ラッセルはなぜ「論考」を出版する手助けをしたのでしょうか?あれを突っ返して、「メモ書きではなく、ちゃんとした論文にして持ってこい」と言うこともできたはずです。どの「論考」の解説書を読んでもウィトゲンシュタインがなぜ特異な記述を行い、なおかつラッセルがそれを許容したか解説したものがありません。

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西洋vs東洋? 投稿者:φ 投稿日: 9月 2日(土)20時47分11秒

 そうですね、ただ、カバラの例が挙げられたので思ったんですが、東洋思想が含む内容はどれも、実は古来から西洋にも多かれ少なかれありそうですね。西洋神秘主義思想にもいろんなのがあって、仏教や老荘やヒンドゥーや神仙思想などに相当するものは全部あるんじゃないでしょうか(微差はあるにしても)。ネオプラトニズムとかグノーシス主義とか。だから、東洋思想よりも、西洋思想内部の諸派から西洋哲学者は影響を受けてきているような気がします。エキゾチックな箔付けがほしいときは、ショーペンハウエルのようにインド哲学の影響を公言したりするでしょうが……。

 おそらく、公理主義的な科学だけが、世界で類を見ない極端に異質な世界理解の方法であり、他の思想は、実は世界中どこにも共通した要素だと言えそうです。
 たとえば、西洋のクラシック音楽に比べると、世界中のどこの音楽も(西洋の民俗音楽も含めて)似たようなものとして聞こえる(日本の尺八もインドのヴィーナもアフリカの太鼓もアイルランドのバグパイプもアボリジニのディジリデューも、みんな同じに聞こえてきます)現象と同じではないでしょうか。東洋と西洋という区別は虚妄で、西洋でたまたま発達した例外的な科学・芸術と、西洋含め世界中に共通な直観的思考法・芸術様式があるというのが正しい気がします。
 ちなみに私は、クラシックよりインド音楽のほうがくつろげてずっと好きですけどね。
 科学や哲学はともかく、西洋芸術への東洋芸術の影響が濃いことは確かです。クラシック音楽ですら。私の一番好きな西洋音楽であるミニマルミュージックがまさにインド・アフリカ経由ですから。

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ウィト批判も大喝采です 投稿者:S・K 投稿日: 9月 2日(土)17時57分28秒

 ネスカフェ・ゴールド・ブレンドなんかのCMで、オーソン・ウェー
ルズあたりに語らせるセリフを作らせたら面白いんでしょうけど…。
ただ、ハイデッカーとか、訳の分からんことをゴチャゴチャこねくり
まわす哲学者は、結構いるような気がします。読んでるとトヨタ自動
車の勤務経験があったらよかったのに、と思うことが多々あります。
あそこは何でもA31枚にまとめさせるらしいですから。

 ところで三浦さんが「シミュレーション・アーギュメント」に共感
するというのは信じがたい話しです。創造神話の現代版でしょうが…

 私はビッグバン宇宙論や第一原因とほぼ同じ記述も、カバラの中で
見たことがありまして、なんだパクリじゃないか、と笑ってしまった
ことがあります。実を言うとラッセルの言説の中にも、20世紀初頭
のロシアやドイツで、盛んに研究されていた仏教論理学のパクリでは
ないかと思うような部分がありまして(全く偶然の産物でしょうが)、
しかしながら芸術なんかと同じで、東洋哲学もそれなりに西洋哲学に
影響を及ぼしていたのは間違いないでしょう。

 西洋哲学者の中には、思索に行き詰ると、東洋思想をぼそっと覗き
見る人が少なからずいるようですが、また素直にそのことに言及すれ
ばいいものを、キリスト教は非キリスト教の文化を<啓蒙>の対象と
してきた経緯があったりするもんだから、愛教心の強い哲学者ほど、
内緒にしていたりして…、なんてことは大いにありそうな気がします。
 もしラッセルの中にそうした証拠を見つけて頂いたら、私は絶対に
三浦さんの大ファンになります(今は小ファンです)。

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ホワイトヘッドの件,ありがとうございます 投稿者:μ 投稿日: 9月 2日(土)16時11分29秒

 あと,下でお書きになっている「ウィトの功績に仕立てる、という秘教的教祖崇拝」ですが,なるほど,と思いました.ウィトゲンシュタインを取り巻く言説というのも,ある意味,「現代論理学という権威」に基づいた『ブッダ論理学』的なものになってしまう危険があるような気がします.

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Re:ホワイトヘッドでさえ? 投稿者:φ 投稿日: 9月 2日(土)14時38分2秒

 ホワイトヘッドについては、多少アバウトなことを書いたかもしれません(エッセイなので)。
 ホワイトヘッドが哲学的な仕事を始めるのはアメリカに移ってからで、ラッセルのように数学と哲学の間に有機的な連関があるわけではないようです(あたかも『プリンキピア・マテマティカ』がラッセルただ一人の業績であるかのようにしばしば扱われてしまう主因がそれでしょう)。
 有機的といえばホワイトヘッドは「有機体の哲学」、ベルクソンなどと同様、素朴な直観を現代科学へのアンチテーゼとして立てる傾向が強いので、やはり日常言語優位派と見なせると思います。
 しかしその姿勢だと、愛国心や排外主義といった本能的衝動に抵抗できない哲学になってしまうのですね。ラッセルの偉大なところは、論理によって本能を修正しようとした謙虚さだと思います。謙虚になる勇気というか。

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ホワイトヘッドでさえ? 投稿者:μ 投稿日: 9月 2日(土)05時21分59秒

 http://russell-j.com/br100.htm の中に,「[ホワイトヘッドとウィトゲンシュタインが]日常言語の哲学的優位を信じきっていた」と書かれていますが,『プリンキピア・マテマティカ』の共著者の一人であるホワイトヘッドでさえ,「日常言語の哲学的優位を信じきっていた」のでしょうか?

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補足 投稿者:φ 投稿日: 9月 2日(土)04時29分26秒

「ラッセルはウィトゲンシュタインを飼い殺しにした」と見ているS・Kさんへ。

確かにそういう面もあるかもしれませんが、そもそもラッセルが指導教員だったからこそ、ウィトは世に出られたのでしょう。ラッセル以外には、あんな断章メモを博士論文と認めてくれる先生なんていませんでしたよ。現代はもちろん当時ですら、『論考』のあの書き方で学位が取れるなんて、夢のようなハナシです。

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Re:ウィト嫌い? 投稿者:φ 投稿日: 9月 2日(土)04時17分41秒

 ウィトゲンシュタインそのものより、ウィトを取り巻く雰囲気が嫌いですね。
 ウィトは論証のできない人です。体系だった文章が書けず、アフォリズムで鋭いアイディアを断片的に述べる。それを崇拝者たちが寄ってたかって解釈し、どう見てもウィトが言おうとしてないことまでどんどん付け加えて、ウィトの功績に仕立てる、という秘教的教祖崇拝が形成されているのです。
 これはウィトの責任ではなく、ウィト崇拝者の罪ですね。ウィト崇拝者というのは、5流6流の学者ばかりです。ラッセル崇拝者には、ポパーとかチョムスキーとかクワインとか比較的一流どころが揃ってるんですが、ウィト崇拝者には不思議とろくなのがいない。秘教的ムードに流されやすい、心の弱い人を惹きつけるタイプの哲学者がウィトゲンシュタインなのだと思います。
 弱いといえば、「日常言語で十分だから、注意深く使いさえすれば」的な、弱い人を宥めるっぽいウィト哲学の本質も私は好きになれません。〈内容は常識的、書き方は非常識〉という俗受けしやすい哲学ですから。ラッセルは逆ですね。「日常言語なんか捨てろ!」路線の非常識な内容を、端正な文章で説く。だからカルト熱は呼びにくいですが、本当はこっちのほうがブッ飛んでいて、哲学の未来は果敢なラッセル寄りの方向にあると思います。

 日常言語を軸としたラッセル-ウィト比較の手掛かりとしては、以下の拙文を御覧いただければと。(ウィトにはラストにチラッと言及してるだけですが)
http://russell-j.com/br100.htm

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ウィト嫌い? 投稿者:Σ 投稿日: 9月 1日(金)22時39分3秒

三浦先生へ

丁寧な回答有り難うございます。今後の思索の糧にさせて戴きます。これ以上、突っ込んで議論すると、私のウェブ上で発表したい論旨を登場させてしまわざるをえなくなり、不都合なので、一応、ここで止めておきます。
先生のご意見はご高見の一つとして今後、熟慮の種子と致します。

さて、「三浦先生はウィトゲンシュタインが大嫌い」だと聞き及んだ(情報ソース・丸秘・笑)のですが、差し障りがないようでしたら、その理由を簡単にお教え戴ければ嬉しく思います。三浦先生のスタンスがより一層明確に理解できると思いますので・・。
宜しくお願い申し上げます。

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Re:第9章は Re:現実の限界点(境界) 投稿者:φ 投稿日: 9月 1日(金)00時30分35秒

 アキレスと亀のパラドクスは、よく誤解されますが、無限分割とは関係ありません。あれは、単に「間違った推論」であり、状況の記述に関わる、言語のトリックです。野矢茂樹さんなどがあのパラドクスを真剣に受け止めすぎていますが、あれは単なる言語問題であり、学界ではとうの昔に解決済みです。そのことは『論理サバイバル』問005に書きました。
 アキレスと亀だけを解決するのは大変簡単なのですが、ゼノンの他のパラドクス、とくに「飛ぶ矢」をも統一的に解決しようとすると、やはり多少は無限分割の問題に立ち入らざるをえなくなりそうです。『論理サバイバル』問006〜008では、結局、0距離/0時間としての瞬間速度は不定であり、任意だ(したがって矢は動ける)という数学的事実をゼノンが知らなかったところにパラドクスの原因があった、とし、あたかも0/0=0でなければならないかのような記述のトリックがパラドクスを産んでいる、と論じておきました。が、単に「数学的にはこう」だけでは哲学的納得につながらないことも確か。私もいずれまた再考せねばならないでしょうが、「刹那滅」のことをラッセル本に書いてしまった手前、プレッシャーは大きくなっているとも言えます……。

 さて、「無限実在の推論」ですが、

1.最初の単位的存在がある場合は、それが第一原因である。
2.最初の単位的存在がない場合、無限の過去まで遡れるにせよ遡れないにせよ、ある適当な時点から前の存在者の和をとれば、第一原因と認定できる。

1.が正しい場合は、その第一原因は、ある意味で(あくまで特殊な意味で)宇宙外の超越者と同一視できるかもしれません。
2.が正しい場合は、宇宙が自存できることになり、より「自然主義的」な世界観なので私は納得しやすいですが、Σ さんの言われるとおり、「(加速や分割の)無限」を想定することは、量子論(プランクスケール)や相対論(光速)に反すると思われます。
 しかし、量子論と相対論が論理的に矛盾していることはよく知られており、その肝心なところで現代物理学は不完全です。相対論が量子論に歩み寄る形でいつか解決できると予想されているらしいですが、光速やプランクスケールが絶対のものでないことは物理学者はおおかた認めているでしょう。スケールを縮めてゆくと、そこにはまた別種の物理学が働いており、さらに縮めてもまた……と無限に続くことは十分考えられます。現代物理学は、しょせん、私たち人間のスケールを中心にして考えられた世界像であり、宇宙全体から素粒子までのほぼ中間(対数尺度で)に人間がたまたま位置しているのはあまりに都合がよすぎます。つまり私たちが中間スケールを占めているのは、物理学の制約から来る見かけ上の必然に過ぎないでしょう。私たち人間のスケールを中心にした人間中心的物理学を突破できさえすれば、どんどん無限に縮小した世界――無限分割が立ち現われてくるはずではないでしょうか。あくまで想像ですが。
 いずれにしても、形而上学的因果の真相というのは、人間の都合などとは関係ないところで決まっているはずです。人間を対数尺度のちょうど中間スケールに置いている現在の宇宙論〜素粒子論がそのまま正しいということは確率的にほとんどありえません(大筋は正しい方向に動いているとしても)。

 なお、1.の線に沿った人間原理的学説「シミュレーション・アーギュメント」(この世界の外に超越的シミュレータがいる)という考えには私は共感しており、それについては、過去ログの
http://russell-j.com/bbs-idx.htm
2003年のあたり、または『ゼロからの論証』3-1,3-2をご参照いだたければ。

 ただし「シミュレーション・アーギュメント」は、私たちの経験するこの宇宙が一番外側の絶対的現実である確率は低い、と言っているだけです。この宇宙が何段階目のコンピュータシミュレーション内であるにせよ、すべての高次シミュレータをひっくるめた実在全体の起源は何か、というところまで突き詰めると、2.の自然主義的(非-超越論的)仮説に戻らねばならなくなると思います。

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第9章は本当に天晴れでした。 投稿者:S・K 投稿日: 8月31日(木)23時15分2秒

 メールで「ラッセルのパラドクス」でやり取りさせて頂いた者です。私は、ラッセルはウィトゲンシュタインを飼い殺しにした、もしくはそれに協力した人物と見ておりまして、好きになれないんですが、第9章はきっと三浦さんの咀嚼の賜物でしょう。非常によく記述されていると感銘を受けました。三浦!よくぞ言語化してくれたっ!という感じです。ウィトゲンシュタインも少しは見習って欲しかった、と言いたいぐらいです。

 さて、ゼノンのパラドクスが何故パラドクスなのか、刹那滅や微塵という言葉を刷り込まれた仏教徒には、なかなか分かり難いものがあります。私が理解できたのはつい半年ほど前のことです。

 アリストテレスは、空間を無限分割するのと同様、時間も無限分割すればパラドクスは解消すると考えたようですが、それでは的と矢、亀とアキレスの間に、無限に潰れる空間と無限に間延びする時間=ブラックホールがあることになり、矢もまたブラックホールを抜け出すことなく、いつまで経っても的には当たらないでしょう。

 仏教は刹那滅、微塵の考えの元、時間も空間も有限回しか分割できないとするはずです。微塵がどういう大きさかについて書かれた記述は、記憶にないのですが、刹那については比喩的ながら記述された経典はいくつかありますし、刹那滅の証明についても果敢に行われてきたようです。

 刹那と微塵により、仏教的な世界観では、ゼノンのパラドクスは生じ得ないのですが、しかしながらその故に、前刹那の形象や形質(矢の飛ぶ方向や運動など)が、次の刹那に如何にして継承されていくのかという問題が残ります。

 要は放たれた矢が、的に当たる前に、瞬間的に忽然と消えても一向に構わない訳です。そこでアビダルマ仏教では、六因・四縁・五果を複雑に交錯させて、それで解決がつくと説くのですが、これが難解で、私にはさっぱり解りません。

 一方、大乗一乗思想は、本質的にはアビダルマ仏教と同じなのかもしれませんが、一即多、多即一の考えの元に、矢は、的や弓や空気抵抗、それに矢自身の軸やら羽やら、その多諸々の関係の元で飛ぶのだ、つまり関係性の故に飛ばざるを得ないのだするのですが、これがまさに第9章の「集合の系列」「センシビリア」「パースペクティブ」ではないでしょうか。

 但し、大乗一乗思想は「これ思う、故にこれあり」を更に進め、「これ思う、故にあれあり」、更には「これあり、故にあれあり」とするはずです。ラッセルはある意味、大乗一乗思想に今一歩のところまで思惟を進めた、と言ったら三浦さんは怒るでしょうか?

 現代の理論物理学の「プランク時間」や「プランク長さ」も、仏教の刹那や微塵と、ほぼ同様の結論を導き出しているようです。ブッダ論理学のネーミングには呆れますが、仏教の論理学全てが有害だなんて、どうか思わないでください。

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現実の限界点(境界)としての壁 投稿者:Σ 投稿日: 8月31日(木)23時03分13秒

三浦先生へ

三浦先生の、あちら側の人々(石飛女史やザポ氏など)への指摘は、いつ読んでも、喝采を送りたいほど、的を得ていて、気持ちが良いです。

さて、

>個体の有限集合の補集合としての無限集合は、当然、有るでしょうね。ただし無限公理を認めればですが。論理的原子ではない個体まで要素として含めてよいなら、無限公理は認められるべきだと思います。
>具体物と抽象物の区別というのは、物理学的にはほとんど意味がなくなっているらしいですから(究極の実在は粒子ではなく「波動関数」だったりするようですし)、抽象的な数のような実体を構成要素として、この世には無限のモノがあるというのが私にはしっくりくる世界観です。

なるほど、なるほど。やっぱりなあ、という感じで納得です。
老荘思想がお好きな三浦先生の世界観は私のそれと大きな隔たりはさほどないように思います。
先生の世界観は、「現象即実在」にかなり近接していると思いますし・・・。

ただ、「無限実在の推論」では、「〜の誤謬」(適当に名付けて下さい)と名付けられる「間違った推論」が混入している気がします。
たとえば、三浦先生が時速2キロで歩行して10秒後には二倍速の4キロで歩行し、さらにその10秒後にはその二倍速の8キロで走り、その10秒後には時速16キロで走り・・・とここまで観測して、ここで観測終了したとします。この結果をみて、ある人は、このまま彼は10秒ごとに二倍速で速度を上げて行くことができるだろうから、やがて光速にまで到ることが可能だ、と「限られた観測結果から推論」したとします。
このケースでは、誰でも「その推論は誤謬だ」と分かります。

なぜ誤謬なのでしょうか? それは現実の物理世界に立ちはだかる諸々の「物質的限界」があるからでしょう。思念実在論的無限論だけだと無限の加速が可能になるでしょう。しかし現実はそうではありません。
このように、現実の物理世界では、「光速最高速の壁」があります。(まだ仮説段階でしょうか)
もしこれ「光速=Max速度」説を認めるならば、先生が提出した
{x|0<x<0.0000000000000001}
についても、これを無限に認めることはおかしいのでは? という論につながります。
素粒子理論でも無限分割が認められるよりは、クウォークこそ分割不能の素粒子か、と言われていたのではないでしょうか? あるいは、スーパーストリングスを想定しても、無限分割可能論には直結しないように思います。

このように、物理世界において、個体の加速に限界があり、(ということは物質の質量にも限界があるということ?)、個体の分割にも限界があるとするならば、その限界点を超えた「(加速や分割の)無限」を想定することは、「空虚な唯名論の世界」に陥ってしまうことを意味するでしょう。

この点に関しては、どう思われますか?

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Re:後だし? 投稿者:φ 投稿日: 8月31日(木)15時26分7秒

 その前のzapoさんの投稿内容を追認しているということでしょうかね。ほとほとツッコミどころが指数関数的に増えるばかりですねえ……(憫)
 どう書こうが「自由」と言いたいようですが、それは論理学や学問でいう自由ではなく、小説や詩でいう自由ですね。多義的な「自由」概念の理解もおぼつかないとは……(嘲)

 誤解があるといけないのでとりいそぎ言いますと、戸田山和久『論理学をつくる』が、真理表を真理関数でない何かとして出しているかのような理解は間違いです。戸田山さんの本でも真理表は真理関数を示しています。
 真理関数でない真理表、というのが意味を成さないことは、常識で考えればわかるのに、まだわからない人がいるとは驚きです(微)。真理関数でないということは、真偽の出力が定まらないということですから、表に書けないはずですね。真理関数でないものは、真理表でない別の装置によって表わすしかないでしょう。

 なお、戸田山さんも「論理学の専門家」ではありません。巷の論理学のテキストは、8割方、非専門家によって書かれています。一般の読者にとっては何かに応用できてこそ論理学は意味を成すので、実際に論理学を他分野に応用している「論理学応用の専門家」によってテキストが書かれたほうが教育的だからです。「論理学応用の専門家」=「論理学のオリジナル論文を発表する専門家」ではありません。

 『ブッダ論理学』が有害なのは、論理学としてのオリジナリティを含んでいないのに、含んでいるかのように自己申告していることです。無垢な読者は著者の自己申告を信じてしまうでしょう。
 現代論理学で「命題論理学の段階ではまだこれはやらないことにします」と言われている事柄をすべて「現代論理学にはこんなことができません」に読み替えているだけ、というのがあの本の実態なのです(爆)。 それら「こんなこと」の摘出も、現代論理学のテキストに普通に書かれていることばかりで、残念ながら創意が皆無です。
 現代論理学という権威を利用して、「現代論理学にできないこんなことがブッダ論理学には出来るんです、凄いでしょう?」とアピールするという、初歩的なわら人形論法の詭弁。その手に簡単に引っかかる読者の姿を見るのは、学者としても教育者としても心底忍びないものがあります。
 虚偽を真実といつわって読者から金を取り、しかも指摘されてなお過ちを認めずに掲示板で読者を宥め続けているのですから、広義の「詐欺」に相当すると私は思うのです。(ふつう、まともな著者であれば、誤りを指摘されれば感謝して訂正するものですけどね……)

 一旦本書を信じるモードに入ってしまった素直な読者が、自分の日本語読解力に逆らってまで無理な辻褄合わせに汲々とし曖昧な蒙昧主義にはまり込んでゆく――
 最も見たくない事態ですね。

 …………
 最後にもういちど念を押しときますが、『ブッダ論理学』が真理表を真理関数でない何かとして提示してなどいないことは(もし提示していたらそれこそナンセンスだ)、「真理関数」という語が出てくる部分前後の日本語が読めれば一目瞭然なはずです。自称ブッダ論理学が真理関数的かどうかということと、真理表が真理関数かどうかということとがごっちゃになっており、著者自身も混乱したまま、場当たり的な叙述が続いています。私の勤務先の女子大の卒論ゼミにおいてすら〈不可〉をつけざるをえないレベルの文章構成と言わざるをえません。

 ま、ツッコミどころをフラれるたびに、声を大にして繰り返していくことにしましょう。  「68の指摘」も項目増改訂版をアップロードさせる日が近そうです(苦)。
 私にも愛国心があり、勤勉な日本人読者の知性を低下させるような出版物はなるべく放逐すべきだと考えているので……。

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後だし? 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月31日(木)11時54分29秒

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1766&reno=1763&oya=1671&mode=msgview&page=0
なんだそうです。

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無限 投稿者:φ 投稿日: 8月31日(木)04時10分52秒

 個体の有限集合の補集合としての無限集合は、当然、有るでしょうね。ただし無限公理を認めればですが。
 論理的原子ではない個体まで要素として含めてよいなら、無限公理は認められるべきだと思います。すでに自然数が無限個有るので、抽象的個体としての自然数の集合{0,1,2,3……}で十分ですし。
 あるいは、モノの構成には具体物が必ず係わっていなければならないとしても同じです。具体物が1個でもあれば(たとえばこの石)無限個のモノが存在します。この石と1のペア、この石と2のペア、この石と3のペア……、というふうに、いくらでも個体を作れるからです。これは、メレオロジーを自由に使って、この石、この石を二度数えて合わせたもの、三度数えて合わせたもの……と、自由に増やすのと同じこと。何かが有る場合、それがそこに1個だけ有る、2個だけ重なって有る、3個だけ重なって有る……と多重に存在している可能性をいくらでも認められるわけです。
 具体物と抽象物の区別というのは、物理学的にはほとんど意味がなくなっているらしいですから(究極の実在は粒子ではなく「波動関数」だったりするようですし)、抽象的な数のような実体を構成要素として、この世には無限のモノがあるというのが私にはしっくりくる世界観です。

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有限(なる個体)の補集合 投稿者:Σ 投稿日: 8月30日(水)22時31分6秒

三浦先生へ

>そこで、メレオロジーの出番となり、たとえば{x|0<x<0.0000000000000001}なるxのメレオロジカルな和mを作ります。このmは、第一原因として認定することができると思う、というのが私の立場です。

う〜む。そうですか、(ちょっと残念・・・笑)
そのmを第一原因として認定することはできないと思う、というのが、仏教の立場であり、私の立場でもあるのですが・・・・。

ちらっと思ったことをあと、一点のみお伺いして宜しいでしょうか?
有限(なる個体)の補集合としての、開かれた無限 を先生はお認めになる立場でしょうか?  たぶん、イエスだと推察するのですが、如何でしょうか。
(表現が不正確であればお許し下さい)

その他に関しては、先生の書物を熟読して、また、後日、書き込みしたいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

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Re:自分が自分を 投稿者:φ 投稿日: 8月30日(水)02時14分29秒

 「種子としての自分」と言えるような「最初の個体」が無いという状況を私は想定しています。
 つまり、外的に見れば始まりがあるにしても、内的な単位としてはどこまでも遡っていけるような個体の集合です。
 {x|0<x<1}のような実数の集合モデルで考えていただければよいでしょう。物理学者に言わせると、宇宙とはそういうものらしいですから。(最近の観測結果によると、宇宙は収縮に転じず永久に膨張を続けるらしいので、ビッグクランチの訪れない{x|0<x}のようなモデルのほうが正確でしょう。
 ここでxは実数を模倣していますが、もちろん実際は具体的な個体(物質またはエネルギー)です。<は、時間的先行(因果的原因)の関係を表わします。

 外的には存在全体は0という下限で区切られていますが、内的には0に到達することはなく、無限に先行者が有ることになり、第一原因は有りません。
 そこで、メレオロジーの出番となり、たとえば{x|0<x<0.0000000000000001}なるxのメレオロジカルな和mを作ります。
 このmは、第一原因として認定することができると思う、というのが私の立場です。

 ただし、前にも言ったように、そのためには、メレオロジカルな構成物を、第一原因の主体となりうるような個体と認めてよいか、という問題があります。私は、認めてよいのではないかと思いますが(素粒子の集まり、もしくは時間的切片の集まりである持続的個人や地球だって「個体」として認めうるだろうから)、認めると妙なことになることもあるので(Re:メレオロジー で最後に言及した各パラドクス参照)、注意を要します。

 mを実体として認められさえすれば、mは、自分の内部に自分を生み出す原因をすべて持っていることになるでしょう。mを構成要素にまで分割してしまうと、mを構成するいかなる特定の単位的個体も、必ず他の単位的個体に依存しているわけですが。

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自分が自分を生むパラドックス 投稿者:Σ 投稿日: 8月29日(火)21時54分24秒

三浦先生へ

ご指摘有り難うございます。学問的・論理学的な厳密さで「発生」を定義するのは難しい問題ですね・・・・課題にして取り組んでみます。

さて、それにしても・・・
「自己存在の発生面を自己にのみ全面依存する」とは「自分で自分を生む」ということを意味する(しかない)と思いますが、(1)「自分が絶無の時、完全無から自分を生むことは不可能です」し、(2)「何らかの自分の種子がある状態から自分を生む」というのなら、種子としての自分は既にあるわけですから、「自分で自分を生む」には厳密には該当せず、このケースは捨てられることになります。

とすると、そもそも、「自分が自分を生む」という依存関係事態、解決不能のパラドックスなのであって、「有り得ない」という論理になるのではないでしょうか?

以上の推論、どこかに不備がありますでしょうか?

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Re:max D 投稿者:φ 投稿日: 8月29日(火)03時11分50秒

(1)発生面(2)存続面(3)運動面 のすべてでの依存、を考えるというならば、それぞれの定義が経験的な内容を持つかぎり、論理学ではなく物理学の問題になるのでしょう。

 純粋に、ただ「依存」というのを論理的に考えるならば、そしてたとえば「より後にある(前にない)」などで依存関係をモデル化できるなら、宇宙卵は自己にのみ依存すると言えると思います。

 (1)(2)(3)も、定義次第では論理の問題になるだろうとは思いますが……。

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max D と その反対概念 投稿者:Σ 投稿日: 8月28日(月)21時45分53秒

三浦先生へ

ご丁寧な回答を賜り、痛み入りますと同時に、心から感謝申し上げます。

>これは、次のような議論でしょう。「xがyに(のみ)依存する」という関係を Fxy と書くとして、
(・・・)
>本当の単位個体まで分解すると、どれもみな以前の別の何かに依存しており、自存者は無いのだが、上記のメレオロジカルな和としての対象は、「自らの存在自体に自らの存在の存在基盤を持つ存在」ということになると思われます。
かくして、自存できるものは世界全体のみ、とする必要はなく、任意の時点以前の全てのもののメレオロジカルな和、は自存でき、「(依存連鎖のスタートたる)自己依存した第一存在」となりうるわけです。(依存しあっているのは内部の部分どうしだけです)。<

先生の想定しておられるであろう事態は、恐らく了解できたと思います。
そこで思ったことは、問題の「Fxy」について、もう少し概念内容を詰める必要があるように感じました。

「依存性」概念については「依存に強弱」が想定される以上、千差万別でしょう。
そこで、ここでは、「最大限度(MAX)の依存性(D)」というものを想定したいと思います。
(1)他の存在に全面的に依存しないでは存在発生できない(発生面での依存性)
(2)他の存在に全面的に依存しないでは、生起した自己存在を一瞬たりとも維持存続させられえない(存続面での依存性)
(3)他のもの(存在又は力)に全面的に依存しないでは運動する(或いは動態となる)こと一瞬もあたわず(運動面での依存性)

以上の「3局面での全面的な他依存性」が、ある個体(存在)に備わっている、という関係を、「Sx」で表し、 ある存在(x)が他の存在(複数可)にそうした全的依存をするという関係を  Sxy と記述するとします。

そして、ビッグバン直前の高密度超高温の宇宙物質の全的塊を想定し、それを仮に「宇宙卵」と呼ぶとして、この宇宙卵を「c」とすると、(そしてメレオロジカルな和をもここでは肯定します)
三浦先生のお考えでは、この宇宙卵の性質を「Scc」で表せる、それは論理的に可能だ、と仰られておられるのでしょうか?
私は、「最大限度の他依存性」を想定した場合、その反対概念としての「Scc」は、どうやら成立不可能であるように思われます。というか、厳密な意味での反対概念は論理的に立てられないのではないか? と思うのですが、この点、論理学的には如何なものなのでしょうか?

・その他の先生の記述に関するレスは、色々文献を勉強してから、熟考してじっくりレスさせて戴きたいと思いますので、亀レスを、どうかご容赦下さい。

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石飛氏の龍樹理解について 投稿者:ランダム 投稿日: 8月28日(月)02時49分31秒

 石飛道子さんって論理学ばかりでなく、中観仏教についても、本当にド素人ですね。

 だいたい漢訳しかない『方便心論』を、確かな文献学的証拠も示さずナーガールジュナの真筆と断定しているし、『中論』二六章をナーガールジュナの真説としているのも常識はずれ。二六章、二七章が問題含みであることは、そこらの概説書(例えば、中村元『龍樹』講談社学術文庫)にすら出てくる。
 近年の学説では、最後の二章はナーガールジュナが若い頃に著したものを付録したのではないかと推測されているが、二五章までの、本筋の縁起説とはまったく異質であることに変わりはない。丹治昭義氏は『中論釈 明らかな言葉2』(関西大学出版部)の註釈で、「26章が27章と共に、若き日の龍樹の試論であるならば、彼は当時は未だ八不の縁起までは到らず、この章の十二支縁起にとどまっていたのであろう」と指摘している。

 そういうことをどうもご存知ないのですねえ。そんな石飛さんが「龍樹の本」を出すなんて無謀では?

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↓補足的にまとめますと 投稿者:φ 投稿日: 8月27日(日)21時46分10秒

要するに、

■全体が有限であっても内的には無限でありうるので、単純に「第一原因」に訴えることはできない。
■ただし、メレオロジーで第一原因を構成することはできる。
■再びただし、その構成が正当であるかどうかは、議論を要する。

 ということです。

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Re:メレオロジー 投稿者:φ 投稿日: 8月27日(日)21時35分51秒

 Σさんがやろうとされていることは正確には掴みかねますし、論理の赴くところにしたがって結論をお出しになればよいだろうと思いますが、
さしあたり、
「?」だったと言われる以下の点について、

…………………………………
3.を成り立たせるには、2.と同様、連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、その和は世界そのものということになりますが、世界そのものは自分自身にのみ依存している、と言うことはできるでしょう。
…………………………………

修正がてらの再コメントを。

 時間順序に並んだ個物全体が、物理的に有限だったとしても、アキレスと亀じゃありませんが、内部的な視点からは無限でありうる、とはよく物理学者の言うところです。
 たとえば、この本などによると、
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0385467990/sr=1-1/qid=1156680088/ref=sr_1_1/250-1042020-3693808?ie=UTF8&s=english-books
ビッグクランチの瞬間というのは主観的には決して訪れず、宇宙のエネルギーの密度が無限大に近づくにつれて、情報処理の速度も速まり、知的生命の経験する出来事は無限に多くあり続けるとのこと。外的には終わりを迎える宇宙が、内的にはいつまでも続くわけですね。「走馬燈の原理」とでも言いますか。
 これは、宇宙の始まりのビッグバンという正反対の特異点についても言えるでしょう。つまり、宇宙開闢の瞬間があったとしても、内的に見ると、第一原因に相当する単位的存在はないということです。

 前回、宇宙(世界)全体に自存者の候補を限定したので不明確になったようなので、

 >連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、

 と言ったのを今回はもっと一般的に修正して、

 >連鎖のある時点以前の個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、

とし(たとえばビッグバン後1秒間までの出来事をすべてまとめて対象扱いする)、それが第一原因だとすることもできるでしょう。
 本当の単位個体まで分解すると、どれもみな以前の別の何かに依存しており、自存者は無いのだが、上記のメレオロジカルな和としての対象は、「自らの存在自体に自らの存在の存在基盤を持つ存在」ということになると思われます。

 かくして、
 自存できるものは世界全体のみ、とする必要はなく、任意の時点以前の全てのもののメレオロジカルな和、は自存でき、「(依存連鎖のスタートたる)自己依存した第一存在」となりうるわけです。(依存しあっているのは内部の部分どうしだけです)。

 ただし、メレオロジカルな和というものを実在的な対象と認めてよいかどうかは議論の分かれるところでしょう。
 認めると好都合な例として、 『論理パラドクス』問049「スマリヤンのパラドクス」問050「影のパラドクス」、
 認めると不都合な例として
 問051「1001匹の猫のパラドクス」
が参考になるかと思います。
 逆に、メレオロジカルな差(分割)の不都合については、
 『心理パラドクス』問011「日蝕のパラドクス」で論じました。

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山岡 投稿者:四朗 投稿日: 8月27日(日)12時54分14秒

ただの生き様だろ。
究極は輪廻転生、至高は天国と地獄みたいなもん。全体は除けとく。
天国と地獄を利用した大衆教化と取られたから、反発を招いただけ。
フゥハハハーハァー。

このレスはフィクションです。実在する個人・団体とは一切関係がありません。

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メレオロジー 投稿者:Σ 投稿日: 8月27日(日)09時38分26秒

三浦先生へ

ご教示、誠に有り難うございます。心の底から感謝致します。国府台に聳え立ち市川一円そして東京・千葉を見渡せ、周囲の住人にしても羨望の的であろう、かの高層ビルの一室で研究と教鞭をとっておられるであろう先生に対して、江戸川の土手沿いから合掌して、私の心からの感謝を表したいと思います。

>ただし、世界を〈諸存在をメンバーとする集合〉ととらえるのか、〈諸存在を部分とするメレオロジカルな全体〉ととらえるのかについて、一貫しているべきでしょう。そのあたりは『論理学入門』第11節で、「空世界」との関連で論じました。

先生のご指摘を受けて「メレオロジー」を検索して勉強してから『論理学入門』第11節を再度読み返したところ、実にその内容がよく分かりました。そういう深いことが述べられていたのですね。素晴らしいです。

以下、検索して勉強したことの一部です。 R.カサティと A.C.ヴァルツィ。(・・・)この世界は複数のオントロジーの並立を許容するものでなければならないとの信念で、諸オントロジーを横断するような性格を持つ理論、彼らに同調し、時にコラボするB.スミスらは、このような性格を持つ理論を「形式的存在論(formal ontology)と呼ぶこと。(・・・)理論的発展を遂げつつある仮定において、前提とすべきものが自明でない場合に、それらをオントロジーとして抽出・整理する作業は、「形式的存在論」の重要な役割の一つであり、
メレオロジーも、そのような役割を担う場面では、形式的存在論の具体例の一つとみなされ得ること。
メレオロジー(部分−全体の理論)とはフッサール『論理学研究』第三研究にそのアイデアをみることのできる理論であり、その基本的な問題意識は、単なる寄せ集めと内的な関係をもった全体を区別することにある。前者を「メレオロジカルな和」と呼ぶ。メレオロジカルな和では、存在の種や類、抽象・具体に関係なくくっつけて一つの存在と扱うことができる。また、彼が行った後者としては「時間」がありますね。
−−−

「◎ (=○の中に+)」記号についての記述を見付けました。この記号は「排他的論理和」を表す。排他的論理和とは、 2つの命題X および命題Y において、どちらか一方が真の場合のみ真となる論理だと。
三浦先生の記述をみると、この記号をメレオロジカルな和でも使うのですね。

>ただし、ここで「集合」という語を、「存在するものすべて」という網羅的な意味で用いているなら話は別です。(・・・)「存在するものすべて」の中には Fccなるcが入ってきますから、世界は
「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在の集合」から成っている、とは言えなくなります。「集合」という語の意味をこのように変えれば、2.の論証は正しくなるでしょう。

有り難うございます。まさに、仏教では、<「一切の存在」(但しこの概念範囲が問題。複数形で数えられる諸存在)は縁起によるもの>、と言われるので、私の舌足らずな論の意図もそこに有ります。
思うに、「有限/無限」という概念の相対性からして、私が提出した「他存在依存性」の論証では、前者、すなわち−−“有限な”存在一切−−という限定付けをしたい意図があります。
これについては、「∀x」 と表現しつつも同時にどういう記号で「xの有限という限定」を付記すれば良いのか、論理学の初心者である私には分かりませんが・・。

私の主張したい立場は、恐らく、ラッセルの「無限公理」を否定する立場になるのだと思います。
まずもって、無限公理に代替する「有限公理」として、「世界(宇宙)」を物理的な有限存在のメレオロジカルな総和とする存在論に立脚することにします。そして、有限公理の「根拠」を一つには相対性理論の「光速度不変の原則」の肯定の立場と、それともう一つ、何でしたか、宇宙を構成する「四つの力」の関係で、ビッグバンで始まった膨張宇宙が或る時点で極点的限界点を迎えて突如反転し収縮し始める、という「あの仮説」を肯定する宇宙論に立つことにします。
つまり、リアル存在論としては、唯名論的・観念的・数学的な「無限性」を否定して、「現実世界においては『(実)無限』には決して到れない限界点(臨界点)としての壁が有る」という立場を採ることにします。このように、物理的宇宙も有限、その空間も有限、その時間も有限、という立場に限定するならば、無限の過去における宇宙開闢という論は成立の余地がなく捨てられるので、そうした反論を回避することができます。

このように、「有限公理」として、「世界(宇宙)」を、「物理的な有限存在のメレオロジカルな和」とする存在論に立脚するならば、「(依存連鎖のスタートたる)自己依存した第一存在」が論理必然的に要請される運びとなる、として良いわけですね。
ここまで来れば、まずは、ひと安心です。

>以上のように考えれば、4.の結論は出てきそうです。「これだけ(この集合単独)では存在し得ない」という言い回しが、好意的にとれば、「世界が「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在」のみから成っていることはありえない」という意味だと受け取れるので、依存しあう存在全体の和もまた存在だと考えることにより、自存する存在が少なくとも一つはなければならないことになるからです。 というわけで、「集合」という語の意味を修正し、3.にも2.の論法を適用することにすれば、この議論は正しくなると思われます。

誠に、心からの感謝です。有り難うございます!
この議論が見事に成立論証された場合、日本に跳梁跋扈する似非仏教は完全に一掃され駆逐されるほどの原水爆級の威力があると私は考えています。
不備のない論証になれば、三浦先生のご協力の賜物ですので、感謝無限大です。

>(・・・)2.と同様、連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、その和は世界そのものということになりますが、世界そのものは自分自身にのみ依存している、と言うことはできるでしょう。

先生のコメントのこの部分だけ、「?」でした。
現実の「物理的宇宙世界」の「諸存在」を一つ一つ個別に解析して行くと、「Fcc」という性質の存在物は決して発見できないはずですし・・・それに、他存在への依存性が巡り巡って自己存在への依存として戻って来るという意味での「遠大な相互依存関係」すなわち「他存在への依存連鎖におけるウロボロスの蛇(環)」、こうした形のメレオロジカルな和として、「世界全体が一個のFccとして成立する」、とすると考えることは、時間の有限性と順次性(流れ行く性質)を認める限りにおいては、(成立)不可能である、と思われますが、如何でしょうか?

ここが否定されてこそ、私の主張の眼目、「無自性存在群、単独成立の幻想(誤謬)」という「人の転倒した謬見」の論証となるわけですので・・・。

この時、「有限世界そのものは自分自身に依存している」とは言えない、この悩ましき矛盾・・・・
そして、ここで、シャーロック・ホームズの探偵公理−−「ありうべからざるものを除去して行けば、あとに残ったのがいかに信じがたいものであっても、それが事実に相違ない」−−からすると、「世界の一切の有限物」とは異なる、別次元(又は不可視)の(超越的な)「無限なる」自存・自己依存の存在g(記号で表すと「Fgg」)が炙り出されざるをえない、という論法になります。
この「結論部分」に関しては、三浦先生も異論がおありでしょうから同意は求めませんが、あくまで、「限定条件の中での論証の運び」としての正しさ妥当性として検証して戴ければ、嬉しく存じます。

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超越論的還元 投稿者:Σ 投稿日: 8月26日(土)22時52分53秒

▼ヒロヘロさんとハムさんの輪廻のやりとりに対して一言。

多分、ブッダの「無記」たる「沈黙の態度」が「輪廻問題」に関しても適用した「ブッダの真意」はどこにあったのか、という論点だと思います。

以下は私独自の主張であれば著作権を主張する「説」になりますが(既に誰か述べているでしょうか?)
<ブッダの「無記」は、フッサールの「超越論的還元」という方法的操作に該当、もしくは酷似する、と理解すべきである> (碧海龍雨)
ということになります。即ち、「超越的な存在」の定立に関して否定も肯定もせずその決定を判断停止(エポケー)として、現象学固有の領域から除外するという「超越論的還元」 です。
こうした「超越論的還元」操作によって一切の超越的存在を排除してもなお残存するものが「現象学的剰余」としての「X意識」である、という、このユダヤ人哲学者による、一種のジュニャーナ・ヨーガ・・・。

あちらの掲示板で、「超越神の有無」について、実に下らない議論が展開され私もそれを冗談半分でいじくっていますが、原始仏教の釈尊本人の態度と技法は、この問題に対しては明確に無記の沈黙であったことでしょう。その点で言えば、私の挑発に乗って「その有無」を論じ反駁するあちらの人は、「原始仏教支持派」であるはずなのに無記を守らないので、その実、似非原始仏教支持派である、ということがおのずと証明されるという仕組みになっております。
大乗や密教では、ブッダの「無記の沈黙」に対する後日の補遺(又は蛇足)として、超越的存在としての大日・法身が語られるという流れになり、その副作用として、「超越論的還元」の旨味がなくなる、もしくは著しく減殺されてしまう、ということになります。

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ハムさんへ 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月26日(土)21時39分36秒

はじめまして。
輪廻に関して、もう少し多角的に精査されてからご発言下さい。脱力してしまいます。
私は「輪廻」の定義について触れたつもりです。それぐらいは読解してください。
「輪廻=生まれかわり」という先入観を持つのは愚劣です。

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仏教掲示板? 投稿者:ハム 投稿日: 8月26日(土)20時24分49秒

ここもすっかり仏教掲示板になってしまったようです。

仏教と一口にいっても、昔ながらの漢文の仏教と今流行の原始仏教とがあり、原始仏教というのは宗派の一つだと思っていた方がいいようです。
我々日本人になじみが深いのが漢文の仏教で、これは聖徳太子の時代から日本の文化に深く根ざしています。
南方アジア諸国に伝わった原始仏教は、近年になってその原典を欧米人が持ち帰り研究され、日本に輸入されてきました。
現在では書店の仏教コーナーの半分以上?が原始仏教の書籍で埋め尽くされています。 漢文仏教の阿含経が原始仏教とほぼ同じ内容だと聞いていますが、我々にはなじみが薄いのでその説くところは新鮮に感じられたりもします。

仏教に限らず宗教の最大の問題は、演繹や帰納ではない「悟り」によって説かれる、ということだと思います。
小さな悟りから大悟まで、人の数だけ悟りはあるのでしょう。
そのような個人の認識の遊戯よりも、客観的で合理的な認識を目指す科学の方が普遍性があり、世のため人のためになると思いませんか。

・輪廻について

例えば、スッタニパータにこういう文言があります。
>730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

この文言が釈尊のものであれば、釈尊は輪廻について肯定的に論じていることになります。
釈尊にとって輪廻は、自明の真理だったのではないかと思われます。

原始仏教等の宗派?によって、解釈が違うのだということならば、私はなんの興味もありません。

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輪廻について 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月26日(土)14時36分9秒

輪廻について文献をもとに詳細を語るには何冊もの専門書を出版せねばなりません。
今、簡単に最低限の説明を致しますと。。。

(1)輪廻とは釈尊在世以前から現在に至るまでインドの一般通念として存在する
(2)因果応報・自業自得もインドの通念

というインドでの常識を抑えた上で釈尊の思想を紹介しましょう
(ア)生まれ変わり死に変わりという「輪廻転生」は不可知として論外にした
(イ)そのような輪廻転生によって因果応報・自業自得に縛られて生きる宿命論を否定し
(ウ)そのような当時の輪廻思想からの開放(解脱)を目指した
(エ)しかし人生観として、生存のあり方の変化、心の不安定の理由を業(おこない)とし
(オ)このような悪因苦果・善因楽果という心の循環を「輪廻」であるとした
(カ)昨日の憂いと今日の喜び、明日への不安という尽きない状態からの脱出も解脱とよぶ

しかし時代が下り部派仏教になると、一般通念迎合し輪廻転生を受け入れることになります。そのことを否定しようとしたのが大乗だったのですが、否定しきることが出来ないジレンマに陥るのです。このような歴史的事実を鑑みずに「死を基軸にした輪廻」を語る人を私は学者と認めません。

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Re:他存在依存性 Re:余計なこと 投稿者:φ 投稿日: 8月26日(土)03時15分12秒

 これは数論でモデル化できる問題のような感じもするので、私よりεさんのほうが的確に答えられそうな気もしますが、まあ、やってみますか。

 2.で言われているように、「相互依存ペア」を認めるならば、そのペアを一つと見ることによって、「自己自身に存在基盤を持つ存在」を措定できます。
 しかし、以下の結論(2.の結論)が問題です。

  >ゆえに、結論的には、「相互依存性ペア」を認めることはできない。

 これは、次のような議論でしょう。「xがyに(のみ)依存する」という関係を Fxy と書くとして、
  FabかつFbaなるa,bがあるとき、c=a◎bがあり(◎は、一つにまとめたもの(メレオロジカルな和)を示す記号。実際は、+を○で囲んだ記号)、cは Fccを満たす。
 cがある以上、a,bのペアは存在しない。

 上の論証は、「集合」という概念を厳密にとるかぎり、成り立ちません。
 a,bがあるとき、c=a◎bがある ことを認めたとしても、そのcを除外して、aとbのみを含む(そしてaとbに依存する多くのものを含む)集合が措定できるからです。
 つまり、{a,b,a◎b,d,e……}という集合があるからといって、{a,b,d,e……}という集合が無くなったことにはなりません。
 よって、a◎bの存在を認めたとしても、a,bという「相互依存性ペア」の存在の妨げにはなりません。

 ただし、ここで「集合」という語を、「存在するものすべて」という網羅的な意味で用いているなら話は別です。
 a,bがあるとき必ずc=a◎bがあることを認めるかぎり「存在するものすべて」の中には Fccなるcが入ってきますから、世界は「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在の集合」から成っている、とは言えなくなります。
 「集合」という語の意味をこのように変えれば、2.の論証は正しくなるでしょう。

 3.については、「第一存在」があると認めれば論証も認められるでしょうが、「第一存在」の存在は論理的に保証されないでしょう。たとえば、世界が無限の過去から始まったと考えられるなら第一原因はないことになる。また、かりに、世界の始まりがN時間前だと仮定したとしても、今からN/2時間前、N/4時間前、N/8時間前……と遡って行くとどこまでも以前の出来事を措定でき、すべてはその前の何かに依存している、というモデルが考えられるからです。
 ここでも、3.を成り立たせるには、2.と同様、連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、その和は世界そのものということになりますが、世界そのものは自分自身にのみ依存している、と言うことはできるでしょう。

 以上のように考えれば、4.の結論は出てきそうです。
 「これだけ(この集合単独)では存在し得ない」という言い回しが、好意的にとれば、「世界が「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在」のみから成っていることはありえない」という意味だと受け取れるので、依存しあう存在全体の和もまた存在だと考えることにより、自存する存在が少なくとも一つはなければならないことになるからです。

 というわけで、「集合」という語の意味を修正し、3.にも2.の論法を適用することにすれば、この議論は正しくなると思われます。

 ただし、世界を〈諸存在をメンバーとする集合〉ととらえるのか、〈諸存在を部分とするメレオロジカルな全体〉ととらえるのかについて、一貫しているべきでしょう。そのあたりは『論理学入門』第11節で、「空世界」との関連で論じました。

………………………
 λさん

 「触れられたくない部分に触れられると」とは、たとえばどういう場面でしたでしょうか? 私は自覚がないのでご指摘いただけると有り難いですが……、

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εさんへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月25日(金)23時10分28秒

>部分的に述語論理の式が現れますが、もちろん正当に使用されています。

私も初めてインド論理学の中に述語論理の概念を一部取り入れている可能性を見たときには驚きました。日本では北川秀則という仏教学者が「中期大乗仏教の論理学」という論文を1974年に発表しています。で、この方は仏教学が専門で、論理学はアリストテレスの定言三段論法しか知らないので大変な苦労をして論を進めていくのですが(読んでいるほうも多分論理学の知識がないと何を言っているのかわからないでしょうが)、読んでいくうちに段々私は顔色が青くなってきました。6cのディグナーガというの学僧の論理学について書かれた論文ですが、この学僧の書いている文章、解釈の仕方では「述語論理」ととれる形式で文章を書いているんです。

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他存在依存性存在の集合論 投稿者:Σ 投稿日: 8月25日(金)23時07分12秒

三浦先生へ

三浦先生の「論理学入門」における「観念論と素朴実在論」の論理学的分析は素晴らしいです。無益徒労な議論が仏教世界では横行していますが、それらを一網打尽にする解析ですね。実に、素晴らしいと思っています。
さて、先生が仏教について一切知識がないと仮定しても、それは何の障害にもなりません。
一つお願いなのですが、できましたら、以下の「論考」について、先生の論理学的分析眼の見地から、論理の妥当性について、解析して戴けたら嬉しく思います。
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■「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在(=自己の存在基盤を他存在に依存する存在、換言すると、存在発生と存続に関し、自己以外の他に、全面的に依存する存在)  の集合」 についての考察

1.この集合は、「自分自身を要素としない集合」である。
  (これは多分どうでも良いことかもしれませんが・・・笑)。

2.(重要論点)
Q.存在基盤の相互依存性(互助性)を認めることはできるか?
 仮に今、それを「認めることができる」と仮定してみると、次のような結論になる。
 この場合、まずは、一番単純なモデルとして、「たった一組のペアの相互依存の存在」を措定した上で、それに諸存在がおんぶに抱っこで一方的に他存在に依存の連鎖をする、というパターンが最初に想定されよう。
そして、その「たった一組の相互ペア存在」が(何らかの理由で)消滅してしまうと、・・・・全存在の全消滅という事態になる。
では、この「相互依存ペア」を複数個想定する・・・または無限個想定すると、どうか?
すると、他存在への依存性による「連鎖消滅性」も消滅してしまうことがわかる。
このことから、相互依存性ペアを認めることは、結局、婉曲的に、「自己自身に存在基盤を持つ存在」を肯定しているのと同じことを意味していることになる、とわかる。
つまり、相互依存のペアを「一つ」とみれば、「自己自身に存在基盤を持つ存在」ということになってしまうからである。
ゆえに、結論的には、「相互依存性ペア」を認めることはできない。

3.存在発生の時間的順序性(−−時間的に順番に「他存在への依存」によって諸存在の発生・存立が起こる、とする順次性)を認めると、「他存在への依存連鎖」の最初となる出発的たる「第一存在」だけは「自己自身に存在基盤」がなければ論理的ではなくなってしまう。

4.以上により、この主題としての、
  「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在(=自己の存在基盤を他存在に依存する存在、換言すると、存在発生と存続に関し、自己以外の他に、全面的に依存する存在)  の集合」  は、これだけ(この集合単独)では存在し得ない、と結論される。

(仏教用語「無自性」を使用すると、4.は、「無自性存在群単独成立の不可能性の論証」、ということになりますが・・・・)

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以上について、論理学的に、正しい運びか否か、分析の鋭いメスを入れて戴きたく、お願い申し上げます。

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(無題) 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月25日(金)22時23分46秒

三浦先生、私は「見る修行」なんかしていませんよ。

話を認識論に置き換えます。
P116−122に「十二支縁起」という仏教を聞きかじっている人の他は聞いたこともないような「概念」の話が書かれています。しかもこれを女史はブッダが説かれたゆえに実際にある「もの」だ。ということで話を展開させています。
しかし、誰も十二支縁起なんていうものを「単なる言葉」としてみているだけで、その言葉に対応する「実物」なんて見たことなんかないわけです。
この話ってどこかで見たことがありませんか?そう、キリスト教における「神」が実在するか否かと対応するわけです。
散々キリスト教の「神」なんて想像の産物じゃないかと一部の仏教学者は馬鹿にするわけですが、自分の足元に同じものが転がっている事に気づかない。で私は彼らを散々に馬鹿にするわけです。あなた方も同じことをやっているだけだ。ってね。

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余計なこと 投稿者:λ 投稿日: 8月25日(金)17時14分54秒

φさんへ

 拒絶反応を抑えながら楽しく読ませていただいてます。
 同意できない部分が多いのですが、言いたいことは大体理解できます。
 気になるのは挑発的な語句の乱発です。
 他の人との意見交換を見ても、触れられたくない部分に触れられると、途端に取り乱してしまうように感じられます。
 小説家としての側面が突然顔を出すのかもしれませんが、苦しいときこそもう少し落ち着いた書き方をしてくれたらなあと余計なことを思ってしまいます。

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マティラル 投稿者:ε 投稿日: 8月25日(金)01時14分53秒

向こうの掲示板にけっこう入り浸ってしまいました・・
私の意見に、少なくとも部分的には賛同する方は何人かいらっしゃるようです。

石飛さんが書評していた「Indian logic」を購入したので、その中のマティラルの Introduction to Indian logicという概説論文を読んでみました。そこにはインドと西洋での「論理学」の意味するものの違いについて、丁寧に解説してあり、'Indian logic is not formal logic'と書いてあります。また、インド論理学が数学ではなく文法学から発展したものであること、サンスクリット文法とストローソンの'feature−placing'言語(よく知りませんが、個体がなく、場所とその性質を語彙とする想像上の言語らしい)との類似性など興味深い話題が述べられています。部分的に述語論理の式が現れますが、もちろん正当に使用されています。分析哲学についてもかなり造詣のある人のようです。

-------------------------------------------------------------------------------- 論理と正見のジレンマ 投稿者:φ 投稿日: 8月25日(金)00時30分15秒

 現代論理学の方面から批判されると(批判などという高尚なレベルではなく、単に無理解の指摘ですが)「あるがままを見る」へ逃避する。
 すると、「見る」修行をしている実践者の挑戦を受けねばならぬ。という〈ジレンマ〉ですね。
 トンデモ本を出して無垢な読者を欺いてしまった罪滅ぼしに、誠実な対応が成されることを期待したいところです。

 なお、私に限らず分析哲学で仕事している人間は、現代論理学抜きには1行も書けません。私たちが論理学に頼る度合は、物理学者が数学を使う度合に等しいといって過言ではないでしょう。

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では、私からの質問 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)23時27分55秒

「現代の仏教学者は、自分の仏教学をじっさいの自分の実践に使ったことがあるのか」
ですかね。最近、「仏教学者」は単に言葉尻を捉えた遊びをやっているだけだと言う疑念が宮元氏や石飛氏の言動を読んでいると消えないんですよ。

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だそうです。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)22時39分51秒

>わたしとしては、先の構成的ディレンマの回答に関連して、「現代論理学で『語る』とは何か」という問題をプレゼントしたいと思います。現代論理学は何を語りうるか、また、何を語りえないか、この点、明確にしていただきたいと思っています。
あるいは、「現代論理学者は、自分の論理学をじっさいの自分の哲学的な考察に使ったことがあるのか」でもいいかもしれません。

「自分は使っている」といいたいようなのですが。。。。
間違った思想なら、むしろそのような思想は捨て去ったほうが「あるがまま」を見ることができるのに。と私は思います。

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あおみさまへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)22時25分42秒

私とあなたでは意見を異にすることが多々ありますが、この一点に対しては完全に同意します。

>宗教を血がにじむほど修行して来た者である私に言わせてもらえば、この浅薄さは冗談では済みません。
冗談どころか私は三浦さまに対する討論の際に「あるがまま」という言葉を平気で使うのを見て少々気分を害しています。
仏教においてはどの宗派においても「あるがまま」≒正見でしょうが特に真宗においてはこの言葉は非常に重要な意味を持ちます。「あるがまま」と言う言葉をあのような文脈で使った時点で女史は何に対しても「あるがまま」に見たことがない方だというのがよく解りました。うそ八百の弁明を真面目な顔をして平気で言う方だとは思いませんでしたね。

>神秘的直観」とは何か?「神秘」という言葉の意味がよくわかりません。修行していけば、ものの微細な面が見えてくるのはあたりまえだし、心の流れも意識できてくるし、心の働きも抑えることができてくるし、あらゆることはある意味必然的な様相を帯びて起こってきます。ヨーガが進むと神通をえられたりするのは、そんなにめずらしいことでもないです。

なら、「ご自分で試してごらん」と言いたくなるんですよ。

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先に結論を言われた。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)21時47分54秒

レポートを提出しようと思いましたが、ヒロヘロさまが、私が書こうとした結論を先に述べてしまいましたので無しにします。

>仏教思想哲学には現代科学では今だ解き明かされていない真実や真理が隠されており、それらはすべて論理的、科学的に妥当なものとして証明できるものである」という考え方を否定し続けています。

私の立場としては仏教は倫理学、ないしは人生哲学としては従うべき意見があると考えます。
但し、同時に仏教に付随して発達した認識論・論理学などは仏教の教えの中に止まっているが故に、現実より経典の字句に対して忠実であり続けようとするために実証不可能なものになっている、と考えます。

例えばP116〜P122の十二支縁起の記述を見てみましょう。十二支縁起のブッダの教説における重要性をそれだけ強調するのなら、仏教とは実践論なのですから、実際に自分で修行して確かめるべきです。「存在論的認識論体系」などというのなら「彼は禅定という行法を十分活用して見たり知ったりしているのである。これも訓練されていないふつうの感覚器官や心しか持たないわたしたちにはきびしい内容である」(P119)などと言うのは単なる言い訳に過ぎません。自分自身で認識できない時点でそれは「単なる神秘主義の概念の中の一つ」であり「神」などの実証不可能な概念と同列に扱うべきです。

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石飛女史の学問射程 投稿者:Σ 投稿日: 8月24日(木)21時07分16秒

ヒロヘロさんへ

思うに、三浦先生の指摘で明らかな通り、石飛女史は論理学の理解について悲惨なほどボロボロなわけですが、インド哲学においても主流の一元論哲学について全くの無知識であったことは私の驚きでした。その上、大乗仏教についてもほとんどフォローしていないように見受けられます。大乗八宗の祖と言われる「龍樹」を研究していながら、大乗八宗についての理解は殆ど無いと推察されます。ゆえに、唯識の知識も皆無に近いと思います。
ということで、結局、彼女は、「原始仏教」だけを真の仏教だと思う、世界のどこにでもいる宗教ファンダメンタリスト系列の人であり、「仏教原理主義の一人」である、というのが、私の解析結果です。
但し、彼女は「自分は仏教徒ではなく(客観的な)単なる研究者だ」と述べるので、ここにおいても、魂が入っていません。
おえに、浅墓な知識に基づくだけの「タコ壺的な仏教原理主義」に立脚する、門外漢(女)の「無明のたわごとを書きつらねる戯論学者」、と位置づけるのが一番正確ではないか、思っております。
彼女は「戯論が寂滅してきた〜」と書き込んでいますが、宗教を血がにじむほど修行して来た者である私に言わせてもらえば、この浅墓さは冗談では済みません。
「適切な裁きは神がなさる」でありましょう。

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本日の要点 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時46分9秒

つまり、ヨーギンの認識主体について石飛氏が語る場合、ヨーガ・アーチャーラー(瑜伽行派)の唯識を飛ばしているのは片手落ちであり、「ハイやり直し」ということを言いたかったのです。長文ごめんなさい。

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論理学について(蛇足) 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時42分46秒

私は仏教に関して論理的に正しいものであるという立場を取りません。ニューエイジたちをはじめとする「仏教思想哲学には現代科学では今だ解き明かされていない真実や真理が隠されており、それらはすべて論理的、科学的に妥当なものとして証明できるものである」という考え方を否定し続けています。ニヤーヤ学派を文献学的に研究されてきた石飛氏がこれらユーエイジたちと変わらない主張をされることは誠に嘆かわしいことです。私より遙に広範囲で深く多い文献に携わって、多くの論文を出し、学生たちを指導されているのだからもう少し省察して欲しいものです。私のような「論理学ヲタ」にすぐ指摘されるようじゃダメですね。

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世親唯識(2) 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時35分11秒

世親唯識ではこの論法で「無我」を立証します。無我とは我が無いことではなく、我の否定です。仏教における世界観と人間観として「無常」と「無我」とが一般的に伝わっておりますが、本来は倫理的に世界を規定していこうとします。ダンマパダなど、最古層からの文献がそれを証明しています。しかし、部派仏教が盛んになると「有」を措定し、刹那滅という新概念で無常を弁証していこうとするのです。刹那滅を差し引くすると、仏教ではなくなってしまいます。それを経量部や世親は刹那とは仮に決めた時間単位であり、実際に生じては滅しているわけではないと論駁をはじめます。特に唯識学派では「世界は心の投影であり、刹那生滅しているわけではない」と言い切ります。しかし刹那という概念は非常に物事を説明しやすいので多用するのですが。

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世親唯識 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時23分19秒

世親唯識では認識作用の内容が対象であり、世界そのものであると定義づけています。
認識主体があって、対象を認識するのではありません。よって、その認識を離れて、認識対象なる外界は認められないと結論付けます。
それではなぜ認識作用が起こるのでしょうか?それは「業による」とします。
これ以上は『唯識二十論』で確認してください。論理的に見れば、詭弁ばかりですが。。。

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認識主体について 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時17分31秒

石飛氏は恐らく「認識主体という概念が存在しない認識」が仏教思想の中にあることを知らないのでしょうね。世親、安慧流の認識論には基本的に認識主体を認めませんが、別の唯識学派では認めるようになります。後期論理学認識論では仏教の認識論を大きく4つに分けますが、「認識主体」については当り前すぎるのか、はっきりとは言及していません。4つとは説一切有部・経量部・瑜伽行唯識派・中観派です。この中でも多くの派に分けて、論理学や認識論を説明していくのですが、その哲学傾向がチベットに伝わるのです。

瑜伽行唯識派の中で「認識主体の有無」に関連する論争がありますが、これもやはり「認識主体があるかないか」というもろの論争にはなっていません。形としては有相・無相唯識と呼ばれるものであり、現在では形象真実派・形象虚偽派と呼ばれています。認識の位相として「安・難・陳・護、一、二、三、四」と覚えさせる法相学(因明学)の伝統があります。この因明の伝統も法相宗では絶えてしまっており、現在ではチベットの僧院でしか保たれておりません。

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Re:認識主体について 投稿者:φ 投稿日: 8月23日(水)23時25分43秒

>女史は多分、西洋哲学ではその問題は「私」の一言で片付いている。と思い込んでいるのです。

 詳しく知らない分野は、単純に見えてしまうのは人間の常ですね。
 私のほうも、東洋思想をほとんど知らないため、西洋哲学に比べるときわめて単純なものだと思い込んでいます。もちろん、自分の知らない領分についてそんなことは公に断定したりはしませんが。

 ラッセルは、認識主体についてはあちこちで論じているので「どこ」とは言えませんが、最終的に、「私」が有ることは否定するようになります。ラッセル自身の解説については、『私の哲学の発展』(みすず書房)が明晰です。

 私は、『ラッセルのパラドクス』p.151-2で、ラッセルの到達した「私」否定観は、仏教の「刹那滅」のようなものだと書きました。聞きかじりの刹那滅などを引き合いに出しましたが、まあ、仏教に無知な私でも、概念を拝借しただけで仏教思想全体を評定したわけではないので、まあ、お咎めはなかろうかと思います。

 認識主体については、また、有と無についても、西洋哲学は千差万別ですから、「有の立場に立っている」の一言でひとまとめにするなど、不勉強もいいところでしょう。

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認識主体について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月23日(水)20時43分15秒

>さらに、学問的認識とは何か?認識主体のいない認識というのはありえない。誰の認識なのか?誰かが認識したのであれば、認識という点では変わらないのだから、ニヤーヤ学派のヨーギンの認識を誰が否定できるだろうか。

三浦さまに質問なのですが、実はこの点が女史の思い込みの一部だと思うのです。
インド哲学では「認識主体とは何か?何が認識主体となり得るのか?」ということについて延々と論議されてきた歴史があります。ところが、女史は多分、西洋哲学ではその問題は「私」の一言で片付いている。と思い込んでいるのです。

確か、ラッセルに「認識主体」について言及した一文があったかと思いますがどこに書かれていたか思い出せません。何でしたっけ?

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εさまへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月23日(水)20時37分33秒

けっこういじくられているようで。

>数学者エスさまのご意見は、けっこう、つっこみどころがありますね。 「バクテリアにも劣る認識」とは、なぜわかるか。あなたがそういう根拠は何か。過去世にバクテリアだったのか。しかし、そうであるとしても、バクテリアの認識について、あなたは言語でいうことはむずかしいのではないか。バクテリア言語があれば、あなたも語れるかもしれないが…などなど。

「ウンコな議論」(ハリー・G.フランクファート著・山形 浩生訳 解説)と言う本にうろ覚えですが、このような話が載っています。
ウィトゲンシュタインがあるとき入院している女性の教え子の所へ見舞いに行きました。その折にその女性が「今の気分は車に轢かれた犬のような気分だわ」と言ったところ、ウィトゲンシュタインは不機嫌な顔をしてこう言ったそうです。「あなたは実際に車に轢かれた犬の気分なんか知らないだろう。」

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レベル 投稿者:φ 投稿日: 8月23日(水)04時35分38秒

 今日初めてここを開けたもので、返事遅れましてすみません。
 私は、仏教については知識ゼロに等しいです。
 拙著『これは餡パンではない』および文庫版『M色のS景』で、芭蕉と仏道と老荘の関係を論じましたが、仏教方面は白楽天(白居易)などを媒介とした間接的な論考でしたし、それ以来何もフォローしていませんから、私の仏教の知識はほぼゼロと言えます。

 まあ、私に対する配慮は抜きで、存分にやっていただければと思います。

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はじめまして、Nakajimaさん 投稿者:ε 投稿日: 8月23日(水)00時43分24秒

マニカナのほうをちょっと盛り上げてきました(笑)

最近半分くらい読んだ本としては

竜樹(中村元、講談社学術文庫)
角川文庫ソフィアの
仏教の思想2、存在の分析(アビダルマ)
仏教の思想3、空の論理(中観)
などですね。

買ってあまり読んでない本として
大乗仏典14 竜樹論集(中公文庫)
インド人の論理学(中公新書)
が手元にあります

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見解の訂正。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月23日(水)00時08分58秒

>この「xが使えない」と言い出したことで私はやっとある学派との類似点に気づきました。
>この発想法は「倶舎論」です。女史の言っていることは本人も気づいてませんが、倶舎論の亜流です。

すいません。この見解は撤回します。但し「その語り方の中に「有」の存在論をもっているように思います。」という石飛女史の発言で「倶舎論(ないしは説一切有部)」がヒントになったことは事実です。

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εさまと三浦さまへの質問 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月22日(火)23時58分41秒

今、全ての仏教論理学・認識論の資料を全て漁り、同時に石飛女史のブッダ論理学と突き合わせた結果、「存在論(ないしは認識論)」と仏教論理学について私はある程度の理解度に達した。と考えています。
そこで質問なのですが、三浦さま及びεさまに質問しますが、お二人に対して今回の件のレポートを提出しようと思うのですが、どこまで仏教に関する知識をご存知でしょうか。
a.ほとんど一般人と同じくらいしか知らない。
b.有る程度専門的な書籍(例えば岩波文庫や講談社学術文庫クラスの書籍)は読んだことがある。
c.その上のクラスまで目を通したことがある。

尚、多分提出まで二週間程度かかると(執筆は来週末の予定です。)思います。

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Re: 投稿者:φ 投稿日: 8月22日(火)04時41分2秒

 そうですね、「詐欺」については、他の言葉に換えることにします。ご指摘ありがとうございました。
 それから、ざっと書いたせいで、文字レベルの細かい誤記がありますが、気づいたものから直していきます。
 それと、微妙に似た指摘や関連する項目が離れたところに位置しているのが何組かありますが、あえて体系化しないほうがよいかとも思うのでそのままにしておきます(相似質問を離して置くというのは、回答が整合的かどうか調べるにはむしろ定石。ただし回答がもらえればですが)。

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「無理解のサンプル、68の指摘」へのお礼 投稿者:Σ 投稿日: 8月21日(月)21時26分8秒

尊敬する三浦先生へ

「論理学に関する無理解のサンプル、68の指摘」
(石飛道子著『ブッダ論理学 五つの難問』に関して)

を拝読しました。私がやりたくても無学ゆえにできなかったことをズバッとやって戴き、実に義憤が晴れる思いがします。心からの感謝と称賛を捧げます。

なお、一点、用語で気になった点があります。
「1■、6■、44■」において、「詐欺」という言葉が使用されていますが、「詐欺」概念が日常の辞書レベルでも刑法の詐欺概念からの強い影響を受けてそれをある程度継承しているとするならば、刑法の「詐欺」の場合は、<金品などを詐取する目的での詐術>
 を意味するため、「68の指摘」の中で使用するのは「少々不適当」となり、相手方から揚げ足取りされる可能性があるかも・・と思いました。
その可能性を除去するためには、単に「詐術」という表現に代替した方がよいかも知れない・・・と、ちょっと思いました。

三浦先生の「正しい指摘」のように、
石飛女史の「学問的目茶苦茶」を 世間が許さないことを切に願っております。
それはとりもなおさず、彼女自身のためにもなる、と確信してのことでもあります。

私も、仏教側から、さらに厳しい愛の鞭を彼女に入れて行く所存です。
仏教徒ですらない彼女の、門外漢(門外女?)からの好き放題・言いたい放題が許され、その甘言に騙される人々が出るようでは、日本仏教のレベルがどんどん下がってしまいますから(笑)。

「論理学」と「仏教」両面からの指摘で、「万全の教導」ですね。その一翼になれるように、頑張ります。(笑)

(追伸)
三浦先生のおかげで「論理学」の素晴らしさを垣間見た気がします。
今後、私も、一から「論理学」を学んで行きたいと強く思うようになりました。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。

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εさんへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月21日(月)20時46分7秒

おそらく、石飛女史の反応に対してどういうことなのかわからないかもしれません。
まず、一つ目、
>述語論理学の命題変項、「あるものx」というように、xとおくことがもうすでに、その語り方の中に「有」の存在論をもっているように思います。普遍の存在者をそこに定式化しました。

何を言っているのかわからないと思いますが、確かに初期仏教の認識論ではこのような「言葉の使い方」はできませんし、「そのように世界を認識してはいけない」のです。述語論理は使わないのではなく、使えないのです。この理由は後ほど説明します。但し、同時にその認識が「正しく世界を認識しているか」は又、別の問題です。

二つ目、
>同じものは思いつきません。これは、もうわたしのオリジナルじゃないかと思います。
じゃないですね。同じテキストで2500年間無数の仏教学者が解釈しているのですから全くのオリジナルが出来上がるわけがないんです。どこかで類似した思想が出てきます。
この「xが使えない」と言い出したことで私はやっとある学派との類似点に気づきました。
この発想法は「倶舎論」です。女史の言っていることは本人も気づいてませんが、倶舎論の亜流です。

「倶舎論って何?」と三浦さまやεさまは思うかもしれませんが、それはぐぐってくださればいくらでも説明してくれるサイトに引っかかります。

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Re:あのー例の件で 投稿者:φ 投稿日: 8月21日(月)00時21分52秒

「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」というのはダメでしょ、存在論を持たぬ者に対して、あるいは、別々の異なる存在論を信ずる者どうしで語れるようにする使命はじゃあナニ学が担うの?
 という趣旨のことは質問しましたが(答え無し)、
 そうでしたね、言われてみれば、「あなたの言っている存在論とは何か?」と問えばよかったですね。(しかしこれも答え無しだったのではないでしょうか)

 存在論という言葉自体、多義的ですからね……。言い逃れにいくらでも使えてしまう。

 ――さて、  ここで以前から予告しておりました、
 『ブッダ論理学』の欠点列挙を、以下にアップロードしました。

http://russell-j.com/book-rev.htm
の一番下の 0
もしくは
http://russell-j.com1/
の一番下の
論理学に関する無理解のサンプルについて 68の指摘

からお入りください。

ほとんどの項目は現代論理学以前のマナーのレベルですが、これに仏教方面からのチェックがはいれば万全の教導になりますね。

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あのー例の件で質問が。。。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月20日(日)22時32分46秒

もうやめたいのかもしれませんが、一つだけ。今、εさんがあっちへ行ってうなぎ問答を繰り広げていますが、石飛女史と三浦氏とのメールのやりとりの中で、三浦氏は「あなたの言っている存在論とは何か?」と言う質問を発したのか。又、それに対して石飛女史の回答はあったのかお聞きしたいのですが。

今、仏教における存在論と認識論の本を読んでチェックを入れています。おそらく石飛女史の言っている「存在論」とやらの全貌とその欠陥が見えてきました。特に女史の認識論は一種独特で、仏教で扱う認識論を相当誤解している可能性があります。

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Re:social darwinism 投稿者:φ 投稿日: 8月20日(日)01時58分37秒

 Υ田さん、ではのんびり待たせていただきます。
ちなみにホリスのパラドクスは、069「抜き打ち試験のパラドクス」と全く同型ですから、より考えやすい「抜き打ち試験」から入った方が能率的かもしれませんね。(パラドクスにとって本質的でない枝葉が多すぎるため必要以上に込み入っているホリスのパラドクスは、だから普及しないのでしょうかね)

 Σさん、いまだ渦中の「社会生物学」のことかと思ったらこちら過去の遺物たる「社会進化論」ですね。
 ざっと、社会ダーウィニズムの誤りを思いつくまま五つ書き出してみましょう。
 (ダーウィニズム宇宙版である「人間原理」に対しては、まだこの種の誤解が現役ですから、過去の遺物といっても社会ダーウィニズムの誤謬に学べる事柄は多いでしょうね)。

★社会ダーウィニズムの誤り★

 ■自然主義の誤謬。自然な成り行きが倫理的に正しいと誤って前提している。事実と倫理は別問題である。「これまでそうだった」は「そうあり続けるべきである」を含意しない。
 ■適者生存の単位の取り違え。ダーウィニズムは、個体の生存競争を唱えたのであって、種や民族、人種、国家のような集団を自然淘汰の単位としていない。
 ■適者生存の単位の取り違え。ダーウィニズムは、「強い者が生き残る」とは言っていない。環境次第では、弱いもののほうが適者となる「逆説的ESS」も可能である。
 ■自然選択のメカニズムの誤解。環境や遺伝子間相互作用とは無関係に「強い遺伝子」「優れた遺伝子」があるという思い込みは、個々の遺伝子を孤立させて評価できるという素朴な誤り。
 ■定向進化(目的論)の誤謬。進化の方向があらかじめ定まっているという考えは、ダーウィニズムのランダムな変異を重視する考えとは正反対である。環境が変化したとき、それまで「劣った遺伝子」と思われたものが俄然優勢になることがある。

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ホリスのパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 8月19日(土)23時02分37秒

ご無沙汰しております。
ホリスのパラドクスを論じるために、論理学を勉強しなおしておりました。
基礎を思い出すために『論理学をつくる』を読みふけって、
「太郎はPを知っている」を様相記号のようなもので簡潔に表せないかと思って
『可能世界の哲学』を読みふけって、
『論理パラドクス』の「知識の閉包性」「ゲーデル命題」あたりを考え込んで方針をぐらつかせそうになって、
今、やっと半分ほど書き上げられました。方針が正しければこのまま結論まで行けるはず。

筆が遅くてすみません。あまりにも寄り道が楽しくて、結論までまだ半分残っています

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social darwinism 投稿者:Σ 投稿日: 8月19日(土)21時58分17秒

三浦先生へ

永井氏の「不確定性の論理学」へのコメント、有り難うございます。
三浦先生が賛同して下さることを伝えれば、永井氏も勇気づけられ、喜ぶと思います。

・IDに関しては、只今、熟考中です。

>現代科学の最高の達成は量子力学でも相対性理論でも超ひも理論でもなく、ダーウィン進化論である、という信念を最近抱くようになった私ですので、論理よりは確率(変異と自然選択のシステム)を記法として採用したほうが何かとうまくいくからです。

最初、はてな? と思ったのですが、少々分かりかけて来たように思います。
きっかけは、「遺伝的アルゴリズム(Genetic Algorithm、GA)」の解説を最近見たことによります。

ところで、三浦先生は、ダーウィニズムとの関連でお尋ねしたいのですが、
社会進化論(しゃかいしんかろん、英:social darwinism)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
(ウィキ↑)
について、どのように位置づけておられますでしょうか?
ご見解を伺えれば嬉しく存じます。宜しくお願い申し上げます。

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Re:落ち着いたところで 投稿者:φ 投稿日: 8月17日(木)21時24分28秒

 ■論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。(念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)

 これは、F.Nakajimaさんだったかどなただったか、あちらの板ですでにほぼ正解を書いておられたような。

 まず、「構成的ジレンマ」という論証を見てみましょう。
 (他の論証でもいいのだがこれが一番わかりやすいだろうから)

 神はいる ならば、 宇宙がかくも不完全であることが不可解だ。
 神はいない ならば、 かくも不完全ながら宇宙が存在することが不可解だ。
 よって、いずれにしても(無条件で)、「かくも不完全な宇宙」の存在は不可解だ!

 一般には、P⊃Q R⊃Q P∨R したがって、Q

 という形をした論証です。
 これは、結果的にQが真であることを証明するものですが、PとRはそれぞれ、真か偽かがわからなくてもかまいません。

 つまり、論理学で扱う文は、真偽が永遠にわからなくてもOKです。

 論理学の文は、神だろうが輪廻だろうが霊魂だろうが業だろうが因果だろうが、何を主題にしていても自由です。
 つまるところ、平叙文であればよいのですね。(疑問文の論理学や命令文の論理学、というのもありますが、標準論理学に限れば、平叙文のみ)。
 「真偽のはっきりした文」ではなく、ましてや「誰もがいちおう認めていることがらを述べる文」(p.44)である必要もさらさらなく、

 「真か偽でありうる」文であればOKです。
 「真か偽いずれかとして認定することが意味をなす文」と言い換えてもいい。

 極端な話、「スルセはフモペにキポナりた」という意味不明の平叙文でもいいのです。
 「スルセはフモペにキポナりた」が真(偽)のとき、「スルセはフモペにキポナりた、でない」が偽(真)であるという相互関係が保たれてさえいればOKです。
 命題論理学は、文の述べている事柄にかかわらず、文と文の真偽関係のみを扱うからです。
 ただし、述語論理学になると、意味不明の文には真偽のいずれも認めないことが多い(集合論的なモデルを作れなくなるため)。しかし、「真か偽いずれかとして認定することが意味をなす文」であればよいことに変わりない。命題論理学では、意味不明であっても真理値を付与してかまわないので、平叙文でありさえすればOKです。

 ■必要条件とは何か。できるかぎり例を出せ。

 命題型(命題の束)ではなく、命題の間に成り立つ関係です。⊃の後件と前件の関係ですね。(チャーチのマイナー記法では、⊂の前件と後件の関係)
 必要条件の認定についての混乱は、 8月11日(金)04時44分18秒 に書きましたので繰り返しませんが、第1点と関係あることを注釈しましょう。
 命題に関しても、真理表の1〜4列目をすべて考慮しなければならないことがあります。
 たとえば、「明日、雨が降るならば、私は家にいる」のような文です。
 この文は、「雨が降るなら雲がある」のように繰り返し可能な出来事の束を表現する命題型ではなく、命題なので、 P⊃Q と書くことができ、QはPの必要条件です。つまり、
 「明日私は家にいる」は「明日雨が降る」の必要条件です。
 「 」内の2つの文は、「真偽のわからない文」です。(まだ今日のところは)
 したがって、⊃の真理表の1〜4列目をすべて調べねばなりません。
 あるいは、順序をそのままに考えるなら、⊂の真理表の1〜4列目をすべて調べねばなりません。
 「明日私は家にい」て「明日雨が降る」ことはもちろん起こりうる。
 「明日私は家にい」て「明日雨が降」らないことも起きてよい。
 「明日私は家にい」なくて「明日雨が降」ることは起きないはずだ。
 「明日私は家にい」なくて「明日雨が降」らないことは起きてよい。

 たしかに〈真、真、偽、真〉となる。したがって、「明日、雨が降るならば、私は家にいる」(「明日、私は家にいる」ことが「明日、雨が降る」ことの必要条件である)と確かめられたことになります。

 すでに真偽のわかっている命題どうしの場合は、真理表の1〜4列目すべて調べる必要はありません。
 「広島に原爆投下された」⊂「靖国神社は終戦とともに廃止された」 は真⊂偽の組合せなので真理表の2列目だけを見て真だと判定でき、「広島に原爆投下された」は「靖国神社は終戦とともに廃止された」の必要条件であることがわかります。
 
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落ち着いたところで 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月17日(木)11時23分52秒

宿題の回答をお願いできますか?

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因果、論理 投稿者:φ 投稿日: 8月14日(月)04時30分1秒

 因果についてはいろいろ論理モデルが作られていそうですけれどね。どのレベルの(文脈の)因果を語るのかにもよるでしょうが……。

具体例にまで拡げると「すごい部分」だらけになっちゃいますね。

 数学は、誤解されまくっているといっても限度があって、「算数で無理数は習わない。したがって、現代数学で三角測量は扱えない」などと言われて本気にする人はいないわけです。
 ところが、論理学の場合、「命題論理では因果関係は扱わない。したがって、現代論理学で因果関係は扱えない」などと言われると、本気にする人が続出しかねません。

 学校で必修になってない学問を啓蒙書で解説するときには、それが主要テーマでないとしても、ウソ偽りのないように注意すべきですね。

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RE:統一的理解の欠如 投稿者:ε 投稿日: 8月14日(月)00時49分32秒

まあ、寛大というかなんというか。数学も誤解されまくっnているのであまり感じなくなっているのかもしれません。きちんと反論しておくのは本当は大事だと思いますが。

で、すごい部分を見つけてしまいました。引用、p38−p39
 また、結論「すべての人は死ぬ」は偽には決してなりえない。・・・たとえその人が永遠に生きると決まっているとしても私たちには確定できない。偽と確定できないのなら、真と偽しかない以上、「すべての人は死ぬ」という結論は真といわざるをえない。

すなわち、偽であることが原理的に検証できないのなら、(論理的に)真だという恐るべき論法です。これを第4章のテーマである

 イラクには大量破壊兵器がある

に適用したらどうなるか・・・・

アマゾンを見ていたら、因果性と確率に関する最近の本http://www.amazon.co.jp/gp/product/0521773628/ref=pd_ys_ir_all_52/503-6392771-1323925?ie=UTF8
紹介されてました。なかなか面白そうですが

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公案とヒューリスティクス 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月13日(日)21時17分12秒

公案禅とは一体何か、と言う点について少しお話したいと思います。

さて、公案というと全くわけがわからないちんぷんかんぷんなものだろうと思っておられる方がほとんどだと思います。禅問答という言葉自体、わけがわからない会話という意味に使われるくらいですから。

例えば、「犬に仏性はありますか?」「無!」この文章の背景知識を頭に入れてもさっぱりだと思います。

では、ここで問題なのですが、一体「公案」とは何なのでしょう?
(この問題自体が禅問答的になってきたな)
私は、公案の一つを非常に偶然のことながら解いてしまいました(百丈野孤)このことをお話すれば、なぜ解いたかといえば、私は幼いころから読んでいた仏教書籍の知識から「ブッダの論理学」は完全にでたらめだ。と最初に読んだときからわかっていました。にもかかわらず、かなりの数の仏教学者がこの本を絶賛したことからそのことを奇異に感じ、(学があると思われている彼らを論破するにはいかにすればよいか)と考えました。
思いついたのが公案の一つ「百丈野孤」でした。仏教を学ぶ者であるにもかかわらず、ただ字面を追い求めるだけで問題を解くこともできない{聖書における律法学者のような連中}を論破する材料としてはこれ以上のものは無かったわけです。

前振りが長くなりました。「公案」とは「ヒューリスティクス」の能力がいかにあてにならないか、ということを「ヒューリスティクス」の能力を使って解くことにより「ヒューリスティクス能力」の強化を行なうための課題。なのです。

ここに一つの公案があるとします。例えば三浦先生は自書で、「正しいヒューリスティクスのあり方」を執筆されましたが(例として古本屋)、それを読んだぐらいでは読者自身のヒューリスティクスに対する概念は変わらないでしょう。

で、禅宗においてはその弊害を改めるために、公案を使ってとっちめ、ヒューリスティクスを初め、さまざまにこびりついた既成概念をとっぱらうために公案という課題を出すわけです。ですから禅宗の僧侶というのは話されるとわかりますが相当「論理的」な人間です。きちっと修行した人はヒューリスティクスに起因するエラーは常人よりはるかに少ない、と言えるでしょう。

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Re:不確定性の論理学 投稿者:φ 投稿日: 8月13日(日)03時14分27秒

 見てみました。

 「論理学の確率論への還元」という方針には、私は全面的に賛成です。

 学問の本性として論理学は数学である、と断定できるか否かは永井さんも脇に置いているようで、むしろ戦略として、論理学を確率論として見るのは役立つだろうと。それは私も大いに賛成です。

仏法のサイトの5−(1) で、様相論理と多値論理を混同しているのはマズイ、と前回コメントしましたが、撤回しましょう。論理学としては2つは全然別物ですが、確率論として統一的に見れば、たしかに、同じ確率的世界観の別の表現と解釈できるからです。

 私は以前は、論文で論理式を多用していましたが、最近はむしろ、ベイズ式(条件付き確率の論理関係を表わす式)のほうを多く使っています。現代科学の最高の達成は量子力学でも相対性理論でも超ひも理論でもなく、ダーウィン進化論である、という信念を最近抱くようになった私ですので、論理よりは確率(変異と自然選択のシステム)を記法として採用したほうが何かとうまくいくからです。

 拙著『ゼロからの論証』あとがきから引用しておきましょう。

 …………………………………………
 ……本書後半では、しきりに、確率に関する錯覚を戒めました。哲学の才能というものは客観的に測ることができるはずですが、それはとりもなおさず論理のセンスであり、それはすなわち、どれほど的確な確率的直観を備えているかに他ならない、と私は信じています。確率音痴であるがために、なんでもないところに奇跡や神秘を見出したり、逆にこだわるべき神秘を見逃したりして、問題設定を根本から誤る失敗は、プロの哲学者にも(にこそ)見うけられます。そうした〈ものわかりの悪さ〉を哲学的感性のしるしのように気取るのはくれぐれも控えて、客観的論理に沿った確率的直観を武器に、意義ある問いを真剣に問うてみよう。それが本書の誘いでした。……
 …………………………………………

 ↑確率的「直観」と言ってしまうと、ヒューリスティクスのことになり、ロジックとは正反対の概念を意味するのでは、と突っ込まれそうですが、まあ、生身の人間においてはヒューリスティクスとロジックの両面は正比例することが多いと考えていただいて……。

 確率論、とくに主観確率論(ベイズ主義)は、心理学と密接に関係しますしね。
 F.Nakajimaさん言うように心理学と仏教が関係深いとなれば、仏教思想には大いに期待できます。(「無常」なんて、確率のことではないでしょうか?)

 心といえば、オカルトや新興宗教に走る人は、そうならない人よりも、確率問題の正答率が劣る、という調査もあるそうです。「不思議なこと」と「当たり前のこと」の区別は、知的生活にとって最重要の事柄ですね。

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不確定性の論理学 投稿者:Σ 投稿日: 8月12日(土)15時55分12秒

三浦先生へ

フリー哲学者・永井俊哉氏は、ウェブ公開電子書籍の一つ
『システム論研究序説』
http://www.nagaitosiya.com/b/luhmann.html

の第一章の第3節 「不確定性の論理学」

という論考を著していますが、彼の試みについて面白い・有意義とお感じになられるか否か、
簡単なコメントを戴ければ、嬉しく存じます。
お時間がある時、ちらっと御覧になって下さい。

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最近の東洋と西洋思想の交流について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月12日(土)14時02分5秒

共通言語として、現代科学と、それにリンクした西洋哲学の語彙を用いるしかないでしょう。現代科学なら、世界中の人が学校教育を通じて学んでいるので。

一応、私の知っている限りの仏教と西洋科学との交流について述べてみましょう。
西洋科学の分野の中で一番仏教と交流が深いのは、誰でも思いつくでしょうが「心理学」です。
何しろ仏教の始まり以来2500年、その間修行者がやっていたことといえば、「心の探求」なのですから当然なことです。又、仏教とは「自覚論」であって(指摘したHP参照) 論理学も認識論も学問的には主流ではないのに対し、「心理学」は実践(修行)面に関わってくるため最も発達するのは必然だったわけです。

体系についてはさまざまな学派があるため記述は一部にとどめますが、一番有名なのは「ヨーガ・スートラ」でしょう。但し私はヨガについては詳しくないので詳しくはあおみさんにどうぞ。
他に特筆すべきなのは禅と唯識でしょうか。禅に思想体系があるのかとこの文章を読む人は驚くかもしれませんが、ある。と私は断言します。

今、心理学に一番影響を与えているのは「唯識」でしょう。世界で最初に「深層意識」という概念を発見したのは彼らの功績(フロイトを遡ること何年でしょう?)です。そしてその発見を中心に彼らは独自の心理学体系を築き上げ、その後の仏教思想に影響を与え続けています。
そして、驚いたことに唯識の心理学体系が今一番に研究されているのは、アメリカの心理学諸派です。理由としては、これまで西洋の心理学にはまったく想像もつかなかった、さまざまなテクニックや諸概念が存在し、なおかつそれらが体系化されて理解されやすくなっているためだと思います。

今後、心理学では東洋と西洋を融合させた「メタ心理学」が心理学の中で主流派になる可能性があると思います。

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現代諸学と仏法 投稿者:φ 投稿日: 8月12日(土)02時58分9秒

を見てみましたが、3−(1) で命題論理と述語論理をごっちゃにした記述があったり、5−(1) で様相論理と多値論理をいっしょくたにしたりと、変な記述があるものの、全体の論がそれに依拠しているわけではないし、活字出版でもありませんから、さほど問題ないでしょう。

 部分的に見ただけで、仏教用語はよくわからないので、あとは何とも言えませんが……。

 インド思想だけでなく、中国やイスラム、日本、東南アジア、もしかしてアフリカやオセアニアや南北アメリカ土着の口承思想にもすぐれたものが色々あるはずです。それらのアイディアを持ち寄って相互議論できれば素晴らしいと思いますが、そのためには、共通言語として、現代科学と、それにリンクした西洋哲学の語彙を用いるしかないでしょう。現代科学なら、世界中の人が学校教育を通じて学んでいるので。

 ヨーロッパの科学や数学・哲学そのものが、二百年前とはまるっきり違う語彙とスタイルで展開されています。その他の文化圏の思想が何百年も前の語り方でよいはずがありません。  あのサイトの筆者も、形式を現代科学に合わせて、内容では仏教を展開する、とやってくれればこちらも助かるんですが。

 インド思想はインド思想、中国哲学は中国哲学と分かれたまま、太古の時代さながらの形式を保っていたら、コミュニケーションがとれず、孤立・停滞するばかりのような気がします。
 自称ブッダ論理学も、西洋論理学の形式に合わせて発信しようと試みたところまではセンス良かったんですけれどね。

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一念三千は非論理的直観真理 投稿者:Σ 投稿日: 8月11日(金)22時04分18秒

中島さまご紹介のHP

管理人の自己紹介をみると、

今里 祐二 (いまさと ゆうじ) 昭和37年生まれ
昭和58年9月25日入信 平成元年12月15日創価学会脱会

日蓮正宗 行学山久修寺 法華講員

−−−創価学会を脱退していますね。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/jiko.htm
この「今ちゃん」が紹介しているのが、下記の「日蓮正宗要義」です。
『まず本門に約して言えば、一念三千とは本仏の悟りと活動に名づけるのである。久遠元初、いまだ仏法や一切万物の名目も存在しない古の時点において、

一人の聖人が顕われた。宇宙法界間の一切の現象と実在を直観によって通暁され、混沌より万象に至る事理を了解し、一切の分立と統合の原点となる不思議な法を覚知されたのである。それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。

つまり宇宙法界が混沌の時代においても、また天地開闢以来森羅万象の差別相にあっても一貫して存在する法理、すなわちまたその間のあらゆる事象、あるいは星雲の凝縮と発熱の相により、十界・十如・三世間の歴々たるまでの、すべてを具える不思議の大生命体である。

これを聖人は妙法蓮華経と名づけられた。この妙法はまた聖人の生命の当体であり一念であって、これが宇宙法界に遍満するところを一念三千と表現するのである。したがって一念は即三千であり、三千は即一念である。この如実の法に即する人格を本仏と呼び、人格に即する法を本法という。すなわち一念三千とは本仏の悟られた宇宙法界の事理、すなわち現象と実在のすべてを含む法理、及びそれによって行われる衆生救済の活動であるといえる。』

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/301.htm

−−このように、日蓮が覚知したのは、「宇宙の大生命体である大霊であり普遍法であり生命の当体蓮華であり、法がリードする諸活動」というように書かれています。

上記のように表現されると、もはや「梵我一如」の「一元哲学におけるブラフマン」と殆ど差異はありませんね。(笑)。

無論、彼らからすれば、そのわずかの違いが天地ほどの差異だと主張するわけですが(笑)。

梵(ブラフマン)即大日。

「宇宙即我、我即宇宙」「宇宙即大日、大日即宇宙」「我即大日、大日即我」

私を地獄界の住人だと公開の場で誤審裁定を下して恥じない「中島裁判官」の目からすれば、上記の「妙法」を知ること、今生では能(あた)わないかもしれません。

この書き込み、三浦先生の掲示板の内容としては、不適合だと思います。

その点、心からお詫び申し上げます。ただ単に、

>但し、この方の宗派は法華宗なので仏教学全体の解釈とは違う可能性はあります。

中島氏のいう「仏教学全体の解釈」など、統一的なものなどあるはずがありません。

諸解釈、百花繚乱なのですから。以上に関する補足として、上記のコメントを書き込んだとご理解下さいませ。

中島氏へ、三浦先生の掲示板でのレスは不要です。

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論理学・認識論について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月11日(金)17時40分28秒

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/19.htm

仏教の哲学的側面について、納得できる説明のあるHPはここだけでした。
但し、この方の宗派は法華宗なので仏教学全体の解釈とは違う可能性はあります。

三浦先生。この方の言われる「西洋論理学と仏教」との関わりについてどう思われるか非常に興味があるのですが、コメントをいただけるでしょうか?

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Re: 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)17時21分47秒

 水掛け論ではなく、中学生レベルの論文作法の破綻を自覚してもらえれば済む話なんですけれどね。学ばずして、どうやって「先に進」むのだろう。過ぎた後ろを見るのがイヤなら、何千年何百年も前の書物をほじくることこそやめるべきですね。

 初歩的な間違いを「水掛け論」「存在論の違い」に帰してしまいたい気持ちは理解できます。学を掲げる管理人は、自らの管理区域では威厳を保つ必要があるでしょう。ネットは言論の自由、態度の自由が保証されるべきですから、掲示板では管理人のああいう態度でかまわないかなと思います。

 ただ、公刊本が関わっているかぎりは、真摯に現実直視してほしいですね。
 学術用語の定義を勝手に変えたことを読者に詫び、どう変えたかを改めて説明するとか、いずれにしても
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1517&reno=no&oya=1517&mode=msgview&page=0
 には答える必要がありますね。
 あの板の、彼女の直近のかたがたがこんな大事なことを要求しないでいられるところに、何か宗教臭さを感じてしまいます。
 インド思想というものの倫理性への疑問も湧きますし。

 インド論理学であれ何であれ、うちは西洋の学問体系とは別個だよという姿勢はもはや許されないでしょう。西洋科学は、素粒子から生命の起源、宇宙の意味、脳と意識の根源にまで実証的かつ思弁的に迫っています。各分野の関係の緊密度は驚くばかりで、私も東洋人として悔しいが、歴史的由来や文化ナショナリズムは忘れなきゃダメです。普遍的な学究方法と対話しつつ改善の役に立つ方策を探るところから、次のパラダイム変換が期待できるでしょう。そういうまともな道を進んでいる東洋哲学者もたくさんいることは承知しています。

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公開問題 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月11日(金)16時12分14秒

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1531&reno=1529&oya=1529&mode=msgview&page=0
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1534&reno=1532&oya=1529&mode=msgview&page=0
だそうです。

不毛な水掛け論が長引く、とあるんですけど、
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1517&reno=no&oya=1517&mode=msgview&page=0
φ先生の名前が出ていない、この投稿に対して、
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1518&reno=1517&oya=1517&mode=msgview&page=0
では、わざわざ
「三浦先生が、チャッカの意味を「必要条件に時間順序を加味する」と誤って解釈したとき、わたしは訂正しました。しかし、これは、わたしのミスではなく三浦先生のミスです。このようなミスは、論理学にかんしていえば、初歩的なものです。」
「三浦先生のように、定義された語の意味以外のものをつけ加えて批判するというのは、ルール違反のことなのです。」
と不毛な水掛け論が長引くように仕向けるのはどうしてなんだろう。しかも、そうしておいて公開は拒否、、、。

>インド論理学が西洋論理学と「水と油」と言われるかぎりは(あちらの専門家がそう言うのであれば)、私は、インド論理学を学ぶ気は起きません。

圧倒的大多数のインド論理学者や仏教論理学者の方々は「水と油」とは思っていないのではないかと思います。(といっても詳しくないのでテキトウにいうべきではないですが) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393101499/qid=1155279406/sr=8-8/ref=sr_8_xs_ap_i8_xgl14/503-4960752-3738355
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121014421/qid=1155279457/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/503-4960752-3738355

・・・ちなみに、わたしは、F.NakajimaさんやΣさんではありません。

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re:こちら2 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)14時39分58秒

 「インド論理学」の本は色々あるのでしょうが、
 インド論理学や中国論理学や南米論理学や東アフリカ論理学がどのようなものであれ、論理学は孤立して成り立ちはしませんよね。
 数学や自然科学と密接に相互作用するはずのものです。現にこうやって私たちがネットで会話できるのも、電子工学と、タイプ理論や逆ポーランド記法の論理学とが連係したおかげでしょう。
 インド論理学が西洋論理学と「水と油」と言われるかぎりは(あちらの専門家がそう言うのであれば)、私は、インド論理学を学ぶ気は起きません。
 インド物理学やインド化学という独特の体系が西洋物理学や西洋化学に取って代わる可能性は皆無と思われるので、インド論理学はいつまでたっても孤島のような趣味の領域にとどまるように思えてしまうからです。

 ただもちろん、老荘大好きの私は、文学や芸術の一種として、東洋思想をずっと賞味し続けますよ。

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re:こちら 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)14時14分11秒

 『龍樹造「方便心論」の研究』なる本は、拝見していないので、何とも言えません。

 …………
 昨夜「統一的理解の欠如」で述べたことは、原理的な発展編で、『ブッダ論理学』がまず批判されるべきは、もっと明白な初歩的部分、字面にはっきり出た記述からでしょうね。

 最低限、次の一文は、削除か訂正しなければマズイと私は心配しています。

 p.43
「命題論理学の演繹的な推論の中には、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない。したがって、世界のできごとの中でこの接続詞に対応していることがらは語ることができない」

     クドくてすまんですが、次の文と同様の超お笑い草ですから。
「数学には、+−×÷はあるが、2つの数の平均値を示す演算子は存在しない。したがって、平均値を数学で語ることはできない」

     一文だけ訂正してももちろん無意味ですけれどね。

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こちら 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月11日(金)07時40分49秒

http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya1/upayahrdaya1.idx.html
については、どう思われますか?

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統一的理解の欠如 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)04時44分18秒

 私もε さん同様、第1章の最後近くまでまあまあ普通に読み進んだのですが、p42で「ドヒャーー!」と思いっきりのけぞり(「穴がある」という「表現」だけの問題ではない)、著者が何を勘違いしているのかよーくわかったがゆえに、前に戻って読み直したらキズがいっぱい見えたというクチです。引っかかったのは表現だけとは、εさんは寛大ですな……。

 7月30日「Re:「¬」の正しい意味」と、7月31日「Re:感想」で、「命題」と「命題型」の混同のことを述べましたが、この機会に補足しましょう。私が「よーくわかった」ところを、面倒ですが、ちょっとじっくり書いてみます。
(εさんの観察は核心を衝いていると思います)

 真理表の命題型PとかQには、具体的適用の場では個別の命題を代入するわけですが、『ブッダ論理学』では具体的適用でも命題型そのものを代入してしまっているようですね。
 あるいは、εさん的に見ると、時空変項を含んだ命題関数を代入していると。
 いろんな時空に関して「雲がある」「雨が降る」のペアを考えて、真理表の一列目から四列目のそれぞれの列を満たす時空があるかどうか調べる。三列目だけがない(これが「偽だ」と解釈される)。よし、「雲がある」「雨が降る」のペアは〈真、真、偽、真〉という出力に合致し、P⊂Q(PチャッカQ)に当てはまる、などとやるんですね。石飛さんやΘさんがやっていたのはそういうことのようで。

 しかしこの同じことを、⊃と⊂以外の演算子でやろうとすると、かなりおかしなことになる。
 いろんな時空に関して「雨が降る」「雷が鳴る」を真理表∧のそれぞれの列に当てはめると、必ず、いずれかの列に当てはまる時空がある。つまり、二、三、四列目を満たす時空が存在する(「偽にならない」と解釈される)ので、〈真、偽、偽、偽〉という出力に合致せず、「雨が降る∧雷が鳴る」は偽である、と端的に判定されてしまう。今世界中が雷雨に見舞われていてもです。

 ∨も同様。いろんな時空・人に関して「大学にいる」「テレビを見る」を∨のそれぞれの列に当てはめると、必ず、いずれかの列に当てはまる時空・人がある。つまり、四列目の状況が存在する(偽にならない)ので、〈真、真、真、偽〉という出力に合致せず、「大学にいる∨テレビを見る」は偽である、と端的に判定されてしまう。今世界中の人がテレビを見ていてもです。

 本当は、具体的代入の時のPやQは空欄なき命題だから、PもQも真理値は一通りであり、たとえばPが真でQが偽なら、ただちにP⊃Qに当てはまらない、P∨Qには当てはまる、などと二列目だけ見て言えるわけですが、命題型(あるいは命題関数)だと考えてしまうと二列目だけでは安心できない……。

 しかし石飛さんやΘさんは、∨や∧のときにはふつうに命題として考え、「虹がある∨霧がある」は真か偽か、特定の状況でただちに判定するのでしょう(そうでないといくら何でもおかしいと気づくはず)。
 彼らは、⊃と⊂のときだけ、命題型(あるいは命題関数)で考えているようです。
 この差別的扱いを明示してくれればまだ何とかなったんですが、無自覚にやっているから始末が悪い。

 つまり、真理関数を統一的に考えることができていない。P⊃Qは〜P∨Qだという定義の意味(意義)がわかっていない。
 p.42の真理表では、たしかにP⊃Qは〜P∨Qと同じになっているので、わかってないと変なのですけれどね。

 つまり、真理表の体系的理解がなく、因果関係のような内包的関係とごっちゃになっている。だから、「穴がある」のは ⊂ の所だとされたんですね。
 (しかしそれでもなお解せないのは、それならば同じく⊃やその否定、⊂の否定の真理表も「穴」と言われねばならなかったはずです。真理表6だけが穴として取り立てられるところに、誤解が誤解なりに統一されはせず、単に混乱しているサマが見えます。「接続詞がない」という表層に引っかかっているのですね……トホホ……)

著者が根本的に勘違いしているので、真面目な読者ほど非論理的な方へそれてしまうのですね……。

 ……ああ面倒くさかった。
 たぶん以上が彼らの勘違いの核心でしょう。(とはいえ上述のように、勘違いが統一的でないのがまた困りもの)

 命題型での⊂の理解が、因果関係を捉えそこねていることはすでに何度も例を挙げてきたとおりです。
 εさんの心配の通り、命題型で含意を考えるクセは案外厄介で、前から私も言っているように、
    「この宇宙全体」のような一回的な出来事を生んだ原因もしくは理由
を考えられなくなるという、形而上学にとっては致命的な欠陥につながるわけです。存在論を売りにしたいブッダなのにね。

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ちょっと思ったこと 投稿者:ε 投稿日: 8月11日(金)02時16分41秒

”ブッダ論理学”、結局探しても出てこないので、買いなおしてしまいました(笑)

読み直してみると、第1章では少なくとも、テクニカルにあまりおかしなことは言っていない(真理表の穴という表現を除けば、、ですが)ところが第2章になると突然わけがわからなくなる。考えた末に気がついたのは、あそこでPとかQとかかれているのは、文としては固定していても、状況に応じていろいろな真理値をとるものが想定されているのではないかということ。扱っているのが”雨が降る”とか”火がある”というような文法的には空所のない完全な文なので、命題と思ってしまったらしい。状況を可能世界と考えるか、あるいは”状況”という存在者を考えて命題関数(述語)として考えるか、いずれにしろ命題論理の範囲をまさに逸脱していることに著者は気がつかれていないようです。様相論理で因果をあつかうのは反実条件などごくまともな考え方だと思うので、このへんの勘違いがなければ有益な討論ができていたのかもしれないですね(ルイスなどφさんの得意分野だし)。

7/31のΘさんの書き込みからも、そのへんで石飛さんにミスリードされたのがうかがえます。

この勘違いは結構根が深いかもしれないです。というのは石飛さんのネット上にある論文 「VAtsyAyanaの論理的立場――意味論的観点から――」
を眺めていたら(俺も物好きだなー)、命題の外延という言葉が出てきたので、ちょっとギョッとしたのですが、これは専門用語としては真理値のことですよね。しかしそこでは無意識に上のように考えて、対象あるいは可能世界の集合が想定されているようです。

こういうのも”意図的”なものなんでしょうかねー

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私としては 投稿者:φ 投稿日: 8月10日(木)23時31分9秒

全然かまいませんよ。

直接メールで私が石飛さんに頼むのも何ですから(つまり私は別に乗り気というわけではないので。石飛さんの名誉のために)、見たがっているギャラリーのどなたかがあちらで石飛さんの許可を取ってきてくれませんか? そしたら即公開します。

ただし、内容のレベルはきわめて低いですよ……、がっかりさせるのも気が引けるが。

それから、公開するなら全部ですね。リタイアしかけた部分まで含めて全部。選択的に公開したのではまた誤解されてしまいますからね。

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三浦氏および石飛氏へ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月10日(木)23時09分39秒

どうやら、お二人とも隠していることがおありのようですね。

お二人に申し上げます。これ以上読者を混乱させることを避けるためお二人の間にあった論理学に関するメールのやり取りを全て公開するよう、要請いたします。もはやお二人とも「否」とは申されますまい。

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ヒューリスティクス 投稿者:Σ 投稿日: 8月10日(木)22時40分36秒

三浦先生のお話が本当だとすれば(本当でしょう)、zapo様ことΘ氏もまた、石飛女史のあとづけ的自己正当化の詭弁に丸め込まれ彼女が正しいと信じ込まされた被害者ということになるのかもしれません。(憫笑)。
石飛女史、しっかりして下さい。

三浦先生、もしかしたら、石飛女史の「ブッダ論理学」は、「ブッダ・ヒューリスティクス」と呼んだ方が良いのではないでしょうか?

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Re:既に 投稿者:φ 投稿日: 8月10日(木)21時56分15秒

そうでしたか、失礼しました。
それなら、その部分に関しては謝らなくてはなりませんね!<
BR>
しかし、日付はどうなんでしょう? 最も早くて7月23日のようなのですが……

真理表6が Q⊃P であることをなぜ書かないかということを始め、四点の批判を私が石飛さんにメールしたのが2005年7月20日。
即日および後日、石飛さんからの返信がまことに支離滅裂だったので、私は石飛さんが本当にミスったのだと判断していました。
その支離滅裂ぶりは、本当はここに引用して御覧に入れると面白いのですが、私信ですからやめておきますね。

 そのとき、「シェーファーの棒」のことなども指摘させていただいたのですが、私が言ったことを今回そっくり石飛さんがどなたかに語っていましたっけ。「シェーファーの棒」の意味が本当に理解されていれば、あんな本にはならなかったはずです。

7月20日以前に、石飛さんのQ⊃Pがらみ確信犯的発言があったなら、私の勘違いを謝罪いたします。
(しかし、わかっていて読者を欺くのは、ミスよりもさらに悪質ではないですかねえ?
 そもそも意味のない「あえてここを書かない」ですしね。)
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既に終わったと思いましたが‥ 投稿者:Θ 投稿日: 8月10日(木)21時06分46秒

三浦先生

>石飛さんが、執筆時に、Q⊃P(P⊂Q)を認識できていなかったことは百%確実です。なぜなら、一行あれば書き足せる簡単なことを「あえて書かない」ことによるメリットなど皆無だからです。

上のコメントですが、私は違うのではないかと推測しております。

今年の2月には既に無宗ださんとの論議の中で話題が出て、石飛さん自ら無宗ださんからは直接聴かれていない Q←P についての話が出ている事が一つと

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?mode=allread&pastlog=0001&no=9&page=25&act=past#9

そして、2つ目として出版直後の反応である、素数の歌さんとはやしさんとのやりとりにおいて先生が指摘されている内容がほとんどが既に石飛さんから解説されている事。
この2点から意図が最初から仕組まれたものであったことが「見え」るからです。

http://homepage1.nifty.com/manikana/keijiban/19uii24880.html

http://homepage1.nifty.com/manikana/keijiban/20uii24880.html

先生の反応も予想のうちというのは、かのログを見ていたものとしては、首肯けるものです。
最初から解っていた?といってもいいのかもしれません。
石飛さんの「方便心論の研究」なども読むとかなり否定できないなと感じております。

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Re:あちらより 投稿者:φ 投稿日: 8月10日(木)13時50分21秒

 では感想を……

 あおみさんが「真理表の定義をしてください」と真面目に頼んでいるのに、答えずに突き放すだけとは……。
 「定義は、本の中にあります」と言ってますが、なかったから、問われるのですよね。ほんと、真理関数でない真理表って何でしょう?

 ポーランド記法のような〈記法の違い〉と、同一用語の〈定義の違い〉との区別がわかってないとは、改めて驚きました。
 もし区別がわかっているとしたら、質問者を意図的に混乱させて逃げようという、悪質な詐術ですね。

 そういえばたしかに、石飛さん自身が、〈定義の変更〉をたぶん無意識にやりまくってましたね。p.43の真理表6の*は、真理関数です。何度も言いますが、p.41からは、「演繹論理学の枠内」に限定した話になっており、それ以前の時間の話に続く、第二の「問題点」とされています。
 つまり、*は、真理関数として導入されています。真理表5の3と同じものですから、*は、⊃の逆である⊂を表わしています。
 ところが、p.64では、同じ*が「真理表6」の名で再び持ち出され、「チャッカ」と名づけられています。
 だからチャッカはここでも真理関数⊂でなければならず、そうでなければ、「真理表」という言葉は使えないはずです。もし、石飛さんがあとから言い出したように(本の中でちゃんと述べろよ!)チャッカが真理関数でないなら、「真理表」という学術用語の意味を、勝手に変えているのです。
 p.66,67では、⊃と≡も出されていますから、それらも真理関数でないというなら、一体何が言われているのだか、もうメチャクチャですね。

 確立した学術用語を説明も無しに変えてはいけませんよね。

 しかも、自分で導入した*という記号の定義まで変えてしまっています。p.43では、紛れもなく真理関数です。p.64では、「真理表6」と依然呼ばれていながら、真理関数ではないらしいのです。(あとからの説明によれば)
 私は好意的に、真理関数でないという弁明を認め、「真理関数(⊂)に時間関係を加味したもの」と解釈しました。あの本には時間関係以外に述べられていないのですから仕方ありません。

 *がそれ以上の何か複雑な概念だというなら、もともと「真理表」など持ち出してきたのが間違いであり、命題論理学と比べるのが見当はずれです。
 石飛さんは私のチャッカの解釈を「訂正」したそうですが、では正しくは何だと訂正してくれたのでしょうね。記憶にありませんが。いずれにしても、本に書かなければ読者に伝わりません。
 また箇条書きにしておきましょうね。

 ■「真理表」という概念の意味を理解していない。または、定義を勝手に変えている。
 ■*の意味を自分で途中変更している。
 ■⊂に時間関係を加味すれば因果関係になると勘違いしている。
 ■『ブッダ論理学』に好意的な読者であるΘさんのような人にすら伝わらない混乱した叙述がなされている。
 ■雲と雨の因果関係と、雲影と雨の非因果関係を区別する方法が一つも書かれていない。

   ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 については、また先送り。全部列挙するときにしましょう。この基礎がわかってないで本など出すから、混乱を作ってしまうのですね。

 ――――
 最後に一言、
『ブッダ論理学』の読者のかたがたは、石飛さんのこういう答弁↓を見てどう思われますか?

 …………………………………………………………………………
Q⊃Pを知らないなどということはありません。あえてここを書かないことで、批判がここに向かうようにしたのです。
わたしの意図どおり、Q⊃Pであると三浦先生は批判してくれました。
わたしは、この本の目的の一つを達成しました。
因果関係とQ⊃Pのちがいに、みんなの目を向けることに成功しました。
みなさんの心に「ブッダ論理学、それはどんなものなんだろう?現代論理学とずいぶんちがうようだ」という考えが起こってくれることがねらいでした。
……………………………………………………………………………

 この種の言い訳には、私も今まで何度も出会っています。言い逃れの典型です。具体的な一例は、『論理学がわかる事典』p.266を御覧いただければ。
 石飛さんが、執筆時に、Q⊃P(P⊂Q)を認識できていなかったことは百%確実です。なぜなら、一行あれば書き足せる簡単なことを「あえて書かない」ことによるメリットなど皆無だからです。
 そもそも読者の大半は、現代論理学など知りません。その読者に、「因果関係とQ⊃Pのちがい」を説明もせずに放り出し、誰かから咎められるのを待って、大半の読者の目に触れない掲示板でコソコソと「みんなの目を向けることに成功しました」と宣言するつもりだったと言うんでしょうか?

 こういう態度を許してはなりませんよ、真摯に学ぶ意欲のある読者なら。

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あちらより 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月10日(木)10時20分22秒

以下についてどうでしょうか?
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1518&reno=1517&oya=1517&mode=msgview&page=0
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1523&reno=1521&oya=1517&mode=msgview&page=0

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>HP上にまとめていただくわけにはいきませんか? 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)23時45分38秒

 そうですね、片手間作業になるでしょうが、憶えているところだけでもそのうち羅列してみましょう。

 私は、東洋思想はそれなりに好きで、大学院生時代には芭蕉と仏教と老荘思想の三角関係を論じた学会発表もしており(その論文の普及版を『これは餡パンではない』に収録してあります。文庫本の『M色のS景』にも(単行本版には未収録)。どちらも品切れなので、アマゾンのユーズドなどでどうぞ)、しかし今回、インド系の人がいまだに「見てとる」などと言っているのを「見て」失望しました。
 結局、論理学など要らないという意味ですね。

 「見てとる」で納得する読者が増えたとき、情念と熱狂で大衆が動くオカルト全体主義の時代が間近になっていることでしょう。
 大日本帝国大嫌いの私としては、ロジカルシンキングの普及にさらに力を注がねば、と思う次第です。

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>HP上に 投稿者:ハム 投稿日: 8月 6日(日)22時49分16秒

>HP上にまとめていただくわけにはいきませんか?

今回の議論は、すっごい勉強になりました。

因果とは何か?

初めて真剣に考えました。

私なりの結論は、(科学では)必要条件である、です。
これは詰まるところ、トートロジーなわけです。
トートロジーは推論として妥当だということです。

私の例で言いますと、1+1を計算した結果答えが2になったのは、
2になるような計算が可能だったからです。

実は私、十分条件とか必要条件って必要なのか? って思っていました。
何のために必要なのか? 分からなかったのです。
正しく推論するためだったんですね。

私にとって次は、「すべて」と「ある」でしょうか?

感性(見る)だけで理解してきた人間にとって、論理はいつも課題です。

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HP上に 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月 6日(日)17時21分31秒

>その他のもっと大きな間違いについては、これから小出しに一つずつ。(私もいい加減飽きたので、別の話題にシフトしてしまうかもしれませんが)

ここまで、φ先生が指摘してきた問題点や、これから指摘しようとしている点について、HP上にまとめていただくわけにはいきませんか?

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ID2 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)15時53分39秒

↓和算の例は撤回します。思えば、小学校では、職人芸的な算数から始めるんでした。芸を養ったあと、アルゴリズムによる数学は中学から。
 いずれにしても、「見よ」は困ることに違いありません。

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ID 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)15時42分43秒

 チャッカに合わない因果関係が世にあふれている。チャッカって役に立たん概念でしたね……。

 さて、個別の話題になりますが、Σさんとは違って私は、「インテリジェント・デザイン」は学校教育から断固追放すべきだと思っています。
 言論の自由は、教育カリキュラムとは別の問題だからです。
 授業時間は限られています。子どもの知性の発育には、大人は責任を持たねばなりません。
 もし日本の学校教育に「インテリジェント・デザイン」が導入されそうになったら、私は先頭に立って抗議するつもりです。
 「インテリジェント・デザイン」の内容は私もある程度読んでよく知っていますが、その説の誤りについては、『心理パラドクス』p.112〜114「還元不可能なネズミ獲り」をご覧いただければと思います。
 「インテリジェント・デザイン」がなぜいけないかというと、新説でも何でもなく、ダーウィニズムが営々と説明してきた論理をただ否定して元に戻しただけの安易な考えだからです(表現は「科学的」な装いで、必ずしも「神」を前面に出していないので、それだけにモロ擬似科学で、危険)。科学教育の基礎にそういう代物を入れてはいけません。西洋数学に完敗を喫してもなお学ぼうとせず「見よ」と繰り返しているインド数学や職人芸的な和算を義務教育に採り入れるようなものです。

 「インテリジェント・デザイン」の人たちは、定向進化があると「見て」います。
 主流科学者は、定向進化はないと「見て」います。
 「見てとった」と「見とらされた」の区別などありませんよね。百%能動的な人間などいないからです。
 古代人は、地球は静止していて太陽が頭上を動くと「見て」いました。
 トルーマンは、原爆投下が必要だと「見た」のです。
 マッカーサーは、原爆投下は不要で日本本土上陸作戦が必要だと「見て」いました。
 ニミッツは、原爆投下も本土上陸も不要で海上封鎖で日本を降伏させられると「見て」いました。
 大西瀧治郎は、日本人二千万人が特攻死すれば勝てると「見て」いました。
 今でも多くの日本人が、特定地域の住人は「穢れている」と「見て」います。
 私は、女は論理思考に向いてないと「見て」います。

 こうした個人的な「見る」が互いに矛盾するからこそ、「見る」に依存しない厳密な論理が求められます。
 それを理解しないようでは、「見る」だけで世界を理解しようとした原始時代に逆戻りですね。

 あの本が内容・出版形態ともに訂正を要することでは決着はついたようなので、もう議論は不要でしょう。次は、具体的な間違いの指摘ですね。(もう散々やったけど改めて個別に)

 接続詞がなくてもそれに対応する事柄はいくらでも語れること。
 ∨∧≡⊃と並んで⊂があること。
 「抽象」という論理の本質を理解せず、九九にリンゴの味の説明を求めるも同然のナンセンスを書いていること。
 なぜに西洋の因果論や時制論理と比べないのかということ。
        ……どうやらちょっとやそっとの「訂正」では埒があかないようですね。
     その他のもっと大きな間違いについては、これから小出しに一つずつ。
     (私もいい加減飽きたので、別の話題にシフトしてしまうかもしれませんが)

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おおみさまへ 投稿者:Θ 投稿日: 8月 6日(日)14時18分49秒

この掲示板でそういったクソ論議をするのは、ご迷惑になると判断します。
どうしてもやりたければ、あなたのホームグラウンドにもどりなさい。
石飛さんには申し訳ないが、あそこでなら、いくらかあなたの詭弁にお付き合いしましょう。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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インテリジェント・デザイン 投稿者:Σ 投稿日: 8月 6日(日)11時40分52秒

>ただ、あるがままの自然は、どうも「思考の領域にはない」といわれるように、人が決めたルールでは抑えきれない変化相があるのかもしれませんね。ブッタの目にはそのように映っていたのかもしれません。

これに対し、「誰の論理か?」とつっこんだところ、

>人が決めたルールです。人の知性で元々変化するものであるという前提からあらたなルールを探すだけでしょう。ブッタも人ですから。今更、神もないでしょう?

との回答。「あるがままの自然」という貴殿の発言と「人が決めたルール」の整合性が取れていませんね。(笑)
私は、「あるがままの自然」という貴殿の発言から、
それを、カントの「物自体」すなわち、「思考の領域外」にある「物自体」のことを連想・想定して、
物自体に、「論理」と呼べるような知的秩序があるならば・・・誰のロジックか?
と突っ込んだのです。(笑)
貴殿の「あるがままの自然」には知的ロジックが内包されているのか否か?

ウィキの「物自体」の解説はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93

カントはキリスト者でした。
ゆえに、彼は「インテリジェント・デザイン」を言外に措定していながら、信仰論理と学術的哲学論理を峻別して、信仰にあらざる学術的哲学フィールドで限界まで思考したところが素晴らしいと評価されているのだと理解しています。

「インテリジェント・デザイン」について
中岡望のブログより
http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=109

カンサス州教育委員会は、教育基準の見直しを求め、「進化論」と同時に、彼らが「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)」と呼ぶ考え方を教材の中に含めることを求めるものです。
多くの保守的なクリスチャンは今でも「進化論」を信じていません。(・・・)
彼らは「進化論」を教えるのなら、「人類の起源」に関して他の考え方も教えるべきだと主張しているのです。彼らは、「進化論」は必ずしも科学的に証明されていないと主張して、種の起源の”他の理論”も教えるべきだと主張しています。
その理論とは「インテリジェント・デザイン」で、その考え方は「生命は複雑であり、科学で解明しきれないことが多い。それは生命の起源の背後に創造主が存在するからである」というものです。
要するに、種の起源は、創造主の意思によるものであるという考え方も、学校教育で教えるべきだと主張しているのです。

思想の自由市場確保の要請からも、言論の自由のバランスからしても、対立する双方の主張を教えるのは、宜しいと思っています。

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詐欺罪成立の可能性の認識が重要 投稿者:Σ 投稿日: 8月 6日(日)10時32分51秒

三浦先生の、「言論の自由には制限がある」という題名に対して、
Θ氏の主張は、「すごい題名ですね」として、その制限への反論を試みていますが、
残念ながら、ディベート的な詭弁的な無理が著しいようです。
「言論の自由には、様々な法的要請に基づいて、一定の制限がある」
ことは、社会科学上、極めて当然の要請であり事柄です。

石飛女史の『ブッダ論理学』は講談社選書メチエの本として刊行されています。
「講談社選書メチエ」の位置づけを調べてみました。
http://www.kodansha.co.jp/metier/

ここで、「学術選書」という概念とは異なる、もっと雑学的位置づけになっているようなので、その意味では、「メチエ」という分野での刊行は妥当だと思います。

石飛女史は、「学術論理と信仰論理」の区別が全くできていない人ですから、今回のような事態を招くのですが、序文あたりに、大きいゴシック文字で、
「私の語るブッダ論理学は、論理学という<学術>ではありません!」
と書き足すならば、言い訳の仕様もあるでしょう。

しかし、書名に「論理学」と銘打つと、普通は、「学術」だと表明したに等しいことになりそうです。
但し、ブッダが宗教の始祖ということから、「ブッダ論理学とは信仰論理の学と同値である」、と主張できる可能性も残ってはいると思いますが・・・。

健康食品会社が何にでも効くサプリを発売し、売れ行きが良いため、いい気になって、「ガンにも効く!」などを宣伝文句にして販売を始めると、やがて、当局から「薬事法違反」で摘発されてしまいます。
薬でない健康食品を病気を治す薬として販売したことになる詐欺罪容疑での立件になります。

同様に、学術でないものを学術本として刊行するならば、学術書を求める読者を欺きお金を出させるという意味での詐欺罪の成立が検討される問題なのです。

ゆえに、石飛女史は、ご自分の「ブッダ論理学」が「学術論理なのか信仰論理なのか」、公に明確に宣言する「義務」があるのです。これは倫理的義務より強い、ある意味、法的な義務です。

ところが、彼女は、そもそも「学術論理と信仰論理の区別」がつかない「無明」の中にいるため、自分のそれがどちらの論理なのか、皆目、判別がつかないようなのです。

この問題、「違法性の意識の可能性の問題」に帰着しますが、彼女がプロの学者である以上、それに関する「区別がつく可能性」が「ない」とは、客観的に判断されることはないでしょう。
ゆえに、彼女がシラを切っても、認識できるし・すべきものを認識せず、どちらの論理か宣言すべきものを宣言しない「罪」が、因果律として降りかかることになることを避けることはできません。

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すごい題名ですね 投稿者:Θ 投稿日: 8月 6日(日)04時53分35秒

チャッカに合わない具体例だったということです。

「見る」の否定の例は不適切だと思いますよ。
「見てとった」というより「見とらされた」例ですね。
そして
ヒトラーはユダヤ人が邪悪であると考えた。
ドイツ国民は、ヒトラーがドイツを救うと考えた。
オウム真理教の信者は、尊師が超能力者だと信じた。
男はたいてい、女に論理的思考力はないと思っている。

「自分の目」で判断せずに、多数の意見や慣習を信じたり、洗脳されたりした結果、そう「見えて」しまったんでしょう。
こうした例を上げる事で石飛さんの「見る」という主張の意味を歪曲しているのではないですか。

インド数学は袋小路に入ったのですか。
そして、その理由が「見よ」だったと主張するのですか。

>人間の「見る能力」は、ランダムな自然選択の結果偶然備わったもので、世界の実相を反映するとはかぎらない。……そういう謙虚な姿勢が、西洋哲学の根底にあります。人間は、体験を信用してはならないのです。

謙虚な姿勢でしょうか。
世界の実相が「見た」体験や経験とズレていたとしてもそれが、実相と呼べるものなのでしょうか。
自分の体験も人の体験も信用するなということでしょうか。
しかし、科学の世界に限って言えば「思考の領域」ですから。
数学の論理でまとめ、実験結果を元に推論するので、実際に「見る」ことはできませんから、そうならざるおえないのも事実ですね。
でも、チャッカの対象を「見る」という世界のものだと言う主張を故意にねじ曲げてませんか。
なんでも「見る」のが全てだという話を石飛さんが主張しているわけでもないでしょう。
先生がわざと悪質なディベートされているような印象を受けます。

>出版を否定したつもりではなく、学問の本としての出版を否定しました。

その例が、参考書というのも適切でしょうか?
「ブッタ論理学五つの難問」というのは参考書ではありません。
それに受験参考書も学問の本に入るんですね。
そうだとすると学問の本というカテゴリ自体あまりに大ざっぱで、「学問の本だから」、制限があるというご意見も首肯けません。
戦時中、同じように学問の本ですら、天皇批判があれば発禁してきた歴史を持っているわけですから。
思想、信条に立ち入っての内容によって差別するというのはどうも納得がいきません。
本の内容に個人の人権を侵害する内容があるわけでもなし、別にいいのではと思いますが、
不適当な個所があれば、ご本人が納得の上、訂正されることは構わないとは思います。
あとは、内容が面白くなければ売れないし、面白ければ売れる。
良い意味でも悪い意味でも自然淘汰でしか無くする事はできないでしょう。
石飛さんの本は私は十分面白かったですし、内容も悪くはなかった、次回作に期待してます。
また、先生の新作も楽しみにしております。

ありがとうございました。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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言論の自由には制限がある 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)02時53分29秒
 チャッカに合わない因果関係の具体例について何の回答もいただけないし、
 「見る」の一言が石飛さんの口から出てしまったところで、はっきり決着はついたようですね。

ヒトラーは、ユダヤ人が邪悪であると「見てとった」。
ドイツ国民は、ヒトラーがドイツを救うと「見てとった」。
オウム真理教の信者は、尊師は超能力者だと「見てとった」。
男はたいてい、女に論理的思考力はないと「見てとっている」。

古代インドの幾何学の書は、問題の脇に正確な図を描いて、「よく見よ」と書いてあったそうです。
一時期ギリシャ数学より進んでいたインド数学は、公理系と証明という観念を持たなかったために、現代科学を生み出すことはできず、袋小路に入ってしまいました。
「見よ」が祟ったのですね。

 人間の「見る能力」は、ランダムな自然選択の結果偶然備わったもので、世界の実相を反映するとはかぎらない。……そういう謙虚な姿勢が、西洋哲学の根底にあります。人間は、体験を信用してはならないのです。
 人間の直観が全然当てにならないことは、私のパラドクス三部作から簡単な確率問題をいくつか考えていただければすぐ実感できるでしょう。
 科学者は、二人や三人の同僚が熱狂的に「見た」と言い張っても信用せず、別の研究機関で追試を繰り返し、ようやく疑いを解きます。
 論理学者や数学者は、どんなに自分の直観に反しても、論理の命ずるところにしたがって、思いがけない結論を得ます。論理は、直観の牢獄から心を解放するガイドです。

 「見る」の弊害がまだ自覚されていないところを見ると、西洋論理学を乗り越えるどころの話ではなく、二千年前と何も変わってないようですね。

……………………
   Re:ホントは?

>相手の著作について、出版自体を否定するような発言はやっぱりどうもなじめませんね。

 出版を否定したつもりではなく、学問の本としての出版を否定しました。

 言論の自由があるといっても、中学生向けの参考書に「三平方の定理は、三角形を描く場所にあたる土地の由来など因果関係が述べられていないので、正しいとは言えない」などと書いてあったらどうですか。出版差し止めですよ。何度も言いますが石飛さんの本はそのレベルです。

 学術書ではなく、エッセイとか、小説とか、詩集とか、宗教書としてならOKでしょう。
 『ブッダ論理学』は、せめて「論理学」という言葉をタイトルから外して再版してほしいと思います。

 ちなみに、9〜10月に出版を予定している私の次の本は、かなり硬派の論説調ではありますが、学術書ではありません。学術書には書けない怪しげな主張は、そういう本の中で発表することにしています。それが、原稿料を得る者のマナーであり、倫理ですよ。

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Re;誰の「論理」か? 投稿者:Θ 投稿日: 8月 6日(日)00時52分10秒

人が決めたルールです。
人の知性で元々変化するものであるという前提からあらたなルールを探すだけでしょう。
ブッタも人ですから。
今更、神もないでしょう?
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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誰の「論理」か? 投稿者:Σ 投稿日: 8月 6日(日)00時15分13秒

>ただ、あるがままの自然は、どうも「思考の領域にはない」といわれるように、人が決めたルールでは抑えきれない変化相があるのかもしれませんね。ブッタの目にはそのように映っていたのかもしれません。

「思考の領域にない論理」が「ある」とするならば、
そのような「不可思議な論理」を「これは確かに論理だ」と「見付ける知性」とは、
換言すれば、そのように知覚する「思考の領域にはない知性」とは、一体何なのか?
「知性体」なのか?  人の? 或いは、人を超えた?

最高主宰神を否定しながら、一体、どのような回答ができるというのでしょう(笑)

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私的因果の考察 投稿者:Θ 投稿日: 8月 5日(土)20時16分5秒

ブッタ論理学では日常の文脈とでも言うべき体験の世界から因果を「見る」ようですので、抽象化された計算式を因果とは捉えないようです。
私も安易に含意とチャッカを形式の違いで判断したコメントをハムさまにお伝えしたので、誤解を更に深める原因を作った事をおわびします。
ハムさまの因果については、ブッタの因果とは違う因果といったほうがいいのでしょう。
龍樹の「中論」などを見ると、「原因と結果の関係を結果が有る事において、原因を知る。結果が未だ出ていない時には、原因と言う事はできない。」といったことが述べられております。
石飛さんのブッタ論理学の因果についての話は、仏教の因果の考えと合致していると思われます。
また、例で示された、ハムさまの仏教の因果についての解釈は間違っていると思われます。
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善行を行う  ⊃ 善報がある 真
善行を行う  ⊃ 善報がない 偽
善行をしない ⊃ 善報がある 真 ←運のいい奴
善行をしない ⊃ 善報がない 真
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善行を行う事によって、善行の因を積む事ができると仏教では説いておりますが、同じように悪行の因も意図せずとも積まさってしまう事も多く、結果としては単純に善報が現れることがないというのも真なのです。
それでいて、善行の無いところには、善報が全く現れる事ができないと厳しい内容になっています。
だから、仏教の中に運のよい、悪いといった発想を取り入れてしまっては、仏教でいわれる因果を説く必要性はなくなってしまうといえます。

仏教に偶然性はないが、だからといって、必然性もないということでしょう。
もし、2列目を偽とした場合、原因によって未来(結果)は決定されます。
いわいる決定論となるのですが、仏教では決定論となりません。
主体性(行為)にかかわるものが、常に結果(未来)の中に入ってくるようです。
おそらく、これが体験として「見る」過程なのかと思われます。
現実の世界に主体的にかかわろうとする時、「見る」行為がうまれ、その中で原因を探るわけです。
そしてその過程で、結果もかわる。
ブッタ論理学では、現代論理学で命題として普遍的に変わらぬものして示されたものが、時間とともに変化し、有から無へ、また、無から有へと変遷する事を認めています。
したがって、1+1の答えが2であってもよいし、¬2であっても良いとなってしまいます。
これでは、人が決めた決まりが無駄になってしまいます。
ただ、あるがままの自然は、どうも「思考の領域にはない」といわれるように、人が決めたルールでは抑えきれない変化相があるのかもしれませんね。
ブッタの目にはそのように映っていたのかもしれません。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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因果(補) 投稿者:φ 投稿日: 8月 5日(土)15時07分33秒

↓言葉を端折ってしまいましたが、

   丹念な抽象化・形式化を怠ると、「因果関係」のような文脈相対的な複合概念を、丸ごと一網打尽に出来るかのような錯覚に陥る、という意味です。

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因果 投稿者:φ 投稿日: 8月 5日(土)14時26分9秒

ハムさんの異議にも一理あって、
「いろいろ言ってきましたが」φ 投稿日: 8月 1日(火)04時09分57秒
にちょっと言ったように、文脈によって、因果という概念の適切な捉え方は変わります。

目的因の誤謬を論ずる文脈では、私は因果を必要条件の一種として捉えました。(『論理学入門』19節)
 しかし逆に、十分条件として原因を捉えるべき文脈も存在します。雲の種類を特定して、確実に雨を降らせる雨雲に「原因」を絞った場合などがそれですね。(人工雨の場合は雨雲は必要ないので、雨雲という原因は必要条件ではない)

 だから、真理表で因果関係を絞ってしまうのは、そもそも的外れの単純化なのです。文脈を特定すれば別ですが。

 いずれにしても、抽象化・形式化をしない、つまりは「体系的構造」を持たない東洋「論理学」は、論理学とは言えない印象哲学にとどまる、というのが私の「印象」です。

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>それ含意ですよ。 投稿者:ハム 投稿日: 8月 5日(土)13時24分17秒

>だいたい計算をした答えの含意になるのは当然ですが、、これだと因果とはいえませんよね。

計算とその答えは因果関係ではない?

私には、これは因果関係にみえます。
因果とは、ある事柄が以前の事柄の結果だと考えることでしょう。
今回の例では、答えは計算の結果ですよね。

チャッカの誤謬2:因果の意味を変えている。

チャッカなどつくらなくても、論理学の含意で因果を考えることはできると思いますよ。
ちょっとやってみます。

雨雲がでる  ⊃ 雨が降る   真
雨雲がでる  ⊃ 雨が降らない 偽 ←雨雲ですから雨が降るわけです。
雨雲がでない ⊃ 雨が降る   真 ←天気雨
雨雲がでない ⊃ 雨が降らない 真

これでなんら不都合はないと思いますがね。

仏教の因果は善悪が包含されていますよね。

善行を行う  ⊃ 善報がある 真
善行を行う  ⊃ 善報がない 偽
善行をしない ⊃ 善報がある 真 ←運のいい奴
善行をしない ⊃ 善報がない 真

これは我々の実感ともよく合いますよね

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誤解だったようです 投稿者:Θ 投稿日: 8月 5日(土)12時14分59秒

三浦先生
今は時間があまりあまりませんので、端的に。
私のブッタ論理学理解は至らなかったようです。
石飛さんのHPに石飛さん自ら回答を載せております。

Re: ブッダ論理学をめぐる議論の.. - 管理人エム 06/08/05-11:41 No.1496

ブッタ論理学では論理学の対象となるものを限定しています。
1回きりの出来事では判断できないといった所までは、いい読みしてたんですが、残念‥。
理解し咀嚼するまでには至らなかったようです。
現代論理学(西洋論理学)が現実世界と思惟の世界(抽象概念もふくむ)を分けて進んだものを分けずに進むようになるようです。
現代論理学がオールマイティだとして、ブッタ論理学はもともとそれを求めていないようですね。
三浦先生の出された命題に安易に答えてしまっていた事自体が、ブッタ論理学を西洋論理学の範疇で捉えていた証拠です。なるほど、確かに難しいな‥。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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山本 投稿者:一郎 投稿日: 8月 5日(土)01時48分24秒

似非進化論みたいなもの。
1○○
○2○
○○3
1を基準とし2´3´で補完する。
同様に2、3を基準とする、もしくはすべてを包括する
見方もあるんでないかと、当初考えられた。

借金千兆円の巨大組織からお声がかかったのはいいが、内紛に巻き込まれ、
死後の世界のフィールドワークへ旅立つ。
亀田興毅おめでとう。

補足だから、レスはいいっす。

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永井氏関連にいきたかったが、しばらくチャッカか…… 投稿者:φ 投稿日: 8月 5日(土)00時29分24秒

 Re:やり残しの命題
宇宙ステーションの中でも太陽は移動しますよ。太陽を移動させない軌道をとることはほぼ不可能です。
あるいは、宇宙ステーションレベルで考えていいなら、
雲がない 雨が降る   は真です。宇宙コロニーではそうならざるをえません。

因果関係の判別にチャッカが全然使えないことがわかるでしょう?

>暗くならない 雨が降る   真
>お天気雨は雲は有るが暗くはないですよね。 日差しが入りますから

 雲ひとつ無いお天気雨のような状況(そういう場合はあります)を除外して考える程度の石飛さんのアバウトな例に合わせたので、
 暗くならない 雨が降る  は、
 雲がない 雨が降る   と同様、偽と認めるべきでしょう。もし気になるなら、
 「暗くなる」を「雲影がある(雲が日光や月光を遮ってできた影がある)」に変えてもらってもかまいません。
 雲影がある*雨が降る は、因果関係でないにもかかわらず、チャッカが成り立つ例です。

 さて、焼死する前には必ず煙が出ますよね。
「煙が出た」 「焼死した」 は、チャッカによって、因果関係だというのですか?
 それは困りますね。因果でないものを因果としてしまうようでは。やはりチャッカは因果関係を表わせないということです。(煙と焼死が因果関係にないことは認めますね? あくまでチャッカの定義に合わせて「因果関係のはず」などと固執しないように)

 >唾を飲まない 自殺する    真 ←なぜこれが偽に?(睡眠薬のんで眠りながらの死もあるし)

 ↑唾飲みは「自殺する直前に」の必要はありません。
 自殺する以前に唾を飲んだことのない人間はいないでしょう。つまり、唾を飲むことと、自殺との間には、チャッカが成り立つはずです。
 因果関係というのは、直接に連続した事件どうしの間でだけ言える、などとはチャッカは述べていません。(実際それは正しくないし)

 気になるなら、「自殺する」を、「食事する」「競走する」などに置き換えてください。

 あと、次の例がまだ残って今いますよ。Θさんの前の応答は応答になっていません。

    「風邪をひいたこと」が「咳が出ること」の原因である……?
    「航空機事故に遭う」が「死ぬ」の原因である……?

 ともに、チャッカの真理表に合致しないが、明らかに因果関係です。(これも、あくまでチャッカの定義に合わせて「因果関係でないはず」などと固執しないように)

 というわけで、必要条件+時間関係 などというアバウトな基準で因果関係が選別できるはずがないでしょう。
 雲がある*雨が降る
 にしても、雨の原因にならない雲なんていくらでもあります。雲の中でどういう雲が雨の原因となるのか、雲の種類や条件の特定ができなければ意味ない。おおざっぱな「雲」と雨に関係があることくらい、ブッダよりずっと前から人間は知っているのだから。
 ともかく、こんなアバウトな、杜撰な見通しで因果がわかったなどと、安易すぎです。抽象性、形式性といった論理学の本質を読者から隠蔽することになります。読者こそ災難です。

 そう、抽象性が命。
 雲と雨の関係とか、煙と焼死の関係とか、そんな具体的な細部を調べるのが論理学だと本当に思ってるのでしょうか……?

 『ブッダ論理学』の具体的間違いは、8月 1日(火)15時39分31秒に続いて、小出しに明確にしていきますが(あの人たちがひとつでも反論してくれればさらに笑えるんですけどね……)、根本的には、論理学の「抽象」という方法を理解していないことが決定的です。  抽象思考が出来ないことが東洋思想の敗因だったのに、西洋論理学の洗礼を受けた後もまだ学べないとは……。

 5+5=10は、5つのリンゴの味を伝えていないから不十分な等式だ、というのが石飛レベルです。数を抽象しないレベルで議論したければ、数学ではなく、植物学から始めるべきです。同様に、真理値を抽象せずに因果関係や時間を論じたいなら、命題論理学ではなく、時制論理学か物理学か気象学を相手に議論を始めるべきだったのです。
 だからあの本の出発点が全く無意味なのです。マナーが出来てないとはそういう意味です。プロに対して言いにくいことですが、一からやり直しですね……。

     Re:ホントは? は次の機会にまわします。

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それ含意ですよ。 投稿者:Θ 投稿日: 8月 5日(土)00時05分17秒

ハムさま
なにか根本的に含意とチャッカとを間違えていると思いますよ。
チャッカは<1101>ですから
1+1を計算した    * 答えが2になった    真
1+1を計算した    * 答えが2にならなかった 偽←これだと駄目なんですよ。
1+1を計算しなかった * 答えが2になった    真←これだと駄目なんですよ。
1+1を計算しなかった * 答えが2にならなかった 真

だいたい計算をした答えの含意になるのは当然ですが、、これだと因果とはいえませんよね。
チャッカの考えの面白い所は原因がないのに結果がでてはいけないのです。これ結構大事です。
原因が無い時は結果がない。もし結果が出るようであれば、それは原因とは言えないという考えです。
ハムさんのはチャッカでは有りません。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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原因は一つとは限らない 投稿者:ハム 投稿日: 8月 4日(金)23時40分55秒

>具体的なこれではチャッカを因果関係としては認められないという命題があるといいのですが。

そんなのは、いくらでもありそうです。

こんなのどうでしょう。

「1+1を計算した」と「答えが2になった」で考えてみましょう。

1+1を計算した    * 答えが2になった    真
1+1を計算した    * 答えが2にならなかった 偽
1+1を計算しなかった * 答えが2になった    真
1+1を計算しなかった * 答えが2にならなかった 真

「1+1を計算した」ことは、「答えが2になった」原因の一つでしかないですよね。 チャッカの誤りの一つに、原因が一つだと考えていることが挙げられます。

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真理権力説と評価語 投稿者:Σ 投稿日: 8月 4日(金)23時19分31秒

>フリー哲学者、永井俊哉氏は、「真理は人々に認められてこそ真理だ」と考えているため、「真理」を評価語レベルで位置づけているようです。

私自身のこの言葉、ちょっと舌足らずで誤解を生んだ可能性もあるので、ご本人から「そんなこと言っていない」と異論を唱えられないように、書かれたものの一部を提示しておきます。

永井俊哉「真理とは何か」
http://www.nagaitosiya.com/a/truth.html

上記の小論文は簡潔過ぎてわかりにくいのですが・・、
我々がよく耳にする、「思想の自由市場」という考え方は、「思想の自由市場の中での淘汰競争の中で、結局、真理は最後に勝利する」 という、「一つの信仰」に支えられたものです。
これは、理性が、最終的には、「正しい真理を選び取るであろう」という、人間理性への信頼を基礎にした考え方だともいえましょう。
永井俊哉氏は、結局のところ、「思想の自由市場」を肯定し、システム論的に、「長く生き延びる思想こそが最も真理に近いものだ」、という、「市場淘汰という濾過装置による選別法」を、信じて良いものだ、として信仰している、ということのようです。(真理権力説)

そういう意味で、長い間、思想の自由市場で生き延びて「正しいと評価されてきたもの」が真理に近い、というニュアンスだと思います。その意味では、やはり「評価語」のような気がします。

三浦先生が仰るような、 「(真理の)同定法と論理的定義の混同」
が、「真理権力説」自体に内包されているのかどうか、私には俄には識別できません・・。

>ただし、人間原理の説明は間違っていました。

永井俊哉氏とのメール対話の格好の材料になります(笑)。ご指摘、有り難うございます。

>それと、「売春はなぜ悪か」のようなコラムで、「売買春を合法化するとセックスの価値が下がって人口が減り、種の存続が保てない」みたいなことを結論としていて、失笑した記憶があります。因果関係自体が怪しいですが(・・・)

う〜む。私は結構、この因果連鎖、「そうだよね」みたく、納得してしまった記憶があります。しかしやっぱり、怪しいですか・・・再考してみます。有り難うございます。

ハムさまへ
コメント有り難うございます。

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ホントは? 投稿者:Θ 投稿日: 8月 4日(金)17時16分39秒

三浦先生
ホントの気持ちはどうなんでしょうね?
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<8月 1日(火)04時09分57秒>のご意見について
「私は、人間原理を整合的に研究する文脈では、因果関係を必要条件の一種(かなり限定された一種)と見るのが適当だ、という立場に立っています。
 他の文脈では、必ずしもそうではないでしょうが、文脈ごとに、適切な因果の概念は客観的に決まるべきものでしょう。
 一回限りの特殊な出来事(たとえばこの宇宙)の原因または理由を考えられない論理は、決定的に不十分だと私は思っています。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ブッタ論理学を人間原理を論述する文脈なら認めてもいいと言うことになりますか‥。
旅支度で忙しくしていたので見落としてましたが、三浦先生もお人が悪いですね。
やはり、読めてはいるけど、言い過ぎは許せんということですね。
定義の問題や使い方が現代論理学のそれとは違うという批判は、同じ土壌の論理学の中で通用するとはおもいますが、石飛さんの語り様子ではブッタの論理学は完全に現代論理学の外側ですね。
ただ現代論理学の道具や手法を利用して自分の論理学を語っているだけのように思います。
それなら、それでお借りしますとか、こういう風に使いますからとか説明すればいいものを、それをせずに自分勝手な使い方で論を展開するわけですから、もういい加減にしろ!!状態ですよね。
しかもその上に、現代論理学を批判するわけですから、される側はたまったものじゃありません。
呆れるより他はないという感じでしょうか。
そして感情的になって全否定した後に、フッと気がつくと実は彼女の語りたかった事ってそんな表面の事柄じゃなく、内容もそれほど変じゃない‥それどころか、結構大事な視点を訴えているな。と私の理解の歩みはこんなところです。
先生も解っておられると思いますが、現代論理学の正論を彼女に言っても仕方ないです。中には先生しか知らない事もあるかもしれませんが、大概は彼女も知っていての確信犯ですし、そしてなにより、ブッタ論理学は現代論理学であるだけでなく、西洋論理学ですらないのです。
そんなものは論理学と呼べないと言われたとしても、それは西洋論理学の定義であって外側のブッタ論理学にはその基準は当てはまりませんというに決まっています。
だから論理学の違いを主張し合ってもなにも生まれないし、ただ相手の言う事を否定するだけに終わるのも仕方ないのかと思います。
ブッタ論理学ではQ←Pは認めず、現代論理学ではQ*Pを認めない。それぞれ、同じ真理表の真理値ではあっても表す意味が違うのですから仕方ないのです。違う考えとその表記の仕方が違うものであるのに、同じであると扱えば、それは間違いになります。
先生としては石飛さんのチャッカを必要条件として片づけてしまいたいだろうし、その路線で論を展開されていますが、それではやはり無理があります。
チャッカで主張している全ての内容を先生は必要条件の中に押し込める事ができるのでしょうか。そのような取上げ方で必要条件を語った研究があるというのであれば、それを紹介すればいいのですが、残念ながらアンカリング・スタンダードとして紹介されたチャーチの接続詞も因果を表すものとしては紹介されていないのです。
したがって、この手の「現代論理学のさまざまな道具の正しい使い方はこうである式」の論調では石飛さんには通用しない。もともと、あの本の中では彼女にとっては現代論理学の正しい使い方より、ブッタ論理学として使いやすいやり方を選んだのでしょうから。 そうした形式的な事は現代論理学を学ぶ人には一つ一つが大切ですが、あの本はブッタ論理学のほんですからね。別に彼女の現代論理学の授業の中でこんな使い方はするわけじゃないと思いますしね。
それに「ブッタ論理学」一般書です。現代論理学の解説本でも入門書でもありませんから、あくまでブッタ論理学の本として出しているわけですから、それを知りたい人が買うわけです。現代論理学を知りたい人は先生の「現代論理学入門」を買うでしょう。現代論理学を知りたい人がブッタ論理学を買ったら、買う人の選択ミスでしょう。
ブッタ論理学を知りたい人、仏教の論理に興味がある人が先生の「現代論理学入門」にインド論理学やブッタ論理学が紹介されていないから怒ったとしても、あるいは仏教を現代論理学から否定して書いてあったって怒ったとしても、それはその人のせいでしょう。選択ミスです。それと同様です。
色々な情報が流れていてるのは当たり前です。
一々にあの本は出版すべきじゃない、この本はどこそこが止めるべきだとか言うのであれば、ナチスのように表現の自由を制限して適性図書とか決めるしかないんじゃないでしょうかね。
正直言いますと、石飛さんのめちゃくちゃな現代論理学の批判より、先生のそれを出版してはならない、あるいは、仏教学会が、出版社がどうして認める等の発言を公にする方がよっぽど常識から逸脱しているし、恐ろしい発言だなとも感じます。
まあ、それぞれの感性ですから、ただ同じ一つの発言、表現も色々とり方はあるでしょう。それは本に限らず、こうした掲示板についても言えるわけです。ブーイングもあれば、賛同の声もある。だけどもどのように罵倒してもいいけれども、相手の著作について、出版自体を否定するような発言はやっぱりどうもなじめませんね。
あれでは、石飛さんも対話を拒まざる得ないのでしょう。もう少し本の内容触れた実りある話ができるといいですね。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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やり残しの命題 投稿者:Θ 投稿日: 8月 4日(金)16時36分34秒

三浦先生
ただいま、出張から帰ってきました。
話はもう終わってるかもしれませんが、中途半端のままというのも性分にあわないのでお話させてください。

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<8月 1日(火)00時54分59秒>の命題について

> 「 <1101>に当てはまる2つの命題型はいくらでも持ち出せます。時間順序が先後になっていれば、すべてその二つの出来事には因果関係があるというのでしょうか? まさかそうじゃないでしょう。
 「太陽が移動する」*「秒針が進む」
 「暗くなる」*「雨が降る」
 「煙が出た」*「焼死した」
 「唾を飲む」*「自殺する」
 これらは、私の意見では、<1101>に当てはまっていながら原因結果の関係にないペアです。いろいろ考える余地がありますが、「チャッカ」で因果がわからない実例は他にもいくらでもあるでしょう。必要条件に時間順序を加味しさえすれば因果関係がわかるなどという単純化は、因果という概念をナメていると思いますよ。(εさん方式で厳密化すれば、あるいは解決するかもしれません)」

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たしかにペアだけで判断できないことがあるようですね。
この場合はまさに四つの真偽の関係が成り立つかどうかまで読み込んで、判断するしかないですね。
実際、雨と雲の例として上げている文を読むとそのような過程が書かれています。
具体的に見ると

「太陽が移動する」*「秒針が進む」は偽

太陽が移動する   秒針が進む   真
太陽が移動する   秒針が進まない 真
太陽が移動しない  秒針が進む 真←宇宙ステーションの中でも時計の秒針は進みますよね
太陽が移動しない  秒針が進まない 真←時計が壊れてたり、電池切れになってしまえば秒針は進みません

時計の秒針と地球の自転に因果が有るという風に考える事の方が理解できませんが、なぜ<1101>になると言う例にこれが入ってくるのでしょう??

 「暗くなる」*「雨が降る」<1111>

暗くなる   雨が降る   真 「暗雲たちこめて雨が降る」ありますね。
暗くなる   雨が降らない 真  曇りだけで雨がふらないこともあります。
暗くならない 雨が降る   真  お天気雨は雲は有るが暗くはないですよね。 日差しが入りますから
暗くならない 雨が降らない 真  晴れの時はこれですね。

雨が降ると暗くなるならないは因果因果とは言えませんね。暗くなくても雲が有れば雨が降りますから(お天気雨)、雲と雨は因果と呼べますね。

「煙が出た」*「焼死した」

煙が出た  焼死した     真
煙が出た  焼死しない    真
煙が出ない 焼死した     偽
煙が出ない 焼死しない    真

たしかに<1101>ですが、これは前件と後件の時間差が微妙ですね。焼死という言葉はきつく印象的ですが、いわゆる燃焼と死亡ですよね。ものの燃焼と煙の関係は等値ですが、チャッカ的に考えれば燃焼が先で煙が後になる関係ですね。焼死の燃焼の方を意識してみれば、これは等値関係になっています。
(あくまで一般の経験の範疇の中でのことです。)
また死亡の方を考えると、煙が燃焼と等値であることを考えれば、体が燃焼した事によって死亡したとなりますから、これは因果と言えそうです。

「唾を飲む」*「自殺する」<1111>

唾を飲む   自殺する        真
唾を飲む   自殺しない       真
唾を飲まない 自殺する        真 ←なぜこれが偽に?(睡眠薬のんで眠りながらの死もあるし)
唾を飲まない 自殺しない       真

時間的前後はともかく、何が入ってもいいと私の方から主張しているのであれば、
なぜわざわざ、命題論理学の含意の前件と後件で何が入ってもいいのではないということを先生から確認をとったのでしょう?
チャッカも<1101>の関係に収まる前件と後件で無ければならないし、しかも時間の前後という制約もあるからです。
およそ真理関数とはいえるものではありませんが、真理表を使って命題の真偽は導き出せるでしょう。
含意でいうならば、「関連性にかかわる違和感」というものもあります、チャッカではまさに関連性がとわれるわけですから、違うものを集めても結局<1101>には当てはまりません。不思議な事に‥。
もっと調べればでてくるのでしょうか。
具体的なこれではチャッカを因果関係としては認められないという命題があるといいのですが。
これが見つけようと思うとなかなか、上手く合致できないのです。
うまい命題があれば、チャッカ信仰とか馬鹿げた批判も意味を為さないと思います。
正にチャッカが真理表や命題論理だけでは使えないことの証明になるわけですから、嫌でも引っ込め無ければならないんじゃないかと思います。
しかしながら、先生の命題どれも上手くチャッカの否定はできていませんし、逆に的が外れているようにすら思えてしまいます。
もしかすると、上の例がほんとは因果関係がないと先生が判断された方法自体がまさにチャッカによる判断ではないのでしょうか。
チャッカは特別な方法というより、意識はしていないものの日常生活で普通に使っている論理的思考のなぞりといえます。
ただし第四列めを見忘れるわけです。無い事が有るという風には考えにくくなってきています。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:真理について 投稿者:φ 投稿日: 8月 4日(金)00時37分30秒

永井俊哉氏は、真理の論理的定義と、真理の実際の同定法を混同してるんですかね。
真理を実際に同定するには、「人々(正確には、当該分野の権威の大多数)に認められるもの」とするしかないのが普通ですが、論理的定義は、真理とはもっと客観的な基準でなければなりません。同定法と論理的定義の混同は、哲学の初心者がよく犯す誤りですね。

 ただ、永井俊哉氏のコラムは以前ちょっと読みましたが、おおむね、まともな学者のようです。
 ただし、人間原理の説明は間違っていました。(巷の啓蒙書よりはだいぶマシでしたが)
 それと、「売春はなぜ悪か」のようなコラムで、「売買春を合法化するとセックスの価値が下がって人口が減り、種の存続が保てない」みたいなことを結論としていて、失笑した記憶があります。
 因果関係自体が怪しいですが(ブッダ論理学はどう教えてくれますかね?)、認めたとしても、同様に、マスターベーションやAVや避妊具や風俗店全般をも非合法化しなきゃいけないと思うんですけどね。

 ま、いろんな分野について一人で発言する人がいるのはいいことです。

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真理について 投稿者:ハム 投稿日: 8月 3日(木)23時38分54秒

>「真理は人々に認められてこそ真理だ」

これって、真理ですか?
真理とは絶対的なもので相対的なものではないはずです。
相対的な真理など、心理にしかすぎないと思うのですが。

>誰からも認められずとも、神のみから認められれば真理、或いは神との一致という事実をもって「真理」とするので、・・・

これの方が私の真理観と同じです。
ただ神ということではなく論理ということだと思います。
すなわち、「論理のみから認められれば真理、或いは論理との一致という事実をもって「真理」とするので、」ということです。

どうも永井という人の言うことには違和感があります。

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徒然 投稿者:Σ 投稿日: 8月 3日(木)22時11分4秒

フリー哲学者、永井俊哉氏は、「真理は人々に認められてこそ真理だ」と考えているため、「真理」を評価語レベルで位置づけているようです。私のような(条件付き)素朴実在論的な一元哲学論者からすれば、誰からも認められずとも、神のみから認められれば真理、或いは神との一致という事実をもって「真理」とするので、真理とは、評価語ではなく、記述語の範疇に入るような気がします。
老荘思想の「無」が記述語の範疇であるならば・・・です。

>出発点に勘違いがあると、いくら勉強しても、トンデモの方向に行くだけのようですか……。

本当に同感です。真理表の読み方からして勘違いのようで・・・(憫笑)。

>「プロ」という言葉はやはり評価語として使うのがよさそうか、とも思ったりします。(「哲学」「芸術」「宗教」等々という言葉も。)

私もそう思います。
世間の評価なくしては、それで生活できるに十分なだけのお金を稼ぐ展開(プロ)にはならないと思います。生前、まったく認められなかったゴッホやニーチェは、後世、画家や哲学者と言われますが、生前、彼らを世間はそのようには評価しませんでした。
プロ野球選手やボクサー、サッカー選手なども、お金が取れるのは、高評価あってのものですから、やはり、「評価語」である比重が90%以上かな、と思ったりします。

>事実としてプロである人の中には、アマチュアより思考能力の乏しい者はいくらでもおるわけです。

そうなんですか!  なんたるちあ、サンタルチア!

>私は、『ブッダ論理学』は、明らかに担当編集者に罪があると思います。

同感です。ただ、二十冊以上の書籍をだしている宮元啓一教授の紹介で・・という可能性もありますから、その場合には、紹介者の責任も大いに問われるべきだと思っております。

>擬似科学の典型的症状で

超同感です。

>「冒涜」といったカルト語で

私も論理学的場面では「冒とく」という言葉は慎むようにします。
たしかに、彼らは「なれ合って」いますね。
宮元啓一教授は思考停止を「エポケー」と言って嫌っていますが、ブッダ論理学教徒たちは、エポケー的症状だと思います。

>名詞として、絶対的に「思考の自覚ができてない」という記述語でした。(言外に諦めの意も込められています)

「思考の自覚」とは良い言葉ですね。私は既に、95%以上、諦めを感じてはいますが、細々と対話は続けて行こうかと・・。(笑)。

つまらぬ逐語的レスでした。これへの一々のレスは不要です。

まことに、色々と、心から有り難うございます。

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注記(「トンデモ」) 投稿者:φ 投稿日: 8月 3日(木)02時57分56秒

8月 1日(火)01時07分10秒
で、直観主義論理や量子論理を「トンデモな」と書いておりました。その形容詞は評価語ですが、必ずしも悪い意味ではありません。(歓迎の意も込められています)

↓Re:絶対議論に
の「トンデモ」は、名詞として、絶対的に「思考の自覚ができてない」という記述語でした。(言外に諦めの意も込められています)

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Re:絶対議論に 投稿者:φ 投稿日: 8月 3日(木)01時32分46秒

 まあ、「プロ」というのは、学術的な講義もしくは書き物で金銭を定期的に受け取っている人のことを指す「記述的な言葉」でして、「評価的な言葉」ではありませんでしたので。事実としてプロである人の中には、アマチュアより思考能力の乏しい者はいくらでもおるわけです。
 私も「プロ」として(事実として学術で給料・原稿料を受け取っている者として)アマチュアのすぐれた学徒がたに嘲笑されることのないよう、精進したいと思っております。

 それにしても、「7月31日(月)16時23分」付近で私が例を出した、因果関係候補の判別を、真理関数+時間関係だけで解決できたら、先人たちの苦労はありませんね。
 安易に「これで全て解決」式の物言いは、「アインシュタインは(現代論理学は)間違っていた」風の権威否定の突っ張りもそうですが、トンデモ本や擬似科学の典型的症状で、「封印」「冒涜」といったカルト語での馴れ合いもそうですが、心配です。

 私は、『ブッダ論理学』は、明らかに担当編集者に罪があると思います。専門知識云々以前に普通の感覚さえあれば「おかしいな……」と感じられる表現があちこちにあるのに、見逃しているわけですから。

 いや、曲がりなりにも私の本を読んでくれていて、実際よく読んでいる形跡が端々に見えるものだから、なおさら私は我が事として心配している(ふりをせざるをえない)のですよ、あの人のことを。というよりあの人の読者のことを。

 出発点に勘違いがあると、いくら勉強しても、トンデモの方向に行くだけのようですか……。
 「プロ」という言葉はやはり評価語として使うのがよさそうか、とも思ったりします。  (「哲学」「芸術」「宗教」等々という言葉も。)

 ――ラッセルのパラドクスの解決というのは、見てみると、「パラドクスだと感じられなくなる見方を工夫する」ということみたいですね。真っ当なやり方だと思います。

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絶対議論に負けない方便士 投稿者:Σ 投稿日: 8月 2日(水)22時03分0秒

三浦先生へ

お返事有り難うございます。

>ただ、笑ってばかりいられないのは、占い師の掲示板ではなくて、学問のプロであるはずの管理人の掲示板だということですね。

学問のプロと言っても、石飛女史は、インド哲学、それも仏教外道の一派の「神の存在証明」などの論証を研究していたわけですから、これ即ち、「インド哲学史の中の子供論理の一派」の研究者であった、ということですね。
そういう「子供論理研究」のノリそのままに、突然、龍樹研究・仏教研究に鞍替えして、深遠崇高なる仏教を、そういう「子供論理」で解析しよう、解析できる、できた、と思い込むところが、何とも稚拙な勘違いであり、大人がそれをすれば、真理に対する「不敬な冒とく」になると思っております。
しかし彼女は「絶対はずれがない、当たり前の論理」を主張しているがゆえに、自信満々であり、ゆえに、無敵の驕慢の極致なので、自己洗脳による、荒木広報部長状態だといえます。
それゆえ、、三浦先生から何を指摘されても、
「三浦先生が恥をかくだけです」という台詞を繰り返しております。頭がくらくらします(笑)。
彼女曰く、無敵の龍樹論理を会得したから、議論では決して負けない、のだそうです(笑)。

国府台には例の病院がありますが・・・。いえ、これ以上は申しません。(苦笑)

>またひとつ『ブッダ論理学』の明白な間違いを提示する予定です。(単発にしたほうがわかりやすいですよね)

是非是非、お願い申し上げます。楽しみにしております。みんなで突っ込み続ければ、いつか気付くかもしれません。

私も、ヴィトゲンシュタインの言説を例にだしつつ、「論理だけで倫理は語れない」ことを彼女に伝えたいと思っております。

(追伸)
ヤフー掲示板で、「そら」さんという人が、「ラッセルのパラドックス」を自分は解決した、と言い、その解決過程を順次、自己検証しながらアップして行く試みをしています。勿論、途中で破綻するかも、とは述べていますが、さてどうなりますか、これからの論述が楽しみです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019921&tid=a5ia5ca5bba5ka5qa5ia5ia5afa59a4n2r7h&sid=552019921&mid=2

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Re:絶対はずれない占い師 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)23時28分14秒

 いえいえΣさん、私は、あの掲示板の存在自体は楽しくて、いいと思いますけれどね。笑えるし。
 ただ、笑ってばかりいられないのは、占い師の掲示板ではなくて、学問のプロであるはずの管理人の掲示板だということですね。

 誤解してほしくないのは、私が

8月 1日(火)15時39分31秒 決定的批判のアンカリング・スタンダード ⊂、←

で述べたことは、チャーチという論理学者が ⊂ という接続詞を使っている、という歴史的トリビアを挙げて、石飛さんの無知をあげつらったのではありません。
 どこかで3の倍数に名を付けた数学者がいるかもしれません。そんなことを知らなくても、数学徒として恥ではないでしょう。同様に、⊂ を知らなくたって論理学の学識に全然キズは付きません。

 問題は、その「恥でない程度の知識」ということなのです。
 ⊂という接続詞はたしかに使われているが、そんなものはあってもなくても、論理学の教科書にあえて書かれない「トリビア」だと知ってほしかったのです。
 トリビアと、論理の本質とを区別せず(できず?)、表層の言語を捉えて「真理表には穴がある」と鬼の首を取ったように騒ぎ立てるのは、どう見てもプロの流儀ではないからです。流儀というものは、部分だけでなく、全体に関わります。つまり、あの頁前後の問題にとどまらないのです。

 単に哲学好きの隠居さんに対してであれば、私も、和気藹々と語りましょう。しかし、石飛さんは、教壇で学生を教え、著書も公刊しているプロですよ。プロに対しては、「読者や学生に対して責任を感じないのですか?」と本気で詰め寄るのは、こちらもプロとして当然のことなのです。

 プロの流儀でやってほしいものです。私は、ウソを真に受けてしまう、そして論理の本質と表層の区別を誤る読者のことを心配しているのです。

 さて、
 決定的批判のアンカリング・スタンダード〈その2〉は、ちかぢか、
 例の宿題、
 ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)

 の解答として、
 またひとつ『ブッダ論理学』の明白な間違いを提示する予定です。(単発にしたほうがわかりやすいですよね)

 笑える掲示板には相変わらず期待してますんで、Σさんも大いにあおり立ててやってください。あちらの全てのかたがたも、そろそろ覚醒の潮時なんですけれどねえ……。

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絶対はずれない占い師 投稿者:Σ 投稿日: 8月 1日(火)22時01分20秒

三浦先生の「7月31日(月)16痔23分」投稿の解説は、まさに核心をズバッと突いた分析だと思いますし、その内容も、私にでもよく理解できます。まことに、拍手喝采したいと思います。これまで、喉に突き刺さっていた小骨が取れたような、すっきり爽快な気分です。
石飛女史の一番の論理学的侍従がここに乗り込んで来て、三浦先生によって撃沈された事(但し、ご本人はそう思っていない模様・憫笑)は、いつか、きっと、マインド・コントロールされているあちらサイドの人々にも、徐々に良い影響を与えると考えます。

前から感じていたのですが、石飛女史と対話して思うのは、彼女は、「排中律を利用する、絶対にハズレない占い師」、のようなことを考えているだけなのではないか、と。(笑) (例)
「絶対はずれない占い師」、曰く
◆どれどれ、あなたは、結婚できるか、できないか、どちらかですね。あなたが望む方向になるように日々頑張りましょうね。
◆どれどれ、あなたは、良い会社に就職できるか、できないか、どちらかですね。人生常に前向きに生きましょうね。
◆あなたは、宝くじに当たるか、当たらないか、どちらかですね。でも、とにかく買わなきゃね。
◆あなたは、悟れるか、悟れないか、どちらかですね。困難だからこそ頑張りましょう。

◆明日、雨が降るか、降らないか、どちらかね。折りたたみ傘を携帯しましょう。
◆ブッダの論理を学びなさい。あなたが修行する時、悟れるか、悟れないか、どちらかです。後者の方がずっと可能性は高いのですが、その方が悟れることが貴重で価値あることになります。さあ、煩悩から解脱するため、因果の論理を学ぶのです!

『ブッダ論理学』を読むと、石飛女史は、さあ、この調子で、みんな、どんどん因果を語りましょう、と述べているように見えます。

こうした排中律の恒真式を利用した因果の言明は、実に内容空虚ですね。
それに、その主張から、彼女が、ブッダの「苦の消滅」を目指す因果連鎖の截断法を、どう解き明かしているのか? という目で調べても、これについても、何も語っていないように思います。
その意味でも−−つまり、仏教のダルマという意味−−でも、内容空虚だと思います。

さらには、石飛女史の取り巻き衆の、「我の強さ」もすさまじい。
彼女の「ブッダ論理学」程度のロジックでは、彼らの恐るべき煩悩たる「驕慢」を一つも破壊できない、ということは、既に実証されてしまったようなものですね。

三浦先生には心より感謝申し上げます。

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決定的批判のアンカリング・スタンダード ⊂、← 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)15時39分31秒

 F.Nakajimaさん。
 そうですね、ダラダラ批判を続けていても、あちらは「水と油」と逃げて議論しようとしませんから、(議論するための論理学なのに)、  省エネのため、ここで、 【決定的な基準となる「間違い」をひとつだけ】指摘して、(これまでも散々やってきましたが、改めて「ひとつ」に絞るのがよさそうです)、
 【批判のアンカリング】としたいと思います。
 ダマサれている気の毒な読者を救済するさいに、ご自由にお使いください。

 p.43から引用
「命題論理学の演繹的な推論の中には、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない。したがって、世界のできごとの中でこの接続詞に対応していることがらは語ることができない」

 ↑ここの、「したがって」が致命的であること(論理学を理解していない証しであること)はだいぶ前に無宗ださんに述べました。  もうひとつの、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない については、「必要条件」というポピュラーな言葉がある、と申してきましたが、「それは接続詞ではない」という言い逃れを封じるために、では次のような事実を挙げておきます。

 ルドルフ・カルナップやアロンゾ・チャーチは、すべての真理関数に記号もしくは名称を付与しようとしました。チャーチによると、【真理表6】は、含意の逆なので、P⊂Q の真理表とされています。(ChurchのIntroduction to Mathematical Logicなど) P←Q と書く人もいます。
 日本語で読めるものとしては、北欧の学者3人が書いた『日常言語の論理学』(産業図書)で、同値を、⊂と⊃を重ねて書く記法を紹介しています。他にも⊂や←を使った本はあるでしょう。

 つまり、現代論理学の中に、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない、というのは、事実として、間違いです。あまり使われないとはいえ、⊂や←という接続詞があるからです。
 慣用的に、⊃∨∧≡〜が便宜のため使われてきただけで(十六個全部使うと煩雑になるし、還元的な論理の趣旨にも合わないから)、もちろんその気になれば、⊂や←を使うこともできるのです。(使ったからといって、別にどうという重大な「存在論的変化」などありません)

 念のため、時間の話(現代論理学の1つめの「語ることのできないもの」として)は、p.40までです。p.41以降は(現代論理学の2つめの「語ることのできないもの」として)、「真理関数」の話をしていることが前提とされています。【真理表6】は真理関数なのです。

 この間違いを突きつけても納得しない読者は、よほど重症で、西洋とか東洋とかいう以前に、論理という以前に、人間としての判断力が欠如していると言うべきでしょう。

 私としては、⊂←をさしあたり、『ブッダ論理学』批判のわかりやすいスタンダード・アンカリングとさせていただきます。どうぞ使ってください。

 ただ、こういう明らかな事実の間違いを、石飛さん御本人に突きつけても、どうせ「存在論が違うので」とお逃げになるのでしょうね(憫笑)……。

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智について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月 1日(火)14時42分45秒

「知の欺瞞」やら「ウンコな議論」の実例としてまたとないサンプル、と言えるでしょう。自分が何を言っているのかを「bullsit」化して他人にはわからないようにしているだけです。

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チャッカの誤り 投稿者:ハム 投稿日: 8月 1日(火)13時00分13秒

因果というものが、「または」「かつ」「ならば」などと同列に扱える概念だという考え方には誤りがあります。

例えば、
万有引力法則は、加算や減算と同列に扱えませんね。
また、
自動車や飛行機は、鉄やアルミと同列に並べられません。
さらに、
カツ丼やナポリタンは、米や小麦と同列に並べられません。
さらにさらに、
論考と思いつき。UFOと三輪車。恋愛と細胞分裂。・・・・・

きりがないのでやめますが、
要するに、より単純なものとより複雑なものを同列に並べて同じ論考をする愚を犯しているのです。

チャッカ信者でも、恋愛と細胞分裂が同列に扱えるとは思わないでしょう。

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矮小化?2 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)11時21分28秒

石飛さんの本では「有」の立場を定義づけて批判している。
宇宙のはじまりについて語れないのは、ブッタ論理学の仕様です。
形而上学的論議には「無記」である。
思惟の世界が現実のあるがままを矮小化するのではないか。と個人的には思う。
あるがままに見た現実から認識論からの論議がなされるわけです。
思惟の世界での比較では交わる事はないでしょう。
そろそろ、行かなければなりません。あとは後日に
ありがとうございました。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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矮小化? 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)11時09分39秒

「何かが存在するところから話がはじまるのであって、存在しないものは語れない。何もないところかあら何かが存在するようになることはない。言い換えれば、存在と非存在は相容れない。だからある命題Pとその否定¬Pとは両立しないと言える。アリストテレスの矛盾律¬(P∧¬P)と排中律P∨¬Pが示すとおりである。
二つめ、時間を語れないということ。「有」という立場をとると、存在は永遠である。有るものは有り続け、なくなることはない。時間は本質的に必要ないのである。命題Pが主張できるなら、それは永遠にPと主張できる。これは、同一律、P⊃Pが示すとおりである。
三つ〜(略)〜因果関係を説くことができないということ。因果関係は、原因は結果に先行するという時間を含む関係であって、「無」から「有」へ、「有」から「無」へとめぐることによって説明される関係だからである。」
p.72
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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いろいろ言ってきましたが 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)04時09分57秒

 (現代)論理学の曲解ということ以上に、因果関係という概念が矮小化されることにも私は危惧を抱いているからです。
 「西洋論理学は「有」の立場に立っている」といった、陳腐な決まり文句も要注意でしょうね。
 「有」の立場、とは何かを定義しないで、無内容なレッテルで一般化すると偏見に自らが縛られるだけです。紋切り型の表現はなるべく捨てましょう。

 因果という概念は、きわめて複雑です。論者によって、そして文脈によってかなりバリエーションがあります。
 因果関係を、必要条件でなく十分条件の一種と見なす見方も根強いのです。
 簡略には、私の『論理学入門』第19節をご参照いただければ。
 そこに書きましたが、私は、人間原理を整合的に研究する文脈では、因果関係を必要条件の一種(かなり限定された一種)と見るのが適当だ、という立場に立っています。
 他の文脈では、必ずしもそうではないでしょうが、文脈ごとに、適切な因果の概念は客観的に決まるべきものでしょう。

 一回限りの特殊な出来事(たとえばこの宇宙)の原因または理由を考えられない論理は、決定的に不十分だと私は思っています。

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(無題) 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時25分25秒

すいません、一文ずつ区切ってもだめでした。
残りは後日にします。
明日から出張なのですいません。
でもなんで、この文は書き込めるの??

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なんか 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時22分33秒

まともに文がながれません

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テスト3 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時20分43秒

もちろん、かの本には真理関数であるというのと同じようにそんなことも書かれてはおりません。
想像だと言われればそうなのですが、しかし、そうでないかと思われる内容は後半に集中して書かれています。

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題名が悪いのかな 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時17分58秒

個人的には、生きてゆく上での自分一回限りの出来事の原因・結果の究明に応用できない「公式」に対し、どれほどの人が「西洋論理学にない魅力」を感じられるのか、疑問です。
「原爆が投下された」原因や「A級戦犯が裁かれた」原因として何が当てはまり何が当てはまらないのか、判別できないような「公式」は有り難くもなんともないのですが……。

そうも言えるかもしれませんが、一回限りの出来事で因果関係を証明してしまう怖さもあると思います。
勿論「だからこそ、論理学的に間違いがないようにする」と言われるかもしれませんが‥。
であるなら、なおさら、あの本の現代論理学の基礎である命題論理学においてすら石飛さんの主張している「有は有としてありつづけ、無は有の否定としてだけ扱われる」西洋の存在論の精神的背骨として頑と存在していることに対する問題は意味を持ってくるように思います。
 時間が語れないということも、刻々と有と無を繰り返し変遷している現実の事象を先生も言われるように命題論理学では変化しないものとして命題が無数に立てられてしまうことをあえて、命題として揶揄しているとも読めませんか、龍樹指向ならなりそうなことなんですが‥。

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てすと2 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時16分56秒

φ先生

だめです。
でも一応再度かきこみしてみますが、先生の論議が先に行っちゃっているので、戻りにくいですね。

惑星がなければ知的生命はおらず、時計など作られようがない のに対して、
天気雨や人工雨や大気圏外からの雨はいくらでも考えられる のではないでしょうか。
まあどちらも「常識的には」<1101>に当てはまる命題型ですけれどね。

そんなSFまがいな事考えてません。
ただ惑星が止まっても、時計は動くし、
惑星がまわっても、時計はとまるので
因果はないとおもっただけです。

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テスト 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時08分51秒

φ先生なぜか、その2をなんども投稿できませんでした。
何故これが通るのか、、わかりません、、

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 さっきエラーで削除した分です。 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)01時07分10秒

 >Θさん
 そうですね、たしかに穏やかにいかにゃならんですね。
 もともと私も、昨年に石飛さん御本人に対して直接述べた以外は、公に『ブッダ論理学』を批判する気など毛頭ありませんでした((無題)でεさんが言ってるのと同じ理由で)。
 しかし、最近あちらの掲示板を見たところ、あの本を真に受けて「これが(現代)論理学か」と思ってる読者がいるらしいと知り、そのありさまが気の毒になったからです、私がここであえて発熱しているのは。(九割以上演技なんで気になさらず)

 とにかく、「現代論理学に打撃を与えるものを「封印」しようとしている」などという陰謀説まがいの談話は勘弁してほしいと思いました。
 昨年、石飛さんから「現代論理学を批判した」と予告をいただいたとき、私は「それは楽しみです」と本当にほくほくしていたのです。非標準論理の有力候補がまた増えるかと。
 ブッダ論理学が何物であるにせよ、それよりはるかにエキゾチックでトンデモな、直観主義論理とか量子論理とか、ブッとんだ体系を内に含んで共存させている現代論理学が、なんでブッダごときに動じますか。

 もっと驚かせて脅かしてくださいよ!

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たしかにエラーが出ますね、どうしたんだろうi 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)00時54分59秒

> εさん >Θさん
 因果法則がそうすっきりいけばよいのですが……、いずれにしても述語論理学ですね。

ところで、
p.64〜p.65?
 時間順序が先後になっている<1101>の命題型ペアということですよね。
 それで満足できるというなら、何も言うことはありませんが……。

もうひとつ、
「雲がある」*「雨が降る」  を<1101>に当てはまると認めて、
「太陽が移動する」*「時計の針が進む」 これは<1101>に当てはまると認めない

 とはなんだかえらくバランスを欠いてやしませんか。
 惑星がなければ知的生命はおらず、時計など作られようがない のに対して、
 天気雨や人工雨や大気圏外からの雨はいくらでも考えられる のではないでしょうか。
 まあどちらも「常識的には」<1101>に当てはまる命題型ですけれどね。

 <1101>に当てはまる2つの命題型はいくらでも持ち出せます。時間順序が先後になっていれば、すべてその二つの出来事には因果関係があるというのでしょうか? まさかそうじゃないでしょう。

 「太陽が移動する」*「秒針が進む」
 「暗くなる」*「雨が降る」
 「煙が出た」*「焼死した」
 「唾を飲む」*「自殺する」

 これらは、私の意見では、<1101>に当てはまっていながら原因結果の関係にないペアです。いろいろ考える余地がありますが、「チャッカ」で因果がわからない実例は他にもいくらでもあるでしょう。必要条件に時間順序を加味しさえすれば因果関係がわかるなどという単純化は、因果という概念をナメていると思いますよ。(εさん方式で厳密化すれば、あるいは解決するかもしれません)

 それで、話は戻りますが、

 ★ブッダの公式は、一回限りの出来事や、少数回しか発生しない出来事については、原因の発見に無力である

 が正しいとすれば(確認:一回限りの出来事にはチャッカの真理表を全列適用できないからですね)、私にとって、ブッダはますます無用の存在かもしれません。
というのも、目下の研究テーマは「人間原理」で、最近出した『ゼロからの論証』も後半すべてその議論に費やしましたが、人間原理は、この宇宙という「たった一回限りの」出来事がなぜ知的生命を宿せたのか、その原因もしくは理由を追究する思索だからです。
 雲と雨の一般論に終始している「論理学」では、旧式の科学と同じで、人間原理の問題意識にはほど遠いと言わざるをえません……。

 チョイ長めの連載が開始間近なので、こうやって長文メモを書きながら考えを整えてます。

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 8月 1日(火)00時36分1秒

Pの実例が時刻t2に起らないとき、どんな時刻t2かつt1<t2なるものに対しても

Pの実例が時刻t1に起らないとき、任意の時刻t2で、t1<t2となるものに対し、

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チャッカの謎 投稿者:ε 投稿日: 7月31日(月)23時58分34秒

肝心のブッダ論理学の本がどこかへ行ってしまったのですが、こちらやマニカナ掲示板を見ているうちに、石飛さんが言う因果とは因果法則のことではないかと思いつきました。

”あれ(P)があるときこれ(Q)があり、あれがないときこれがない”というのをそのまま解釈すると、
P,Qは出来事からなるあるクラスで、内包的に概念化できるものであり
Pの実例が時刻t1に起こる時、ある時刻t2があってt1<t2かつ、時刻t2にQの実例が起る
Pの実例が時刻t2に起らないとき、どんな時刻t2かつt1<t2なるものに対しても、時刻t2に起るQの実例はない
とでもなるのでしょうか?
これが時制論理などで形式化できるのかどうかよくはわかりませんが・・・・

いずれにしろ、これは”法則”の形式化であるような気がします。

ブッダはたとえば”悪いことをすれば報いがあるぞ”というようなことが言いたかったのではないでしょうか。これは正しいかどうかは別にして、ひとつの宗教的、倫理的法則でしょう。

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テスト 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)22時28分43秒

その2がおくれません。テストです。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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ブッタ論理学の私的理解(その1 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)21時18分33秒

φ 先生
長文のレスありがとうございます
そして、論理学のお話なんですから、もう少し穏やかにいきましょうよ。
ご紹介のp.65ですけども、
やはり、現代論理学の真理関数と同じとは書かれてはおりませんね。
石飛さんも意図的に避けているじゃないでしょうか。
また、真理表についても前回いったような使い方をしている事も十分に読み取れます。

「「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ内容を持っており、なおかつ、それを簡潔に示したという点ではよりすぐれている」

と、この表現もこの一文だけ取り出せば、先生が言われるようにも読めますが、前後の文脈からすると、現代論理学の真理表の読み方とまったく同じ内容を持っていると主張している箇所だとは思えません。

嘘といい加減ではかなり違いますが、先生がそう思われるということは誤解を招く箇所が多々あるのでしょう。
ただ、石飛さんは恣意的にやっているようにも感じます。
歴史と伝統を継承している現代論理学にかまってほしいのではないでしょうか。
目くじら立てずに、胸を貸してあげればいいんじゃないでしょうか。
石飛さんとしては真理関数としてチャッカを扱うと言う宣言もないし、また最初の方には帰納論理と演繹論理を牛刀でばっさり現代論理学を分けちゃってますしね。意味論や統語論の使い分け、命題論理学と現代論理学を微妙に使い分けて言ってますね。

マナーがなっていないというのはそうかもしれませんね。(笑)
しかし、16通りというのは2値論理で考えれば、2項で扱えばわざわざ論理学を引き合いに出さなくても良かったといえば良かったんでしょうが、ブッタ論理学を語る為に西洋の論理学との違いを明確にしたかったんじゃないでしょうか。実際、命題論理学をちょっと変えれば因果関係が扱えるとも主張してませんしね。
彼女自身、「方便心論」を読む為に現代論理学が必要であったと明かしているわけですから、現代論理学あってのブッタ論理学が生まれたという位置づけは基なんじゃないでしょうか。
確かに先生が言われる現代論理学は駄目だいう主張は目に付きますが、それよりむしろ、現代論理学の置き忘れの無の哲学の意義の重大さに気がつけよって警鐘の為の方便のつもりなんじゃないかと思います。
70p〜71Pには先生の『論理学入門』から存在論的考察が紹介されてますね。
逆に言うと、石飛さんは先生には解ってもらえると思ったのではないかと踏んでいたのだと思いますよ。

>あの本には何の判別法も書かれていないので、私は嘲笑するしかないのです。

なぜでしょう。書かれいるとおもいますよ。
p.64〜p.65ですね。
4列目の「これがないときあれがない」が成り立つかどうかで判別する旨が書いて有りますね。

「雲がある」*「雨が降る」
これは例題でもあるので、因果でいいんじゃないですか。
「夏になる」*「夏服になる」
単純に夏にならなければ、夏服にならないが偽であるので、因果関係とは言えないと思います。
3列目で考えれば「夏にならない」*「夏服になる」これは‥真ですね。
これでも因果関係ではなく、相関関係なんでしょうね。
「太陽が移動する」*「時計の針が進む」
太陽が移動しないことは現実には起こったら大変ですね。
でも、恒星の周りを回るという運動がある惑星がなければ、時計の針が進まないというふうに読み取れば、それは偽になるのでそれも因果とはいえませんね。

「風邪をひいたこと」が「咳が出ること」の原因である……?
「航空機事故に遭う」が「死ぬ」の原因である……?

これらはまさに四列目が偽になりますから、因果ではないですね。
まさに、ここにはブッタ論理学の発展の可能性がみえますね。
正確には量子に登場していただかないと一般的な因果として説明付かないですね。
ただ、一般的と先生が言われる因果関係は特定の咳や特定の死に対する説明を求めた場合の事ですよね。
全ての咳の原因をすべて風邪のせいにするするわけにはいきませんし、全ての死の原因を航空機事故にするわけにもいきません。
そういう風に全称量化子をつけなければならないことであればなおさら、先の2つには因果関係があるとはいえないとなるのは、これも一般的な因果として認められるのではないでしょうか。
一般的にはそれを理解して特定の事柄の原因を述べたものですから、ブッタの論理学で全ての事柄を否定したとしても矛盾はないのではないかとおもわれます。
ただ、先生が言われるように、さらにブッタ論理学うまく語れるようにしていかないと、いけないかもしれませんね。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:感想 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)16時23分55秒

 真理関数でないならそれでかまわないのですが、『ブッダ論理学』のp.65には、こう書いてあるのですよ。(他の部分にも類似記述多数)

 「「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ内容を持っており、なおかつ、それを簡潔に示したという点ではよりすぐれている」

 違うなら違うで、「同じ内容」などとウソを書いてはいけませんね。そういういい加減な表現があまりに多いのですよ、あの本は。真面目で頭のいい読者ほど大混乱でしょう。指摘されてあとから「いや、あれはこういう意味でした」ともともと書かれてないことを小刻みに付け加えねばならないような本は、失格です。

 (無題) でε さんが述べているように、因果論をやりたいなら、はじめから(西洋の)形而上学を引き合いに出さなければ、意味がありません。あのままだと、読者は、命題論理学をちょっと変えれば因果関係が扱えるかのように誤解するでしょう。あの本によれば、なにせ真理表に穴があるというのは16通りのうち一箇所だけだそうだから(爆)。
 「必要条件」という言葉ひとつ出てこないし、現代論理学の理解以前に、万人共通の論述マナーがなっていないのですよ、『ブッダ論理学』という本は。

 で、非真理関数ということでもいいのですが、2つ問題があります。
 1つは、あの本では、「時間の前後関係を入れる」ということ以外、必要条件とチャッカの違いが書かれていません。(繰り返しますが、前後関係が入ってない点ではすべての真理表がそうなのに、必要条件についてだけ「穴」と言うのは読者に対し無責任きわまりない)。
 前後関係を入れて、次の2つを比べましょう。

 ★  「雲がある」*「雨が降る」
 「夏になる」*「夏服になる」
 「太陽が移動する」*「時計の針が進む」

 どれもチャッカの真理表に合致しているわけですが(お天気雨とかいろいろ、本当は合致しませんが、あの本はそのあたり無視しているので、お天気雨問題はあとで)、どれが因果関係で、どれが違うのか。別な文例をいくつも出して調べてください。
 ブッダ論理学は「因果関係を発見する」のに使えると断定されていますから、チャッカの真理表によって、因果関係とそうでないものを判別できるはずです。
 あの本には何の判別法も書かれていないので、私は嘲笑するしかないのです。
 また、逆に、チャッカの真理表に合致しないのに、因果関係有りと感じられるものについてはどうでしょう。ブッダの公式でどう説明するのか。

 ★  「風邪をひいたこと」が「咳が出ること」の原因である……?
    「航空機事故に遭う」が「死ぬ」の原因である……?

 風邪をひかなくても咳くらい出ますけれど、病気と症状の因果関係は一般に認められています。これはチャッカの真理表から逸脱しています。ブッダはどう説明するのか。

 上の問題は、「咳が出る」「死ぬ」をあまりに広く捉えすぎているからだ、と反論されるかもしれません。しかし、広く捉えたがったのはΘさんですよね。「繰り返し可能な現象」について言いたいのだと(あの本自体がそういう文例ばかりでしたね)。ここで2つめの問題になります。
 2つめの問題。「繰り返し可能な現象」を表わすのは、命題ではなく、命題型です。
 つまり、いろいろな時刻の、いろいろな場所での、雨降りと雲の出方を述べる無数の命題がいっぺんに述べられています。
 だから、「一つの記号に一つの命題を代入すれば、その記号は一貫して同じ命題を入れるという規則があります」という石飛さんの発言とは矛盾し、PやQをメタ論理学の命題変項として扱わねばなりません。つまり正確には、述語論理学の領域に入るのです。
 ↑このことは面倒になるから今は論じないことにして、ブッダ論理学は「繰り返し可能な現象」を対象にするということは認めましょう。
 すると、

 ★
 ブッダの公式は、一回限りの出来事や、少数回しか発生しない出来事については、原因の発見に無力である。

 と言えることになります。(もしそうでないなら、前回「追伸(→Θ さん)」で私が出した宿題へ戻りましょう。)
 個人的には、生きてゆく上での自分一回限りの出来事の原因・結果の究明に応用できない「公式」に対し、どれほどの人が「西洋論理学にない魅力」を感じられるのか、疑問です。「原爆が投下された」原因や「A級戦犯が裁かれた」原因として何が当てはまり何が当てはまらないのか、判別できないような「公式」は有り難くもなんともないのですが……。
(そして、くどいようですが、命題論理学だけでやれるというなら、命題型でなく個々の「命題」をこそ扱えねばならないはずだったのですが)

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感想 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)14時00分9秒

φ 先生
ご回答ありがとうございます。
P⊃QはPはQの十分条件を表すとはいうけれども、Pの内容とQの内容によっては十分条件とはいえないということですね。
pとQには何が入っても十分条件であるということはいえません。
PとQを固定してしまった場合。
PとQの内容によっては、P⊃Qが十分条件を表すものとはいえなくなります。
したがって、内容を変える作業で十分条件であるという関係があるかどうかを探ることをします。
同様に現実世界の繰り返し可能な現象
例えば「雲が有る」があるから「雨がある」
が原因と結果として成り立つものなのかを調べる時。
<1101>になるかどうかを考える。
真理表はそこでのみ登場してきます。
ブッタ論理学では、前件が時間的に後件よりまえのものを規定しているようです。
また前件と後件に入る対象は、「生じ滅するもの」のみ入れると述べられてますね。
したがって、もともと真理関数という意図はないのでしょう。
本の中では真理表の先の点だけを利用したのではないでしょうか。
チャッカを結合詞とは言ってはいるものの新たな真理関数の結合子として紹介している文も見当たりません。
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Re:再質問 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)12時48分21秒

もちろん、 P⊃Q が偽のとき、PはQの十分条件ではありませんよ。

「真珠湾が12月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の十分条件ではありません。

P⊃Q が真のとき、PはQの十分条件です。

なので、

「真珠湾が6月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の十分条件です。

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再質問 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)12時36分15秒

φ 先生
先に話を進める前に「含意」の取り残しを、解決してください。
「真珠湾が12月に奇襲された」⊃「キューバ危機で人類は滅亡した」
これは偽ですね。十分条件とは言えなくなりますね。
この場合、前件が真で後件が偽
Pが真でQが偽ですから。
さて、前件と後件何が入っても十分条件と言えますか。
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追伸(→Θ さん) 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)05時48分53秒

↓文例が適切でない場合は、適当な文例で、お願いできればと思います。
 PとQの固定を、
 P「真珠湾攻撃があった」Q「広島長崎に原爆が投下された」
 P「火星に液体の水があった」Q「真珠湾攻撃があった」
 等々、ご自由に、真理関数で因果関係をぜひ説明してください。興味のあるところです。(皮肉でなく)。

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面白いアイディアが? 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)03時23分45秒

 真理関数もしくは真理表の話をしてるんですよね?

 「真珠湾が6月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」
 は、第4列が偽を出力するので、偽。他の列は無視してよい。
 これで何か問題ありますでしょうか。

 さて、

 >PとQを固定した場合に
 >逆に結合子を見つける作業をしたらどうかという問題です。
>Pを固定、Qを固定してその関係にチャッカという因果があるかどうか。

 ええと、正直よくわかりませんが、
 P「真珠湾が12月に奇襲された」とQ「キューバ危機で人類は滅亡した」をまず固定するわけですね。
 それで?
 真理表のそれぞれの列に対応した可能世界を考えろということのようですね。

 P Q
 真、真 → チャッカの真理表にしたがえば、真 ……世界1
 真、偽 → チャッカの真理表にしたがえば、真 ……世界2(現実世界)
 偽、真 → チャッカの真理表にしたがえば、偽 ……世界3
 偽、偽 → チャッカの真理表にしたがえば、真 ……世界4

 こうなります。
 それでどうしろと?
 世界1、2、3、4、すべて可能な世界ですよね。
 たぶん、すべての場合について、「現実世界で」真理値を出せというのかな。
 そんなことは少なくとも命題論理では無理だと思いますが、どうやるのですか。
 これは、∨や∧や⊃や≡についても同じ作業を想定しているのでしょうか。
 教えてください。

 そもそも、「可能性」まで持ち出すとしたら、様相論理ですね。あるいは反事実条件文の論理。
 石飛さんは、命題論理で十分だと言っています。そのための真理表だったはずです。
 事実上の述語論理である様相論理を出して因果関係を論ずるなら、全然別の話になります。
 ここでは、『ブッダ論理学』がいかにナンセンスかを語りあっていたのであって、『ブッダ論理学』と無関係に様相論理で因果とは何かを論じるのであれば、まず『ブッダ論理学』がナンセンスであったことを共通了解としてからになります。そうでないと進めませんね。

 ともあれ、真理関数のレベルで、上の4通りの真理値を「現実世界で」出すというのを、教えていただければと思います。何か面白いアイディアがありそうですね?(『ブッダ論理学』とは関係ないのでしょうが、それでも(なおさら)歓迎です)

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命題論理学の質問 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)02時26分10秒

φ 先生、
まずsemanticsの話をしていて、syntaxの話ではないことを確認します。
意味論的に真理値分析の内容を聞いています。
ここはずれていないと思いますが念のため。
論理的同値性のを証明する時、真理値分析によって真理表を使う事はありますよね。
まさかP∨QとP⊃Qは理論的同値だとはいえないでしょう。
なかなか少しずるい例を出されましたね。(笑)
「真珠湾が12月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」
はPが真でQが偽だからokですね。
Vとしても問題ないとおもいますが、ではこれではどうです。
「真珠湾が6月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」
ならどうです。∨で前件と後件つないでも偽ですね。偽と出力されますね。
他の列は無視しても構いませんか。

では次はどうでしょう。
「真珠湾が12月に奇襲された」⊃「キューバ危機で人類は滅亡した」なら?
これは偽ですね。十分条件とは言えなくなりますね。
Pが真でQが偽ですから。
さて、前件と後件何が入ってもいいのでしょうか。
つまり、PとQを<1011>に合うように変える事で当然、真を導き出す事もできますが、PとQを固定した場合に
逆に結合子を見つける作業をしたらどうかという問題です。
その作業は先に書いた真理表を使って理論的同値を判断する仮定と同じではないでしょうか。
石飛さんが言っているのはその作業の話ではないでしょうか。
Pを固定、Qを固定してその関係にチャッカという因果があるかどうか。
彼女の考え通りなら、<1101>という結合子を考えるのも意味はあるのではないかとおもいます。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:命題論理学の質問 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)00時52分38秒

 Θさんは、真理表の読み方(真理関数という概念)を根本から誤解されているのではないでしょうか。

  たとえば、P∨Q は、<1110>となる真理関数ですが、
 「真珠湾が12月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」 は真です。
 真理表を書くと、2列目に相当するから、出力は真です。
 第1列、3列、4列は無視してかまいません。

 含意の場合、<1011>となる真理関数ですが、
 「富士山が6月に奇襲された」⊃「キューバ危機で人類は滅亡した」 は真です。
 真理表を書くと、4列目に相当するから、出力は真です。
 第1列、2列、3列は無視してかまいません。
 含意が真なので、「富士山が6月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の十分条件です。

 石飛さんも、真理表のその程度の読み方は理解しておられますよ。
 1112を見てください。
 石飛さんのレスにこうあります。

 ………………………………………………
それでは、あおみさまの鋭いご指摘により、訂正させていただきましょう。
P*Qというのは、このように変形できます。
(PそしてQ)∨(Pそして¬Q)∨(¬Pそして¬Q)…8)
 …………………………………………………

 上の石飛さんの発言は正しいです。
 <1101>となる2項真理関数を一命題に書き下ろす仕方は無数にあって、私の『論理学入門』p.28〜30では、機械的な翻訳法2通りを含め3通り紹介してあります。(しかし石飛さんの言う「真理表6」について、私ごとき末端までがすでにあれだけ書いているのに、「現代論理学は真理表6を封印している」なんて、一体どういう意味だったんだろう?)

 さて、石飛さん自身の
(PそしてQ)∨(Pそして¬Q)∨(¬Pそして¬Q)
 に、P「真珠湾が12月に奇襲された」とQ「キューバ危機で人類は滅亡した」を代入してください。
 全体は、真になるはずです。第2列(第二の選言肢)が真になるからです。他の列は無視してかまいません。
 「そして」に時間的前後関係の意味を入れても同じです。
 つまり、「真珠湾が12月に奇襲された」*「キューバ危機で人類は滅亡した」は真です。
 つまり、真珠湾が12月に奇襲されたことが、キューバ危機で人類は滅亡した原因でなければならないのです。石飛さんの定義を認めるならですけれどね。

 真理関数についての石飛さんの理解は、まだらになっているので、全体、辻褄が合わなくなっているのですね。上述の程度には真理関数を理解していながら、なぜかそれが因果関係を表わせると誤解しているのです。不思議です。

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命題論理学の質問 投稿者:Θ 投稿日: 7月30日(日)23時50分25秒

三浦先生
唐突で失礼します
質問します。

> 「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下された」は、広島長崎に原爆投下された場合の詳細については自由なので、たとえば、次のように分解できる。(↑この例文が因果関係を表わすとブッダが認めない場合は、別の文例でも以下同じことが言えます)
>「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機を人類は生き延びた」または「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」
>前半はたしかにチャッカの真理表(何度も言いますが、「チャッカ」などと名を付ける意味なし! 単なる必要条件の真理表)の1列目にあたり、真*真で、全体も真。後半は、2列目にあたり、真*偽で、全体も真となるはず。
>なので、「真珠湾が12月に奇襲された」は「広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」の原因でなければならない。

1列目が真*真  真
2列目が真*偽  真
3列目が偽*真  ?
4列目が偽*偽  ?

3列目と4列目の真偽がでてこない命題であれば、<1111>tautology <1110>disjunction <1101>reversed conditional <1100>projection の四つのどれか決められません。
2列目だけで*なる結合子で前件と後件が結ばされると言える理由はなんでしょうか。
おそらく、石飛さんはそのような主張はしておりません。

また、同様に含意であるかどうか示すならば、やはり真理値分析で<1011>となるような命題であるかどうかを調べなければならないのではないでしょうか。
一列目と二列目だけでその前件と後件が必要条件だとか十分条件だとかが言い表せるとは思いません。
同様に、もし仮にチャッカなるものがあったとしたら、そのような判断はできないのではありませんか。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 7月30日(日)23時30分46秒

誤解を招かないために・・・・

黒木さんのサイトを紹介したのは、ポストモダン等に対する批判という意味で、石飛さんの本が話題になったことは私の知る限りありません。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 7月30日(日)22時54分44秒

ご無沙汰しています。”ブッダ論理学”で大変なことになっていますね。石飛さんの本は(宮元さん、石飛・宮元共著の本も:専門書でないもの)前に購入して、やはりチャッカで目が点になったりしていました(笑)

掲示板も覗いてみていて、数学・コンピュータ関係者がかなり好意的なのにちょっと驚いていましたが、多分、彼らはおかしい部分に目をつぶったり、少しでもまともな部分を取り出そうとしているのではないかと思いました。商業的な思想・哲学系の雑誌で、著名な理系・文系の学者が座談会、論文を寄せているのがよくありますが、そういう場合、理系の学者は明らかにおかしい文系(ポストモダンなど)の主張を批判していないのと同じようなものでしょうか・・・

そうでなく、はっきりと批判しているものとしては、黒木玄さんのサイト
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html
がありますが、最近、あまり活動してないようです。

さて、石飛さんが言われているように存在論を問題にするのなら、正当な比較対象は論理学でなく、形而上学でなければならないはずですね。三浦さんの”虚構世界の存在論”を読んでいるなら、いくらでも文献は見つかりそうなのですが。そのほかにも、
現代形而上学論文集(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4326199482/249-0505626-5265935?v=glance&n=465392)
などを眺めていると、それこそ存在論や時間についての現代的考察が見られるのですが

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ちょっと話を先回りします 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月30日(日)21時19分3秒

>三浦先生

講義をどうもありがとうございました。私は、実は先生の本を持っておらず、野矢茂樹先生のほうの「論理学」しか持っていないのですが、先生の講義を参照して「命題論理の構文論」(P48〜70)の一節を読み、*の構文を意味論へ持ち込むといかに変なことになるかよくわかりました。
但し、多分今度は、「現代論理学(メタ論理学)とブッダ論理学では公理系が違う」とか言い出す輩が出てきそうな気がするのですがwwww

公理系と言う意味をわかってくれればの話ですが、構文論と意味論を「あのようにしか」理解できない人たちでは多分無理でしょうね。

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¬Qについて2 投稿者:ハム 投稿日: 7月30日(日)19時47分4秒

φ様の説明は、難しすぎです。
まるで、学部での論理学の講義です。
対象論理などというと、難解な西田哲学かと思われます。

しかし良く分かりました。
私はQを変数に例えましたが正確ではないのですね。
正確には定数に例えて、この場合の意味を説明しなければならないわけですね。 安易に変数、定数といいますが、つきつめれば、定数Qという場合、メタ論理での変数になるわけですね。

ただ、Σさんの疑問は、
>命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、

¬Qを「棒に当たる」と考えていいか? という疑問ですから、これはNOといわざるをえませんよね。

もちろん、真理表の一行目の¬Qを「宝くじに当たる、ことはない」と考えて、
二行目の¬Qを「棒に当たる」と考えてもいいわけですが、
その二行目のQは「棒に当たる、ことはない」と考えていなければならないわけです。

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虚構の理 投稿者:ラズロ 投稿日: 7月30日(日)15時01分9秒

虚構の理というおもしろいサイトがありました。
私の好きなマジック関係のサイトなのですが、
マジックを虚構として楽しんでみてもらうための
マジシャン側からの理論的な面が書かれています。
マジックを演じて、その演技を客が信じる、
つまり本当の超常現象のように信じるケースが
あります。このように信じられてしまう虚構の
できごとの場合、フィクションであると認識
されている虚構とは少し趣が違う点があるな
と思い、こちらに紹介します。
http://www.geocities.jp/eldevol/index.html

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Re:「¬」の正しい意味 投稿者:φ 投稿日: 7月30日(日)14時57分1秒

 Σさん、いい材料を提示していただき、ありがとうございます。

 ハムさん、かわりにお答えありがとうございます。
 ただ、対象論理ではその通りなのですが、真理表がテーマとなっている文脈を考えると正確でないので、ここに改めて私が述べさせていただきましょう。

 「¬」の意味以前に、真理表とは何か、を確認したほうがよさそうですね。

 あちらの過去ログをざっと見たところでは、大筋では、Σさんの言ってることが正しいです。驚いたことに、石飛さんは、真理表の意味が全然わかっていませんね。あれでは、現代論理学をダシに『方便心論』を演じようとしたもくろみが土台無意味になるわけで、そこんとこ読者にどう責任をとられるのかと。

 以下の石飛さんのコメントは、ハッキリ間違いです。
 ………………………………………………………………………………
 まずQは、命題変項ではないこと。今、具体的な命題「宝くじに当たる」をQとおいていること。したがって、これには他の値を入れることはできません。
もしかりに、Qを命題変項とするとします。そうすると、P*Qに何か具体的な命題を入れるとすれば、ふつうは日本語などで書かれた命題を入れることが多いかと思いますが、別の命題定項R、S、Tなどを入れてもかまわないでしょう。
しかし、一つの記号に一つの命題を代入すれば、その記号は一貫して同じ命題を入れるという規則があります。Qに「宝くじに当たる(R)」を入れたら、そのQに他の「棒に当たる(S)」などの命題を勝手にかさねて入れることはできないのです。
 …………………………………………………………………………………

 定項と変項の区別ができていないようですね。あるいは、論理とメタ論理の区別が。
 真理表で用いられるP、Qが、変項でないというのはその通りです。しかし、留保なしに「定項である」と言ってはいけません。私の『論理学入門』p.24の真理表の説明では、「命題型」と書いておきました。
 命題定項、命題変項というのは、対象論理での区別です。
 「命題型」は、メタ論理から見た、対象論理での不特定の命題定項です。つまり、定項ではあるが、意味論的定項にすぎず、語用論的には変項です。メタのレベルからは、いろいろな具体的命題を自由に入れてよいのです。(とりわけ掲示板で語るような文脈では)
 私たちは、真理表のある世界より上位の、メタのレベルにいるので、「内容の定まったとされる」P、Qには、そのつど、いろいろな命題を入れてかまいません。(したがって、同一の真理表の一列目のPは「宝くじに当たった」、2列目のPは「猫が鳴いた」……と自由に入れ替えてゆくことも可能です)

 真理関数によって、いかなる場合に全体が真となるのを例示したのが真理表ですから、譬え話の集合みたいなモノです。基本中の基本であるそこがわかっていない石飛さんが、どうして命題論理学を論じようとしたのか、不思議ですね。

 さて、Σさんが言いたかったのは、たとえば次のようなことでしょうか。(単純化のため、五つではなく二つに分解します)

 「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下された」は、広島長崎に原爆投下された場合の詳細については自由なので、たとえば、次のように分解できる。(↑この例文が因果関係を表わすとブッダが認めない場合は、別の文例でも以下同じことが言えます)
 「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機を人類は生き延びた」または「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」
 前半はたしかにチャッカの真理表(何度も言いますが、「チャッカ」などと名を付ける意味なし! 単なる必要条件の真理表)の1列目にあたり、真*真で、全体も真。後半は、2列目にあたり、真*偽で、全体も真となるはず。
 なので、「真珠湾が12月に奇襲された」は「広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」の原因でなければならない。
 ここで、「広島長崎に原爆投下された」は真なので(この文のかわりにトリビアルな「普遍結果」を使っていればもっとわかりやすくなりますが)、連言文から除去できる。したがって、「真珠湾が12月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の原因でなければならない。

 ↑あの本は、こういうナンセンスを含意しているわけです。
 そう言われるのがイヤなら、始めから真理表、命題論理学、ひいては現代論理学など無視して本をお書きになればよかったのに……。
 なぜに、否定したい相手の道具で箔をつけようとしますかね? 無意味な箔付けは、ポストモダニストが現代科学を使ってやりまくり、『「知」の欺瞞』でこっぴどく無知を暴露されたのと同じパターンですね。気取らなくていいのに……。

 なお、変項と定項の区別については、私の『論理サバイバル』p.156の「定項のパラドクス」を参照いただければと思います。
 たいていの場合、数学の「定数」は本当の定項ですが、真理表のようなメタ論理の表現に関しては、定項と見えるものは、語用論的な変項、つまり命題型なのです。
 (ちなみに、「命題変項」というと、高階論理学における変項のことを指します。「命題型」は、メタ論理学における変項です。石飛さんは、「かりに、Qを命題変項とするとします」と述べたとき、高階論理学とメタ論理学を区別できていません。以上、蛇足)

 ↑以上のことは、エラそうに課題↓として出させていただいた

 ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)

 の有力なヒントになっています。

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¬Qについて 投稿者:ハム 投稿日: 7月30日(日)14時07分57秒

φ様にご登場願うまでもなく、私で答えられます。

>命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、この命題を偽にする「¬Q」の具体的に取り得る内容の一つとして、「棒に当たる」を考えていけない、という論理学的規則があるのでしょうか?

命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、¬Qはその否定であり「宝くじに当たる、ことはない」となります。
命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、¬Qを「棒に当たる」と考えることはできません。
これは、論理学的規則ではなく、変数の意味です。
¬Qを「棒に当たる」と考えるためには、命題Qの中身を「棒に当たる、ことはない」と決めればいいのです。

Qのような変数は、いろいろな値をとるわけですが、
ある文脈で Q=「宝くじに当たる」 と決めたならば、
その文脈では、¬Q=「宝くじに当たる、ことはない」と定まります。

論理学を特別な学問だと思わない方がいいと思います。
基本は数学などの他の学問と同じです。

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参考文献 投稿者:伝々蟲 投稿日: 7月30日(日)13時03分10秒

お邪魔致します。
参考までに竜樹の中論です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6782/1132733263/43

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「¬」の正しい意味をご教示下さい 投稿者:Σ 投稿日: 7月30日(日)12時05分53秒

「石飛女史サイドの頓珍漢な思い込みがどのようなものか」、
この掲示板に書き込まれたものから、その質疑応答の経緯をまとめて、その誤解部分を明らかにしたいと思います。少々長くなることをお許し下さい。

●私が三浦先生に「真理表の読み方」について最初にお伺いした時、
三浦先生の回答(7月17日の投稿)は、
−−−因果関係そのものは、真理表では表わせませんね。因果関係は真理関数ではないからです。もし、「チャッカ」の真理表で因果関係が表わせるとすれば、「日本の首都は東京である」は「太陽は月より大きい」の原因だ、ということになってしまいますが、それは変ですね。−−−
というものでした。私はこれだけですぐ分かり、私が間違っていなかったと安心したものです。

しかし、「無宗だ」さんは三浦先生のこの回答の意味が全然分からないようでした。
そこで無宗ださんは、同日付けで即座に、三浦先生に、次のような念押し質問をしました。
−−−Σ氏の疑問に思っている(2)の部分は  原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。を意味しているだけで(石飛氏の真理表は・この括弧補記は拙者)間違いではない。単にΣ氏の理解力不足である
ということですね?−−−−

これに対しての三浦先生の回答は、
−−−石飛さんの真理表説明がもともとナンセンスですから、疑問が出て当然だとは思います。「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。(・・・)Σ氏の苦言はもっともではないでしょうか。−−−

というものでした。
これに対し、無宗ださんは納得できず、さらにこう食い下がりました。
−−−Σ氏の疑問の真意の細部を、私の理解において簡単に解説すると、
P=1、Q=0の時、「PはQの必要条件」という命題は真ということを
P=1、Q=0の時、真であれば、「Pは¬Qの必要条件」という言明が成り立つ
と混同しているのです。−−−
と、自覚なしにへんてこりんなことを書きました。

これに対し、三浦先生は、懇切丁寧に、幼稚園児を諭すように、こう回答しました。
−−−因果関係が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから、あの本全体の書き方が無意味となります。
 真理関数の意味はおわかりでしょうか。構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。
 真理表は、数学で言えば、九九の表みたいなものです。−−−

すると、これに対する無宗ださんの返答は驚くべきものでした。
−−−  えーと、ごめんなさい。真理関数の意味が私には良くわかっていないようです。必要条件は真理関数なのでしょうか? −−−−

ここで、一般読者は「ワァオ!」と椅子からひっくりかえるか、爆笑するか、というオチがついたことになります。
しかし、無宗ださんを揶揄するのではなく、真剣に誤解している場合、その誤解を解かなければなりません。それに石飛女史も同じ誤解をしている可能性が高いです。

●私が石飛女史らと対話して感じたのは、なんと、彼らは、真理表が読めない・又は間違った読み方で覚えてしまっているのでは? という強い疑念です。

ウィキペディアの「数学記号の表」によると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%A8%98%E5%8F%B7%E3%81%AE%E8%A1%A8
ここで、「¬」記号の解説として、
<< 「¬P」は「命題 P が偽」という命題を表す >>   とあります。

そこで、
「¬Q」という命題の意味について、超・超・超初歩問題だと思いますが、意見が錯綜しているので、三浦先生、どうか正しい知識をご教示下さい。

以下は、過去の石飛女史の発言です。以下、再掲します。

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1112&reno=1108&oya=1108&mode=msgview&page=5

(私・Σが、「P*Q」式に関して以下のとおり発言しました。)
そもそも、「*」演算子が因果関係の「有/無」を峻別する機能として設定されている以上、 「¬Q」のありうべき可能事態の中には、Pとは因果関係がない結果も混ざっていなければなりません。 違うでしょうか?
すると、

(石飛女史の回答・No.1112投稿)(Σの補足−石飛女史は Pを「宝くじを買う」 という命題に設定しておられる模様での以下の論説です)

これはちがいます。「¬Q」は「くじが当たらない」ということしか述べておりません。これは、よくお考えください。このような読み込みができるなら、論理学の記号化は意味なく、論理そのものも破綻します。「くじが当たらない」ことは、「黒猫が横切ったこと」や「玄関ですべって転んだこと」を可能的事態として含むことまで考えてはいないのです。

(石飛女史のその後の追加発言・No.1119投稿)
そこでもう一度、あおみさまの表現を見てみますと「¬Q」の取り得る具体値としては、「R、S、T、Y、Z」の5つがあるとして、問題はありません」とありますが、これは次の点で誤りです。
この点に関しては、まずQは、命題変項ではないこと。今、具体的な命題「宝くじに当たる」をQとおいていること。したがって、これには他の値を入れることはできません。
もしかりに、Qを命題変項とするとします。そうすると、P*Qに何か具体的な命題を入れるとすれば、ふつうは日本語などで書かれた命題を入れることが多いかと思いますが、別の命題定項R、S、Tなどを入れてもかまわないでしょう。
しかし、一つの記号に一つの命題を代入すれば、その記号は一貫して同じ命題を入れるという規則があります。Qに「宝くじに当たる(R)」を入れたら、そのQに他の「棒に当たる(S)」などの命題を勝手にかさねて入れることはできないのです。
(引用−http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1119&reno=1116&oya=1108&mode=msgview&page=5)

−−−−

以上が石飛女史の発言です。

そこで、私は思うのです。
命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、この命題を偽にする「¬Q」の具体的に取り得る内容の一つとして、「棒に当たる」を考えていけない、という論理学的規則があるのでしょうか?

ウィキの解説のとおり、「¬P」は「命題 P が偽」という命題を表す、のならば、「¬Q」は「宝くじが当たる、は偽」という命題を意味し、「棒に当たる」が入ってもよいのではないでしょうか。

石飛女史はこの可能性、この読み方を、かたくなに拒否なさっておられるので、真理表問題で、へんな揉め事が起こっているわけだと、私は理解しているのですが。

あまりに、超・超・初歩的な「基本」なので、聞くのもお恥ずかしいのですが、三浦先生のご高見を賜りたく、お願い申し上げます。

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ご回答に心から深謝します 投稿者:Σ 投稿日: 7月30日(日)11時25分0秒

>公理は、公理である以上、公理の内容だけで否定してはいけませんね。定理としての諸帰結まで論じた上で、メタのレベルで初めて否定しないと。

三浦先生、明快なご回答に心から感謝致します。まことにそのとおりですね。
三浦先生のように聡明な方と対話すると、実に爽快です。
有り難うございました。心から感謝申し上げます。

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無宗ださんへ 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 7月29日(土)13時44分43秒

どうでもいいですが、あなたに対する評価がもっとよくなったということですよ。
バランス感覚のよさと学習意欲と吸収のよさを今まで以上に確認できたということです。早とちりが玉に瑕。

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Re:回答その1 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月29日(土)13時00分6秒

Re:回答その1

F.Nakajimaさま

> 無宗さまは、宿題にてこずられている様子なので、私なりの答えを先に書き込みます。 そうですね。

> ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
>  (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)
に関しましては、

現代論理学では、取り扱う文は言明にかぎる。言明は平叙文で表現でき、真か偽のいずれかであることを代表的な性質とする。
なお、現代論理学においてはパラドックスやジレンマも扱うので、 「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い

という回答を(あちらに)出しました。が、しかし、

>  ●必要条件とは何か。できるかぎり多様な具体例を。
に関しましては、現在、
・三浦先生の「論理学入門」
・ウリクトの「説明と理解」
・バートランド・ラッセルの「哲学入門」
が、積読状態になっておりますので、それを解消してからじっくり取り組もうと考えております。

ヒロヘロ さま

> #無宗ださんはあの無宗ださんですか?あなたに対する評価はかなり見直す必要がありそうです。
http://www.geocities.jp/jfcps873/danwa/danwa02.html#181
この評価ですか?
どうぞ、ご自由に。あなたにはリンカーンの言葉をお送りします。

http://www.mm-labo.com/culture/WiseSaying/wa/watashihajibunnnoshirukagirisoshitedekirukagirisaizenwotsukushiteiru.html
> 私に向けられる攻撃の全部にいちいち目を通すとか、ましてそれに答えることにでもなったら、店をたたんで商売換えするほうがましだ
> 私は自分の知る限り、そしてできるかぎり最善を尽くしている
> もし結果が不可と出れば十人の天使が 私は正しかったと証言してくれても何にもならないだろう

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φ さま。はじめまして 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 7月29日(土)11時45分2秒
初めて投稿させていただきます。もと、インド哲学をすこしだけ研究しておりましたものです。

石飛さんの見解をもってインド哲学研究者の標準であるとお考え頂かないようにお願い申し上げます。私は分析哲学や機能論理、様相論理に興味持ちつつ素人の浅読みをしていますが、現代論理学に関して、石飛さんはその浅読みの私のレベルにも達しておられないようです。石飛さんを根拠して私に論難してくる人が多いので困っているのですが、その度に現代論理学に対する無理解を指摘してきました。

最近は現代論理学と分析哲学の区別も出来ない人からの攻撃があったりして、当方多少切れ気味です。今後、少しずつ発言させていただくことをお許し下さい。

#無宗ださんはあの無宗ださんですか?あなたに対する評価はかなり見直す必要がありそうです。

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回答その1 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月28日(金)21時57分11秒

無宗さまは、宿題にてこずられている様子なので、私なりの答えを先に書き込みます。

A1.論理学で扱う文は叙述文、つまり主部と述部を持ち、物事をただ述べる文でなくてはならない。
尚、注意書きについては、古い論理学の教科書に「真偽を明らかにした文ではなくてはならない」という記述が残っていることを配慮したためだと私は考える。現代では様相論理学を使って真偽が明らかではない文も扱うことが出来る。

A2.条件命題、P⇒Qが真であるとき、PはQに対する十分条件、QはPに対する必要条件と呼ばれる。

例1、「もしその石がダイヤモンドなら、それは世界で一番硬い」という文で「ダイヤモンド」は「世界で一番硬い」の十分条件。「世界で一番硬い」は「ダイヤモンド」の必要条件となる。(但し「その石」がダイヤモンドであればの話(真)だが)

例2、「狐だった和尚があのとき正しい答えを出していたならば、彼は解脱していただろう」(無門関百丈野孤より)前文が後文に対する十分条件。後文が前文に対する必要条件となります。但しこの文は様相論理を使うべきだと思うので解説は三浦さまにおまかせします。

例3、雲が出てきたならば、雨が降る。「雲がでてきたならば」は、「雨が降る」に対する十分条件。「雨が降る」は「雲が出てきたならば」に対する必要条件。但し、この文はいくつか単語を追加し、叙述をはっきりさせた上で、様相論理で表現すべき文だと思います。

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いってらっしゃい。 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月25日(火)04時36分29秒

φ さま

> 無宗ださん、またいつでもどうぞ。
あたたかいお言葉、ありがとうございます。

> ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
> ●必要条件とは何か。できるかぎり多様な具体例を。

宿題、どうもありがとうございます。かなり時間がかかるとは思いますけど取り組んでみます。

>  あちらへの宿題は、この二つに絞るのがよさそうですね。もう見てないでしょうが。
ただ、あくまでも個人的に宿題として受け取ったということです。φ さまの期待とは少しずれているとは思います。申し訳ありません。

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25日から 投稿者:φ 投稿日: 7月25日(火)04時05分56秒

 29日まで出張してまいります。
 集中講義で、長らく考えている「輪廻転生論」(インドとは無関係)と、最近考えはじめた「戦争論理学」を試してくる予定。

 …………………………………………………
 水と油だから、いいのいいの、話通じなくて。……そういうことだから、普遍的な知を目指す西欧科学に敗れ、今のルサンチマンがあるのだということは、彼ら自身もちろんよくわかっているはずですが(すべてのインド学者がルサンチマンをまとっているという意味ではありません)、あえて自閉を続けるのは、系統だった論理で議論を維持する自信がまだ持てないということでしょうか。それとも対話拒否は東洋の論理の本質なのか。

 じつは私も隠れ東洋思想ファンなので(いつもは抑えてますが。高校時代は老荘思想にかぶれてました)、東洋思想が本質的に自閉的な達観を旨としていることにはある程度共感できます。ただ、グローバルスタンダードにはなりえませんね。

 ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)
 ●必要条件とは何か。できるかぎり多様な具体例を。

 あちらへの宿題は、この二つに絞るのがよさそうですね。もう見てないでしょうが。
 では、ちょっと留守します。Υ田さん、ホリスのパラドクスよろしく。

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但し、訂正を一つ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月24日(月)23時27分15秒

論理学と仏教学との接点として細かい話となりますが。

但し、西洋哲学における帰納論理の原則を学んだ今となっては現在の仏教学会の主流となっているブッダの悟りとは「十二支縁起である」という説に、今の私は疑問を感じています。西洋論理学の因果関係の帰納論の見解を元にすれば「十二支縁起」の逆観を真理として認めることはできません。これを一種の信念・もしくは信仰の対象として認めることはできますが、これを唯一解とすることはできません。

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新土氏への謝礼 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月24日(月)23時10分49秒

新土さまの、私の上座部仏教に対する見解に対する注釈、及び批判については、全面的に受けとめ、ここに新土さまの見解の方が正しいことを認めます。

但し、愚痴を言わせてもらえば、上座部仏教に帰依した日本人というのは、なぜ「ブッダの言動が経文として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている」と主張し、それを自派の拠り所にしたいのか私には理解できません。
日本で布教されておられる東南アジアからの上座部僧侶たちのHPを見ればわかるように彼らは一切そのようなことを自慢げに説法をしたことはありません。彼らはそのことを仏説の根拠とせず、ただブッダの教説を説いてそれが「正しいか否か」を我々に問いているのみです。私は彼ら渡来僧に対しては大いに敬意を払いますが、今の教団内部における戦闘的信徒の言動、及びその活動を黙認している教団内部の体制においては、トップたる長老の意思が伝わっていないのでないかと危惧しています。

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再度すいません 投稿者:新土 投稿日: 7月24日(月)22時41分8秒

ずれて読みにくいと思った部分、更新をかけたらなおっていました。
失礼しました。

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すいません 投稿者:新土 投稿日: 7月24日(月)22時39分25秒

下記の自分の書き込みですが、F.Nakajimaさんの文からの引用、ずれて読みにくいですね。
失礼しました。

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何か誤解があるようですね 投稿者:新土 投稿日: 7月24日(月)22時31分53秒

三浦先生、はじめまして。
石飛先生の掲示板からきたものです。
ここ数日、部外者の仏教関連の書き込みが続いて当惑しておいでだと思いますが、
F.Nakajimaさんが少し誤解をしているようなので、少し書き込ませてください。

>ついでに愚痴だと思ってお付き合いください。日本における仏教学会の現状について少々>お話したいと思います。実は、あの本に対して日本の学会は手放しの賞賛しか私は見たこ>とがありません。
日本の仏教学会の人は、石飛先生の本について賞賛などしていたでしょうか?私は見たことがありません(あったら教えてください)。
石飛先生(と彼女のHPに間借りをしている宮元先生)は、もともと仏教外のインド哲学畑の人なので、どうも仏教学会からの受けは悪いように見受けられます。
一部、現代上座部仏教の教義に共感を抱く人(寺男さんとか)が熱烈なべた褒め書評を書いたのは知っています(F.Nakajimaさんが引用しているとおりです)。しかし、彼らは単なる素人であって、仏教学者ではなかったはずです。書評がネット上で目立つからといって、実際に学会の重鎮とは限りませんよ。

>どうもへんなアカデミズムの伝統が仏教学会にはあるらしく、しかもそれは宗派的な運動>ではなく、復古的な運動というべきなのですが、ある一定の部派にはブッダの言動が経文>として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている。というのが今、日本の仏教>学界では熱心に提唱されているのです。そのことの真偽については別の話ですが(もっと>も物理的証拠は発見されておらず、文献史学的にも全く検証不可能なのでこのことを主張>すること自体、学問的態度というより、一種の宗教的運動というべきだと私は思っていま>すが)、それを少しでも裏付けられそうな意見が発表されると、見解を同じくする研究者>同士がお互いに称えあうというわけです。
石飛先生(や宮元先生)が言っているのは、「初期仏典の中には、お釈迦さんの体系だった教義や論理が保存されている」ということです。これは「お釈迦さんの金口の説法は知りえない」とする仏教学会の説に対する反論です。増広や誇張、定型的な神格化表現による粉飾がなされていない、とは言っておりませんし、学者としてそのような迂闊な主張はできないでしょう。
ところが、これを「ブッダの言動が経文として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている」と解釈したい現代上座部(の一部)のシンパが、自派の説の補強に使おうと考えているのです(たぶんF.Nakajimaさんは、彼らの主張に幻惑されたのでしょう)。
もちろん初期仏典に増広(後からの付加)がなされていると考える上座部僧はいます。南伝仏教も一枚岩ではありません。石飛先生のところに出入りする戦闘的な上座部のかただけがすべてだとは思わないでください。石飛先生は面倒見がよいので、なにかそういった上座部の人たちともうまくつきあっているように傍目には見えることもあるのですが、返答をよく読むと、肝心なところでは言質をとられないように慎重に回答しています(怖い方です)。
何にせよ、上座部は最近書籍が書店で手に入れやすくなっただけであって、日本のアカデミズムの伝統とは関係ないでしょう。

長々と書いてしまいました。ご容赦を。

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驚いた! 投稿者:横入りです 投稿日: 7月24日(月)15時48分45秒

こっちでは、まだこんな子供の負け惜しみみたいな捨て台詞が続いていたのですか。捨て台詞なら一回で充分で、そうでなければ、内容がない話=無駄話は、ちょっと知性が疑われるような・・・マニカナではもう終わってますよ。
Nakajima様、経典の成立順序とか古層・新層などとおっしゃってますが、お年は幾つ? 
仏教学界はもう二十一世紀に入って何年も経ってるンですが、こちらはまだ1960年くらい? 無駄話してるヒマがあったら、最新の研究を学んで下さい。

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(無題) 投稿者:Transit 投稿日: 7月24日(月)13時46分33秒

結局、アマゾンの以下の書評に尽きるんじゃなかろうかと思ってます。

論理学の理解は中学生以下, 2005/9/22
レビュアー: 荒野の偏微分 (西日本) - レビューをすべて見る
最初の2章を読んだだけで著者の「現代論理学」の理解度は極めて低いことがわかる。論理学で時間が扱えない、真理表に穴がある、などの初歩的な思い違いから全ての議論を導いている。A∧Bと、日本語の「AそしてB」とはイコールでない(そのために普通は「AかつB」として、この中に元々時間の含意がないことを示すのだが)ことを理解しようとせず、それだから時間の概念が論理学で扱えない、とくる。真理表で順にTTFTの真理値を示す命題がQ→P、すなわちPならばQの逆であること位は、中学生の数学程度ですくに理解しうることである。それを「現代論理学ではこれにあたる接続詞がない」というのは噴飯ものでしかない。仏教論理を専門とする著者が、今やあたりまえになっている記号論議学を生齧りして、命題関数だとか真理値だとかいうものを生半可に弄んでいるだけの話で、内容はもとより空疎である。仏教徒である私だが、このような著者によるブッダの思索の紹介というのは頂けたものではない。あとがきに、龍樹がうるさく「書け」と言った、という件があるが、正直、著者の精神状態を疑わざるを得ない。龍樹もいい迷惑だ。
仏教書としても論理学の書としても読むに値しないが、論理展開の誤謬の例としては典型的で、おもしろい

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書評について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月24日(月)12時01分56秒

十年に一冊の驚著(と言ってしまおう、この際)。ブッダは菩提樹下の成道ののち、自らを「一切を知る者(一切智者)」であると宣言しました。しかし、その所以については、これまでほとんど研究されてこなかった。多くの研究者は、自称仏教徒の研究者も含めて、「まぁ、あなたがそう言うんだから、そうかもね」といってブッダのことばを取り合わなかったウパカと同じ態度を取ってきたんですね。

インド論理学の研究者である著者はもともと仏教の専門家ではありません。ですから、最初っから「ブッダはなぜ一切智者と自称したのか?」とゆーことに関心を持っていたわけではないのです。

著者がずーっとひっかかっていたのは、自分の専門のニヤーヤ学派形成に関わる主要論敵としてマークしていた龍樹(ナーガルジュナ)の『方便心論』とゆー論書でした。わずかに漢訳のみが残され、これまでほとんど省みられてこなかった同書の読解に没頭するうち、著者は『方便心論』にブッダその人の教え(出典はアングッタラニカーヤ)から注意深く抽出された純粋な「ブッダ論理学」が織り込まれていることに気づいた。そして現代論理学・現代分析哲学の到達点と照らし合わせたとき、ブッダ論理学が恐ろしい高みにあることに気づかされ、驚愕したのです。

著者は不世出の仏教哲学者、龍樹菩薩が『方便心論』で用いた方法論の欠点ないし「失敗」にも気づき、それを乗り越える方法論を自覚的に選び取ったのです。ナーガルジュナの如く倫理という表から透かして「裏の論理」を見ることをせず、ブッダの発明した論理学を正面から問うという方法論です。曰く、「倫理として教えを開いたブッダのやり方にこだわらず、わたしたちの役に立つ論理学としてブッダの教説を開いてみよう」と。これは賞賛すべき勇気ある跳躍です。

さいしょ、論理学の素養がない人は最初はちょっとだけピンと来ないかもしれないけど、でも腹のすわった文体は読者をどんどん傾聴の構えに導いていくでしょう。序論から巻末まで気が抜けません。お釈迦さまの教えがこれほどまでに崇高な論理=倫理に貫かれていたとは…。ブッダ論理学のエッセンスを教えてもらいながら、僕は途中から、たまらず泣きました。

詳しくは本書に譲りますが、著者は「(初期仏典に)ブッダのことばは完全に保存されている」ことを、ブッダ論理学の根幹をなす経典の形式・文体の分析を通して明らかにしています。著者が獲得した知恵(論理)のまなざしによって、経典の成立順序や古層・新層をめぐる不毛な応酬を土俵ごとひっくり返してしまうかもしれません。本文は200ページ足らずですが、その衝撃度は恐ろしいほどの一冊です。

ブログ 「ひじる日々 寺男の日記」より

本文は 読書 音楽 : エントリ「ブッダ論理学五つの難問」をご覧下さい。この即席の書評を読んでこの本を読んでみようと思っていただけるだろうか。実はこの本には続編のテキストがあってマニカナエムさんはその続編でブッダが如何に自らの形而上学として輪廻を語ったかをしっくり解き明かしてくれます。輪廻転生が仏教であるとかないとかという論争がインドから仏教のみを切り離してなされている不毛な論争でありブッダにとってそれは対立軸に据えるような問題ではなかったのです!そして大乗を仏教から切り離すことも実はナンセンスであり、インド人が言語に寄せる意図性や比喩性、そして暗黙の自己である「わたし」や「僕」を廻る仏教を含めたインド諸学派の論争、そしてそうしたインド的言語表現の根底を支えるインド論理学へ向かうベクトルなしに仏教は語れないと思う。ブッダが弟子達に残した刻印がどのようにインド的に荘厳されて宇宙大にまで膨らんできたのか。そうした視点から仏教と仏教史を概観するとき石飛氏と互いに畏友と呼び合う宮元啓一博士のご主張は既存の仏教にどっぷり浸かってしまった僕たちに新しい視点とヒントを与えてくれる。とこちらも必読!!

ブログ 「くまりんが見てたU」より

>Y田さま

そのたとえが今回の件にもあてはまるならどんなにいいだろう。と思います。 上記の推薦文(寺男氏は経歴を存じておりますが、くまりん氏については存じません。しかしながらどちらもインド哲学の学会ではそれなりに名を知られた人物であろうことは彼らの他のエントリーから明らかです。)を読めばわかるように、「付着物を含めた総体を研究するか。おそらく、後者が主流なのでしょう。」のではないのが明らかです。

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Re: 投稿者:φ 投稿日: 7月24日(月)04時06分23秒

『夢幻論』の著者との短いやりとりは、以下でご覧いただけます。↓

重久氏はインド哲学プロパーの人と言ってよいかどうかはわかりませんが、ごく生産的な議論のできる人だと私は思います。Υ田さんもこないだ少し話されたかと思いますが――

http://russell-j.com/br-q&a.htm

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(無題) 投稿者:Υ田 投稿日: 7月24日(月)03時24分48秒

インド論理学をあまり知らないΥ田です。『科学史技術史辞典』(弘文堂)と『夢幻論』(リンク先)と岩波の数冊の本から、間接的にインド論理学とはこんな物なのだろうなという推測ができるに過ぎない者です。

φ> ともあれ、今回のことで、読者って、ろくに注意して読んでないのかな、て思わされましたよ……。
φ> 努力して推敲を重ねても、無駄になることが多いんですな……。トホホ……。

 φ先生、お世話になっております。不注意の多い読者を代表して申し上げます。100の内容のうち、ある読者は90しか理解せず、別の読者は別の組み合わせで85だけ理解します。解説書や入門書や啓蒙書であれば、どの細部も、理解しない読者よりは理解する読者のほうが多いはずです。ですから、決して推敲は無駄にならないはずです。(『ラッセルのパラドクス』や二見書房からお出しになった三部作を読んでいると、「強すぎる断定をしているぞ」と思った部分の直前に、きちんと適切な留保がついていることに何度も気付かされました)

 どの細部も、注意を払わず読む人より、注意を払って読む人のほうがずっと多いはずです。

F.Nakajima>私は論理学とは人文・自然を問わず、全ての学問分野で使われる普遍的なものであると思っておりましたが、どうやら彼らの中では論理学というのは違うもののようです。

 F.Nakajimaさん、はじめまして。  仮に某古典薬草書Aから「当時の人が薬学だと思っていたもの」を復元するならば、それは、現代人が「Aから発掘した薬学」と呼ぶものに、当時の当地域の時間論や存在論や芸術や慣習やレトリックがごっそりと付着した物になってしまうでしょう。

 薬学を論理学に、Aを仏典に置き換えるならば、今回の構図に当てはまるように思います。「彼ら」における論理学には当時の当地域の時間論や存在論や芸術や慣習やレトリック(要するに「論理学以外のもの」)がごっそりと付着しているのではなかろうか、と。

 発掘後の方針には2通りあるでしょう。付着物をそぎ落として残るものを研究するか、「付着物あっての『ブッダ』論理学なのだ」と言って付着物を含めた総体を研究するか。おそらく、後者が主流なのでしょう。

 旅人さん、はじめまして。
 ハムさん、まいど。
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私が先週自分自身に課した宿題↓がありましたけれど、 Υ田>ここまでまとめるのに疲れてしまいましたので次回の投稿でフォローさせていただきます。
待っている人がいましたらごめんなさい。まだ続きを書いていません。
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0102401636

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(無題) 投稿者:通りすがりの旅人 投稿日: 7月24日(月)00時30分52秒

はじめまして。

ハムさん
石飛氏は確か仏教徒ではなかったはずです。
また、宗教が戦争の主な理由というのも正しくない。
むしろ歴史が教えてくれるのは
女性を理屈で説得することの困難さです(笑)

まぁそれはさておき、中島さん。
三度説得して駄目なら立ち去る。
古来伝わる、これは東洋の智慧です。
ゴータマも中国の賢哲もそうでした。
あなたが正しいと考えている知識を訴えたいならば、
間接的にでも他の手段に切り替えることをお勧めします。

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説得について 投稿者:ハム 投稿日: 7月23日(日)23時21分36秒

相手が信仰者の場合、説得は不可能です。
というか、説得などしてはいけないのです。
信教の自由に反するからです。



石飛氏はおそらく仏教系の信仰者で、その仏教を論理学で補完したいのだと思います。
この場合、石飛氏が信じているものは論理よりも仏教ですから、いくら論理を説いても仏教で説かれていることの方を信じるわけです。
そして石飛氏の目的は布教でしょうから、布教に利用できそうなものは論理学でも哲学でもなんでも利用し、利用できなくなったらポイ捨てするだけです。

信仰者を説得できないことは歴史が我々に教えてくれます。
いつの時代でも戦争の主な原因です。
最後には説得ではなく暴力で決着をつけてきました。
こういう不幸を繰り返さないためには、信教の自由を認め合うしかないと思っています。

ブッダの論理学などは、無視していれば歴史がしっかりと淘汰してくれます。
それが一番良い対処法だと思います。

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お詫び 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月23日(日)22時38分9秒

折角のアドバイスをいただきましたのに、申し訳ありませんが、やはり私には説得は無理のようです。

一番上の真理関数(と題名がつけられている)スレッドがどんどん延びていき、誤解が誤解を拡大生産している状況で、しかもあまりのわけわからない理屈をこねるのを見ていて怖くなりました。自分達の述べている暴論と違う理屈で世界が動いているらしいとどうやら気づき始めたようですが、それすら「法学では人を人が裁く為の論理であり、人が持つ苦は除けません。苦を除くための論理がブッタ論理学ではないのですか。」だそうです。私は論理学とは人文・自然を問わず、全ての学問分野で使われる普遍的なものであると思っておりましたが、どうやら彼らの中では論理学というのは違うもののようです。

最後に一つだけ愚痴を言わせてください。石飛女史はブッダ論理学とは「あるがまま」の論理学だと書いていますが、あそこまでいびつな論理学で一体どのような世界の実相を記述できるのでしょうか?

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Re:仏教学者のセンス 投稿者:φ 投稿日: 7月23日(日)18時20分20秒

 公理の選び方についての異論は、論理学の内部でもいろいろあって、だからこそ非標準論理学も成立しているわけですが(矛盾を公理に据える論理学すらある)、いちおう、公理と推論規則から出てくる定理のあれこれを見定めた上で「こうなってしまうから、標準論理学の公理の立て方は不十分だった」等とやっていくわけですね。
 公理は、公理である以上、公理の内容だけで否定してはいけませんね。定理としての諸帰結まで論じた上で、メタのレベルで初めて否定しないと。

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Re:仏教学についての現状 投稿者:φ 投稿日: 7月23日(日)17時07分53秒

 ウうーム、あの本に待ったをかける声が出ない学会とは、大問題ですねえ……。

 未だに石飛さんは、私が「理解できていない」と思い込んでいるようです。
 そうではなく、「はっきり理解できた。支離滅裂であることを」なのに、伝わってません。どこがどう支離滅裂なのかを、逐一これだけ説明してもダメですね。メールでやりとりしたときも、「それは存在論が違うからです」の一点張りで、直接の答えが一度も返ってきませんでした。存在論が違うから議論できない、で終わるなら、論理学は要らないのに。

 説得の仕方……

 〈無宗ださん〉あたりは徐々に理解されてきているようですから、ああいうかたとの対話によって(直接対話しなくても互いのレスを参照言及して)疑問を整理し、石飛さんに投げてみるというのも手かもしれません。
 ヒュームが、クリプキが、といった哲学史的な話も避けたほうがよいでしょう。逃げ場が広がってしまうので。とにかく初歩の論述マナーを確認していただくことですね。

 あとは、単純質問を重ねる方法ですかねえ。一度にあれこれ尋ねたり、大まかな哲学観や世界観を問うのではなく、何頁の何行目というように狭い範囲に絞った一問一答を続けて、矛盾を意識していただく。

 ■例:
 「チャッカって、真理関数なんですか?」

 ★yesの場合
 「ならば、なぜ、Q⊃Pとして論理学で語られまくっているという初歩的なことを読者に教えないのですか?」(語られていない、と返ってきたら)「前件否定、後件肯定の誤謬の説明などでQ⊃Pという真理関数は頻出しますが、なぜその程度のことにも言及しなかったのですか?」
 「真理関数が時間を語らないことは定義上始めからわかっているのでは?」(だからその定義をこそ批判したかったのだ、と返ってきたら)「批判したいなら、なぜ様相演算子など、時間を語れると論理学自身が主張している装置を論じないのですか?」
 「他の真理関数も時間を語らないことでは同様ですが、なぜとりたてて3番目だけを問題に?」
 「「口をつぐんで語らない」とは具体的にどういう意味ですか?」
 「真理関数で因果関係を表わせるというのは、典拠があるのですか、思いつきですか」
   ……

 ★noの場合
 「ならば、なぜ、p.42で他の真理関数と並べているのですか?」
 「p.42の表がすべて真理関数でないというなら、なぜ9〜16をあっさり略しているのですか?」
 「真理関数でないのに、命題論理学ばかり引き合いに出すのは見当違いでは?」
 「時間は実在し、基本概念として扱われるべきだと信じていますか?」
 「論理学が時間の有無について決める力があるとすると、物理学とどう違うのですか?」
   ……

 でもまあ……「チャッカは、真理関数とも言えるし、そうでないとも言えます。どっちかに限定しなきゃならないと思うこと自体、有の存在論に立っている証拠です」みたいな答えが戻ってきそうで、まあ、期待はできませんね……。
 東洋人の一人として、やはり東洋思想ってこんなにもダメだったのか〜、と思い知るのはガッカリしてしまいます。

 説得の仕方というのは、私もいろんな方面で、頭を悩ますところです。場合によっては自分が説得される用意がないと、説得上手にはなれないでしょうしね。
 今までのメールでの議論からお三方えらんで
http://russell-j.com1/
の黄色球から見られるようにしてあります。御参考までに。
 もっと生産的な議論も色々あるので増やしていきたいですけどね(長いのが多いのでなかなかアップロードできませんが)。
 私自身、あまり説得され上手でない場面もあってお恥かしいですが。

 それでは、また。
 御健闘を祈ります。
 石飛さんよりもっと重症な学界人とやりとりしたこともありますので、まあ全体、私にとって負担にはなってません。そもそも、↑の3つの議論のような〈頭を使うレベル〉には今回はとうてい達していないので、楽っちゃ楽ですよ……。

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仏教学についての現状 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月23日(日)15時11分50秒

まず、ご挨拶は省略させていただきます。おそらく、別のBBSで私のHNは御覧になったでしょうから。

さて、失礼極る侵入者に対して、三浦さまは不愉快かもしれませんが、失礼ついでにお聞きしたいことがございます。まるでダチョウのように砂場に頭をつっこんで「私は正しい」と言い続け、反論にしてもまるで論理的に矛盾していることを平気で口走っている相手に対して説得するよい方法をご存知ありませんか?どのように論理的に矛盾しているかは御覧になればわかると思いますが。(といいながら対偶は因果関係に使えないぜという突っ込みが、私の発言に対しても三浦さまから喰らうと思いますし、存在論に対してもこれは違うぜと多分言われるでしょうがそこはごまかしてくださいw)

ついでに愚痴だと思ってお付き合いください。日本における仏教学会の現状について少々お話したいと思います。実は、あの本に対して日本の学会は手放しの賞賛しか私は見たことがありません。日本のインド哲学学界というのはあの程度の論理的な欠陥も見抜けないのです。
どうもへんなアカデミズムの伝統が仏教学会にはあるらしく、しかもそれは宗派的な運動ではなく、復古的な運動というべきなのですが、ある一定の部派にはブッダの言動が経文として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている。というのが今、日本の仏教学界では熱心に提唱されているのです。そのことの真偽については別の話ですが(もっとも物理的証拠は発見されておらず、文献史学的にも全く検証不可能なのでこのことを主張すること自体、学問的態度というより、一種の宗教的運動というべきだと私は思っていますが)、それを少しでも裏付けられそうな意見が発表されると、見解を同じくする研究者同士がお互いに称えあうというわけです。しかもインド哲学自体がほとんど隣接する他の分野がない孤立した分野のため、他分野からの批判が一切なく安心して内輪の中に閉じこもることができるわけです。

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最後(?)にふたことみこと 投稿者:φ 投稿日: 7月23日(日)05時08分37秒

 無宗ださん、またいつでもどうぞ。

 今、ちょっとむこうの板も見せてもらいましたが、何か、わかってない方もおられるようで。
 チャッカが不要か必要か、などということで私は批判してるのではありませんよ。
 もっとずっと初歩のレベルで、あの本が支離滅裂だと言ってるのに、おかしいな、それがわからない読者なんているんでしょうか。
 もしかしたらあの本を一番きちんと読んでるのって私?

 p.42だけでいいから「きちんと」読んでくださいね皆さん。
 最後の行の「決して誰も口にしない秘められたその真理表」という言い方だけでもおかしいと思ってください。真理表で現に表現できているものを、論理学者の「誰も口にしな」かったとは??
 たった16通りのうち、学界で一つだけずっと避けられてきたなんて、本気で信じられたらセンスが疑われますよ。「数学者は今までずっと47の倍数を語らなかった。なぜ黙して語らないのだ」なんて発言よりヒドイです。

 時間がどうのこうの、チャッカは真理関数ではないなどとブツブツ言いッこなし。くれぐれも、「真理表6」(真理表5の、3)がp.42の他の15個の真理表と同列の「真理関数」として扱われている(9〜16を略してかまわないとした理由もそれ)ことを忘れんように!
    お願いですから皆さんこの程度の支離滅裂は一目で見破ってください。
 論理学以前の国語読解力の問題です。

 ともあれ、今回のことで、読者って、ろくに注意して読んでないのかな、て思わされましたよ……。
 努力して推敲を重ねても、無駄になることが多いんですな……。トホホ……。

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ありがとうございました 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月22日(土)16時07分17秒

φさま、お付き合い頂きありがとうございました。

>  何度も言うように、因果関係は真理関数ではありません。
>  真理関数とは何か、については、論理学のどの本にも定義が書いてありますから、参照してください。
>
>  >この真理表の(2)列目の解釈は私にとって重要な問題です。
>
> (2)列目の解釈と限定するのではなく、真理表は全体として理解してください。
>  真理関数とは何なのかを、ぜひ初歩から勉強しましょう。(前回私がここに書いたように「構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数」で定義は済んでいるのですよ!)

ご忠告に従い、真理関数とは何なのかを、初歩から勉強してきます。
もし、それでも、なぜ、
> 構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
>  「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。
こうなるのかがわからないときには、また、お邪魔させて頂きたいと思います。
今回は、いろいろありがとうございました。

ハムさま

ご忠告ありがとうございます。

私からも仏典の言葉をお返しさせて頂きます。
> 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
> 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。
私も、毀るべき人と誉むべき人を正しく認識できるよう精進いたしたく存じます。

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無宗だサンへ 投稿者:ハム 投稿日: 7月22日(土)15時28分58秒

石飛氏の『ブッダ論理学 五つの難問』について、φ様は「「現代論理学」について書かれていることは全部ナンセンスである」とおっしゃっています。
石飛氏は論理学の素人、φ様はプロです。
石飛氏が「現代論理学」について誤っていることに、議論の余地はないはずです。

>論理学の書籍に関して、素人の私は何の判断基準も持たない。

のであれば、なおさら素人よりもプロの話を良く聞いて勉強すべきです。
それが、私たちの正しい態度ではないでしょうか。

私たちにこういう態度があれば、書店に氾濫する悪臭プンプンたるトンデモ本は駆逐できるはずです。

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部分的な回答ですが 投稿者:φ 投稿日: 7月22日(土)14時38分57秒

>カーステレオが故障していることは、車本来の機能にとって何の不具合でもない。
>私はこの本の価値は、原始仏典の中にブッダの論理学が隠されていた、
>それが方便心論により明らかになったというという指摘にあります。
>先の例で言えば、現代物理学に関する記述の正確さはカーステレオ機能
>のようなものに過ぎません。
>私には、「現代論理学に関する部分は全部ウソ」かどうかは判断できないし、
>どちらであるかはさほど重要な問題ではありません。

 うーん、正直申し上げて、世の読者とはこういうものかと思うと、がっかりしますね。
 そのような読者が、著者を甘やかすのですね。
 安易な本ほどベストセラーになるのもよくわかります。
 著述家としては、張り合いを失いますね……。

 2点述べましょう。
 ひとつ。本の「主題」そのもの以外の事柄についてであれ、「根本的なナンセンス」を平然と書いている本は、全体が信用できないと考えるのが常識でしょう。
 書物は、独立した部分の寄せ集めではありません。全ては有機的に繋がっており、著者のモラルと学識を表わしています。「ここはダメだが、ここはよい」という判定はある程度通用しますが、「ダメ」が限度を越えた場合、全体が腐蝕します。

 ふたつ。『ブッダ論理学 五つの難問』は、「序論」ですでに読み取れる姿勢からすると、『方便心論』をはじめとするインド論理学の姿勢をなぞろうとしてますね。ブッダも、龍樹も、「相手の言葉をそのまま受け取ってそれを少しだけ変えて」(p.16)つまり相手をもじって議論を展開したそうですね。『ブッダ論理学 五つの難問』はそれを、現代論理学を相手にしてやろうとした本でしょう。だとすれば、現代論理学への理解度は、あの本の本質と切り離せないはずです。
 西洋の現代論理学が、いま最も信頼を得ているスタンダードだからこそ、その「もじり」をやる意味があると石飛さんは思ったのでしょう。ところが、石飛さんの現代論理学の知識がゼロに等しい(私の本も参照されているので正直ガッカリしました……)となると、この本がもじっている相手をそもそも理解していなかったことになり、この本の価値はゼロとなるのではありませんか?
 無宗ださん、無責任な著者を甘やかすのはもうやめましょうよ!

>(2)(3)に関していえば、PQの順序を入れ替えなければ、
>QならばPの真理値表に対応する演算子が無いことは事実なので、
>「真理表には穴がある」と主張することも可能だと考える。

 あの本のpp.42-3をようく読み直してみてください。
 「真理値表に対応する演算子が無い」というだけなら、「真理値表5」のうち、2,5,7,8を除くすべてがそうですよ。それらを「穴」としないで、お目こぼししているのは、既成の演算子で定義できるからですね。6だけ特別視する根拠が一切ありません。

 現代論理学では、〜∨∧⊃≡ですら本来は基本概念ではなく、便宜的表現に過ぎません。本来は全てが「穴」なのです。〜∨∧⊃≡は仮の名称に過ぎません。仮称・仮象に惑わされて、鬼の首を取ったように「専門家は口をつぐんで……」など笑止千万だと私は言っているのです。
 これは高度な存在論云々の話ではありません。辻褄が合っていないという初歩の欠陥です。
 時間が入るなど真理関数以外の部分で6が問題だと言いたいならば、1〜16の全てが問題視されるはずですよ。6だけを取り立てる意味がなく、pp.42-3の記述は支離滅裂です。
 身近な論理学の専門家に、あの部分だけでもぜひ読んでもらってください。大笑いです。
 まさかブッダや龍樹も、あのレベルの議論で論敵を「論破」してきたんでしょうか? 
「相手の言葉をそのまま受け取ってそれを少しだけ変えて」じゃなく、「相手の言葉とは無関係に」ですね。したがって私は、『ブッダ論理学 五つの難問』を読んで、インド論理学がいかにデタラメかがわかってしまいました。
 もしかして、それこそが――インド論理学を全否定することがあの本の真の秘められた狙いだった? インド哲学研究者は要警戒ですね!

>えーと、ごめんなさい。
>真理関数の意味が私には良くわかっていないようです。
>必要条件は真理関数なのでしょうか?

 P⊃Q が正しいとき、QはPの必要条件といいます。したがって、真理関数です。

 何度も言うように、因果関係は真理関数ではありません。
 真理関数とは何か、については、論理学のどの本にも定義が書いてありますから、参照してください。

 >この真理表の(2)列目の解釈は私にとって重要な問題です。

(2)列目の解釈と限定するのではなく、真理表は全体として理解してください。
 真理関数とは何なのかを、ぜひ初歩から勉強しましょう。(前回私がここに書いたように「構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数」で定義は済んでいるのですよ!)

>φさまは、論理学と哲学や数学との関係をどのように考えておられますか。

 そんな高度な話ではなく、まずは、『ブッダ論理学 五つの難問』の幼稚園レベルの支離滅裂を理解していただくのが先ですから、哲学論は後にしましょう。
 失礼ながら、基礎の出来ていない人ほど、「哲学とは」といった大味な議論に飛びつきたがる傾向があるようです。

>私にとっては、方便心論を理解する上で、
>役に立つかどうかが重要だったので、
>そこの部分はあまり気にしませんでした。

 すでに述べたように、著者の現代論理学の理解がゼロに等しく(というより、ある意味、マイナスです!)、それを全く自覚しないままこうも推移しているとなると、著者の『方便心論』の理解も疑わざるをえません。
 学問的姿勢は、全て地続きなのです。
 かりに石飛さんの学問的姿勢が「誠実」であり、「不勉強」でもないとすれば、前述のように、石飛さんの真意は(というか無意識の欲望は)、心ある人に対して、わざとインド論理学の支離滅裂さを自ら実演して見せて、『方便心論』の価値をも全否定することだ、と私は理解しています。

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RE:不完全な回答かもしれませんが 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月22日(土)08時05分26秒

φさま、レスありがとうございます。

まず始めに申し上げると、前回、無宗ださんが確認された3つの問題点

(1)「現代論理学」には、述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるにもかかわらず、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させていること。
(2)真理表の全ての可能的接続詞に名前が付いていないことを根拠に、「真理表には穴がある」と主張していること。
(3)穴とされる真理表自体、実は、「QならばP」の真理表に過ぎず、他にも、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々の呼び名があるにもかかわらず、名前が付いていないと主張していること。

 これだけですでにあの本は読者を欺いており(もし著者が不誠実でないとしたら、どうしようもなく不勉強ということです!)、公刊本としては失格ではありませんか?
 「チャッカ」は必要条件の真理表にすぎないということが、一言でも書かれていましたか?
 「いや、あれは実は違って、普通の真理表ではなくて、時間の要素がどうのこうの」と後から言い足してもダメです。p.42〜43の頁境あたりの滑稽な記述は撤回できません。
 読者は、書かれたことで理解しますから、ああいうウソ本は責任重大ですよ。

たとえば、ここに右後ろのブレーキランプが切れ、カーステレオが故障している乗用車があったとしよう。
私有地内を走る分には何の問題もないし、ブレーキランプを交換すれば公道も走ることができる。
カーステレオが故障していることは、車本来の機能にとって何の不具合でもない。

さて、車に関してであれば、こういったことが言えるが、論理学の書籍に関して、素人の私は何の判断基準も持たない。
また、いうまでもなく、その書籍に関して私は何の責任もない。
私にできることといえば、私にわかる範囲で感想を述べること程度である。

(1)に関していえば、現代論理学が「命題論理」がすべてと思う人はいないだろうし、かといって、命題論理と三段論法以上のものを知っている人もまれだろう。実際私は高階の論理学、様相論理学、時制論理学と言われても何のことかよくわからない。特に問題があるとは感じない。

(2)(3)に関していえば、PQの順序を入れ替えなければ、QならばPの真理値表に対応する演算子が無いことは事実なので、「真理表には穴がある」と主張することも可能だと考える。
ただし、
>  「数学では、2の倍数を「偶数」と呼ぶが、3の倍数を表わす慣用句がない。したがって、数学は不備である」
>  ↑こう主張する人がいたらどう思いますか。数学を理解していないことが明白ですね。残念ながら、石飛さんの本はそのレベルのものです。
との指摘があったように、p43の「接続詞の無いことを理由に、この接続詞に対応したことは扱えない」という主張には問題がある。
「公刊本としては失格」か否か判断する基準を私は持っていない。

>  「チャッカ」は必要条件の真理表にすぎないということが、一言でも書かれていましたか?
書かれていなかったように思う。
たしかに、
・「チャッカ」が、「QならばP」の真理表と形式の上で一致すること。
・「チャッカ」は時間を含むため、「QならばP」とは本質的に違うこと。
が、わかるように書かれていないために読者に不必要な疑いを起こさせている面は存在する。

>  p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」と、p.45の2〜3行目とが矛盾していることに気づかない読者は、よっぽど鈍い人だと思いますよ。
>  現代論理学を全く知らない読者であっても、あの本のあちこちにある矛盾を手掛かりにして、現代論理学に関する部分は全部ウソだということが読み取れるはずです。

私はこの本の価値は、原始仏典の中にブッダの論理学が隠されていた、それが方便心論により明らかになったというという指摘にあります。先の例で言えば、現代物理学に関する記述の正確さはカーステレオ機能のようなものに過ぎません。
私には、「現代論理学に関する部分は全部ウソ」かどうかは判断できないし、どちらであるかはさほど重要な問題ではありません。

■>【質問1】に関して

>  因果関係が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから、あの本全体の書き方が無意味となります。
>  真理関数の意味はおわかりでしょうか。構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
>  「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。

えーと、ごめんなさい。
真理関数の意味が私には良くわかっていないようです。
必要条件は真理関数なのでしょうか?

「QならばP」が真理関数であれば、同様に
 必要条件が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の必要条件である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから。
 真理関数は構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
 「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、必要条件の真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。

となりませんか?

 因果関係が真理関数であり、必要条件は真理関数ではないのだとすれば、その根拠はあの本のどこの記述によるのでしょうか?
 この真理表の(2)列目の解釈は私にとって重要な問題です。

> >2500年前にブッダは、
> >多数の事象の中でどれが原因でどれが結果であるかを
> >決定する手段として
> >(1)「xがあるならば、yがある」
> >(2)「xがないならば、yがない」
> >という公式を発見した。
> >これは、(1)によって発見したxとyとの関係が、
> >因果関係であるかどうかを(2)によって確定するというものです。
>
>  文字通りとれば、その「公式」とやらは、同値関係(≡)です。チャッカの真理表ではありません。

文字通りとれば、「xがある、yがない」に関する真偽は不定であり、同値関係(≡)か、必要条件かはどちらとも決められません。

■>【質問2】について

 命題の真偽の関係に焦点を絞った真理表という限定的な装置に対して、見当違いのナイモノネダリをして「現代論理学」は時間を扱えないなどと、正気を疑われてしまいます。
なるほど。

>  たとえば……「物理学は、分子だろうが人体だろうが恒星だろうが、どのレベルでも成り立つ法則を扱います」「それは理想論ではないでしょうか?」
>  ↑こういう問答にはあまり意義はないでしょう。
たしかに、こういう問答にはあまり意義はないですね。失礼いたしました。

φさまは、論理学と哲学や数学との関係をどのように考えておられますか。
私は現在、
・論理学とは、みずからが用いる論理への自覚的反省をメタ論理とするならば、メタ論理を体系化したもの
・哲学とは知りたいという以外のいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営みのこと
・数学は、論理学をある真理群に対して適用した応用例
ではないかと考えているのですが、いかがでしょうか?
たとえば、ユークリッド原論には、
http://www.rimath.saitama-u.ac.jp/lab.jp/fsakai/he.html
定義、公理、公準 がありますが、「定義と公準」が真理、「公理」が論理(学)になるのではないかと思うのですがいかがでしょうか?

【質問3】について

>  しかし、もしですよ、『ブッダ論理学 五つの難問』』のような歪曲的論述がインド論理学だというなら、インドには論理学は無かった、と断定できます。
>  ブッダの倫理は(論理以前に倫理は)ああいう書き方を許すのでしょうか。

たとえば、仏典に「田を耕すバーラドブァージャ」という話があります。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta.htm#1-4

ブッダがバラモンに、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」といわれて、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と応えたという話です。

見方によれば、ブッダは畑仕事をしていないのに、「している」という嘘をついたという解釈も可能でしょう。
私にとっては、方便心論を理解する上で、役に立つかどうかが重要だったので、そこの部分はあまり気にしませんでした。

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不完全な回答かもしれませんが 投稿者:φ 投稿日: 7月20日(木)19時19分35秒

まず始めに申し上げると、前回、無宗ださんが確認された3つの問題点

(1)「現代論理学」には、述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるにもかかわらず、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させていること。
(2)真理表の全ての可能的接続詞に名前が付いていないことを根拠に、「真理表には穴がある」と主張していること。
(3)穴とされる真理表自体、実は、「QならばP」の真理表に過ぎず、他にも、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々の呼び名があるにもかかわらず、名前が付いていないと主張していること。

 これだけですでにあの本は読者を欺いており(もし著者が不誠実でないとしたら、どうしようもなく不勉強ということです!)、公刊本としては失格ではありませんか?
 「チャッカ」は必要条件の真理表にすぎないということが、一言でも書かれていましたか?
 「いや、あれは実は違って、普通の真理表ではなくて、時間の要素がどうのこうの」と後から言い足してもダメです。p.42〜43の頁境あたりの滑稽な記述は撤回できません。
 読者は、書かれたことで理解しますから、ああいうウソ本は責任重大ですよ。

■>【質問1】に関して

>> 「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の
>> 原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。
> ここは、石飛先生の考えがうまくφさまに伝わっていないようです。

 因果関係が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから、あの本全体の書き方が無意味となります。
 真理関数の意味はおわかりでしょうか。構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
 「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。

 真理表は、数学で言えば、九九の表みたいなものです。九九の表だけで、有理数も実数も微積分も相対論もナシで、銀河の生成の仕組みを突き止められますか。
 真偽しか扱えない真理表で因果を解明しようなど、トンデモ本の域にすら達していません。論理学の初歩の初歩にすぎない命題論理の、しかも真理表の一部だけで因果関係がわかるなどと、冗談も休み休み言ってほしいです。ネット上のおしゃべりでなら自由ですが、公刊した書物からは一刻も早く削除しないとマズイですね。
 何度も言いますが、命題論理だけで現代論理学を解説している本があったら教えてほしいです。述語論理学だって、1階論理ならばきわめて単純なのだから(しかも歴史的には命題論理より述語論理のほうが先です。アリストテレスの三段論法は、述語論理に限定されています)、「煩瑣になるので略すことにしよう」(p.97)とは論外ですね。
 肝心なところを略してばかりいたら、どんなものでも不完全に見えるのは当り前ですよ。

>2500年前にブッダは、
>多数の事象の中でどれが原因でどれが結果であるかを
>決定する手段として
>(1)「xがあるならば、yがある」
>(2)「xがないならば、yがない」
>という公式を発見した。
>これは、(1)によって発見したxとyとの関係が、
>因果関係であるかどうかを(2)によって確定するというものです。

 文字通りとれば、その「公式」とやらは、同値関係(≡)です。チャッカの真理表ではありません。

>「現代論理学の真理表」では時間を扱えないとさんざん主張した後で、
>チャッカなる真理表が(時間を含む)因果関係を表しているというのは
>矛盾と感じました。
>これを質問したところチャッカは、
>時間経過も含む演算子であるとの説明を受け、
>一応納得しましたが、たしかにもっと詰める必要があるとは感じます。

 だから、始めから真理関数であるかのような書き方は読者を騙すだけなんです。

 ピロリ菌は胃ガンの原因なのか、売春は堕落の原因となるのか、鈴木貫太郎の黙殺会見は原爆投下の原因だったのか、等々について間違いなく教えてくれる「論理学」なるものがあるというのでしょうか?
 「論理学であるからには真偽で割り切ったかのような装置で説明しなきゃ、だけどインド論理学の凄さを宣伝するには医学や社会学や歴史学も含むんだと言っとかなきゃ」。――こんな場当たり的な安易な態度でいいのなら、学者は苦労しません。

■>【質問2】について

>真理関数が、そもそも時間を扱わないことを前提にしているからということでしょうか?

 「真理表は色彩を反映していない、だから現代論理学は色彩を扱えない」
 「真理表は人権を表現していない、だから現代論理学は人権を扱えない」
 「真理表は重力を無視している、だから現代論理学は宇宙の解明には役立たない」

 ↑こんなふうに言う人をどう思いますか?  論理学がわかっていない証拠ですよね。
 色彩にしろ、人権にしろ、時間にしろ、扱いたければ、個々の命題の内容に含ませればよい。あるいは、色彩述語、人権演算子、時制演算子などを定義して、ブール代数に合致した公理系でも作ればすむことです。時制論理学なんて、かなりの所まで進んでいますよ。

 命題の真偽の関係に焦点を絞った真理表という限定的な装置に対して、見当違いのナイモノネダリをして「現代論理学」は時間を扱えないなどと、正気を疑われてしまいます。

>「滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。」
>というよりは、「滞りなく討論するための枠組みを与えることを
>目指しているのが論理学です。」ではないでしょうか?

 たとえば……「物理学は、分子だろうが人体だろうが恒星だろうが、どのレベルでも成り立つ法則を扱います」「それは理想論ではないでしょうか?」
 ↑こういう問答にはあまり意義はないでしょう。
 学問は、分業によって成立しています。分子レベルでのみ成立する事柄については化学があり、人体については生理学や生物学があり、恒星や銀河については天文学があります。それら全てを普遍的にまとめるのが、物理学です。そういう分業体制で学問が分類されているのだから仕方ありません。
 物理学は、有を扱います。しかし、最近の物理学では無も扱わねばならない場合があるようです。数学や哲学は、はっきり無も扱います。有であれ無であれ(それらの区別すらせずとも)、いかなる主題や前提にも妥当する法則を扱うのが、論理学です。

 「存在論が異なるから対話が成り立たない」という意味のことを言う人がときどきいますね。そういう人は、議論をしたくないだけです。逃げるための方便です。
 論理学や哲学を志す人は、「存在論が(前提が)(世界観が)違うので水掛け論ですね。サヨナラ」という態度は決してとりません。存在論は、論理学や哲学の中の、ごく狭い一部にしか過ぎません。
 論理学は、前提が異なれば、その前提に応じて、議論を設定する方法なのです。(議論を進めるための「演繹定理」という装置を見直されると良いです)

【質問3】について

「古くからインドに論理学があったという考え」については、申し訳ありませんが、私はなんの意見も持っていません。すみませんね。
 印度や中国その他の文化圏に関する知識がないため、私は、西洋で発展した論理学以外の「論理学」については、賞賛したこともなければ貶したこともありません。
 しかし、もしですよ、『ブッダ論理学 五つの難問』』のような歪曲的論述がインド論理学だというなら、インドには論理学は無かった、と断定できます。
 ブッダの倫理は(論理以前に倫理は)ああいう書き方を許すのでしょうか。

>多彩な関係をそのまま認めると何故まずいのかが良くわかりません。
>論証の際に、論証を行う人が根拠を選択するように、
>何かを説明する際に、因果関係を使用する人が、
>その主張のために必要な因果関係を選択すれば
>いいだけなのではないでしょうか?

 もちろんそうですね。個々の場面において何を原因とするかは、便宜的に定めればよいし、そうするしかないでしょう。
 しかし、哲学や論理学で「因果」を扱う場合は、個々の特殊な例をいくら論じてもダメで、「原因」「結果」という概念の分析が必要になります。因果はもともと経験的概念であって論理的概念ではないので、論理学の原始概念(無定義概念・基本概念)に入ることはないでしょう。特殊な応用論理学は別にして。
 前にも言ったとおり、論理学はもちろん、哲学、そして物理学ですらそうですが、「時間」や「因果関係」は基本概念ではなく、もっと基本的な概念に還元できると考えるのが主流ではないでしょうか。

>つまり、「取り扱う文」に対する制約は論理学にあるのではなく、
>物理学や歴史学や生物学等といった論理学を使う側にのみあり、
>論理学自体にはそういった制約は無いということですね。

 p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」と、p.45の2〜3行目とが矛盾していることに気づかない読者は、よっぽど鈍い人だと思いますよ。
 現代論理学を全く知らない読者であっても、あの本のあちこちにある矛盾を手掛かりにして、現代論理学に関する部分は全部ウソだということが読み取れるはずです。

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Re2:因果関係に関して 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月20日(木)05時51分38秒

φ さま、回答ありがとうございました。

【質問1】に関して

> Σ氏の疑問の真意の細部
を、私の理解において簡単に解説すると、真理値表の見方に関し、たとえば
   PQ  PはQの必要条件(QならばP)
(1)1 1    1
(2)1 0    1
(3)0 1    0
(4)0 0    1
において、(2)が真と言う事に関し
P=1、Q=0の時、「PはQの必要条件」という命題は真ということを
P=1、Q=0の時、真であれば、「Pは¬Qの必要条件」という言明が成り立つ
と混同しているのです。

>  「Pが真でQが偽である場合、『PはQの原因である』は正しい」と述べているかのような石飛さんの真理表説明がもともとナンセンスですから、疑問が出て当然だとは思います。
>  「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。
ここは、石飛先生の考えがうまくφさまに伝わっていないようです。

私の理解したところでは、
2500年前にブッダは、多数の事象の中でどれが原因でどれが結果であるかを決定する手段として
(1)「xがあるならば、yがある」
(2)「xがないならば、yがない」
という公式を発見した。
これは、(1)によって発見したxとyとの関係が、因果関係であるかどうかを(2)によって確定するというものです。

x:「真珠湾が12月に奇襲された」
y:「1962年に地球は消滅した」
では、(1)をそもそも仮定できません。

x:「雲がある」
y:「雨がある」
だと、(1)を仮定し、(2)を満たすので因果関係として確定できます。
真理値表の2行目は、「雲がある」のに、「雨がない」場合も存在するといっているだけです。

> 石飛さんは、チャッカの真理表で(――繰り返すと、単に「QならばP」の真理表として出すべきもの。わざわざ名を付ける必要なし)、関係が因果関係であるための必要条件を提示したかったのでしょう。そういうことなら、私には理解できます。結果Qは、原因Pがなければ生じないものである。そして、原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。この意味で、原因Pは、結果Qの必要条件です。

ということだと思います。

>   「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ > と書いてあるところを見ると、石飛さんは因果関係が真理関数で表わせると思い込んでおられるようで、チャッカなる真理表が因果関係を表しているという意味だとしたら、杜撰きわまりない言い方です。Σ氏の苦言はもっともではないでしょうか。

これに関しては、私も混乱しました。「現代論理学の真理表」では時間を扱えないとさんざん主張した後で、チャッカなる真理表が(時間を含む)因果関係を表しているというのは矛盾と感じました。
これを質問したところチャッカは、時間経過も含む演算子であるとの説明を受け、
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?mode=allread&pastlog=0001&no=9&page=25&act=past#9
一応納得しましたが、たしかにもっと詰める必要があるとは感じます。
現在、石飛先生は、因果関係として正しいか否かで真偽を割り振っていますが、時間の要素が入る関係上、西洋論理学における命題の真偽とは微妙に意味合いが異なり、そのため誤解が発生しているように感じます。
「春にタネを蒔けば、秋に収穫がある」という因果関係に関し、この因果関係が正しいか否かと、命題としての真偽は異なります。
時間的な要素も含め必要条件という言葉が使えるとすれば、『「春にタネを蒔けば、秋に収穫がある」という因果関係』は『「春にタネを蒔くことは、秋に収穫があることの必要条件である」』という命題として評価する必要がありそうです。

【質問2】について

 前半部分に関しては、PQの順序を入れ替えなければ、QならばPの真理値表に対応する演算子が無いことは事実なので、因果関係においてはPQの順序を入れ替えることはできないことを暗示しつつ、嘲笑の対象になりかねないのを覚悟の上で「真理表には穴がある」という表現をこのまま使い続けるか、φさまの指摘を受け、いわゆる「間違い」の修正を行うかは石飛先生の判断に任せるしかないように思います。

>  あるいは、現代論理学は時間を扱えない、という論拠が、どうやら真理表の特性に基づいているようですが、真理関数という概念が全然わかっていない証拠です。

これは真理関数が、そもそも時間を扱わないことを前提にしているからということでしょうか?

また、
 また、p.70の「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」
 というのは根本的な誤りです。
 むしろ、存在論を持たぬ者に対して、あるいは、別々の異なる存在論を信ずる者どうしで、滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。
 存在論がなくとも(もしくは、いかなる存在論的前提を抱く者どうしの間でも)変わりなく成立する体系でなければならないのです。実在が有だろうが無だろうが。そうでないと論理学の価値は大幅に減じてしまいます。

これは、理想論ではないでしょうか?
つまり、「滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。」というよりは、「滞りなく討論するための枠組みを与えることを目指しているのが論理学です。」ではないでしょうか?

たとえば、三段論法にしても、それを説明したり、実際に使用したりするためには、
・人間は死すべき運命にある。
・ソクラテスは人間である。
・ゆえにソクラテスは死ぬ。
という、何らかの存在論に基づく命題があって初めて実効を持つといえます。

最終的に抽出された枠組みが存在論にかかわらず成り立つことを目指したとしても、未知の存在論において成り立たない可能性があり、かつ、その構築の過程および適用の際に存在論を必要とするのであれば、「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」といえるのではないでしょうか?
これは詭弁でしょうか?

【質問3】について

石飛先生のサイト名の由来となるマニカナの共著者 宮元啓一氏が

http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/cyoronri.html
 みずからが用いる論理への自覚的反省をメタ論理とするならば、メタ論理を体系化したものが論理学である。古い時代に論理学を確立したのは、ギリシア人とインド人だけである。哲学は論理学と併走してこそ哲学たりうる。その意味で、古い時代に哲学を生み出した民族は、やはりギリシア人とインド人だけである。

と書かれていますが、古くからインドに論理学があったという考えに関して、φさまはどのような考えをお持ちでしょうか?
古くからインドに論理学・哲学があったという考えは、一般に認められている考えなのでしょうか?

 ただし、多彩な関係をそのまま認めると、「彼が肺ガンで死んだ原因は何か?」「彼が生まれたことだ」「彼が3歳の時罹った肺炎を生き延びたことだ」「太陽系が出来たことだ」等々、原因が際限なく広がってしまいます。
 したがって、現代論理学では、因果を原始概念として認めることはまずなく、他の基本概念から導こう(構成しよう)とします。ヒューム以来、因果の実在そのものを疑う懐疑論に対抗するためですね。

多彩な関係をそのまま認めると何故まずいのかが良くわかりません。
たとえば、何かを論証する際には、何らかの根拠を必要としますが、真理の究極的根拠など存在せず、根拠の根拠を求めれば無限後退するだけです。
論証の際に、論証を行う人が根拠を選択するように、何かを説明する際に、因果関係を使用する人が、その主張のために必要な因果関係を選択すればいいだけなのではないでしょうか?

 論理学は、因果関係にかぎらず、個々の命題の真偽の判断には一切関知しません。それは物理学や歴史学や生物学の仕事です。論理学は、あくまで、ある命題の真偽と別の命題の真偽との【関係】をだけ担当します。

石飛先生が、『ブッダ論理学 五つの難問』の中で論理学書として紹介している方便心論においては、真知(真実の知識)を得る手段および、それらの真知を利用して新しい真知を得る手段、他人の主張が真知か否かを判断する手段等が述べられていますが、現代の「論理学」の範疇から考えると、真知を得る手段の部分は切り離して考えるべきということになるのでしょうか?
それとも、真知を得る手段まで含めるのをインド論理学の特徴と考えた方がいいのでしょうか?

したがって、p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」とは、デタラメもいいところです。論理学を勉強した人の言ではありません。
 「因果律は絶対の理法である」(p.135)云々といった説明を信じるなら、ブッダには論理学はなかった、と考えざるをえませんね。
つまり、「取り扱う文」に対する制約は論理学にあるのではなく、物理学や歴史学や生物学等といった論理学を使う側にのみあり、論理学自体にはそういった制約は無いということですね。

 因果とは何か、については、定説はありません。論理学的概念との関係についてはなおさらです。

そうなのですか。
石飛先生の主張しているブッダ論理学は、私の理解したところでは、最初から因果関係(縁起、空)を扱うことを念頭においた論理学です。
西洋論理学とインド論理学は全く相容れない論理学なのか、因果を扱う諸説のひとつと考えうるのか、どちらなのでしょうね。

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Re:因果関係に関して 投稿者:φ 投稿日: 7月17日(月)17時14分13秒

【質問1】
 Σ氏の疑問の真意の細部まではわかりませんが、
 「Pが真でQが偽である場合、『PはQの原因である』は正しい」と述べているかのような石飛さんの真理表説明がもともとナンセンスですから、疑問が出て当然だとは思います。
 「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。
 とくに、p.65に、
  「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ
と書いてあるところを見ると、石飛さんは因果関係が真理関数で表わせると思い込んでおられるようで、チャッカなる真理表が因果関係を表しているという意味だとしたら、杜撰きわまりない言い方です。Σ氏の苦言はもっともではないでしょうか。

【質問2】
 そうですね、中でも(2)が致命的です。
 「数学では、2の倍数を「偶数」と呼ぶが、3の倍数を表わす慣用句がない。したがって、数学は不備である」
 ↑こう主張する人がいたらどう思いますか。数学を理解していないことが明白ですね。残念ながら、石飛さんの本はそのレベルのものです。
 真理表の一部を呼称する慣用句が見当たらないという表層の瑣事にこだわっている(惑わされている)態度そのものが、論理の深層、世界の実相に達しようという姿勢の放棄を示しています。論理とは何か、が全く理解されていませんね。
 p.43〜45などは、嘲笑の対象になりかねず、私はハラハラしています。早く改訂版を出さないとまずいのではないでしょうか。
 ちなみに、真理表は命題が2つの場合だけでなく、任意の個数の場合に拡張しなければなりません。(石飛さんはそのことは無視していますが)。そのすべての真理表に対応する真理関数の呼び名がなければならないと言い張るとしたら、論理学の理念に反するものでしょう。

 問題は3点だけではありません。他にはたとえば、p.197には読者を誤解させることが書かれています。「一切」を語るには、∧∨⊃≡*と否定の六つが必要であるかのような暗示です。実際は、任意の接続詞一種と否定とがあれば、一切の真理表は供給できます。
 さらに言えば、シェーファー関数といわれる接続詞を用いれば、否定も必要なく、シェーファー関数という一つの接続詞だけですべての真理表を網羅することができます。

 あるいは、現代論理学は時間を扱えない、という論拠が、どうやら真理表の特性に基づいているようですが、真理関数という概念が全然わかっていない証拠です。

 また、p.70の「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」
 というのは根本的な誤りです。
 むしろ、存在論を持たぬ者に対して、あるいは、別々の異なる存在論を信ずる者どうしで、滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。
 存在論がなくとも(もしくは、いかなる存在論的前提を抱く者どうしの間でも)変わりなく成立する体系でなければならないのです。実在が有だろうが無だろうが。そうでないと論理学の価値は大幅に減じてしまいます。

【質問3】

 因果関係については、無宗ださんの考えでよいと思います。
 個々の原因は必要条件だが、全部合わせると、結果が生ずるための十分条件となる、という感じですね。
 ただし、多彩な関係をそのまま認めると、「彼が肺ガンで死んだ原因は何か?」「彼が生まれたことだ」「彼が3歳の時罹った肺炎を生き延びたことだ」「太陽系が出来たことだ」等々、原因が際限なく広がってしまいます。
 したがって、現代論理学では、因果を原始概念として認めることはまずなく、他の基本概念から導こう(構成しよう)とします。ヒューム以来、因果の実在そのものを疑う懐疑論に対抗するためですね。

 論理学は、因果関係にかぎらず、個々の命題の真偽の判断には一切関知しません。それは物理学や歴史学や生物学の仕事です。論理学は、あくまで、ある命題の真偽と別の命題の真偽との【関係】をだけ担当します。
したがって、p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」とは、デタラメもいいところです。論理学を勉強した人の言ではありません。
 「因果律は絶対の理法である」(p.135)云々といった説明を信じるなら、ブッダには論理学はなかった、と考えざるをえませんね。

 因果関係に関する良書は、私も教えてほしいほどなのですが、論理的な条件概念との関わりでは、G.H.フォン・ウリクト『説明と理解』(産業図書)のとくに第2章がわかりやすかった記憶が。(ただし絶版かもしれません)。
 因果とは何か、については、定説はありません。論理学的概念との関係についてはなおさらです。

…………………………………………………………………………………………
 以上は、実は、おおかた、石飛さん御本人に対してもすでに率直に述べたことばかりです。自費出版ならともかく、企画出版として流通させる書物であるからには、読者に対する責任上、こんなデタラメは許されません、と申し上げたのですが、十分通じなかったようで……。
 amazonのレビューに書いている人もいましたが、「論理学への無理解のサンプル」としては役に立つ本かもしれませんね。(そんなんでいいのか?)

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Σ=あおみ 投稿者:Θ 投稿日: 7月17日(月)15時15分35秒

初めましてΘと申します。
石飛氏のHPからあおみという方がΣという名でこちらにお邪魔しておるようです。
石飛氏のHPでは原始仏教やインド哲学を中心とした話題と「ブッタ論理学」についての論議がなされております。
Σこと、あおみ氏のそのログを読まれると解ります。

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

彼は最近、自分の論調の不備により論議において、負けてばかりです。
今回、とうとう自力では無理であると判断したのか、論理学者であられる先生のご発言を利用して、自らの論調を正当化しようとしております。
彼は般若宗なる新興宗教の教祖を自称する人物で、自らの宗教の正当化を主張しております。

http://www.hannya.net/

宗教的なドグマによりかなり感情的な書き込みがおおく、石飛氏のサイトでも多くの常連の方が困っているようです。
今回の無宗ださまについてのΣ氏からの評価はかなり偏見のあるものです。
一方的な批判は問題がありますので、一度、ご確認くださるようにお願いいたします。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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先生に、深謝とお詫び 投稿者:Σ 投稿日: 7月17日(月)14時43分55秒

先生へ

私の質問に的確にお答え戴き、心から深く感謝申し上げます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

なお、石飛女史の取り巻き衆の人がここに来て、この掲示板を荒らすことがないように、私も強くお願いしてあったのですが、残念ながら
掲示板の遊び人を名乗る「無宗だ」さんという人が早くも、乗り込んで来てしまいました。
ご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫び申し上げます。

私の対話経験からして、無益な噛みつきをどこまでも続けて来る可能性がありますので、
石飛取り巻き衆のこうした質問に、いちいち返答する必要はないものと思います。

ここの掲示板の学術的雰囲気が荒れる、と判断なさった場合、
どしどし、彼らの書き込みを削除して下さいますように、お願い申し上げます。

と申しますのも、「この方々には本当にわかろう」という気持ちがないように感じられるからです。
一種の狂信に駆られている感じがします。恐ろしいことです。
論理学よりパーリ経典が先にあるのです。

というわけで、無宗ださんの書き込みに対して、回答しても時間の無駄とご判断なさった場合、彼の投稿を削除して下さって結構だと思います。
それが一つの、そして充分な回答になると、私は確信します。


それに、本当に疑問があれば、石飛女史が直接ここで質問すれば良いことですから。
その意味で、道子女史取り巻き衆の狂信にはつきあう必要はない、と私は強く思います。

とにかく、先生にご迷惑おかけしましたこと、心からお詫び申し上げます。
どうか、ご寛恕下さい。

また、論理学的疑問があった場合、宜しくお願い申し上げます。

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因果関係に関して 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月17日(月)12時54分24秒

φさま、はじめまして。

石飛先生のサイト「MANIKANA=HOMEPAGE/マニカナ・ホームページ」
http://homepage1.nifty.com/manikana/
の掲示板で遊ばせてもらっています無宗だと申します。

> たしかに「子供の論理」ですね 投稿者:φ 投稿日: 7月17日(月)02時58分41秒
に関して、確認したい点がありますので、回答いただければ幸いです。

【質問1】
Σ氏の疑問、
> 上記の真理表の(2)は、普通の論理学徒が普通に読んでも、石飛女史のような意味で理解するのが正しいのでしょうか?
> それとも、私の読み方が普通であって、石飛女史の「読ませ方」は、特殊な新しい規則として読ませる、ということなのでしょうか?
に対する答えは、

> 石飛さんは、チャッカの真理表で(――繰り返すと、単に「QならばP」の真理表として出すべきもの。わざわざ名を付ける必要なし)、関係が因果関係であるための必要条件を提示したかったのでしょう。そういうことなら、私には理解できます。結果Qは、原因Pがなければ生じないものである。そして、原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。この意味で、原因Pは、結果Qの必要条件です。

であり、Σ氏の疑問に思っている(2)の部分は
> 原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。
を意味しているだけで間違いではない。単にΣ氏の理解力不足である
ということですね?

【質問2】
φさまが、
> 「現代論理学」について書かれていることは全部ナンセンスである
> 間違いの重大さからして、読者への責任を自覚してもらわないと。
といっているのは、

(1)「現代論理学」には、述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるにもかかわらず、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させていること。
(2)真理表の全ての可能的接続詞に名前が付いていないことを根拠に、「真理表には穴がある」と主張していること。
(3)穴とされる真理表自体、実は、「QならばP」の真理表に過ぎず、他にも、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々の呼び名があるにもかかわらず、名前が付いていないと主張していること。

の3点と考えてよろしいでしょうか?

【質問3】
因果関係に関して > ただし、必要条件だというだけでは十分ではありません。必要条件のうち、もっと狭く限定されないと、因果関係とは認められません。
といわれていますが、たとえば、
「稲や麦の種を蒔き、水を引いて灌漑すれば、苗はよく育つが、雑草を取り去らないと穀物はよく実らない」

「穀物がよく実る」といった結果を得るために、

因:稲や麦の種を蒔く ---- 果:穀物がよく実る
因:水を引いて灌漑する---- 果:穀物がよく実る
因:雑草を取り去る ------ 果:穀物がよく実る

という3つの因果関係があると考えていいのではないかと思うのですが、駄目なのでしょうか?
必要条件をどのようにして、もっと狭く限定すると、因果関係とは認めれるのか?
参考になる書籍等あれば紹介いただけないでしょうか?

以上、よろしくお願いいたします。

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たしかに「子供の論理」ですね 投稿者:φ 投稿日: 7月17日(月)02時58分41秒

 たしかに『ブッダ論理学 五つの難問』は、論理学というものが根本からわかってないことを露呈していますね。
 著者ご本人から恵送いただいたので、注意深く読んだつもりなのですが、御返事するときに困り果ててしまいました。学問的な礼儀ですから、「現代論理学」について書かれていることは全部ナンセンスであるという感想をお伝えしましたが、石飛さんには納得していただけないようでした。ほんと、真剣にとってもらわねば困るんですけれどね。間違いの重大さからして、読者への責任を自覚してもらわないと。

 まず、真理表の意義が理解されていません。真理表は、命題関数の一部を取り出して便宜的に表にしたもので、論理学の装置の全てに対応しているわけではありません。「または」「かつ」「ならば」等、日常言語に近い少数の接続詞について習慣的にまとめただけの道具です。全ての可能的接続詞に名前が付いていなければ「真理表には穴がある」ことになるとは、誤解以下のレベルと言えます。名付けという便宜的表現の問題と、論理の実質とが混同されていますね。

 しかも、そもそもチャッカは、習慣的にすら名前が付いています。QならばP、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々が、現代論理学における「チャッカ」の名前です。それがなぜ「現代論理学で表現できていない」と言われるのか、私にはさっぱりわかりませんでした。石飛さんの書いたチャッカの真理表が単に「QならばP」の真理表に過ぎないことが、あの本には述べられていません。読者は大いに誤解するのではないでしょうか。

 さて、因果関係そのものは、真理表では表わせませんね。因果関係は真理関数ではないからです。
 もし、「チャッカ」の真理表で因果関係が表わせるとすれば、「日本の首都は東京である」は「太陽は月より大きい」の原因だ、ということになってしまいますが、それは変ですね。石飛さんは、チャッカの真理表で(――繰り返すと、単に「QならばP」の真理表として出すべきもの。わざわざ名を付ける必要なし)、関係が因果関係であるための必要条件を提示したかったのでしょう。そういうことなら、私には理解できます。結果Qは、原因Pがなければ生じないものである。そして、原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。この意味で、原因Pは、結果Qの必要条件です。ただし、必要条件だというだけでは十分ではありません。必要条件のうち、もっと狭く限定されないと、因果関係とは認められません。

 ともあれ、『ブッダ論理学 五つの難問』で言われる「現代論理学」とは、命題論理のことだけですね。述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるわけですが、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させ、しかも見掛けの「穴」をもってその限界を批判したと称するなど、見当外れも甚だしく、きわめて残念です。インド論理学の紹介と応用のために、現代論理学をあえて「批判」する必要はもともとなかったはずなのですし……。

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真理表の読み方 投稿者:Σ 投稿日: 7月16日(日)22時52分24秒

三浦先生へ

初めて書き込みします。先生の書物を最近読んでファンになりました。以後、先生の書物はなるべく全部読んで行きたいと思っております。
さて、今回、一つ、どうしてもお尋ねしたいことがあり、書き込みしました。

石飛道子女史が『ブッダ論理学』という書物を出版しているのですが、私はこの本に疑問を感じています。第一印象としては「大人の論理」ではなく「子供の論理」なのではないか? と。
しかし、論理学に詳しくないので、絶対にそうだとは言い切れません。
三浦先生がいつか書評なさって戴ければ・・と思います。

さて、石飛女史はインド論理学の研究者で、上記の著書の中で、
現代論理学と違い、インド論理学では因果を語れると主張しています。
そして、「*」という演算子を創設し、「チャッカ」と名付け、チャッカで結ぶ左辺と右辺の間には因果関係がある、という論理記号を発案しました。
そして、「P*Q」という因果関係論理式があった場合、
この論理式につき、下記のような「真理表」を作成しています。

(因果関係論理式の真理表)
    P Q  P*Q
(1)  1 1    1
(2)  1 0    1
(3)  0 1    0
(4)  0 0    1
1=T 0=F
具体例としては、
Pを「雲がある」 Qを「雨がある」 とした時、「雲があるから雨がある」という因果式になります。

上記の真理表で、私が分からないのは、(2)です。なぜ「P(1)*Q(0)=1」なのか、です。
石飛女史ご本人は、彼女のHPで、(2)「雲がある時、雨がない場合」でも、「雲がある時、雨がある」という因果式は不動であるから、(2)は真になる、と解説なさいました。 ここが私の頭を悩ませる部分です。「ヘンだな、と」
普通の真理表の読み方からすれば、(2)は「雲がある、が真である時、雨がある、が偽であることとの間に因果関係があるという意味の論理式P(1)*Q(0)は真(1)である」 と読むことになると思うのです。
こうした普通の読み方の場合、「P(1)*Q(0)」即ち、「真なるP」と「偽なるQ」の間に真(1)なる因果関係がある、という意味になると思うのです。

ところが、石飛女史によれば、違うのです。
(2)は、「雲がある、が真である時、雨があるが偽である場合、たまたま、雨があるという因果関係がここでは阻害要因によって発現しなかっただけだから、<雲がある時、雨がある>という因果式には影響がないので、<P(1)*Q(0)=1>で良い」 と解説しています。

上記の真理表の(2)は、普通の論理学徒が普通に読んでも、石飛女史のような意味で理解するのが正しいのでしょうか?
それとも、私の読み方が普通であって、石飛女史の「読ませ方」は、特殊な新しい規則として読ませる、ということなのでしょうか?

西洋論理学の含意の「P→Q」の場合、「P(0)→Q(1)=1」になるのは、Pが偽の時にはQが真でも偽でも構わないというロジックあってのものだと思いますが、これと同様、因果論理演算子チャッカにおいては、含意と反対のケースとして、<P(1)*Q(0)=1>になる、つまり、Pが真の時にはQが真でも偽でも構わないというロジックを使っての<P(1)*Q(0)=1>と主張したいという事はわかるのですが、果たして、彼女の思惑通り、含意の時のロジックを応用して、このケースを「真」として良いかどうか、という問題です。
どうも、私は、そんな読ませ方はできない、と感じるのですが・・・真実はどうなのでしょうか?

「真理表の読み方」という、極めて超初歩の事柄なのですが、頭を悩ませているので、 どうか、三浦先生のご高見を賜ることで、我が悩みが氷解することを切に希望して、ここに書き込みさせて戴きました。迷える小羊を助けると思って、どうか何卒、宜しくお願い申し上げます。

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Re:Re:ホリスのパラドクスについて 投稿者:Υ田 投稿日: 7月16日(日)10時27分6秒

しつこくてすみません。久しぶりに論理記号をまじめに使おうとしたので、誤用しているかもしれませんが、ご寛恕ください。

 太郎と次郎が選んだ数をそれぞれ t,j とすると、三郎は

  t≠j
∧ ¬(太郎が手に入れうる情報├(t ∧ ¬(次郎が手に入れうる情報├(t
と言いました(とΥ田は解釈しております)。しかし、「太郎(または次郎)が手に入れうる情報」は、三郎のせりふを含みます。したがって、三郎のせりふの意味を下手に分析すると、悪循環に陥る恐れがあります。

三郎のせりふをξとして、素直に分析すると
ξ=「 t≠j
∧ ¬ ((太郎が元から持っていた情報∧ξ)├(t ∧ ¬ ((次郎が元から持っていた情報∧ξ)├(t と書き直せるように思えます。ここで、「太郎が元から持っていた情報」とは、「t=217」であり、「次郎が元から持っていた情報」は、「j=次郎が選んだその数の具体的な値」です。しかし、このままでは、自己言及を含んでいます。

この素直な分析が正しいならば、ξから自己言及を含む部分を除いたξ0=「t≠j」は、明らかにξの主張の一部です。
 さらに、(α)の右辺のξにξ0を代入して得られる
ξ1=「 t≠j
∧ ¬ ((太郎が元から持っていた情報∧ξ0)├(t ∧ ¬ ((次郎が元から持っていた情報∧ξ0)├(t もまたξの主張の一部ということになります。この議論を繰り返すことによって、次の帰納的定義で定義されるξnが、すべての正整数nに対して成り立ってしまいます。

ξ(k+1)=「 t≠j
∧ ¬ ((太郎が元から持っていた情報∧ξk) ├(t ∧ ¬ ((次郎が元から持っていた情報∧ξk)├(t
素直な分析である(α)を採用すると、ξの主張の一部として∀nξnが帰納法で言えてしまうわけです。

しかるに、 ξ0∧ξ1∧・・・∧ξn は、 n ≦ min{t,j} と同値なので、nが218以上であるときに偽です。背理法により、三郎のせりふが偽であるか、または、素直な分析(α)が誤りです。

 三郎のせりふが真であることは問題文[1]の解説で確認済みなので、(α)が誤りです。(α)においては、三郎のせりふを、より強い命題に書き換えてしまっていたことになります。

 Ξn=「ξ0∧ξ1∧・・・∧ξn」とします。
 「Ξnは、 n ≦ min{t,j} と同値である」から、「 Ξnを成り立たせない最小のn が t+1 に等しいならt≦j。等しくないならj≦t」 と言えます。このことを利用すれば、三郎のせりふを(α)より弱い命題ζに解釈することができます。Ξnを成り立たせない最小のnをνと呼ぶことにして、次のように解釈します。

ζ=「
t≠j
∧ ¬((太郎が元から持っていた情報∧ζ)├(t+1<ν)) ∧  ¬((太郎が元から持っていた情報∧ζ)├(ν ∧ ¬((次郎が元から持っていた情報∧ζ)├(ν
( ∀n (n<ν ≡ Ξn)  )
」・・・(β)

(α)からξnを帰納的に定義できたのと同様に、(β)からζnを帰納的に定義できます。三郎の言葉を「∀nζn」と解釈することによって、「帰納法が使えて、三郎の言葉を真に保ち、t=217にも矛盾しない」解釈が得られました。これでホリスのパラドクスはパラドクスでなくなります。

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以上が私の主張です。実を言うと、まだ論理の跳びをきちんと埋めておりません。ちゃんと手を動かして論理の跳びを埋めてから投稿すべきと思いましたが、ここまでまとめるのに疲れてしまいましたので次回の投稿でフォローさせていただきます。

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Re:ホリスのパラドクスについて2 投稿者:φ 投稿日: 7月12日(水)19時07分8秒

 太郎が「次郎は200を選んでいるはずがないな……」と考えたところで次郎が「わかったぞ」と叫んだとしましょう。この叫びは、次郎が「太郎は200を選んでいるはずがないな……」と考えたところで起きたはず。しかも次郎はそのとき「わかった」のですから、その内容は、「私は201を選んでいる。したがって、より小さくない数を選んでいるのは、太郎である!」というもののはず。その叫びゆえに、太郎にも、「より小さくない数を選んでいるのは、自分である!」とわかることになります。
 たまたま同時に二人が「わかったぞ」と言ったなら、「選んだ数は同じだ。二人とも、より小さくない数を選んでいる」とわかります。

 しかしこのような設定は、答え合わせをしながら当てる設定と全く同じで、始めからパラドクスがないことは明白です。せめて、二人とも、互いの「思考時間」はわかっていない、したがって上のような照合法は使えないとするのが常識的です。さらにそれよりも、枚挙ではなく数学的帰納法によって二人とも、一挙に結論を出すと考えるのが妥当でしょう(コンピュータだからこそ数学的帰納法のような省エネ計算をするはず)。「三郎の言ってることは正しい、なのに私はこの数を選んでいる……」と二人とも悩むパラドクスに陥ります。
 この、パラドクシカルなバージョンで謎を解かねばならないでしょう。

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ホリスのパラドクスについて2 投稿者:ハム 投稿日: 7月11日(火)22時05分27秒

>コンピュータも無理でしょう。答え合わせをしながら当てる設定ではありませんから。

太郎の考えはこうです。
「次郎が1を選んでいたとすると、僕の数の方が大きいことが彼に分かってしまう。だから次郎は1を選んでいない。」

1 次郎が1を選んでいたとする。
2 僕の数の方が大きいことが彼に分かってしまう。
3 (次郎は答えていない。)
4 だから次郎は1を選んでいない

ここで3は、次郎が答えていないという答えを太郎が確認しているわけです。

太郎の推理は、相手の反応に依存しています。
このことが、太郎の推理によって答えが導けない原因だと思われます。
相手も太郎と同じ推理によって、太郎と同じ推理時間を要するか否か保障できませんし、
太郎と同じように推理をはしょるだろうからです。

これが同じ性能のコンピューター同士であれば、太郎コンピューターが1〜4を推理したときに、
次郎コンピューターも1〜4を推理していますし、推理をはしょることもしないでしょうから、
どちらかのコンピューターが選んだ数まで推理を繰り返したときに、相手のコンピューターが答えていなければ、
相手のコンピューターの選んだ数の方が大きいという答えが出せるわけです。

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Re:ホリスのパラドクスについて 投稿者:φ 投稿日: 7月10日(月)01時16分5秒

コンピュータも無理でしょう。答え合わせをしながら当てる設定ではありませんから。
で、
 >しかし、三郎は、任意の層でπが成り立つとまで断言したのでしょうか?

 断言していると解釈すべきでしょう。数学的帰納法が正しいならば。

ゼロについて成り立つこと(選ばれているはずがない)は1にも、2にも……と推論して、あらゆる数に当てはまる、という数学的帰納法が、実際にはなぜ正しくないのか。(現になぜ217に当てはまらないのか)。
 それを論理的に説明しなければなりません。そこがパラドクスなのです。

 なお、「より小さくない」という設定なら、「二人の選んだ数は等しくない」は不要です。

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ホリスのパラドクスについて 投稿者:ハム 投稿日: 7月 9日(日)16時37分21秒

私も読み直してみました。

このパラドクスは人間の推理のあいまいさが引き起こすパラドックスだと思います。
太郎、次郎が同じ性能のコンピューターであれば「どちらが選んだ数の方が大きいか、推理して当てること」ができます。
太郎コンピューターが1から217回の推理をした時点で、次郎コンピューターが答えていなければ、次郎の方が大きい数を選んでいることになります。

人間の推理の場合は、217回も同じような推理を繰り返すことはできません。
太郎がしているように、「この推理を繰り返すと・・」というように、同じ様な推理ははしょって結論を導き出そうとしてしまいます。

三郎が出した「どちらが選んだ数の方が大きいか」という問題に答えるには、推理する手順と時間がなければ答えられないのですが、
人間の脳みそは単純な繰り返し作業がきらいだし、その繰り返し作業の時間にも幅があり同程度だと保障もできませんので、三郎の言うとおりにどちらが大きいか当てることはできないことになります。

まあ、妥当な推理であっても人間には不可能な推理がある、ということだと思います。

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『ゼロからの論証』 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 9日(日)08時50分1秒

ご出版おめでとうございます!早速池袋ジュンク堂で探しましたが、
まだ店頭に並んでいないようです。
 「諸論文」のページに掲載されていたいくつかの論文が「夏頃出版」となっていたので、楽しみに待っていました。来週また探します。

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Re^2:ホリスのパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 9日(日)08時26分36秒

太郎は、「三郎の言葉は正しい。しかし、三郎の言葉を認めると、自分が特定の数を選んだという事実を否定せざるを得なくなる」と言って悩んでいます。
私は、「三郎の言葉(解釈β)は正しい。太郎が特定の数を選んだという事実を否定せざるを得ない解釈はαでってβではない。」と考えています。私の考えでは、ホリスのパラドクスは、三郎の言葉が2通りに解釈できることによる混乱に過ぎないことになります。

P0=「二人の選んだ数は等しくない。」
π=「どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は推論で当てることができない」

 正の整数kに対して、
Pk=「P0〜P(k-1)を太郎次郎双方が信じているということを太郎次郎双方が知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は推論で当てることができない」
Qk=「二人の選んだ数のうち、小さいほうは、kより大きい」
とします。

 問題文によると、太郎が悩む原因は、「P0とπからQ1を演繹する→Q1とπからQ2を演繹する→Q2とπからQ3を演繹する→・・・→Q217を真と認める。しかるに、Q217は偽のはずだ。矛盾だ!」という推論です。
 上の推論は、自分の心と相手の心で217層の入れ子を作り、どの層においてもπが成り立つものと仮定して初めて成り立ちます。
 しかし、三郎は、任意の層でπが成り立つとまで断言したのでしょうか?

 太郎は、悩む代わりに、「背理法によって、πが成り立たない層が存在する」と結論できます。πは一見すると変項を持たないので、層の深さに応じて審議を変えることができないように見えます。しかし、πをよく読むと、変項が1つ存在します。それは、「推論」が許可する入れ子の深さです。

 「入れ子の深さとして第k-1層までは許可する。第k層以上は認めない」を、私はPkと呼んでいます。この表記を使うと太郎が悩む原因は
、「P0とP1からQ1を演繹する→Q1とP2からQ2を演繹する→Q2とP3からQ3を演繹する→・・・→Q217を真と認める。しかるに、Q217は偽のはずだ。矛盾だ!背理法により、P1〜P217のいずれかが偽である。」
に書き換えられます。どこかの層におけるπを否定することによって、太郎が217を選んだという事実を救済できました。

 太郎は「P1〜P217のいずれかが偽である」を得ることはできますが、
T=「P217だけが偽である」
の真偽を知る材料を持ちません。Tが真なら、太郎の選んだ数のほうが小さく、Tが偽なら次郎の選んだ数のほうが小さいです。
 また、次郎も、「P1〜Pjのいずれかが偽である」を得ることができますが、
J=「Pjだけが偽である」
の真偽を知る材料を持ちません。jは次郎が選んだ数です。

 太郎次郎ともにTとJの真偽を知り得ないので、どちらの数が小さいのか分からず、したがって、三郎の言葉は真のままです。

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『ゼロからの論証』 投稿者:ハム 投稿日: 7月 8日(土)17時49分21秒

ご出版おめでとうございます。
今度の本は、論証がテーマのようですね。
小説、エッセイ、事典項目、論文をステージごとに論証というテーマでまとめているのですね。
今までにない構成の本になりそうですね。

読者としては、突っ込みどころがあると嬉しいのですが・・・。
楽しみにしています。

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ここにおいでのかたがたに感謝 投稿者:φ 投稿日: 7月 6日(木)03時07分0秒

7月半ばに、『ゼロからの論証』という本を出します。
  http://russell-j.com/zero-st.htm
小説1、エッセイ4、事典項目1、論文8から成る文集です。
その中には、この掲示板で2003年あたりでしたか、「激論」(?)を引き起こした(過去ログをご覧ください)

   「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」

をはじめ、ここに来てくださったかたがたからのコメントでずいぶん助けられた論考が含まれています。ありがとうございました。
 本来ならすべてのかたに献本すべきですが、匿名のかたも多く、御著書を以前にお送りくださったかたなどを例外として、ここでの謝辞だけで失礼させていただきます。
 (本の「あとがき」でも、皆さんへの謝辞が述べてあります)

 なお、収録作のどれも、以前は私のHPに載せていましたが、今は取り外してあります。改稿の上、公刊されることになります。以前より根本的に改善された論文もありますので、お楽しみに。

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Re:ホリスのパラドクス 投稿者:φ 投稿日: 7月 5日(水)01時19分0秒

三郎の言葉が正しいことは、疑問の余地はありません。
「推理して当てることはできない(まぐれ当たりは可能かもしれないが)」と述べているという設定なので、解釈αは成り立ちません。

問題は、三郎が正しいのに、なぜ太郎も次郎も特定の数を選びえているのか、ですね。

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(無題) 投稿者:谷口和成 投稿日: 7月 3日(月)22時34分34秒

>しかし、次の解釈βに解釈すれば、単に真です。
>β:「Pnを成り立たせない最小のnは存在する。しかし、太郎と次郎はそのnの値を当てることができない。」
>Pnを成り立たせない最小のnの値(νと置きます)は、太郎の選んだ数と次郎の選んだ数のうち小さいほうの値によって決まります。ですから、νの値が分かれば、それが自分の選んだ数に合致するか否かによって、自分と相手のうちどちらの数のほうが小さいかがわかります。

はあ、なるほど。
そうですか?

わかりました。

http://wiki.livedoor.jp/fukuoka_bengoshi/d/

http://plus-1.hopto.org/soc/

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ホリスのパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 3日(月)00時07分36秒

「ホリスのパラドクス」は、三郎の言葉を明確に解釈することでパラドクスでなくなりませんか?
三郎の言葉を、次の解釈αで解釈すると、単に偽です。
α:「任意の負でない整数nについて、Pnが成り立つ」
ここで、Pnとは、

P0:「二人の選んだ数は等しくない。」
P1:「P0を知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は当てることはできない」
P2:「P0とP1を知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は当てることができない」

Pk:「P0〜Pk-1を知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は当てることができない」


で定義される命題です。しかし、次の解釈βに解釈すれば、単に真です。
β:「Pnを成り立たせない最小のnは存在する。しかし、太郎と次郎はそのnの値を当てることができない。」
 Pnを成り立たせない最小のnの値(νと置きます)は、太郎の選んだ数と次郎の選んだ数のうち小さいほうの値によって決まります。ですから、νの値が分かれば、それが自分の選んだ数に合致するか否かによって、自分と相手のうちどちらの数のほうが小さいかがわかります。したがって、「νを当てることができない」は「どちらが小さいかを当てることができない」を含意します。

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Re^2:宇宙船のパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 2日(日)23時36分41秒

宇宙船が「一直線に」飛ぶのなら、1時間後の宇宙船の位置はそれまでの航路の延長線上にあると思ってたのですが、問題をよく読むと1時間後まで「一直線」に飛ぶわけではなさそうですね。
「アキレスの亀」「オースチンの犬」「トロイの蠅」と同じように、経過時間が1時間未満である時刻についてしか問題文は語っていないのだ と考えれば、解はたくさんあります。

 私は前回の発言で「いくつかの解を包含する解」と言いましたが、「宇宙船の位置が1時間後も含めて時間に対して連続であると仮定したときの解」を包含する解である というのが適切だったようです。

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Re:宇宙船のパラドクス 投稿者:φ 投稿日: 7月 2日(日)04時42分10秒

 「宇宙船のパラドクス」に私が書いた「正解」は、厳密にいうと、宇宙船(だけ)が消滅するという解ではありませんでした。

 問題文のルールに従いつづけるならば、1時間後には宇宙船の速度成立の時間はゼロであり、(少なくとも)宇宙船の存在については何も言えない、という意味です。書き方がぬるかったような気もします。

 「アキレスと亀」〜「オースチンの犬」(『論理サバイバル』所収)や「トロイの蠅」(『心理パラドクス』所収)と同じ線の解答方針にすればよかったかと今は思っています。すなわち、問題文は、1時間たったその後のことは述べていません。厳密に1時間後までを記述しているだけです。したがって、1時間過ぎた後には、宇宙船は、論理的にはどうなっていてもOK。ただし、「宇宙船は消滅も瞬間移動も分裂もしない」を保つならば、1時間後までしか宇宙は存在しない。……などと。(つまり1時間後には宇宙船ともども実在全体が消え、宇宙船が消えたという事実そのものの舞台が成立しないわけです)

 エッシャーの空間は、アキレスと亀の問題を解くのに、時間の無限分割を導入して空間の無限分割と対応させる、というような発想と似通っている感じですかね。

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宇宙船のパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 1日(土)21時38分17秒

『心理パラドクス』宇宙船のパラドクスの解のいくつかを包含できる解を見つけたかもしれません。
 問題文に示された航行が可能であるためには、
「時空がわれわれのよく知る性質を持つ」「宇宙船は消滅も瞬間移動も分裂もしない」
のうち、少なくとも片方を捨てる必要があります。すなわち、時空の性質は保存したまま、物質の性質を変更しました。

 それでは、時空の性質を変更すればどうなるでしょうか。
 宇宙船が超光速で移動できることから考えて、問題の宇宙では相対性理論は成り立たないと言えます。それなら、時空の性質を変更することが正当化できそうです。
 問題文に記されたように宇宙船が航行でき、しかも宇宙船が物質としての性質を満たすには、たとえばリンク先のような空間を想定すればいいです。

 リンク先は、エッシャーの版画『円の極限III』です。描かれた魚たちが互いに同じサイズであるかのように距離を定義し、この距離の定義を満たす空間を「魚の空間」と呼ぶことにします。同じ平面に、通常の距離の定義を持ち込んだときは、「エッシャーの空間」と呼ぶことにします。

 円盤の中心から右に向かって一直線に、エッシャーに対して一定速度で、宇宙船が飛ぶという航路を考えます。速度は、1時間かけて円盤のふちにまで進む速度とします。
 この航程を魚から見ると、「出発1時間後に宇宙船の速度が爆発し、航続距離が発散したぞ。」となって、問題文の状況をほぼ満たします。一方、エッシャーから見ると、出発1時間後には単に円盤のふちに宇宙船があり、その後の軌跡も簡単に追えます。

 出発1時間後の状況は、魚の座標系においては「宇宙船はどこにも位置していない」です。なぜなら魚の座標系では表記できない場所に宇宙船があるからです。魚が宇宙船を見ることによって、彼らの数学に革命がおき、円盤の周上の点を扱えるように座標系(または数)を拡張するかもしれません。その場合は、円盤の周に対する最も自然な呼称は「無限のかなた」でしょう。
 仮に私がこの魚なら。
 つまり、私に対して「速度が爆発し航続距離が発散する」宇宙船を見てしまったら。
 まずは、宇宙船の位置を記述するために、座標を複素数に拡張します。
http://www.mcescher.com/Gallery/recogn-bmp/LW434.jpg