三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ2006年)

過去ログ索引

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 第9章は本当に天晴れでした。 投稿者:S・K 投稿日: 8月31日(木)23時15分2秒

 メールで「ラッセルのパラドクス」でやり取りさせて頂いた者です。私は、ラッセルはウィトゲンシュタインを飼い殺しにした、もしくはそれに協力した人物と見ておりまして、好きになれないんですが、第9章はきっと三浦さんの咀嚼の賜物でしょう。非常によく記述されていると感銘を受けました。三浦!よくぞ言語化してくれたっ!という感じです。ウィトゲンシュタインも少しは見習って欲しかった、と言いたいぐらいです。

 さて、ゼノンのパラドクスが何故パラドクスなのか、刹那滅や微塵という言葉を刷り込まれた仏教徒には、なかなか分かり難いものがあります。私が理解できたのはつい半年ほど前のことです。

 アリストテレスは、空間を無限分割するのと同様、時間も無限分割すればパラドクスは解消すると考えたようですが、それでは的と矢、亀とアキレスの間に、無限に潰れる空間と無限に間延びする時間=ブラックホールがあることになり、矢もまたブラックホールを抜け出すことなく、いつまで経っても的には当たらないでしょう。

 仏教は刹那滅、微塵の考えの元、時間も空間も有限回しか分割できないとするはずです。微塵がどういう大きさかについて書かれた記述は、記憶にないのですが、刹那については比喩的ながら記述された経典はいくつかありますし、刹那滅の証明についても果敢に行われてきたようです。

 刹那と微塵により、仏教的な世界観では、ゼノンのパラドクスは生じ得ないのですが、しかしながらその故に、前刹那の形象や形質(矢の飛ぶ方向や運動など)が、次の刹那に如何にして継承されていくのかという問題が残ります。

 要は放たれた矢が、的に当たる前に、瞬間的に忽然と消えても一向に構わない訳です。そこでアビダルマ仏教では、六因・四縁・五果を複雑に交錯させて、それで解決がつくと説くのですが、これが難解で、私にはさっぱり解りません。

 一方、大乗一乗思想は、本質的にはアビダルマ仏教と同じなのかもしれませんが、一即多、多即一の考えの元に、矢は、的や弓や空気抵抗、それに矢自身の軸やら羽やら、その多諸々の関係の元で飛ぶのだ、つまり関係性の故に飛ばざるを得ないのだするのですが、これがまさに第9章の「集合の系列」「センシビリア」「パースペクティブ」ではないでしょうか。

 但し、大乗一乗思想は「これ思う、故にこれあり」を更に進め、「これ思う、故にあれあり」、更には「これあり、故にあれあり」とするはずです。ラッセルはある意味、大乗一乗思想に今一歩のところまで思惟を進めた、と言ったら三浦さんは怒るでしょうか?

 現代の理論物理学の「プランク時間」や「プランク長さ」も、仏教の刹那や微塵と、ほぼ同様の結論を導き出しているようです。ブッダ論理学のネーミングには呆れますが、仏教の論理学全てが有害だなんて、どうか思わないでください。

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現実の限界点(境界)としての壁 投稿者:Σ 投稿日: 8月31日(木)23時03分13秒

三浦先生へ

三浦先生の、あちら側の人々(石飛女史やザポ氏など)への指摘は、いつ読んでも、喝采を送りたいほど、的を得ていて、気持ちが良いです。

さて、

>個体の有限集合の補集合としての無限集合は、当然、有るでしょうね。ただし無限公理を認めればですが。論理的原子ではない個体まで要素として含めてよいなら、無限公理は認められるべきだと思います。
>具体物と抽象物の区別というのは、物理学的にはほとんど意味がなくなっているらしいですから(究極の実在は粒子ではなく「波動関数」だったりするようですし)、抽象的な数のような実体を構成要素として、この世には無限のモノがあるというのが私にはしっくりくる世界観です。

なるほど、なるほど。やっぱりなあ、という感じで納得です。
老荘思想がお好きな三浦先生の世界観は私のそれと大きな隔たりはさほどないように思います。
先生の世界観は、「現象即実在」にかなり近接していると思いますし・・・。

ただ、「無限実在の推論」では、「~の誤謬」(適当に名付けて下さい)と名付けられる「間違った推論」が混入している気がします。
たとえば、三浦先生が時速2キロで歩行して10秒後には二倍速の4キロで歩行し、さらにその10秒後にはその二倍速の8キロで走り、その10秒後には時速16キロで走り・・・とここまで観測して、ここで観測終了したとします。この結果をみて、ある人は、このまま彼は10秒ごとに二倍速で速度を上げて行くことができるだろうから、やがて光速にまで到ることが可能だ、と「限られた観測結果から推論」したとします。
このケースでは、誰でも「その推論は誤謬だ」と分かります。

なぜ誤謬なのでしょうか? それは現実の物理世界に立ちはだかる諸々の「物質的限界」があるからでしょう。思念実在論的無限論だけだと無限の加速が可能になるでしょう。しかし現実はそうではありません。
このように、現実の物理世界では、「光速最高速の壁」があります。(まだ仮説段階でしょうか)
もしこれ「光速=Max速度」説を認めるならば、先生が提出した
{x|0<x<0.0000000000000001}
についても、これを無限に認めることはおかしいのでは? という論につながります。
素粒子理論でも無限分割が認められるよりは、クウォークこそ分割不能の素粒子か、と言われていたのではないでしょうか? あるいは、スーパーストリングスを想定しても、無限分割可能論には直結しないように思います。

このように、物理世界において、個体の加速に限界があり、(ということは物質の質量にも限界があるということ?)、個体の分割にも限界があるとするならば、その限界点を超えた「(加速や分割の)無限」を想定することは、「空虚な唯名論の世界」に陥ってしまうことを意味するでしょう。

この点に関しては、どう思われますか?

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Re:後だし? 投稿者:φ 投稿日: 8月31日(木)15時26分7秒

 その前のzapoさんの投稿内容を追認しているということでしょうかね。ほとほとツッコミどころが指数関数的に増えるばかりですねえ……(憫)
 どう書こうが「自由」と言いたいようですが、それは論理学や学問でいう自由ではなく、小説や詩でいう自由ですね。多義的な「自由」概念の理解もおぼつかないとは……(嘲)

 誤解があるといけないのでとりいそぎ言いますと、戸田山和久『論理学をつくる』が、真理表を真理関数でない何かとして出しているかのような理解は間違いです。戸田山さんの本でも真理表は真理関数を示しています。
 真理関数でない真理表、というのが意味を成さないことは、常識で考えればわかるのに、まだわからない人がいるとは驚きです(微)。真理関数でないということは、真偽の出力が定まらないということですから、表に書けないはずですね。真理関数でないものは、真理表でない別の装置によって表わすしかないでしょう。

 なお、戸田山さんも「論理学の専門家」ではありません。巷の論理学のテキストは、8割方、非専門家によって書かれています。一般の読者にとっては何かに応用できてこそ論理学は意味を成すので、実際に論理学を他分野に応用している「論理学応用の専門家」によってテキストが書かれたほうが教育的だからです。「論理学応用の専門家」=「論理学のオリジナル論文を発表する専門家」ではありません。

 『ブッダ論理学』が有害なのは、論理学としてのオリジナリティを含んでいないのに、含んでいるかのように自己申告していることです。無垢な読者は著者の自己申告を信じてしまうでしょう。
 現代論理学で「命題論理学の段階ではまだこれはやらないことにします」と言われている事柄をすべて「現代論理学にはこんなことができません」に読み替えているだけ、というのがあの本の実態なのです(爆)。 それら「こんなこと」の摘出も、現代論理学のテキストに普通に書かれていることばかりで、残念ながら創意が皆無です。
 現代論理学という権威を利用して、「現代論理学にできないこんなことがブッダ論理学には出来るんです、凄いでしょう?」とアピールするという、初歩的なわら人形論法の詭弁。その手に簡単に引っかかる読者の姿を見るのは、学者としても教育者としても心底忍びないものがあります。
 虚偽を真実といつわって読者から金を取り、しかも指摘されてなお過ちを認めずに掲示板で読者を宥め続けているのですから、広義の「詐欺」に相当すると私は思うのです。(ふつう、まともな著者であれば、誤りを指摘されれば感謝して訂正するものですけどね……)

 一旦本書を信じるモードに入ってしまった素直な読者が、自分の日本語読解力に逆らってまで無理な辻褄合わせに汲々とし曖昧な蒙昧主義にはまり込んでゆく――
 最も見たくない事態ですね。

 …………
 最後にもういちど念を押しときますが、『ブッダ論理学』が真理表を真理関数でない何かとして提示してなどいないことは(もし提示していたらそれこそナンセンスだ)、「真理関数」という語が出てくる部分前後の日本語が読めれば一目瞭然なはずです。自称ブッダ論理学が真理関数的かどうかということと、真理表が真理関数かどうかということとがごっちゃになっており、著者自身も混乱したまま、場当たり的な叙述が続いています。私の勤務先の女子大の卒論ゼミにおいてすら〈不可〉をつけざるをえないレベルの文章構成と言わざるをえません。

 ま、ツッコミどころをフラれるたびに、声を大にして繰り返していくことにしましょう。  「68の指摘」も項目増改訂版をアップロードさせる日が近そうです(苦)。
 私にも愛国心があり、勤勉な日本人読者の知性を低下させるような出版物はなるべく放逐すべきだと考えているので……。

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後だし? 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月31日(木)11時54分29秒

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1766&reno=1763&oya=1671&mode=msgview&page=0
なんだそうです。

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無限 投稿者:φ 投稿日: 8月31日(木)04時10分52秒

 個体の有限集合の補集合としての無限集合は、当然、有るでしょうね。ただし無限公理を認めればですが。
 論理的原子ではない個体まで要素として含めてよいなら、無限公理は認められるべきだと思います。すでに自然数が無限個有るので、抽象的個体としての自然数の集合{0,1,2,3……}で十分ですし。
 あるいは、モノの構成には具体物が必ず係わっていなければならないとしても同じです。具体物が1個でもあれば(たとえばこの石)無限個のモノが存在します。この石と1のペア、この石と2のペア、この石と3のペア……、というふうに、いくらでも個体を作れるからです。これは、メレオロジーを自由に使って、この石、この石を二度数えて合わせたもの、三度数えて合わせたもの……と、自由に増やすのと同じこと。何かが有る場合、それがそこに1個だけ有る、2個だけ重なって有る、3個だけ重なって有る……と多重に存在している可能性をいくらでも認められるわけです。
 具体物と抽象物の区別というのは、物理学的にはほとんど意味がなくなっているらしいですから(究極の実在は粒子ではなく「波動関数」だったりするようですし)、抽象的な数のような実体を構成要素として、この世には無限のモノがあるというのが私にはしっくりくる世界観です。

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有限(なる個体)の補集合 投稿者:Σ 投稿日: 8月30日(水)22時31分6秒

三浦先生へ

>そこで、メレオロジーの出番となり、たとえば{x|0<x<0.0000000000000001}なるxのメレオロジカルな和mを作ります。このmは、第一原因として認定することができると思う、というのが私の立場です。

う~む。そうですか、(ちょっと残念・・・笑)
そのmを第一原因として認定することはできないと思う、というのが、仏教の立場であり、私の立場でもあるのですが・・・・。

ちらっと思ったことをあと、一点のみお伺いして宜しいでしょうか?
有限(なる個体)の補集合としての、開かれた無限 を先生はお認めになる立場でしょうか?  たぶん、イエスだと推察するのですが、如何でしょうか。
(表現が不正確であればお許し下さい)

その他に関しては、先生の書物を熟読して、また、後日、書き込みしたいと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

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Re:自分が自分を 投稿者:φ 投稿日: 8月30日(水)02時14分29秒

 「種子としての自分」と言えるような「最初の個体」が無いという状況を私は想定しています。
 つまり、外的に見れば始まりがあるにしても、内的な単位としてはどこまでも遡っていけるような個体の集合です。
 {x|0<x<1}のような実数の集合モデルで考えていただければよいでしょう。物理学者に言わせると、宇宙とはそういうものらしいですから。(最近の観測結果によると、宇宙は収縮に転じず永久に膨張を続けるらしいので、ビッグクランチの訪れない{x|0<x}のようなモデルのほうが正確でしょう。
 ここでxは実数を模倣していますが、もちろん実際は具体的な個体(物質またはエネルギー)です。<は、時間的先行(因果的原因)の関係を表わします。

 外的には存在全体は0という下限で区切られていますが、内的には0に到達することはなく、無限に先行者が有ることになり、第一原因は有りません。
 そこで、メレオロジーの出番となり、たとえば{x|0<x<0.0000000000000001}なるxのメレオロジカルな和mを作ります。
 このmは、第一原因として認定することができると思う、というのが私の立場です。

 ただし、前にも言ったように、そのためには、メレオロジカルな構成物を、第一原因の主体となりうるような個体と認めてよいか、という問題があります。私は、認めてよいのではないかと思いますが(素粒子の集まり、もしくは時間的切片の集まりである持続的個人や地球だって「個体」として認めうるだろうから)、認めると妙なことになることもあるので(Re:メレオロジー で最後に言及した各パラドクス参照)、注意を要します。

 mを実体として認められさえすれば、mは、自分の内部に自分を生み出す原因をすべて持っていることになるでしょう。mを構成要素にまで分割してしまうと、mを構成するいかなる特定の単位的個体も、必ず他の単位的個体に依存しているわけですが。

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自分が自分を生むパラドックス 投稿者:Σ 投稿日: 8月29日(火)21時54分24秒

三浦先生へ

ご指摘有り難うございます。学問的・論理学的な厳密さで「発生」を定義するのは難しい問題ですね・・・・課題にして取り組んでみます。

さて、それにしても・・・
「自己存在の発生面を自己にのみ全面依存する」とは「自分で自分を生む」ということを意味する(しかない)と思いますが、(1)「自分が絶無の時、完全無から自分を生むことは不可能です」し、(2)「何らかの自分の種子がある状態から自分を生む」というのなら、種子としての自分は既にあるわけですから、「自分で自分を生む」には厳密には該当せず、このケースは捨てられることになります。

とすると、そもそも、「自分が自分を生む」という依存関係事態、解決不能のパラドックスなのであって、「有り得ない」という論理になるのではないでしょうか?

以上の推論、どこかに不備がありますでしょうか?

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Re:max D 投稿者:φ 投稿日: 8月29日(火)03時11分50秒

(1)発生面(2)存続面(3)運動面 のすべてでの依存、を考えるというならば、それぞれの定義が経験的な内容を持つかぎり、論理学ではなく物理学の問題になるのでしょう。

 純粋に、ただ「依存」というのを論理的に考えるならば、そしてたとえば「より後にある(前にない)」などで依存関係をモデル化できるなら、宇宙卵は自己にのみ依存すると言えると思います。

 (1)(2)(3)も、定義次第では論理の問題になるだろうとは思いますが……。

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max D と その反対概念 投稿者:Σ 投稿日: 8月28日(月)21時45分53秒

三浦先生へ

ご丁寧な回答を賜り、痛み入りますと同時に、心から感謝申し上げます。

>これは、次のような議論でしょう。「xがyに(のみ)依存する」という関係を Fxy と書くとして、
(・・・)
>本当の単位個体まで分解すると、どれもみな以前の別の何かに依存しており、自存者は無いのだが、上記のメレオロジカルな和としての対象は、「自らの存在自体に自らの存在の存在基盤を持つ存在」ということになると思われます。
かくして、自存できるものは世界全体のみ、とする必要はなく、任意の時点以前の全てのもののメレオロジカルな和、は自存でき、「(依存連鎖のスタートたる)自己依存した第一存在」となりうるわけです。(依存しあっているのは内部の部分どうしだけです)。<

先生の想定しておられるであろう事態は、恐らく了解できたと思います。
そこで思ったことは、問題の「Fxy」について、もう少し概念内容を詰める必要があるように感じました。

「依存性」概念については「依存に強弱」が想定される以上、千差万別でしょう。
そこで、ここでは、「最大限度(MAX)の依存性(D)」というものを想定したいと思います。
(1)他の存在に全面的に依存しないでは存在発生できない(発生面での依存性)
(2)他の存在に全面的に依存しないでは、生起した自己存在を一瞬たりとも維持存続させられえない(存続面での依存性)
(3)他のもの(存在又は力)に全面的に依存しないでは運動する(或いは動態となる)こと一瞬もあたわず(運動面での依存性)

以上の「3局面での全面的な他依存性」が、ある個体(存在)に備わっている、という関係を、「Sx」で表し、 ある存在(x)が他の存在(複数可)にそうした全的依存をするという関係を  Sxy と記述するとします。

そして、ビッグバン直前の高密度超高温の宇宙物質の全的塊を想定し、それを仮に「宇宙卵」と呼ぶとして、この宇宙卵を「c」とすると、(そしてメレオロジカルな和をもここでは肯定します)
三浦先生のお考えでは、この宇宙卵の性質を「Scc」で表せる、それは論理的に可能だ、と仰られておられるのでしょうか?
私は、「最大限度の他依存性」を想定した場合、その反対概念としての「Scc」は、どうやら成立不可能であるように思われます。というか、厳密な意味での反対概念は論理的に立てられないのではないか? と思うのですが、この点、論理学的には如何なものなのでしょうか?

・その他の先生の記述に関するレスは、色々文献を勉強してから、熟考してじっくりレスさせて戴きたいと思いますので、亀レスを、どうかご容赦下さい。

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石飛氏の龍樹理解について 投稿者:ランダム 投稿日: 8月28日(月)02時49分31秒

 石飛道子さんって論理学ばかりでなく、中観仏教についても、本当にド素人ですね。

 だいたい漢訳しかない『方便心論』を、確かな文献学的証拠も示さずナーガールジュナの真筆と断定しているし、『中論』二六章をナーガールジュナの真説としているのも常識はずれ。二六章、二七章が問題含みであることは、そこらの概説書(例えば、中村元『龍樹』講談社学術文庫)にすら出てくる。
 近年の学説では、最後の二章はナーガールジュナが若い頃に著したものを付録したのではないかと推測されているが、二五章までの、本筋の縁起説とはまったく異質であることに変わりはない。丹治昭義氏は『中論釈 明らかな言葉2』(関西大学出版部)の註釈で、「26章が27章と共に、若き日の龍樹の試論であるならば、彼は当時は未だ八不の縁起までは到らず、この章の十二支縁起にとどまっていたのであろう」と指摘している。

 そういうことをどうもご存知ないのですねえ。そんな石飛さんが「龍樹の本」を出すなんて無謀では?

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↓補足的にまとめますと 投稿者:φ 投稿日: 8月27日(日)21時46分10秒

要するに、

■全体が有限であっても内的には無限でありうるので、単純に「第一原因」に訴えることはできない。
■ただし、メレオロジーで第一原因を構成することはできる。
■再びただし、その構成が正当であるかどうかは、議論を要する。

 ということです。

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Re:メレオロジー 投稿者:φ 投稿日: 8月27日(日)21時35分51秒

 Σさんがやろうとされていることは正確には掴みかねますし、論理の赴くところにしたがって結論をお出しになればよいだろうと思いますが、
さしあたり、
「?」だったと言われる以下の点について、

…………………………………
3.を成り立たせるには、2.と同様、連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、その和は世界そのものということになりますが、世界そのものは自分自身にのみ依存している、と言うことはできるでしょう。
…………………………………

修正がてらの再コメントを。

 時間順序に並んだ個物全体が、物理的に有限だったとしても、アキレスと亀じゃありませんが、内部的な視点からは無限でありうる、とはよく物理学者の言うところです。
 たとえば、この本などによると、
http://www.amazon.co.jp/gp/product/0385467990/sr=1-1/qid=1156680088/ref=sr_1_1/250-1042020-3693808?ie=UTF8&s=english-books
ビッグクランチの瞬間というのは主観的には決して訪れず、宇宙のエネルギーの密度が無限大に近づくにつれて、情報処理の速度も速まり、知的生命の経験する出来事は無限に多くあり続けるとのこと。外的には終わりを迎える宇宙が、内的にはいつまでも続くわけですね。「走馬燈の原理」とでも言いますか。
 これは、宇宙の始まりのビッグバンという正反対の特異点についても言えるでしょう。つまり、宇宙開闢の瞬間があったとしても、内的に見ると、第一原因に相当する単位的存在はないということです。

 前回、宇宙(世界)全体に自存者の候補を限定したので不明確になったようなので、

 >連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、

 と言ったのを今回はもっと一般的に修正して、

 >連鎖のある時点以前の個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、

とし(たとえばビッグバン後1秒間までの出来事をすべてまとめて対象扱いする)、それが第一原因だとすることもできるでしょう。
 本当の単位個体まで分解すると、どれもみな以前の別の何かに依存しており、自存者は無いのだが、上記のメレオロジカルな和としての対象は、「自らの存在自体に自らの存在の存在基盤を持つ存在」ということになると思われます。

 かくして、
 自存できるものは世界全体のみ、とする必要はなく、任意の時点以前の全てのもののメレオロジカルな和、は自存でき、「(依存連鎖のスタートたる)自己依存した第一存在」となりうるわけです。(依存しあっているのは内部の部分どうしだけです)。

 ただし、メレオロジカルな和というものを実在的な対象と認めてよいかどうかは議論の分かれるところでしょう。
 認めると好都合な例として、 『論理パラドクス』問049「スマリヤンのパラドクス」問050「影のパラドクス」、
 認めると不都合な例として
 問051「1001匹の猫のパラドクス」
が参考になるかと思います。
 逆に、メレオロジカルな差(分割)の不都合については、
 『心理パラドクス』問011「日蝕のパラドクス」で論じました。

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山岡 投稿者:四朗 投稿日: 8月27日(日)12時54分14秒

ただの生き様だろ。
究極は輪廻転生、至高は天国と地獄みたいなもん。全体は除けとく。
天国と地獄を利用した大衆教化と取られたから、反発を招いただけ。
フゥハハハーハァー。

このレスはフィクションです。実在する個人・団体とは一切関係がありません。

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メレオロジー 投稿者:Σ 投稿日: 8月27日(日)09時38分26秒

三浦先生へ

ご教示、誠に有り難うございます。心の底から感謝致します。国府台に聳え立ち市川一円そして東京・千葉を見渡せ、周囲の住人にしても羨望の的であろう、かの高層ビルの一室で研究と教鞭をとっておられるであろう先生に対して、江戸川の土手沿いから合掌して、私の心からの感謝を表したいと思います。

>ただし、世界を〈諸存在をメンバーとする集合〉ととらえるのか、〈諸存在を部分とするメレオロジカルな全体〉ととらえるのかについて、一貫しているべきでしょう。そのあたりは『論理学入門』第11節で、「空世界」との関連で論じました。

先生のご指摘を受けて「メレオロジー」を検索して勉強してから『論理学入門』第11節を再度読み返したところ、実にその内容がよく分かりました。そういう深いことが述べられていたのですね。素晴らしいです。

以下、検索して勉強したことの一部です。 R.カサティと A.C.ヴァルツィ。(・・・)この世界は複数のオントロジーの並立を許容するものでなければならないとの信念で、諸オントロジーを横断するような性格を持つ理論、彼らに同調し、時にコラボするB.スミスらは、このような性格を持つ理論を「形式的存在論(formal ontology)と呼ぶこと。(・・・)理論的発展を遂げつつある仮定において、前提とすべきものが自明でない場合に、それらをオントロジーとして抽出・整理する作業は、「形式的存在論」の重要な役割の一つであり、
メレオロジーも、そのような役割を担う場面では、形式的存在論の具体例の一つとみなされ得ること。
メレオロジー(部分-全体の理論)とはフッサール『論理学研究』第三研究にそのアイデアをみることのできる理論であり、その基本的な問題意識は、単なる寄せ集めと内的な関係をもった全体を区別することにある。前者を「メレオロジカルな和」と呼ぶ。メレオロジカルな和では、存在の種や類、抽象・具体に関係なくくっつけて一つの存在と扱うことができる。また、彼が行った後者としては「時間」がありますね。
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「◎ (=○の中に+)」記号についての記述を見付けました。この記号は「排他的論理和」を表す。排他的論理和とは、 2つの命題X および命題Y において、どちらか一方が真の場合のみ真となる論理だと。
三浦先生の記述をみると、この記号をメレオロジカルな和でも使うのですね。

>ただし、ここで「集合」という語を、「存在するものすべて」という網羅的な意味で用いているなら話は別です。(・・・)「存在するものすべて」の中には Fccなるcが入ってきますから、世界は
「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在の集合」から成っている、とは言えなくなります。「集合」という語の意味をこのように変えれば、2.の論証は正しくなるでしょう。

有り難うございます。まさに、仏教では、<「一切の存在」(但しこの概念範囲が問題。複数形で数えられる諸存在)は縁起によるもの>、と言われるので、私の舌足らずな論の意図もそこに有ります。
思うに、「有限/無限」という概念の相対性からして、私が提出した「他存在依存性」の論証では、前者、すなわち--“有限な”存在一切--という限定付けをしたい意図があります。
これについては、「∀x」 と表現しつつも同時にどういう記号で「xの有限という限定」を付記すれば良いのか、論理学の初心者である私には分かりませんが・・。

私の主張したい立場は、恐らく、ラッセルの「無限公理」を否定する立場になるのだと思います。
まずもって、無限公理に代替する「有限公理」として、「世界(宇宙)」を物理的な有限存在のメレオロジカルな総和とする存在論に立脚することにします。そして、有限公理の「根拠」を一つには相対性理論の「光速度不変の原則」の肯定の立場と、それともう一つ、何でしたか、宇宙を構成する「四つの力」の関係で、ビッグバンで始まった膨張宇宙が或る時点で極点的限界点を迎えて突如反転し収縮し始める、という「あの仮説」を肯定する宇宙論に立つことにします。
つまり、リアル存在論としては、唯名論的・観念的・数学的な「無限性」を否定して、「現実世界においては『(実)無限』には決して到れない限界点(臨界点)としての壁が有る」という立場を採ることにします。このように、物理的宇宙も有限、その空間も有限、その時間も有限、という立場に限定するならば、無限の過去における宇宙開闢という論は成立の余地がなく捨てられるので、そうした反論を回避することができます。

このように、「有限公理」として、「世界(宇宙)」を、「物理的な有限存在のメレオロジカルな和」とする存在論に立脚するならば、「(依存連鎖のスタートたる)自己依存した第一存在」が論理必然的に要請される運びとなる、として良いわけですね。
ここまで来れば、まずは、ひと安心です。

>以上のように考えれば、4.の結論は出てきそうです。「これだけ(この集合単独)では存在し得ない」という言い回しが、好意的にとれば、「世界が「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在」のみから成っていることはありえない」という意味だと受け取れるので、依存しあう存在全体の和もまた存在だと考えることにより、自存する存在が少なくとも一つはなければならないことになるからです。 というわけで、「集合」という語の意味を修正し、3.にも2.の論法を適用することにすれば、この議論は正しくなると思われます。

誠に、心からの感謝です。有り難うございます!
この議論が見事に成立論証された場合、日本に跳梁跋扈する似非仏教は完全に一掃され駆逐されるほどの原水爆級の威力があると私は考えています。
不備のない論証になれば、三浦先生のご協力の賜物ですので、感謝無限大です。

>(・・・)2.と同様、連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、その和は世界そのものということになりますが、世界そのものは自分自身にのみ依存している、と言うことはできるでしょう。

先生のコメントのこの部分だけ、「?」でした。
現実の「物理的宇宙世界」の「諸存在」を一つ一つ個別に解析して行くと、「Fcc」という性質の存在物は決して発見できないはずですし・・・それに、他存在への依存性が巡り巡って自己存在への依存として戻って来るという意味での「遠大な相互依存関係」すなわち「他存在への依存連鎖におけるウロボロスの蛇(環)」、こうした形のメレオロジカルな和として、「世界全体が一個のFccとして成立する」、とすると考えることは、時間の有限性と順次性(流れ行く性質)を認める限りにおいては、(成立)不可能である、と思われますが、如何でしょうか?

ここが否定されてこそ、私の主張の眼目、「無自性存在群、単独成立の幻想(誤謬)」という「人の転倒した謬見」の論証となるわけですので・・・。

この時、「有限世界そのものは自分自身に依存している」とは言えない、この悩ましき矛盾・・・・
そして、ここで、シャーロック・ホームズの探偵公理--「ありうべからざるものを除去して行けば、あとに残ったのがいかに信じがたいものであっても、それが事実に相違ない」--からすると、「世界の一切の有限物」とは異なる、別次元(又は不可視)の(超越的な)「無限なる」自存・自己依存の存在g(記号で表すと「Fgg」)が炙り出されざるをえない、という論法になります。
この「結論部分」に関しては、三浦先生も異論がおありでしょうから同意は求めませんが、あくまで、「限定条件の中での論証の運び」としての正しさ妥当性として検証して戴ければ、嬉しく存じます。

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超越論的還元 投稿者:Σ 投稿日: 8月26日(土)22時52分53秒

▼ヒロヘロさんとハムさんの輪廻のやりとりに対して一言。

多分、ブッダの「無記」たる「沈黙の態度」が「輪廻問題」に関しても適用した「ブッダの真意」はどこにあったのか、という論点だと思います。

以下は私独自の主張であれば著作権を主張する「説」になりますが(既に誰か述べているでしょうか?)
<ブッダの「無記」は、フッサールの「超越論的還元」という方法的操作に該当、もしくは酷似する、と理解すべきである> (碧海龍雨)
ということになります。即ち、「超越的な存在」の定立に関して否定も肯定もせずその決定を判断停止(エポケー)として、現象学固有の領域から除外するという「超越論的還元」 です。
こうした「超越論的還元」操作によって一切の超越的存在を排除してもなお残存するものが「現象学的剰余」としての「X意識」である、という、このユダヤ人哲学者による、一種のジュニャーナ・ヨーガ・・・。

あちらの掲示板で、「超越神の有無」について、実に下らない議論が展開され私もそれを冗談半分でいじくっていますが、原始仏教の釈尊本人の態度と技法は、この問題に対しては明確に無記の沈黙であったことでしょう。その点で言えば、私の挑発に乗って「その有無」を論じ反駁するあちらの人は、「原始仏教支持派」であるはずなのに無記を守らないので、その実、似非原始仏教支持派である、ということがおのずと証明されるという仕組みになっております。
大乗や密教では、ブッダの「無記の沈黙」に対する後日の補遺(又は蛇足)として、超越的存在としての大日・法身が語られるという流れになり、その副作用として、「超越論的還元」の旨味がなくなる、もしくは著しく減殺されてしまう、ということになります。

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ハムさんへ 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月26日(土)21時39分36秒

はじめまして。
輪廻に関して、もう少し多角的に精査されてからご発言下さい。脱力してしまいます。
私は「輪廻」の定義について触れたつもりです。それぐらいは読解してください。
「輪廻=生まれかわり」という先入観を持つのは愚劣です。

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仏教掲示板? 投稿者:ハム 投稿日: 8月26日(土)20時24分49秒

ここもすっかり仏教掲示板になってしまったようです。

仏教と一口にいっても、昔ながらの漢文の仏教と今流行の原始仏教とがあり、原始仏教というのは宗派の一つだと思っていた方がいいようです。
我々日本人になじみが深いのが漢文の仏教で、これは聖徳太子の時代から日本の文化に深く根ざしています。
南方アジア諸国に伝わった原始仏教は、近年になってその原典を欧米人が持ち帰り研究され、日本に輸入されてきました。
現在では書店の仏教コーナーの半分以上?が原始仏教の書籍で埋め尽くされています。 漢文仏教の阿含経が原始仏教とほぼ同じ内容だと聞いていますが、我々にはなじみが薄いのでその説くところは新鮮に感じられたりもします。

仏教に限らず宗教の最大の問題は、演繹や帰納ではない「悟り」によって説かれる、ということだと思います。
小さな悟りから大悟まで、人の数だけ悟りはあるのでしょう。
そのような個人の認識の遊戯よりも、客観的で合理的な認識を目指す科学の方が普遍性があり、世のため人のためになると思いませんか。

・輪廻について

例えば、スッタニパータにこういう文言があります。
>730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

この文言が釈尊のものであれば、釈尊は輪廻について肯定的に論じていることになります。
釈尊にとって輪廻は、自明の真理だったのではないかと思われます。

原始仏教等の宗派?によって、解釈が違うのだということならば、私はなんの興味もありません。

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輪廻について 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月26日(土)14時36分9秒

輪廻について文献をもとに詳細を語るには何冊もの専門書を出版せねばなりません。
今、簡単に最低限の説明を致しますと。。。

(1)輪廻とは釈尊在世以前から現在に至るまでインドの一般通念として存在する
(2)因果応報・自業自得もインドの通念

というインドでの常識を抑えた上で釈尊の思想を紹介しましょう
(ア)生まれ変わり死に変わりという「輪廻転生」は不可知として論外にした
(イ)そのような輪廻転生によって因果応報・自業自得に縛られて生きる宿命論を否定し
(ウ)そのような当時の輪廻思想からの開放(解脱)を目指した
(エ)しかし人生観として、生存のあり方の変化、心の不安定の理由を業(おこない)とし
(オ)このような悪因苦果・善因楽果という心の循環を「輪廻」であるとした
(カ)昨日の憂いと今日の喜び、明日への不安という尽きない状態からの脱出も解脱とよぶ

しかし時代が下り部派仏教になると、一般通念迎合し輪廻転生を受け入れることになります。そのことを否定しようとしたのが大乗だったのですが、否定しきることが出来ないジレンマに陥るのです。このような歴史的事実を鑑みずに「死を基軸にした輪廻」を語る人を私は学者と認めません。

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Re:他存在依存性 Re:余計なこと 投稿者:φ 投稿日: 8月26日(土)03時15分12秒

 これは数論でモデル化できる問題のような感じもするので、私よりεさんのほうが的確に答えられそうな気もしますが、まあ、やってみますか。

 2.で言われているように、「相互依存ペア」を認めるならば、そのペアを一つと見ることによって、「自己自身に存在基盤を持つ存在」を措定できます。
 しかし、以下の結論(2.の結論)が問題です。

  >ゆえに、結論的には、「相互依存性ペア」を認めることはできない。

 これは、次のような議論でしょう。「xがyに(のみ)依存する」という関係を Fxy と書くとして、
  FabかつFbaなるa,bがあるとき、c=a◎bがあり(◎は、一つにまとめたもの(メレオロジカルな和)を示す記号。実際は、+を○で囲んだ記号)、cは Fccを満たす。
 cがある以上、a,bのペアは存在しない。

 上の論証は、「集合」という概念を厳密にとるかぎり、成り立ちません。
 a,bがあるとき、c=a◎bがある ことを認めたとしても、そのcを除外して、aとbのみを含む(そしてaとbに依存する多くのものを含む)集合が措定できるからです。
 つまり、{a,b,a◎b,d,e……}という集合があるからといって、{a,b,d,e……}という集合が無くなったことにはなりません。
 よって、a◎bの存在を認めたとしても、a,bという「相互依存性ペア」の存在の妨げにはなりません。

 ただし、ここで「集合」という語を、「存在するものすべて」という網羅的な意味で用いているなら話は別です。
 a,bがあるとき必ずc=a◎bがあることを認めるかぎり「存在するものすべて」の中には Fccなるcが入ってきますから、世界は「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在の集合」から成っている、とは言えなくなります。
 「集合」という語の意味をこのように変えれば、2.の論証は正しくなるでしょう。

 3.については、「第一存在」があると認めれば論証も認められるでしょうが、「第一存在」の存在は論理的に保証されないでしょう。たとえば、世界が無限の過去から始まったと考えられるなら第一原因はないことになる。また、かりに、世界の始まりがN時間前だと仮定したとしても、今からN/2時間前、N/4時間前、N/8時間前……と遡って行くとどこまでも以前の出来事を措定でき、すべてはその前の何かに依存している、というモデルが考えられるからです。
 ここでも、3.を成り立たせるには、2.と同様、連鎖を形成する個体すべてをまとめたメレオロジカルな和を考え、その和は世界そのものということになりますが、世界そのものは自分自身にのみ依存している、と言うことはできるでしょう。

 以上のように考えれば、4.の結論は出てきそうです。
 「これだけ(この集合単独)では存在し得ない」という言い回しが、好意的にとれば、「世界が「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在」のみから成っていることはありえない」という意味だと受け取れるので、依存しあう存在全体の和もまた存在だと考えることにより、自存する存在が少なくとも一つはなければならないことになるからです。

 というわけで、「集合」という語の意味を修正し、3.にも2.の論法を適用することにすれば、この議論は正しくなると思われます。

 ただし、世界を〈諸存在をメンバーとする集合〉ととらえるのか、〈諸存在を部分とするメレオロジカルな全体〉ととらえるのかについて、一貫しているべきでしょう。そのあたりは『論理学入門』第11節で、「空世界」との関連で論じました。

………………………
 λさん

 「触れられたくない部分に触れられると」とは、たとえばどういう場面でしたでしょうか? 私は自覚がないのでご指摘いただけると有り難いですが……、

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εさんへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月25日(金)23時10分28秒

>部分的に述語論理の式が現れますが、もちろん正当に使用されています。

私も初めてインド論理学の中に述語論理の概念を一部取り入れている可能性を見たときには驚きました。日本では北川秀則という仏教学者が「中期大乗仏教の論理学」という論文を1974年に発表しています。で、この方は仏教学が専門で、論理学はアリストテレスの定言三段論法しか知らないので大変な苦労をして論を進めていくのですが(読んでいるほうも多分論理学の知識がないと何を言っているのかわからないでしょうが)、読んでいくうちに段々私は顔色が青くなってきました。6cのディグナーガというの学僧の論理学について書かれた論文ですが、この学僧の書いている文章、解釈の仕方では「述語論理」ととれる形式で文章を書いているんです。

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他存在依存性存在の集合論 投稿者:Σ 投稿日: 8月25日(金)23時07分12秒

三浦先生へ

三浦先生の「論理学入門」における「観念論と素朴実在論」の論理学的分析は素晴らしいです。無益徒労な議論が仏教世界では横行していますが、それらを一網打尽にする解析ですね。実に、素晴らしいと思っています。
さて、先生が仏教について一切知識がないと仮定しても、それは何の障害にもなりません。
一つお願いなのですが、できましたら、以下の「論考」について、先生の論理学的分析眼の見地から、論理の妥当性について、解析して戴けたら嬉しく思います。
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■「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在(=自己の存在基盤を他存在に依存する存在、換言すると、存在発生と存続に関し、自己以外の他に、全面的に依存する存在)  の集合」 についての考察

1.この集合は、「自分自身を要素としない集合」である。
  (これは多分どうでも良いことかもしれませんが・・・笑)。

2.(重要論点)
Q.存在基盤の相互依存性(互助性)を認めることはできるか?
 仮に今、それを「認めることができる」と仮定してみると、次のような結論になる。
 この場合、まずは、一番単純なモデルとして、「たった一組のペアの相互依存の存在」を措定した上で、それに諸存在がおんぶに抱っこで一方的に他存在に依存の連鎖をする、というパターンが最初に想定されよう。
そして、その「たった一組の相互ペア存在」が(何らかの理由で)消滅してしまうと、・・・・全存在の全消滅という事態になる。
では、この「相互依存ペア」を複数個想定する・・・または無限個想定すると、どうか?
すると、他存在への依存性による「連鎖消滅性」も消滅してしまうことがわかる。
このことから、相互依存性ペアを認めることは、結局、婉曲的に、「自己自身に存在基盤を持つ存在」を肯定しているのと同じことを意味していることになる、とわかる。
つまり、相互依存のペアを「一つ」とみれば、「自己自身に存在基盤を持つ存在」ということになってしまうからである。
ゆえに、結論的には、「相互依存性ペア」を認めることはできない。

3.存在発生の時間的順序性(--時間的に順番に「他存在への依存」によって諸存在の発生・存立が起こる、とする順次性)を認めると、「他存在への依存連鎖」の最初となる出発的たる「第一存在」だけは「自己自身に存在基盤」がなければ論理的ではなくなってしまう。

4.以上により、この主題としての、
  「自らの存在自体には自らの存在の存在基盤を持たない存在(=自己の存在基盤を他存在に依存する存在、換言すると、存在発生と存続に関し、自己以外の他に、全面的に依存する存在)  の集合」  は、これだけ(この集合単独)では存在し得ない、と結論される。

(仏教用語「無自性」を使用すると、4.は、「無自性存在群単独成立の不可能性の論証」、ということになりますが・・・・)

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以上について、論理学的に、正しい運びか否か、分析の鋭いメスを入れて戴きたく、お願い申し上げます。

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(無題) 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月25日(金)22時23分46秒

三浦先生、私は「見る修行」なんかしていませんよ。

話を認識論に置き換えます。
P116-122に「十二支縁起」という仏教を聞きかじっている人の他は聞いたこともないような「概念」の話が書かれています。しかもこれを女史はブッダが説かれたゆえに実際にある「もの」だ。ということで話を展開させています。
しかし、誰も十二支縁起なんていうものを「単なる言葉」としてみているだけで、その言葉に対応する「実物」なんて見たことなんかないわけです。
この話ってどこかで見たことがありませんか?そう、キリスト教における「神」が実在するか否かと対応するわけです。
散々キリスト教の「神」なんて想像の産物じゃないかと一部の仏教学者は馬鹿にするわけですが、自分の足元に同じものが転がっている事に気づかない。で私は彼らを散々に馬鹿にするわけです。あなた方も同じことをやっているだけだ。ってね。

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余計なこと 投稿者:λ 投稿日: 8月25日(金)17時14分54秒

φさんへ

 拒絶反応を抑えながら楽しく読ませていただいてます。
 同意できない部分が多いのですが、言いたいことは大体理解できます。
 気になるのは挑発的な語句の乱発です。
 他の人との意見交換を見ても、触れられたくない部分に触れられると、途端に取り乱してしまうように感じられます。
 小説家としての側面が突然顔を出すのかもしれませんが、苦しいときこそもう少し落ち着いた書き方をしてくれたらなあと余計なことを思ってしまいます。

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マティラル 投稿者:ε 投稿日: 8月25日(金)01時14分53秒

向こうの掲示板にけっこう入り浸ってしまいました・・
私の意見に、少なくとも部分的には賛同する方は何人かいらっしゃるようです。

石飛さんが書評していた「Indian logic」を購入したので、その中のマティラルの Introduction to Indian logicという概説論文を読んでみました。そこにはインドと西洋での「論理学」の意味するものの違いについて、丁寧に解説してあり、'Indian logic is not formal logic'と書いてあります。また、インド論理学が数学ではなく文法学から発展したものであること、サンスクリット文法とストローソンの'feature-placing'言語(よく知りませんが、個体がなく、場所とその性質を語彙とする想像上の言語らしい)との類似性など興味深い話題が述べられています。部分的に述語論理の式が現れますが、もちろん正当に使用されています。分析哲学についてもかなり造詣のある人のようです。

-------------------------------------------------------------------------------- 論理と正見のジレンマ 投稿者:φ 投稿日: 8月25日(金)00時30分15秒

 現代論理学の方面から批判されると(批判などという高尚なレベルではなく、単に無理解の指摘ですが)「あるがままを見る」へ逃避する。
 すると、「見る」修行をしている実践者の挑戦を受けねばならぬ。という〈ジレンマ〉ですね。
 トンデモ本を出して無垢な読者を欺いてしまった罪滅ぼしに、誠実な対応が成されることを期待したいところです。

 なお、私に限らず分析哲学で仕事している人間は、現代論理学抜きには1行も書けません。私たちが論理学に頼る度合は、物理学者が数学を使う度合に等しいといって過言ではないでしょう。

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では、私からの質問 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)23時27分55秒

「現代の仏教学者は、自分の仏教学をじっさいの自分の実践に使ったことがあるのか」
ですかね。最近、「仏教学者」は単に言葉尻を捉えた遊びをやっているだけだと言う疑念が宮元氏や石飛氏の言動を読んでいると消えないんですよ。

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だそうです。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)22時39分51秒

>わたしとしては、先の構成的ディレンマの回答に関連して、「現代論理学で『語る』とは何か」という問題をプレゼントしたいと思います。現代論理学は何を語りうるか、また、何を語りえないか、この点、明確にしていただきたいと思っています。
あるいは、「現代論理学者は、自分の論理学をじっさいの自分の哲学的な考察に使ったことがあるのか」でもいいかもしれません。

「自分は使っている」といいたいようなのですが。。。。
間違った思想なら、むしろそのような思想は捨て去ったほうが「あるがまま」を見ることができるのに。と私は思います。

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あおみさまへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)22時25分42秒

私とあなたでは意見を異にすることが多々ありますが、この一点に対しては完全に同意します。

>宗教を血がにじむほど修行して来た者である私に言わせてもらえば、この浅薄さは冗談では済みません。
冗談どころか私は三浦さまに対する討論の際に「あるがまま」という言葉を平気で使うのを見て少々気分を害しています。
仏教においてはどの宗派においても「あるがまま」≒正見でしょうが特に真宗においてはこの言葉は非常に重要な意味を持ちます。「あるがまま」と言う言葉をあのような文脈で使った時点で女史は何に対しても「あるがまま」に見たことがない方だというのがよく解りました。うそ八百の弁明を真面目な顔をして平気で言う方だとは思いませんでしたね。

>神秘的直観」とは何か?「神秘」という言葉の意味がよくわかりません。修行していけば、ものの微細な面が見えてくるのはあたりまえだし、心の流れも意識できてくるし、心の働きも抑えることができてくるし、あらゆることはある意味必然的な様相を帯びて起こってきます。ヨーガが進むと神通をえられたりするのは、そんなにめずらしいことでもないです。

なら、「ご自分で試してごらん」と言いたくなるんですよ。

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先に結論を言われた。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月24日(木)21時47分54秒

レポートを提出しようと思いましたが、ヒロヘロさまが、私が書こうとした結論を先に述べてしまいましたので無しにします。

>仏教思想哲学には現代科学では今だ解き明かされていない真実や真理が隠されており、それらはすべて論理的、科学的に妥当なものとして証明できるものである」という考え方を否定し続けています。

私の立場としては仏教は倫理学、ないしは人生哲学としては従うべき意見があると考えます。
但し、同時に仏教に付随して発達した認識論・論理学などは仏教の教えの中に止まっているが故に、現実より経典の字句に対して忠実であり続けようとするために実証不可能なものになっている、と考えます。

例えばP116~P122の十二支縁起の記述を見てみましょう。十二支縁起のブッダの教説における重要性をそれだけ強調するのなら、仏教とは実践論なのですから、実際に自分で修行して確かめるべきです。「存在論的認識論体系」などというのなら「彼は禅定という行法を十分活用して見たり知ったりしているのである。これも訓練されていないふつうの感覚器官や心しか持たないわたしたちにはきびしい内容である」(P119)などと言うのは単なる言い訳に過ぎません。自分自身で認識できない時点でそれは「単なる神秘主義の概念の中の一つ」であり「神」などの実証不可能な概念と同列に扱うべきです。

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石飛女史の学問射程 投稿者:Σ 投稿日: 8月24日(木)21時07分16秒

ヒロヘロさんへ

思うに、三浦先生の指摘で明らかな通り、石飛女史は論理学の理解について悲惨なほどボロボロなわけですが、インド哲学においても主流の一元論哲学について全くの無知識であったことは私の驚きでした。その上、大乗仏教についてもほとんどフォローしていないように見受けられます。大乗八宗の祖と言われる「龍樹」を研究していながら、大乗八宗についての理解は殆ど無いと推察されます。ゆえに、唯識の知識も皆無に近いと思います。
ということで、結局、彼女は、「原始仏教」だけを真の仏教だと思う、世界のどこにでもいる宗教ファンダメンタリスト系列の人であり、「仏教原理主義の一人」である、というのが、私の解析結果です。
但し、彼女は「自分は仏教徒ではなく(客観的な)単なる研究者だ」と述べるので、ここにおいても、魂が入っていません。
おえに、浅墓な知識に基づくだけの「タコ壺的な仏教原理主義」に立脚する、門外漢(女)の「無明のたわごとを書きつらねる戯論学者」、と位置づけるのが一番正確ではないか、思っております。
彼女は「戯論が寂滅してきた~」と書き込んでいますが、宗教を血がにじむほど修行して来た者である私に言わせてもらえば、この浅墓さは冗談では済みません。
「適切な裁きは神がなさる」でありましょう。

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本日の要点 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時46分9秒

つまり、ヨーギンの認識主体について石飛氏が語る場合、ヨーガ・アーチャーラー(瑜伽行派)の唯識を飛ばしているのは片手落ちであり、「ハイやり直し」ということを言いたかったのです。長文ごめんなさい。

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論理学について(蛇足) 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時42分46秒

私は仏教に関して論理的に正しいものであるという立場を取りません。ニューエイジたちをはじめとする「仏教思想哲学には現代科学では今だ解き明かされていない真実や真理が隠されており、それらはすべて論理的、科学的に妥当なものとして証明できるものである」という考え方を否定し続けています。ニヤーヤ学派を文献学的に研究されてきた石飛氏がこれらユーエイジたちと変わらない主張をされることは誠に嘆かわしいことです。私より遙に広範囲で深く多い文献に携わって、多くの論文を出し、学生たちを指導されているのだからもう少し省察して欲しいものです。私のような「論理学ヲタ」にすぐ指摘されるようじゃダメですね。

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世親唯識(2) 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時35分11秒

世親唯識ではこの論法で「無我」を立証します。無我とは我が無いことではなく、我の否定です。仏教における世界観と人間観として「無常」と「無我」とが一般的に伝わっておりますが、本来は倫理的に世界を規定していこうとします。ダンマパダなど、最古層からの文献がそれを証明しています。しかし、部派仏教が盛んになると「有」を措定し、刹那滅という新概念で無常を弁証していこうとするのです。刹那滅を差し引くすると、仏教ではなくなってしまいます。それを経量部や世親は刹那とは仮に決めた時間単位であり、実際に生じては滅しているわけではないと論駁をはじめます。特に唯識学派では「世界は心の投影であり、刹那生滅しているわけではない」と言い切ります。しかし刹那という概念は非常に物事を説明しやすいので多用するのですが。

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世親唯識 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時23分19秒

世親唯識では認識作用の内容が対象であり、世界そのものであると定義づけています。
認識主体があって、対象を認識するのではありません。よって、その認識を離れて、認識対象なる外界は認められないと結論付けます。
それではなぜ認識作用が起こるのでしょうか?それは「業による」とします。
これ以上は『唯識二十論』で確認してください。論理的に見れば、詭弁ばかりですが。。。

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認識主体について 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 8月24日(木)14時17分31秒

石飛氏は恐らく「認識主体という概念が存在しない認識」が仏教思想の中にあることを知らないのでしょうね。世親、安慧流の認識論には基本的に認識主体を認めませんが、別の唯識学派では認めるようになります。後期論理学認識論では仏教の認識論を大きく4つに分けますが、「認識主体」については当り前すぎるのか、はっきりとは言及していません。4つとは説一切有部・経量部・瑜伽行唯識派・中観派です。この中でも多くの派に分けて、論理学や認識論を説明していくのですが、その哲学傾向がチベットに伝わるのです。

瑜伽行唯識派の中で「認識主体の有無」に関連する論争がありますが、これもやはり「認識主体があるかないか」というもろの論争にはなっていません。形としては有相・無相唯識と呼ばれるものであり、現在では形象真実派・形象虚偽派と呼ばれています。認識の位相として「安・難・陳・護、一、二、三、四」と覚えさせる法相学(因明学)の伝統があります。この因明の伝統も法相宗では絶えてしまっており、現在ではチベットの僧院でしか保たれておりません。

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Re:認識主体について 投稿者:φ 投稿日: 8月23日(水)23時25分43秒

>女史は多分、西洋哲学ではその問題は「私」の一言で片付いている。と思い込んでいるのです。

 詳しく知らない分野は、単純に見えてしまうのは人間の常ですね。
 私のほうも、東洋思想をほとんど知らないため、西洋哲学に比べるときわめて単純なものだと思い込んでいます。もちろん、自分の知らない領分についてそんなことは公に断定したりはしませんが。

 ラッセルは、認識主体についてはあちこちで論じているので「どこ」とは言えませんが、最終的に、「私」が有ることは否定するようになります。ラッセル自身の解説については、『私の哲学の発展』(みすず書房)が明晰です。

 私は、『ラッセルのパラドクス』p.151-2で、ラッセルの到達した「私」否定観は、仏教の「刹那滅」のようなものだと書きました。聞きかじりの刹那滅などを引き合いに出しましたが、まあ、仏教に無知な私でも、概念を拝借しただけで仏教思想全体を評定したわけではないので、まあ、お咎めはなかろうかと思います。

 認識主体については、また、有と無についても、西洋哲学は千差万別ですから、「有の立場に立っている」の一言でひとまとめにするなど、不勉強もいいところでしょう。

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認識主体について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月23日(水)20時43分15秒

>さらに、学問的認識とは何か?認識主体のいない認識というのはありえない。誰の認識なのか?誰かが認識したのであれば、認識という点では変わらないのだから、ニヤーヤ学派のヨーギンの認識を誰が否定できるだろうか。

三浦さまに質問なのですが、実はこの点が女史の思い込みの一部だと思うのです。
インド哲学では「認識主体とは何か?何が認識主体となり得るのか?」ということについて延々と論議されてきた歴史があります。ところが、女史は多分、西洋哲学ではその問題は「私」の一言で片付いている。と思い込んでいるのです。

確か、ラッセルに「認識主体」について言及した一文があったかと思いますがどこに書かれていたか思い出せません。何でしたっけ?

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εさまへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月23日(水)20時37分33秒

けっこういじくられているようで。

>数学者エスさまのご意見は、けっこう、つっこみどころがありますね。 「バクテリアにも劣る認識」とは、なぜわかるか。あなたがそういう根拠は何か。過去世にバクテリアだったのか。しかし、そうであるとしても、バクテリアの認識について、あなたは言語でいうことはむずかしいのではないか。バクテリア言語があれば、あなたも語れるかもしれないが…などなど。

「ウンコな議論」(ハリー・G.フランクファート著・山形 浩生訳 解説)と言う本にうろ覚えですが、このような話が載っています。
ウィトゲンシュタインがあるとき入院している女性の教え子の所へ見舞いに行きました。その折にその女性が「今の気分は車に轢かれた犬のような気分だわ」と言ったところ、ウィトゲンシュタインは不機嫌な顔をしてこう言ったそうです。「あなたは実際に車に轢かれた犬の気分なんか知らないだろう。」

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レベル 投稿者:φ 投稿日: 8月23日(水)04時35分38秒

 今日初めてここを開けたもので、返事遅れましてすみません。
 私は、仏教については知識ゼロに等しいです。
 拙著『これは餡パンではない』および文庫版『M色のS景』で、芭蕉と仏道と老荘の関係を論じましたが、仏教方面は白楽天(白居易)などを媒介とした間接的な論考でしたし、それ以来何もフォローしていませんから、私の仏教の知識はほぼゼロと言えます。

 まあ、私に対する配慮は抜きで、存分にやっていただければと思います。

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はじめまして、Nakajimaさん 投稿者:ε 投稿日: 8月23日(水)00時43分24秒

マニカナのほうをちょっと盛り上げてきました(笑)

最近半分くらい読んだ本としては

竜樹(中村元、講談社学術文庫)
角川文庫ソフィアの
仏教の思想2、存在の分析(アビダルマ)
仏教の思想3、空の論理(中観)
などですね。

買ってあまり読んでない本として
大乗仏典14 竜樹論集(中公文庫)
インド人の論理学(中公新書)
が手元にあります

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見解の訂正。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月23日(水)00時08分58秒

>この「xが使えない」と言い出したことで私はやっとある学派との類似点に気づきました。
>この発想法は「倶舎論」です。女史の言っていることは本人も気づいてませんが、倶舎論の亜流です。

すいません。この見解は撤回します。但し「その語り方の中に「有」の存在論をもっているように思います。」という石飛女史の発言で「倶舎論(ないしは説一切有部)」がヒントになったことは事実です。

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εさまと三浦さまへの質問 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月22日(火)23時58分41秒

今、全ての仏教論理学・認識論の資料を全て漁り、同時に石飛女史のブッダ論理学と突き合わせた結果、「存在論(ないしは認識論)」と仏教論理学について私はある程度の理解度に達した。と考えています。
そこで質問なのですが、三浦さま及びεさまに質問しますが、お二人に対して今回の件のレポートを提出しようと思うのですが、どこまで仏教に関する知識をご存知でしょうか。
a.ほとんど一般人と同じくらいしか知らない。
b.有る程度専門的な書籍(例えば岩波文庫や講談社学術文庫クラスの書籍)は読んだことがある。
c.その上のクラスまで目を通したことがある。

尚、多分提出まで二週間程度かかると(執筆は来週末の予定です。)思います。

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Re: 投稿者:φ 投稿日: 8月22日(火)04時41分2秒

 そうですね、「詐欺」については、他の言葉に換えることにします。ご指摘ありがとうございました。
 それから、ざっと書いたせいで、文字レベルの細かい誤記がありますが、気づいたものから直していきます。
 それと、微妙に似た指摘や関連する項目が離れたところに位置しているのが何組かありますが、あえて体系化しないほうがよいかとも思うのでそのままにしておきます(相似質問を離して置くというのは、回答が整合的かどうか調べるにはむしろ定石。ただし回答がもらえればですが)。

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「無理解のサンプル、68の指摘」へのお礼 投稿者:Σ 投稿日: 8月21日(月)21時26分8秒

尊敬する三浦先生へ

「論理学に関する無理解のサンプル、68の指摘」
(石飛道子著『ブッダ論理学 五つの難問』に関して)

を拝読しました。私がやりたくても無学ゆえにできなかったことをズバッとやって戴き、実に義憤が晴れる思いがします。心からの感謝と称賛を捧げます。

なお、一点、用語で気になった点があります。
「1■、6■、44■」において、「詐欺」という言葉が使用されていますが、「詐欺」概念が日常の辞書レベルでも刑法の詐欺概念からの強い影響を受けてそれをある程度継承しているとするならば、刑法の「詐欺」の場合は、<金品などを詐取する目的での詐術>
 を意味するため、「68の指摘」の中で使用するのは「少々不適当」となり、相手方から揚げ足取りされる可能性があるかも・・と思いました。
その可能性を除去するためには、単に「詐術」という表現に代替した方がよいかも知れない・・・と、ちょっと思いました。

三浦先生の「正しい指摘」のように、
石飛女史の「学問的目茶苦茶」を 世間が許さないことを切に願っております。
それはとりもなおさず、彼女自身のためにもなる、と確信してのことでもあります。

私も、仏教側から、さらに厳しい愛の鞭を彼女に入れて行く所存です。
仏教徒ですらない彼女の、門外漢(門外女?)からの好き放題・言いたい放題が許され、その甘言に騙される人々が出るようでは、日本仏教のレベルがどんどん下がってしまいますから(笑)。

「論理学」と「仏教」両面からの指摘で、「万全の教導」ですね。その一翼になれるように、頑張ります。(笑)

(追伸)
三浦先生のおかげで「論理学」の素晴らしさを垣間見た気がします。
今後、私も、一から「論理学」を学んで行きたいと強く思うようになりました。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。

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εさんへ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月21日(月)20時46分7秒

おそらく、石飛女史の反応に対してどういうことなのかわからないかもしれません。
まず、一つ目、
>述語論理学の命題変項、「あるものx」というように、xとおくことがもうすでに、その語り方の中に「有」の存在論をもっているように思います。普遍の存在者をそこに定式化しました。

何を言っているのかわからないと思いますが、確かに初期仏教の認識論ではこのような「言葉の使い方」はできませんし、「そのように世界を認識してはいけない」のです。述語論理は使わないのではなく、使えないのです。この理由は後ほど説明します。但し、同時にその認識が「正しく世界を認識しているか」は又、別の問題です。

二つ目、
>同じものは思いつきません。これは、もうわたしのオリジナルじゃないかと思います。
じゃないですね。同じテキストで2500年間無数の仏教学者が解釈しているのですから全くのオリジナルが出来上がるわけがないんです。どこかで類似した思想が出てきます。
この「xが使えない」と言い出したことで私はやっとある学派との類似点に気づきました。
この発想法は「倶舎論」です。女史の言っていることは本人も気づいてませんが、倶舎論の亜流です。

「倶舎論って何?」と三浦さまやεさまは思うかもしれませんが、それはぐぐってくださればいくらでも説明してくれるサイトに引っかかります。

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Re:あのー例の件で 投稿者:φ 投稿日: 8月21日(月)00時21分52秒

「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」というのはダメでしょ、存在論を持たぬ者に対して、あるいは、別々の異なる存在論を信ずる者どうしで語れるようにする使命はじゃあナニ学が担うの?
 という趣旨のことは質問しましたが(答え無し)、
 そうでしたね、言われてみれば、「あなたの言っている存在論とは何か?」と問えばよかったですね。(しかしこれも答え無しだったのではないでしょうか)

 存在論という言葉自体、多義的ですからね……。言い逃れにいくらでも使えてしまう。

 ――さて、  ここで以前から予告しておりました、
 『ブッダ論理学』の欠点列挙を、以下にアップロードしました。

http://russell-j.com/book-rev.htm
の一番下の 0
もしくは
http://russell-j.com1/
の一番下の
論理学に関する無理解のサンプルについて 68の指摘

からお入りください。

ほとんどの項目は現代論理学以前のマナーのレベルですが、これに仏教方面からのチェックがはいれば万全の教導になりますね。

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あのー例の件で質問が。。。 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月20日(日)22時32分46秒

もうやめたいのかもしれませんが、一つだけ。今、εさんがあっちへ行ってうなぎ問答を繰り広げていますが、石飛女史と三浦氏とのメールのやりとりの中で、三浦氏は「あなたの言っている存在論とは何か?」と言う質問を発したのか。又、それに対して石飛女史の回答はあったのかお聞きしたいのですが。

今、仏教における存在論と認識論の本を読んでチェックを入れています。おそらく石飛女史の言っている「存在論」とやらの全貌とその欠陥が見えてきました。特に女史の認識論は一種独特で、仏教で扱う認識論を相当誤解している可能性があります。

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Re:social darwinism 投稿者:φ 投稿日: 8月20日(日)01時58分37秒

 Υ田さん、ではのんびり待たせていただきます。
ちなみにホリスのパラドクスは、069「抜き打ち試験のパラドクス」と全く同型ですから、より考えやすい「抜き打ち試験」から入った方が能率的かもしれませんね。(パラドクスにとって本質的でない枝葉が多すぎるため必要以上に込み入っているホリスのパラドクスは、だから普及しないのでしょうかね)

 Σさん、いまだ渦中の「社会生物学」のことかと思ったらこちら過去の遺物たる「社会進化論」ですね。
 ざっと、社会ダーウィニズムの誤りを思いつくまま五つ書き出してみましょう。
 (ダーウィニズム宇宙版である「人間原理」に対しては、まだこの種の誤解が現役ですから、過去の遺物といっても社会ダーウィニズムの誤謬に学べる事柄は多いでしょうね)。

★社会ダーウィニズムの誤り★

 ■自然主義の誤謬。自然な成り行きが倫理的に正しいと誤って前提している。事実と倫理は別問題である。「これまでそうだった」は「そうあり続けるべきである」を含意しない。
 ■適者生存の単位の取り違え。ダーウィニズムは、個体の生存競争を唱えたのであって、種や民族、人種、国家のような集団を自然淘汰の単位としていない。
 ■適者生存の単位の取り違え。ダーウィニズムは、「強い者が生き残る」とは言っていない。環境次第では、弱いもののほうが適者となる「逆説的ESS」も可能である。
 ■自然選択のメカニズムの誤解。環境や遺伝子間相互作用とは無関係に「強い遺伝子」「優れた遺伝子」があるという思い込みは、個々の遺伝子を孤立させて評価できるという素朴な誤り。
 ■定向進化(目的論)の誤謬。進化の方向があらかじめ定まっているという考えは、ダーウィニズムのランダムな変異を重視する考えとは正反対である。環境が変化したとき、それまで「劣った遺伝子」と思われたものが俄然優勢になることがある。

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ホリスのパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 8月19日(土)23時02分37秒

ご無沙汰しております。
ホリスのパラドクスを論じるために、論理学を勉強しなおしておりました。
基礎を思い出すために『論理学をつくる』を読みふけって、
「太郎はPを知っている」を様相記号のようなもので簡潔に表せないかと思って
『可能世界の哲学』を読みふけって、
『論理パラドクス』の「知識の閉包性」「ゲーデル命題」あたりを考え込んで方針をぐらつかせそうになって、
今、やっと半分ほど書き上げられました。方針が正しければこのまま結論まで行けるはず。

筆が遅くてすみません。あまりにも寄り道が楽しくて、結論までまだ半分残っています

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social darwinism 投稿者:Σ 投稿日: 8月19日(土)21時58分17秒

三浦先生へ

永井氏の「不確定性の論理学」へのコメント、有り難うございます。
三浦先生が賛同して下さることを伝えれば、永井氏も勇気づけられ、喜ぶと思います。

・IDに関しては、只今、熟考中です。

>現代科学の最高の達成は量子力学でも相対性理論でも超ひも理論でもなく、ダーウィン進化論である、という信念を最近抱くようになった私ですので、論理よりは確率(変異と自然選択のシステム)を記法として採用したほうが何かとうまくいくからです。

最初、はてな? と思ったのですが、少々分かりかけて来たように思います。
きっかけは、「遺伝的アルゴリズム(Genetic Algorithm、GA)」の解説を最近見たことによります。

ところで、三浦先生は、ダーウィニズムとの関連でお尋ねしたいのですが、
社会進化論(しゃかいしんかろん、英:social darwinism)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
(ウィキ↑)
について、どのように位置づけておられますでしょうか?
ご見解を伺えれば嬉しく存じます。宜しくお願い申し上げます。

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Re:落ち着いたところで 投稿者:φ 投稿日: 8月17日(木)21時24分28秒

 ■論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。(念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)

 これは、F.Nakajimaさんだったかどなただったか、あちらの板ですでにほぼ正解を書いておられたような。

 まず、「構成的ジレンマ」という論証を見てみましょう。
 (他の論証でもいいのだがこれが一番わかりやすいだろうから)

 神はいる ならば、 宇宙がかくも不完全であることが不可解だ。
 神はいない ならば、 かくも不完全ながら宇宙が存在することが不可解だ。
 よって、いずれにしても(無条件で)、「かくも不完全な宇宙」の存在は不可解だ!

 一般には、P⊃Q R⊃Q P∨R したがって、Q

 という形をした論証です。
 これは、結果的にQが真であることを証明するものですが、PとRはそれぞれ、真か偽かがわからなくてもかまいません。

 つまり、論理学で扱う文は、真偽が永遠にわからなくてもOKです。

 論理学の文は、神だろうが輪廻だろうが霊魂だろうが業だろうが因果だろうが、何を主題にしていても自由です。
 つまるところ、平叙文であればよいのですね。(疑問文の論理学や命令文の論理学、というのもありますが、標準論理学に限れば、平叙文のみ)。
 「真偽のはっきりした文」ではなく、ましてや「誰もがいちおう認めていることがらを述べる文」(p.44)である必要もさらさらなく、

 「真か偽でありうる」文であればOKです。
 「真か偽いずれかとして認定することが意味をなす文」と言い換えてもいい。

 極端な話、「スルセはフモペにキポナりた」という意味不明の平叙文でもいいのです。
 「スルセはフモペにキポナりた」が真(偽)のとき、「スルセはフモペにキポナりた、でない」が偽(真)であるという相互関係が保たれてさえいればOKです。
 命題論理学は、文の述べている事柄にかかわらず、文と文の真偽関係のみを扱うからです。
 ただし、述語論理学になると、意味不明の文には真偽のいずれも認めないことが多い(集合論的なモデルを作れなくなるため)。しかし、「真か偽いずれかとして認定することが意味をなす文」であればよいことに変わりない。命題論理学では、意味不明であっても真理値を付与してかまわないので、平叙文でありさえすればOKです。

 ■必要条件とは何か。できるかぎり例を出せ。

 命題型(命題の束)ではなく、命題の間に成り立つ関係です。⊃の後件と前件の関係ですね。(チャーチのマイナー記法では、⊂の前件と後件の関係)
 必要条件の認定についての混乱は、 8月11日(金)04時44分18秒 に書きましたので繰り返しませんが、第1点と関係あることを注釈しましょう。
 命題に関しても、真理表の1~4列目をすべて考慮しなければならないことがあります。
 たとえば、「明日、雨が降るならば、私は家にいる」のような文です。
 この文は、「雨が降るなら雲がある」のように繰り返し可能な出来事の束を表現する命題型ではなく、命題なので、 P⊃Q と書くことができ、QはPの必要条件です。つまり、
 「明日私は家にいる」は「明日雨が降る」の必要条件です。
 「 」内の2つの文は、「真偽のわからない文」です。(まだ今日のところは)
 したがって、⊃の真理表の1~4列目をすべて調べねばなりません。
 あるいは、順序をそのままに考えるなら、⊂の真理表の1~4列目をすべて調べねばなりません。
 「明日私は家にい」て「明日雨が降る」ことはもちろん起こりうる。
 「明日私は家にい」て「明日雨が降」らないことも起きてよい。
 「明日私は家にい」なくて「明日雨が降」ることは起きないはずだ。
 「明日私は家にい」なくて「明日雨が降」らないことは起きてよい。

 たしかに〈真、真、偽、真〉となる。したがって、「明日、雨が降るならば、私は家にいる」(「明日、私は家にいる」ことが「明日、雨が降る」ことの必要条件である)と確かめられたことになります。

 すでに真偽のわかっている命題どうしの場合は、真理表の1~4列目すべて調べる必要はありません。
 「広島に原爆投下された」⊂「靖国神社は終戦とともに廃止された」 は真⊂偽の組合せなので真理表の2列目だけを見て真だと判定でき、「広島に原爆投下された」は「靖国神社は終戦とともに廃止された」の必要条件であることがわかります。
 
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落ち着いたところで 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月17日(木)11時23分52秒

宿題の回答をお願いできますか?

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因果、論理 投稿者:φ 投稿日: 8月14日(月)04時30分1秒

 因果についてはいろいろ論理モデルが作られていそうですけれどね。どのレベルの(文脈の)因果を語るのかにもよるでしょうが……。

具体例にまで拡げると「すごい部分」だらけになっちゃいますね。

 数学は、誤解されまくっているといっても限度があって、「算数で無理数は習わない。したがって、現代数学で三角測量は扱えない」などと言われて本気にする人はいないわけです。
 ところが、論理学の場合、「命題論理では因果関係は扱わない。したがって、現代論理学で因果関係は扱えない」などと言われると、本気にする人が続出しかねません。

 学校で必修になってない学問を啓蒙書で解説するときには、それが主要テーマでないとしても、ウソ偽りのないように注意すべきですね。

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RE:統一的理解の欠如 投稿者:ε 投稿日: 8月14日(月)00時49分32秒

まあ、寛大というかなんというか。数学も誤解されまくっnているのであまり感じなくなっているのかもしれません。きちんと反論しておくのは本当は大事だと思いますが。

で、すごい部分を見つけてしまいました。引用、p38-p39
 また、結論「すべての人は死ぬ」は偽には決してなりえない。・・・たとえその人が永遠に生きると決まっているとしても私たちには確定できない。偽と確定できないのなら、真と偽しかない以上、「すべての人は死ぬ」という結論は真といわざるをえない。

すなわち、偽であることが原理的に検証できないのなら、(論理的に)真だという恐るべき論法です。これを第4章のテーマである

 イラクには大量破壊兵器がある

に適用したらどうなるか・・・・

アマゾンを見ていたら、因果性と確率に関する最近の本http://www.amazon.co.jp/gp/product/0521773628/ref=pd_ys_ir_all_52/503-6392771-1323925?ie=UTF8
紹介されてました。なかなか面白そうですが

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公案とヒューリスティクス 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月13日(日)21時17分12秒

公案禅とは一体何か、と言う点について少しお話したいと思います。

さて、公案というと全くわけがわからないちんぷんかんぷんなものだろうと思っておられる方がほとんどだと思います。禅問答という言葉自体、わけがわからない会話という意味に使われるくらいですから。

例えば、「犬に仏性はありますか?」「無!」この文章の背景知識を頭に入れてもさっぱりだと思います。

では、ここで問題なのですが、一体「公案」とは何なのでしょう?
(この問題自体が禅問答的になってきたな)
私は、公案の一つを非常に偶然のことながら解いてしまいました(百丈野孤)このことをお話すれば、なぜ解いたかといえば、私は幼いころから読んでいた仏教書籍の知識から「ブッダの論理学」は完全にでたらめだ。と最初に読んだときからわかっていました。にもかかわらず、かなりの数の仏教学者がこの本を絶賛したことからそのことを奇異に感じ、(学があると思われている彼らを論破するにはいかにすればよいか)と考えました。
思いついたのが公案の一つ「百丈野孤」でした。仏教を学ぶ者であるにもかかわらず、ただ字面を追い求めるだけで問題を解くこともできない{聖書における律法学者のような連中}を論破する材料としてはこれ以上のものは無かったわけです。

前振りが長くなりました。「公案」とは「ヒューリスティクス」の能力がいかにあてにならないか、ということを「ヒューリスティクス」の能力を使って解くことにより「ヒューリスティクス能力」の強化を行なうための課題。なのです。

ここに一つの公案があるとします。例えば三浦先生は自書で、「正しいヒューリスティクスのあり方」を執筆されましたが(例として古本屋)、それを読んだぐらいでは読者自身のヒューリスティクスに対する概念は変わらないでしょう。

で、禅宗においてはその弊害を改めるために、公案を使ってとっちめ、ヒューリスティクスを初め、さまざまにこびりついた既成概念をとっぱらうために公案という課題を出すわけです。ですから禅宗の僧侶というのは話されるとわかりますが相当「論理的」な人間です。きちっと修行した人はヒューリスティクスに起因するエラーは常人よりはるかに少ない、と言えるでしょう。

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Re:不確定性の論理学 投稿者:φ 投稿日: 8月13日(日)03時14分27秒

 見てみました。

 「論理学の確率論への還元」という方針には、私は全面的に賛成です。

 学問の本性として論理学は数学である、と断定できるか否かは永井さんも脇に置いているようで、むしろ戦略として、論理学を確率論として見るのは役立つだろうと。それは私も大いに賛成です。

仏法のサイトの5-(1) で、様相論理と多値論理を混同しているのはマズイ、と前回コメントしましたが、撤回しましょう。論理学としては2つは全然別物ですが、確率論として統一的に見れば、たしかに、同じ確率的世界観の別の表現と解釈できるからです。

 私は以前は、論文で論理式を多用していましたが、最近はむしろ、ベイズ式(条件付き確率の論理関係を表わす式)のほうを多く使っています。現代科学の最高の達成は量子力学でも相対性理論でも超ひも理論でもなく、ダーウィン進化論である、という信念を最近抱くようになった私ですので、論理よりは確率(変異と自然選択のシステム)を記法として採用したほうが何かとうまくいくからです。

 拙著『ゼロからの論証』あとがきから引用しておきましょう。

 …………………………………………
 ……本書後半では、しきりに、確率に関する錯覚を戒めました。哲学の才能というものは客観的に測ることができるはずですが、それはとりもなおさず論理のセンスであり、それはすなわち、どれほど的確な確率的直観を備えているかに他ならない、と私は信じています。確率音痴であるがために、なんでもないところに奇跡や神秘を見出したり、逆にこだわるべき神秘を見逃したりして、問題設定を根本から誤る失敗は、プロの哲学者にも(にこそ)見うけられます。そうした〈ものわかりの悪さ〉を哲学的感性のしるしのように気取るのはくれぐれも控えて、客観的論理に沿った確率的直観を武器に、意義ある問いを真剣に問うてみよう。それが本書の誘いでした。……
 …………………………………………

 ↑確率的「直観」と言ってしまうと、ヒューリスティクスのことになり、ロジックとは正反対の概念を意味するのでは、と突っ込まれそうですが、まあ、生身の人間においてはヒューリスティクスとロジックの両面は正比例することが多いと考えていただいて……。

 確率論、とくに主観確率論(ベイズ主義)は、心理学と密接に関係しますしね。
 F.Nakajimaさん言うように心理学と仏教が関係深いとなれば、仏教思想には大いに期待できます。(「無常」なんて、確率のことではないでしょうか?)

 心といえば、オカルトや新興宗教に走る人は、そうならない人よりも、確率問題の正答率が劣る、という調査もあるそうです。「不思議なこと」と「当たり前のこと」の区別は、知的生活にとって最重要の事柄ですね。

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不確定性の論理学 投稿者:Σ 投稿日: 8月12日(土)15時55分12秒

三浦先生へ

フリー哲学者・永井俊哉氏は、ウェブ公開電子書籍の一つ
『システム論研究序説』
http://www.nagaitosiya.com/b/luhmann.html

の第一章の第3節 「不確定性の論理学」

という論考を著していますが、彼の試みについて面白い・有意義とお感じになられるか否か、
簡単なコメントを戴ければ、嬉しく存じます。
お時間がある時、ちらっと御覧になって下さい。

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最近の東洋と西洋思想の交流について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月12日(土)14時02分5秒

共通言語として、現代科学と、それにリンクした西洋哲学の語彙を用いるしかないでしょう。現代科学なら、世界中の人が学校教育を通じて学んでいるので。

一応、私の知っている限りの仏教と西洋科学との交流について述べてみましょう。
西洋科学の分野の中で一番仏教と交流が深いのは、誰でも思いつくでしょうが「心理学」です。
何しろ仏教の始まり以来2500年、その間修行者がやっていたことといえば、「心の探求」なのですから当然なことです。又、仏教とは「自覚論」であって(指摘したHP参照) 論理学も認識論も学問的には主流ではないのに対し、「心理学」は実践(修行)面に関わってくるため最も発達するのは必然だったわけです。

体系についてはさまざまな学派があるため記述は一部にとどめますが、一番有名なのは「ヨーガ・スートラ」でしょう。但し私はヨガについては詳しくないので詳しくはあおみさんにどうぞ。
他に特筆すべきなのは禅と唯識でしょうか。禅に思想体系があるのかとこの文章を読む人は驚くかもしれませんが、ある。と私は断言します。

今、心理学に一番影響を与えているのは「唯識」でしょう。世界で最初に「深層意識」という概念を発見したのは彼らの功績(フロイトを遡ること何年でしょう?)です。そしてその発見を中心に彼らは独自の心理学体系を築き上げ、その後の仏教思想に影響を与え続けています。
そして、驚いたことに唯識の心理学体系が今一番に研究されているのは、アメリカの心理学諸派です。理由としては、これまで西洋の心理学にはまったく想像もつかなかった、さまざまなテクニックや諸概念が存在し、なおかつそれらが体系化されて理解されやすくなっているためだと思います。

今後、心理学では東洋と西洋を融合させた「メタ心理学」が心理学の中で主流派になる可能性があると思います。

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現代諸学と仏法 投稿者:φ 投稿日: 8月12日(土)02時58分9秒

を見てみましたが、3-(1) で命題論理と述語論理をごっちゃにした記述があったり、5-(1) で様相論理と多値論理をいっしょくたにしたりと、変な記述があるものの、全体の論がそれに依拠しているわけではないし、活字出版でもありませんから、さほど問題ないでしょう。

 部分的に見ただけで、仏教用語はよくわからないので、あとは何とも言えませんが……。

 インド思想だけでなく、中国やイスラム、日本、東南アジア、もしかしてアフリカやオセアニアや南北アメリカ土着の口承思想にもすぐれたものが色々あるはずです。それらのアイディアを持ち寄って相互議論できれば素晴らしいと思いますが、そのためには、共通言語として、現代科学と、それにリンクした西洋哲学の語彙を用いるしかないでしょう。現代科学なら、世界中の人が学校教育を通じて学んでいるので。

 ヨーロッパの科学や数学・哲学そのものが、二百年前とはまるっきり違う語彙とスタイルで展開されています。その他の文化圏の思想が何百年も前の語り方でよいはずがありません。  あのサイトの筆者も、形式を現代科学に合わせて、内容では仏教を展開する、とやってくれればこちらも助かるんですが。

 インド思想はインド思想、中国哲学は中国哲学と分かれたまま、太古の時代さながらの形式を保っていたら、コミュニケーションがとれず、孤立・停滞するばかりのような気がします。
 自称ブッダ論理学も、西洋論理学の形式に合わせて発信しようと試みたところまではセンス良かったんですけれどね。

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一念三千は非論理的直観真理 投稿者:Σ 投稿日: 8月11日(金)22時04分18秒

中島さまご紹介のHP

管理人の自己紹介をみると、

今里 祐二 (いまさと ゆうじ) 昭和37年生まれ
昭和58年9月25日入信 平成元年12月15日創価学会脱会

日蓮正宗 行学山久修寺 法華講員

---創価学会を脱退していますね。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/jiko.htm
この「今ちゃん」が紹介しているのが、下記の「日蓮正宗要義」です。
『まず本門に約して言えば、一念三千とは本仏の悟りと活動に名づけるのである。久遠元初、いまだ仏法や一切万物の名目も存在しない古の時点において、

一人の聖人が顕われた。宇宙法界間の一切の現象と実在を直観によって通暁され、混沌より万象に至る事理を了解し、一切の分立と統合の原点となる不思議な法を覚知されたのである。それは存在の本質であり、しかも一切に通じ遍満する普遍的な法であり、大霊であった。

つまり宇宙法界が混沌の時代においても、また天地開闢以来森羅万象の差別相にあっても一貫して存在する法理、すなわちまたその間のあらゆる事象、あるいは星雲の凝縮と発熱の相により、十界・十如・三世間の歴々たるまでの、すべてを具える不思議の大生命体である。

これを聖人は妙法蓮華経と名づけられた。この妙法はまた聖人の生命の当体であり一念であって、これが宇宙法界に遍満するところを一念三千と表現するのである。したがって一念は即三千であり、三千は即一念である。この如実の法に即する人格を本仏と呼び、人格に即する法を本法という。すなわち一念三千とは本仏の悟られた宇宙法界の事理、すなわち現象と実在のすべてを含む法理、及びそれによって行われる衆生救済の活動であるといえる。』

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/301.htm

--このように、日蓮が覚知したのは、「宇宙の大生命体である大霊であり普遍法であり生命の当体蓮華であり、法がリードする諸活動」というように書かれています。

上記のように表現されると、もはや「梵我一如」の「一元哲学におけるブラフマン」と殆ど差異はありませんね。(笑)。

無論、彼らからすれば、そのわずかの違いが天地ほどの差異だと主張するわけですが(笑)。

梵(ブラフマン)即大日。

「宇宙即我、我即宇宙」「宇宙即大日、大日即宇宙」「我即大日、大日即我」

私を地獄界の住人だと公開の場で誤審裁定を下して恥じない「中島裁判官」の目からすれば、上記の「妙法」を知ること、今生では能(あた)わないかもしれません。

この書き込み、三浦先生の掲示板の内容としては、不適合だと思います。

その点、心からお詫び申し上げます。ただ単に、

>但し、この方の宗派は法華宗なので仏教学全体の解釈とは違う可能性はあります。

中島氏のいう「仏教学全体の解釈」など、統一的なものなどあるはずがありません。

諸解釈、百花繚乱なのですから。以上に関する補足として、上記のコメントを書き込んだとご理解下さいませ。

中島氏へ、三浦先生の掲示板でのレスは不要です。

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論理学・認識論について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月11日(金)17時40分28秒

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/19.htm

仏教の哲学的側面について、納得できる説明のあるHPはここだけでした。
但し、この方の宗派は法華宗なので仏教学全体の解釈とは違う可能性はあります。

三浦先生。この方の言われる「西洋論理学と仏教」との関わりについてどう思われるか非常に興味があるのですが、コメントをいただけるでしょうか?

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Re: 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)17時21分47秒

 水掛け論ではなく、中学生レベルの論文作法の破綻を自覚してもらえれば済む話なんですけれどね。学ばずして、どうやって「先に進」むのだろう。過ぎた後ろを見るのがイヤなら、何千年何百年も前の書物をほじくることこそやめるべきですね。

 初歩的な間違いを「水掛け論」「存在論の違い」に帰してしまいたい気持ちは理解できます。学を掲げる管理人は、自らの管理区域では威厳を保つ必要があるでしょう。ネットは言論の自由、態度の自由が保証されるべきですから、掲示板では管理人のああいう態度でかまわないかなと思います。

 ただ、公刊本が関わっているかぎりは、真摯に現実直視してほしいですね。
 学術用語の定義を勝手に変えたことを読者に詫び、どう変えたかを改めて説明するとか、いずれにしても
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1517&reno=no&oya=1517&mode=msgview&page=0
 には答える必要がありますね。
 あの板の、彼女の直近のかたがたがこんな大事なことを要求しないでいられるところに、何か宗教臭さを感じてしまいます。
 インド思想というものの倫理性への疑問も湧きますし。

 インド論理学であれ何であれ、うちは西洋の学問体系とは別個だよという姿勢はもはや許されないでしょう。西洋科学は、素粒子から生命の起源、宇宙の意味、脳と意識の根源にまで実証的かつ思弁的に迫っています。各分野の関係の緊密度は驚くばかりで、私も東洋人として悔しいが、歴史的由来や文化ナショナリズムは忘れなきゃダメです。普遍的な学究方法と対話しつつ改善の役に立つ方策を探るところから、次のパラダイム変換が期待できるでしょう。そういうまともな道を進んでいる東洋哲学者もたくさんいることは承知しています。

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公開問題 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月11日(金)16時12分14秒

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1531&reno=1529&oya=1529&mode=msgview&page=0
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1534&reno=1532&oya=1529&mode=msgview&page=0
だそうです。

不毛な水掛け論が長引く、とあるんですけど、
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1517&reno=no&oya=1517&mode=msgview&page=0
φ先生の名前が出ていない、この投稿に対して、
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1518&reno=1517&oya=1517&mode=msgview&page=0
では、わざわざ
「三浦先生が、チャッカの意味を「必要条件に時間順序を加味する」と誤って解釈したとき、わたしは訂正しました。しかし、これは、わたしのミスではなく三浦先生のミスです。このようなミスは、論理学にかんしていえば、初歩的なものです。」
「三浦先生のように、定義された語の意味以外のものをつけ加えて批判するというのは、ルール違反のことなのです。」
と不毛な水掛け論が長引くように仕向けるのはどうしてなんだろう。しかも、そうしておいて公開は拒否、、、。

>インド論理学が西洋論理学と「水と油」と言われるかぎりは(あちらの専門家がそう言うのであれば)、私は、インド論理学を学ぶ気は起きません。

圧倒的大多数のインド論理学者や仏教論理学者の方々は「水と油」とは思っていないのではないかと思います。(といっても詳しくないのでテキトウにいうべきではないですが) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393101499/qid=1155279406/sr=8-8/ref=sr_8_xs_ap_i8_xgl14/503-4960752-3738355
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121014421/qid=1155279457/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/503-4960752-3738355

・・・ちなみに、わたしは、F.NakajimaさんやΣさんではありません。

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re:こちら2 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)14時39分58秒

 「インド論理学」の本は色々あるのでしょうが、
 インド論理学や中国論理学や南米論理学や東アフリカ論理学がどのようなものであれ、論理学は孤立して成り立ちはしませんよね。
 数学や自然科学と密接に相互作用するはずのものです。現にこうやって私たちがネットで会話できるのも、電子工学と、タイプ理論や逆ポーランド記法の論理学とが連係したおかげでしょう。
 インド論理学が西洋論理学と「水と油」と言われるかぎりは(あちらの専門家がそう言うのであれば)、私は、インド論理学を学ぶ気は起きません。
 インド物理学やインド化学という独特の体系が西洋物理学や西洋化学に取って代わる可能性は皆無と思われるので、インド論理学はいつまでたっても孤島のような趣味の領域にとどまるように思えてしまうからです。

 ただもちろん、老荘大好きの私は、文学や芸術の一種として、東洋思想をずっと賞味し続けますよ。

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re:こちら 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)14時14分11秒

 『龍樹造「方便心論」の研究』なる本は、拝見していないので、何とも言えません。

 …………
 昨夜「統一的理解の欠如」で述べたことは、原理的な発展編で、『ブッダ論理学』がまず批判されるべきは、もっと明白な初歩的部分、字面にはっきり出た記述からでしょうね。

 最低限、次の一文は、削除か訂正しなければマズイと私は心配しています。

 p.43
「命題論理学の演繹的な推論の中には、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない。したがって、世界のできごとの中でこの接続詞に対応していることがらは語ることができない」

     クドくてすまんですが、次の文と同様の超お笑い草ですから。
「数学には、+-×÷はあるが、2つの数の平均値を示す演算子は存在しない。したがって、平均値を数学で語ることはできない」

     一文だけ訂正してももちろん無意味ですけれどね。

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こちら 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月11日(金)07時40分49秒

http://homepage1.nifty.com/manikana/upayahrdaya1/upayahrdaya1.idx.html
については、どう思われますか?

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統一的理解の欠如 投稿者:φ 投稿日: 8月11日(金)04時44分18秒

 私もε さん同様、第1章の最後近くまでまあまあ普通に読み進んだのですが、p42で「ドヒャーー!」と思いっきりのけぞり(「穴がある」という「表現」だけの問題ではない)、著者が何を勘違いしているのかよーくわかったがゆえに、前に戻って読み直したらキズがいっぱい見えたというクチです。引っかかったのは表現だけとは、εさんは寛大ですな……。

 7月30日「Re:「¬」の正しい意味」と、7月31日「Re:感想」で、「命題」と「命題型」の混同のことを述べましたが、この機会に補足しましょう。私が「よーくわかった」ところを、面倒ですが、ちょっとじっくり書いてみます。
(εさんの観察は核心を衝いていると思います)

 真理表の命題型PとかQには、具体的適用の場では個別の命題を代入するわけですが、『ブッダ論理学』では具体的適用でも命題型そのものを代入してしまっているようですね。
 あるいは、εさん的に見ると、時空変項を含んだ命題関数を代入していると。
 いろんな時空に関して「雲がある」「雨が降る」のペアを考えて、真理表の一列目から四列目のそれぞれの列を満たす時空があるかどうか調べる。三列目だけがない(これが「偽だ」と解釈される)。よし、「雲がある」「雨が降る」のペアは〈真、真、偽、真〉という出力に合致し、P⊂Q(PチャッカQ)に当てはまる、などとやるんですね。石飛さんやΘさんがやっていたのはそういうことのようで。

 しかしこの同じことを、⊃と⊂以外の演算子でやろうとすると、かなりおかしなことになる。
 いろんな時空に関して「雨が降る」「雷が鳴る」を真理表∧のそれぞれの列に当てはめると、必ず、いずれかの列に当てはまる時空がある。つまり、二、三、四列目を満たす時空が存在する(「偽にならない」と解釈される)ので、〈真、偽、偽、偽〉という出力に合致せず、「雨が降る∧雷が鳴る」は偽である、と端的に判定されてしまう。今世界中が雷雨に見舞われていてもです。

 ∨も同様。いろんな時空・人に関して「大学にいる」「テレビを見る」を∨のそれぞれの列に当てはめると、必ず、いずれかの列に当てはまる時空・人がある。つまり、四列目の状況が存在する(偽にならない)ので、〈真、真、真、偽〉という出力に合致せず、「大学にいる∨テレビを見る」は偽である、と端的に判定されてしまう。今世界中の人がテレビを見ていてもです。

 本当は、具体的代入の時のPやQは空欄なき命題だから、PもQも真理値は一通りであり、たとえばPが真でQが偽なら、ただちにP⊃Qに当てはまらない、P∨Qには当てはまる、などと二列目だけ見て言えるわけですが、命題型(あるいは命題関数)だと考えてしまうと二列目だけでは安心できない……。

 しかし石飛さんやΘさんは、∨や∧のときにはふつうに命題として考え、「虹がある∨霧がある」は真か偽か、特定の状況でただちに判定するのでしょう(そうでないといくら何でもおかしいと気づくはず)。
 彼らは、⊃と⊂のときだけ、命題型(あるいは命題関数)で考えているようです。
 この差別的扱いを明示してくれればまだ何とかなったんですが、無自覚にやっているから始末が悪い。

 つまり、真理関数を統一的に考えることができていない。P⊃Qは~P∨Qだという定義の意味(意義)がわかっていない。
 p.42の真理表では、たしかにP⊃Qは~P∨Qと同じになっているので、わかってないと変なのですけれどね。

 つまり、真理表の体系的理解がなく、因果関係のような内包的関係とごっちゃになっている。だから、「穴がある」のは ⊂ の所だとされたんですね。
 (しかしそれでもなお解せないのは、それならば同じく⊃やその否定、⊂の否定の真理表も「穴」と言われねばならなかったはずです。真理表6だけが穴として取り立てられるところに、誤解が誤解なりに統一されはせず、単に混乱しているサマが見えます。「接続詞がない」という表層に引っかかっているのですね……トホホ……)

著者が根本的に勘違いしているので、真面目な読者ほど非論理的な方へそれてしまうのですね……。

 ……ああ面倒くさかった。
 たぶん以上が彼らの勘違いの核心でしょう。(とはいえ上述のように、勘違いが統一的でないのがまた困りもの)

 命題型での⊂の理解が、因果関係を捉えそこねていることはすでに何度も例を挙げてきたとおりです。
 εさんの心配の通り、命題型で含意を考えるクセは案外厄介で、前から私も言っているように、
    「この宇宙全体」のような一回的な出来事を生んだ原因もしくは理由
を考えられなくなるという、形而上学にとっては致命的な欠陥につながるわけです。存在論を売りにしたいブッダなのにね。

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ちょっと思ったこと 投稿者:ε 投稿日: 8月11日(金)02時16分41秒

”ブッダ論理学”、結局探しても出てこないので、買いなおしてしまいました(笑)

読み直してみると、第1章では少なくとも、テクニカルにあまりおかしなことは言っていない(真理表の穴という表現を除けば、、ですが)ところが第2章になると突然わけがわからなくなる。考えた末に気がついたのは、あそこでPとかQとかかれているのは、文としては固定していても、状況に応じていろいろな真理値をとるものが想定されているのではないかということ。扱っているのが”雨が降る”とか”火がある”というような文法的には空所のない完全な文なので、命題と思ってしまったらしい。状況を可能世界と考えるか、あるいは”状況”という存在者を考えて命題関数(述語)として考えるか、いずれにしろ命題論理の範囲をまさに逸脱していることに著者は気がつかれていないようです。様相論理で因果をあつかうのは反実条件などごくまともな考え方だと思うので、このへんの勘違いがなければ有益な討論ができていたのかもしれないですね(ルイスなどφさんの得意分野だし)。

7/31のΘさんの書き込みからも、そのへんで石飛さんにミスリードされたのがうかがえます。

この勘違いは結構根が深いかもしれないです。というのは石飛さんのネット上にある論文 「VAtsyAyanaの論理的立場――意味論的観点から――」
を眺めていたら(俺も物好きだなー)、命題の外延という言葉が出てきたので、ちょっとギョッとしたのですが、これは専門用語としては真理値のことですよね。しかしそこでは無意識に上のように考えて、対象あるいは可能世界の集合が想定されているようです。

こういうのも”意図的”なものなんでしょうかねー

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私としては 投稿者:φ 投稿日: 8月10日(木)23時31分9秒

全然かまいませんよ。

直接メールで私が石飛さんに頼むのも何ですから(つまり私は別に乗り気というわけではないので。石飛さんの名誉のために)、見たがっているギャラリーのどなたかがあちらで石飛さんの許可を取ってきてくれませんか? そしたら即公開します。

ただし、内容のレベルはきわめて低いですよ……、がっかりさせるのも気が引けるが。

それから、公開するなら全部ですね。リタイアしかけた部分まで含めて全部。選択的に公開したのではまた誤解されてしまいますからね。

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三浦氏および石飛氏へ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月10日(木)23時09分39秒

どうやら、お二人とも隠していることがおありのようですね。

お二人に申し上げます。これ以上読者を混乱させることを避けるためお二人の間にあった論理学に関するメールのやり取りを全て公開するよう、要請いたします。もはやお二人とも「否」とは申されますまい。

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ヒューリスティクス 投稿者:Σ 投稿日: 8月10日(木)22時40分36秒

三浦先生のお話が本当だとすれば(本当でしょう)、zapo様ことΘ氏もまた、石飛女史のあとづけ的自己正当化の詭弁に丸め込まれ彼女が正しいと信じ込まされた被害者ということになるのかもしれません。(憫笑)。
石飛女史、しっかりして下さい。

三浦先生、もしかしたら、石飛女史の「ブッダ論理学」は、「ブッダ・ヒューリスティクス」と呼んだ方が良いのではないでしょうか?

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Re:既に 投稿者:φ 投稿日: 8月10日(木)21時56分15秒

そうでしたか、失礼しました。
それなら、その部分に関しては謝らなくてはなりませんね!<
BR>
しかし、日付はどうなんでしょう? 最も早くて7月23日のようなのですが……

真理表6が Q⊃P であることをなぜ書かないかということを始め、四点の批判を私が石飛さんにメールしたのが2005年7月20日。
即日および後日、石飛さんからの返信がまことに支離滅裂だったので、私は石飛さんが本当にミスったのだと判断していました。
その支離滅裂ぶりは、本当はここに引用して御覧に入れると面白いのですが、私信ですからやめておきますね。

 そのとき、「シェーファーの棒」のことなども指摘させていただいたのですが、私が言ったことを今回そっくり石飛さんがどなたかに語っていましたっけ。「シェーファーの棒」の意味が本当に理解されていれば、あんな本にはならなかったはずです。

7月20日以前に、石飛さんのQ⊃Pがらみ確信犯的発言があったなら、私の勘違いを謝罪いたします。
(しかし、わかっていて読者を欺くのは、ミスよりもさらに悪質ではないですかねえ?
 そもそも意味のない「あえてここを書かない」ですしね。)
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既に終わったと思いましたが‥ 投稿者:Θ 投稿日: 8月10日(木)21時06分46秒

三浦先生

>石飛さんが、執筆時に、Q⊃P(P⊂Q)を認識できていなかったことは百%確実です。なぜなら、一行あれば書き足せる簡単なことを「あえて書かない」ことによるメリットなど皆無だからです。

上のコメントですが、私は違うのではないかと推測しております。

今年の2月には既に無宗ださんとの論議の中で話題が出て、石飛さん自ら無宗ださんからは直接聴かれていない Q←P についての話が出ている事が一つと

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?mode=allread&pastlog=0001&no=9&page=25&act=past#9

そして、2つ目として出版直後の反応である、素数の歌さんとはやしさんとのやりとりにおいて先生が指摘されている内容がほとんどが既に石飛さんから解説されている事。
この2点から意図が最初から仕組まれたものであったことが「見え」るからです。

http://homepage1.nifty.com/manikana/keijiban/19uii24880.html

http://homepage1.nifty.com/manikana/keijiban/20uii24880.html

先生の反応も予想のうちというのは、かのログを見ていたものとしては、首肯けるものです。
最初から解っていた?といってもいいのかもしれません。
石飛さんの「方便心論の研究」なども読むとかなり否定できないなと感じております。

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Re:あちらより 投稿者:φ 投稿日: 8月10日(木)13時50分21秒

 では感想を……

 あおみさんが「真理表の定義をしてください」と真面目に頼んでいるのに、答えずに突き放すだけとは……。
 「定義は、本の中にあります」と言ってますが、なかったから、問われるのですよね。ほんと、真理関数でない真理表って何でしょう?

 ポーランド記法のような〈記法の違い〉と、同一用語の〈定義の違い〉との区別がわかってないとは、改めて驚きました。
 もし区別がわかっているとしたら、質問者を意図的に混乱させて逃げようという、悪質な詐術ですね。

 そういえばたしかに、石飛さん自身が、〈定義の変更〉をたぶん無意識にやりまくってましたね。p.43の真理表6の*は、真理関数です。何度も言いますが、p.41からは、「演繹論理学の枠内」に限定した話になっており、それ以前の時間の話に続く、第二の「問題点」とされています。
 つまり、*は、真理関数として導入されています。真理表5の3と同じものですから、*は、⊃の逆である⊂を表わしています。
 ところが、p.64では、同じ*が「真理表6」の名で再び持ち出され、「チャッカ」と名づけられています。
 だからチャッカはここでも真理関数⊂でなければならず、そうでなければ、「真理表」という言葉は使えないはずです。もし、石飛さんがあとから言い出したように(本の中でちゃんと述べろよ!)チャッカが真理関数でないなら、「真理表」という学術用語の意味を、勝手に変えているのです。
 p.66,67では、⊃と≡も出されていますから、それらも真理関数でないというなら、一体何が言われているのだか、もうメチャクチャですね。

 確立した学術用語を説明も無しに変えてはいけませんよね。

 しかも、自分で導入した*という記号の定義まで変えてしまっています。p.43では、紛れもなく真理関数です。p.64では、「真理表6」と依然呼ばれていながら、真理関数ではないらしいのです。(あとからの説明によれば)
 私は好意的に、真理関数でないという弁明を認め、「真理関数(⊂)に時間関係を加味したもの」と解釈しました。あの本には時間関係以外に述べられていないのですから仕方ありません。

 *がそれ以上の何か複雑な概念だというなら、もともと「真理表」など持ち出してきたのが間違いであり、命題論理学と比べるのが見当はずれです。
 石飛さんは私のチャッカの解釈を「訂正」したそうですが、では正しくは何だと訂正してくれたのでしょうね。記憶にありませんが。いずれにしても、本に書かなければ読者に伝わりません。
 また箇条書きにしておきましょうね。

 ■「真理表」という概念の意味を理解していない。または、定義を勝手に変えている。
 ■*の意味を自分で途中変更している。
 ■⊂に時間関係を加味すれば因果関係になると勘違いしている。
 ■『ブッダ論理学』に好意的な読者であるΘさんのような人にすら伝わらない混乱した叙述がなされている。
 ■雲と雨の因果関係と、雲影と雨の非因果関係を区別する方法が一つも書かれていない。

   ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 については、また先送り。全部列挙するときにしましょう。この基礎がわかってないで本など出すから、混乱を作ってしまうのですね。

 ――――
 最後に一言、
『ブッダ論理学』の読者のかたがたは、石飛さんのこういう答弁↓を見てどう思われますか?

 …………………………………………………………………………
Q⊃Pを知らないなどということはありません。あえてここを書かないことで、批判がここに向かうようにしたのです。
わたしの意図どおり、Q⊃Pであると三浦先生は批判してくれました。
わたしは、この本の目的の一つを達成しました。
因果関係とQ⊃Pのちがいに、みんなの目を向けることに成功しました。
みなさんの心に「ブッダ論理学、それはどんなものなんだろう?現代論理学とずいぶんちがうようだ」という考えが起こってくれることがねらいでした。
……………………………………………………………………………

 この種の言い訳には、私も今まで何度も出会っています。言い逃れの典型です。具体的な一例は、『論理学がわかる事典』p.266を御覧いただければ。
 石飛さんが、執筆時に、Q⊃P(P⊂Q)を認識できていなかったことは百%確実です。なぜなら、一行あれば書き足せる簡単なことを「あえて書かない」ことによるメリットなど皆無だからです。
 そもそも読者の大半は、現代論理学など知りません。その読者に、「因果関係とQ⊃Pのちがい」を説明もせずに放り出し、誰かから咎められるのを待って、大半の読者の目に触れない掲示板でコソコソと「みんなの目を向けることに成功しました」と宣言するつもりだったと言うんでしょうか?

 こういう態度を許してはなりませんよ、真摯に学ぶ意欲のある読者なら。

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あちらより 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月10日(木)10時20分22秒

以下についてどうでしょうか?
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1518&reno=1517&oya=1517&mode=msgview&page=0
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1523&reno=1521&oya=1517&mode=msgview&page=0

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>HP上にまとめていただくわけにはいきませんか? 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)23時45分38秒

 そうですね、片手間作業になるでしょうが、憶えているところだけでもそのうち羅列してみましょう。

 私は、東洋思想はそれなりに好きで、大学院生時代には芭蕉と仏教と老荘思想の三角関係を論じた学会発表もしており(その論文の普及版を『これは餡パンではない』に収録してあります。文庫本の『M色のS景』にも(単行本版には未収録)。どちらも品切れなので、アマゾンのユーズドなどでどうぞ)、しかし今回、インド系の人がいまだに「見てとる」などと言っているのを「見て」失望しました。
 結局、論理学など要らないという意味ですね。

 「見てとる」で納得する読者が増えたとき、情念と熱狂で大衆が動くオカルト全体主義の時代が間近になっていることでしょう。
 大日本帝国大嫌いの私としては、ロジカルシンキングの普及にさらに力を注がねば、と思う次第です。

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>HP上に 投稿者:ハム 投稿日: 8月 6日(日)22時49分16秒

>HP上にまとめていただくわけにはいきませんか?

今回の議論は、すっごい勉強になりました。

因果とは何か?

初めて真剣に考えました。

私なりの結論は、(科学では)必要条件である、です。
これは詰まるところ、トートロジーなわけです。
トートロジーは推論として妥当だということです。

私の例で言いますと、1+1を計算した結果答えが2になったのは、
2になるような計算が可能だったからです。

実は私、十分条件とか必要条件って必要なのか? って思っていました。
何のために必要なのか? 分からなかったのです。
正しく推論するためだったんですね。

私にとって次は、「すべて」と「ある」でしょうか?

感性(見る)だけで理解してきた人間にとって、論理はいつも課題です。

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HP上に 投稿者:伝々蟲 投稿日: 8月 6日(日)17時21分31秒

>その他のもっと大きな間違いについては、これから小出しに一つずつ。(私もいい加減飽きたので、別の話題にシフトしてしまうかもしれませんが)

ここまで、φ先生が指摘してきた問題点や、これから指摘しようとしている点について、HP上にまとめていただくわけにはいきませんか?

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ID2 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)15時53分39秒

↓和算の例は撤回します。思えば、小学校では、職人芸的な算数から始めるんでした。芸を養ったあと、アルゴリズムによる数学は中学から。
 いずれにしても、「見よ」は困ることに違いありません。

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ID 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)15時42分43秒

 チャッカに合わない因果関係が世にあふれている。チャッカって役に立たん概念でしたね……。

 さて、個別の話題になりますが、Σさんとは違って私は、「インテリジェント・デザイン」は学校教育から断固追放すべきだと思っています。
 言論の自由は、教育カリキュラムとは別の問題だからです。
 授業時間は限られています。子どもの知性の発育には、大人は責任を持たねばなりません。
 もし日本の学校教育に「インテリジェント・デザイン」が導入されそうになったら、私は先頭に立って抗議するつもりです。
 「インテリジェント・デザイン」の内容は私もある程度読んでよく知っていますが、その説の誤りについては、『心理パラドクス』p.112~114「還元不可能なネズミ獲り」をご覧いただければと思います。
 「インテリジェント・デザイン」がなぜいけないかというと、新説でも何でもなく、ダーウィニズムが営々と説明してきた論理をただ否定して元に戻しただけの安易な考えだからです(表現は「科学的」な装いで、必ずしも「神」を前面に出していないので、それだけにモロ擬似科学で、危険)。科学教育の基礎にそういう代物を入れてはいけません。西洋数学に完敗を喫してもなお学ぼうとせず「見よ」と繰り返しているインド数学や職人芸的な和算を義務教育に採り入れるようなものです。

 「インテリジェント・デザイン」の人たちは、定向進化があると「見て」います。
 主流科学者は、定向進化はないと「見て」います。
 「見てとった」と「見とらされた」の区別などありませんよね。百%能動的な人間などいないからです。
 古代人は、地球は静止していて太陽が頭上を動くと「見て」いました。
 トルーマンは、原爆投下が必要だと「見た」のです。
 マッカーサーは、原爆投下は不要で日本本土上陸作戦が必要だと「見て」いました。
 ニミッツは、原爆投下も本土上陸も不要で海上封鎖で日本を降伏させられると「見て」いました。
 大西瀧治郎は、日本人二千万人が特攻死すれば勝てると「見て」いました。
 今でも多くの日本人が、特定地域の住人は「穢れている」と「見て」います。
 私は、女は論理思考に向いてないと「見て」います。

 こうした個人的な「見る」が互いに矛盾するからこそ、「見る」に依存しない厳密な論理が求められます。
 それを理解しないようでは、「見る」だけで世界を理解しようとした原始時代に逆戻りですね。

 あの本が内容・出版形態ともに訂正を要することでは決着はついたようなので、もう議論は不要でしょう。次は、具体的な間違いの指摘ですね。(もう散々やったけど改めて個別に)

 接続詞がなくてもそれに対応する事柄はいくらでも語れること。
 ∨∧≡⊃と並んで⊂があること。
 「抽象」という論理の本質を理解せず、九九にリンゴの味の説明を求めるも同然のナンセンスを書いていること。
 なぜに西洋の因果論や時制論理と比べないのかということ。
        ……どうやらちょっとやそっとの「訂正」では埒があかないようですね。
     その他のもっと大きな間違いについては、これから小出しに一つずつ。
     (私もいい加減飽きたので、別の話題にシフトしてしまうかもしれませんが)

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おおみさまへ 投稿者:Θ 投稿日: 8月 6日(日)14時18分49秒

この掲示板でそういったクソ論議をするのは、ご迷惑になると判断します。
どうしてもやりたければ、あなたのホームグラウンドにもどりなさい。
石飛さんには申し訳ないが、あそこでなら、いくらかあなたの詭弁にお付き合いしましょう。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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インテリジェント・デザイン 投稿者:Σ 投稿日: 8月 6日(日)11時40分52秒

>ただ、あるがままの自然は、どうも「思考の領域にはない」といわれるように、人が決めたルールでは抑えきれない変化相があるのかもしれませんね。ブッタの目にはそのように映っていたのかもしれません。

これに対し、「誰の論理か?」とつっこんだところ、

>人が決めたルールです。人の知性で元々変化するものであるという前提からあらたなルールを探すだけでしょう。ブッタも人ですから。今更、神もないでしょう?

との回答。「あるがままの自然」という貴殿の発言と「人が決めたルール」の整合性が取れていませんね。(笑)
私は、「あるがままの自然」という貴殿の発言から、
それを、カントの「物自体」すなわち、「思考の領域外」にある「物自体」のことを連想・想定して、
物自体に、「論理」と呼べるような知的秩序があるならば・・・誰のロジックか?
と突っ込んだのです。(笑)
貴殿の「あるがままの自然」には知的ロジックが内包されているのか否か?

ウィキの「物自体」の解説はこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E8%87%AA%E4%BD%93

カントはキリスト者でした。
ゆえに、彼は「インテリジェント・デザイン」を言外に措定していながら、信仰論理と学術的哲学論理を峻別して、信仰にあらざる学術的哲学フィールドで限界まで思考したところが素晴らしいと評価されているのだと理解しています。

「インテリジェント・デザイン」について
中岡望のブログより
http://www.redcruise.com/nakaoka/index.php?p=109

カンサス州教育委員会は、教育基準の見直しを求め、「進化論」と同時に、彼らが「インテリジェント・デザイン(Intelligent Design)」と呼ぶ考え方を教材の中に含めることを求めるものです。
多くの保守的なクリスチャンは今でも「進化論」を信じていません。(・・・)
彼らは「進化論」を教えるのなら、「人類の起源」に関して他の考え方も教えるべきだと主張しているのです。彼らは、「進化論」は必ずしも科学的に証明されていないと主張して、種の起源の”他の理論”も教えるべきだと主張しています。
その理論とは「インテリジェント・デザイン」で、その考え方は「生命は複雑であり、科学で解明しきれないことが多い。それは生命の起源の背後に創造主が存在するからである」というものです。
要するに、種の起源は、創造主の意思によるものであるという考え方も、学校教育で教えるべきだと主張しているのです。

思想の自由市場確保の要請からも、言論の自由のバランスからしても、対立する双方の主張を教えるのは、宜しいと思っています。

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詐欺罪成立の可能性の認識が重要 投稿者:Σ 投稿日: 8月 6日(日)10時32分51秒

三浦先生の、「言論の自由には制限がある」という題名に対して、
Θ氏の主張は、「すごい題名ですね」として、その制限への反論を試みていますが、
残念ながら、ディベート的な詭弁的な無理が著しいようです。
「言論の自由には、様々な法的要請に基づいて、一定の制限がある」
ことは、社会科学上、極めて当然の要請であり事柄です。

石飛女史の『ブッダ論理学』は講談社選書メチエの本として刊行されています。
「講談社選書メチエ」の位置づけを調べてみました。
http://www.kodansha.co.jp/metier/

ここで、「学術選書」という概念とは異なる、もっと雑学的位置づけになっているようなので、その意味では、「メチエ」という分野での刊行は妥当だと思います。

石飛女史は、「学術論理と信仰論理」の区別が全くできていない人ですから、今回のような事態を招くのですが、序文あたりに、大きいゴシック文字で、
「私の語るブッダ論理学は、論理学という<学術>ではありません!」
と書き足すならば、言い訳の仕様もあるでしょう。

しかし、書名に「論理学」と銘打つと、普通は、「学術」だと表明したに等しいことになりそうです。
但し、ブッダが宗教の始祖ということから、「ブッダ論理学とは信仰論理の学と同値である」、と主張できる可能性も残ってはいると思いますが・・・。

健康食品会社が何にでも効くサプリを発売し、売れ行きが良いため、いい気になって、「ガンにも効く!」などを宣伝文句にして販売を始めると、やがて、当局から「薬事法違反」で摘発されてしまいます。
薬でない健康食品を病気を治す薬として販売したことになる詐欺罪容疑での立件になります。

同様に、学術でないものを学術本として刊行するならば、学術書を求める読者を欺きお金を出させるという意味での詐欺罪の成立が検討される問題なのです。

ゆえに、石飛女史は、ご自分の「ブッダ論理学」が「学術論理なのか信仰論理なのか」、公に明確に宣言する「義務」があるのです。これは倫理的義務より強い、ある意味、法的な義務です。

ところが、彼女は、そもそも「学術論理と信仰論理の区別」がつかない「無明」の中にいるため、自分のそれがどちらの論理なのか、皆目、判別がつかないようなのです。

この問題、「違法性の意識の可能性の問題」に帰着しますが、彼女がプロの学者である以上、それに関する「区別がつく可能性」が「ない」とは、客観的に判断されることはないでしょう。
ゆえに、彼女がシラを切っても、認識できるし・すべきものを認識せず、どちらの論理か宣言すべきものを宣言しない「罪」が、因果律として降りかかることになることを避けることはできません。

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すごい題名ですね 投稿者:Θ 投稿日: 8月 6日(日)04時53分35秒

チャッカに合わない具体例だったということです。

「見る」の否定の例は不適切だと思いますよ。
「見てとった」というより「見とらされた」例ですね。
そして
ヒトラーはユダヤ人が邪悪であると考えた。
ドイツ国民は、ヒトラーがドイツを救うと考えた。
オウム真理教の信者は、尊師が超能力者だと信じた。
男はたいてい、女に論理的思考力はないと思っている。

「自分の目」で判断せずに、多数の意見や慣習を信じたり、洗脳されたりした結果、そう「見えて」しまったんでしょう。
こうした例を上げる事で石飛さんの「見る」という主張の意味を歪曲しているのではないですか。

インド数学は袋小路に入ったのですか。
そして、その理由が「見よ」だったと主張するのですか。

>人間の「見る能力」は、ランダムな自然選択の結果偶然備わったもので、世界の実相を反映するとはかぎらない。……そういう謙虚な姿勢が、西洋哲学の根底にあります。人間は、体験を信用してはならないのです。

謙虚な姿勢でしょうか。
世界の実相が「見た」体験や経験とズレていたとしてもそれが、実相と呼べるものなのでしょうか。
自分の体験も人の体験も信用するなということでしょうか。
しかし、科学の世界に限って言えば「思考の領域」ですから。
数学の論理でまとめ、実験結果を元に推論するので、実際に「見る」ことはできませんから、そうならざるおえないのも事実ですね。
でも、チャッカの対象を「見る」という世界のものだと言う主張を故意にねじ曲げてませんか。
なんでも「見る」のが全てだという話を石飛さんが主張しているわけでもないでしょう。
先生がわざと悪質なディベートされているような印象を受けます。

>出版を否定したつもりではなく、学問の本としての出版を否定しました。

その例が、参考書というのも適切でしょうか?
「ブッタ論理学五つの難問」というのは参考書ではありません。
それに受験参考書も学問の本に入るんですね。
そうだとすると学問の本というカテゴリ自体あまりに大ざっぱで、「学問の本だから」、制限があるというご意見も首肯けません。
戦時中、同じように学問の本ですら、天皇批判があれば発禁してきた歴史を持っているわけですから。
思想、信条に立ち入っての内容によって差別するというのはどうも納得がいきません。
本の内容に個人の人権を侵害する内容があるわけでもなし、別にいいのではと思いますが、
不適当な個所があれば、ご本人が納得の上、訂正されることは構わないとは思います。
あとは、内容が面白くなければ売れないし、面白ければ売れる。
良い意味でも悪い意味でも自然淘汰でしか無くする事はできないでしょう。
石飛さんの本は私は十分面白かったですし、内容も悪くはなかった、次回作に期待してます。
また、先生の新作も楽しみにしております。

ありがとうございました。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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言論の自由には制限がある 投稿者:φ 投稿日: 8月 6日(日)02時53分29秒
 チャッカに合わない因果関係の具体例について何の回答もいただけないし、
 「見る」の一言が石飛さんの口から出てしまったところで、はっきり決着はついたようですね。

ヒトラーは、ユダヤ人が邪悪であると「見てとった」。
ドイツ国民は、ヒトラーがドイツを救うと「見てとった」。
オウム真理教の信者は、尊師は超能力者だと「見てとった」。
男はたいてい、女に論理的思考力はないと「見てとっている」。

古代インドの幾何学の書は、問題の脇に正確な図を描いて、「よく見よ」と書いてあったそうです。
一時期ギリシャ数学より進んでいたインド数学は、公理系と証明という観念を持たなかったために、現代科学を生み出すことはできず、袋小路に入ってしまいました。
「見よ」が祟ったのですね。

 人間の「見る能力」は、ランダムな自然選択の結果偶然備わったもので、世界の実相を反映するとはかぎらない。……そういう謙虚な姿勢が、西洋哲学の根底にあります。人間は、体験を信用してはならないのです。
 人間の直観が全然当てにならないことは、私のパラドクス三部作から簡単な確率問題をいくつか考えていただければすぐ実感できるでしょう。
 科学者は、二人や三人の同僚が熱狂的に「見た」と言い張っても信用せず、別の研究機関で追試を繰り返し、ようやく疑いを解きます。
 論理学者や数学者は、どんなに自分の直観に反しても、論理の命ずるところにしたがって、思いがけない結論を得ます。論理は、直観の牢獄から心を解放するガイドです。

 「見る」の弊害がまだ自覚されていないところを見ると、西洋論理学を乗り越えるどころの話ではなく、二千年前と何も変わってないようですね。

……………………
   Re:ホントは?

>相手の著作について、出版自体を否定するような発言はやっぱりどうもなじめませんね。

 出版を否定したつもりではなく、学問の本としての出版を否定しました。

 言論の自由があるといっても、中学生向けの参考書に「三平方の定理は、三角形を描く場所にあたる土地の由来など因果関係が述べられていないので、正しいとは言えない」などと書いてあったらどうですか。出版差し止めですよ。何度も言いますが石飛さんの本はそのレベルです。

 学術書ではなく、エッセイとか、小説とか、詩集とか、宗教書としてならOKでしょう。
 『ブッダ論理学』は、せめて「論理学」という言葉をタイトルから外して再版してほしいと思います。

 ちなみに、9~10月に出版を予定している私の次の本は、かなり硬派の論説調ではありますが、学術書ではありません。学術書には書けない怪しげな主張は、そういう本の中で発表することにしています。それが、原稿料を得る者のマナーであり、倫理ですよ。

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Re;誰の「論理」か? 投稿者:Θ 投稿日: 8月 6日(日)00時52分10秒

人が決めたルールです。
人の知性で元々変化するものであるという前提からあらたなルールを探すだけでしょう。
ブッタも人ですから。
今更、神もないでしょう?
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誰の「論理」か? 投稿者:Σ 投稿日: 8月 6日(日)00時15分13秒

>ただ、あるがままの自然は、どうも「思考の領域にはない」といわれるように、人が決めたルールでは抑えきれない変化相があるのかもしれませんね。ブッタの目にはそのように映っていたのかもしれません。

「思考の領域にない論理」が「ある」とするならば、
そのような「不可思議な論理」を「これは確かに論理だ」と「見付ける知性」とは、
換言すれば、そのように知覚する「思考の領域にはない知性」とは、一体何なのか?
「知性体」なのか?  人の? 或いは、人を超えた?

最高主宰神を否定しながら、一体、どのような回答ができるというのでしょう(笑)

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私的因果の考察 投稿者:Θ 投稿日: 8月 5日(土)20時16分5秒

ブッタ論理学では日常の文脈とでも言うべき体験の世界から因果を「見る」ようですので、抽象化された計算式を因果とは捉えないようです。
私も安易に含意とチャッカを形式の違いで判断したコメントをハムさまにお伝えしたので、誤解を更に深める原因を作った事をおわびします。
ハムさまの因果については、ブッタの因果とは違う因果といったほうがいいのでしょう。
龍樹の「中論」などを見ると、「原因と結果の関係を結果が有る事において、原因を知る。結果が未だ出ていない時には、原因と言う事はできない。」といったことが述べられております。
石飛さんのブッタ論理学の因果についての話は、仏教の因果の考えと合致していると思われます。
また、例で示された、ハムさまの仏教の因果についての解釈は間違っていると思われます。
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善行を行う  ⊃ 善報がある 真
善行を行う  ⊃ 善報がない 偽
善行をしない ⊃ 善報がある 真 ←運のいい奴
善行をしない ⊃ 善報がない 真
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善行を行う事によって、善行の因を積む事ができると仏教では説いておりますが、同じように悪行の因も意図せずとも積まさってしまう事も多く、結果としては単純に善報が現れることがないというのも真なのです。
それでいて、善行の無いところには、善報が全く現れる事ができないと厳しい内容になっています。
だから、仏教の中に運のよい、悪いといった発想を取り入れてしまっては、仏教でいわれる因果を説く必要性はなくなってしまうといえます。

仏教に偶然性はないが、だからといって、必然性もないということでしょう。
もし、2列目を偽とした場合、原因によって未来(結果)は決定されます。
いわいる決定論となるのですが、仏教では決定論となりません。
主体性(行為)にかかわるものが、常に結果(未来)の中に入ってくるようです。
おそらく、これが体験として「見る」過程なのかと思われます。
現実の世界に主体的にかかわろうとする時、「見る」行為がうまれ、その中で原因を探るわけです。
そしてその過程で、結果もかわる。
ブッタ論理学では、現代論理学で命題として普遍的に変わらぬものして示されたものが、時間とともに変化し、有から無へ、また、無から有へと変遷する事を認めています。
したがって、1+1の答えが2であってもよいし、¬2であっても良いとなってしまいます。
これでは、人が決めた決まりが無駄になってしまいます。
ただ、あるがままの自然は、どうも「思考の領域にはない」といわれるように、人が決めたルールでは抑えきれない変化相があるのかもしれませんね。
ブッタの目にはそのように映っていたのかもしれません。
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因果(補) 投稿者:φ 投稿日: 8月 5日(土)15時07分33秒

↓言葉を端折ってしまいましたが、

   丹念な抽象化・形式化を怠ると、「因果関係」のような文脈相対的な複合概念を、丸ごと一網打尽に出来るかのような錯覚に陥る、という意味です。

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因果 投稿者:φ 投稿日: 8月 5日(土)14時26分9秒

ハムさんの異議にも一理あって、
「いろいろ言ってきましたが」φ 投稿日: 8月 1日(火)04時09分57秒
にちょっと言ったように、文脈によって、因果という概念の適切な捉え方は変わります。

目的因の誤謬を論ずる文脈では、私は因果を必要条件の一種として捉えました。(『論理学入門』19節)
 しかし逆に、十分条件として原因を捉えるべき文脈も存在します。雲の種類を特定して、確実に雨を降らせる雨雲に「原因」を絞った場合などがそれですね。(人工雨の場合は雨雲は必要ないので、雨雲という原因は必要条件ではない)

 だから、真理表で因果関係を絞ってしまうのは、そもそも的外れの単純化なのです。文脈を特定すれば別ですが。

 いずれにしても、抽象化・形式化をしない、つまりは「体系的構造」を持たない東洋「論理学」は、論理学とは言えない印象哲学にとどまる、というのが私の「印象」です。

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>それ含意ですよ。 投稿者:ハム 投稿日: 8月 5日(土)13時24分17秒

>だいたい計算をした答えの含意になるのは当然ですが、、これだと因果とはいえませんよね。

計算とその答えは因果関係ではない?

私には、これは因果関係にみえます。
因果とは、ある事柄が以前の事柄の結果だと考えることでしょう。
今回の例では、答えは計算の結果ですよね。

チャッカの誤謬2:因果の意味を変えている。

チャッカなどつくらなくても、論理学の含意で因果を考えることはできると思いますよ。
ちょっとやってみます。

雨雲がでる  ⊃ 雨が降る   真
雨雲がでる  ⊃ 雨が降らない 偽 ←雨雲ですから雨が降るわけです。
雨雲がでない ⊃ 雨が降る   真 ←天気雨
雨雲がでない ⊃ 雨が降らない 真

これでなんら不都合はないと思いますがね。

仏教の因果は善悪が包含されていますよね。

善行を行う  ⊃ 善報がある 真
善行を行う  ⊃ 善報がない 偽
善行をしない ⊃ 善報がある 真 ←運のいい奴
善行をしない ⊃ 善報がない 真

これは我々の実感ともよく合いますよね

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誤解だったようです 投稿者:Θ 投稿日: 8月 5日(土)12時14分59秒

三浦先生
今は時間があまりあまりませんので、端的に。
私のブッタ論理学理解は至らなかったようです。
石飛さんのHPに石飛さん自ら回答を載せております。

Re: ブッダ論理学をめぐる議論の.. - 管理人エム 06/08/05-11:41 No.1496

ブッタ論理学では論理学の対象となるものを限定しています。
1回きりの出来事では判断できないといった所までは、いい読みしてたんですが、残念‥。
理解し咀嚼するまでには至らなかったようです。
現代論理学(西洋論理学)が現実世界と思惟の世界(抽象概念もふくむ)を分けて進んだものを分けずに進むようになるようです。
現代論理学がオールマイティだとして、ブッタ論理学はもともとそれを求めていないようですね。
三浦先生の出された命題に安易に答えてしまっていた事自体が、ブッタ論理学を西洋論理学の範疇で捉えていた証拠です。なるほど、確かに難しいな‥。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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山本 投稿者:一郎 投稿日: 8月 5日(土)01時48分24秒

似非進化論みたいなもの。
1○○
○2○
○○3
1を基準とし2´3´で補完する。
同様に2、3を基準とする、もしくはすべてを包括する
見方もあるんでないかと、当初考えられた。

借金千兆円の巨大組織からお声がかかったのはいいが、内紛に巻き込まれ、
死後の世界のフィールドワークへ旅立つ。
亀田興毅おめでとう。

補足だから、レスはいいっす。

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永井氏関連にいきたかったが、しばらくチャッカか…… 投稿者:φ 投稿日: 8月 5日(土)00時29分24秒

 Re:やり残しの命題
宇宙ステーションの中でも太陽は移動しますよ。太陽を移動させない軌道をとることはほぼ不可能です。
あるいは、宇宙ステーションレベルで考えていいなら、
雲がない 雨が降る   は真です。宇宙コロニーではそうならざるをえません。

因果関係の判別にチャッカが全然使えないことがわかるでしょう?

>暗くならない 雨が降る   真
>お天気雨は雲は有るが暗くはないですよね。 日差しが入りますから

 雲ひとつ無いお天気雨のような状況(そういう場合はあります)を除外して考える程度の石飛さんのアバウトな例に合わせたので、
 暗くならない 雨が降る  は、
 雲がない 雨が降る   と同様、偽と認めるべきでしょう。もし気になるなら、
 「暗くなる」を「雲影がある(雲が日光や月光を遮ってできた影がある)」に変えてもらってもかまいません。
 雲影がある*雨が降る は、因果関係でないにもかかわらず、チャッカが成り立つ例です。

 さて、焼死する前には必ず煙が出ますよね。
「煙が出た」 「焼死した」 は、チャッカによって、因果関係だというのですか?
 それは困りますね。因果でないものを因果としてしまうようでは。やはりチャッカは因果関係を表わせないということです。(煙と焼死が因果関係にないことは認めますね? あくまでチャッカの定義に合わせて「因果関係のはず」などと固執しないように)

 >唾を飲まない 自殺する    真 ←なぜこれが偽に?(睡眠薬のんで眠りながらの死もあるし)

 ↑唾飲みは「自殺する直前に」の必要はありません。
 自殺する以前に唾を飲んだことのない人間はいないでしょう。つまり、唾を飲むことと、自殺との間には、チャッカが成り立つはずです。
 因果関係というのは、直接に連続した事件どうしの間でだけ言える、などとはチャッカは述べていません。(実際それは正しくないし)

 気になるなら、「自殺する」を、「食事する」「競走する」などに置き換えてください。

 あと、次の例がまだ残って今いますよ。Θさんの前の応答は応答になっていません。

    「風邪をひいたこと」が「咳が出ること」の原因である……?
    「航空機事故に遭う」が「死ぬ」の原因である……?

 ともに、チャッカの真理表に合致しないが、明らかに因果関係です。(これも、あくまでチャッカの定義に合わせて「因果関係でないはず」などと固執しないように)

 というわけで、必要条件+時間関係 などというアバウトな基準で因果関係が選別できるはずがないでしょう。
 雲がある*雨が降る
 にしても、雨の原因にならない雲なんていくらでもあります。雲の中でどういう雲が雨の原因となるのか、雲の種類や条件の特定ができなければ意味ない。おおざっぱな「雲」と雨に関係があることくらい、ブッダよりずっと前から人間は知っているのだから。
 ともかく、こんなアバウトな、杜撰な見通しで因果がわかったなどと、安易すぎです。抽象性、形式性といった論理学の本質を読者から隠蔽することになります。読者こそ災難です。

 そう、抽象性が命。
 雲と雨の関係とか、煙と焼死の関係とか、そんな具体的な細部を調べるのが論理学だと本当に思ってるのでしょうか……?

 『ブッダ論理学』の具体的間違いは、8月 1日(火)15時39分31秒に続いて、小出しに明確にしていきますが(あの人たちがひとつでも反論してくれればさらに笑えるんですけどね……)、根本的には、論理学の「抽象」という方法を理解していないことが決定的です。  抽象思考が出来ないことが東洋思想の敗因だったのに、西洋論理学の洗礼を受けた後もまだ学べないとは……。

 5+5=10は、5つのリンゴの味を伝えていないから不十分な等式だ、というのが石飛レベルです。数を抽象しないレベルで議論したければ、数学ではなく、植物学から始めるべきです。同様に、真理値を抽象せずに因果関係や時間を論じたいなら、命題論理学ではなく、時制論理学か物理学か気象学を相手に議論を始めるべきだったのです。
 だからあの本の出発点が全く無意味なのです。マナーが出来てないとはそういう意味です。プロに対して言いにくいことですが、一からやり直しですね……。

     Re:ホントは? は次の機会にまわします。

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それ含意ですよ。 投稿者:Θ 投稿日: 8月 5日(土)00時05分17秒

ハムさま
なにか根本的に含意とチャッカとを間違えていると思いますよ。
チャッカは<1101>ですから
1+1を計算した    * 答えが2になった    真
1+1を計算した    * 答えが2にならなかった 偽←これだと駄目なんですよ。
1+1を計算しなかった * 答えが2になった    真←これだと駄目なんですよ。
1+1を計算しなかった * 答えが2にならなかった 真

だいたい計算をした答えの含意になるのは当然ですが、、これだと因果とはいえませんよね。
チャッカの考えの面白い所は原因がないのに結果がでてはいけないのです。これ結構大事です。
原因が無い時は結果がない。もし結果が出るようであれば、それは原因とは言えないという考えです。
ハムさんのはチャッカでは有りません。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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原因は一つとは限らない 投稿者:ハム 投稿日: 8月 4日(金)23時40分55秒

>具体的なこれではチャッカを因果関係としては認められないという命題があるといいのですが。

そんなのは、いくらでもありそうです。

こんなのどうでしょう。

「1+1を計算した」と「答えが2になった」で考えてみましょう。

1+1を計算した    * 答えが2になった    真
1+1を計算した    * 答えが2にならなかった 偽
1+1を計算しなかった * 答えが2になった    真
1+1を計算しなかった * 答えが2にならなかった 真

「1+1を計算した」ことは、「答えが2になった」原因の一つでしかないですよね。 チャッカの誤りの一つに、原因が一つだと考えていることが挙げられます。

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真理権力説と評価語 投稿者:Σ 投稿日: 8月 4日(金)23時19分31秒

>フリー哲学者、永井俊哉氏は、「真理は人々に認められてこそ真理だ」と考えているため、「真理」を評価語レベルで位置づけているようです。

私自身のこの言葉、ちょっと舌足らずで誤解を生んだ可能性もあるので、ご本人から「そんなこと言っていない」と異論を唱えられないように、書かれたものの一部を提示しておきます。

永井俊哉「真理とは何か」
http://www.nagaitosiya.com/a/truth.html

上記の小論文は簡潔過ぎてわかりにくいのですが・・、
我々がよく耳にする、「思想の自由市場」という考え方は、「思想の自由市場の中での淘汰競争の中で、結局、真理は最後に勝利する」 という、「一つの信仰」に支えられたものです。
これは、理性が、最終的には、「正しい真理を選び取るであろう」という、人間理性への信頼を基礎にした考え方だともいえましょう。
永井俊哉氏は、結局のところ、「思想の自由市場」を肯定し、システム論的に、「長く生き延びる思想こそが最も真理に近いものだ」、という、「市場淘汰という濾過装置による選別法」を、信じて良いものだ、として信仰している、ということのようです。(真理権力説)

そういう意味で、長い間、思想の自由市場で生き延びて「正しいと評価されてきたもの」が真理に近い、というニュアンスだと思います。その意味では、やはり「評価語」のような気がします。

三浦先生が仰るような、 「(真理の)同定法と論理的定義の混同」
が、「真理権力説」自体に内包されているのかどうか、私には俄には識別できません・・。

>ただし、人間原理の説明は間違っていました。

永井俊哉氏とのメール対話の格好の材料になります(笑)。ご指摘、有り難うございます。

>それと、「売春はなぜ悪か」のようなコラムで、「売買春を合法化するとセックスの価値が下がって人口が減り、種の存続が保てない」みたいなことを結論としていて、失笑した記憶があります。因果関係自体が怪しいですが(・・・)

う~む。私は結構、この因果連鎖、「そうだよね」みたく、納得してしまった記憶があります。しかしやっぱり、怪しいですか・・・再考してみます。有り難うございます。

ハムさまへ
コメント有り難うございます。

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ホントは? 投稿者:Θ 投稿日: 8月 4日(金)17時16分39秒

三浦先生
ホントの気持ちはどうなんでしょうね?
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<8月 1日(火)04時09分57秒>のご意見について
「私は、人間原理を整合的に研究する文脈では、因果関係を必要条件の一種(かなり限定された一種)と見るのが適当だ、という立場に立っています。
 他の文脈では、必ずしもそうではないでしょうが、文脈ごとに、適切な因果の概念は客観的に決まるべきものでしょう。
 一回限りの特殊な出来事(たとえばこの宇宙)の原因または理由を考えられない論理は、決定的に不十分だと私は思っています。」
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ブッタ論理学を人間原理を論述する文脈なら認めてもいいと言うことになりますか‥。
旅支度で忙しくしていたので見落としてましたが、三浦先生もお人が悪いですね。
やはり、読めてはいるけど、言い過ぎは許せんということですね。
定義の問題や使い方が現代論理学のそれとは違うという批判は、同じ土壌の論理学の中で通用するとはおもいますが、石飛さんの語り様子ではブッタの論理学は完全に現代論理学の外側ですね。
ただ現代論理学の道具や手法を利用して自分の論理学を語っているだけのように思います。
それなら、それでお借りしますとか、こういう風に使いますからとか説明すればいいものを、それをせずに自分勝手な使い方で論を展開するわけですから、もういい加減にしろ!!状態ですよね。
しかもその上に、現代論理学を批判するわけですから、される側はたまったものじゃありません。
呆れるより他はないという感じでしょうか。
そして感情的になって全否定した後に、フッと気がつくと実は彼女の語りたかった事ってそんな表面の事柄じゃなく、内容もそれほど変じゃない‥それどころか、結構大事な視点を訴えているな。と私の理解の歩みはこんなところです。
先生も解っておられると思いますが、現代論理学の正論を彼女に言っても仕方ないです。中には先生しか知らない事もあるかもしれませんが、大概は彼女も知っていての確信犯ですし、そしてなにより、ブッタ論理学は現代論理学であるだけでなく、西洋論理学ですらないのです。
そんなものは論理学と呼べないと言われたとしても、それは西洋論理学の定義であって外側のブッタ論理学にはその基準は当てはまりませんというに決まっています。
だから論理学の違いを主張し合ってもなにも生まれないし、ただ相手の言う事を否定するだけに終わるのも仕方ないのかと思います。
ブッタ論理学ではQ←Pは認めず、現代論理学ではQ*Pを認めない。それぞれ、同じ真理表の真理値ではあっても表す意味が違うのですから仕方ないのです。違う考えとその表記の仕方が違うものであるのに、同じであると扱えば、それは間違いになります。
先生としては石飛さんのチャッカを必要条件として片づけてしまいたいだろうし、その路線で論を展開されていますが、それではやはり無理があります。
チャッカで主張している全ての内容を先生は必要条件の中に押し込める事ができるのでしょうか。そのような取上げ方で必要条件を語った研究があるというのであれば、それを紹介すればいいのですが、残念ながらアンカリング・スタンダードとして紹介されたチャーチの接続詞も因果を表すものとしては紹介されていないのです。
したがって、この手の「現代論理学のさまざまな道具の正しい使い方はこうである式」の論調では石飛さんには通用しない。もともと、あの本の中では彼女にとっては現代論理学の正しい使い方より、ブッタ論理学として使いやすいやり方を選んだのでしょうから。 そうした形式的な事は現代論理学を学ぶ人には一つ一つが大切ですが、あの本はブッタ論理学のほんですからね。別に彼女の現代論理学の授業の中でこんな使い方はするわけじゃないと思いますしね。
それに「ブッタ論理学」一般書です。現代論理学の解説本でも入門書でもありませんから、あくまでブッタ論理学の本として出しているわけですから、それを知りたい人が買うわけです。現代論理学を知りたい人は先生の「現代論理学入門」を買うでしょう。現代論理学を知りたい人がブッタ論理学を買ったら、買う人の選択ミスでしょう。
ブッタ論理学を知りたい人、仏教の論理に興味がある人が先生の「現代論理学入門」にインド論理学やブッタ論理学が紹介されていないから怒ったとしても、あるいは仏教を現代論理学から否定して書いてあったって怒ったとしても、それはその人のせいでしょう。選択ミスです。それと同様です。
色々な情報が流れていてるのは当たり前です。
一々にあの本は出版すべきじゃない、この本はどこそこが止めるべきだとか言うのであれば、ナチスのように表現の自由を制限して適性図書とか決めるしかないんじゃないでしょうかね。
正直言いますと、石飛さんのめちゃくちゃな現代論理学の批判より、先生のそれを出版してはならない、あるいは、仏教学会が、出版社がどうして認める等の発言を公にする方がよっぽど常識から逸脱しているし、恐ろしい発言だなとも感じます。
まあ、それぞれの感性ですから、ただ同じ一つの発言、表現も色々とり方はあるでしょう。それは本に限らず、こうした掲示板についても言えるわけです。ブーイングもあれば、賛同の声もある。だけどもどのように罵倒してもいいけれども、相手の著作について、出版自体を否定するような発言はやっぱりどうもなじめませんね。
あれでは、石飛さんも対話を拒まざる得ないのでしょう。もう少し本の内容触れた実りある話ができるといいですね。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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やり残しの命題 投稿者:Θ 投稿日: 8月 4日(金)16時36分34秒

三浦先生
ただいま、出張から帰ってきました。
話はもう終わってるかもしれませんが、中途半端のままというのも性分にあわないのでお話させてください。

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<8月 1日(火)00時54分59秒>の命題について

> 「 <1101>に当てはまる2つの命題型はいくらでも持ち出せます。時間順序が先後になっていれば、すべてその二つの出来事には因果関係があるというのでしょうか? まさかそうじゃないでしょう。
 「太陽が移動する」*「秒針が進む」
 「暗くなる」*「雨が降る」
 「煙が出た」*「焼死した」
 「唾を飲む」*「自殺する」
 これらは、私の意見では、<1101>に当てはまっていながら原因結果の関係にないペアです。いろいろ考える余地がありますが、「チャッカ」で因果がわからない実例は他にもいくらでもあるでしょう。必要条件に時間順序を加味しさえすれば因果関係がわかるなどという単純化は、因果という概念をナメていると思いますよ。(εさん方式で厳密化すれば、あるいは解決するかもしれません)」

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たしかにペアだけで判断できないことがあるようですね。
この場合はまさに四つの真偽の関係が成り立つかどうかまで読み込んで、判断するしかないですね。
実際、雨と雲の例として上げている文を読むとそのような過程が書かれています。
具体的に見ると

「太陽が移動する」*「秒針が進む」は偽

太陽が移動する   秒針が進む   真
太陽が移動する   秒針が進まない 真
太陽が移動しない  秒針が進む 真←宇宙ステーションの中でも時計の秒針は進みますよね
太陽が移動しない  秒針が進まない 真←時計が壊れてたり、電池切れになってしまえば秒針は進みません

時計の秒針と地球の自転に因果が有るという風に考える事の方が理解できませんが、なぜ<1101>になると言う例にこれが入ってくるのでしょう??

 「暗くなる」*「雨が降る」<1111>

暗くなる   雨が降る   真 「暗雲たちこめて雨が降る」ありますね。
暗くなる   雨が降らない 真  曇りだけで雨がふらないこともあります。
暗くならない 雨が降る   真  お天気雨は雲は有るが暗くはないですよね。 日差しが入りますから
暗くならない 雨が降らない 真  晴れの時はこれですね。

雨が降ると暗くなるならないは因果因果とは言えませんね。暗くなくても雲が有れば雨が降りますから(お天気雨)、雲と雨は因果と呼べますね。

「煙が出た」*「焼死した」

煙が出た  焼死した     真
煙が出た  焼死しない    真
煙が出ない 焼死した     偽
煙が出ない 焼死しない    真

たしかに<1101>ですが、これは前件と後件の時間差が微妙ですね。焼死という言葉はきつく印象的ですが、いわゆる燃焼と死亡ですよね。ものの燃焼と煙の関係は等値ですが、チャッカ的に考えれば燃焼が先で煙が後になる関係ですね。焼死の燃焼の方を意識してみれば、これは等値関係になっています。
(あくまで一般の経験の範疇の中でのことです。)
また死亡の方を考えると、煙が燃焼と等値であることを考えれば、体が燃焼した事によって死亡したとなりますから、これは因果と言えそうです。

「唾を飲む」*「自殺する」<1111>

唾を飲む   自殺する        真
唾を飲む   自殺しない       真
唾を飲まない 自殺する        真 ←なぜこれが偽に?(睡眠薬のんで眠りながらの死もあるし)
唾を飲まない 自殺しない       真

時間的前後はともかく、何が入ってもいいと私の方から主張しているのであれば、
なぜわざわざ、命題論理学の含意の前件と後件で何が入ってもいいのではないということを先生から確認をとったのでしょう?
チャッカも<1101>の関係に収まる前件と後件で無ければならないし、しかも時間の前後という制約もあるからです。
およそ真理関数とはいえるものではありませんが、真理表を使って命題の真偽は導き出せるでしょう。
含意でいうならば、「関連性にかかわる違和感」というものもあります、チャッカではまさに関連性がとわれるわけですから、違うものを集めても結局<1101>には当てはまりません。不思議な事に‥。
もっと調べればでてくるのでしょうか。
具体的なこれではチャッカを因果関係としては認められないという命題があるといいのですが。
これが見つけようと思うとなかなか、上手く合致できないのです。
うまい命題があれば、チャッカ信仰とか馬鹿げた批判も意味を為さないと思います。
正にチャッカが真理表や命題論理だけでは使えないことの証明になるわけですから、嫌でも引っ込め無ければならないんじゃないかと思います。
しかしながら、先生の命題どれも上手くチャッカの否定はできていませんし、逆に的が外れているようにすら思えてしまいます。
もしかすると、上の例がほんとは因果関係がないと先生が判断された方法自体がまさにチャッカによる判断ではないのでしょうか。
チャッカは特別な方法というより、意識はしていないものの日常生活で普通に使っている論理的思考のなぞりといえます。
ただし第四列めを見忘れるわけです。無い事が有るという風には考えにくくなってきています。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:真理について 投稿者:φ 投稿日: 8月 4日(金)00時37分30秒

永井俊哉氏は、真理の論理的定義と、真理の実際の同定法を混同してるんですかね。
真理を実際に同定するには、「人々(正確には、当該分野の権威の大多数)に認められるもの」とするしかないのが普通ですが、論理的定義は、真理とはもっと客観的な基準でなければなりません。同定法と論理的定義の混同は、哲学の初心者がよく犯す誤りですね。

 ただ、永井俊哉氏のコラムは以前ちょっと読みましたが、おおむね、まともな学者のようです。
 ただし、人間原理の説明は間違っていました。(巷の啓蒙書よりはだいぶマシでしたが)
 それと、「売春はなぜ悪か」のようなコラムで、「売買春を合法化するとセックスの価値が下がって人口が減り、種の存続が保てない」みたいなことを結論としていて、失笑した記憶があります。
 因果関係自体が怪しいですが(ブッダ論理学はどう教えてくれますかね?)、認めたとしても、同様に、マスターベーションやAVや避妊具や風俗店全般をも非合法化しなきゃいけないと思うんですけどね。

 ま、いろんな分野について一人で発言する人がいるのはいいことです。

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真理について 投稿者:ハム 投稿日: 8月 3日(木)23時38分54秒

>「真理は人々に認められてこそ真理だ」

これって、真理ですか?
真理とは絶対的なもので相対的なものではないはずです。
相対的な真理など、心理にしかすぎないと思うのですが。

>誰からも認められずとも、神のみから認められれば真理、或いは神との一致という事実をもって「真理」とするので、・・・

これの方が私の真理観と同じです。
ただ神ということではなく論理ということだと思います。
すなわち、「論理のみから認められれば真理、或いは論理との一致という事実をもって「真理」とするので、」ということです。

どうも永井という人の言うことには違和感があります。

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徒然 投稿者:Σ 投稿日: 8月 3日(木)22時11分4秒

フリー哲学者、永井俊哉氏は、「真理は人々に認められてこそ真理だ」と考えているため、「真理」を評価語レベルで位置づけているようです。私のような(条件付き)素朴実在論的な一元哲学論者からすれば、誰からも認められずとも、神のみから認められれば真理、或いは神との一致という事実をもって「真理」とするので、真理とは、評価語ではなく、記述語の範疇に入るような気がします。
老荘思想の「無」が記述語の範疇であるならば・・・です。

>出発点に勘違いがあると、いくら勉強しても、トンデモの方向に行くだけのようですか……。

本当に同感です。真理表の読み方からして勘違いのようで・・・(憫笑)。

>「プロ」という言葉はやはり評価語として使うのがよさそうか、とも思ったりします。(「哲学」「芸術」「宗教」等々という言葉も。)

私もそう思います。
世間の評価なくしては、それで生活できるに十分なだけのお金を稼ぐ展開(プロ)にはならないと思います。生前、まったく認められなかったゴッホやニーチェは、後世、画家や哲学者と言われますが、生前、彼らを世間はそのようには評価しませんでした。
プロ野球選手やボクサー、サッカー選手なども、お金が取れるのは、高評価あってのものですから、やはり、「評価語」である比重が90%以上かな、と思ったりします。

>事実としてプロである人の中には、アマチュアより思考能力の乏しい者はいくらでもおるわけです。

そうなんですか!  なんたるちあ、サンタルチア!

>私は、『ブッダ論理学』は、明らかに担当編集者に罪があると思います。

同感です。ただ、二十冊以上の書籍をだしている宮元啓一教授の紹介で・・という可能性もありますから、その場合には、紹介者の責任も大いに問われるべきだと思っております。

>擬似科学の典型的症状で

超同感です。

>「冒涜」といったカルト語で

私も論理学的場面では「冒とく」という言葉は慎むようにします。
たしかに、彼らは「なれ合って」いますね。
宮元啓一教授は思考停止を「エポケー」と言って嫌っていますが、ブッダ論理学教徒たちは、エポケー的症状だと思います。

>名詞として、絶対的に「思考の自覚ができてない」という記述語でした。(言外に諦めの意も込められています)

「思考の自覚」とは良い言葉ですね。私は既に、95%以上、諦めを感じてはいますが、細々と対話は続けて行こうかと・・。(笑)。

つまらぬ逐語的レスでした。これへの一々のレスは不要です。

まことに、色々と、心から有り難うございます。

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注記(「トンデモ」) 投稿者:φ 投稿日: 8月 3日(木)02時57分56秒

8月 1日(火)01時07分10秒
で、直観主義論理や量子論理を「トンデモな」と書いておりました。その形容詞は評価語ですが、必ずしも悪い意味ではありません。(歓迎の意も込められています)

↓Re:絶対議論に
の「トンデモ」は、名詞として、絶対的に「思考の自覚ができてない」という記述語でした。(言外に諦めの意も込められています)

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Re:絶対議論に 投稿者:φ 投稿日: 8月 3日(木)01時32分46秒

 まあ、「プロ」というのは、学術的な講義もしくは書き物で金銭を定期的に受け取っている人のことを指す「記述的な言葉」でして、「評価的な言葉」ではありませんでしたので。事実としてプロである人の中には、アマチュアより思考能力の乏しい者はいくらでもおるわけです。
 私も「プロ」として(事実として学術で給料・原稿料を受け取っている者として)アマチュアのすぐれた学徒がたに嘲笑されることのないよう、精進したいと思っております。

 それにしても、「7月31日(月)16時23分」付近で私が例を出した、因果関係候補の判別を、真理関数+時間関係だけで解決できたら、先人たちの苦労はありませんね。
 安易に「これで全て解決」式の物言いは、「アインシュタインは(現代論理学は)間違っていた」風の権威否定の突っ張りもそうですが、トンデモ本や擬似科学の典型的症状で、「封印」「冒涜」といったカルト語での馴れ合いもそうですが、心配です。

 私は、『ブッダ論理学』は、明らかに担当編集者に罪があると思います。専門知識云々以前に普通の感覚さえあれば「おかしいな……」と感じられる表現があちこちにあるのに、見逃しているわけですから。

 いや、曲がりなりにも私の本を読んでくれていて、実際よく読んでいる形跡が端々に見えるものだから、なおさら私は我が事として心配している(ふりをせざるをえない)のですよ、あの人のことを。というよりあの人の読者のことを。

 出発点に勘違いがあると、いくら勉強しても、トンデモの方向に行くだけのようですか……。
 「プロ」という言葉はやはり評価語として使うのがよさそうか、とも思ったりします。  (「哲学」「芸術」「宗教」等々という言葉も。)

 ――ラッセルのパラドクスの解決というのは、見てみると、「パラドクスだと感じられなくなる見方を工夫する」ということみたいですね。真っ当なやり方だと思います。

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絶対議論に負けない方便士 投稿者:Σ 投稿日: 8月 2日(水)22時03分0秒

三浦先生へ

お返事有り難うございます。

>ただ、笑ってばかりいられないのは、占い師の掲示板ではなくて、学問のプロであるはずの管理人の掲示板だということですね。

学問のプロと言っても、石飛女史は、インド哲学、それも仏教外道の一派の「神の存在証明」などの論証を研究していたわけですから、これ即ち、「インド哲学史の中の子供論理の一派」の研究者であった、ということですね。
そういう「子供論理研究」のノリそのままに、突然、龍樹研究・仏教研究に鞍替えして、深遠崇高なる仏教を、そういう「子供論理」で解析しよう、解析できる、できた、と思い込むところが、何とも稚拙な勘違いであり、大人がそれをすれば、真理に対する「不敬な冒とく」になると思っております。
しかし彼女は「絶対はずれがない、当たり前の論理」を主張しているがゆえに、自信満々であり、ゆえに、無敵の驕慢の極致なので、自己洗脳による、荒木広報部長状態だといえます。
それゆえ、、三浦先生から何を指摘されても、
「三浦先生が恥をかくだけです」という台詞を繰り返しております。頭がくらくらします(笑)。
彼女曰く、無敵の龍樹論理を会得したから、議論では決して負けない、のだそうです(笑)。

国府台には例の病院がありますが・・・。いえ、これ以上は申しません。(苦笑)

>またひとつ『ブッダ論理学』の明白な間違いを提示する予定です。(単発にしたほうがわかりやすいですよね)

是非是非、お願い申し上げます。楽しみにしております。みんなで突っ込み続ければ、いつか気付くかもしれません。

私も、ヴィトゲンシュタインの言説を例にだしつつ、「論理だけで倫理は語れない」ことを彼女に伝えたいと思っております。

(追伸)
ヤフー掲示板で、「そら」さんという人が、「ラッセルのパラドックス」を自分は解決した、と言い、その解決過程を順次、自己検証しながらアップして行く試みをしています。勿論、途中で破綻するかも、とは述べていますが、さてどうなりますか、これからの論述が楽しみです。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=552019921&tid=a5ia5ca5bba5ka5qa5ia5ia5afa59a4n2r7h&sid=552019921&mid=2

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Re:絶対はずれない占い師 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)23時28分14秒

 いえいえΣさん、私は、あの掲示板の存在自体は楽しくて、いいと思いますけれどね。笑えるし。
 ただ、笑ってばかりいられないのは、占い師の掲示板ではなくて、学問のプロであるはずの管理人の掲示板だということですね。

 誤解してほしくないのは、私が

8月 1日(火)15時39分31秒 決定的批判のアンカリング・スタンダード ⊂、←

で述べたことは、チャーチという論理学者が ⊂ という接続詞を使っている、という歴史的トリビアを挙げて、石飛さんの無知をあげつらったのではありません。
 どこかで3の倍数に名を付けた数学者がいるかもしれません。そんなことを知らなくても、数学徒として恥ではないでしょう。同様に、⊂ を知らなくたって論理学の学識に全然キズは付きません。

 問題は、その「恥でない程度の知識」ということなのです。
 ⊂という接続詞はたしかに使われているが、そんなものはあってもなくても、論理学の教科書にあえて書かれない「トリビア」だと知ってほしかったのです。
 トリビアと、論理の本質とを区別せず(できず?)、表層の言語を捉えて「真理表には穴がある」と鬼の首を取ったように騒ぎ立てるのは、どう見てもプロの流儀ではないからです。流儀というものは、部分だけでなく、全体に関わります。つまり、あの頁前後の問題にとどまらないのです。

 単に哲学好きの隠居さんに対してであれば、私も、和気藹々と語りましょう。しかし、石飛さんは、教壇で学生を教え、著書も公刊しているプロですよ。プロに対しては、「読者や学生に対して責任を感じないのですか?」と本気で詰め寄るのは、こちらもプロとして当然のことなのです。

 プロの流儀でやってほしいものです。私は、ウソを真に受けてしまう、そして論理の本質と表層の区別を誤る読者のことを心配しているのです。

 さて、
 決定的批判のアンカリング・スタンダード〈その2〉は、ちかぢか、
 例の宿題、
 ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)

 の解答として、
 またひとつ『ブッダ論理学』の明白な間違いを提示する予定です。(単発にしたほうがわかりやすいですよね)

 笑える掲示板には相変わらず期待してますんで、Σさんも大いにあおり立ててやってください。あちらの全てのかたがたも、そろそろ覚醒の潮時なんですけれどねえ……。

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絶対はずれない占い師 投稿者:Σ 投稿日: 8月 1日(火)22時01分20秒

三浦先生の「7月31日(月)16痔23分」投稿の解説は、まさに核心をズバッと突いた分析だと思いますし、その内容も、私にでもよく理解できます。まことに、拍手喝采したいと思います。これまで、喉に突き刺さっていた小骨が取れたような、すっきり爽快な気分です。
石飛女史の一番の論理学的侍従がここに乗り込んで来て、三浦先生によって撃沈された事(但し、ご本人はそう思っていない模様・憫笑)は、いつか、きっと、マインド・コントロールされているあちらサイドの人々にも、徐々に良い影響を与えると考えます。

前から感じていたのですが、石飛女史と対話して思うのは、彼女は、「排中律を利用する、絶対にハズレない占い師」、のようなことを考えているだけなのではないか、と。(笑) (例)
「絶対はずれない占い師」、曰く
◆どれどれ、あなたは、結婚できるか、できないか、どちらかですね。あなたが望む方向になるように日々頑張りましょうね。
◆どれどれ、あなたは、良い会社に就職できるか、できないか、どちらかですね。人生常に前向きに生きましょうね。
◆あなたは、宝くじに当たるか、当たらないか、どちらかですね。でも、とにかく買わなきゃね。
◆あなたは、悟れるか、悟れないか、どちらかですね。困難だからこそ頑張りましょう。

◆明日、雨が降るか、降らないか、どちらかね。折りたたみ傘を携帯しましょう。
◆ブッダの論理を学びなさい。あなたが修行する時、悟れるか、悟れないか、どちらかです。後者の方がずっと可能性は高いのですが、その方が悟れることが貴重で価値あることになります。さあ、煩悩から解脱するため、因果の論理を学ぶのです!

『ブッダ論理学』を読むと、石飛女史は、さあ、この調子で、みんな、どんどん因果を語りましょう、と述べているように見えます。

こうした排中律の恒真式を利用した因果の言明は、実に内容空虚ですね。
それに、その主張から、彼女が、ブッダの「苦の消滅」を目指す因果連鎖の截断法を、どう解き明かしているのか? という目で調べても、これについても、何も語っていないように思います。
その意味でも--つまり、仏教のダルマという意味--でも、内容空虚だと思います。

さらには、石飛女史の取り巻き衆の、「我の強さ」もすさまじい。
彼女の「ブッダ論理学」程度のロジックでは、彼らの恐るべき煩悩たる「驕慢」を一つも破壊できない、ということは、既に実証されてしまったようなものですね。

三浦先生には心より感謝申し上げます。

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決定的批判のアンカリング・スタンダード ⊂、← 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)15時39分31秒

 F.Nakajimaさん。
 そうですね、ダラダラ批判を続けていても、あちらは「水と油」と逃げて議論しようとしませんから、(議論するための論理学なのに)、  省エネのため、ここで、 【決定的な基準となる「間違い」をひとつだけ】指摘して、(これまでも散々やってきましたが、改めて「ひとつ」に絞るのがよさそうです)、
 【批判のアンカリング】としたいと思います。
 ダマサれている気の毒な読者を救済するさいに、ご自由にお使いください。

 p.43から引用
「命題論理学の演繹的な推論の中には、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない。したがって、世界のできごとの中でこの接続詞に対応していることがらは語ることができない」

 ↑ここの、「したがって」が致命的であること(論理学を理解していない証しであること)はだいぶ前に無宗ださんに述べました。  もうひとつの、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない については、「必要条件」というポピュラーな言葉がある、と申してきましたが、「それは接続詞ではない」という言い逃れを封じるために、では次のような事実を挙げておきます。

 ルドルフ・カルナップやアロンゾ・チャーチは、すべての真理関数に記号もしくは名称を付与しようとしました。チャーチによると、【真理表6】は、含意の逆なので、P⊂Q の真理表とされています。(ChurchのIntroduction to Mathematical Logicなど) P←Q と書く人もいます。
 日本語で読めるものとしては、北欧の学者3人が書いた『日常言語の論理学』(産業図書)で、同値を、⊂と⊃を重ねて書く記法を紹介しています。他にも⊂や←を使った本はあるでしょう。

 つまり、現代論理学の中に、【真理表6】で定義される接続詞は存在しない、というのは、事実として、間違いです。あまり使われないとはいえ、⊂や←という接続詞があるからです。
 慣用的に、⊃∨∧≡~が便宜のため使われてきただけで(十六個全部使うと煩雑になるし、還元的な論理の趣旨にも合わないから)、もちろんその気になれば、⊂や←を使うこともできるのです。(使ったからといって、別にどうという重大な「存在論的変化」などありません)

 念のため、時間の話(現代論理学の1つめの「語ることのできないもの」として)は、p.40までです。p.41以降は(現代論理学の2つめの「語ることのできないもの」として)、「真理関数」の話をしていることが前提とされています。【真理表6】は真理関数なのです。

 この間違いを突きつけても納得しない読者は、よほど重症で、西洋とか東洋とかいう以前に、論理という以前に、人間としての判断力が欠如していると言うべきでしょう。

 私としては、⊂←をさしあたり、『ブッダ論理学』批判のわかりやすいスタンダード・アンカリングとさせていただきます。どうぞ使ってください。

 ただ、こういう明らかな事実の間違いを、石飛さん御本人に突きつけても、どうせ「存在論が違うので」とお逃げになるのでしょうね(憫笑)……。

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智について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 8月 1日(火)14時42分45秒

「知の欺瞞」やら「ウンコな議論」の実例としてまたとないサンプル、と言えるでしょう。自分が何を言っているのかを「bullsit」化して他人にはわからないようにしているだけです。

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チャッカの誤り 投稿者:ハム 投稿日: 8月 1日(火)13時00分13秒

因果というものが、「または」「かつ」「ならば」などと同列に扱える概念だという考え方には誤りがあります。

例えば、
万有引力法則は、加算や減算と同列に扱えませんね。
また、
自動車や飛行機は、鉄やアルミと同列に並べられません。
さらに、
カツ丼やナポリタンは、米や小麦と同列に並べられません。
さらにさらに、
論考と思いつき。UFOと三輪車。恋愛と細胞分裂。・・・・・

きりがないのでやめますが、
要するに、より単純なものとより複雑なものを同列に並べて同じ論考をする愚を犯しているのです。

チャッカ信者でも、恋愛と細胞分裂が同列に扱えるとは思わないでしょう。

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矮小化?2 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)11時21分28秒

石飛さんの本では「有」の立場を定義づけて批判している。
宇宙のはじまりについて語れないのは、ブッタ論理学の仕様です。
形而上学的論議には「無記」である。
思惟の世界が現実のあるがままを矮小化するのではないか。と個人的には思う。
あるがままに見た現実から認識論からの論議がなされるわけです。
思惟の世界での比較では交わる事はないでしょう。
そろそろ、行かなければなりません。あとは後日に
ありがとうございました。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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矮小化? 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)11時09分39秒

「何かが存在するところから話がはじまるのであって、存在しないものは語れない。何もないところかあら何かが存在するようになることはない。言い換えれば、存在と非存在は相容れない。だからある命題Pとその否定¬Pとは両立しないと言える。アリストテレスの矛盾律¬(P∧¬P)と排中律P∨¬Pが示すとおりである。
二つめ、時間を語れないということ。「有」という立場をとると、存在は永遠である。有るものは有り続け、なくなることはない。時間は本質的に必要ないのである。命題Pが主張できるなら、それは永遠にPと主張できる。これは、同一律、P⊃Pが示すとおりである。
三つ~(略)~因果関係を説くことができないということ。因果関係は、原因は結果に先行するという時間を含む関係であって、「無」から「有」へ、「有」から「無」へとめぐることによって説明される関係だからである。」
p.72
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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いろいろ言ってきましたが 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)04時09分57秒

 (現代)論理学の曲解ということ以上に、因果関係という概念が矮小化されることにも私は危惧を抱いているからです。
 「西洋論理学は「有」の立場に立っている」といった、陳腐な決まり文句も要注意でしょうね。
 「有」の立場、とは何かを定義しないで、無内容なレッテルで一般化すると偏見に自らが縛られるだけです。紋切り型の表現はなるべく捨てましょう。

 因果という概念は、きわめて複雑です。論者によって、そして文脈によってかなりバリエーションがあります。
 因果関係を、必要条件でなく十分条件の一種と見なす見方も根強いのです。
 簡略には、私の『論理学入門』第19節をご参照いただければ。
 そこに書きましたが、私は、人間原理を整合的に研究する文脈では、因果関係を必要条件の一種(かなり限定された一種)と見るのが適当だ、という立場に立っています。
 他の文脈では、必ずしもそうではないでしょうが、文脈ごとに、適切な因果の概念は客観的に決まるべきものでしょう。

 一回限りの特殊な出来事(たとえばこの宇宙)の原因または理由を考えられない論理は、決定的に不十分だと私は思っています。

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(無題) 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時25分25秒

すいません、一文ずつ区切ってもだめでした。
残りは後日にします。
明日から出張なのですいません。
でもなんで、この文は書き込めるの??

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なんか 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時22分33秒

まともに文がながれません

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テスト3 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時20分43秒

もちろん、かの本には真理関数であるというのと同じようにそんなことも書かれてはおりません。
想像だと言われればそうなのですが、しかし、そうでないかと思われる内容は後半に集中して書かれています。

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題名が悪いのかな 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時17分58秒

個人的には、生きてゆく上での自分一回限りの出来事の原因・結果の究明に応用できない「公式」に対し、どれほどの人が「西洋論理学にない魅力」を感じられるのか、疑問です。
「原爆が投下された」原因や「A級戦犯が裁かれた」原因として何が当てはまり何が当てはまらないのか、判別できないような「公式」は有り難くもなんともないのですが……。

そうも言えるかもしれませんが、一回限りの出来事で因果関係を証明してしまう怖さもあると思います。
勿論「だからこそ、論理学的に間違いがないようにする」と言われるかもしれませんが‥。
であるなら、なおさら、あの本の現代論理学の基礎である命題論理学においてすら石飛さんの主張している「有は有としてありつづけ、無は有の否定としてだけ扱われる」西洋の存在論の精神的背骨として頑と存在していることに対する問題は意味を持ってくるように思います。
 時間が語れないということも、刻々と有と無を繰り返し変遷している現実の事象を先生も言われるように命題論理学では変化しないものとして命題が無数に立てられてしまうことをあえて、命題として揶揄しているとも読めませんか、龍樹指向ならなりそうなことなんですが‥。

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てすと2 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時16分56秒

φ先生

だめです。
でも一応再度かきこみしてみますが、先生の論議が先に行っちゃっているので、戻りにくいですね。

惑星がなければ知的生命はおらず、時計など作られようがない のに対して、
天気雨や人工雨や大気圏外からの雨はいくらでも考えられる のではないでしょうか。
まあどちらも「常識的には」<1101>に当てはまる命題型ですけれどね。

そんなSFまがいな事考えてません。
ただ惑星が止まっても、時計は動くし、
惑星がまわっても、時計はとまるので
因果はないとおもっただけです。

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テスト 投稿者:Θ 投稿日: 8月 1日(火)01時08分51秒

φ先生なぜか、その2をなんども投稿できませんでした。
何故これが通るのか、、わかりません、、

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 さっきエラーで削除した分です。 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)01時07分10秒

 >Θさん
 そうですね、たしかに穏やかにいかにゃならんですね。
 もともと私も、昨年に石飛さん御本人に対して直接述べた以外は、公に『ブッダ論理学』を批判する気など毛頭ありませんでした((無題)でεさんが言ってるのと同じ理由で)。
 しかし、最近あちらの掲示板を見たところ、あの本を真に受けて「これが(現代)論理学か」と思ってる読者がいるらしいと知り、そのありさまが気の毒になったからです、私がここであえて発熱しているのは。(九割以上演技なんで気になさらず)

 とにかく、「現代論理学に打撃を与えるものを「封印」しようとしている」などという陰謀説まがいの談話は勘弁してほしいと思いました。
 昨年、石飛さんから「現代論理学を批判した」と予告をいただいたとき、私は「それは楽しみです」と本当にほくほくしていたのです。非標準論理の有力候補がまた増えるかと。
 ブッダ論理学が何物であるにせよ、それよりはるかにエキゾチックでトンデモな、直観主義論理とか量子論理とか、ブッとんだ体系を内に含んで共存させている現代論理学が、なんでブッダごときに動じますか。

 もっと驚かせて脅かしてくださいよ!

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たしかにエラーが出ますね、どうしたんだろうi 投稿者:φ 投稿日: 8月 1日(火)00時54分59秒

> εさん >Θさん
 因果法則がそうすっきりいけばよいのですが……、いずれにしても述語論理学ですね。

ところで、
p.64~p.65?
 時間順序が先後になっている<1101>の命題型ペアということですよね。
 それで満足できるというなら、何も言うことはありませんが……。

もうひとつ、
「雲がある」*「雨が降る」  を<1101>に当てはまると認めて、
「太陽が移動する」*「時計の針が進む」 これは<1101>に当てはまると認めない

 とはなんだかえらくバランスを欠いてやしませんか。
 惑星がなければ知的生命はおらず、時計など作られようがない のに対して、
 天気雨や人工雨や大気圏外からの雨はいくらでも考えられる のではないでしょうか。
 まあどちらも「常識的には」<1101>に当てはまる命題型ですけれどね。

 <1101>に当てはまる2つの命題型はいくらでも持ち出せます。時間順序が先後になっていれば、すべてその二つの出来事には因果関係があるというのでしょうか? まさかそうじゃないでしょう。

 「太陽が移動する」*「秒針が進む」
 「暗くなる」*「雨が降る」
 「煙が出た」*「焼死した」
 「唾を飲む」*「自殺する」

 これらは、私の意見では、<1101>に当てはまっていながら原因結果の関係にないペアです。いろいろ考える余地がありますが、「チャッカ」で因果がわからない実例は他にもいくらでもあるでしょう。必要条件に時間順序を加味しさえすれば因果関係がわかるなどという単純化は、因果という概念をナメていると思いますよ。(εさん方式で厳密化すれば、あるいは解決するかもしれません)

 それで、話は戻りますが、

 ★ブッダの公式は、一回限りの出来事や、少数回しか発生しない出来事については、原因の発見に無力である

 が正しいとすれば(確認:一回限りの出来事にはチャッカの真理表を全列適用できないからですね)、私にとって、ブッダはますます無用の存在かもしれません。
というのも、目下の研究テーマは「人間原理」で、最近出した『ゼロからの論証』も後半すべてその議論に費やしましたが、人間原理は、この宇宙という「たった一回限りの」出来事がなぜ知的生命を宿せたのか、その原因もしくは理由を追究する思索だからです。
 雲と雨の一般論に終始している「論理学」では、旧式の科学と同じで、人間原理の問題意識にはほど遠いと言わざるをえません……。

 チョイ長めの連載が開始間近なので、こうやって長文メモを書きながら考えを整えてます。

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 8月 1日(火)00時36分1秒

Pの実例が時刻t2に起らないとき、どんな時刻t2かつt1<t2なるものに対しても

Pの実例が時刻t1に起らないとき、任意の時刻t2で、t1<t2となるものに対し、

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チャッカの謎 投稿者:ε 投稿日: 7月31日(月)23時58分34秒

肝心のブッダ論理学の本がどこかへ行ってしまったのですが、こちらやマニカナ掲示板を見ているうちに、石飛さんが言う因果とは因果法則のことではないかと思いつきました。

”あれ(P)があるときこれ(Q)があり、あれがないときこれがない”というのをそのまま解釈すると、
P,Qは出来事からなるあるクラスで、内包的に概念化できるものであり
Pの実例が時刻t1に起こる時、ある時刻t2があってt1<t2かつ、時刻t2にQの実例が起る
Pの実例が時刻t2に起らないとき、どんな時刻t2かつt1<t2なるものに対しても、時刻t2に起るQの実例はない
とでもなるのでしょうか?
これが時制論理などで形式化できるのかどうかよくはわかりませんが・・・・

いずれにしろ、これは”法則”の形式化であるような気がします。

ブッダはたとえば”悪いことをすれば報いがあるぞ”というようなことが言いたかったのではないでしょうか。これは正しいかどうかは別にして、ひとつの宗教的、倫理的法則でしょう。

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テスト 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)22時28分43秒

その2がおくれません。テストです。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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ブッタ論理学の私的理解(その1 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)21時18分33秒

φ 先生
長文のレスありがとうございます
そして、論理学のお話なんですから、もう少し穏やかにいきましょうよ。
ご紹介のp.65ですけども、
やはり、現代論理学の真理関数と同じとは書かれてはおりませんね。
石飛さんも意図的に避けているじゃないでしょうか。
また、真理表についても前回いったような使い方をしている事も十分に読み取れます。

「「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ内容を持っており、なおかつ、それを簡潔に示したという点ではよりすぐれている」

と、この表現もこの一文だけ取り出せば、先生が言われるようにも読めますが、前後の文脈からすると、現代論理学の真理表の読み方とまったく同じ内容を持っていると主張している箇所だとは思えません。

嘘といい加減ではかなり違いますが、先生がそう思われるということは誤解を招く箇所が多々あるのでしょう。
ただ、石飛さんは恣意的にやっているようにも感じます。
歴史と伝統を継承している現代論理学にかまってほしいのではないでしょうか。
目くじら立てずに、胸を貸してあげればいいんじゃないでしょうか。
石飛さんとしては真理関数としてチャッカを扱うと言う宣言もないし、また最初の方には帰納論理と演繹論理を牛刀でばっさり現代論理学を分けちゃってますしね。意味論や統語論の使い分け、命題論理学と現代論理学を微妙に使い分けて言ってますね。

マナーがなっていないというのはそうかもしれませんね。(笑)
しかし、16通りというのは2値論理で考えれば、2項で扱えばわざわざ論理学を引き合いに出さなくても良かったといえば良かったんでしょうが、ブッタ論理学を語る為に西洋の論理学との違いを明確にしたかったんじゃないでしょうか。実際、命題論理学をちょっと変えれば因果関係が扱えるとも主張してませんしね。
彼女自身、「方便心論」を読む為に現代論理学が必要であったと明かしているわけですから、現代論理学あってのブッタ論理学が生まれたという位置づけは基なんじゃないでしょうか。
確かに先生が言われる現代論理学は駄目だいう主張は目に付きますが、それよりむしろ、現代論理学の置き忘れの無の哲学の意義の重大さに気がつけよって警鐘の為の方便のつもりなんじゃないかと思います。
70p~71Pには先生の『論理学入門』から存在論的考察が紹介されてますね。
逆に言うと、石飛さんは先生には解ってもらえると思ったのではないかと踏んでいたのだと思いますよ。

>あの本には何の判別法も書かれていないので、私は嘲笑するしかないのです。

なぜでしょう。書かれいるとおもいますよ。
p.64~p.65ですね。
4列目の「これがないときあれがない」が成り立つかどうかで判別する旨が書いて有りますね。

「雲がある」*「雨が降る」
これは例題でもあるので、因果でいいんじゃないですか。
「夏になる」*「夏服になる」
単純に夏にならなければ、夏服にならないが偽であるので、因果関係とは言えないと思います。
3列目で考えれば「夏にならない」*「夏服になる」これは‥真ですね。
これでも因果関係ではなく、相関関係なんでしょうね。
「太陽が移動する」*「時計の針が進む」
太陽が移動しないことは現実には起こったら大変ですね。
でも、恒星の周りを回るという運動がある惑星がなければ、時計の針が進まないというふうに読み取れば、それは偽になるのでそれも因果とはいえませんね。

「風邪をひいたこと」が「咳が出ること」の原因である……?
「航空機事故に遭う」が「死ぬ」の原因である……?

これらはまさに四列目が偽になりますから、因果ではないですね。
まさに、ここにはブッタ論理学の発展の可能性がみえますね。
正確には量子に登場していただかないと一般的な因果として説明付かないですね。
ただ、一般的と先生が言われる因果関係は特定の咳や特定の死に対する説明を求めた場合の事ですよね。
全ての咳の原因をすべて風邪のせいにするするわけにはいきませんし、全ての死の原因を航空機事故にするわけにもいきません。
そういう風に全称量化子をつけなければならないことであればなおさら、先の2つには因果関係があるとはいえないとなるのは、これも一般的な因果として認められるのではないでしょうか。
一般的にはそれを理解して特定の事柄の原因を述べたものですから、ブッタの論理学で全ての事柄を否定したとしても矛盾はないのではないかとおもわれます。
ただ、先生が言われるように、さらにブッタ論理学うまく語れるようにしていかないと、いけないかもしれませんね。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:感想 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)16時23分55秒

 真理関数でないならそれでかまわないのですが、『ブッダ論理学』のp.65には、こう書いてあるのですよ。(他の部分にも類似記述多数)

 「「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ内容を持っており、なおかつ、それを簡潔に示したという点ではよりすぐれている」

 違うなら違うで、「同じ内容」などとウソを書いてはいけませんね。そういういい加減な表現があまりに多いのですよ、あの本は。真面目で頭のいい読者ほど大混乱でしょう。指摘されてあとから「いや、あれはこういう意味でした」ともともと書かれてないことを小刻みに付け加えねばならないような本は、失格です。

 (無題) でε さんが述べているように、因果論をやりたいなら、はじめから(西洋の)形而上学を引き合いに出さなければ、意味がありません。あのままだと、読者は、命題論理学をちょっと変えれば因果関係が扱えるかのように誤解するでしょう。あの本によれば、なにせ真理表に穴があるというのは16通りのうち一箇所だけだそうだから(爆)。
 「必要条件」という言葉ひとつ出てこないし、現代論理学の理解以前に、万人共通の論述マナーがなっていないのですよ、『ブッダ論理学』という本は。

 で、非真理関数ということでもいいのですが、2つ問題があります。
 1つは、あの本では、「時間の前後関係を入れる」ということ以外、必要条件とチャッカの違いが書かれていません。(繰り返しますが、前後関係が入ってない点ではすべての真理表がそうなのに、必要条件についてだけ「穴」と言うのは読者に対し無責任きわまりない)。
 前後関係を入れて、次の2つを比べましょう。

 ★  「雲がある」*「雨が降る」
 「夏になる」*「夏服になる」
 「太陽が移動する」*「時計の針が進む」

 どれもチャッカの真理表に合致しているわけですが(お天気雨とかいろいろ、本当は合致しませんが、あの本はそのあたり無視しているので、お天気雨問題はあとで)、どれが因果関係で、どれが違うのか。別な文例をいくつも出して調べてください。
 ブッダ論理学は「因果関係を発見する」のに使えると断定されていますから、チャッカの真理表によって、因果関係とそうでないものを判別できるはずです。
 あの本には何の判別法も書かれていないので、私は嘲笑するしかないのです。
 また、逆に、チャッカの真理表に合致しないのに、因果関係有りと感じられるものについてはどうでしょう。ブッダの公式でどう説明するのか。

 ★  「風邪をひいたこと」が「咳が出ること」の原因である……?
    「航空機事故に遭う」が「死ぬ」の原因である……?

 風邪をひかなくても咳くらい出ますけれど、病気と症状の因果関係は一般に認められています。これはチャッカの真理表から逸脱しています。ブッダはどう説明するのか。

 上の問題は、「咳が出る」「死ぬ」をあまりに広く捉えすぎているからだ、と反論されるかもしれません。しかし、広く捉えたがったのはΘさんですよね。「繰り返し可能な現象」について言いたいのだと(あの本自体がそういう文例ばかりでしたね)。ここで2つめの問題になります。
 2つめの問題。「繰り返し可能な現象」を表わすのは、命題ではなく、命題型です。
 つまり、いろいろな時刻の、いろいろな場所での、雨降りと雲の出方を述べる無数の命題がいっぺんに述べられています。
 だから、「一つの記号に一つの命題を代入すれば、その記号は一貫して同じ命題を入れるという規則があります」という石飛さんの発言とは矛盾し、PやQをメタ論理学の命題変項として扱わねばなりません。つまり正確には、述語論理学の領域に入るのです。
 ↑このことは面倒になるから今は論じないことにして、ブッダ論理学は「繰り返し可能な現象」を対象にするということは認めましょう。
 すると、

 ★
 ブッダの公式は、一回限りの出来事や、少数回しか発生しない出来事については、原因の発見に無力である。

 と言えることになります。(もしそうでないなら、前回「追伸(→Θ さん)」で私が出した宿題へ戻りましょう。)
 個人的には、生きてゆく上での自分一回限りの出来事の原因・結果の究明に応用できない「公式」に対し、どれほどの人が「西洋論理学にない魅力」を感じられるのか、疑問です。「原爆が投下された」原因や「A級戦犯が裁かれた」原因として何が当てはまり何が当てはまらないのか、判別できないような「公式」は有り難くもなんともないのですが……。
(そして、くどいようですが、命題論理学だけでやれるというなら、命題型でなく個々の「命題」をこそ扱えねばならないはずだったのですが)

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感想 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)14時00分9秒

φ 先生
ご回答ありがとうございます。
P⊃QはPはQの十分条件を表すとはいうけれども、Pの内容とQの内容によっては十分条件とはいえないということですね。
pとQには何が入っても十分条件であるということはいえません。
PとQを固定してしまった場合。
PとQの内容によっては、P⊃Qが十分条件を表すものとはいえなくなります。
したがって、内容を変える作業で十分条件であるという関係があるかどうかを探ることをします。
同様に現実世界の繰り返し可能な現象
例えば「雲が有る」があるから「雨がある」
が原因と結果として成り立つものなのかを調べる時。
<1101>になるかどうかを考える。
真理表はそこでのみ登場してきます。
ブッタ論理学では、前件が時間的に後件よりまえのものを規定しているようです。
また前件と後件に入る対象は、「生じ滅するもの」のみ入れると述べられてますね。
したがって、もともと真理関数という意図はないのでしょう。
本の中では真理表の先の点だけを利用したのではないでしょうか。
チャッカを結合詞とは言ってはいるものの新たな真理関数の結合子として紹介している文も見当たりません。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:再質問 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)12時48分21秒

もちろん、 P⊃Q が偽のとき、PはQの十分条件ではありませんよ。

「真珠湾が12月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の十分条件ではありません。

P⊃Q が真のとき、PはQの十分条件です。

なので、

「真珠湾が6月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の十分条件です。

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再質問 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)12時36分15秒

φ 先生
先に話を進める前に「含意」の取り残しを、解決してください。
「真珠湾が12月に奇襲された」⊃「キューバ危機で人類は滅亡した」
これは偽ですね。十分条件とは言えなくなりますね。
この場合、前件が真で後件が偽
Pが真でQが偽ですから。
さて、前件と後件何が入っても十分条件と言えますか。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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追伸(→Θ さん) 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)05時48分53秒

↓文例が適切でない場合は、適当な文例で、お願いできればと思います。
 PとQの固定を、
 P「真珠湾攻撃があった」Q「広島長崎に原爆が投下された」
 P「火星に液体の水があった」Q「真珠湾攻撃があった」
 等々、ご自由に、真理関数で因果関係をぜひ説明してください。興味のあるところです。(皮肉でなく)。

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面白いアイディアが? 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)03時23分45秒

 真理関数もしくは真理表の話をしてるんですよね?

 「真珠湾が6月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」
 は、第4列が偽を出力するので、偽。他の列は無視してよい。
 これで何か問題ありますでしょうか。

 さて、

 >PとQを固定した場合に
 >逆に結合子を見つける作業をしたらどうかという問題です。
>Pを固定、Qを固定してその関係にチャッカという因果があるかどうか。

 ええと、正直よくわかりませんが、
 P「真珠湾が12月に奇襲された」とQ「キューバ危機で人類は滅亡した」をまず固定するわけですね。
 それで?
 真理表のそれぞれの列に対応した可能世界を考えろということのようですね。

 P Q
 真、真 → チャッカの真理表にしたがえば、真 ……世界1
 真、偽 → チャッカの真理表にしたがえば、真 ……世界2(現実世界)
 偽、真 → チャッカの真理表にしたがえば、偽 ……世界3
 偽、偽 → チャッカの真理表にしたがえば、真 ……世界4

 こうなります。
 それでどうしろと?
 世界1、2、3、4、すべて可能な世界ですよね。
 たぶん、すべての場合について、「現実世界で」真理値を出せというのかな。
 そんなことは少なくとも命題論理では無理だと思いますが、どうやるのですか。
 これは、∨や∧や⊃や≡についても同じ作業を想定しているのでしょうか。
 教えてください。

 そもそも、「可能性」まで持ち出すとしたら、様相論理ですね。あるいは反事実条件文の論理。
 石飛さんは、命題論理で十分だと言っています。そのための真理表だったはずです。
 事実上の述語論理である様相論理を出して因果関係を論ずるなら、全然別の話になります。
 ここでは、『ブッダ論理学』がいかにナンセンスかを語りあっていたのであって、『ブッダ論理学』と無関係に様相論理で因果とは何かを論じるのであれば、まず『ブッダ論理学』がナンセンスであったことを共通了解としてからになります。そうでないと進めませんね。

 ともあれ、真理関数のレベルで、上の4通りの真理値を「現実世界で」出すというのを、教えていただければと思います。何か面白いアイディアがありそうですね?(『ブッダ論理学』とは関係ないのでしょうが、それでも(なおさら)歓迎です)

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命題論理学の質問 投稿者:Θ 投稿日: 7月31日(月)02時26分10秒

φ 先生、
まずsemanticsの話をしていて、syntaxの話ではないことを確認します。
意味論的に真理値分析の内容を聞いています。
ここはずれていないと思いますが念のため。
論理的同値性のを証明する時、真理値分析によって真理表を使う事はありますよね。
まさかP∨QとP⊃Qは理論的同値だとはいえないでしょう。
なかなか少しずるい例を出されましたね。(笑)
「真珠湾が12月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」
はPが真でQが偽だからokですね。
Vとしても問題ないとおもいますが、ではこれではどうです。
「真珠湾が6月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」
ならどうです。∨で前件と後件つないでも偽ですね。偽と出力されますね。
他の列は無視しても構いませんか。

では次はどうでしょう。
「真珠湾が12月に奇襲された」⊃「キューバ危機で人類は滅亡した」なら?
これは偽ですね。十分条件とは言えなくなりますね。
Pが真でQが偽ですから。
さて、前件と後件何が入ってもいいのでしょうか。
つまり、PとQを<1011>に合うように変える事で当然、真を導き出す事もできますが、PとQを固定した場合に
逆に結合子を見つける作業をしたらどうかという問題です。
その作業は先に書いた真理表を使って理論的同値を判断する仮定と同じではないでしょうか。
石飛さんが言っているのはその作業の話ではないでしょうか。
Pを固定、Qを固定してその関係にチャッカという因果があるかどうか。
彼女の考え通りなら、<1101>という結合子を考えるのも意味はあるのではないかとおもいます。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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Re:命題論理学の質問 投稿者:φ 投稿日: 7月31日(月)00時52分38秒

 Θさんは、真理表の読み方(真理関数という概念)を根本から誤解されているのではないでしょうか。

  たとえば、P∨Q は、<1110>となる真理関数ですが、
 「真珠湾が12月に奇襲された」∨「キューバ危機で人類は滅亡した」 は真です。
 真理表を書くと、2列目に相当するから、出力は真です。
 第1列、3列、4列は無視してかまいません。

 含意の場合、<1011>となる真理関数ですが、
 「富士山が6月に奇襲された」⊃「キューバ危機で人類は滅亡した」 は真です。
 真理表を書くと、4列目に相当するから、出力は真です。
 第1列、2列、3列は無視してかまいません。
 含意が真なので、「富士山が6月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の十分条件です。

 石飛さんも、真理表のその程度の読み方は理解しておられますよ。
 1112を見てください。
 石飛さんのレスにこうあります。

 ………………………………………………
それでは、あおみさまの鋭いご指摘により、訂正させていただきましょう。
P*Qというのは、このように変形できます。
(PそしてQ)∨(Pそして¬Q)∨(¬Pそして¬Q)…8)
 …………………………………………………

 上の石飛さんの発言は正しいです。
 <1101>となる2項真理関数を一命題に書き下ろす仕方は無数にあって、私の『論理学入門』p.28~30では、機械的な翻訳法2通りを含め3通り紹介してあります。(しかし石飛さんの言う「真理表6」について、私ごとき末端までがすでにあれだけ書いているのに、「現代論理学は真理表6を封印している」なんて、一体どういう意味だったんだろう?)

 さて、石飛さん自身の
(PそしてQ)∨(Pそして¬Q)∨(¬Pそして¬Q)
 に、P「真珠湾が12月に奇襲された」とQ「キューバ危機で人類は滅亡した」を代入してください。
 全体は、真になるはずです。第2列(第二の選言肢)が真になるからです。他の列は無視してかまいません。
 「そして」に時間的前後関係の意味を入れても同じです。
 つまり、「真珠湾が12月に奇襲された」*「キューバ危機で人類は滅亡した」は真です。
 つまり、真珠湾が12月に奇襲されたことが、キューバ危機で人類は滅亡した原因でなければならないのです。石飛さんの定義を認めるならですけれどね。

 真理関数についての石飛さんの理解は、まだらになっているので、全体、辻褄が合わなくなっているのですね。上述の程度には真理関数を理解していながら、なぜかそれが因果関係を表わせると誤解しているのです。不思議です。

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命題論理学の質問 投稿者:Θ 投稿日: 7月30日(日)23時50分25秒

三浦先生
唐突で失礼します
質問します。

> 「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下された」は、広島長崎に原爆投下された場合の詳細については自由なので、たとえば、次のように分解できる。(↑この例文が因果関係を表わすとブッダが認めない場合は、別の文例でも以下同じことが言えます)
>「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機を人類は生き延びた」または「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」
>前半はたしかにチャッカの真理表(何度も言いますが、「チャッカ」などと名を付ける意味なし! 単なる必要条件の真理表)の1列目にあたり、真*真で、全体も真。後半は、2列目にあたり、真*偽で、全体も真となるはず。
>なので、「真珠湾が12月に奇襲された」は「広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」の原因でなければならない。

1列目が真*真  真
2列目が真*偽  真
3列目が偽*真  ?
4列目が偽*偽  ?

3列目と4列目の真偽がでてこない命題であれば、<1111>tautology <1110>disjunction <1101>reversed conditional <1100>projection の四つのどれか決められません。
2列目だけで*なる結合子で前件と後件が結ばされると言える理由はなんでしょうか。
おそらく、石飛さんはそのような主張はしておりません。

また、同様に含意であるかどうか示すならば、やはり真理値分析で<1011>となるような命題であるかどうかを調べなければならないのではないでしょうか。
一列目と二列目だけでその前件と後件が必要条件だとか十分条件だとかが言い表せるとは思いません。
同様に、もし仮にチャッカなるものがあったとしたら、そのような判断はできないのではありませんか。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 7月30日(日)23時30分46秒

誤解を招かないために・・・・

黒木さんのサイトを紹介したのは、ポストモダン等に対する批判という意味で、石飛さんの本が話題になったことは私の知る限りありません。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 7月30日(日)22時54分44秒

ご無沙汰しています。”ブッダ論理学”で大変なことになっていますね。石飛さんの本は(宮元さん、石飛・宮元共著の本も:専門書でないもの)前に購入して、やはりチャッカで目が点になったりしていました(笑)

掲示板も覗いてみていて、数学・コンピュータ関係者がかなり好意的なのにちょっと驚いていましたが、多分、彼らはおかしい部分に目をつぶったり、少しでもまともな部分を取り出そうとしているのではないかと思いました。商業的な思想・哲学系の雑誌で、著名な理系・文系の学者が座談会、論文を寄せているのがよくありますが、そういう場合、理系の学者は明らかにおかしい文系(ポストモダンなど)の主張を批判していないのと同じようなものでしょうか・・・

そうでなく、はっきりと批判しているものとしては、黒木玄さんのサイト
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html
がありますが、最近、あまり活動してないようです。

さて、石飛さんが言われているように存在論を問題にするのなら、正当な比較対象は論理学でなく、形而上学でなければならないはずですね。三浦さんの”虚構世界の存在論”を読んでいるなら、いくらでも文献は見つかりそうなのですが。そのほかにも、
現代形而上学論文集(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4326199482/249-0505626-5265935?v=glance&n=465392)
などを眺めていると、それこそ存在論や時間についての現代的考察が見られるのですが

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ちょっと話を先回りします 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月30日(日)21時19分3秒

>三浦先生

講義をどうもありがとうございました。私は、実は先生の本を持っておらず、野矢茂樹先生のほうの「論理学」しか持っていないのですが、先生の講義を参照して「命題論理の構文論」(P48~70)の一節を読み、*の構文を意味論へ持ち込むといかに変なことになるかよくわかりました。
但し、多分今度は、「現代論理学(メタ論理学)とブッダ論理学では公理系が違う」とか言い出す輩が出てきそうな気がするのですがwwww

公理系と言う意味をわかってくれればの話ですが、構文論と意味論を「あのようにしか」理解できない人たちでは多分無理でしょうね。

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¬Qについて2 投稿者:ハム 投稿日: 7月30日(日)19時47分4秒

φ様の説明は、難しすぎです。
まるで、学部での論理学の講義です。
対象論理などというと、難解な西田哲学かと思われます。

しかし良く分かりました。
私はQを変数に例えましたが正確ではないのですね。
正確には定数に例えて、この場合の意味を説明しなければならないわけですね。 安易に変数、定数といいますが、つきつめれば、定数Qという場合、メタ論理での変数になるわけですね。

ただ、Σさんの疑問は、
>命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、

¬Qを「棒に当たる」と考えていいか? という疑問ですから、これはNOといわざるをえませんよね。

もちろん、真理表の一行目の¬Qを「宝くじに当たる、ことはない」と考えて、
二行目の¬Qを「棒に当たる」と考えてもいいわけですが、
その二行目のQは「棒に当たる、ことはない」と考えていなければならないわけです。

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虚構の理 投稿者:ラズロ 投稿日: 7月30日(日)15時01分9秒

虚構の理というおもしろいサイトがありました。
私の好きなマジック関係のサイトなのですが、
マジックを虚構として楽しんでみてもらうための
マジシャン側からの理論的な面が書かれています。
マジックを演じて、その演技を客が信じる、
つまり本当の超常現象のように信じるケースが
あります。このように信じられてしまう虚構の
できごとの場合、フィクションであると認識
されている虚構とは少し趣が違う点があるな
と思い、こちらに紹介します。
http://www.geocities.jp/eldevol/index.html

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Re:「¬」の正しい意味 投稿者:φ 投稿日: 7月30日(日)14時57分1秒

 Σさん、いい材料を提示していただき、ありがとうございます。

 ハムさん、かわりにお答えありがとうございます。
 ただ、対象論理ではその通りなのですが、真理表がテーマとなっている文脈を考えると正確でないので、ここに改めて私が述べさせていただきましょう。

 「¬」の意味以前に、真理表とは何か、を確認したほうがよさそうですね。

 あちらの過去ログをざっと見たところでは、大筋では、Σさんの言ってることが正しいです。驚いたことに、石飛さんは、真理表の意味が全然わかっていませんね。あれでは、現代論理学をダシに『方便心論』を演じようとしたもくろみが土台無意味になるわけで、そこんとこ読者にどう責任をとられるのかと。

 以下の石飛さんのコメントは、ハッキリ間違いです。
 ………………………………………………………………………………
 まずQは、命題変項ではないこと。今、具体的な命題「宝くじに当たる」をQとおいていること。したがって、これには他の値を入れることはできません。
もしかりに、Qを命題変項とするとします。そうすると、P*Qに何か具体的な命題を入れるとすれば、ふつうは日本語などで書かれた命題を入れることが多いかと思いますが、別の命題定項R、S、Tなどを入れてもかまわないでしょう。
しかし、一つの記号に一つの命題を代入すれば、その記号は一貫して同じ命題を入れるという規則があります。Qに「宝くじに当たる(R)」を入れたら、そのQに他の「棒に当たる(S)」などの命題を勝手にかさねて入れることはできないのです。
 …………………………………………………………………………………

 定項と変項の区別ができていないようですね。あるいは、論理とメタ論理の区別が。
 真理表で用いられるP、Qが、変項でないというのはその通りです。しかし、留保なしに「定項である」と言ってはいけません。私の『論理学入門』p.24の真理表の説明では、「命題型」と書いておきました。
 命題定項、命題変項というのは、対象論理での区別です。
 「命題型」は、メタ論理から見た、対象論理での不特定の命題定項です。つまり、定項ではあるが、意味論的定項にすぎず、語用論的には変項です。メタのレベルからは、いろいろな具体的命題を自由に入れてよいのです。(とりわけ掲示板で語るような文脈では)
 私たちは、真理表のある世界より上位の、メタのレベルにいるので、「内容の定まったとされる」P、Qには、そのつど、いろいろな命題を入れてかまいません。(したがって、同一の真理表の一列目のPは「宝くじに当たった」、2列目のPは「猫が鳴いた」……と自由に入れ替えてゆくことも可能です)

 真理関数によって、いかなる場合に全体が真となるのを例示したのが真理表ですから、譬え話の集合みたいなモノです。基本中の基本であるそこがわかっていない石飛さんが、どうして命題論理学を論じようとしたのか、不思議ですね。

 さて、Σさんが言いたかったのは、たとえば次のようなことでしょうか。(単純化のため、五つではなく二つに分解します)

 「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下された」は、広島長崎に原爆投下された場合の詳細については自由なので、たとえば、次のように分解できる。(↑この例文が因果関係を表わすとブッダが認めない場合は、別の文例でも以下同じことが言えます)
 「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機を人類は生き延びた」または「真珠湾が12月に奇襲されたので、広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」
 前半はたしかにチャッカの真理表(何度も言いますが、「チャッカ」などと名を付ける意味なし! 単なる必要条件の真理表)の1列目にあたり、真*真で、全体も真。後半は、2列目にあたり、真*偽で、全体も真となるはず。
 なので、「真珠湾が12月に奇襲された」は「広島長崎に原爆投下されかつキューバ危機で人類は滅亡した」の原因でなければならない。
 ここで、「広島長崎に原爆投下された」は真なので(この文のかわりにトリビアルな「普遍結果」を使っていればもっとわかりやすくなりますが)、連言文から除去できる。したがって、「真珠湾が12月に奇襲された」は「キューバ危機で人類は滅亡した」の原因でなければならない。

 ↑あの本は、こういうナンセンスを含意しているわけです。
 そう言われるのがイヤなら、始めから真理表、命題論理学、ひいては現代論理学など無視して本をお書きになればよかったのに……。
 なぜに、否定したい相手の道具で箔をつけようとしますかね? 無意味な箔付けは、ポストモダニストが現代科学を使ってやりまくり、『「知」の欺瞞』でこっぴどく無知を暴露されたのと同じパターンですね。気取らなくていいのに……。

 なお、変項と定項の区別については、私の『論理サバイバル』p.156の「定項のパラドクス」を参照いただければと思います。
 たいていの場合、数学の「定数」は本当の定項ですが、真理表のようなメタ論理の表現に関しては、定項と見えるものは、語用論的な変項、つまり命題型なのです。
 (ちなみに、「命題変項」というと、高階論理学における変項のことを指します。「命題型」は、メタ論理学における変項です。石飛さんは、「かりに、Qを命題変項とするとします」と述べたとき、高階論理学とメタ論理学を区別できていません。以上、蛇足)

 ↑以上のことは、エラそうに課題↓として出させていただいた

 ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)

 の有力なヒントになっています。

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¬Qについて 投稿者:ハム 投稿日: 7月30日(日)14時07分57秒

φ様にご登場願うまでもなく、私で答えられます。

>命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、この命題を偽にする「¬Q」の具体的に取り得る内容の一つとして、「棒に当たる」を考えていけない、という論理学的規則があるのでしょうか?

命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、¬Qはその否定であり「宝くじに当たる、ことはない」となります。
命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、¬Qを「棒に当たる」と考えることはできません。
これは、論理学的規則ではなく、変数の意味です。
¬Qを「棒に当たる」と考えるためには、命題Qの中身を「棒に当たる、ことはない」と決めればいいのです。

Qのような変数は、いろいろな値をとるわけですが、
ある文脈で Q=「宝くじに当たる」 と決めたならば、
その文脈では、¬Q=「宝くじに当たる、ことはない」と定まります。

論理学を特別な学問だと思わない方がいいと思います。
基本は数学などの他の学問と同じです。

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参考文献 投稿者:伝々蟲 投稿日: 7月30日(日)13時03分10秒

お邪魔致します。
参考までに竜樹の中論です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/6782/1132733263/43

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「¬」の正しい意味をご教示下さい 投稿者:Σ 投稿日: 7月30日(日)12時05分53秒

「石飛女史サイドの頓珍漢な思い込みがどのようなものか」、
この掲示板に書き込まれたものから、その質疑応答の経緯をまとめて、その誤解部分を明らかにしたいと思います。少々長くなることをお許し下さい。

●私が三浦先生に「真理表の読み方」について最初にお伺いした時、
三浦先生の回答(7月17日の投稿)は、
---因果関係そのものは、真理表では表わせませんね。因果関係は真理関数ではないからです。もし、「チャッカ」の真理表で因果関係が表わせるとすれば、「日本の首都は東京である」は「太陽は月より大きい」の原因だ、ということになってしまいますが、それは変ですね。---
というものでした。私はこれだけですぐ分かり、私が間違っていなかったと安心したものです。

しかし、「無宗だ」さんは三浦先生のこの回答の意味が全然分からないようでした。
そこで無宗ださんは、同日付けで即座に、三浦先生に、次のような念押し質問をしました。
---Σ氏の疑問に思っている(2)の部分は  原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。を意味しているだけで(石飛氏の真理表は・この括弧補記は拙者)間違いではない。単にΣ氏の理解力不足である
ということですね?----

これに対しての三浦先生の回答は、
---石飛さんの真理表説明がもともとナンセンスですから、疑問が出て当然だとは思います。「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。(・・・)Σ氏の苦言はもっともではないでしょうか。---

というものでした。
これに対し、無宗ださんは納得できず、さらにこう食い下がりました。
---Σ氏の疑問の真意の細部を、私の理解において簡単に解説すると、
P=1、Q=0の時、「PはQの必要条件」という命題は真ということを
P=1、Q=0の時、真であれば、「Pは¬Qの必要条件」という言明が成り立つ
と混同しているのです。---
と、自覚なしにへんてこりんなことを書きました。

これに対し、三浦先生は、懇切丁寧に、幼稚園児を諭すように、こう回答しました。
---因果関係が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから、あの本全体の書き方が無意味となります。
 真理関数の意味はおわかりでしょうか。構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。
 真理表は、数学で言えば、九九の表みたいなものです。---

すると、これに対する無宗ださんの返答は驚くべきものでした。
---  えーと、ごめんなさい。真理関数の意味が私には良くわかっていないようです。必要条件は真理関数なのでしょうか? ----

ここで、一般読者は「ワァオ!」と椅子からひっくりかえるか、爆笑するか、というオチがついたことになります。
しかし、無宗ださんを揶揄するのではなく、真剣に誤解している場合、その誤解を解かなければなりません。それに石飛女史も同じ誤解をしている可能性が高いです。

●私が石飛女史らと対話して感じたのは、なんと、彼らは、真理表が読めない・又は間違った読み方で覚えてしまっているのでは? という強い疑念です。

ウィキペディアの「数学記号の表」によると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%A8%98%E5%8F%B7%E3%81%AE%E8%A1%A8
ここで、「¬」記号の解説として、
<< 「¬P」は「命題 P が偽」という命題を表す >>   とあります。

そこで、
「¬Q」という命題の意味について、超・超・超初歩問題だと思いますが、意見が錯綜しているので、三浦先生、どうか正しい知識をご教示下さい。

以下は、過去の石飛女史の発言です。以下、再掲します。

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1112&reno=1108&oya=1108&mode=msgview&page=5

(私・Σが、「P*Q」式に関して以下のとおり発言しました。)
そもそも、「*」演算子が因果関係の「有/無」を峻別する機能として設定されている以上、 「¬Q」のありうべき可能事態の中には、Pとは因果関係がない結果も混ざっていなければなりません。 違うでしょうか?
すると、

(石飛女史の回答・No.1112投稿)(Σの補足-石飛女史は Pを「宝くじを買う」 という命題に設定しておられる模様での以下の論説です)

これはちがいます。「¬Q」は「くじが当たらない」ということしか述べておりません。これは、よくお考えください。このような読み込みができるなら、論理学の記号化は意味なく、論理そのものも破綻します。「くじが当たらない」ことは、「黒猫が横切ったこと」や「玄関ですべって転んだこと」を可能的事態として含むことまで考えてはいないのです。

(石飛女史のその後の追加発言・No.1119投稿)
そこでもう一度、あおみさまの表現を見てみますと「¬Q」の取り得る具体値としては、「R、S、T、Y、Z」の5つがあるとして、問題はありません」とありますが、これは次の点で誤りです。
この点に関しては、まずQは、命題変項ではないこと。今、具体的な命題「宝くじに当たる」をQとおいていること。したがって、これには他の値を入れることはできません。
もしかりに、Qを命題変項とするとします。そうすると、P*Qに何か具体的な命題を入れるとすれば、ふつうは日本語などで書かれた命題を入れることが多いかと思いますが、別の命題定項R、S、Tなどを入れてもかまわないでしょう。
しかし、一つの記号に一つの命題を代入すれば、その記号は一貫して同じ命題を入れるという規則があります。Qに「宝くじに当たる(R)」を入れたら、そのQに他の「棒に当たる(S)」などの命題を勝手にかさねて入れることはできないのです。
(引用-http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?no=1119&reno=1116&oya=1108&mode=msgview&page=5)

----

以上が石飛女史の発言です。

そこで、私は思うのです。
命題Qの中身を「宝くじに当たる」だと決めた場合、この命題を偽にする「¬Q」の具体的に取り得る内容の一つとして、「棒に当たる」を考えていけない、という論理学的規則があるのでしょうか?

ウィキの解説のとおり、「¬P」は「命題 P が偽」という命題を表す、のならば、「¬Q」は「宝くじが当たる、は偽」という命題を意味し、「棒に当たる」が入ってもよいのではないでしょうか。

石飛女史はこの可能性、この読み方を、かたくなに拒否なさっておられるので、真理表問題で、へんな揉め事が起こっているわけだと、私は理解しているのですが。

あまりに、超・超・初歩的な「基本」なので、聞くのもお恥ずかしいのですが、三浦先生のご高見を賜りたく、お願い申し上げます。

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ご回答に心から深謝します 投稿者:Σ 投稿日: 7月30日(日)11時25分0秒

>公理は、公理である以上、公理の内容だけで否定してはいけませんね。定理としての諸帰結まで論じた上で、メタのレベルで初めて否定しないと。

三浦先生、明快なご回答に心から感謝致します。まことにそのとおりですね。
三浦先生のように聡明な方と対話すると、実に爽快です。
有り難うございました。心から感謝申し上げます。

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無宗ださんへ 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 7月29日(土)13時44分43秒

どうでもいいですが、あなたに対する評価がもっとよくなったということですよ。
バランス感覚のよさと学習意欲と吸収のよさを今まで以上に確認できたということです。早とちりが玉に瑕。

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Re:回答その1 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月29日(土)13時00分6秒

Re:回答その1

F.Nakajimaさま

> 無宗さまは、宿題にてこずられている様子なので、私なりの答えを先に書き込みます。 そうですね。

> ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
>  (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)
に関しましては、

現代論理学では、取り扱う文は言明にかぎる。言明は平叙文で表現でき、真か偽のいずれかであることを代表的な性質とする。
なお、現代論理学においてはパラドックスやジレンマも扱うので、 「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い

という回答を(あちらに)出しました。が、しかし、

>  ●必要条件とは何か。できるかぎり多様な具体例を。
に関しましては、現在、
・三浦先生の「論理学入門」
・ウリクトの「説明と理解」
・バートランド・ラッセルの「哲学入門」
が、積読状態になっておりますので、それを解消してからじっくり取り組もうと考えております。

ヒロヘロ さま

> #無宗ださんはあの無宗ださんですか?あなたに対する評価はかなり見直す必要がありそうです。
http://www.geocities.jp/jfcps873/danwa/danwa02.html#181
この評価ですか?
どうぞ、ご自由に。あなたにはリンカーンの言葉をお送りします。

http://www.mm-labo.com/culture/WiseSaying/wa/watashihajibunnnoshirukagirisoshitedekirukagirisaizenwotsukushiteiru.html
> 私に向けられる攻撃の全部にいちいち目を通すとか、ましてそれに答えることにでもなったら、店をたたんで商売換えするほうがましだ
> 私は自分の知る限り、そしてできるかぎり最善を尽くしている
> もし結果が不可と出れば十人の天使が 私は正しかったと証言してくれても何にもならないだろう

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φ さま。はじめまして 投稿者:ヒロヘロ 投稿日: 7月29日(土)11時45分2秒
初めて投稿させていただきます。もと、インド哲学をすこしだけ研究しておりましたものです。

石飛さんの見解をもってインド哲学研究者の標準であるとお考え頂かないようにお願い申し上げます。私は分析哲学や機能論理、様相論理に興味持ちつつ素人の浅読みをしていますが、現代論理学に関して、石飛さんはその浅読みの私のレベルにも達しておられないようです。石飛さんを根拠して私に論難してくる人が多いので困っているのですが、その度に現代論理学に対する無理解を指摘してきました。

最近は現代論理学と分析哲学の区別も出来ない人からの攻撃があったりして、当方多少切れ気味です。今後、少しずつ発言させていただくことをお許し下さい。

#無宗ださんはあの無宗ださんですか?あなたに対する評価はかなり見直す必要がありそうです。

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回答その1 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月28日(金)21時57分11秒

無宗さまは、宿題にてこずられている様子なので、私なりの答えを先に書き込みます。

A1.論理学で扱う文は叙述文、つまり主部と述部を持ち、物事をただ述べる文でなくてはならない。
尚、注意書きについては、古い論理学の教科書に「真偽を明らかにした文ではなくてはならない」という記述が残っていることを配慮したためだと私は考える。現代では様相論理学を使って真偽が明らかではない文も扱うことが出来る。

A2.条件命題、P⇒Qが真であるとき、PはQに対する十分条件、QはPに対する必要条件と呼ばれる。

例1、「もしその石がダイヤモンドなら、それは世界で一番硬い」という文で「ダイヤモンド」は「世界で一番硬い」の十分条件。「世界で一番硬い」は「ダイヤモンド」の必要条件となる。(但し「その石」がダイヤモンドであればの話(真)だが)

例2、「狐だった和尚があのとき正しい答えを出していたならば、彼は解脱していただろう」(無門関百丈野孤より)前文が後文に対する十分条件。後文が前文に対する必要条件となります。但しこの文は様相論理を使うべきだと思うので解説は三浦さまにおまかせします。

例3、雲が出てきたならば、雨が降る。「雲がでてきたならば」は、「雨が降る」に対する十分条件。「雨が降る」は「雲が出てきたならば」に対する必要条件。但し、この文はいくつか単語を追加し、叙述をはっきりさせた上で、様相論理で表現すべき文だと思います。

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いってらっしゃい。 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月25日(火)04時36分29秒

φ さま

> 無宗ださん、またいつでもどうぞ。
あたたかいお言葉、ありがとうございます。

> ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
> ●必要条件とは何か。できるかぎり多様な具体例を。

宿題、どうもありがとうございます。かなり時間がかかるとは思いますけど取り組んでみます。

>  あちらへの宿題は、この二つに絞るのがよさそうですね。もう見てないでしょうが。
ただ、あくまでも個人的に宿題として受け取ったということです。φ さまの期待とは少しずれているとは思います。申し訳ありません。

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25日から 投稿者:φ 投稿日: 7月25日(火)04時05分56秒

 29日まで出張してまいります。
 集中講義で、長らく考えている「輪廻転生論」(インドとは無関係)と、最近考えはじめた「戦争論理学」を試してくる予定。

 …………………………………………………
 水と油だから、いいのいいの、話通じなくて。……そういうことだから、普遍的な知を目指す西欧科学に敗れ、今のルサンチマンがあるのだということは、彼ら自身もちろんよくわかっているはずですが(すべてのインド学者がルサンチマンをまとっているという意味ではありません)、あえて自閉を続けるのは、系統だった論理で議論を維持する自信がまだ持てないということでしょうか。それとも対話拒否は東洋の論理の本質なのか。

 じつは私も隠れ東洋思想ファンなので(いつもは抑えてますが。高校時代は老荘思想にかぶれてました)、東洋思想が本質的に自閉的な達観を旨としていることにはある程度共感できます。ただ、グローバルスタンダードにはなりえませんね。

 ●論理学で扱う文は最低限どのようなものでなければならないか。
 (念のため、「現代論理学では、『取り扱う文は、真偽のはっきりした文にかぎる』という制約がある」は間違い)
 ●必要条件とは何か。できるかぎり多様な具体例を。

 あちらへの宿題は、この二つに絞るのがよさそうですね。もう見てないでしょうが。
 では、ちょっと留守します。Υ田さん、ホリスのパラドクスよろしく。

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但し、訂正を一つ 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月24日(月)23時27分15秒

論理学と仏教学との接点として細かい話となりますが。

但し、西洋哲学における帰納論理の原則を学んだ今となっては現在の仏教学会の主流となっているブッダの悟りとは「十二支縁起である」という説に、今の私は疑問を感じています。西洋論理学の因果関係の帰納論の見解を元にすれば「十二支縁起」の逆観を真理として認めることはできません。これを一種の信念・もしくは信仰の対象として認めることはできますが、これを唯一解とすることはできません。

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新土氏への謝礼 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月24日(月)23時10分49秒

新土さまの、私の上座部仏教に対する見解に対する注釈、及び批判については、全面的に受けとめ、ここに新土さまの見解の方が正しいことを認めます。

但し、愚痴を言わせてもらえば、上座部仏教に帰依した日本人というのは、なぜ「ブッダの言動が経文として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている」と主張し、それを自派の拠り所にしたいのか私には理解できません。
日本で布教されておられる東南アジアからの上座部僧侶たちのHPを見ればわかるように彼らは一切そのようなことを自慢げに説法をしたことはありません。彼らはそのことを仏説の根拠とせず、ただブッダの教説を説いてそれが「正しいか否か」を我々に問いているのみです。私は彼ら渡来僧に対しては大いに敬意を払いますが、今の教団内部における戦闘的信徒の言動、及びその活動を黙認している教団内部の体制においては、トップたる長老の意思が伝わっていないのでないかと危惧しています。

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再度すいません 投稿者:新土 投稿日: 7月24日(月)22時41分8秒

ずれて読みにくいと思った部分、更新をかけたらなおっていました。
失礼しました。

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すいません 投稿者:新土 投稿日: 7月24日(月)22時39分25秒

下記の自分の書き込みですが、F.Nakajimaさんの文からの引用、ずれて読みにくいですね。
失礼しました。

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何か誤解があるようですね 投稿者:新土 投稿日: 7月24日(月)22時31分53秒

三浦先生、はじめまして。
石飛先生の掲示板からきたものです。
ここ数日、部外者の仏教関連の書き込みが続いて当惑しておいでだと思いますが、
F.Nakajimaさんが少し誤解をしているようなので、少し書き込ませてください。

>ついでに愚痴だと思ってお付き合いください。日本における仏教学会の現状について少々>お話したいと思います。実は、あの本に対して日本の学会は手放しの賞賛しか私は見たこ>とがありません。
日本の仏教学会の人は、石飛先生の本について賞賛などしていたでしょうか?私は見たことがありません(あったら教えてください)。
石飛先生(と彼女のHPに間借りをしている宮元先生)は、もともと仏教外のインド哲学畑の人なので、どうも仏教学会からの受けは悪いように見受けられます。
一部、現代上座部仏教の教義に共感を抱く人(寺男さんとか)が熱烈なべた褒め書評を書いたのは知っています(F.Nakajimaさんが引用しているとおりです)。しかし、彼らは単なる素人であって、仏教学者ではなかったはずです。書評がネット上で目立つからといって、実際に学会の重鎮とは限りませんよ。

>どうもへんなアカデミズムの伝統が仏教学会にはあるらしく、しかもそれは宗派的な運動>ではなく、復古的な運動というべきなのですが、ある一定の部派にはブッダの言動が経文>として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている。というのが今、日本の仏教>学界では熱心に提唱されているのです。そのことの真偽については別の話ですが(もっと>も物理的証拠は発見されておらず、文献史学的にも全く検証不可能なのでこのことを主張>すること自体、学問的態度というより、一種の宗教的運動というべきだと私は思っていま>すが)、それを少しでも裏付けられそうな意見が発表されると、見解を同じくする研究者>同士がお互いに称えあうというわけです。
石飛先生(や宮元先生)が言っているのは、「初期仏典の中には、お釈迦さんの体系だった教義や論理が保存されている」ということです。これは「お釈迦さんの金口の説法は知りえない」とする仏教学会の説に対する反論です。増広や誇張、定型的な神格化表現による粉飾がなされていない、とは言っておりませんし、学者としてそのような迂闊な主張はできないでしょう。
ところが、これを「ブッダの言動が経文として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている」と解釈したい現代上座部(の一部)のシンパが、自派の説の補強に使おうと考えているのです(たぶんF.Nakajimaさんは、彼らの主張に幻惑されたのでしょう)。
もちろん初期仏典に増広(後からの付加)がなされていると考える上座部僧はいます。南伝仏教も一枚岩ではありません。石飛先生のところに出入りする戦闘的な上座部のかただけがすべてだとは思わないでください。石飛先生は面倒見がよいので、なにかそういった上座部の人たちともうまくつきあっているように傍目には見えることもあるのですが、返答をよく読むと、肝心なところでは言質をとられないように慎重に回答しています(怖い方です)。
何にせよ、上座部は最近書籍が書店で手に入れやすくなっただけであって、日本のアカデミズムの伝統とは関係ないでしょう。

長々と書いてしまいました。ご容赦を。

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驚いた! 投稿者:横入りです 投稿日: 7月24日(月)15時48分45秒

こっちでは、まだこんな子供の負け惜しみみたいな捨て台詞が続いていたのですか。捨て台詞なら一回で充分で、そうでなければ、内容がない話=無駄話は、ちょっと知性が疑われるような・・・マニカナではもう終わってますよ。
Nakajima様、経典の成立順序とか古層・新層などとおっしゃってますが、お年は幾つ? 
仏教学界はもう二十一世紀に入って何年も経ってるンですが、こちらはまだ1960年くらい? 無駄話してるヒマがあったら、最新の研究を学んで下さい。

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(無題) 投稿者:Transit 投稿日: 7月24日(月)13時46分33秒

結局、アマゾンの以下の書評に尽きるんじゃなかろうかと思ってます。

論理学の理解は中学生以下, 2005/9/22
レビュアー: 荒野の偏微分 (西日本) - レビューをすべて見る
最初の2章を読んだだけで著者の「現代論理学」の理解度は極めて低いことがわかる。論理学で時間が扱えない、真理表に穴がある、などの初歩的な思い違いから全ての議論を導いている。A∧Bと、日本語の「AそしてB」とはイコールでない(そのために普通は「AかつB」として、この中に元々時間の含意がないことを示すのだが)ことを理解しようとせず、それだから時間の概念が論理学で扱えない、とくる。真理表で順にTTFTの真理値を示す命題がQ→P、すなわちPならばQの逆であること位は、中学生の数学程度ですくに理解しうることである。それを「現代論理学ではこれにあたる接続詞がない」というのは噴飯ものでしかない。仏教論理を専門とする著者が、今やあたりまえになっている記号論議学を生齧りして、命題関数だとか真理値だとかいうものを生半可に弄んでいるだけの話で、内容はもとより空疎である。仏教徒である私だが、このような著者によるブッダの思索の紹介というのは頂けたものではない。あとがきに、龍樹がうるさく「書け」と言った、という件があるが、正直、著者の精神状態を疑わざるを得ない。龍樹もいい迷惑だ。
仏教書としても論理学の書としても読むに値しないが、論理展開の誤謬の例としては典型的で、おもしろい

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書評について 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月24日(月)12時01分56秒

十年に一冊の驚著(と言ってしまおう、この際)。ブッダは菩提樹下の成道ののち、自らを「一切を知る者(一切智者)」であると宣言しました。しかし、その所以については、これまでほとんど研究されてこなかった。多くの研究者は、自称仏教徒の研究者も含めて、「まぁ、あなたがそう言うんだから、そうかもね」といってブッダのことばを取り合わなかったウパカと同じ態度を取ってきたんですね。

インド論理学の研究者である著者はもともと仏教の専門家ではありません。ですから、最初っから「ブッダはなぜ一切智者と自称したのか?」とゆーことに関心を持っていたわけではないのです。

著者がずーっとひっかかっていたのは、自分の専門のニヤーヤ学派形成に関わる主要論敵としてマークしていた龍樹(ナーガルジュナ)の『方便心論』とゆー論書でした。わずかに漢訳のみが残され、これまでほとんど省みられてこなかった同書の読解に没頭するうち、著者は『方便心論』にブッダその人の教え(出典はアングッタラニカーヤ)から注意深く抽出された純粋な「ブッダ論理学」が織り込まれていることに気づいた。そして現代論理学・現代分析哲学の到達点と照らし合わせたとき、ブッダ論理学が恐ろしい高みにあることに気づかされ、驚愕したのです。

著者は不世出の仏教哲学者、龍樹菩薩が『方便心論』で用いた方法論の欠点ないし「失敗」にも気づき、それを乗り越える方法論を自覚的に選び取ったのです。ナーガルジュナの如く倫理という表から透かして「裏の論理」を見ることをせず、ブッダの発明した論理学を正面から問うという方法論です。曰く、「倫理として教えを開いたブッダのやり方にこだわらず、わたしたちの役に立つ論理学としてブッダの教説を開いてみよう」と。これは賞賛すべき勇気ある跳躍です。

さいしょ、論理学の素養がない人は最初はちょっとだけピンと来ないかもしれないけど、でも腹のすわった文体は読者をどんどん傾聴の構えに導いていくでしょう。序論から巻末まで気が抜けません。お釈迦さまの教えがこれほどまでに崇高な論理=倫理に貫かれていたとは…。ブッダ論理学のエッセンスを教えてもらいながら、僕は途中から、たまらず泣きました。

詳しくは本書に譲りますが、著者は「(初期仏典に)ブッダのことばは完全に保存されている」ことを、ブッダ論理学の根幹をなす経典の形式・文体の分析を通して明らかにしています。著者が獲得した知恵(論理)のまなざしによって、経典の成立順序や古層・新層をめぐる不毛な応酬を土俵ごとひっくり返してしまうかもしれません。本文は200ページ足らずですが、その衝撃度は恐ろしいほどの一冊です。

ブログ 「ひじる日々 寺男の日記」より

本文は 読書 音楽 : エントリ「ブッダ論理学五つの難問」をご覧下さい。この即席の書評を読んでこの本を読んでみようと思っていただけるだろうか。実はこの本には続編のテキストがあってマニカナエムさんはその続編でブッダが如何に自らの形而上学として輪廻を語ったかをしっくり解き明かしてくれます。輪廻転生が仏教であるとかないとかという論争がインドから仏教のみを切り離してなされている不毛な論争でありブッダにとってそれは対立軸に据えるような問題ではなかったのです!そして大乗を仏教から切り離すことも実はナンセンスであり、インド人が言語に寄せる意図性や比喩性、そして暗黙の自己である「わたし」や「僕」を廻る仏教を含めたインド諸学派の論争、そしてそうしたインド的言語表現の根底を支えるインド論理学へ向かうベクトルなしに仏教は語れないと思う。ブッダが弟子達に残した刻印がどのようにインド的に荘厳されて宇宙大にまで膨らんできたのか。そうした視点から仏教と仏教史を概観するとき石飛氏と互いに畏友と呼び合う宮元啓一博士のご主張は既存の仏教にどっぷり浸かってしまった僕たちに新しい視点とヒントを与えてくれる。とこちらも必読!!

ブログ 「くまりんが見てたⅡ」より

>Y田さま

そのたとえが今回の件にもあてはまるならどんなにいいだろう。と思います。 上記の推薦文(寺男氏は経歴を存じておりますが、くまりん氏については存じません。しかしながらどちらもインド哲学の学会ではそれなりに名を知られた人物であろうことは彼らの他のエントリーから明らかです。)を読めばわかるように、「付着物を含めた総体を研究するか。おそらく、後者が主流なのでしょう。」のではないのが明らかです。

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Re: 投稿者:φ 投稿日: 7月24日(月)04時06分23秒

『夢幻論』の著者との短いやりとりは、以下でご覧いただけます。↓

重久氏はインド哲学プロパーの人と言ってよいかどうかはわかりませんが、ごく生産的な議論のできる人だと私は思います。Υ田さんもこないだ少し話されたかと思いますが――

http://russell-j.com/br-q&a.htm

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(無題) 投稿者:Υ田 投稿日: 7月24日(月)03時24分48秒

インド論理学をあまり知らないΥ田です。『科学史技術史辞典』(弘文堂)と『夢幻論』(リンク先)と岩波の数冊の本から、間接的にインド論理学とはこんな物なのだろうなという推測ができるに過ぎない者です。

φ> ともあれ、今回のことで、読者って、ろくに注意して読んでないのかな、て思わされましたよ……。
φ> 努力して推敲を重ねても、無駄になることが多いんですな……。トホホ……。

 φ先生、お世話になっております。不注意の多い読者を代表して申し上げます。100の内容のうち、ある読者は90しか理解せず、別の読者は別の組み合わせで85だけ理解します。解説書や入門書や啓蒙書であれば、どの細部も、理解しない読者よりは理解する読者のほうが多いはずです。ですから、決して推敲は無駄にならないはずです。(『ラッセルのパラドクス』や二見書房からお出しになった三部作を読んでいると、「強すぎる断定をしているぞ」と思った部分の直前に、きちんと適切な留保がついていることに何度も気付かされました)

 どの細部も、注意を払わず読む人より、注意を払って読む人のほうがずっと多いはずです。

F.Nakajima>私は論理学とは人文・自然を問わず、全ての学問分野で使われる普遍的なものであると思っておりましたが、どうやら彼らの中では論理学というのは違うもののようです。

 F.Nakajimaさん、はじめまして。  仮に某古典薬草書Aから「当時の人が薬学だと思っていたもの」を復元するならば、それは、現代人が「Aから発掘した薬学」と呼ぶものに、当時の当地域の時間論や存在論や芸術や慣習やレトリックがごっそりと付着した物になってしまうでしょう。

 薬学を論理学に、Aを仏典に置き換えるならば、今回の構図に当てはまるように思います。「彼ら」における論理学には当時の当地域の時間論や存在論や芸術や慣習やレトリック(要するに「論理学以外のもの」)がごっそりと付着しているのではなかろうか、と。

 発掘後の方針には2通りあるでしょう。付着物をそぎ落として残るものを研究するか、「付着物あっての『ブッダ』論理学なのだ」と言って付着物を含めた総体を研究するか。おそらく、後者が主流なのでしょう。

 旅人さん、はじめまして。
 ハムさん、まいど。
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私が先週自分自身に課した宿題↓がありましたけれど、 Υ田>ここまでまとめるのに疲れてしまいましたので次回の投稿でフォローさせていただきます。
待っている人がいましたらごめんなさい。まだ続きを書いていません。
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0102401636

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(無題) 投稿者:通りすがりの旅人 投稿日: 7月24日(月)00時30分52秒

はじめまして。

ハムさん
石飛氏は確か仏教徒ではなかったはずです。
また、宗教が戦争の主な理由というのも正しくない。
むしろ歴史が教えてくれるのは
女性を理屈で説得することの困難さです(笑)

まぁそれはさておき、中島さん。
三度説得して駄目なら立ち去る。
古来伝わる、これは東洋の智慧です。
ゴータマも中国の賢哲もそうでした。
あなたが正しいと考えている知識を訴えたいならば、
間接的にでも他の手段に切り替えることをお勧めします。

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説得について 投稿者:ハム 投稿日: 7月23日(日)23時21分36秒

相手が信仰者の場合、説得は不可能です。
というか、説得などしてはいけないのです。
信教の自由に反するからです。



石飛氏はおそらく仏教系の信仰者で、その仏教を論理学で補完したいのだと思います。
この場合、石飛氏が信じているものは論理よりも仏教ですから、いくら論理を説いても仏教で説かれていることの方を信じるわけです。
そして石飛氏の目的は布教でしょうから、布教に利用できそうなものは論理学でも哲学でもなんでも利用し、利用できなくなったらポイ捨てするだけです。

信仰者を説得できないことは歴史が我々に教えてくれます。
いつの時代でも戦争の主な原因です。
最後には説得ではなく暴力で決着をつけてきました。
こういう不幸を繰り返さないためには、信教の自由を認め合うしかないと思っています。

ブッダの論理学などは、無視していれば歴史がしっかりと淘汰してくれます。
それが一番良い対処法だと思います。

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お詫び 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月23日(日)22時38分9秒

折角のアドバイスをいただきましたのに、申し訳ありませんが、やはり私には説得は無理のようです。

一番上の真理関数(と題名がつけられている)スレッドがどんどん延びていき、誤解が誤解を拡大生産している状況で、しかもあまりのわけわからない理屈をこねるのを見ていて怖くなりました。自分達の述べている暴論と違う理屈で世界が動いているらしいとどうやら気づき始めたようですが、それすら「法学では人を人が裁く為の論理であり、人が持つ苦は除けません。苦を除くための論理がブッタ論理学ではないのですか。」だそうです。私は論理学とは人文・自然を問わず、全ての学問分野で使われる普遍的なものであると思っておりましたが、どうやら彼らの中では論理学というのは違うもののようです。

最後に一つだけ愚痴を言わせてください。石飛女史はブッダ論理学とは「あるがまま」の論理学だと書いていますが、あそこまでいびつな論理学で一体どのような世界の実相を記述できるのでしょうか?

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Re:仏教学者のセンス 投稿者:φ 投稿日: 7月23日(日)18時20分20秒

 公理の選び方についての異論は、論理学の内部でもいろいろあって、だからこそ非標準論理学も成立しているわけですが(矛盾を公理に据える論理学すらある)、いちおう、公理と推論規則から出てくる定理のあれこれを見定めた上で「こうなってしまうから、標準論理学の公理の立て方は不十分だった」等とやっていくわけですね。
 公理は、公理である以上、公理の内容だけで否定してはいけませんね。定理としての諸帰結まで論じた上で、メタのレベルで初めて否定しないと。

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Re:仏教学についての現状 投稿者:φ 投稿日: 7月23日(日)17時07分53秒

 ウうーム、あの本に待ったをかける声が出ない学会とは、大問題ですねえ……。

 未だに石飛さんは、私が「理解できていない」と思い込んでいるようです。
 そうではなく、「はっきり理解できた。支離滅裂であることを」なのに、伝わってません。どこがどう支離滅裂なのかを、逐一これだけ説明してもダメですね。メールでやりとりしたときも、「それは存在論が違うからです」の一点張りで、直接の答えが一度も返ってきませんでした。存在論が違うから議論できない、で終わるなら、論理学は要らないのに。

 説得の仕方……

 〈無宗ださん〉あたりは徐々に理解されてきているようですから、ああいうかたとの対話によって(直接対話しなくても互いのレスを参照言及して)疑問を整理し、石飛さんに投げてみるというのも手かもしれません。
 ヒュームが、クリプキが、といった哲学史的な話も避けたほうがよいでしょう。逃げ場が広がってしまうので。とにかく初歩の論述マナーを確認していただくことですね。

 あとは、単純質問を重ねる方法ですかねえ。一度にあれこれ尋ねたり、大まかな哲学観や世界観を問うのではなく、何頁の何行目というように狭い範囲に絞った一問一答を続けて、矛盾を意識していただく。

 ■例:
 「チャッカって、真理関数なんですか?」

 ★yesの場合
 「ならば、なぜ、Q⊃Pとして論理学で語られまくっているという初歩的なことを読者に教えないのですか?」(語られていない、と返ってきたら)「前件否定、後件肯定の誤謬の説明などでQ⊃Pという真理関数は頻出しますが、なぜその程度のことにも言及しなかったのですか?」
 「真理関数が時間を語らないことは定義上始めからわかっているのでは?」(だからその定義をこそ批判したかったのだ、と返ってきたら)「批判したいなら、なぜ様相演算子など、時間を語れると論理学自身が主張している装置を論じないのですか?」
 「他の真理関数も時間を語らないことでは同様ですが、なぜとりたてて3番目だけを問題に?」
 「「口をつぐんで語らない」とは具体的にどういう意味ですか?」
 「真理関数で因果関係を表わせるというのは、典拠があるのですか、思いつきですか」
   ……

 ★noの場合
 「ならば、なぜ、p.42で他の真理関数と並べているのですか?」
 「p.42の表がすべて真理関数でないというなら、なぜ9~16をあっさり略しているのですか?」
 「真理関数でないのに、命題論理学ばかり引き合いに出すのは見当違いでは?」
 「時間は実在し、基本概念として扱われるべきだと信じていますか?」
 「論理学が時間の有無について決める力があるとすると、物理学とどう違うのですか?」
   ……

 でもまあ……「チャッカは、真理関数とも言えるし、そうでないとも言えます。どっちかに限定しなきゃならないと思うこと自体、有の存在論に立っている証拠です」みたいな答えが戻ってきそうで、まあ、期待はできませんね……。
 東洋人の一人として、やはり東洋思想ってこんなにもダメだったのか~、と思い知るのはガッカリしてしまいます。

 説得の仕方というのは、私もいろんな方面で、頭を悩ますところです。場合によっては自分が説得される用意がないと、説得上手にはなれないでしょうしね。
 今までのメールでの議論からお三方えらんで
http://russell-j.com1/
の黄色球から見られるようにしてあります。御参考までに。
 もっと生産的な議論も色々あるので増やしていきたいですけどね(長いのが多いのでなかなかアップロードできませんが)。
 私自身、あまり説得され上手でない場面もあってお恥かしいですが。

 それでは、また。
 御健闘を祈ります。
 石飛さんよりもっと重症な学界人とやりとりしたこともありますので、まあ全体、私にとって負担にはなってません。そもそも、↑の3つの議論のような〈頭を使うレベル〉には今回はとうてい達していないので、楽っちゃ楽ですよ……。

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仏教学についての現状 投稿者:F.Nakajima 投稿日: 7月23日(日)15時11分50秒

まず、ご挨拶は省略させていただきます。おそらく、別のBBSで私のHNは御覧になったでしょうから。

さて、失礼極る侵入者に対して、三浦さまは不愉快かもしれませんが、失礼ついでにお聞きしたいことがございます。まるでダチョウのように砂場に頭をつっこんで「私は正しい」と言い続け、反論にしてもまるで論理的に矛盾していることを平気で口走っている相手に対して説得するよい方法をご存知ありませんか?どのように論理的に矛盾しているかは御覧になればわかると思いますが。(といいながら対偶は因果関係に使えないぜという突っ込みが、私の発言に対しても三浦さまから喰らうと思いますし、存在論に対してもこれは違うぜと多分言われるでしょうがそこはごまかしてくださいw)

ついでに愚痴だと思ってお付き合いください。日本における仏教学会の現状について少々お話したいと思います。実は、あの本に対して日本の学会は手放しの賞賛しか私は見たことがありません。日本のインド哲学学界というのはあの程度の論理的な欠陥も見抜けないのです。
どうもへんなアカデミズムの伝統が仏教学会にはあるらしく、しかもそれは宗派的な運動ではなく、復古的な運動というべきなのですが、ある一定の部派にはブッダの言動が経文として全くそのまま2500年間一切の改変なく伝えられている。というのが今、日本の仏教学界では熱心に提唱されているのです。そのことの真偽については別の話ですが(もっとも物理的証拠は発見されておらず、文献史学的にも全く検証不可能なのでこのことを主張すること自体、学問的態度というより、一種の宗教的運動というべきだと私は思っていますが)、それを少しでも裏付けられそうな意見が発表されると、見解を同じくする研究者同士がお互いに称えあうというわけです。しかもインド哲学自体がほとんど隣接する他の分野がない孤立した分野のため、他分野からの批判が一切なく安心して内輪の中に閉じこもることができるわけです。

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最後(?)にふたことみこと 投稿者:φ 投稿日: 7月23日(日)05時08分37秒

 無宗ださん、またいつでもどうぞ。

 今、ちょっとむこうの板も見せてもらいましたが、何か、わかってない方もおられるようで。
 チャッカが不要か必要か、などということで私は批判してるのではありませんよ。
 もっとずっと初歩のレベルで、あの本が支離滅裂だと言ってるのに、おかしいな、それがわからない読者なんているんでしょうか。
 もしかしたらあの本を一番きちんと読んでるのって私?

 p.42だけでいいから「きちんと」読んでくださいね皆さん。
 最後の行の「決して誰も口にしない秘められたその真理表」という言い方だけでもおかしいと思ってください。真理表で現に表現できているものを、論理学者の「誰も口にしな」かったとは??
 たった16通りのうち、学界で一つだけずっと避けられてきたなんて、本気で信じられたらセンスが疑われますよ。「数学者は今までずっと47の倍数を語らなかった。なぜ黙して語らないのだ」なんて発言よりヒドイです。

 時間がどうのこうの、チャッカは真理関数ではないなどとブツブツ言いッこなし。くれぐれも、「真理表6」(真理表5の、3)がp.42の他の15個の真理表と同列の「真理関数」として扱われている(9~16を略してかまわないとした理由もそれ)ことを忘れんように!
    お願いですから皆さんこの程度の支離滅裂は一目で見破ってください。
 論理学以前の国語読解力の問題です。

 ともあれ、今回のことで、読者って、ろくに注意して読んでないのかな、て思わされましたよ……。
 努力して推敲を重ねても、無駄になることが多いんですな……。トホホ……。

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ありがとうございました 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月22日(土)16時07分17秒

φさま、お付き合い頂きありがとうございました。

>  何度も言うように、因果関係は真理関数ではありません。
>  真理関数とは何か、については、論理学のどの本にも定義が書いてありますから、参照してください。
>
>  >この真理表の(2)列目の解釈は私にとって重要な問題です。
>
> (2)列目の解釈と限定するのではなく、真理表は全体として理解してください。
>  真理関数とは何なのかを、ぜひ初歩から勉強しましょう。(前回私がここに書いたように「構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数」で定義は済んでいるのですよ!)

ご忠告に従い、真理関数とは何なのかを、初歩から勉強してきます。
もし、それでも、なぜ、
> 構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
>  「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。
こうなるのかがわからないときには、また、お邪魔させて頂きたいと思います。
今回は、いろいろありがとうございました。

ハムさま

ご忠告ありがとうございます。

私からも仏典の言葉をお返しさせて頂きます。
> 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
> 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。
私も、毀るべき人と誉むべき人を正しく認識できるよう精進いたしたく存じます。

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無宗だサンへ 投稿者:ハム 投稿日: 7月22日(土)15時28分58秒

石飛氏の『ブッダ論理学 五つの難問』について、φ様は「「現代論理学」について書かれていることは全部ナンセンスである」とおっしゃっています。
石飛氏は論理学の素人、φ様はプロです。
石飛氏が「現代論理学」について誤っていることに、議論の余地はないはずです。

>論理学の書籍に関して、素人の私は何の判断基準も持たない。

のであれば、なおさら素人よりもプロの話を良く聞いて勉強すべきです。
それが、私たちの正しい態度ではないでしょうか。

私たちにこういう態度があれば、書店に氾濫する悪臭プンプンたるトンデモ本は駆逐できるはずです。

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部分的な回答ですが 投稿者:φ 投稿日: 7月22日(土)14時38分57秒

>カーステレオが故障していることは、車本来の機能にとって何の不具合でもない。
>私はこの本の価値は、原始仏典の中にブッダの論理学が隠されていた、
>それが方便心論により明らかになったというという指摘にあります。
>先の例で言えば、現代物理学に関する記述の正確さはカーステレオ機能
>のようなものに過ぎません。
>私には、「現代論理学に関する部分は全部ウソ」かどうかは判断できないし、
>どちらであるかはさほど重要な問題ではありません。

 うーん、正直申し上げて、世の読者とはこういうものかと思うと、がっかりしますね。
 そのような読者が、著者を甘やかすのですね。
 安易な本ほどベストセラーになるのもよくわかります。
 著述家としては、張り合いを失いますね……。

 2点述べましょう。
 ひとつ。本の「主題」そのもの以外の事柄についてであれ、「根本的なナンセンス」を平然と書いている本は、全体が信用できないと考えるのが常識でしょう。
 書物は、独立した部分の寄せ集めではありません。全ては有機的に繋がっており、著者のモラルと学識を表わしています。「ここはダメだが、ここはよい」という判定はある程度通用しますが、「ダメ」が限度を越えた場合、全体が腐蝕します。

 ふたつ。『ブッダ論理学 五つの難問』は、「序論」ですでに読み取れる姿勢からすると、『方便心論』をはじめとするインド論理学の姿勢をなぞろうとしてますね。ブッダも、龍樹も、「相手の言葉をそのまま受け取ってそれを少しだけ変えて」(p.16)つまり相手をもじって議論を展開したそうですね。『ブッダ論理学 五つの難問』はそれを、現代論理学を相手にしてやろうとした本でしょう。だとすれば、現代論理学への理解度は、あの本の本質と切り離せないはずです。
 西洋の現代論理学が、いま最も信頼を得ているスタンダードだからこそ、その「もじり」をやる意味があると石飛さんは思ったのでしょう。ところが、石飛さんの現代論理学の知識がゼロに等しい(私の本も参照されているので正直ガッカリしました……)となると、この本がもじっている相手をそもそも理解していなかったことになり、この本の価値はゼロとなるのではありませんか?
 無宗ださん、無責任な著者を甘やかすのはもうやめましょうよ!

>(2)(3)に関していえば、PQの順序を入れ替えなければ、
>QならばPの真理値表に対応する演算子が無いことは事実なので、
>「真理表には穴がある」と主張することも可能だと考える。

 あの本のpp.42-3をようく読み直してみてください。
 「真理値表に対応する演算子が無い」というだけなら、「真理値表5」のうち、2,5,7,8を除くすべてがそうですよ。それらを「穴」としないで、お目こぼししているのは、既成の演算子で定義できるからですね。6だけ特別視する根拠が一切ありません。

 現代論理学では、~∨∧⊃≡ですら本来は基本概念ではなく、便宜的表現に過ぎません。本来は全てが「穴」なのです。~∨∧⊃≡は仮の名称に過ぎません。仮称・仮象に惑わされて、鬼の首を取ったように「専門家は口をつぐんで……」など笑止千万だと私は言っているのです。
 これは高度な存在論云々の話ではありません。辻褄が合っていないという初歩の欠陥です。
 時間が入るなど真理関数以外の部分で6が問題だと言いたいならば、1~16の全てが問題視されるはずですよ。6だけを取り立てる意味がなく、pp.42-3の記述は支離滅裂です。
 身近な論理学の専門家に、あの部分だけでもぜひ読んでもらってください。大笑いです。
 まさかブッダや龍樹も、あのレベルの議論で論敵を「論破」してきたんでしょうか? 
「相手の言葉をそのまま受け取ってそれを少しだけ変えて」じゃなく、「相手の言葉とは無関係に」ですね。したがって私は、『ブッダ論理学 五つの難問』を読んで、インド論理学がいかにデタラメかがわかってしまいました。
 もしかして、それこそが――インド論理学を全否定することがあの本の真の秘められた狙いだった? インド哲学研究者は要警戒ですね!

>えーと、ごめんなさい。
>真理関数の意味が私には良くわかっていないようです。
>必要条件は真理関数なのでしょうか?

 P⊃Q が正しいとき、QはPの必要条件といいます。したがって、真理関数です。

 何度も言うように、因果関係は真理関数ではありません。
 真理関数とは何か、については、論理学のどの本にも定義が書いてありますから、参照してください。

 >この真理表の(2)列目の解釈は私にとって重要な問題です。

(2)列目の解釈と限定するのではなく、真理表は全体として理解してください。
 真理関数とは何なのかを、ぜひ初歩から勉強しましょう。(前回私がここに書いたように「構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数」で定義は済んでいるのですよ!)

>φさまは、論理学と哲学や数学との関係をどのように考えておられますか。

 そんな高度な話ではなく、まずは、『ブッダ論理学 五つの難問』の幼稚園レベルの支離滅裂を理解していただくのが先ですから、哲学論は後にしましょう。
 失礼ながら、基礎の出来ていない人ほど、「哲学とは」といった大味な議論に飛びつきたがる傾向があるようです。

>私にとっては、方便心論を理解する上で、
>役に立つかどうかが重要だったので、
>そこの部分はあまり気にしませんでした。

 すでに述べたように、著者の現代論理学の理解がゼロに等しく(というより、ある意味、マイナスです!)、それを全く自覚しないままこうも推移しているとなると、著者の『方便心論』の理解も疑わざるをえません。
 学問的姿勢は、全て地続きなのです。
 かりに石飛さんの学問的姿勢が「誠実」であり、「不勉強」でもないとすれば、前述のように、石飛さんの真意は(というか無意識の欲望は)、心ある人に対して、わざとインド論理学の支離滅裂さを自ら実演して見せて、『方便心論』の価値をも全否定することだ、と私は理解しています。

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RE:不完全な回答かもしれませんが 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月22日(土)08時05分26秒

φさま、レスありがとうございます。

まず始めに申し上げると、前回、無宗ださんが確認された3つの問題点

(1)「現代論理学」には、述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるにもかかわらず、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させていること。
(2)真理表の全ての可能的接続詞に名前が付いていないことを根拠に、「真理表には穴がある」と主張していること。
(3)穴とされる真理表自体、実は、「QならばP」の真理表に過ぎず、他にも、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々の呼び名があるにもかかわらず、名前が付いていないと主張していること。

 これだけですでにあの本は読者を欺いており(もし著者が不誠実でないとしたら、どうしようもなく不勉強ということです!)、公刊本としては失格ではありませんか?
 「チャッカ」は必要条件の真理表にすぎないということが、一言でも書かれていましたか?
 「いや、あれは実は違って、普通の真理表ではなくて、時間の要素がどうのこうの」と後から言い足してもダメです。p.42~43の頁境あたりの滑稽な記述は撤回できません。
 読者は、書かれたことで理解しますから、ああいうウソ本は責任重大ですよ。

たとえば、ここに右後ろのブレーキランプが切れ、カーステレオが故障している乗用車があったとしよう。
私有地内を走る分には何の問題もないし、ブレーキランプを交換すれば公道も走ることができる。
カーステレオが故障していることは、車本来の機能にとって何の不具合でもない。

さて、車に関してであれば、こういったことが言えるが、論理学の書籍に関して、素人の私は何の判断基準も持たない。
また、いうまでもなく、その書籍に関して私は何の責任もない。
私にできることといえば、私にわかる範囲で感想を述べること程度である。

(1)に関していえば、現代論理学が「命題論理」がすべてと思う人はいないだろうし、かといって、命題論理と三段論法以上のものを知っている人もまれだろう。実際私は高階の論理学、様相論理学、時制論理学と言われても何のことかよくわからない。特に問題があるとは感じない。

(2)(3)に関していえば、PQの順序を入れ替えなければ、QならばPの真理値表に対応する演算子が無いことは事実なので、「真理表には穴がある」と主張することも可能だと考える。
ただし、
>  「数学では、2の倍数を「偶数」と呼ぶが、3の倍数を表わす慣用句がない。したがって、数学は不備である」
>  ↑こう主張する人がいたらどう思いますか。数学を理解していないことが明白ですね。残念ながら、石飛さんの本はそのレベルのものです。
との指摘があったように、p43の「接続詞の無いことを理由に、この接続詞に対応したことは扱えない」という主張には問題がある。
「公刊本としては失格」か否か判断する基準を私は持っていない。

>  「チャッカ」は必要条件の真理表にすぎないということが、一言でも書かれていましたか?
書かれていなかったように思う。
たしかに、
・「チャッカ」が、「QならばP」の真理表と形式の上で一致すること。
・「チャッカ」は時間を含むため、「QならばP」とは本質的に違うこと。
が、わかるように書かれていないために読者に不必要な疑いを起こさせている面は存在する。

>  p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」と、p.45の2~3行目とが矛盾していることに気づかない読者は、よっぽど鈍い人だと思いますよ。
>  現代論理学を全く知らない読者であっても、あの本のあちこちにある矛盾を手掛かりにして、現代論理学に関する部分は全部ウソだということが読み取れるはずです。

私はこの本の価値は、原始仏典の中にブッダの論理学が隠されていた、それが方便心論により明らかになったというという指摘にあります。先の例で言えば、現代物理学に関する記述の正確さはカーステレオ機能のようなものに過ぎません。
私には、「現代論理学に関する部分は全部ウソ」かどうかは判断できないし、どちらであるかはさほど重要な問題ではありません。

■>【質問1】に関して

>  因果関係が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから、あの本全体の書き方が無意味となります。
>  真理関数の意味はおわかりでしょうか。構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
>  「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。

えーと、ごめんなさい。
真理関数の意味が私には良くわかっていないようです。
必要条件は真理関数なのでしょうか?

「QならばP」が真理関数であれば、同様に
 必要条件が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の必要条件である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから。
 真理関数は構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
 「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、必要条件の真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。

となりませんか?

 因果関係が真理関数であり、必要条件は真理関数ではないのだとすれば、その根拠はあの本のどこの記述によるのでしょうか?
 この真理表の(2)列目の解釈は私にとって重要な問題です。

> >2500年前にブッダは、
> >多数の事象の中でどれが原因でどれが結果であるかを
> >決定する手段として
> >(1)「xがあるならば、yがある」
> >(2)「xがないならば、yがない」
> >という公式を発見した。
> >これは、(1)によって発見したxとyとの関係が、
> >因果関係であるかどうかを(2)によって確定するというものです。
>
>  文字通りとれば、その「公式」とやらは、同値関係(≡)です。チャッカの真理表ではありません。

文字通りとれば、「xがある、yがない」に関する真偽は不定であり、同値関係(≡)か、必要条件かはどちらとも決められません。

■>【質問2】について

 命題の真偽の関係に焦点を絞った真理表という限定的な装置に対して、見当違いのナイモノネダリをして「現代論理学」は時間を扱えないなどと、正気を疑われてしまいます。
なるほど。

>  たとえば……「物理学は、分子だろうが人体だろうが恒星だろうが、どのレベルでも成り立つ法則を扱います」「それは理想論ではないでしょうか?」
>  ↑こういう問答にはあまり意義はないでしょう。
たしかに、こういう問答にはあまり意義はないですね。失礼いたしました。

φさまは、論理学と哲学や数学との関係をどのように考えておられますか。
私は現在、
・論理学とは、みずからが用いる論理への自覚的反省をメタ論理とするならば、メタ論理を体系化したもの
・哲学とは知りたいという以外のいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営みのこと
・数学は、論理学をある真理群に対して適用した応用例
ではないかと考えているのですが、いかがでしょうか?
たとえば、ユークリッド原論には、
http://www.rimath.saitama-u.ac.jp/lab.jp/fsakai/he.html
定義、公理、公準 がありますが、「定義と公準」が真理、「公理」が論理(学)になるのではないかと思うのですがいかがでしょうか?

【質問3】について

>  しかし、もしですよ、『ブッダ論理学 五つの難問』』のような歪曲的論述がインド論理学だというなら、インドには論理学は無かった、と断定できます。
>  ブッダの倫理は(論理以前に倫理は)ああいう書き方を許すのでしょうか。

たとえば、仏典に「田を耕すバーラドブァージャ」という話があります。
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta.htm#1-4

ブッダがバラモンに、「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」といわれて、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と応えたという話です。

見方によれば、ブッダは畑仕事をしていないのに、「している」という嘘をついたという解釈も可能でしょう。
私にとっては、方便心論を理解する上で、役に立つかどうかが重要だったので、そこの部分はあまり気にしませんでした。

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不完全な回答かもしれませんが 投稿者:φ 投稿日: 7月20日(木)19時19分35秒

まず始めに申し上げると、前回、無宗ださんが確認された3つの問題点

(1)「現代論理学」には、述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるにもかかわらず、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させていること。
(2)真理表の全ての可能的接続詞に名前が付いていないことを根拠に、「真理表には穴がある」と主張していること。
(3)穴とされる真理表自体、実は、「QならばP」の真理表に過ぎず、他にも、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々の呼び名があるにもかかわらず、名前が付いていないと主張していること。

 これだけですでにあの本は読者を欺いており(もし著者が不誠実でないとしたら、どうしようもなく不勉強ということです!)、公刊本としては失格ではありませんか?
 「チャッカ」は必要条件の真理表にすぎないということが、一言でも書かれていましたか?
 「いや、あれは実は違って、普通の真理表ではなくて、時間の要素がどうのこうの」と後から言い足してもダメです。p.42~43の頁境あたりの滑稽な記述は撤回できません。
 読者は、書かれたことで理解しますから、ああいうウソ本は責任重大ですよ。

■>【質問1】に関して

>> 「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の
>> 原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。
> ここは、石飛先生の考えがうまくφさまに伝わっていないようです。

 因果関係が真理関数であり、必要条件の真理表で表わせるというならば、「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因である、が正しいことになりますよ。それを否定されるようでは、真理関数を持ってくる意味がありませんから、あの本全体の書き方が無意味となります。
 真理関数の意味はおわかりでしょうか。構成要素である命題の真偽がわかれば、自動的に全体の真偽が決まるような関数です。意味内容を考えずに、自動的に決まらねばなりません。
 「真珠湾が12月に奇襲された」は真、「1962年に地球は消滅した」は偽ですから、チャッカの真理表の(2)列目にあたり、全体は真となるほかありません。

 真理表は、数学で言えば、九九の表みたいなものです。九九の表だけで、有理数も実数も微積分も相対論もナシで、銀河の生成の仕組みを突き止められますか。
 真偽しか扱えない真理表で因果を解明しようなど、トンデモ本の域にすら達していません。論理学の初歩の初歩にすぎない命題論理の、しかも真理表の一部だけで因果関係がわかるなどと、冗談も休み休み言ってほしいです。ネット上のおしゃべりでなら自由ですが、公刊した書物からは一刻も早く削除しないとマズイですね。
 何度も言いますが、命題論理だけで現代論理学を解説している本があったら教えてほしいです。述語論理学だって、1階論理ならばきわめて単純なのだから(しかも歴史的には命題論理より述語論理のほうが先です。アリストテレスの三段論法は、述語論理に限定されています)、「煩瑣になるので略すことにしよう」(p.97)とは論外ですね。
 肝心なところを略してばかりいたら、どんなものでも不完全に見えるのは当り前ですよ。

>2500年前にブッダは、
>多数の事象の中でどれが原因でどれが結果であるかを
>決定する手段として
>(1)「xがあるならば、yがある」
>(2)「xがないならば、yがない」
>という公式を発見した。
>これは、(1)によって発見したxとyとの関係が、
>因果関係であるかどうかを(2)によって確定するというものです。

 文字通りとれば、その「公式」とやらは、同値関係(≡)です。チャッカの真理表ではありません。

>「現代論理学の真理表」では時間を扱えないとさんざん主張した後で、
>チャッカなる真理表が(時間を含む)因果関係を表しているというのは
>矛盾と感じました。
>これを質問したところチャッカは、
>時間経過も含む演算子であるとの説明を受け、
>一応納得しましたが、たしかにもっと詰める必要があるとは感じます。

 だから、始めから真理関数であるかのような書き方は読者を騙すだけなんです。

 ピロリ菌は胃ガンの原因なのか、売春は堕落の原因となるのか、鈴木貫太郎の黙殺会見は原爆投下の原因だったのか、等々について間違いなく教えてくれる「論理学」なるものがあるというのでしょうか?
 「論理学であるからには真偽で割り切ったかのような装置で説明しなきゃ、だけどインド論理学の凄さを宣伝するには医学や社会学や歴史学も含むんだと言っとかなきゃ」。――こんな場当たり的な安易な態度でいいのなら、学者は苦労しません。

■>【質問2】について

>真理関数が、そもそも時間を扱わないことを前提にしているからということでしょうか?

 「真理表は色彩を反映していない、だから現代論理学は色彩を扱えない」
 「真理表は人権を表現していない、だから現代論理学は人権を扱えない」
 「真理表は重力を無視している、だから現代論理学は宇宙の解明には役立たない」

 ↑こんなふうに言う人をどう思いますか?  論理学がわかっていない証拠ですよね。
 色彩にしろ、人権にしろ、時間にしろ、扱いたければ、個々の命題の内容に含ませればよい。あるいは、色彩述語、人権演算子、時制演算子などを定義して、ブール代数に合致した公理系でも作ればすむことです。時制論理学なんて、かなりの所まで進んでいますよ。

 命題の真偽の関係に焦点を絞った真理表という限定的な装置に対して、見当違いのナイモノネダリをして「現代論理学」は時間を扱えないなどと、正気を疑われてしまいます。

>「滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。」
>というよりは、「滞りなく討論するための枠組みを与えることを
>目指しているのが論理学です。」ではないでしょうか?

 たとえば……「物理学は、分子だろうが人体だろうが恒星だろうが、どのレベルでも成り立つ法則を扱います」「それは理想論ではないでしょうか?」
 ↑こういう問答にはあまり意義はないでしょう。
 学問は、分業によって成立しています。分子レベルでのみ成立する事柄については化学があり、人体については生理学や生物学があり、恒星や銀河については天文学があります。それら全てを普遍的にまとめるのが、物理学です。そういう分業体制で学問が分類されているのだから仕方ありません。
 物理学は、有を扱います。しかし、最近の物理学では無も扱わねばならない場合があるようです。数学や哲学は、はっきり無も扱います。有であれ無であれ(それらの区別すらせずとも)、いかなる主題や前提にも妥当する法則を扱うのが、論理学です。

 「存在論が異なるから対話が成り立たない」という意味のことを言う人がときどきいますね。そういう人は、議論をしたくないだけです。逃げるための方便です。
 論理学や哲学を志す人は、「存在論が(前提が)(世界観が)違うので水掛け論ですね。サヨナラ」という態度は決してとりません。存在論は、論理学や哲学の中の、ごく狭い一部にしか過ぎません。
 論理学は、前提が異なれば、その前提に応じて、議論を設定する方法なのです。(議論を進めるための「演繹定理」という装置を見直されると良いです)

【質問3】について

「古くからインドに論理学があったという考え」については、申し訳ありませんが、私はなんの意見も持っていません。すみませんね。
 印度や中国その他の文化圏に関する知識がないため、私は、西洋で発展した論理学以外の「論理学」については、賞賛したこともなければ貶したこともありません。
 しかし、もしですよ、『ブッダ論理学 五つの難問』』のような歪曲的論述がインド論理学だというなら、インドには論理学は無かった、と断定できます。
 ブッダの倫理は(論理以前に倫理は)ああいう書き方を許すのでしょうか。

>多彩な関係をそのまま認めると何故まずいのかが良くわかりません。
>論証の際に、論証を行う人が根拠を選択するように、
>何かを説明する際に、因果関係を使用する人が、
>その主張のために必要な因果関係を選択すれば
>いいだけなのではないでしょうか?

 もちろんそうですね。個々の場面において何を原因とするかは、便宜的に定めればよいし、そうするしかないでしょう。
 しかし、哲学や論理学で「因果」を扱う場合は、個々の特殊な例をいくら論じてもダメで、「原因」「結果」という概念の分析が必要になります。因果はもともと経験的概念であって論理的概念ではないので、論理学の原始概念(無定義概念・基本概念)に入ることはないでしょう。特殊な応用論理学は別にして。
 前にも言ったとおり、論理学はもちろん、哲学、そして物理学ですらそうですが、「時間」や「因果関係」は基本概念ではなく、もっと基本的な概念に還元できると考えるのが主流ではないでしょうか。

>つまり、「取り扱う文」に対する制約は論理学にあるのではなく、
>物理学や歴史学や生物学等といった論理学を使う側にのみあり、
>論理学自体にはそういった制約は無いということですね。

 p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」と、p.45の2~3行目とが矛盾していることに気づかない読者は、よっぽど鈍い人だと思いますよ。
 現代論理学を全く知らない読者であっても、あの本のあちこちにある矛盾を手掛かりにして、現代論理学に関する部分は全部ウソだということが読み取れるはずです。

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Re2:因果関係に関して 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月20日(木)05時51分38秒

φ さま、回答ありがとうございました。

【質問1】に関して

> Σ氏の疑問の真意の細部
を、私の理解において簡単に解説すると、真理値表の見方に関し、たとえば
   PQ  PはQの必要条件(QならばP)
(1)1 1    1
(2)1 0    1
(3)0 1    0
(4)0 0    1
において、(2)が真と言う事に関し
P=1、Q=0の時、「PはQの必要条件」という命題は真ということを
P=1、Q=0の時、真であれば、「Pは¬Qの必要条件」という言明が成り立つ
と混同しているのです。

>  「Pが真でQが偽である場合、『PはQの原因である』は正しい」と述べているかのような石飛さんの真理表説明がもともとナンセンスですから、疑問が出て当然だとは思います。
>  「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。
ここは、石飛先生の考えがうまくφさまに伝わっていないようです。

私の理解したところでは、
2500年前にブッダは、多数の事象の中でどれが原因でどれが結果であるかを決定する手段として
(1)「xがあるならば、yがある」
(2)「xがないならば、yがない」
という公式を発見した。
これは、(1)によって発見したxとyとの関係が、因果関係であるかどうかを(2)によって確定するというものです。

x:「真珠湾が12月に奇襲された」
y:「1962年に地球は消滅した」
では、(1)をそもそも仮定できません。

x:「雲がある」
y:「雨がある」
だと、(1)を仮定し、(2)を満たすので因果関係として確定できます。
真理値表の2行目は、「雲がある」のに、「雨がない」場合も存在するといっているだけです。

> 石飛さんは、チャッカの真理表で(――繰り返すと、単に「QならばP」の真理表として出すべきもの。わざわざ名を付ける必要なし)、関係が因果関係であるための必要条件を提示したかったのでしょう。そういうことなら、私には理解できます。結果Qは、原因Pがなければ生じないものである。そして、原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。この意味で、原因Pは、結果Qの必要条件です。

ということだと思います。

>   「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ > と書いてあるところを見ると、石飛さんは因果関係が真理関数で表わせると思い込んでおられるようで、チャッカなる真理表が因果関係を表しているという意味だとしたら、杜撰きわまりない言い方です。Σ氏の苦言はもっともではないでしょうか。

これに関しては、私も混乱しました。「現代論理学の真理表」では時間を扱えないとさんざん主張した後で、チャッカなる真理表が(時間を含む)因果関係を表しているというのは矛盾と感じました。
これを質問したところチャッカは、時間経過も含む演算子であるとの説明を受け、
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi?mode=allread&pastlog=0001&no=9&page=25&act=past#9
一応納得しましたが、たしかにもっと詰める必要があるとは感じます。
現在、石飛先生は、因果関係として正しいか否かで真偽を割り振っていますが、時間の要素が入る関係上、西洋論理学における命題の真偽とは微妙に意味合いが異なり、そのため誤解が発生しているように感じます。
「春にタネを蒔けば、秋に収穫がある」という因果関係に関し、この因果関係が正しいか否かと、命題としての真偽は異なります。
時間的な要素も含め必要条件という言葉が使えるとすれば、『「春にタネを蒔けば、秋に収穫がある」という因果関係』は『「春にタネを蒔くことは、秋に収穫があることの必要条件である」』という命題として評価する必要がありそうです。

【質問2】について

 前半部分に関しては、PQの順序を入れ替えなければ、QならばPの真理値表に対応する演算子が無いことは事実なので、因果関係においてはPQの順序を入れ替えることはできないことを暗示しつつ、嘲笑の対象になりかねないのを覚悟の上で「真理表には穴がある」という表現をこのまま使い続けるか、φさまの指摘を受け、いわゆる「間違い」の修正を行うかは石飛先生の判断に任せるしかないように思います。

>  あるいは、現代論理学は時間を扱えない、という論拠が、どうやら真理表の特性に基づいているようですが、真理関数という概念が全然わかっていない証拠です。

これは真理関数が、そもそも時間を扱わないことを前提にしているからということでしょうか?

また、
 また、p.70の「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」
 というのは根本的な誤りです。
 むしろ、存在論を持たぬ者に対して、あるいは、別々の異なる存在論を信ずる者どうしで、滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。
 存在論がなくとも(もしくは、いかなる存在論的前提を抱く者どうしの間でも)変わりなく成立する体系でなければならないのです。実在が有だろうが無だろうが。そうでないと論理学の価値は大幅に減じてしまいます。

これは、理想論ではないでしょうか?
つまり、「滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。」というよりは、「滞りなく討論するための枠組みを与えることを目指しているのが論理学です。」ではないでしょうか?

たとえば、三段論法にしても、それを説明したり、実際に使用したりするためには、
・人間は死すべき運命にある。
・ソクラテスは人間である。
・ゆえにソクラテスは死ぬ。
という、何らかの存在論に基づく命題があって初めて実効を持つといえます。

最終的に抽出された枠組みが存在論にかかわらず成り立つことを目指したとしても、未知の存在論において成り立たない可能性があり、かつ、その構築の過程および適用の際に存在論を必要とするのであれば、「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」といえるのではないでしょうか?
これは詭弁でしょうか?

【質問3】について

石飛先生のサイト名の由来となるマニカナの共著者 宮元啓一氏が

http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/bunnka/cyoronri.html
 みずからが用いる論理への自覚的反省をメタ論理とするならば、メタ論理を体系化したものが論理学である。古い時代に論理学を確立したのは、ギリシア人とインド人だけである。哲学は論理学と併走してこそ哲学たりうる。その意味で、古い時代に哲学を生み出した民族は、やはりギリシア人とインド人だけである。

と書かれていますが、古くからインドに論理学があったという考えに関して、φさまはどのような考えをお持ちでしょうか?
古くからインドに論理学・哲学があったという考えは、一般に認められている考えなのでしょうか?

 ただし、多彩な関係をそのまま認めると、「彼が肺ガンで死んだ原因は何か?」「彼が生まれたことだ」「彼が3歳の時罹った肺炎を生き延びたことだ」「太陽系が出来たことだ」等々、原因が際限なく広がってしまいます。
 したがって、現代論理学では、因果を原始概念として認めることはまずなく、他の基本概念から導こう(構成しよう)とします。ヒューム以来、因果の実在そのものを疑う懐疑論に対抗するためですね。

多彩な関係をそのまま認めると何故まずいのかが良くわかりません。
たとえば、何かを論証する際には、何らかの根拠を必要としますが、真理の究極的根拠など存在せず、根拠の根拠を求めれば無限後退するだけです。
論証の際に、論証を行う人が根拠を選択するように、何かを説明する際に、因果関係を使用する人が、その主張のために必要な因果関係を選択すればいいだけなのではないでしょうか?

 論理学は、因果関係にかぎらず、個々の命題の真偽の判断には一切関知しません。それは物理学や歴史学や生物学の仕事です。論理学は、あくまで、ある命題の真偽と別の命題の真偽との【関係】をだけ担当します。

石飛先生が、『ブッダ論理学 五つの難問』の中で論理学書として紹介している方便心論においては、真知(真実の知識)を得る手段および、それらの真知を利用して新しい真知を得る手段、他人の主張が真知か否かを判断する手段等が述べられていますが、現代の「論理学」の範疇から考えると、真知を得る手段の部分は切り離して考えるべきということになるのでしょうか?
それとも、真知を得る手段まで含めるのをインド論理学の特徴と考えた方がいいのでしょうか?

したがって、p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」とは、デタラメもいいところです。論理学を勉強した人の言ではありません。
 「因果律は絶対の理法である」(p.135)云々といった説明を信じるなら、ブッダには論理学はなかった、と考えざるをえませんね。
つまり、「取り扱う文」に対する制約は論理学にあるのではなく、物理学や歴史学や生物学等といった論理学を使う側にのみあり、論理学自体にはそういった制約は無いということですね。

 因果とは何か、については、定説はありません。論理学的概念との関係についてはなおさらです。

そうなのですか。
石飛先生の主張しているブッダ論理学は、私の理解したところでは、最初から因果関係(縁起、空)を扱うことを念頭においた論理学です。
西洋論理学とインド論理学は全く相容れない論理学なのか、因果を扱う諸説のひとつと考えうるのか、どちらなのでしょうね。

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Re:因果関係に関して 投稿者:φ 投稿日: 7月17日(月)17時14分13秒

【質問1】
 Σ氏の疑問の真意の細部まではわかりませんが、
 「Pが真でQが偽である場合、『PはQの原因である』は正しい」と述べているかのような石飛さんの真理表説明がもともとナンセンスですから、疑問が出て当然だとは思います。
 「真珠湾が12月に奇襲された」が「1962年に地球は消滅した」の原因だ、が正しいなどとは馬鹿げていますからね。
 とくに、p.65に、
  「ブッダの公式」は、現代論理学の真理表と同じ
と書いてあるところを見ると、石飛さんは因果関係が真理関数で表わせると思い込んでおられるようで、チャッカなる真理表が因果関係を表しているという意味だとしたら、杜撰きわまりない言い方です。Σ氏の苦言はもっともではないでしょうか。

【質問2】
 そうですね、中でも(2)が致命的です。
 「数学では、2の倍数を「偶数」と呼ぶが、3の倍数を表わす慣用句がない。したがって、数学は不備である」
 ↑こう主張する人がいたらどう思いますか。数学を理解していないことが明白ですね。残念ながら、石飛さんの本はそのレベルのものです。
 真理表の一部を呼称する慣用句が見当たらないという表層の瑣事にこだわっている(惑わされている)態度そのものが、論理の深層、世界の実相に達しようという姿勢の放棄を示しています。論理とは何か、が全く理解されていませんね。
 p.43~45などは、嘲笑の対象になりかねず、私はハラハラしています。早く改訂版を出さないとまずいのではないでしょうか。
 ちなみに、真理表は命題が2つの場合だけでなく、任意の個数の場合に拡張しなければなりません。(石飛さんはそのことは無視していますが)。そのすべての真理表に対応する真理関数の呼び名がなければならないと言い張るとしたら、論理学の理念に反するものでしょう。

 問題は3点だけではありません。他にはたとえば、p.197には読者を誤解させることが書かれています。「一切」を語るには、∧∨⊃≡*と否定の六つが必要であるかのような暗示です。実際は、任意の接続詞一種と否定とがあれば、一切の真理表は供給できます。
 さらに言えば、シェーファー関数といわれる接続詞を用いれば、否定も必要なく、シェーファー関数という一つの接続詞だけですべての真理表を網羅することができます。

 あるいは、現代論理学は時間を扱えない、という論拠が、どうやら真理表の特性に基づいているようですが、真理関数という概念が全然わかっていない証拠です。

 また、p.70の「論理学というのは、存在論があって初めて成り立つ学問」
 というのは根本的な誤りです。
 むしろ、存在論を持たぬ者に対して、あるいは、別々の異なる存在論を信ずる者どうしで、滞りなく討論するための枠組みを与えるのが論理学です。
 存在論がなくとも(もしくは、いかなる存在論的前提を抱く者どうしの間でも)変わりなく成立する体系でなければならないのです。実在が有だろうが無だろうが。そうでないと論理学の価値は大幅に減じてしまいます。

【質問3】

 因果関係については、無宗ださんの考えでよいと思います。
 個々の原因は必要条件だが、全部合わせると、結果が生ずるための十分条件となる、という感じですね。
 ただし、多彩な関係をそのまま認めると、「彼が肺ガンで死んだ原因は何か?」「彼が生まれたことだ」「彼が3歳の時罹った肺炎を生き延びたことだ」「太陽系が出来たことだ」等々、原因が際限なく広がってしまいます。
 したがって、現代論理学では、因果を原始概念として認めることはまずなく、他の基本概念から導こう(構成しよう)とします。ヒューム以来、因果の実在そのものを疑う懐疑論に対抗するためですね。

 論理学は、因果関係にかぎらず、個々の命題の真偽の判断には一切関知しません。それは物理学や歴史学や生物学の仕事です。論理学は、あくまで、ある命題の真偽と別の命題の真偽との【関係】をだけ担当します。
したがって、p.44の「現代論理学では、「取り扱う文は、誰もがいちおう認めている事柄を述べる場合にかぎる」という制約がある」とは、デタラメもいいところです。論理学を勉強した人の言ではありません。
 「因果律は絶対の理法である」(p.135)云々といった説明を信じるなら、ブッダには論理学はなかった、と考えざるをえませんね。

 因果関係に関する良書は、私も教えてほしいほどなのですが、論理的な条件概念との関わりでは、G.H.フォン・ウリクト『説明と理解』(産業図書)のとくに第2章がわかりやすかった記憶が。(ただし絶版かもしれません)。
 因果とは何か、については、定説はありません。論理学的概念との関係についてはなおさらです。

…………………………………………………………………………………………
 以上は、実は、おおかた、石飛さん御本人に対してもすでに率直に述べたことばかりです。自費出版ならともかく、企画出版として流通させる書物であるからには、読者に対する責任上、こんなデタラメは許されません、と申し上げたのですが、十分通じなかったようで……。
 amazonのレビューに書いている人もいましたが、「論理学への無理解のサンプル」としては役に立つ本かもしれませんね。(そんなんでいいのか?)

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Σ=あおみ 投稿者:Θ 投稿日: 7月17日(月)15時15分35秒

初めましてΘと申します。
石飛氏のHPからあおみという方がΣという名でこちらにお邪魔しておるようです。
石飛氏のHPでは原始仏教やインド哲学を中心とした話題と「ブッタ論理学」についての論議がなされております。
Σこと、あおみ氏のそのログを読まれると解ります。

http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

彼は最近、自分の論調の不備により論議において、負けてばかりです。
今回、とうとう自力では無理であると判断したのか、論理学者であられる先生のご発言を利用して、自らの論調を正当化しようとしております。
彼は般若宗なる新興宗教の教祖を自称する人物で、自らの宗教の正当化を主張しております。

http://www.hannya.net/

宗教的なドグマによりかなり感情的な書き込みがおおく、石飛氏のサイトでも多くの常連の方が困っているようです。
今回の無宗ださまについてのΣ氏からの評価はかなり偏見のあるものです。
一方的な批判は問題がありますので、一度、ご確認くださるようにお願いいたします。
http://hpcgi1.nifty.com/manikana/bbs/wforum.cgi

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先生に、深謝とお詫び 投稿者:Σ 投稿日: 7月17日(月)14時43分55秒

先生へ

私の質問に的確にお答え戴き、心から深く感謝申し上げます。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

なお、石飛女史の取り巻き衆の人がここに来て、この掲示板を荒らすことがないように、私も強くお願いしてあったのですが、残念ながら
掲示板の遊び人を名乗る「無宗だ」さんという人が早くも、乗り込んで来てしまいました。
ご迷惑をおかけしましたことを、心からお詫び申し上げます。

私の対話経験からして、無益な噛みつきをどこまでも続けて来る可能性がありますので、
石飛取り巻き衆のこうした質問に、いちいち返答する必要はないものと思います。

ここの掲示板の学術的雰囲気が荒れる、と判断なさった場合、
どしどし、彼らの書き込みを削除して下さいますように、お願い申し上げます。

と申しますのも、「この方々には本当にわかろう」という気持ちがないように感じられるからです。
一種の狂信に駆られている感じがします。恐ろしいことです。
論理学よりパーリ経典が先にあるのです。

というわけで、無宗ださんの書き込みに対して、回答しても時間の無駄とご判断なさった場合、彼の投稿を削除して下さって結構だと思います。
それが一つの、そして充分な回答になると、私は確信します。


それに、本当に疑問があれば、石飛女史が直接ここで質問すれば良いことですから。
その意味で、道子女史取り巻き衆の狂信にはつきあう必要はない、と私は強く思います。

とにかく、先生にご迷惑おかけしましたこと、心からお詫び申し上げます。
どうか、ご寛恕下さい。

また、論理学的疑問があった場合、宜しくお願い申し上げます。

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因果関係に関して 投稿者:無宗だ 投稿日: 7月17日(月)12時54分24秒

φさま、はじめまして。

石飛先生のサイト「MANIKANA=HOMEPAGE/マニカナ・ホームページ」
http://homepage1.nifty.com/manikana/
の掲示板で遊ばせてもらっています無宗だと申します。

> たしかに「子供の論理」ですね 投稿者:φ 投稿日: 7月17日(月)02時58分41秒
に関して、確認したい点がありますので、回答いただければ幸いです。

【質問1】
Σ氏の疑問、
> 上記の真理表の(2)は、普通の論理学徒が普通に読んでも、石飛女史のような意味で理解するのが正しいのでしょうか?
> それとも、私の読み方が普通であって、石飛女史の「読ませ方」は、特殊な新しい規則として読ませる、ということなのでしょうか?
に対する答えは、

> 石飛さんは、チャッカの真理表で(――繰り返すと、単に「QならばP」の真理表として出すべきもの。わざわざ名を付ける必要なし)、関係が因果関係であるための必要条件を提示したかったのでしょう。そういうことなら、私には理解できます。結果Qは、原因Pがなければ生じないものである。そして、原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。この意味で、原因Pは、結果Qの必要条件です。

であり、Σ氏の疑問に思っている(2)の部分は
> 原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。
を意味しているだけで間違いではない。単にΣ氏の理解力不足である
ということですね?

【質問2】
φさまが、
> 「現代論理学」について書かれていることは全部ナンセンスである
> 間違いの重大さからして、読者への責任を自覚してもらわないと。
といっているのは、

(1)「現代論理学」には、述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるにもかかわらず、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させていること。
(2)真理表の全ての可能的接続詞に名前が付いていないことを根拠に、「真理表には穴がある」と主張していること。
(3)穴とされる真理表自体、実は、「QならばP」の真理表に過ぎず、他にも、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々の呼び名があるにもかかわらず、名前が付いていないと主張していること。

の3点と考えてよろしいでしょうか?

【質問3】
因果関係に関して > ただし、必要条件だというだけでは十分ではありません。必要条件のうち、もっと狭く限定されないと、因果関係とは認められません。
といわれていますが、たとえば、
「稲や麦の種を蒔き、水を引いて灌漑すれば、苗はよく育つが、雑草を取り去らないと穀物はよく実らない」

「穀物がよく実る」といった結果を得るために、

因:稲や麦の種を蒔く ---- 果:穀物がよく実る
因:水を引いて灌漑する---- 果:穀物がよく実る
因:雑草を取り去る ------ 果:穀物がよく実る

という3つの因果関係があると考えていいのではないかと思うのですが、駄目なのでしょうか?
必要条件をどのようにして、もっと狭く限定すると、因果関係とは認めれるのか?
参考になる書籍等あれば紹介いただけないでしょうか?

以上、よろしくお願いいたします。

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たしかに「子供の論理」ですね 投稿者:φ 投稿日: 7月17日(月)02時58分41秒

 たしかに『ブッダ論理学 五つの難問』は、論理学というものが根本からわかってないことを露呈していますね。
 著者ご本人から恵送いただいたので、注意深く読んだつもりなのですが、御返事するときに困り果ててしまいました。学問的な礼儀ですから、「現代論理学」について書かれていることは全部ナンセンスであるという感想をお伝えしましたが、石飛さんには納得していただけないようでした。ほんと、真剣にとってもらわねば困るんですけれどね。間違いの重大さからして、読者への責任を自覚してもらわないと。

 まず、真理表の意義が理解されていません。真理表は、命題関数の一部を取り出して便宜的に表にしたもので、論理学の装置の全てに対応しているわけではありません。「または」「かつ」「ならば」等、日常言語に近い少数の接続詞について習慣的にまとめただけの道具です。全ての可能的接続詞に名前が付いていなければ「真理表には穴がある」ことになるとは、誤解以下のレベルと言えます。名付けという便宜的表現の問題と、論理の実質とが混同されていますね。

 しかも、そもそもチャッカは、習慣的にすら名前が付いています。QならばP、PはQの必要条件である、QはPの十分条件である、等々が、現代論理学における「チャッカ」の名前です。それがなぜ「現代論理学で表現できていない」と言われるのか、私にはさっぱりわかりませんでした。石飛さんの書いたチャッカの真理表が単に「QならばP」の真理表に過ぎないことが、あの本には述べられていません。読者は大いに誤解するのではないでしょうか。

 さて、因果関係そのものは、真理表では表わせませんね。因果関係は真理関数ではないからです。
 もし、「チャッカ」の真理表で因果関係が表わせるとすれば、「日本の首都は東京である」は「太陽は月より大きい」の原因だ、ということになってしまいますが、それは変ですね。石飛さんは、チャッカの真理表で(――繰り返すと、単に「QならばP」の真理表として出すべきもの。わざわざ名を付ける必要なし)、関係が因果関係であるための必要条件を提示したかったのでしょう。そういうことなら、私には理解できます。結果Qは、原因Pがなければ生じないものである。そして、原因Pがあっても、諸々の阻害要因により、結果Qが生じないことがある。この意味で、原因Pは、結果Qの必要条件です。ただし、必要条件だというだけでは十分ではありません。必要条件のうち、もっと狭く限定されないと、因果関係とは認められません。

 ともあれ、『ブッダ論理学 五つの難問』で言われる「現代論理学」とは、命題論理のことだけですね。述語論理学、高階の論理学、様相論理学、時制論理学など色々あるわけですが、初歩の命題論理だけで「現代論理学」を代表させ、しかも見掛けの「穴」をもってその限界を批判したと称するなど、見当外れも甚だしく、きわめて残念です。インド論理学の紹介と応用のために、現代論理学をあえて「批判」する必要はもともとなかったはずなのですし……。

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真理表の読み方 投稿者:Σ 投稿日: 7月16日(日)22時52分24秒

三浦先生へ

初めて書き込みします。先生の書物を最近読んでファンになりました。以後、先生の書物はなるべく全部読んで行きたいと思っております。
さて、今回、一つ、どうしてもお尋ねしたいことがあり、書き込みしました。

石飛道子女史が『ブッダ論理学』という書物を出版しているのですが、私はこの本に疑問を感じています。第一印象としては「大人の論理」ではなく「子供の論理」なのではないか? と。
しかし、論理学に詳しくないので、絶対にそうだとは言い切れません。
三浦先生がいつか書評なさって戴ければ・・と思います。

さて、石飛女史はインド論理学の研究者で、上記の著書の中で、
現代論理学と違い、インド論理学では因果を語れると主張しています。
そして、「*」という演算子を創設し、「チャッカ」と名付け、チャッカで結ぶ左辺と右辺の間には因果関係がある、という論理記号を発案しました。
そして、「P*Q」という因果関係論理式があった場合、
この論理式につき、下記のような「真理表」を作成しています。

(因果関係論理式の真理表)
    P Q  P*Q
(1)  1 1    1
(2)  1 0    1
(3)  0 1    0
(4)  0 0    1
1=T 0=F
具体例としては、
Pを「雲がある」 Qを「雨がある」 とした時、「雲があるから雨がある」という因果式になります。

上記の真理表で、私が分からないのは、(2)です。なぜ「P(1)*Q(0)=1」なのか、です。
石飛女史ご本人は、彼女のHPで、(2)「雲がある時、雨がない場合」でも、「雲がある時、雨がある」という因果式は不動であるから、(2)は真になる、と解説なさいました。 ここが私の頭を悩ませる部分です。「ヘンだな、と」
普通の真理表の読み方からすれば、(2)は「雲がある、が真である時、雨がある、が偽であることとの間に因果関係があるという意味の論理式P(1)*Q(0)は真(1)である」 と読むことになると思うのです。
こうした普通の読み方の場合、「P(1)*Q(0)」即ち、「真なるP」と「偽なるQ」の間に真(1)なる因果関係がある、という意味になると思うのです。

ところが、石飛女史によれば、違うのです。
(2)は、「雲がある、が真である時、雨があるが偽である場合、たまたま、雨があるという因果関係がここでは阻害要因によって発現しなかっただけだから、<雲がある時、雨がある>という因果式には影響がないので、<P(1)*Q(0)=1>で良い」 と解説しています。

上記の真理表の(2)は、普通の論理学徒が普通に読んでも、石飛女史のような意味で理解するのが正しいのでしょうか?
それとも、私の読み方が普通であって、石飛女史の「読ませ方」は、特殊な新しい規則として読ませる、ということなのでしょうか?

西洋論理学の含意の「P→Q」の場合、「P(0)→Q(1)=1」になるのは、Pが偽の時にはQが真でも偽でも構わないというロジックあってのものだと思いますが、これと同様、因果論理演算子チャッカにおいては、含意と反対のケースとして、<P(1)*Q(0)=1>になる、つまり、Pが真の時にはQが真でも偽でも構わないというロジックを使っての<P(1)*Q(0)=1>と主張したいという事はわかるのですが、果たして、彼女の思惑通り、含意の時のロジックを応用して、このケースを「真」として良いかどうか、という問題です。
どうも、私は、そんな読ませ方はできない、と感じるのですが・・・真実はどうなのでしょうか?

「真理表の読み方」という、極めて超初歩の事柄なのですが、頭を悩ませているので、 どうか、三浦先生のご高見を賜ることで、我が悩みが氷解することを切に希望して、ここに書き込みさせて戴きました。迷える小羊を助けると思って、どうか何卒、宜しくお願い申し上げます。

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Re:Re:ホリスのパラドクスについて 投稿者:Υ田 投稿日: 7月16日(日)10時27分6秒

しつこくてすみません。久しぶりに論理記号をまじめに使おうとしたので、誤用しているかもしれませんが、ご寛恕ください。

 太郎と次郎が選んだ数をそれぞれ t,j とすると、三郎は

  t≠j
∧ ¬(太郎が手に入れうる情報├(t ∧ ¬(次郎が手に入れうる情報├(t
と言いました(とΥ田は解釈しております)。しかし、「太郎(または次郎)が手に入れうる情報」は、三郎のせりふを含みます。したがって、三郎のせりふの意味を下手に分析すると、悪循環に陥る恐れがあります。

三郎のせりふをξとして、素直に分析すると
ξ=「 t≠j
∧ ¬ ((太郎が元から持っていた情報∧ξ)├(t ∧ ¬ ((次郎が元から持っていた情報∧ξ)├(t と書き直せるように思えます。ここで、「太郎が元から持っていた情報」とは、「t=217」であり、「次郎が元から持っていた情報」は、「j=次郎が選んだその数の具体的な値」です。しかし、このままでは、自己言及を含んでいます。

この素直な分析が正しいならば、ξから自己言及を含む部分を除いたξ0=「t≠j」は、明らかにξの主張の一部です。
 さらに、(α)の右辺のξにξ0を代入して得られる
ξ1=「 t≠j
∧ ¬ ((太郎が元から持っていた情報∧ξ0)├(t ∧ ¬ ((次郎が元から持っていた情報∧ξ0)├(t もまたξの主張の一部ということになります。この議論を繰り返すことによって、次の帰納的定義で定義されるξnが、すべての正整数nに対して成り立ってしまいます。

ξ(k+1)=「 t≠j
∧ ¬ ((太郎が元から持っていた情報∧ξk) ├(t ∧ ¬ ((次郎が元から持っていた情報∧ξk)├(t
素直な分析である(α)を採用すると、ξの主張の一部として∀nξnが帰納法で言えてしまうわけです。

しかるに、 ξ0∧ξ1∧・・・∧ξn は、 n ≦ min{t,j} と同値なので、nが218以上であるときに偽です。背理法により、三郎のせりふが偽であるか、または、素直な分析(α)が誤りです。

 三郎のせりふが真であることは問題文[1]の解説で確認済みなので、(α)が誤りです。(α)においては、三郎のせりふを、より強い命題に書き換えてしまっていたことになります。

 Ξn=「ξ0∧ξ1∧・・・∧ξn」とします。
 「Ξnは、 n ≦ min{t,j} と同値である」から、「 Ξnを成り立たせない最小のn が t+1 に等しいならt≦j。等しくないならj≦t」 と言えます。このことを利用すれば、三郎のせりふを(α)より弱い命題ζに解釈することができます。Ξnを成り立たせない最小のnをνと呼ぶことにして、次のように解釈します。

ζ=「
t≠j
∧ ¬((太郎が元から持っていた情報∧ζ)├(t+1<ν)) ∧  ¬((太郎が元から持っていた情報∧ζ)├(ν ∧ ¬((次郎が元から持っていた情報∧ζ)├(ν
( ∀n (n<ν ≡ Ξn)  )
」・・・(β)

(α)からξnを帰納的に定義できたのと同様に、(β)からζnを帰納的に定義できます。三郎の言葉を「∀nζn」と解釈することによって、「帰納法が使えて、三郎の言葉を真に保ち、t=217にも矛盾しない」解釈が得られました。これでホリスのパラドクスはパラドクスでなくなります。

===================
以上が私の主張です。実を言うと、まだ論理の跳びをきちんと埋めておりません。ちゃんと手を動かして論理の跳びを埋めてから投稿すべきと思いましたが、ここまでまとめるのに疲れてしまいましたので次回の投稿でフォローさせていただきます。

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Re:ホリスのパラドクスについて2 投稿者:φ 投稿日: 7月12日(水)19時07分8秒

 太郎が「次郎は200を選んでいるはずがないな……」と考えたところで次郎が「わかったぞ」と叫んだとしましょう。この叫びは、次郎が「太郎は200を選んでいるはずがないな……」と考えたところで起きたはず。しかも次郎はそのとき「わかった」のですから、その内容は、「私は201を選んでいる。したがって、より小さくない数を選んでいるのは、太郎である!」というもののはず。その叫びゆえに、太郎にも、「より小さくない数を選んでいるのは、自分である!」とわかることになります。
 たまたま同時に二人が「わかったぞ」と言ったなら、「選んだ数は同じだ。二人とも、より小さくない数を選んでいる」とわかります。

 しかしこのような設定は、答え合わせをしながら当てる設定と全く同じで、始めからパラドクスがないことは明白です。せめて、二人とも、互いの「思考時間」はわかっていない、したがって上のような照合法は使えないとするのが常識的です。さらにそれよりも、枚挙ではなく数学的帰納法によって二人とも、一挙に結論を出すと考えるのが妥当でしょう(コンピュータだからこそ数学的帰納法のような省エネ計算をするはず)。「三郎の言ってることは正しい、なのに私はこの数を選んでいる……」と二人とも悩むパラドクスに陥ります。
 この、パラドクシカルなバージョンで謎を解かねばならないでしょう。

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ホリスのパラドクスについて2 投稿者:ハム 投稿日: 7月11日(火)22時05分27秒

>コンピュータも無理でしょう。答え合わせをしながら当てる設定ではありませんから。

太郎の考えはこうです。
「次郎が1を選んでいたとすると、僕の数の方が大きいことが彼に分かってしまう。だから次郎は1を選んでいない。」

1 次郎が1を選んでいたとする。
2 僕の数の方が大きいことが彼に分かってしまう。
3 (次郎は答えていない。)
4 だから次郎は1を選んでいない

ここで3は、次郎が答えていないという答えを太郎が確認しているわけです。

太郎の推理は、相手の反応に依存しています。
このことが、太郎の推理によって答えが導けない原因だと思われます。
相手も太郎と同じ推理によって、太郎と同じ推理時間を要するか否か保障できませんし、
太郎と同じように推理をはしょるだろうからです。

これが同じ性能のコンピューター同士であれば、太郎コンピューターが1~4を推理したときに、
次郎コンピューターも1~4を推理していますし、推理をはしょることもしないでしょうから、
どちらかのコンピューターが選んだ数まで推理を繰り返したときに、相手のコンピューターが答えていなければ、
相手のコンピューターの選んだ数の方が大きいという答えが出せるわけです。

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Re:ホリスのパラドクスについて 投稿者:φ 投稿日: 7月10日(月)01時16分5秒

コンピュータも無理でしょう。答え合わせをしながら当てる設定ではありませんから。
で、
 >しかし、三郎は、任意の層でπが成り立つとまで断言したのでしょうか?

 断言していると解釈すべきでしょう。数学的帰納法が正しいならば。

ゼロについて成り立つこと(選ばれているはずがない)は1にも、2にも……と推論して、あらゆる数に当てはまる、という数学的帰納法が、実際にはなぜ正しくないのか。(現になぜ217に当てはまらないのか)。
 それを論理的に説明しなければなりません。そこがパラドクスなのです。

 なお、「より小さくない」という設定なら、「二人の選んだ数は等しくない」は不要です。

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ホリスのパラドクスについて 投稿者:ハム 投稿日: 7月 9日(日)16時37分21秒

私も読み直してみました。

このパラドクスは人間の推理のあいまいさが引き起こすパラドックスだと思います。
太郎、次郎が同じ性能のコンピューターであれば「どちらが選んだ数の方が大きいか、推理して当てること」ができます。
太郎コンピューターが1から217回の推理をした時点で、次郎コンピューターが答えていなければ、次郎の方が大きい数を選んでいることになります。

人間の推理の場合は、217回も同じような推理を繰り返すことはできません。
太郎がしているように、「この推理を繰り返すと・・」というように、同じ様な推理ははしょって結論を導き出そうとしてしまいます。

三郎が出した「どちらが選んだ数の方が大きいか」という問題に答えるには、推理する手順と時間がなければ答えられないのですが、
人間の脳みそは単純な繰り返し作業がきらいだし、その繰り返し作業の時間にも幅があり同程度だと保障もできませんので、三郎の言うとおりにどちらが大きいか当てることはできないことになります。

まあ、妥当な推理であっても人間には不可能な推理がある、ということだと思います。

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『ゼロからの論証』 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 9日(日)08時50分1秒

ご出版おめでとうございます!早速池袋ジュンク堂で探しましたが、
まだ店頭に並んでいないようです。
 「諸論文」のページに掲載されていたいくつかの論文が「夏頃出版」となっていたので、楽しみに待っていました。来週また探します。

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Re^2:ホリスのパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 9日(日)08時26分36秒

太郎は、「三郎の言葉は正しい。しかし、三郎の言葉を認めると、自分が特定の数を選んだという事実を否定せざるを得なくなる」と言って悩んでいます。
私は、「三郎の言葉(解釈β)は正しい。太郎が特定の数を選んだという事実を否定せざるを得ない解釈はαでってβではない。」と考えています。私の考えでは、ホリスのパラドクスは、三郎の言葉が2通りに解釈できることによる混乱に過ぎないことになります。

P0=「二人の選んだ数は等しくない。」
π=「どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は推論で当てることができない」

 正の整数kに対して、
Pk=「P0~P(k-1)を太郎次郎双方が信じているということを太郎次郎双方が知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は推論で当てることができない」
Qk=「二人の選んだ数のうち、小さいほうは、kより大きい」
とします。

 問題文によると、太郎が悩む原因は、「P0とπからQ1を演繹する→Q1とπからQ2を演繹する→Q2とπからQ3を演繹する→・・・→Q217を真と認める。しかるに、Q217は偽のはずだ。矛盾だ!」という推論です。
 上の推論は、自分の心と相手の心で217層の入れ子を作り、どの層においてもπが成り立つものと仮定して初めて成り立ちます。
 しかし、三郎は、任意の層でπが成り立つとまで断言したのでしょうか?

 太郎は、悩む代わりに、「背理法によって、πが成り立たない層が存在する」と結論できます。πは一見すると変項を持たないので、層の深さに応じて審議を変えることができないように見えます。しかし、πをよく読むと、変項が1つ存在します。それは、「推論」が許可する入れ子の深さです。

 「入れ子の深さとして第k-1層までは許可する。第k層以上は認めない」を、私はPkと呼んでいます。この表記を使うと太郎が悩む原因は
、「P0とP1からQ1を演繹する→Q1とP2からQ2を演繹する→Q2とP3からQ3を演繹する→・・・→Q217を真と認める。しかるに、Q217は偽のはずだ。矛盾だ!背理法により、P1~P217のいずれかが偽である。」
に書き換えられます。どこかの層におけるπを否定することによって、太郎が217を選んだという事実を救済できました。

 太郎は「P1~P217のいずれかが偽である」を得ることはできますが、
T=「P217だけが偽である」
の真偽を知る材料を持ちません。Tが真なら、太郎の選んだ数のほうが小さく、Tが偽なら次郎の選んだ数のほうが小さいです。
 また、次郎も、「P1~Pjのいずれかが偽である」を得ることができますが、
J=「Pjだけが偽である」
の真偽を知る材料を持ちません。jは次郎が選んだ数です。

 太郎次郎ともにTとJの真偽を知り得ないので、どちらの数が小さいのか分からず、したがって、三郎の言葉は真のままです。

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『ゼロからの論証』 投稿者:ハム 投稿日: 7月 8日(土)17時49分21秒

ご出版おめでとうございます。
今度の本は、論証がテーマのようですね。
小説、エッセイ、事典項目、論文をステージごとに論証というテーマでまとめているのですね。
今までにない構成の本になりそうですね。

読者としては、突っ込みどころがあると嬉しいのですが・・・。
楽しみにしています。

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ここにおいでのかたがたに感謝 投稿者:φ 投稿日: 7月 6日(木)03時07分0秒

7月半ばに、『ゼロからの論証』という本を出します。
  http://russell-j.com/zero-st.htm
小説1、エッセイ4、事典項目1、論文8から成る文集です。
その中には、この掲示板で2003年あたりでしたか、「激論」(?)を引き起こした(過去ログをご覧ください)

   「シミュレーションが現実を虚構色に染め上げる(比喩ではない!)」

をはじめ、ここに来てくださったかたがたからのコメントでずいぶん助けられた論考が含まれています。ありがとうございました。
 本来ならすべてのかたに献本すべきですが、匿名のかたも多く、御著書を以前にお送りくださったかたなどを例外として、ここでの謝辞だけで失礼させていただきます。
 (本の「あとがき」でも、皆さんへの謝辞が述べてあります)

 なお、収録作のどれも、以前は私のHPに載せていましたが、今は取り外してあります。改稿の上、公刊されることになります。以前より根本的に改善された論文もありますので、お楽しみに。

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Re:ホリスのパラドクス 投稿者:φ 投稿日: 7月 5日(水)01時19分0秒

三郎の言葉が正しいことは、疑問の余地はありません。
「推理して当てることはできない(まぐれ当たりは可能かもしれないが)」と述べているという設定なので、解釈αは成り立ちません。

問題は、三郎が正しいのに、なぜ太郎も次郎も特定の数を選びえているのか、ですね。

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(無題) 投稿者:谷口和成 投稿日: 7月 3日(月)22時34分34秒

>しかし、次の解釈βに解釈すれば、単に真です。
>β:「Pnを成り立たせない最小のnは存在する。しかし、太郎と次郎はそのnの値を当てることができない。」
>Pnを成り立たせない最小のnの値(νと置きます)は、太郎の選んだ数と次郎の選んだ数のうち小さいほうの値によって決まります。ですから、νの値が分かれば、それが自分の選んだ数に合致するか否かによって、自分と相手のうちどちらの数のほうが小さいかがわかります。

はあ、なるほど。
そうですか?

わかりました。

http://wiki.livedoor.jp/fukuoka_bengoshi/d/

http://plus-1.hopto.org/soc/

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ホリスのパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 3日(月)00時07分36秒

「ホリスのパラドクス」は、三郎の言葉を明確に解釈することでパラドクスでなくなりませんか?
三郎の言葉を、次の解釈αで解釈すると、単に偽です。
α:「任意の負でない整数nについて、Pnが成り立つ」
ここで、Pnとは、

P0:「二人の選んだ数は等しくない。」
P1:「P0を知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は当てることはできない」
P2:「P0とP1を知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は当てることができない」

Pk:「P0~Pk-1を知っても、どちらの数がより小さくないかを太郎と次郎は当てることができない」


で定義される命題です。しかし、次の解釈βに解釈すれば、単に真です。
β:「Pnを成り立たせない最小のnは存在する。しかし、太郎と次郎はそのnの値を当てることができない。」
 Pnを成り立たせない最小のnの値(νと置きます)は、太郎の選んだ数と次郎の選んだ数のうち小さいほうの値によって決まります。ですから、νの値が分かれば、それが自分の選んだ数に合致するか否かによって、自分と相手のうちどちらの数のほうが小さいかがわかります。したがって、「νを当てることができない」は「どちらが小さいかを当てることができない」を含意します。

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Re^2:宇宙船のパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 2日(日)23時36分41秒

宇宙船が「一直線に」飛ぶのなら、1時間後の宇宙船の位置はそれまでの航路の延長線上にあると思ってたのですが、問題をよく読むと1時間後まで「一直線」に飛ぶわけではなさそうですね。
「アキレスの亀」「オースチンの犬」「トロイの蠅」と同じように、経過時間が1時間未満である時刻についてしか問題文は語っていないのだ と考えれば、解はたくさんあります。

 私は前回の発言で「いくつかの解を包含する解」と言いましたが、「宇宙船の位置が1時間後も含めて時間に対して連続であると仮定したときの解」を包含する解である というのが適切だったようです。

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Re:宇宙船のパラドクス 投稿者:φ 投稿日: 7月 2日(日)04時42分10秒

 「宇宙船のパラドクス」に私が書いた「正解」は、厳密にいうと、宇宙船(だけ)が消滅するという解ではありませんでした。

 問題文のルールに従いつづけるならば、1時間後には宇宙船の速度成立の時間はゼロであり、(少なくとも)宇宙船の存在については何も言えない、という意味です。書き方がぬるかったような気もします。

 「アキレスと亀」~「オースチンの犬」(『論理サバイバル』所収)や「トロイの蠅」(『心理パラドクス』所収)と同じ線の解答方針にすればよかったかと今は思っています。すなわち、問題文は、1時間たったその後のことは述べていません。厳密に1時間後までを記述しているだけです。したがって、1時間過ぎた後には、宇宙船は、論理的にはどうなっていてもOK。ただし、「宇宙船は消滅も瞬間移動も分裂もしない」を保つならば、1時間後までしか宇宙は存在しない。……などと。(つまり1時間後には宇宙船ともども実在全体が消え、宇宙船が消えたという事実そのものの舞台が成立しないわけです)

 エッシャーの空間は、アキレスと亀の問題を解くのに、時間の無限分割を導入して空間の無限分割と対応させる、というような発想と似通っている感じですかね。

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宇宙船のパラドクス 投稿者:Υ田 投稿日: 7月 1日(土)21時38分17秒

『心理パラドクス』宇宙船のパラドクスの解のいくつかを包含できる解を見つけたかもしれません。
 問題文に示された航行が可能であるためには、
「時空がわれわれのよく知る性質を持つ」「宇宙船は消滅も瞬間移動も分裂もしない」
のうち、少なくとも片方を捨てる必要があります。すなわち、時空の性質は保存したまま、物質の性質を変更しました。

 それでは、時空の性質を変更すればどうなるでしょうか。
 宇宙船が超光速で移動できることから考えて、問題の宇宙では相対性理論は成り立たないと言えます。それなら、時空の性質を変更することが正当化できそうです。
 問題文に記されたように宇宙船が航行でき、しかも宇宙船が物質としての性質を満たすには、たとえばリンク先のような空間を想定すればいいです。

 リンク先は、エッシャーの版画『円の極限III』です。描かれた魚たちが互いに同じサイズであるかのように距離を定義し、この距離の定義を満たす空間を「魚の空間」と呼ぶことにします。同じ平面に、通常の距離の定義を持ち込んだときは、「エッシャーの空間」と呼ぶことにします。

 円盤の中心から右に向かって一直線に、エッシャーに対して一定速度で、宇宙船が飛ぶという航路を考えます。速度は、1時間かけて円盤のふちにまで進む速度とします。
 この航程を魚から見ると、「出発1時間後に宇宙船の速度が爆発し、航続距離が発散したぞ。」となって、問題文の状況をほぼ満たします。一方、エッシャーから見ると、出発1時間後には単に円盤のふちに宇宙船があり、その後の軌跡も簡単に追えます。

 出発1時間後の状況は、魚の座標系においては「宇宙船はどこにも位置していない」です。なぜなら魚の座標系では表記できない場所に宇宙船があるからです。魚が宇宙船を見ることによって、彼らの数学に革命がおき、円盤の周上の点を扱えるように座標系(または数)を拡張するかもしれません。その場合は、円盤の周に対する最も自然な呼称は「無限のかなた」でしょう。
 仮に私がこの魚なら。
 つまり、私に対して「速度が爆発し航続距離が発散する」宇宙船を見てしまったら。
 まずは、宇宙船の位置を記述するために、座標を複素数に拡張します。
http://www.mcescher.com/Gallery/recogn-bmp/LW434.jpg

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Re:Re^5:髭 投稿者:φ 投稿日: 6月27日(火)00時51分11秒

 γ「グリム童話の編者はドイツ人である」
は曖昧ですよね。
グリム童話の編者のうち、一人でもドイツ人であればγは真になるという解釈γ3も成り立つし(不確定記述)、全員がドイツ人だという解釈γ4も成り立つ。もちろん確定記述について述べた文としても読める。

 これは、もっぱら日常言語の曖昧さの問題であって、確定記述という概念に、あるいは論理記号化との関係に、何か問題があるということを意味しないでしょう。

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Re^5:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月26日(月)21時07分53秒

> 複数の個体を主語とした文は、単数の個体を主語とした文の連言(分子文)に分析されるので、複数形の主語は確定記述とは言われませんね。
 ということは、Re^3:髭 に挙げた例は、BとCの間に境界線が引かれるのですね。了解しました。
 テクニカルな話にすぎないかもしれませんが、
γ「グリム童話の編者はドイツ人である」
のように、字面からは人数がわからない場合はどうするのでしょう。

主語が確定記述である場合の解釈は、「xが存在し唯一であり主語に当てはまり述語を満たす」でした。
そこから単に唯一性を差し引けば、「xが存在し主語に当てはまり述語を満たす」になります。すなわち、
γ3「xはグリム童話の編者であり、かつ、xはドイツ人であるような、xが存在する」
です。
しかしこれではγと違う命題になってしまっています。(グリム童話の編者のうち少なくとも一人がドイツ人であるだけで、γ3は真になってしまう。)修正する必要があります。
γ4「xはグリム童話の編者であり、かつ、xはドイツ人であるような、xが存在する。yはグリム童話の編者であり、かつ、yはドイツ人でないような、yは存在しない」 のように解釈するのでしょうか。

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Re: Re^3:髭 投稿者:φ 投稿日: 6月26日(月)00時26分44秒

 複数の個体を主語とした文は、単数の個体を主語とした文の連言(分子文)に分析されるので、複数形の主語は確定記述とは言われませんね。
 むろん、確定記述を主語とする文も分析できることに変わりありませんが、分子文ではなく、原子文と同格の存在文に分析されます。
 確定記述は、英語などのヨーロッパ語にはあっても日本語には無いかのように言われることがありますが、そうでもありません。逆に、英語にも、厳密な確定記述はないかもしれないとラッセルが述べています(『ラッセルのパラドクス』にも書きましたが)。

 数学の関数の値は間違いなく確定記述なので、数学に倣って厳密に哲学をしようとすると、日常言語の何かを〈かりに〉確定記述に見立てて議論を進め、ズレが生じたところで日常言語のほうに反省を強いる、というのがラッセル流なのでしょう。私も、日常言語尊重派よりも、ラッセル的行き方のほうが面白いと思っています。

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Re^3:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月25日(日)09時48分14秒

私が「確定記述」という言葉を間違えて把握している可能性がありますので、じっくりと『ラッセルのパラドクス』を読み返します。

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Re^3:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月25日(日)09時04分10秒

>確定記述句を主語にする文で、記述を満たすものがない場合に真となるという解釈は、成り立たないのではないでしょうか。

A 「現在のフランス王は禿頭である」の解釈として2通りを挙げました。
A1「現在のフランス王(って、いるだろ?あいつのことだよ。そいつ)は、禿頭である」。
これは主語が確定記述であって偽ですが、
A2「(任意のxが)現在のフランス王(なら、それ)は禿頭である」。これは主語が確定記述ではなく真です。論理学の教科書ではA1の意味にとって確定記述の例として用いるのが通例です。

その一方で、
Z「犬は哺乳類である」
は通常、主語を確定記述であると考えません。

AをA1に解釈するなら、Zの主語も犬という集合または種に対する確定記述であると考えられると思います。

 日常言語で書かれた命題が与えられたとき、その主語が確定記述か否かを決めるには、文だけを見ても一意には決まらないので、発話者に尋ねて解決すればいいではないか。と思っています。

B「現在の札幌県の知事は、禿頭である」
C「現在の札幌県の知事と副知事は、二人とも禿頭である」

X「現在の札幌県の知事と副知事と…(ここにすべての県職員を羅列する)は、全員が禿頭である」
Y「現在の札幌県の職員は、禿頭である」

 のように24個の命題を付け足すと、AからZまで、何の違いもないように私には思えます。Aは確定記述の例になるのに、Zは確定記述の例にならないのが、不思議です。

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 6月25日(日)03時32分21秒

存在前提が満たされていない言明は、ストローソン的には、真でも偽でもない。ラッセル的には、偽である。
これはどう考えても、ラッセルに分があります。
明らかに有意味なのに、真でも偽でもない、などという領域を認めるのは、疑問文や命令文ならいざ知らず、平叙文では認めがたいでしょう。

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可能? 投稿者:ハム 投稿日: 6月25日(日)00時27分6秒

真であるけれども、解釈が成り立たない。
そして、偽ですらない。
とすると、可能だということなのでしょうか。

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Re:Re:髭 投稿者:φ 投稿日: 6月20日(火)01時57分9秒

ストローソンの論点は、確定記述句の指示対象の存在前提が満たされていない場合は、その文は偽ですらない、ということでした。
「任意のxについて、xが現在のフランス王ならxは禿頭である」という解釈では、「現在のフランス王」がいない場合は空虚に真となりますね。確定記述句を主語にする文で、記述を満たすものがない場合に真となるという解釈は、成り立たないのではないでしょうか。

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Re:髭 投稿者:Υ田 投稿日: 6月18日(日)10時44分57秒

ストローソンと日常言語学派を知らなかったので検索してみました。

 ラッセルとは研究の目指すところがかなり違う人のようですね。私が学生時代に理解しにくかった「現在のフランス王は禿頭である」についてもストローソンが議論をしているようです。
 「現在のフランス王は禿頭である」と言われたとき、「任意のxについて、xが現在のフランス王ならxは禿頭である」を意味するのか、それとも「あるxが存在し、xは現在のフランス王であり、かつ禿である」を意味するのかは、発話者に質問すれば分かることじゃないか。と今では思っています。

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髭 投稿者:φ 投稿日: 6月18日(日)03時13分3秒

「髭の生えない人」を第3のジャンルにするのが、P.ストローソン流の解釈でしたね。
「髭が生える」という前提が満たされていないから、真偽の成立しない領域に入ってしまうという……、

 日常言語学派の非二値論理は、一時期注目されてましたが、今ではしかるべく人気を失っているような気がします。

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Re2:床屋の髭に対する 投稿者:Υ田 投稿日: 6月17日(土)04時50分36秒

>むろん、「髭を剃る」には、髭の有無にかかわらず髭を剃るかのような相応の洗顔措置も含まれる、と解釈するのがこのパラドクスの原義なのでしょう。すると「髭が生えない」可能性を導入しても、パラドクスは安泰です。

 床屋の髭の話は、 「x not∈ x を満たすxの集合 を論じることを可能にすると厄介なことになるよ」と説明するために作られたものですから、この説明を成り立たせる解釈が、作者であるラッセルの意図を汲む解釈ですね。
 「髭の生えない人」を第3のジャンルにするのは曲解というものでした。

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ところで 投稿者:ラクシュン 投稿日: 6月15日(木)19時37分8秒

社会構築主義のバラドクスって作れませんかね。
~~という言説によって社会的事実が構築されている、という研究者によるモノグラフ化も社会的構築活動だ、みたいなアホな社会理論。

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死刑反対論批判に関して 投稿者:クリスティアン 投稿日: 6月14日(水)01時42分21秒

人権宣言を高く謳い上げた大革命期のフランスにおいては、反革命容疑者は(実際には王党・貴族やブルジョワのみならず、政権担当者の政敵も)「革命の敵」と見做されると「法の保護の外に措く」と宣言された上で、ギロチンで処刑されたり銃殺されたりしていました。これは「凶悪犯は人間ではない」と定義することと通じる所があるように思いますが、フランス革命政権は多くの刑死者を生み出しました(乗せた舟ごと沈めて溺死させたり、大砲で吹っ飛ばしたりして大量処刑したケースもあったそうです)。

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Re:床屋の髭に対する 投稿者:φ 投稿日: 6月12日(月)20時49分3秒

「自分で髭を剃る村人の髭は剃らない」……これは問題ないとして、問題は、
「自分で髭を剃らない村人の髭は剃る」……床屋に髭が生えない場合、自分で髭を剃りようがないので、「自分で髭を剃らない村人」にあてはまる。すると、床屋は自分の髭を剃らなければならない。
 「自分で髭を剃らない村人」の中には髭の生えない村人も含まれるとすると、自己言及以前に、「髭のない人の髭を剃らねばならない」という単純な矛盾が生じますね。
 むろん、「髭を剃る」には、髭の有無にかかわらず髭を剃るかのような相応の洗顔措置も含まれる、と解釈するのがこのパラドクスの原義なのでしょう。すると「髭が生えない」可能性を導入しても、パラドクスは安泰です。

(「髭を剃る」ためには「髭の存在」が必要か? ≒ 「悪魔を怖れる」ためには「悪魔の実在」が必要か?)

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床屋の髭に対するインド風解決 投稿者:Υ田 投稿日: 6月11日(日)07時43分53秒

床屋は自分自身の髭を剃るのではない。
床屋は自分自身の髭を剃らないのでもない。

舎利子よ
その床屋には髭が生えないのだ。

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>概念と言語 投稿者:Υ田 投稿日: 6月11日(日)06時43分54秒

脳内情報処理と自然言語の関係について触れた記事を見つけました。
http://mntrav.cocolog-nifty.com/kankyo/2006/06/post_c008.html#comments

さて、私がここで用いた表現「単語」「概念」「概念を持つ」「概念を扱う」に対して定義を明らかにすれば、私がここで行った議論を整理できそうです。しかし、「概念」という語でさえ人それぞれの意味にとられていることが分かりましたので、整理しないことにします。仮に「クオリア」という語を用いて「概念」を定義したとしても、「クオリア」をどの意味に解釈するかによる誤解を招きそうだからです。

 これらの議論を澱みなく進めるのに最も有効な用語の集合は、脳の学習メカニズムが解明される過程で創出されるでしょう。

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終末と「私」 投稿者:φ 投稿日: 6月 4日(日)03時56分34秒

 終末論法の解決は、たしかに、「私」の同定法を見直すことに一つヒントがありそうです。
Υ田さんのように個体数(根元事象しての単位)を吟味するか、FayeWongさんに反して「私」の時空的同定を放棄するか。
 いま、終末論法の解法の分類を整理しかけていますが、 ①「私」概念の再考 のほかに、
②準拠集団の制限 ③無限大の準拠集団の可能性 ④多層の準拠集団による事後確率補正 ⑤終末論法自身の自己言及 ⑥時間の流れの実在性 ⑦非決定論 ⑧ベルトランのパラドクスふうの確率操作 ⑨対立仮説の再定式化 等々が考えられると思います。抽象的なリストで申し訳ありませんが。

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(無題) 投稿者:FayeWong 投稿日: 5月30日(火)15時54分58秒

独我論の「我」はいつ決定されるのでしょうか?幼児の頃、物心がついてきたときには既に「私」が存在し以後固定されているのは明らかでしょう。ではその前の脳の神経網ができた時?さらに遡ってその神経網を生み出すことになる受精卵?しかし受精卵はコピーできます。現に一卵性双生児は天然のコピーです。DNAの発現の仕方がランダムに違うから一卵性双生児でも「特徴」は「変わって」きますが、DNAの発現の仕方で「私」が「代わって」しまうなら、受精卵の時点ではまだ「私」のアイデンティティはないことになります。卵の時点で、一卵性双生児の片方が「私」でもう片方が「非私」とした場合その差は何でしょうか?答えは一つしかないように思えます。時空(に置ける存在位置)のみです。パウリの排他定理に似てますね。

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日: 5月30日(火)02時31分7秒

花を見て「うたれる」のは 「恐怖」と同じく言葉以前、概念以前に感じるものがあると思います
それを「美しい」と感じることである と言葉で概念として覚えていくのでしょうか
言葉、概念に頼る面が多くなると
言葉なしで 花に心うたれる 感覚が少なくなったりしますか?

ところで 音楽はどうですか? 言葉の概念以前に「うつ」のか
それとも音の並び自体が 言葉(記号)なんですか?
鳥の囀りは、異性に訴える言葉ですかね

脈絡なくてすみません

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概念? 投稿者:ラクシュン 投稿日: 5月29日(月)21時09分14秒

例えば、恐怖などは概念的に理解するものではなくて、感じるものでしょう?
散歩中にいきなり熊が襲って来たときのことを想像してください。
「恐い」とか「恐怖だ」とか考えている暇などないと思いますよ。

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美という概念 投稿者:ハム 投稿日: 5月28日(日)23時36分23秒

>私は美しい花を見て感動しても、「ああうつくしい」という日本語の文が聞こえたりはしません。

美という概念は、素養のある人間だけがもっている概念だと思われます。
例えば、赤ちゃんを花見や美術館に連れて行っても、お菓子やおもちゃがなければ、むずがるばかりでしょう。
小学生低学年ぐらいでも、美を理解することは難しいでしょう。

幼少のころは、さまざまな対象に対して「美しい」という形容を聞くことによって、美を理解していくのでしょう。
長じてからは、美に関する特別の勉強なりをして美意識を磨いていきます。

一度記憶された美という概念の活性化の瞬間に言語化が行われているか否かは、にわかには分かりませんが、
美という概念の記憶には言語が関わっているだろう、とはいえると思います。

このへんの問題は、言語が私たちにとって空気以上にあたりまえの存在になっているせいで大変に難しく感じられます。

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終末論法からのひとつの帰結 投稿者:Υ田 投稿日: 5月28日(日)08時33分44秒

終末論法について、1つの帰結を話させてください。

確率論から言って、「今後地球上で生まれてくる自意識の個数の総和は、800億を大きく上回ることはないだろう」と予測できます。この予測から「人類の終末は遠くない」という結論はほぼ自明であると思います。

しかし、「人類の終末は遠くない」の代わりに、
「個体の寿命が桁違いに伸びる」とか、
「人類の個体数より自意識の個数のほうが桁違いに少なくなる」
という結論を出すことも可能です。

 例えばこんなシナリオです。矢印1個が百数十年くらいです。

脳に端末を埋め込むことによるテレパシー技術の実用化

経済的圧力による地球規模でのテレパシーの普及。

巨大なミームプールの出現。「健康管理支援」や「思考支援」や「価値観の支柱」を謳い文句とするミームが大量発生し、未感染者にスパム攻勢をかける。これらをダウンロードした個体は、意識で行ってきた演算をオンラインリソースに肩代わりさせることができる。オンラインリソースとは、テレパシーインフラのサーバのCPUや利用者の脳などである。

自意識を持たずに生きることが可能になる。
 個体から意識を丸ごとアップロードすることが可能になる。アップロードされた意識は、元の体が死んでも存続し、テレパシーインフラの永続を願う。
 逆に、個体が意識を放棄して、ミームプール上の勢力に心身を空け渡すことも可能になる。

参政権を持つ前にテレパシー端末を埋め込むことが世界全土で義務付けられる。

すべての人間は自意識を持たなくなり、テレパシーインフラの維持と増強と演算処理のための家畜となる。
すなわち、人類の個体数より自意識の個数が桁違いに少なくなる

 文章に纏めてみたら、すでにSFとして書かれていそうな内容になってしまいました。「スパム攻勢」が荒唐無稽かもしれません。「家畜」という表現を使っていることから推測できますように、このような未来史を私は望んでいません。ですが、他人事として見てみたい気もします。

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「『死刑廃止』廃止論」 批判 投稿者:φ 投稿日: 5月27日(土)15時45分7秒

荒唐無稽ではないにせよ、強引とは言えるのでしょうね。
なぜなら、「◎◎は人間ではない」ということから、「◎◎を殺すべきである」は導けないからです。犬や猫をむやみに殺すと罰せられますしね。
「◎◎は有害である」から「◎◎を殺すべきである」を導くこともできませんしね。食害をもたらすにもかかわらず大切にされている保護動物もいますし。
 なかなかむずかしい問題です。

 死刑を逃れようとする被告の弁論にどう対処するかという問題は、『心理パラドクス』問014「決定論と自由意思」でも論じました。(そこでは被告が「無罪」を主張する設定になっていますが、もっと弱めて「死刑に値しない」主張に代えることができます)。

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「『死刑廃止』廃止論」 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月26日(金)03時32分52秒

『論理パラドクス』090「死刑廃止論」で死刑廃止論者への反論を取り上げてますが このような反論はどうですか?
死刑に処されるような輩というのは、殺人等の凶悪犯罪を犯した者であるわけで、そのような者は「人間」として定義しないのですよ。
例えば、人間の定義は「二足歩行を行い 道具を使用し 言語を喋り 一定の感情・理性・人格を有する・・・」等々となっている思いますが、それに「むやみに他人を殺さない」という風なことをつけ加えます。
(現在の日本社会で1人殺しても死刑になることはほとんどありませんからね。筆舌に尽くしがたい残虐行為を行った者に対しても 物凄く甘い判決の時が多々あります。)
そうすると 死刑に処されるような者は「人間」の定義に当てはまらなくなるのです。
ようするに 内包を増やし外延を減らすわけです。
人間ではなく一種の有害な固体のように解釈すれば 一般市民の安全を守るためそれを駆除することも許されると思います。

荒唐無稽で強引ですかね?

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>概念と言語 投稿者:Υ田 投稿日: 5月25日(木)21時24分12秒
打ち切ると宣言してしまった手前、ちょっと違う方向に話を伸ばします。

kotobazukuriさんのレスを受けて一つ疑問が生じました。

「自分自身の感情や思考過程や結論の大部分が自然言語で聞こえている人が、かなりの割合で実在するのではないか?」

 私は美しい花を見て感動しても、「ああうつくしい」という日本語の文が聞こえたりはしません。ですが、母語習得後数十年経った人の中に、このような人々↓が実在する可能性はあると思っています。

1.美しい花を見て感動すると、意識が感動を認識し、さらに、必ず「ああうつくしい」という母語の感嘆文が条件反射によって意識に浮かぶ。

2.美しい花を見て感動すると、意識が感動を認識し、さらに、必ず「ああうつくしい」という母語の感嘆文が幻聴(または声量ゼロの独り言)として意識に入る。

3.美しい花を見て感動すると、必ず条件反射によって「ああうつくしい」という母語の感嘆文が意識に浮かび、この文がトリガとなって、意識が感動を認識する。

4.美しい花を見て感動すると、必ず「ああうつくしい」という感嘆文が幻聴(または声量ゼロの独り言)として聞こえ、それとほぼ同時に意識が感動を認識する。それゆえ、「感動は母語による感嘆文を伴うはずである」と信じる。

 うろ覚えですが、石川啄木か誰かが、このような内容を書いていました。↓
「日本人が美しい花を見て感動したら、「ああ、美しい」か「あな、うつくし」の片方だけを思うはずだ」「ロシアの詩人が日本語に精通して日本語で「ああ、美しい」と書いても、それは感情をそのまま表現したものではない」
 おそらく、石川啄木(?)は1.~4.のいずれかに当てはまるのではないかと邪推しております。

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>概念と言語 投稿者:kotobazukuri 投稿日: 5月24日(水)17時16分18秒
横からごめんなさい
単に「概念」の定義が違うだけのような・・
自分は概念という言葉で表現するのはハムさんの言われている方ですね。
意味化(?)されていないものを概念とは思っていませんでした。

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概念と言語 投稿者:Υ田 投稿日: 5月21日(日)03時44分0秒
今、私とハムさんが交わしている議論は、歴史上何度も議論された主題に関するものであると判断して、私からの発言は今回で打ち切らせていただきます。

>言語能力を持たずに、どうして概念を持つことができるのかが問題なのです
「概念を持つ」という表現の用法に齟齬があるようです。もう疲れました。

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Re:再びグルー 投稿者:φ 投稿日: 5月20日(土)02時37分48秒

a,とb,には違いはありますが、いわゆる「ゲリマンダー的述語」ということで、共通しているのでしょう。
グルーについては、私はさほど「奇妙で不可思議なもの」とは感じないというのが本心です。
 というのも、結局、「自然な述語」とは、人間の脳が(あるいは動物の神経が)自然選択の結果、反応するようにできている性質を表わす述語であり、グルー的な述語は、その指示対象たる性質に反応するように自然選択が働かなかった、恣意的な(人工的な)述語というだけのことだと思うのです。
 地球上ではグルー的であるようないくつかの述語が自然な述語であるような環境は考えられますが、その場合も、そこの住人にとって自然に反応できない性質があるはずで、そういう取りこぼされたところに「グルー」が宿るだけなのではないでしょうか。

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度々すいません 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月19日(金)22時00分30秒

順序が逆になってしまいましたが

下記の戸田山氏の発言は『科学哲学の冒険』(NHKブックス)の第三章~帰納と法則についての問題~に書かれていましたて、「子供」と「グルー」を同一視しているというのは、私の読み間違えでした。

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再びグルー 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月19日(金)21時58分17秒

戸田山さんの著書中での「グルー」の説明は納得できたのですが、「グルー」という概念自体 考察すればするほど奇妙で不可思議なものに感じられます。

色彩の定義というのは、割と人によって曖昧だと思うので
まず 話を分かりやすくするため、「グリーン」を「#00FF00」、「ブルー」を「#0000FF」というHTML言語のRGBカラー16進数で定義します。
そのうえで
a,『私が2006年5月31日まで「#00FF00」で塗るものと、2006年6月1日から「#0000FF」で塗るものを「グルー」と呼びます』
b,『2006年5月31日までに発見された「#000000」(黒)のカラスと、2006年6月1日以降に発見された「#FFFFFF」(白)のカラスを「ブライト」と呼びます』
という2つの概念を新たに作りますと、ここでまた新たな疑問が発生します。
一見、グッドマンのエメラルド版グルー仮説(勝手に名付けました)を応用しているようにみえますが
aの中で述べている「2006年6月1日以降」とは、現時点では、私がこれから塗るわけで現時点ではまだ塗っていないという、まだこの世界に存在しない事柄を述べており、
bの中で述べている「2006年6月1日以降」は、「2006年6月1日以降に発見されるカラス」といってますので、現時点では発見されていないというだけで、人間にはまだ発見されていないだけで現在もどこかには存在はしている事柄を述べていまして、
aとbは、性質が違うように感じられます。

この辺は、グッドマン及び研究者の方々はどのように捉えているのでしょうかね?

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「概念」という概念 投稿者:ハム 投稿日: 5月19日(金)21時56分48秒

>言語能力を持たずに概念処理をする動物(犬やカラスやインコなど)が脳内に持っている概念を思い描いてみれば良いでしょう。

言語能力を持たずに、どうして概念を持つことができるのかが問題なのです。
例えば、「概念」という概念を犬やカラスやインコが持てますか?
私には、これは不可能だと思われるのです。

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Re:Re:マジック、獅子丸右京 投稿者:φ 投稿日: 5月14日(日)03時37分44秒

>・電話帳から選ばれた人が、手品師側の人である。
>・手品師側の人が、封筒の中のカードを知っている。

 Υ田さんが考えている答えと、私が考えている答えは、たぶん同じなのでしょう。
 ただ、演技力は関係ないような気がするのですが……、
 あと、【厳密な意味では】上の2条件が【文字通りに】成り立つ必要はないと私は思うのですが。

 獅子丸右京ですが、私も知りたいのですよ。情報がないので、『環境音楽入悶』には人名と作品名しか書けませんでした。『いま、やすらぎの時』は摩訶不思議音の名作です。あれの出典であるアルバムの全曲収録されたミュージックテープの存在を知りながら、買いそびれているうちに霧に包まれてしまい、いましきりに悔やんでいます。
 ただ、「この作曲家の変名ではないか?」という疑いは抱いています。菅野由弘が有力候補ですね。というのも、菅野由弘のこれまた幻の名作『響の四季』の一部に、同じフレーズが同じ音響で使われているからです。別人だとしたら、どちらかが盗作してますね。

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Re:マジック 投稿者:Υ田 投稿日: 5月14日(日)03時10分33秒

安齋先生のサイトでマジックの手順を熟読しました。

このマジックの不思議な所は2つ。
・電話帳から選ばれた人が、手品師側の人である。
・手品師側の人が、封筒の中のカードを知っている。
 後者は昔から単独で行われている手品ですので、実現方法は幾つもあると思います。興味深いのは前者。

どこに何が仕掛けられていて、どの機会に発動させるのかが、やっと分かってきました。
それでも、私の推測どおりに私が実演したら、1回で見破られてしまいそうです。余程の演技力が必要ですね。
http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_1.htm#SS1

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Re:概念 投稿者:Υ田 投稿日: 5月14日(日)02時02分23秒

短くまとめられなくてすみません。

εさん曰く
>概念が3次元の回路?というのはちょっと理解しかねますが、コンピュータの内部表現のことをお考えなのか、イメージについてのことなのか?あるいは脳の生理的状態のことなのか?

 脳の生理的状態のつもりで書いていました。

 「脳の生理的状態を記述するには、脳を構成する物質の物理的な位置と速度を記述し尽くせば良い。この記述は言語で可能である。したがって、原理的には概念を言語で記述できる」という考え方も可能でしょう。しかし、この記述を行う作業は、「概念を言語化する」と呼ばれる作業とは別物であるため、ここでの議論に使っておりません。

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Re:概念 投稿者:Υ田 投稿日: 5月14日(日)01時42分36秒

お久しぶりです。

ハムさん曰く
>言語によらない概念というのは、例えばどのようなものですか?

 意外な質問です。「●●をハッキリと思い描くことができるけれど、●●を表す言語表現が思い当たらない」という経験はありませんか?

 ハムさんがこの質問をするということから、ハムさんの言う「言語」はハムさんの言う「概念」とは別のものであると推測します。

「言葉」や「言語」には幾通りもの定義がありますので、一旦、次のように「言葉」という語に定義を与えました。

言葉:「音素の1次元配列から成る単語を、さらに直列にならべたものであって、文法を用いて木構造に変形でき、1チャンネルの音波で表現できる個体間通信」

一方、「言語」は「自然言語と人工言語の総称」という意味で使われる語であるようです。上の定義による「言葉」は、「自然言語」の部分集合です。「人工言語」に何が含まれるのかは確定しにくいですが、国際規格のあるものはすべて含まれます。数式がグレーゾーンです。数式以上に文法や構造が不明確なもの(タモリの偽外国語や、キリスト教の異言や、第0版仕様が未確定なプログラミング言語)は言語でないと言っても差し支えないでしょう。

で、もとの質問。
>言語によらない概念というのは、例えばどのようなものですか?

 言語能力を持たずに概念処理をする動物(犬やカラスやインコなど)が脳内に持っている概念を思い描いてみれば良いでしょう。

 言語能力を持った動物(Υ田など)においても、ジグソーパズルを解く(2次元画像処理)とき、管楽器を調律する(聴覚処理+呼吸器系制御)とき、機械を設計(3次元構造解析)するとき、輪ゴムと指を用いた「超能力」を真似する(3次元幾何)とき、の概念処理がこれにあたります。
 ただし、ジグソーパズルから超能力までのいずれの場合も、処理が複雑になりすぎた時には「脳の別の部分にハッキリと記憶する」とか「紙にメモを書き付ける」という補助手段を使うことがあります。これら補助手段においては、情報を自然言語の形式で保存することがあります。自然言語を使わないケースとしては、「図を描く」「模型を作る」等の形式があります。

>また、概念を演算するときの演算は、定義に従って計算したり推論したりすることであれば、言語によってなされませんか。
>例えば、論理演算は記号等の一種の言語によってなされますよね。

 ヒトは、明確な定義の存在していない概念をも演算できます。それらの概念の一つ一つに「ゴッゴル1」「ゴッゴル2」・・・「ゴッゴルN」と名づけ、演算の要素アルゴリズム一つ一つに「ジュゲム1」「ジュゲム2」・・・・「ジュゲムM」と名づけることによって、「拡張日本語」を作成すれば、ヒトの脳内の情報処理を拡張日本語で記述することはいつの日か可能になるでしょう。しかし、だからといって、「誰々は拡張日本語で思考した」ということにはなりません。「誰々の思考を、後付で拡張日本語で表現した」に過ぎません。その根拠のひとつとして、誰々氏が拡張日本語を知っている保証がないことがあげられます。

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獅子丸右京 投稿者:たつ 投稿日: 5月13日(土)14時28分42秒

最近、獅子丸右京の「いまやすらぎの時」という中古CDを入手したのですが、この獅子丸右京についてネットで検索したところ、CDジャーナルに廃盤1件ありますの表示(おそらく「いまやすらぎの時」のことと思われ、しかも情報を見るためには有料の登録が必要との事でパス)
JASRACでは、作品名のみ3件が出てきました。
またある人のブログに獅子丸右京のことが出ていましたが、やはり情報がないとのことでした。
このように全くといっていいほど情報がありません。どなたかこの獅子丸右京に関する情報(経歴、過去作品等)をご存知の方がいらしゃいましたらどうぞ宜しくお願い致します。

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返答ありがとうございます 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月13日(土)02時34分58秒

お返事ありがとうございます。
『論理パラドクス』は、手に入れて読了しようと思っています。
ちなみに 『可能世界の哲学』『論理学入門』は愛読させて頂いてます。

戸田山さんの著書は、もう一度よく読みなおしてみます。

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グルー 投稿者:φ 投稿日: 5月12日(金)00時29分15秒

なるほど。
 戸田山さんが出した例は、個物そのものとしての指示対象がある時点で変わる例ですね。
しかしもともとグッドマンのグルーは、指示する性質がある時点で変わるために、その性質を媒介として指示対象が結果的に変わるという例でしたよね。つまり、ミネルヴァさんが言われるように、戸田山さんの例は、グルーと同じものではありませんね。(戸田山さんはグルーとは似て非なる擬似的な例として出しているのでは?)
 ちなみにいうと、グルーは、「時間によって指示性質が変わる」場合にかぎらず、「場所によって指示性質が変わる」「個物によって指示性質が変わる」場合も含みます。『論理パラドクス』p.128では、個物によって指示性質が変わる例で論じました。
 グルーがルール違反であるのはもちろんその通りです。
 しかし、グルーがルール違反なのはなぜか、というのが、哲学的問題になるわけですね。
 「グルーについて詳しく」といっても、焦点がないと漠然と拡散してしまいかねませんから、さしあたり、『論理パラドクス』の問067と068の私の説明をご参照いただき、その中の具体的な部分についてお問い合わせいただいた方が、明確な議論ができる気がしますが――

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はじめまして 投稿者:ミネルヴァ 投稿日: 5月11日(木)22時18分13秒

はじめまして。
自分は、最近分析哲学に興味を持ち始めた者ですが、質問があります。

米の科学哲学者ネルソン・グッドマンが提唱した 帰納をめぐるグルーのパラドックスってありますよね。
グルーとは「2006年5月31日までの緑のモノと 2006年6月1日からの青のモノ」という途中で指示対象が変わるで奇妙な概念です。
日本人研究者戸田山和久氏は、「子供」という言葉を引き合いに出し『「子供」という言葉も 「グルー」が緑から青へと指示対象が入れ替わるように 当てはまる人間の集団がどんどん入れ替わっている・・・』と述べてます。
でも、この例えは納得できません。
もしも、「子供」という言葉を引き合いに出すのならば、「こども」という言葉と「おとな」という言葉をミックスした『ことな』という新しい言葉をつくり『「ことな」とは2006年5月31日までは20歳未満の人 2006年6月1日からは20歳以上の人をさす』という風にした方が適切ではないでしょうか?
ただ よくよく考えると
グルーという概念自体が、言語のルール違反で このようなルールを認めると
「女」と「男」をミックスして「おんこ」(2006年5月31日まではX性染色体のみを持つXX型の人 2006年6月1日からはX性染色体とY染色体を1つずつ持つXY型の人をさす・・・)とか
「アメリカ」と「日本」をミックスした「アメ本」(2006年5月31日まではアメリカ合衆国のこと 2006年6月1日からは日本国をさす・・・)
という風にキリがなくなるのではないのでしょうか

よろしければ グルーについて詳しく教えていただけませんか?

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概念 投稿者:ε 投稿日: 5月 7日(日)23時10分16秒

久しぶりにお邪魔します。ちょっと面白そうな展開になってきたので・・・

概念が3次元の回路?というのはちょっと理解しかねますが、コンピュータの内部表現のことをお考えなのか、イメージについてのことなのか?あるいは脳の生理的状態のことなのか?

話が少し食い違っているのは、多分ハムさんが言語哲学的で、Υ田さんが物理的、科学的にお考えだからではないでしょうか?

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概念という思考 投稿者:ハム 投稿日: 5月 7日(日)16時27分39秒

>・・・思考とは概念を演算することであり、・・・

概念こそがまさに言語によって認識されるものであるはずです。
言語によらない概念というのは、例えばどのようなものですか?
ちょっと興味あります。

また、概念を演算するときの演算は、定義に従って計算したり推論したりすることであれば、言語によってなされませんか。
例えば、論理演算は記号等の一種の言語によってなされますよね。
そして複雑な演算ほど書くなどのはっきりとした言語化が必要です。

私には「私」というものを言語と切り離して考えられません。

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Re:個体間通信 投稿者:Υ田 投稿日: 5月 6日(土)19時30分7秒

本筋から脱線しすぎているので、今回は短くまとめます。
>議論には思考が必要であれば、言語によって議論(通信)内容を構成するということが、まさに議論する、思考するということにほかならない、ということにならないでしょうか。

議論には思考が必要であり、議論には個体間通信も必要です。そして、言葉は個体間通信の一種です。だからといって、思考に言葉が必要とは限らないはずです。

 私は、思考には必ずしも先の定義による言葉は必要ないと考えております。思考とは概念を演算することであり、概念は3次元の回路であって、概念(3次元)から言葉(1次元)への完璧な逐語訳はそもそも不可能であるからです。

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個体間通信 投稿者:ハム 投稿日: 5月 5日(金)11時54分19秒

>・・・個体間通信」と考えておりますが、

言葉には、Υ田さんのいう個体間通信機能があるでしょう。
日本人の場合は、日本語で個体間通信されますよね。
その日本語で個体間通信される意味内容は、通信される前にすでに日本語で構成されていませんか。
通信するためには、通信前に通信内容は決まっていなければならないでしょう。

このこと、つまり例えば議論するときに議論内容は議論前に言語によって構成されているということ。
議論には思考が必要であれば、言語によって議論(通信)内容を構成するということが、まさに議論する、思考するということにほかならない、ということにならないでしょうか。
とすると、言葉には個体間通信のほかに、思考機能?が備わっているといえることになります。

Υ田さんのいう個体内情報伝達というのは、例えば神経伝達物質がいろいろ研究されていて、「言葉」はないですよね。

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Re>記憶を失った直後 投稿者:Υ田 投稿日: 5月 3日(水)23時49分7秒

>>「ヒトの脳は、いったいどんな条件を満たしたから「私」たり得たのか」
>
>言葉は絶対条件ではないでしょうか。

私は「言葉」を「音素の1次元配列から成る単語を、さらに直列にならべたものであって、文法を用いて木構造に変形でき、1チャンネルの音波で表現できる個体間通信」と考えておりますが、上記定義における「言葉」は必ずしも必要とは限らないでしょう。そう考える理由が2つあります。

・人は後天的に言語能力を失うことがありますが、それだけで「私」たりえなくなるとは考えにくい。
・音波が情報伝達の手段として無効である環境下で進化した生物を、「私」たりうる者の集合から排除することになる。しかし、音波がそんなに大事なものであるとは考えにくい。

 もしもハムさんの定義における「言葉」が、個体内情報伝達を含むのなら、不可欠であると思います。個体内で情報を伝達できない者には演算ができないからです。

>完全に記憶を失ったら、言葉も失うわけですから、質問の意味が分からないはずで
す。
については、私がうっかりしておりました。
 「サイコロを振ります。1が出る確率はいくら?」と聞かれたとして、「サイコロ」が何であるかを忘れた人は「サイコロってのは、1が出たり出なかったりするものなのか?それなら、1/2だな」と答えるよりほかに手はありません。
 仮に質問の意味がわかったとしても、人間と人工知能の個数比、演算速度比、内省回数比などを知らない限り、「僕ってのは、(略)か?それなら、1/2だな」が正解になるでしょう。

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>記憶を失った直後 投稿者:ハム 投稿日: 5月 3日(水)22時38分59秒

>「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が人間であって人工知能でない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」
>「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が生き物であって、ミーム空間上の文化ではない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」

完全に記憶を失ったら、言葉も失うわけですから、質問の意味が分からないはずです。
完全に記憶を失った人は、例えばサルとか赤ちゃんのように本能的な生き物になるでしょう。

>「ヒトの脳は、いったいどんな条件を満たしたから「私」たり得たのか」

言葉は絶対条件ではないでしょうか。

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Re:謎の在り処 投稿者:φ 投稿日: 5月 1日(月)01時02分31秒

 R4か多宇宙説か、が私の立場なのですが、輪廻転生を擁護する文脈では、持論の「多宇宙説は正しい」をかりに括弧に入れて、R4を擁護するスタンスをとることにしています。

 ただし人間原理的には、輪廻転生と多宇宙説をともに維持する道もあり、それはありていに言うと「中庸の道」なのですが(輪廻転生を不要とするほどには多宇宙は多様ではなく、ファインチューニングを保証するほどには多宇宙は多様である、という考え)、それを今ちょっと考えているところです。

 記憶を失わなくても、「現にここがすでに人工環境内である確率高し」と論証するのが、シミュレーション論法でした。
 
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超難問はたしかに愚問だ。ということは、謎の在り処は、、投稿者:Υ田 投稿日: 4月30日(日)04時25分18秒

「ある程度高い知能には自意識が備わる」
「各々の自意識は各個体や近親個体の利益に奉仕する」
「長期的な自然選択を生き延びた種における健康な個体では、1つまでしか自意識が機能しない」
「各々の自意識は自意識そのものをある概念として把握している。その概念を日本語で表記すると「私」である」
 といった事項は、Υ田には謎ではありません。おそらく、ここにお集まりの皆さんも、上記の事柄を謎としているのではないと推察します。
 Υ田にとって謎なのは、
「ヒトの脳は、いったいどんな条件を満たしたから「私」たり得たのか」
なのですが、ここまで書いてみて、この掲示板で扱う話ではないような気がしてきました。

 脱線ついでにもうひとつ。私たりうる者の条件を考えるうちに度々迷い込んだ疑問をここに書いておきます。
「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が人間であって人工知能でない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」
「Υ田が一度完全に記憶を失った直後に、「君が生き物であって、ミーム空間上の文化ではない確率はいくらか?」と聞かれたらなんと答えればよかろうか?」

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R4を受け入れられない最大の理由 投稿者:Υ田 投稿日: 4月30日(日)04時02分13秒

Υ田です。
「◆刹那転生観は採用できない。(唯物論的な意識のメカニズムにより)」
においては唯物論的な意識のメカニズムに転生のトリガと行き先が制限されていますが、
R4においては意識の最期を転生のトリガとし、意識の誕生を行き先にしています。
 これが、R4を受け入れられない最大の理由です。

 では、制限を受け入れて転生を受け入れないとどうなるのかというと、「宇宙で最初の意識ある生物は「私」ではなかった」ということになり、S(単一宇宙説)を否定することになります。Υ田は元から「量子論の真の姿はエヴェレット解釈である」と信じているので、Sを否定することには全く抵抗がありません。

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付け加え 投稿者:φ 投稿日: 4月26日(水)04時16分25秒

……ですから、私の見るところ、ハムさんの指摘する不自然な部分

1.カードを入れる蓋付きの箱(カードは二重封筒に入れればそれでいいはず)
2.電話帳の頁と列等の入った10通の封筒を黒板の所に並べて選ばせる
(ランダムに選んだ学生にランダムに電話させればそれでいいはず)

 は、タネの隠されたところではなく、観客の注意をそらすダミーだと思われます。
 真のタネは違うところにあるのに(あるがゆえに)、わざと怪しい仰々しい演出を使うわけですね。

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Re:>マジック 投稿者:φ 投稿日: 4月26日(水)04時10分12秒

「まあこれしかないだろうな」という答えがわかったような気がしてます。 『超常現象の科学』には、「ヒント」が書いてあって、それは、「任意のトランプを選ばせる、電話帳から任意の市民を選ばせる、という二つの任意性に隠されている」。

 ハムさんの答えがほぼ正解に向かう線上にあるのでしょうが、箱に仕掛けがある、封筒をすり替える、という二つのことは、ダメのようです。というのは、『超常現象の科学』の原文を見ると、選んだカードを箱に入れるさい、残りのトランプもいっしょに入れることになっているからです。側面と底板が入れ替わったりしたら、音がしたり、崩れたカードの気配があるはずです。
 封筒のすり替えについては、「カードを選ばせてからは、私はいっさいトランプにふれていないから、すり替えることもできない」と書いてあります。

 もちろん、紙ヒコーキによって、「サクラの存在する余地はない」と書いてあります。

 となると、正解は一つに決まるような……。

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>マジック 投稿者:ハム 投稿日: 4月26日(水)00時08分46秒

εさんの①だと蓋付きの箱に入れる必要がないし、同じカードを52組も買うというのが科学者っぽくないです。
それと、サクラというのは禁じ手だと思います。

私は手品は好きで良く見るのですが、不自然な(必然のない)ところにネタがあるように感じます。
この手品で不自然なのは、このへんです。
1.カードを入れる蓋付きの箱(カードは二重封筒に入れればそれでいいはず)
2.電話帳の頁と列等の入った10通の封筒を黒板の所に並べて選ばせる
(ランダムに選んだ学生にランダムに電話させればそれでいいはず)

この1と2にネタがあると考えるとこうなります。
・カードを入れた蓋付きの箱を透視するときに、あらかじめセットしておいたハート6のカードにかえてしまう。
(箱を操作することによって側面の板が底板になるような仕掛けのある箱を使う)
・友人の電話帳情報の入った封筒を10通用意しておいて、黒板に並べるときに10通とも差し替えてしまう。

もちろん、友人には一杯飲ませて、文句言いつつハートの6と答えてもらうように頼んでおく。

他にも実現の仕方はあるはずです。
いずれにしろ、かなり大掛かりなスケールのある手品だと思います。
しかし、これ↓はいけません。あたりが北極のように氷ついちゃいます。

http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_1.htm#SS3

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マジック 投稿者:ε 投稿日: 4月25日(火)20時55分26秒

実際に見てないからわかりませんが

①学生の切ったトランプとあらかじめ用意したトランプ(たとえばすべてがハートの6)をすりかえて、そこから学生に選ばせる。
②10人の学生はサクラで、あらかじめ教授に指示されたページ、行を書く。
③その電話番号は実は教授の知人の電話番号で、あらかじめ教えられていた”ハートの6”と答える。

くらいしか思いつかないのですが、どうでしょう?

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ネット上にもありましたか 投稿者:φ 投稿日: 4月25日(火)00時35分19秒

「見事に当てられる学生はほとんどいない」ということは、当てる学生もいるんですかね。
奇術師の知り合いがいる学生とか?

私も改めて考えてみます。

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「人間原理から輪廻転生へ」 投稿者:ハム 投稿日: 4月25日(火)00時01分45秒

の「私」を三人称にすれば霊魂ということだと思うわけです。
F**では、私は意識と脳に分割されますが、このときの意識は霊魂の定義みたいなものです。

例の手品は↓これですね。 http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_1.htm#SS1

オリジナルだそうです。
ちょっと考えてみます。

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超常’ 投稿者:φ 投稿日: 4月23日(日)09時57分58秒

「霊魂」とは何をそう言い換えたのか、という問題へ先送りされるだけでは。

件の手品は、相手(学生)にトランプにイカサマがないことを調べさせ、彼らにカードを切らせて、任意に選ばせるということですから、ランダム性は満たされているようです。電話番号は、電話帳の何頁の何列の何行目、という具合に10人が任意に指定し、その中から他の学生にブラインドで選択させるとのことです。ランダム性は、完全に満たされていると思われます。

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輪廻転生する主体は 投稿者:ハム 投稿日: 4月22日(土)18時31分32秒

仏教でいうところの霊魂だということになると思います。
霊魂であれば同一性も解決します。
チベット仏教の輪廻転生は、(その予兆と)転生者の性質の引継ぎで確認するといいますから、「私」や「意識」にも応用できそうです。
ただ、ちょっと古臭いのが難点ですが、若者には逆に新鮮かもしれません。

『超常現象の科学』の手品ですが、これと似た手品は見たことがあります。
そのときに感じたのは、カードをランダムにしていないのではないか、ということです。
この手の手品ではカードを第三者にきらせませんよね。

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超常 投稿者:φ 投稿日: 4月20日(木)02時26分11秒

 脳のようなもの は、場の複雑系であってもよいでしょう。

 いずれにしても、観測者は、複雑系によって支えられねばならない、ということで、科学的に自己の基盤を自覚できるほどの意識であれば、自分が「場の中のエネルギーの複雑系」で成り立っていることを意識するでしょう。

 F**に戻りますが、もし複雑系が必要ないなら、私たちは自らを非複雑系に見出していた確率が高かったはずです。

 安斎育郎さんが、超能力的なことは手品でできるという証明として、教室で自らやってみせる手品というのを『超常現象の科学』で紹介していて、私はそのタネがわからなくて気になってます。こういうやつです。学生にランダムにトランプカードを一枚選ばせる。他の学生にランダムに電話番号を選ばせる。そこへ電話し、出た人に適当にトランプカードを言ってもらう。ふたつがピタリと一致するというものです。これは安斎教授が「念をかけた」からだと。
 もちろん念なんかではなくタネを仕掛けたのだ、と学生に諭すらしいですが。

 似たようなのを『トリック』で矢部刑事がやってましたが(もちろん失敗する)、しかし矢部方式では安斎手品は説明できないと思うし……、

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哲学的輪廻転生の議論からはまた外れそうですが、反オカルティストの安斎育郎教授は
投稿者:クリスティアン 投稿日: 4月19日(水)23時33分11秒

宗教が唱えるような輪廻転生は大槻教授と同様の理由で否定した上で、
「人が死ぬと、人体を構成していた原子が空中(地中・水中)にばらまかれて、改めて他の生物に取り込まれてその体を構成する。これこそが科学的な『輪廻転生』である」
という主旨のことを述べています。
この主張も何か論点がすれているような気がしますが、前世の記憶の継承を必要条件としないところは哲学的輪廻転生と通じる点もあるように感じます。

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真空中の意識 投稿者:ε 投稿日: 4月19日(水)21時01分18秒

しばらく前の話になりますが、F**は、意識は脳のような複雑系に宿るということでした。したがってこれを認めれば真空中には意識は存在しないと。しかし、必ずしもそうでないことに気づきました。物理では、物質がなくても場が存在します。宇宙空間のどこにいても、多くの星が見えるのはその場所に0でない電磁場があるからです。それ以外にも重力場やさまざまな量子場があり、真空中の領域にも複雑な場が存在しえます。だから、F**の趣旨からいえばそこに意識が存在しても変ではないでしょう。

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Re: 同一性と輪廻(続き) 投稿者:φ 投稿日: 4月17日(月)02時10分35秒

これは確かに、不問にはできない根本問題なのですね。
同一性の定義がなされないと、どうしても輪廻転生は空理空論となりがちだと。
すべての主観を同一とする遍在転生観(先日のR1)ならハナシは簡単だが、どうも、同時刻に向き合って利害の対立もありうる主体どうしを「同一」と認めることには私は抵抗がある。倫理のうえでも、同時に併存するすべての他者が「自分」というのでは、利己主義も利他主義も成り立ちがたい。
 健全な倫理を保証する、つまり概念的に健全な輪廻転生説はR4だけだと思うので……。

 そのうちどなたかから「転生先の同定」に関する妙案が聴けるかと、今はそんな段階ですが、本音は「1.でいっこうにかまわないでしょう」だったりします。

 主観的同一性は、客観的同一性とは全く別だという理論的根拠を整備したいと思っていますが……。

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同一性と輪廻(続き) 投稿者:ε 投稿日: 4月16日(日)14時36分59秒

4.でよくわからないのは、「主観的に現在の私に最も似ている存在」ということは、私がそもそも似ているかどうか比較できる2人以上の人格を主観的に体験し、比較する時点でその記憶を持っていることが前提になっているのでしょうか?もしそうだとすると、それ自身が輪廻転生の相当に直接的な証拠であって、そんな事実があれば定義に関するなんの問題もなくなると思いますが・・
そうでない場合、類似性は客観的情報に依存することになるわけです(判断は主観的になされるのかもしれませんが)。これはタイプの同一性を緩めてタイプの類似性にしたことになるので、RというよりはQに近いような気がします。

1.を「私が無に帰することはない」ととらえるのは、物理的、情報的私以外に「私」に含まれるものがあるという暗黙の前提がないと無意味に思えます。たとえば、私と姓名が同じ人物を同一と定義した場合、私の死後、同じ姓名を持った人物が存在すればその人物は私と同一であり、その人物に転生することになるのですが、1.は「定義」なので、この場合の「同一」はこの定義以外に何の意味ももたない概念だとしています。その概念を単に「T」と呼ぶことにしてもいいのです。それが有意義であるというのは、2.あるいは3.がすでに仮定されているのではないでしょうか?

普通に生きている人間の、異なる時刻における同一性でさえそれほど明らかなことではないのでしょう。まして、記憶喪失、人間ファックス、脳分離、融合などの変則事例では・・・
それでもこれらは現実に存在しうるものなので(人間ファックスや脳融合はSF的ですが)、それらを手がかりに考えるというのはもちろんありうると思います。たとえば、それらの場合における同一性が自明でないということから、日常的な同一性の感覚を”解体”していき、それと(定義された)輪廻転生とは程度の違いでしかないと論ずるとか・・

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Re: 私の同一性 投稿者:φ 投稿日: 4月14日(金)00時19分1秒

 4.として、(3.の系ですが)「主観的に現在の私に最も似ている存在へ転生する」というのも考えられます。

 「私の同一性」は、客観的(社会的)な人格の同一性とは全く別種の同一性とすれば、定義する主体が外部に(もしかしたら内部にも)存在しないので、1.の立場でもよいと思われます。1.は決してつまらない立場ではなく、「私が無に帰することはない」という積極的なテーゼを述べているだけでも有意義ではないでしょうか。

 輪廻転生の主体の同定問題は、記憶喪失、人間ファックス、脳分離・融合のような、もっと形而下的な文脈においても生ずるのであり、輪廻転生は肉体(脳)も記憶も断絶しているような極限的な事例として定義できるような気がします。
 ただもちろん、私の同一性の定義を「つまらないと感じられない形で述べることは重要に違いありません。考え中ですが、いいアイディアが生まれましたら是非。

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私の同一性 投稿者:ε 投稿日: 4月13日(木)05時35分24秒

私が下でお聞きしたかったことは、輪廻転生において私の同一性をどう定義するか?ということでした。物理的同一性で定義するPでは、そもそも輪廻転生は考えられないし、記憶や機能のタイプ的同一性によるQでは意味はほぼ明確になっているといってもよいでしょう。問題はRです。少なくとも議論の前提として、定義は必要でしょう(同一性の検証とはちがいます。それは前世の記憶などを認めなければ不可能でしょう)。あえて定義しないことも含めて、私の思いつく立場は次の3つくらいで、反論も含めて書いておきます。

1.特に定義せず、無定義用語として導入する。
これは矛盾はないが、全くつまらない立場である。物理的に異なる個体を、特に何の基準もなく、”同一”と定めるだけのことなので。

2.輪廻転生や自己の同一性は新しい概念でなく、ほぼ共通の了解があって互いに話が通じるので定義の必要はない。
この了解は、様様な宗教的、哲学的概念が入り混じり、しかも通俗的変形を受けたものと考えられる。このような概念こそ哲学的分析が必要である。

3.主観的事実?を参照する 私が死んだ後(そもそも主観に死は体験できるのか?)、また私が世界を見ている視点が存在すれば、その視点が転生先ということになる。しかしここではすでに「私」という言葉が使われている。この二つの私は同じものなのか・・・・などなど、これをうまく表現するのは難しい。永井さん的な議論をさらに増幅したわけのわからないものになりそうな気がする。

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多重人格と輪廻 投稿者:φ 投稿日: 4月13日(木)04時12分54秒

「多重人格と輪廻」(『ユリイカ』2000年4月号,pp.156-164.)という論文を書いたことがあります。電子データがどこかに行ってしまったのでHPにはアップしてありませんが。

 多重人格と輪廻転生は関係大ありだと私は思っています。ただし、哲学的輪廻転生には記憶の連続性が前提されないのと同様、哲学的多重人格には人格の分裂は前提されません。
 「多重人格と輪廻」は、輪廻転生論を上梓するさいに、加筆修正の上、お目にかけることができるでしょう。

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「二重(多重)人格」は 投稿者:クリスティアン 投稿日: 4月12日(水)22時16分21秒

この「論理による輪廻転生」の議論には関わってくるのでしょうか?
多重人格を、脳細胞の複数の神経ネットワークによるマルチタスクで説明していた記事を以前読んだ覚えがあります。一つの脳に複数人の人格が入り得るという主張は可能であると思います。
PS. 先にエントロピー増大の法則で輪廻転生を否定するのは不適切な議論であるとのことでしたが、「最後の審判の後で『肉体』が復活して天国で永遠の生を受ける」という教義に対する反論には使えそうです。現在でもキリスト教・イスラム教や儒教では火葬を嫌い、土葬を行っていますが…

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Re: 「私」の定義 投稿者:φ 投稿日: 4月12日(水)15時51分15秒

「3つの形而上学的前提」のうち、

◆唯物論は正しい。(オッカムの剃刀により)
◆刹那転生観は採用できない。(唯物論的な意識のメカニズムにより)

この二つは、「前提」ではなく、
こないだのF**によって導かれる「帰結」と認められると今は思っています。

Υ田さんの
・意識Cが「私」なる概念を処理している間、Cは「私」である。
は絶対外せない条件でしょう。人間原理や意識の難問やシミュレーション論法のようなものを考えている最中以外は、いかに意識があろうとも、「私」の母集団に入らないかもしれないからです。
 前回、「GSSAによれば、私たちが、平均的な人間よりもかなり知能の高い個体……」と言ったのは、正確には、「平均的な人間よりもかなり内省的傾向の強い個体……」と言い換えるべきかもしれません。いくら知能が高くても、計算処理能力に長けているだけの個体は「私」の母集団に入らないだろうからです。

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「私」の定義についての試論 投稿者:Υ田 投稿日: 4月12日(水)01時52分43秒

・「私」なる概念は、健康なヒト程度の知能を持ち複数個体からなる集団で暮らす生物の各個体によって、成長中に各々独力で獲得される。
・各個体が持つ情報処理系がマルチタスクであっても、意識はシングルタスクである。
・意識Cが「私」なる概念を処理している間、Cは「私」である。
・上記3命題を仮定すればGSSAを演繹できるかもしれない。
注:3つ目の仮定は「「私」である」の定義であって、「「私」なる概念」の定義は別途必要である。(なんだか循環定義になりそう)

3つ目の仮定はΥ田には受け容れやすいものなのですが、「3つの形而上学的前提」に反しまくってますね・・・

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「私」の定義について 投稿者:Υ田 投稿日: 4月12日(水)01時43分38秒

http://russell-j.com/ad040407.htm
を読み、「3つの形而上学的前提」から「私」の定義を抽出しようとしておりますが、まだできておりません。抽出に成功したら、↑について論じてみます。

・前回の投稿における問題意識は、「「私」が時空の構造に制約(υ2やυ3など)されるのなら、とことん制約されつくさなきゃ変だな。制約されないのならとことん無制限(R1など)でないと変だな。」という物でした。とことん制約されつくすと、「今のこの意識のみが「私」である」という結論に行き着きます。

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GSSA 投稿者:φ 投稿日: 4月12日(水)01時05分40秒

 量子論の多世界解釈の場合、「自分がどの世界に分岐するか」について、「ランダムだが、とにかく知的生命が滅びない世界へ」という考えがあるそうです。それはある意味で当然ですよね。知的生命の続く世界と滅びる世界に分岐したとき、自分が後者へと分かれてゆくことはありえませんから。
 同様に、私は何として転生するのか、という場合、「ランダムだが、とにかく知的生命へ」ということで十分ではないか。ちなみに、それ以上の条件としては、「意識の明晰度の低い個体よりも、意識がクリアで、知能と内省度の高い個体へ転生する確率が高い」という考えを、↓で述べました。「GSSA」というのがそれです。
 GSSAによれば、私たちが、平均的な人間よりもかなり知能の高い個体(おそらく)として生まれたのは、決して偶然ではなかったのです。
http://russell-j.com/ad040407.htm

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話を戻して 投稿者:ε 投稿日: 4月10日(月)22時38分35秒

輪廻転生というのは、もちろん物理的世界の事実ではないでしょうが、客観的な事実でしょうか?主観的には死後、また、今のように私から世界が開ける(うまくいえないけれども)ということでしょうが、客観的にAさんが死後Bさんに転生したということをどう定義するのか?φさんにこの前いただいた論文のドラフトのような場合、どうなのでしょう。

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Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日: 4月10日(月)02時38分45秒

情報ありがとうございます。
同じ著者の本を検索したら、
Riddles of Existence: A Guided Tour of Metaphysics
というのがあって、ハードカバー¥1847とやたら安いので注文してしまいました。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 4月 9日(日)20時31分53秒

アマゾンUSAをチェックしていたら、おすすめ本に
Four-Dimensionalism : An Ontology of Persistence and Time (Mind Association Occasional Series)- Theodore Sider Paperback $35.00
というのが出てきました。あまりにもグッドタイミングです(笑)しかし、ツンドク本が随分あるし・・・

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ブラックホールについて 投稿者:ε 投稿日: 4月 9日(日)20時01分15秒

私は勘違いしていたところがありますので、訂正。

宇宙船は、たしかに事象の地平に限りなく近づくのが、外部からいつまでも”見え”ているのですが、外部から宇宙船への通信、アクセスは有限時間内に限られるようです。だから、外部の立場からみても、永久に”存在する”というわけではありません(実はあるSFにミスリードされていたのです)。もちろん、同時性などについて通常の形而上学の想定しない事態が起こってはいるのでしょうが。

だから、私の議論は(Y田さんの話も)、それほどパラドキシカルではないような気がしてきました。

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事象の地平―― 投稿者:φ 投稿日: 4月 7日(金)01時10分7秒

・R1 すべての意識主体が「私」である。
・R2 今のこの私と時間的に重ならないすべての意識主体が「私」である。
・R3 時間的に重ならない意識主体の極大集合のうち、すべてではない複数の極大集合のメンバーが「私」である。
・R4 時間的に重ならない意識主体の極大集合のうち、特定唯一の極大集合のメンバーが「私」である。
・R5 時間的に重ならない意識主体の極大でない集合のうち、複数の集合のメンバーが「私」である。
・R6 時間的に重ならない意識主体の極大でない集合のうち、特定唯一の集合のメンバーが「私」である。
・R6’ 最初の意識主体と、今のこの私との二つだけが、「私」である。

 (υ2)でほぼうまくいくのではないかと思うのですが、同時性と一人称的同一性の関係については、たしかにスッキリ決めかねるところはあります。ただ私は、4/1の会でも述べたように「最初の「意識」はいない」可能性が高いと考えているので、そもそも私と非私の境界は曖昧に滲んでいると思われます。このあたりは、輪廻転生の入ってこない通常の文脈でも常に、どこからどこまでが「私の意識」か、という問題が生じているのではないでしょうか。輪廻転生に関する正確な論理的モデルが始めから放棄されているようで気が引けますが、絶対的な同定を留保して、仮の条件の下での同定ならば厳密なモデル構築もさまざまにできるはずです。

 事象の地平は、宇宙船やブラックホールを想定せずとも、宇宙の果てが光速を超えたところで私たちとは切り離されているわけですから、その向こうにいるであろう知的観測者は私たちと同じ準拠集団にはいるのか?という問題が常に生じえますが、とくに事象の地平が準拠集団の同定に関係するかどうかは、文脈によるでしょう。ランダムな観測者と自らを見なすたいていの文脈では事象の地平や因果関係の有無などは無関係(準拠集団の分割をしない)と思われますが……。

 このへんはいずれも、私はこれまで考えていなかったので、面白い即答はできずすみませんが。

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相対性理論とからめるのは 投稿者:ε 投稿日: 4月 6日(木)04時22分0秒

面白いですね。後半のブラックホールの論法は、もしブラックホールが定常的ならば、外部の観測者にとっては、宇宙船は事象の地平に有限時間では到達しないので、乗務員は死なない、つまり転生する必要がない、のに宇宙船内部ではいつかは死ぬので転生する、というところにパラドックスがあるのですね。ただ、ホーキング輻射でブラックホールが蒸発するような場合はどうなのでしょうか?宇宙船は外部から見ても有限時間内に地平をこえるのでしょうか?この部分は物理的問題のはずですが、私にはわかりません。

輪廻転生からはもっと外れますが、その宇宙船には夫婦が乗っていて、事象の地平を超えた後でセックスし出産したとする。そうすると外部の観測者と夫婦にとって、宇宙の中の意識(あるいは生命)の個数が異なるような気がします(これは、外部から赤子が誕生したことを知りえないという認識論的な問題ではなく、出産は有限時間後には行われないので、外部の観測者にとって決して赤子は存在し得ないという存在論的問題だと思います。)もし、このようにブラックホールの存在を仮定すると、宇宙の中の意識(生命の個数)が観測者によって異なるようなことがあれば、終末論法のような議論の前提が崩れてしまうと思うのですが、どうなのでしょう?φさんのパラドックス本にこういうのがありましたっけ。

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R4 投稿者:Υ田 投稿日: 4月 6日(木)02時02分14秒
臨床死生学の目的からは外れた議論かもしれませんが、お言葉に甘えて輪廻転生R4説への疑問を述べさせていただきます。

R4が正しいとすると、「私」は時間順に可算個並べることができます。順にo_0,o_1,o_2,...と呼ぶことにします。
R4が持つ次の制約(υ1)が、私(相対性理論を満たす時空と、量子場の理論を満たす物質とから成る宇宙に住んでいると信じている者)には不自然なものに見えます。

(υ1)同時に存在する2つの意識主体がともに「私」であることはない。

相対性理論によれば、時間軸のとり方はいくらでもあります。ですから、
「o_Nが死んだ時点ですでに生まれていた意識主体の集合」すなわち「o_(N+1)たり得ない者の集合」
は時間軸のとり方に依存してしまいます。
この依存が不自然に思えます。

時間軸のとり方に依存せずに成り立つよう(υ1)を改定するとしたら、次のようになるでしょう。

(υ2)o_Nが死んだ時空点よりも未来であると[時間軸のとり方に依存せずに]言える時空点でo_(N+1)が生まれる。

「o_Nが死んだ時空点よりも未来であると[時間軸のとり方に依存せずに]言える時空点」とは、
「o_Nが死んだ時空点で光を発したとして、その光が届く範囲内の時空点」と言い換えることができます。

 しかし、(υ2)と相対性理論とを同時に認めるなら、次のクイズに迷います。
クイズ「o_Nが一人で宇宙船に乗り、ブラックホールに片道探検し、存命中に事象の地平面を突破したとする。o_(N+1)はどこに生まれるか?」

答案を4つほど書いて見ます。
答案1「o_(N+1)は生まれてこない。」
答案2「十分な量のホーキング輻射が出た後に、o_(N+1)はブラックホールの外側で生まれる。」
答案3「o_Nは存命中に事象の地平面を突破できない。」
答案4「ブラックホールは存在しない。」
いずれも無理にこじつけた感があります。

 (υ2)は(υ1)を強めた制限でしたが、仮に弱めて下の(υ3)にしてみます。
(υ3)2つの意識主体がともに「私」であれば、両者が争うことは不可能である。

(υ3)は、タイムマシンの存在可能性を否定します。ですから、(υ3)は一般相対性理論よりも強く、宇宙の幾何的構造を制限してしまっているように思えます。

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Re:輪廻転生説というと 投稿者:φ 投稿日: 4月 4日(火)23時46分56秒

 哲学的輪廻転生はもちろんのこと、宗教の輪廻転生も、同じ原子が集まるなどということは前提していないでしょう。同じ人間であるために、同じ原子で構成されていなければならないとしたら、一年前のφといまの私は別人ということになってしまいます。
 ダライラマの生まれ変わりを探す作業にしても、肉体はもちろん記憶の連続性すら条件とされません。輪廻転生が認められるためには、肉体の同一性も、記憶の連続性も不要です。

 大槻教授がもし「輪廻転生」を批判するのにエントロピーを持ち出したとしたら、それは「わら人形論法」でしょうね。「スワンプマン」を否定するのにエントロピーを持ち出すなら、それは健全な論法ですが。

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輪廻転生説というと 投稿者:クリスティアン 投稿日: 4月 4日(火)07時23分27秒

以前、あの大槻教授が激しく攻撃していました。
根拠は、死んでバラバラになった肉体を構成する原子が再び身体を構成するようなことは、エントロピー増大の法則に反するので有り得ないということでした。
このような批判にはどう反論されますか?(大槻教授はもともと宗教の輪廻転生説を批判したものであり、哲学的アプローチとは噛み合わない議論のようにも思いますが。)

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発表を終えて 投稿者:φ 投稿日: 4月 3日(月)02時33分29秒

この掲示板から4/1研究会へと合流くださったかたがた、ご苦労さまでした。初対面だったわけですが、話題の絞られた会場だと、いきなり打ち解けて話せるのが嬉しいところです。ミニオフ会ができましたね。

 渡辺恒夫さんも言っていたとおり、以前とはやや異なった観点から論じました。第3回死生学研究会では「多宇宙が実在すれば、私の実在という謎を説明するのに、輪廻転生は不要」としましたが、今回は、「私の実在という謎が与えられた以上、多宇宙が実在しない可能性と合わせると、輪廻転生は正しそうである」としました。

 配布した原稿は、とくに飛ばしたところに不備が含まれていますので、推敲のうえ、近く「<人間原理>と<可能世界>のページ」にアップロードする予定です。それまでの間にも、反論、疑問等、大いに歓迎いたします。

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φ先生の所の学生さんを羨んでいたΥ田です。 投稿者:Υ田 投稿日: 4月 3日(月)01時46分22秒

死生学研究会とその後の飲み会でお世話になりました。Υ田です。
輪廻転生についてやはり納得できず、頭の中で反論を組み立てているところです。時間が取れたらアップいたします。

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昨日お話聴いたものです 投稿者:Tsunashima 投稿日: 4月 2日(日)13時40分2秒

初めて投稿します。昨日のお話を聴きに行きました。正直、輪廻転生については、未だなっとくできていませんが、またよく考えてみたいと思います。
時間がなくて、会が終ってからすぐに失礼してしまいましたが、またこういう機会があれば聴きに行きますので、掲示板で教えて下さい。

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今日はとても楽しかったです 投稿者:ε 投稿日: 4月 2日(日)00時55分18秒

φさんの明快な話、その後の飲み会などとても楽しい時間を過ごさせていただきました。こういう文科系の研究会に出席させていただいて、また違った世界が開けたような気がします。どうもありがとうございました→死生学研究会の皆さん

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 4月 1日(土)04時17分11秒

メールいただいていました。
あすは、ほとんど萌芽的な事柄を整理しつつ、フロアの助力を仰ごうと思います。

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まだちょっと&恣意性&連絡 投稿者:ε 投稿日: 4月 1日(土)00時17分50秒

だいたい理解しましたが、ベイズ統計の通常のモデルでは、この種の議論をするときでも、φさんのモデルのような「私」に関する可能世界ではなく、さまざまな観測者からなるモデルを考え、最後の段階で「私」がデータを満たすランダムな観測者であることから、「私」のいる可能世界(どちらかの仮説を満たしている世界)の確率を推論すると思うのですが・・・BostromのincubatorとかGod's coin tossなどでもそうなっています。私も修正版のモデルを作ってみましょう。

ところで、恣意性に関連して、通常、脳は意識に必要である、というのは常識的判断ですが、その根拠は、
「脳以外に何も持たない意識が存在する、あるいは想像可能である」
「脳以外に宿っている意識を見たことがない」
という常識的観察に基づいていると思われます。これらをモデルに取り込めたらいいのですが・・・

明日(もう今日ですが)の人文死生学研究会に出席させていただきます、というメールをかなり前にお送りしたのですが届いているでしょうか?

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Re:よく考えてみると 投稿者:φ 投稿日: 3月31日(金)03時11分37秒

 論理的には宇宙の全ての個体が母集団に入っていますが、実際的には、F**では意識だけ、**Fでは脳だけが主題となります。
 F**では、全ての意識の中のランダムなメンバーとしての「私」についてBというデータが得られ、**Fでは、全ての脳の中のランダムなメンバーとしての「私」についてCというデータが得られた、というわけです。P(C)=1は、「私」をどこに位置づけたかという、準拠集団についてのF**での約束事にしかすぎません。P(B)=1は、同様に、**Fでの準拠集団の選びかたの約束事です。
 KのもとでBというデータが得られにくいはずなのは、脳の希少性ゆえです。LのもとではBというデータはAの場合常に得られるはずです。Lが仮説として有意義であるかぎり、ここに恣意性はないでしょう。(「意識の必要条件は淡路島に住んでいることである」などという仮説なら恣意的の誹りを免れないでしょうが)。

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よく考えてみると 投稿者:ε 投稿日: 3月30日(木)23時24分13秒
「脳のような複雑系が希少である」という命題は、意識でない物理的存在も考えに入れてのことでしょう。結局、二段構えになっているのではないかと思い始めました。まず、最初は宇宙のすべての個体を考え、そこで仮説K、Lを考える。この場合、意識であるという確率も脳のような複雑系という確率も1でないので、独立性が実際に意味を持って、仮説Kのもとでのほうが意識であり脳である確率が小さくなる。つぎに意識である存在者のみを考えると、もちろん意識である確率は1になる。これがP(C)=1で主張されていることではないかと・・・

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RE:取り急ぎですが 投稿者:ε 投稿日: 3月30日(木)10時31分10秒

新しいバージョンでも
>L「脳は意識の必要条件である」
からLのもとでC→Bと即断してしまい、その下の式、A&C→A&B を見落としてました。P(B|L)=1は間違いです、お騒がせしてすみません。したがって、P(A&B|K)が小さく、P(A&B|L)が大きくてもたしかに矛盾はありません。

ただ、それが恣意的なモデルではなく、「脳のような複雑系が希少である」という事実から論理的に導かれなければならないといっているのが後半部の主張です。

K、Lを考えるときは、宇宙の中のさまざまな個体からなる別の確率空間を考えているのでしょう。そのことから導くことができるか・・・

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私が意識なのだから 投稿者:ハム 投稿日: 3月30日(木)09時47分54秒

>仮説Lのもとではなぜ適用できないのかということにならないでしょうか

私が意識である場合、
脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実により、P(A&B|K)≒0。
私は脳という必要条件を備えているので、P(A&B|L)=P(A)=a。
と、私は理解しているのですが。
この辺が「私」の難しさ(胡散臭さ?)だと思います。

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取り急ぎですが 投稿者:φ 投稿日: 3月30日(木)04時41分40秒

就寝前の短時間でチラリなので、詳しくは熟慮して改めて返答しますが――

 > P(B|L)=1からP(B)=1になり、

が不明なので――。 P(B|L)=1 とはどうしてそうなるんでしたっけ?
 LのもとでA&C→A&B ゆえ、(A→(A&B)|L) ですが、
 これはP(B|L)=1 を含意しませんよね?
 LのもとでA&C→A&B というのは、LのもとでのA、B、Cは独立でないという意味ですが、それは LとA、B、Cとの間の独立性の妨げになるんでしたっけか……?

 たとえば、超ひも理論と、あす雨、あさって雨 という事態とは独立です(と主観確率では考えざるをえません)。しかし、超ひも理論のもとで、あす雨と、あさって雨とを互いに独立とは見なせないでしょうね。ここに矛盾はないと思いますが……、

 すみません、いま頭が働
かないのであすまたじっくり考えてみますが、
  P(B|L)=1 は私はそのつもりはなかったので、何故そうなるのだったか、だけ、ひとまずお教えいただければ幸いです。

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RE:……? 投稿者:ε 投稿日: 3月30日(木)03時39分45秒

たしかに前のバージョンではそうでした。しかし最新バージョンではそうなっていないと思います。これは26日のレスの最初にも書きました。、
その前にブログの

>(A、B、CがLと独立)

はまずいと思います。もしBとLが独立なら、P(B|L)=1からP(B)=1になり、さらにAとLが独立ということからAとKも独立になり、P(A&B|K)=P(A|K)=P(A)=aになってしまいます。少なくともBの独立性条件ははずすとしなければならないでしょう。しかしそれでもやはり問題が残ります。

>P(A&B|L)≧P(A&C|L)

は単なる不等式であって、aとP(A&B|L)の関係を述べたものに過ぎません。仮説Kのもとでは

>脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実による

が適用できたのに、仮説Lのもとではなぜ適用できないのかということにならないでしょうか?aが小さくないからだというのは理由にならないと思います。なぜなら、モデルが不適当で矛盾を含むかもしれないからです(つまりa≒0で、かつa>>0) 。逆に言えば、上の観測事実からP(A&B&C|K)が小さいということがどうして出るのかがさらに説明を要す
るのではないでしょうか?

このことにも関係するのですが、Kを「脳と意識は独立である」とするとそれを私に適用した場合、SSAによって、P(B&C|K)=P(B|K)・P(C|K)になるはずです。これはKをLに変えても自明に成り立ち、KとLは対立仮説になりません。もしそういう意味でないとすると、確率論で言う独立性とは何か違ったものということになり、意味不明になってしまいます。

脳と意識が独立(K)であったほうが、意識には脳が必然である場合(L)より脳である確率P(A&B&C|*)が小さくなると推論するためには、意識でない存在者も考えたモデルでなければならず、P(C)=1が無理であることになると思います。

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……? 投稿者:φ 投稿日: 3月29日(水)17時52分34秒

 「脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実」は、ほとんど誰もが認めることですから(この宇宙全体で、脳どころかマクロな固体が存在する領域比率自体がほとんどゼロに等しい)、KとLに共通の前提にしたつもりですが……?
 これは、修正する前の最初のバージョンからそうでした。

 「脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実」の影響を受けるのはKだけで、Lは抵抗力があるというだけのことです。← P(A&B|L)≧P(A&C|L)ゆえ。

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補足・訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月29日(水)13時04分6秒

>Observer Equation →Observation Equation

やはり、仮説Kのもとでのみ(具体化した)脳のような複雑系が希少であるというのが気になります。

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Re:気づいたことなど 投稿者:φ 投稿日: 3月29日(水)05時06分17秒

①SSA(またはBostromの言葉でより一般的なSSSA)は、一種の無差別原理ですね。他に何も情報がなければ、自分は全観測者のランダムな一例と見なす。サイコロの特定の目が出る確率など、「サイコロは偏っていない」というトリビアルな但し書きが、SSAに相当するでしょう。(また、前にも書いたように、「偏っていることはわかっているがどういう偏りかたをしているか不明」な場合も、それぞれの目の出る確率は、ベイズ的には1/6
です)。特別な補助仮説がないということは、自動的にSSAが認められたことになると思われます。

②KとLは、現実世界(またはこの宇宙)での真理に関する仮説なので、事前確率は観測者の個数に影響されないでしょう。また、KとLはもし正しければ必然的に正しい(偶然的真理ではない)という暗黙の前提があるとすれば(ここは異論の余地がありますが)、可能世界ごとに食い違うことはなく、全可能世界でKかLの一方だけが正しいことになるでしょう。

③これからBostrom論文をダウンロードして読んでみようと思います。

④Kは、Lと対立させているので、「意識と脳は独立である」としました。「意識を持ち具体化した脳であるものは少ない」というのは、「意識と脳は独立である」「脳は稀である」の二つから必然的に導けるのではないかと思いますが――。(その特殊例が、「Kのもとでは、ランダムな一意識たる「私」が具体化した脳である確率は極小」)

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気づいたことなど 投稿者:ε 投稿日: 3月28日(火)00時17分34秒

Bostromの論文を眺めながら、いくつかの点について考えてみました。

①仮定L、Kの適用について
仮定LやKは、宇宙の中のさまざまな存在者に関する命題ですね。それをA、B、Cのような特定の存在者に関する確率に結びつけるのは厳密に言うとBostromのいうSSAを使っているのではないでしょうか?たとえば、電車通勤するサラリーマンの5%がインフルエンザウィルスに感染しているとき、自分が電車通勤するサラリーマンであるとウィルスに感染している確率が5%であると判断するのが普通ですが、これは自明なことではなく、SSAを使っているのでは?

②存在者の個数
φさんの定式化では、仮説Kと仮説Lの場合、意識的存在者の個数が違うのか同じなのか明確になっていないような気がします。あまり問題にならないのでしょうか?

③Observer Equation(OE)
BostromのOEでは、可能世界の測度や観測者(正確にはObserver-Moment)の個数まで方程式に入っています。こういう立場から見るとどうなのでしょうか?私はまだちょっと見ただけなのでよくわからないのですが・・

④仮説Kについて
仮説Kの独立性の部分は計算ではまったく使われず、P(A&B&C|K)が小さいということだけが使われています。それからは、むしろKは
K:意識を持ち具体化した脳であるものは少ない
とすべきではないでしょうか?

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補足 投稿者:φ 投稿日: 3月27日(月)16時01分21秒
> F**で、観測選択効果により、P(B|A)=1ともいえないでしょうか。

もちろん、宇宙物理学では、観測選択効果によりP(B|A)=1 として扱いますが(弱い人間原理)、F**では、脳(のような複雑系の物質)と意識(観測)との相関関係そのものが疑われている文脈ですから、P(B|A)=1ではなく、 P(B|A&L)=1となります。

> **Fの「観測選択効果により、P(C|A)=1」は前提にしたほうが良いと思います。

 「私」概念の本質(意識であること)は、たしかに前提なみの基礎でしょう。ただ、**Fでは、「私が脳であること」以外は最小の装備で出発し、やらせるところまでやらせて、最後に常識的な共通前提P(C|A)=1で決着を付ける、という運びにしました。(主語が「私」以外の場合はP(C|A)=1に相当する命題は必ずしも主張できません)

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確率的センスとしての哲学思考 投稿者:φ 投稿日: 3月27日(月)06時43分56秒

もともとの 「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」
http://russell-j.com/sizen-sentaku.pdf
 でのF**周辺の記述は、「直観で」書いていました。(つまるところ、確率的直観・確率的センスこそが哲学の全てなのだとすら私は思っています)。
 そこを、「よくわかりません」と突っ込まれたことから、ちゃんと論証してみようとして、結果は正しいには違いないのだが筋道だってモデル化しようとするとかなり骨が折れることを実感しました。これからも、突っ込まれるたびに適宜厳密を期していこうと思います。

 ファジイ理論と可能世界の繋がりは、私は知りませんが、いかにもありそうですね。可能世界は、普段は表だってあらわれていなくても、意識的にモデル化しようとすると浮上してくるのでしょう。

 観測選択効果ではP(B|A)=1とはならないでしょう。観測そのものは脳と本質的な関係はありませんから。

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今回の議論 投稿者:ハム 投稿日: 3月27日(月)00時40分10秒

では、「私」というものの難しさ、胡散臭さを感じました。
客観的にはP(意識)≒0 だけれども、主観的にはP(意識)=1だということ。
客観性を志向する数学では、「私」を扱うのは難しそうです。

(再々修正版)では、**Fの「観測選択効果により、P(C|A)=1」は前提にしたほうが良いと思います。
F**で、観測選択効果により、P(B|A)=1ともいえないでしょうか。

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一段落のようですね 投稿者:ε 投稿日: 3月26日(日)21時09分50秒

一般的感想というか、質問なのですが、今回いろいろ考えていて、可能世界論と確率論は相性がいいと感じました。可能世界論といえばライプニッツが思い出されますが、ライプニッツは確率についても何かやってたでしょうか?そうだとすればそこから可能世界に想到したと想像できるかもしれませんね。

あと、不確実性に関する数学としてファジイ理論というのがあります。真偽値が0と1の間の任意の実数値を取るような多値論理(ファジイ論理)を基にした数学らしいのですが、これと可能世界との関連について、φさん、なにかご存知でしたら教えてください。

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Re:(無題) 投稿者:φ 投稿日: 3月26日(日)06時06分3秒

 正確には、P(A&B)やP(A&B|L)などの値は「補助仮説」ではなく、Lの意味と、脳が稀少だという事実から必然的に導き出される「派生的仮説」だったということのようです。「脳が稀少である」を記号で表わして演繹の部品とする必要があるかどうか、ともかく、哲学屋の限界としては、「意味を考えることで」P(A&B|L)=P(A)を派生させて、とりあえず満足できる気がしています。

> P(L)≦P(B|A&C) はすべての一般仮説に共通な当り前の真理となります。

 と言ったのは、単純に、左辺の括弧内は右辺の括弧内を「私」以外の意識へ一般化した命題なので、真になる確率が右辺より以下である、というだけのつもりでした。同じ形の式があらゆる命題について成立するという意味ではありません。

 P(L)≒0 は、前々回「L、Kのみのモデルと――」で、しぶしぶ認めようと努めかけたのでしたが、やはり、検定すべき仮説の事前確率の範囲が固定されるというのは、どこか変だと思います。とりわけLの内容を考えると、Kに比べて(あるいは~Lに比べて)圧倒的に事前確率が劣るとは、直観的に納得しがたいからです。

 ただ、ここまで修正が重なると、まだ間違いや取りこぼしが潜んでいることは間違いないという気がしてきました。ε さんのモデルを参考にしながら、また考えてみます(ただ、ε さんのモデルは非本質的な条件が付きすぎて一般性が低いような気もするのですが――)。
 お気づきのことがありましたらまたご教示いただければと思います。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 3月26日(日)01時34分57秒

レスと再々修正版、拝見しました。とりあえず、気づいたことを述べます。

修正によってP(L)≒0が導かれることがなくなったのはわかりました。ただ、もともとP(B)、(またはP(A&B))が小さいことの論拠は、脳のような複雑系は生成が難しい、という物理的事実のみによるものであったはずで、それが意識との関係を述べている仮説LやKの成立と関係があるという今回の改訂の妥当性はどうか?が気になります。

>P(L)≦P(B|A&C) はすべての一般仮説に共通な当り前の真理となります。

の意味がよくわかりません。たとえばKについては別の不等号(P(K)+P(L)=1から導かれる自明なもの)が成り立つわけでしょう。

もともと、LはBとCに依存した命題なので、なんらかの関係が生じるのは当然だと思います。P(L)≒0に矛盾はないと思います。結論を導くためのモデルとして不適切ということはあるかもしれないですが。

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P(A&B)≒0 が間違いでした。 投稿者:φ 投稿日: 3月25日(土)20時49分48秒

 謎が解けました。

 私は空間思考よりも抽象思考のほうが性に合うので、まだ一般的なベイズ式にこだわりつづけ、
 P(L)≒0となったのがやはり納得いかず、
 モデルが間違っているのではと考え直しました。

 ベイズ的なモデルでは、対立仮説の事前確率は任意の値がとれなければならないはずなので、 ≒0 などと強制されてしまうのは、補助仮説のどれかがLの定義と矛盾しているに違いありません。

 というわけで、再検討してみたところ、
     P(A&B)≒0
   がおかしいことに気づきました。

 脳の希少性から P(A&B)≒0 となるのは、Kが正しい場合だけで、Lが正しい場合は、Lの内容からして P(A&B)≒0 のはずがなく単に =P(A)でなければなりません。

 つまり、補助仮説P(A&B)≒0のかわりに、次のものであるべきでした。

  P(A&B|K)≒0
  P(A&B|L)=P(A)=a

 こうすると、ε さんの計算に当てはめたとき、問題は解消します。一応やってみますと、

a=P(A)=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(A&B)/P(L)

P(L)≦P(A&B)/P(A)=P(B|A)=P(B|A&C)

P(B|A&C) は、「いかなるものであれ、意識として具体化しているとき、それは脳である」という命題Lの特殊例「私が意識として具体化しているとき、私は脳である」の確率なので、一般は特殊より成立しがたいため
P(L)≦P(B|A&C) はすべての一般仮説に共通な当り前の真理となります。

つまり、P(L)に条件は付きません。

 別様に書けば、

 P(L)=P(A&B&L)/P(A)=P(B&L|A)≦P(B|A)
     (P(L)=1のときに、P(B|A)も1になります。これは内容からして当然)

 というわけで、もう一度修正することになりました。
 「霊体仮説とゾンビ仮説(再々修正版)」を↓に置きました。
 皆さんの刺激のおかげで改良が続き、感謝しています。
 (↓ F**に合わせて、**Fも修正しました。)
http://green.ap.teacup.com/miurat/647.html

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L、Kのみのモデルと―― 投稿者:φ 投稿日: 3月25日(土)05時49分8秒

 ε さんのモデルはしばし検討させていただきます。

 P(L)≒0 は、考えてみればある意味妥当で、厳密にいうと、同時にP(K)≒0でもなければならないのでしょう。LとKの中間及び外側に、A&CとA&Bの相関にあらゆる確率を指定する仮説が散らばり、それぞれの仮説の事前確率が、やはり ≒0 となるのかもしれないと思います。

 むろん、理念的にLとKだけに絞ったモデルを想定する場合はそれぞれ事前確率がそれなりの大きさkと1-kにできなければなりませんが。そのモデルが非現実的であるような文脈では、L周辺の仮説束とK周辺の仮説束の確率の比だけに注意を限定するのでしょうかね。確率分布をきちんと扱う技術は私は持ってないので、もし必要に迫られたら ε さんにお尋ねさせていただくかもしれません。

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月24日(金)03時17分26秒

>誤 B&K
 正 B&C
でした。

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RE:あらためて 投稿者:ε 投稿日: 3月24日(金)00時36分32秒

確かに、私のモデルではP(C)が1に近くはありません。ただ、私の場合、φさんとは異なり、可能世界のすべての存在者を考えています。ほとんどすべての存在者に意識があったら却っておかしいでしょう。もっとも、(*)、(**)を認めると、意識の存在確率はかなり低くなります。

ブログでは最後のステップが抜けていました。φさん、ハムさんにも言われたことと関係するかもしれませんが、

観測者は自分が脳であり、意識であることを観測する。すなわち、(w,x)εB&K。これは紫の領域に
観測者がいることを意味します。すると、L&B&Cのほうが、K&B&Cよりずっと大きいので、ランダムと考えられる(w,x)がLに入っている確率のほうが高い。
http://mathpl.exblog.jp/

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あらためて 投稿者:ハム 投稿日: 3月23日(木)23時22分4秒

「F**に関するノート」を見ると、今度は基本的前提の2が気になります。
これは、P(C)が1か1に近いとはいえませんよね。

私が意識である、ということをうまく定義してやる必要がありませんか。

例えば、εさんのモデルで「私」の位置を決めて、その位置だけの議論を組み立てるような。
今のところただの思いつきですが。

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前提と観察 投稿者:ε 投稿日: 3月23日(木)12時54分56秒

観察結果Eのもとでの仮説Hの確からしさP(H|E)を求める通常のベイズ推論の場合、観察の結果わかるのは、観察者が集合Eに入っているという事実であって、前提としてのEの性質そのものは仮説検定のモデルを作る際に決め(ま)る事柄だと思いますが。

私の喩えに強引に当てはめると、Lの各ガラス板はかなりの部分(割合a)がA&Bであるので、その枚数が増えすぎると、立方体全体におけるA&Bの割合が大きくなり、前提に反する、となるでしょう。

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Re: 2つのモデル 投稿者:φ 投稿日: 3月23日(木)02時47分2秒

ブログのガラスの譬え話は面白いですね。
立方体の中に恣意的に生まれさせられて、自分はどこに当たりそうか、という問題に還元されるでしょうか。
前提をどれほど切りつめられるかが問題ですが、Bの実例がまばらであるという以外の前提は、なるべく認めない方向でどれほど行けるか、見たいと思います。たしかに図がほしいですね。

 ところでまだ気になっているんですが、私の単純なモデルで、P(L)≒0になった計算――
  P(L)とは独立に観察によって設定した補助前提P(A&B)≒0を用いて計算をしなおし、P(L)≒0を導く、というのはフェアなのか、という疑問がまだ引っかかっています。
 P(L)はあくまで事前確率であって、P(A&B)が不明な状態でのLの理論的値が問われているので……、何か循環があるような。
 ちょっと考えてみます。

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2つのモデル 投稿者:ε 投稿日: 3月22日(水)22時10分57秒

ブログに書いたほう、簡単なモデルの両者とも大丈夫ですが、どちらも問題点があります。また、仮説LとKがφさんのと微妙に違います(発想は生かしたつもりですが)。

実は条件(**)はP(L)に条件がつくのを封じるためのものなのです。本当は図示するといいので図をアップするつもりだったのですが、時間がないのでとりあえず言葉でブログに書いておきます。

簡単なモデルのほうは、収容所-ビールモデルを読み替えるだけです。実際に2種類の収容所が存在するのではなく、どちらかしか存在しない場合を考えるのですが、全空間としては、両方の収容所を合わせたものを考え、ただ、独房の確率をLに属する場合をKに属する場合の100倍にしておきます。そうすると、Bの個数は少ない(20/1010)けれども確率は1/2を少し超えることになります。

こちらの問題点は、Bの個数が相対的に少ないのはいいのですが、その原因がKにおいて霊体(~B&C)が多いことにあるということで、これは主旨に反するでしょう。
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混乱気味ですが――part2 投稿者:φ 投稿日: 3月22日(水)14時22分3秒

 前回、なんだか混乱したことを書いちまいまして。
 P(L)/P(L|F**)≒0だと、P(L)≒0 に依然変わりありませんからね。

 εさんのモデルでは、同様のことは生じることはないのでしょうか?
 つまり論証が、事前確率P(L)に不利な条件を必要とするというような……?

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混乱気味ですが―― 投稿者:φ 投稿日: 3月22日(水)04時58分44秒

> a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(A&B)/P(L)より、
> ですが、
>> P(A&B)≒0
> なので、結論は同じく P(L)≒0となりませんか?

 そうだとすると、もともとP(L)≒0でしかないLを、仮説検定で引き上げて、Kと互角に持っていったにすぎないことになりそうです。
 ……しかし、何かおかしい。仮説検定でLが確証できる条件がP(L)≒0だというのか? A、B、C、Lが相互に内容的関連を持つ場合、単純な確率の演算が適用できるのだろうか……。

 少し考えてみますが、直観的には、

 P(L)/P(L|F**)≒0  もしくは  P(L)≪P(L|F**)

 を示しただけという気も……。
 というのも、P(L)≒0を示したε さんの計算は、F**で使った他の前提を動員しているからです。とくに、P(A&B)≒0。
 ところが、もともとP(L)は、P(A&B)≒0 のような観察以前の事前確率のはず。
 ちょっと確信はなく、考えねばなりませんが、
 F**の諸前提を利用しながらP(L)≒0を示しても、それは、諸前提なしのP(L)そのものについての結果ではなく、
 P(L)/P(L|F**)≒0を示しただけという気がするのですが……。
 
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元のF** 投稿者:ハム 投稿日: 3月21日(火)17時51分41秒

では、脳と意識は同じ対象だったはずなので、「F**に関するノート」は違う証明だと感じたのです。

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こちらも訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月21日(火)16時37分18秒

φさん、早速コメントをありがとうございます。

>>a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(B)/P(L)より、

は、

a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(A&B)/P(L)より、

ですが、
>P(A&B)≒0

なので、結論は同じく P(L)≒0となりませんか?

独房の数の問題では、P(K)=P(L)=1/2 となる場合は考えたのですが、どういう状況なのかは具体的にわかりませんでした。都合のいいことに、F**の問題に適用できるのはこちらのほうですね。

-------------------------------------------------------------------------------- 些細な記載ミスがあったので一箇所訂正のうえ 投稿者:φ 投稿日: 3月21日(火)14時52分8秒
Re:簡単なモデル

> P(L)a≦P(B)、従って仮定a>>0からP(L)≒0が導かれます。

 再修正版では、
 P(B)=b(未知) としているので、P(L)≦b/a としか言えず、P(L)の事前確率は決まらないのでは。
 ≒0 となるのは、概念的命題であるP(B)ではなく、経験的命題である P(A&B) もしくは P(B|A) としています。

それから、独房の数の問題で、

> P(K)とP(L)では普通P(K)が100倍大きいと考えるのが自然

 というεさんのコメントは、条件付きで成り立ちます。
 独房10収容所と、独房1000収容所が実在し、1010人が収容されていてあなたはそのうちの一人だ、という場合は、P(K)がもともと100倍大きかったと考えるのが自然です。
 しかし、問題文は曖昧で、次のようにも読めます。独房10収容所と、独房1000収容所のどちらかしか実在せず、拉致されたのは1000人か10人かのいずれかで、あなたはそのうちの一人だ、という場合。
 後者の場合は、P(K)とP(L)はともに1/2とすべきで、ビールがもらえたというデータにより、単純にLの信頼度が百倍になります。

 これは、他の可能世界(一可能世界内の多宇宙でもほぼ同じ)が「実在」するかどうかという問題に、経験的決着を付けるのに持ち出される議論ですね。このあたりは、『論理サバイバル』問101「森の射手」と問102「多世界説の経験的証拠」に書きました。
 「森の射手」は、収容所=ビール問題とほぼ同型かと思います。(設定はかなり違うが)

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ノートについて 投稿者:ε 投稿日: 3月21日(火)14時46分27秒
ハムさん、ブログをみてくださってありがとうございます。画像をアップしたかいがありました。

B(w,x)やC(w,x)は関数なので、関数定義ではwとかxはプログラミングでいう仮引数です。たとえば
f(x)=sinx,
g(x)=cosx
と定義したとき、別に同じxが意味されているわけではありません。

概念を対象の集合と考えるのはまあ数学者の本能のようなもので、そのほうが図式化できて、少なくとも私には解りやすいのです。

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Re:簡単なモデル 投稿者:φ 投稿日: 3月21日(火)14時45分15秒

> P(L)a≦P(B)、従って仮定a>>0からP(L)≒0が導かれます。

 再修正版では、
 P(B)=b(未知) としているので、P(L)≦b/a としか言えず、P(L)の事前確率は決まらないのでは。
 ≒0 となるのは、概念的命題であるP(B)ではなく、経験的命題である P(A&B) もしくは P(B|A) としています。

それから、独房の数の問題で、

> P(K)とP(L)では普通P(K)が100倍大きいと考えるのが自然

 というεさんのコメントは、条件付きで成り立ちます。
 独房10収容所と、独房1000収容所が実在し、1010人が収容されていてあなたはそのうちの一人だ、という場合は、P(K)がもともと100倍大きかったと考えるのが自然です。
 しかし、問題文は曖昧で、次のようにも読めます。独房10収容所と、独房1000収容所のどちらかしか実在せず、拉致されたのは100人か10人かのいずれかで、あなたはそのうちの一人だ、という場合。
 後者の場合は、P(K)とP(L)はともに1/2とすべきで、ビールがもらえたというデータにより、単純にLの信頼度が百倍になります。

 これは、他の可能世界(一可能世界内の多宇宙でもほぼ同じ)が「実在」するかどうかという問題に、経験的決着を付けるのに持ち出される議論ですね。このあたりは、『論理サバイバル』問101「森の射手」と問102「多世界説の経験的証拠」に書きました。
 「森の射手」は、収容所=ビール問題とほぼ同型かと思います。(設定はかなり違うが)

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「F**に関するノート」 投稿者:ハム 投稿日: 3月21日(火)10時08分1秒

を見ていて感じたのですが、存在者xなるものは同一とはかぎりませんね。
B(w、x)、C(w、y)と書いた方が誤解がなくていいと思いました。

そもそも「存在者」というものが必要なのでしょうか。
なくてもいいように思うのですが。
例えば、「概念」のほうが哲学っぽかったりします。

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簡単なモデル 投稿者:ε 投稿日: 3月21日(火)02時43分23秒

再修正版を見たのですが、やはり①の第2式から、a=P(A&B&C&L)/P(L)≦P(B)/P(L)より、P(L)a≦P(B)、従って仮定a>>0からP(L)≒0が導かれます。まあ、事前確率に条件がついて悪いことはないと思いますが・・・

Nick Bostromのサイトから、論文 Observation selection effects, measures, and infinite spacetime をダウンロードして眺めているうちに、次のような簡単なモデルを思いつきました。φさんの最初のモデルに近いかもしれませんが、意識を持つ主体Cの個数をLとKの場合で変えています。実は語呂合わせがちょっと自慢(笑)です。

あなたは夜のうちに気絶させられて拉致され、気づかないうちに収容所の独房(Cell)に入れられた。2種類の収容所LとKのどちらかはわからない:

L:独房が10個しかない
K:独房が1000個ある

ある祝日に、ビール(Beer)10本が運び込まれるのを目にした。看守によれば収容者に振舞われるのだと言う。実際、あなたの夕食にはビール一本がついた。これから何が言えるか?

まず、独房には確実に入っているからP(C)=1、よって以下、この条件は書かなくてもよい。
ビールが出る確率は、
収容所Lの場合、P(B|L)=10/10=1、収容所Kの場合、P(B|K)=10/1000=1/100。
ベイズの定理により、ビールが出たとわかった後には、

P(L|B)/P(K|B)={P(B|L)/P(B|K)}・{P(L)/P(K)}=100・P(L)/P(K)

なので、事前確率に比べて、100倍Lである可能性が高まった。もっとも、P(K)とP(L)では普通P(K)が100倍大きいと考えるのが自然なので、その場合は、左辺の比は1となり、事後でもLである確率の方が大きくなるわけではないが・・
http://mathpl.exblog.jp/

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(ご案内) 投稿者:φ 投稿日: 3月20日(月)02時43分17秒

ε さん、ファイルをありがとうございます。 参考にして考えさせていただきます。 根元事象の定義から厳密にやるという習慣が哲学にはあまり無いので、勉強になります。

 さて、ここでずっと論じさせていただいたテーマで(ばかりではありませんが)、口頭発表しようと思います。
 かなり砕けたスタイルで話せる場だろうと思いますので、興味のあるかたはどうぞ。
 (以下、世話人・事務局の重久俊夫氏よりの案内文から抜粋)

 ……………………………………………………………………………
■心の科学の基礎論研究会・人文死生学研究会・合同研究会のご案内

・心の科学の基礎論研究会(第 48回)を、人文死生学研究会(第4回)との
合同で、下記の通り実施いたします。ふるってご参加下さい。

・(日時) 2006年4月1日(土) 午後1時30分~5時45分

・(会場) 明治大学駿河台キャンパス研究棟、4階・第2会議室
      (研究棟はリバテイータワーの裏手の12階建ての建物)
 …………………………………………………………………………………

 くわしくは、以下をご参照ください↓
http://www.01.246.ne.jp/~koma2/kokoro/

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直しました 投稿者:ε 投稿日: 3月19日(日)13時27分28秒

↓の画像ファイル、3つに分けたら多少見やすくなりました、かな?
参考のため、こういうアップロードの仕方を書いておきます、これもネットワークで拾った情報なのですが・・
TeXで書いてプレビューアーでPC画面に出す→printscreenキーでクリップボードにコピー→標準アクセサリのペイントツールで読み込んで加工→.bmpを.gifに変換(D&D画像変換と言うフリーソフトを使いました)→ブログに投稿
TeXで書くのはなんでもないのですが、その後の処理が試行錯誤も含めて、半日仕事でした(笑)
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ブログ更新しました 投稿者:ε 投稿日: 3月19日(日)06時18分1秒

結構記号を使うので、TEXでノートを書いて、画像で投稿しておきました。散々苦労したのですが、そのままでは多分読めないと思います。こういうときはホームページを持ってないと不便ですね。読みたいという奇特な方は、そこにも書いてあるようにファイルに保存すると何とか読めるようになります。φさんにはPDFファイルにしてEメールでお送りすることにします(題名は、F**について、としておきます)、ご笑覧ください。

そこにもあるように、仮定をもう一つつけました。

(**)脳であると言う性質は任意の可能世界で低確率である

この条件は、φさんの最初のモデルでは、Lを満たす可能世界では満たされていないので、それがP(L)≒0の原因になっていたものです。
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Re: Aについて 投稿者:φ 投稿日: 3月19日(日)02時23分55秒

 amazonで見てみましたが、中古で高いですね。ほんとは手に入れたいところだが……。

> ~A&B:私は脳であるが、具体化していない、と言う事象

 は、たしかにいかがわしいですが、たとえば、次のような文は意味をなすように思われます。

 タキオンはこれこれの性質を持つが、具体化して(存在して)いない。
 ヒッグス粒子はこれこれの性質を持ち、具体化して(存在して)いる。

 「私」が主語を占める文にも適用できるかどうかは問題ですが、「私」は固有名ではなく記述句で、いずれにせよ「私が存在しなかった状況」が想像可能である以上、~A&B とか ~A&C は理解可能な意味を持つように思われます。

>  (*)意識であるという性質は必然的である、つまり、ある存在者が意識をもてば、任意の可能世界で意識をもつ

 どのように使えるのか、楽しみです。

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また訂正と補足 投稿者:ε 投稿日: 3月18日(土)05時42分57秒

>Suupesと言う人の1986年出版の本

→Probabilistic Metaphysics
Patrick Suppes
Book / 251 Pages / January 1984 / 0631133321

です。

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ありゃ 投稿者:ε 投稿日: 3月18日(土)05時33分52秒

>悦に言っていたのですが

→悦に入っていたのですが

です

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Aについて 投稿者:ε 投稿日: 3月18日(土)05時32分25秒

しばらく前から思っていたのですが、Aはメタフィジカルに結構問題をはらんでいるような・・・
例えば、~A&B:私は脳であるが、具体化していない、と言う事象は存在するか?どのように理解すればいいのか、など。哲学的にどうしても必要ならば別ですが、テクニカルには無しで済ませられるような気がします。

議論になっているような哲学をなんと呼べばいいのか、と考えてProbabilistic Metaphysicsという用語を思いつき、もしかして新しい名称ではないかとしばらく悦に言っていたのですが、念のためgoogleで検索したら、200件以上ヒットして、本まであったのにはびっくり。Suupesと言う人の1986年出版の本のようですがφさん、ご存知でしたか?

私も自分のモデルで考えてみたくなって、2日くらい夢中になっていたのですが、P(C)=1(私のモデルではP(C#|S)=1、ただしSは観測者であると言う事象)の代わりに、前提としてより強い一般命題

(*)意識であるという性質は必然的である、つまり、ある存在者が意識をもてば、任意の可能世界で意識をもつ

を仮定すればうまくいきそうだと気づきました。しかしこれはφさんのモデルからは外れた話になるので明日あたり自分のブログに書こうと思います。かなり長い間、更新をサボっていたので・・・

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Re: Lをどう考えるか? 投稿者:φ 投稿日: 3月18日(土)00時17分27秒

> LをA、B、Cと同列の事象とみなすとき、全称例化してC→Bと言う命題だと解釈するのでしょうが、

 ここはそうではなくて、
 Lが含意するのは A&C→A&B  あるいは  P(C→B|A)=1

 ということのつもりでした。L,Kは、あくまで「具体化した脳と具体化した意識の関係」を述べる法則であって、「抽象的な(論理的な)意味での脳と意識」の関係を述べたものとはかぎらないからです。

 ……と、そこまで考えたら、それと整合的にするには
 P(B)≒0
 とするのは間違いだと気づきました。

 脳レベルの複雑組織は希少だという観測事実から言えるのは、「私が脳である確率≒0」ではなく、「私が具体化した脳である確率≒0」ということのはずですから。
 よって、P(B)≒0 のかわりに P(B)=b としておき、
 P(A&B)≒0 と設定しなければならないようです。

 というわけで、モデルがまた変更になりました。
 やや拙速気味ですが、以上の変更に沿って、覚え書きを↓に記しました。**Fにも必要な修正を施しました。
 果たして正しい方向に向いているかどうか心許ないですが、よいヒントをどうもありがとうございます。
 ↓についてまたお気づきありましたらどうぞご教示いただければ……。
http://green.ap.teacup.com/miurat/636.html

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人間原理的推論における「この宇宙」 投稿者:ハム 投稿日: 3月18日(土)00時11分46秒

<この宇宙>論というのは、先にここで話題になった「クリックの統計の誤謬」と通じるところがあるように思いました。
すなわち、地球(宇宙)というサンプルをサンプル選択以前に独立して指定していなかったので一般化してはならない。

多宇宙論というのは、多地球論?以上に一般化しすぎのように感じます。
多地球については最近、固体の惑星が発見されて、にわかに地球型の惑星の発見の期待が高まったようですが、多宇宙となると観測は構造的に不可能なわけです。

多宇宙論をこの宇宙の時間的な様相と解釈すれば、ビックバンから無限に拡散するチューニングの中にはファインチューニングの瞬間はあるはずだといえないでしょうか。

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Lをどう考えるか? 投稿者:ε 投稿日: 3月17日(金)00時31分19秒

前のレスでは、Lを仮定するとC→Bであること、すなわち、LがBの部分集合であることを使っています。したがってP(L)≦P(B)となり、P(L)≒0、P(K)≒1となります。ここで、どのような確率空間が考えられていようと、単にKがLの余事象ならばよいわけです。したがって、①の第1式は簡単に成り立ちます。しかし、まだ問題があって、aが小さいときに、肝心のP(A&B&C|L)/P(A&B&C|K)が大きくなることがいえなくなってしまいます、と思ったらa>>0と書いてありました(笑)

しばらく考えていて、①の第1式を経由せずに次のように考えれば、aについての仮定はなくてもすむことに気づきました。Cは全空間で成り立つ性質なので、&Cは省略して書きます。また、P(A)=a、P(B)=b、P(L)=lと書くことにします。

まず、P(A&B)=P(A&B&(KvL))=P(A&B&K)+P(A&B&L)より
P(A&B&K)=P(A&B)-P(A&B&L)
        =a・b-a・l(∵AとBは独立、および第2式の証明)
また、P(K)=1-lより
P(A&B|K)=(a・b-a・l)/(1-l)、したがって
P(A&B|L)/P(A&B|K)=(1-l)/(b-l)≧(1-b)/b>>1

また、もう少し精密に考えて、LをA、B、Cと同列の事象とみなすとき、全称例化してC→Bと言う命題だと解釈するのでしょうが、Cは常に成り立つので、結局L=Bとなります。この場合、P(L|A&B&C)=1、P(K|A&B&C)=0なので、たしかに自明に結論が言えるのですが、何か奇妙な気がします。これで信頼度が上がるのはあくまで例化した命題に過ぎず、一般命題について何かを言うためには、私と言う事象との独立性のようなことを使わなくてはならないでしょう。

私は、ベイジアン統計についてはこの1,2週間くらい2,3冊の本をざっと眺めただけの、全くの素人ですので、過度に細部にこだわっているのかもしれません。ある本にはベイジアン統計では普通は、根元事象が何か、などと言うことをあまり考えなくてもよいのだとも書いてありました。ただ、上のように事前確率に強い制限がついてしまうことなどから見ても、この問題は初歩的なベイズ推論とは異なるような気がします。

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Re:修正版について 投稿者:φ 投稿日: 3月16日(木)15時02分34秒

的確なコメントをありがとうございます。
言われることはすべてごもっともで、明確にしておかねばならないところでした。

 根元事象については、一般理論と個別事象が相互に確証し合う場ではつねに生じる解釈問題のような気がしますので、この問題特有のことではなく、先送りにしてもよいかと思われます。(もっと広い文脈を考える余裕の生じたときにじっくり考えるべき問題かと)。

 ここ特有の問題として、
 ①の第2式ですが、LとAに確率的相関があるとすべき理由がないので、独立と想定してしまいました。そういう措置は、通常許されるのではないでしょうか。たとえば、あす雨が降る確率と、超ひも理論が正しい確率は、両者を結びつける情報が何もないので、単純に独立と考え、〈超ひも理論〉のもとでの〈あす雨〉の確率は、単純に〈あす雨〉の確率としてしまうのではないでしょうか。
 また、第1式ですが、これも同様に、KとLについてどちらが正しいかわからない状態が出発点ですから(つまり仮説検定が必要な状態ですから)、乱暴なようですが、それぞれが同確率とするのが適当ではないか。
 ベイズ的な主観確率の土俵では、確率は「信じられる度合」と同じですから、KとLはいずれも、さしあたり ≫0 というのが前提となっています。(そうでないと仮説検定にかける意味がない)
 『心理パラドクス』p.130「ラプラスの悪魔」に書いたことですが、私たちの知識が一切欠けている場合、客観的にはどちらかに決定しているとしても(つまり厳密には確率1か0)、確率は両仮説とも1/2として扱われますよね。(KとLは網羅的ではありませんが、他に対立仮説がないならばそれぞれ事前確率1/2)。

 『心理パラドクス』の該当箇所の問題文だけですが、↓の 053★ラプラスの悪魔 をご覧いただければと。
http://russell-j.com/puzzl3-y.htm

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修正版について 投稿者:ε 投稿日: 3月16日(木)04時39分30秒

霊体仮説とゾンビ仮説の修正版について、一応眼を通しました。とりあえずF**についてだけですが、質問と言うかコメントがいくつかあります。

まず、修正前と同様に仮説KやLは脳や意識についての一般的命題、(A,)B,Cは私についての命題ということなので、結局2種類の確率空間を考えていることになります。しかしそれでは、①の2つの式のように条件付確率を自由に考えられないのでまずいのではないですか?”根元事象”についての下のレスはそれに関するものでした。私がK,Lに関してランダムに選ばれた存在者であると言うことは、確率空間ではK,Lと私と言う事象との独立性ということになると思います。たとえば下のレスの

2番目の仮定は(←aが脳を持つ可能世界は少ない)、むしろ

①P(B#)≒0:脳(のような複雑系)をもつ存在者はすべての可能世界において少ない
②a#とB#は独立

の二つを仮定したほうが自然でしょうが)。

などのように。

その部分がクリアされたとして、次に式①についてですが、第2式の証明は多分

P(A&B&C|L)=P(A&C|L)=P(A|L)(∵P(C)=1とLのもとでのC→Bより)

ですね。しかし、これがP(A)=aに一致するためには、AとLが独立でなければなりません。

また、第1式はどうやって示すのでしょうか?P(K)があまり(P(B)の程度に)小さいとまずいのではないですか?

いろいろつめこみすぎてわかりにくくなったかもしれません。また、見当違いのことを言っていたら、お許しください。

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修正は必要 投稿者:φ 投稿日: 3月15日(水)02時22分18秒

やはり、修正版のAという事象は必要とわかりました。
たとえば、もとの設定では必然的だった
P(B&L)=P(L)
ということは実はありえないですしね。
なぜなら極端な話、脳に相当する複雑系が宇宙に一つも生じないことだってありえただろうからです。

なお、このような人間原理っぽい議題において、可能世界をモデルに導入する場合は、
可能世界と多宇宙とを慎重に区別することが大切になります。
当面の話題からはやや外れますが、↓の拙論(続きを準備中)第3節以降でも、可能世界と多宇宙の脳内混同防止に我ながら苦労しました。
http://russell-j.com/thisuniv.htm

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根元事象について 投稿者:ε 投稿日: 3月14日(火)23時06分5秒

しばらく旅行に出ていたので、PDAからハムさんに対してだけ短いレスを返しましたが、問題が広がってきましたね。
根元事象について考えてみました。修正版はまだ消化できていないので、以前のモデルに対するレスですが、修正は可能だと思います。

根元事象は、可能世界wとその中の存在者xのペア(w,x)ではないでしょうか?そこで、確率空間として

Ω={(w,x)|wεW、xεTw}

、ただし、Wは適当な可能世界の集合、Twはwにおける存在者の集合、を考えます。

KやLを考えるときには、自分以外の存在者も関係してくるわけですし、むしろBやCは”私である”という条件付の事象だと思います。つまり、2変数の述語

B#(w,x):可能世界wにおいてxは脳を持つ
C#(w,x):可能世界wにおいてxは意識を持つ

を考え、単にB#とかC#と書いたら、Ωにおけるその外延を表すとします。また、”私”の指標性が問題になっているわけではないので、ある存在者aに対して、a#={(w,a)|wεW}という事象とします。ただし、aはすべてのTwの中に存在しなければなりません(条件Aを考えるときはここを修正することになるでしょう)。
すると、P(C)=1、P(B)≒0は

P(C#|a#)=1:aはすべての可能世界で意識を持つ
P(B#|a#)≒0:aが脳を持つ可能世界は少ない

で置き換えられます。(2番目の仮定は、むしろ

①P(B#)≒0:脳(のような複雑系)をもつ存在者はすべての可能世界において少ない
②a#とB#は独立

の二つを仮定したほうが自然でしょうが)。また、L,Kについては、まず

L'={w|∀x(C#(w,x)⊃B#(w,x))}

とおき、

L#={(w,x)|wεL',xεTw}、K#=Ω\L#

で置き換えます。
これでうまくいくかどうか、まだちゃんと考えてないのでわかりませんが・・・

ハムさん、

>>P(B|L)≧P(C|L)

これが問題なのですか?しかし、LのもとではBのほうがゆるい条件なわけで、当然成り立つはずですが・・φさんのレスでもそうなっています。

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「霊体仮説とゾンビ仮説(修正版)」 投稿者:ハム 投稿日: 3月14日(火)13時56分7秒

を読みました。
**Fは、コンピュータ意識なるものの信頼度を上げることはない、と読みました。

コンピュータやロボット自身の倫理問題などは、ないほうが良いと思っています。

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P(B&L)≦P(L) 投稿者:ハム 投稿日: 3月14日(火)10時01分56秒

この件については、

>P(B|L)=P(B&L)/P(L)≦1とP(B|L)≧P(C|L)=1よりP(B|L)=1

が認められないので、P(B&L)≦P(L)としかいえないでしょう、という意味です。

C(私は意識である)の必要条件は、B(私は脳である)にかぎらないのですから。

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月14日(火)01時24分50秒

また間違えた・・・
>P(B&L)=P(B)になります。

P(B&L)=P(L)

です。

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P(B|L)=1 投稿者:ε 投稿日: 3月13日(月)22時50分36秒

>ハムさん

”メタ事象”のレスでP(B|L)=1を示したので、
1=P(B|L)=P(B&L)/P(L)です。分母を払えば、P(B&L)=P(B)になります。

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P(C)=1 を保ちつつ…… 投稿者:φ 投稿日: 3月13日(月)02時46分38秒

反省して、出直すことにしました。

F**において、「私は脳でもあった」という観察データの言いたかったことは、「私は脳かつ意識であり、そういうものとして具体化した」なので、観察データは、B&Cではなく、A&B&Cとせねばなりませんでした。
 つまり、私は、本質的に意識であるはずなのだが、たまたま生まれてこないこともありえた、という場合が考慮されねばなりません。しかし現実には生まれてきたと。その確率aは1とはかぎりません。(たとえば極端な話、宇宙に一つも意識が生じなかったとしたら、「私は意識である」は真でも、私は具体化されず、観察データは得られなかったことになる)。

F**の場合
A「私は具体化している」 P(A)=a
B「私は脳である」    P(B)≒0
C「私は意識である」   P(C)=1

 ここからやり直さねばなりません。
 また御報告しますが、お気づきのことがあれば皆さんまたご教示ください。
 なお、上記によって書き直したメモは、↓に置いてあります。(ラフですいませんが)
http://green.ap.teacup.com/miurat/631.html

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念のために^^; 投稿者:楽俊 投稿日: 3月12日(日)21時39分50秒

ベイズ推定の構造上の「独立」と、意識と脳との「独立」が多義性の誤謬を犯しているということはないですよね。
(まこれは私の無知の告白として)
であと気になるのは、脳科学の分野でもっと違った(?)意味の独立性(独立か否か)が問題になっていたような気がするのですが、ここまでの議論はそれと同じ独立性が問題になっているのかどうかは私には解りません。
(ということで、私はしばらく休みます。では…)

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ん 投稿者:楽俊 投稿日: 3月12日(日)19時13分48秒

人間の死については解りました。

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>P(C&L) 投稿者:ハム 投稿日: 3月12日(日)17時17分11秒

P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(L|C)/P(L)=P(L)/P(L)=1(∵P(C)=1)
ということで了解しました。

また細かいことをいうようですが、
>P(L)=P(B&L)≦P(B)≒0
は、P(L)≧P(B&L)≦P(B)≒0 ですよね。

だからどうした? といわれそうですが、Kや¬K=Lを作ってベイズ的に推論するから面白い結果が出るわけで、個別に論じたら何も有意義な結果にならないと思うわけです。

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(おじゃま虫) 投稿者:楽俊 投稿日: 3月12日(日)12時40分57秒

議論の流れをおっているうちに、独立事象や同時確率というものが解らなくなってきました。
ある人間が肺がんで、かつ10年以上生きる確率。あるものが人間であった場合とにかくそれが死ぬ確率など。

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P(C)=1 はまずかった?!! 投稿者:φ 投稿日: 3月12日(日)03時26分5秒

L「脳は意識の必要条件である」なので、たしかに、「私は意識」→「私は脳」とはかぎりませんね。ただ、趣旨としては、L「どこかに脳があることが、どこからに意識があることの必要条件である」ではなく、L「いかなるものであれ、脳であることが、意識であることの必要条件」「いかなるものも、意識を持つならば、脳を持つ」と読んでいただきたく、Bは「私は脳を持つ」Cは「私は意識を持つ」と読んでいただきたかったのでした。
 このへんは、日本語の表現が確かに曖昧でした。L「何かが脳であることが、何かが意識であることの必要条件である」の2箇所の「何か」は同一であると常識的に読むこととしますが、そのあたりは、論理記号で書き直せば一応解決でしょう。

 P(C)=1のときはCは何とでも独立と解釈できますが、それは形式的にBとCが独立と言えるだけであって、Lが偽だとは言えません。
  B 私は脳である  C 私は意識である
  L ∀x(xは意識である⊃xは脳である)
  K ~∀x(xは意識である⊃xは脳である)∧~∀x(xは脳である⊃xは意識である)
 となりますが(Kは本当は、脳と意識の共在は確率的に相関しないと書かねばならないので上記では足りませんがさしあたり最低限の上記で)、

 私は脳でありかつ意識である
 という一つの例から、Kの肯定も否定も導き出せないのは当然です。

 根元事象を統一せねばならないのかどうかは難しいですが、
 BとCはそれぞれ、個々の意識の分布する確率空間の一事例、個々の脳の分布する確率空間の一事例、でしょう。しかし、BとCの関係を考えるさいには、「私」の存在する諸可能世界の一事例として出現します。つまり、後者の根元事象は各可能世界です。
 リンゴAの落下という事象をデータとして、ニュートンの法則を確証していくとき、前者も後者も、根元事象は可能世界でしょう。ここに問題はないのでは。リンゴの諸性質・諸状態をただあるがままに考えるならば(一つの法則を前提として考えるならば)、それは個々のリンゴ等の物体の振る舞いを根元事象とする確率空間に位置づけられるが、内的に法則で結びつけられた一事象は、別の法則というものと並ぶ事例となるので、可能世界を根元事象とする確率空間の、「一可能世界内の断片」として現われるのでしょう。

★★★ところで、ε さんの
 P(L)=P(B&L)≦P(B)≒0
 は、何か不思議な感じがします。何かがおかしいのですが――
 おそらく、P(C)=1 がまずかったかと。
 「私がいる」という事象Aを設定して、その確率をaとでもして、
 F**では
  P(C)=P(C&A)=a とせねばならなかったか。
 Cは正確には、「私は意識である」ではなく、「私は意識であり、しかも存在する」という趣旨のつもりだったので。

  ……そう、P(C)=1は単純化しすぎのようです。だんだん難しくなってきました!

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P(C&L) 投稿者:ε 投稿日: 3月11日(土)23時54分50秒

>>ハムさん F**の場合、P(C)=1が仮定されているので、P(C&L)=P(L)です。実は計算上ではC&というのは無視していいのです。Cを全事象(常に成り立つ命題)と考えれば明らかですし、P(A)=0となる空でない事象が存在するときにも、次のようにわかります。

C’をCの余事象(Cでないという命題)とするとき、P(C’)=0ですが、
P(L)=P(L&(CorC’))=P(L&C)+P(L&C’)
ところが、L&C’はC’の部分集合なので、P(L&C’)≦P(C’)=0

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脳でいい 投稿者:ハム 投稿日: 3月11日(土)12時43分59秒

>「私は脳である」は「私は意識である」の必要条件となります。

脳は意識の必要条件である場合、
私という名指しされた意識の必要条件は、脳であればいいはずです。
私という脳が必要だという条件はないですよね。

>P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(L)/P(L)=1(∵P(C)=1)

前にも指摘しましたが、
P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(C|L)/P(L) のはずです。
CとLが独立だという条件はないはずです。

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メタ事象 投稿者:ε 投稿日: 3月11日(土)03時03分2秒

私にとってわかりにくかった理由は、KとLは、事象(BとC)に関する言わばメタ事象であることです。多分このことからKとLには強い条件が課されます。

まず、Kは常に成り立つ性質ですからP(K)=1(前の主張の繰り返しですが)

(ここ

>>というε さんの論は、Kの意味を誤解されたかと思われます。P(C)=1という前提ゆえ確かにBとCはトリビアルに独立ですが、現にB&Cが真なので、トリビアルでなく独立かどうかはわからず、Kが真かどうかには何ら光を投げかけません。Kは一人称の特称命題「BとCは独立である」ではなく、一般命題だからです。

はいまだにわかりません)

つぎにLについては、

P(C|L)=P(C&L)/P(L)=P(L)/P(L)=1(∵P(C)=1)

また、P(B|L)=P(B&L)/P(L)≦1とP(B|L)≧P(C|L)=1よりP(B|L)=1

従って、P(L)=P(B&L)≦P(B)≒0

事後確率でなく、事前確率についても自然に情報が得られるというのがベイジアンで自然なことなのかどうかよくわかりません。

根元事象とは確率空間の要素になる対象です。BやCではある可能世界の存在者が対象のように見え、KとLではさまざまな確率分布を持つさまざまな可能世界自身が対象になっているようです。

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必要条件 投稿者:φ 投稿日: 3月11日(土)00時09分37秒

> L(脳は意識の必要条件である)だからといって、B(私は脳である)はC(私は意識である)の必要条件とはかぎりませんよね。

 かぎりますよ。
 「私」は数ある意識の中の一例なので、意識の必要条件が脳であれば、当然、「私は脳である」は「私は意識である」の必要条件となります。

 ………………………………
 εさんのようにメタレベルでたとえばLを仮定する文脈を設けたうえで、「条件付きでないBの確率」を考えるような場合、対象レベルでLを条件とする条件付き確率と区別して、Lを添字(下付小文字)にして

 PL(B)

 などと書くことがあるようですね。
 数値では PL(B)=P(B|L) となりますが、
  PL(B)では、Lそのものは主題とならず、背景に退いています。
  P(B|L)では、Lが前景に出て条件として主題化されています。
 『論理学入門』pp.146-7で私はそれ式の表記を用いました。(ブランドン・カーターの論文などを参考にして)

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雑感 投稿者:楽俊 投稿日: 3月10日(金)19時42分58秒

>L(脳は意識の必要条件である)だからといって、B(私は脳である)はC(私は意識である)の必要条件とはかぎりませんよね。

というか、「私は脳である」の「私」は「意識」を媒介して「脳」について語っているし、そうすることでしか「脳」について語れないということでしょう。まそうすれば、脳は意識の必要条件ということになるでしょう。そして、意識は意識であるはトートロジーってことで…。

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仮説Lについて 投稿者:ε 投稿日: 3月10日(金)09時28分5秒

私の完全な間違いでした。Lを仮定するというのはまさに条件付き確率を考えていることにほかなりませんね。φさん、丁寧なご教示ありがとうございます。

残りの部分はよくわかりませんが、ゆっくり考えてみます。

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Lは空事象について 投稿者:ハム 投稿日: 3月10日(金)09時14分11秒

>Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。
>よってLは空事象でP(L)=0。

εさんの指摘は刺激的で面白いです。

対立仮説であるKとLの信頼度を調べたのがF**ですが、KやLを個々に論証するのはまったく違う話です。

美人が少ないので、対立的な久本雅美と山田花子を比べたら、久本雅美の方が美人度が高かったとします。
しかし、久本雅美はブスですよね。←失礼
そういうことだと思うわけです。

ちなみに問題の本質とは関係ありませんが、
L(脳は意識の必要条件である)だからといって、B(私は脳である)はC(私は意識である)の必要条件とはかぎりませんよね。

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仮説検定の文脈≠Lを仮定する文脈 投稿者:φ 投稿日: 3月 9日(木)23時05分11秒

>>>>> Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。よってLは空事象でP(L)=0。

 文脈を統一せねばならないでしょう。二つの別々の文脈でP(B)という表記をεさんが用いているために、混乱が生じていると思われます。
 もちろん、Lを仮定すれば(前提とすれば)、BとCはLが述べる心脳関係の特殊例にあてはまるはずですから、Bの確率はCの確率より以上となるでしょう。しかしこれをP(B)≧P(C)と表記し、P(B)≒0と矛盾すると考えるのは誤解のもとです。というのも、もともとの文脈ではLは前提ではなく対立仮説の一つでしたから、「|L」を付けないともともとの文脈へ翻訳できていないことになります。
 P(B)≒0というのは「もとの文脈」での前提です。なので、Lを前提してしまう別の文脈では、Bの確率がほぼ0という補助前提は必ずしも成り立ちません。実際、P(B|L)=1だからです。εさんの新しい文脈の表記では、P(B)=1。ここに矛盾はありません。
 Lを真だと見るεさんの文脈は、もともとの仮説検定の文脈とは別なのです。仮説検定においては、LとKは真偽不明、観察にもとづいてP(B)≒0(脳のような複雑な物理系はまれなので、私がそこに当たる確率は極小)、P(C)=1(F**での「私」の定義)、そこでB&Cというデータから推論するわけです。もしLを真と前提したいなら、もはや仮説検定は済んでいることになりますが、その場合は、Bの確率は1(脳のような複雑な物理系はまれだが、意識である私がそこに当たる確率はLにより1)となるだけです(F**の推論の結果でもそうなりました)。しかしLを始めから前提する根拠は何もなかったので、文脈が異なっており、表記を分けねばならず、もとのF**の文脈の表記ではP(B)=1と書くのではなくP(B|L)=1と書かれるべきものです。
 Lは前提ではなく検定の対象なので、P(B)≧P(C)とはならず単にP(B|L)≧P(C|L)となる、と前回私が述べたのはそういう意味でした。

 根元事象は、各意識について脳を持つかどうか、と普通に考えていただければよいのでは。
 BとCは、諸意識の中の「私」という一事例について、「脳を持つ」「意識を持つ」ということです(後者の確率が1なのは自明です)。
 なので、K、Lが一般的に述べていることが、BとCについて当てはまっているかどうか考えるとき、BとCはともに真であるため、K、Lのどちらが正しいのかはわかりません。P(B)≒0とB&Cから、Lが正しそうだとわかったのがF**の論証でした。

 「危険な議論」は、外から見ての人間とその履歴との関係を推論したものでしょうから、独我論の正否には関わりなく、帰納的推論が客観的にできるのでは。(つまり、全人間のうちオタクの犯罪率が高いかどうかは客観的に観察できる)。
 F**と同様の推論となるためには、「意識」という、本人以外は経験できないものが単位となりますが、そのとき「危険な議論」は、すべての人間ではなくすべての意識のうちオタク的なやつの犯罪率が……、となりますが、人間の姿をしていない意識、あるいは物質に宿らない意識も想定しなければならなくなるので、「犯罪」という概念にふさわしくない主体も入ってくることになり、そもそも人間的な差別とか偏見とは無縁の議論になると思われます。
 「意識」ではなくあくまで客観的な「人間」を単位とした推論だというなら、「危険な議論」は、客観的統計に基づけることができ、独我論が真でも偽でもその妥当性は影響されません。

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訂正 投稿者:ε 投稿日: 3月 9日(木)19時22分51秒

>>必然的にP(C)=0ではないですか?

P(L)=0の間違いです

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やはりよくわかりません 投稿者:ε 投稿日: 3月 9日(木)19時20分25秒

もう一度φさんのレスを読み返しているのですが、わからないところがでてきました まず

>>>>> Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。よってLは空事象でP(L)=0。

この部分は、背理法で仮設Lが成り立たないことを示したものです。論理は経験に優先するので、必然的にP(C)=0ではないですか?

もうひとつ、繰り返しになりますが、私は確率モデルでいわば外延的に考えているのですが、ベイジアンとか主観確率の場合でもモデルは構成できるはずですね。その場合、φさんは根元事象として何を考えられているのか?

>>C、Bは、それぞれ以下のような一人称命題です。
   C「私は意識である」
   B「私は脳である」

この部分では、私に関する可能世界が根元事象、それらの集合が確率(標本)空間のような気がするのですが、

>>K「脳と意識は独立である」
L「脳は意識の必要条件である」
は、「私」に限った命題ではなく、意識と脳に関する一般命題です。

この部分では、多数の個体からなる確率空間が考えられているようです。しかし、P(B|K)のような確率を考えるということは、同じ空間でなければなりません。

もうひとつ、この議論が有効なのは、我々が”脳でない意識を見たことがない”という経験事実に裏打ちされていて、それが、すぐ前のレスのような”危険な”議論とは異なるところだと思います。つまり、後者には反例(オタクでも文句のつけようのない善人がいる、etc)がいくらでもあるので、議論自体を無効にできると思いますが、独我論的に考えると、この区別ができなるなりませんか?

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ちょっと修正 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 9日(木)17時22分50秒

まだいたいの線(?)として、仮説Kが出てくるまでの経緯が矛盾的だから"P(B&C|K)≒0"と。一方の仮説Lの方は、それが必然的だから"P(B&C|L)=1"。
((C→B)としての(BΛC)だと、P(C→B)=P(¬C)+P(C)・P(B|C)=1だったりするし)

なので、仮説K、Lに対してオボロげに抱かれている私たちの主観的確率(=信頼度)は、(BΛC)が与えられた後では大幅に修正されるということ。つまり、Lへの信頼度が相対的かつ飛躍的に拡大するということでしょうかね。

んまぁ細かな間違いとか^^;はあるかも知れませんが、こういった路線だったら私的には納得できます。ベイズ推定。
…しかしφさんの場合、分析哲学的知見が入ってきたときにはかなり難解な印象を与えるということはあるかも知れませんね。
(かなりオンチそうな私が言うのもヘンだけど)

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なるほど 投稿者:ε 投稿日: 3月 9日(木)05時12分8秒

一応、解ったような気がします。しかし、ベイジアンは難しいですね。この場合、どんな標本空間を考えているのか、よくわからないです。

この議論が成り立つ前提を考えていて、次のような危険な議論を思いつきました。

ある凶悪犯罪者(B)で、最近よく罵倒されがちな性質、外国人とかオタクとか神経科に通院歴がある、のどれか(C)を持った人間が自分のことを考えるとします。

すると、同じ議論で、CならばBがいえることになりませんか?

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うーん 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 9日(木)00時42分11秒

>楽俊さんの設定では、LとKの確率の比は、B&Cに条件付けた事後では千倍に高まる、となると思います。

そーでしたか。じっっくりと時間をかけて考えてみます。
なんつーか、ベイズの定理の仮説の査定?への応用というものについてはイマイチしっくりこないものがあったりしているんですよ。
(『マグロウヒル大学演習 現代論理学 Ⅱ』の問題(素粒子物理学)などはまだいいんですけどね。)

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あ 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 9日(木)00時30分30秒

K「脳と意識は独立である」に対する主観確率0.2、L「脳は意識の必要条件である」に対する主観確率1を書き忘れていました。
「対立仮説」(相互に排反的)ということで足して1.2というのはもろヘンですが、まぁ考え方としてはということでした。
がしかし、どうも数字上の辻褄合わせになったような気がしています。
そんなつもりはなかったんですけどね。

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単純に 投稿者:φ 投稿日: 3月 9日(木)00時06分41秒

0.2というのがわからないのですが?
「私」について特別な仮定を設けないかぎりは、P(B&C|K)=P(B&C)と見なしてもよいような。ただし、P(B&C)の値は結局消去されるので、ゼロ以外なら何であれ議論に関係なし。

楽俊さんの設定では、LとKの確率の比は、B&Cに条件付けた事後では千倍に高まる、となると思います。

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>F**(続き) 投稿者:ハム 投稿日: 3月 9日(木)00時03分7秒

>P(C)=1だと次のような問題が生じると思います:
>P(C)=1より、P(B&C)=P(B)=P(B)・P(C)  なので、事象BとCは独立

BとCが独立かどうか分からないのですから、P(C)=1より、P(B&C)=P(B|C) になりませんか?

ですので、独立かどうかを調べたら独立である信頼度が小さかった、というのが、F**の趣旨ですよね。

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ちなみに 投稿者:楽俊 投稿日: 3月 8日(水)20時16分36秒

> よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データB&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となります。 (φさん)

これは例えば、P(B&C|K)≒0.001  P(B&C|L)=1

P(B&C)=0.01
と仮定した場合
>=P(B&C|L)P(L)/P(B&C)÷P(B&C|K)P(K)/P(B&C)

=1×1/0.01 ÷ 0.001×0.2/0.01 =5万
で、P(L)/P(K)=5
5万≫5

ザッとした計算ですが、こういう感じですか?
計算ちがってたらすいません。

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Re:F**(続き) 投稿者:φ 投稿日: 3月 8日(水)16時45分47秒

 ε さん、コメントありがとうございます。
 やはりここにお書きいただいてよかったと思いました。(いわれてみれば、同じような疑問を抱きうる人が少なからずいるでしょうね)
 私の原論文 http://russell-j.com/sizen-sentaku.pdf の6,7節や
前回レス(3月 6日)の説明が簡単すぎたので、確認をかねて回答させていただきます。

……………………………………………………………………………………
 C、Bは、それぞれ以下のような一人称命題です。
   C「私は意識である」
   B「私は脳である」

 F**の自己観は、Cに基づいています。Cは議論の前提になっているので、F**では、P(C)=1
  (**Fの自己観は、Bに基づいています。Bは議論の前提になっているので、P(B)=1。以下は、F**についての話)

K「脳と意識は独立である」
L「脳は意識の必要条件である」
は、「私」に限った命題ではなく、意識と脳に関する一般命題です。

 >>>>> P(C)=1より、P(B&C)=P(B)=P(B)・P(C)  なので、事象BとCは独立、よってP(K)=1

 というε さんの論は、Kの意味を誤解されたかと思われます。P(C)=1という前提ゆえ確かにBとCはトリビアルに独立ですが、現にB&Cが真なので、トリビアルでなく独立かどうかはわからず、Kが真かどうかには何ら光を投げかけません。Kは一人称の特称命題「BとCは独立である」ではなく、一般命題だからです。
 P(B)≒0なのにB&Cが成立したことが、Kの信頼度を減じた、というのが前回の趣旨でした。P(K)やP(K|B&C)の値そのものは依然として不明のままです。(相対的に後者のほうが小、ということだけがわかった)

 >>>>> Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。よってLは空事象でP(L)=0。

 というε さんの論は、同様に、Lの意味を誤解されたかと。Lは「BはCの必要条件である」という前提ではなく、検定されるべき一般命題なので、P(B)≧P(C)とはならず単にP(B|L)≧P(C|L)となります。これはLが真かどうかには光を投げかけません。
 P(B)≒0なのにB&Cが成立したことが、Lの信頼度を増した、というのが前回の趣旨でした。P(L)やP(L|B&C)の値そのものは依然として不明のままです。(相対的に後者のほうが大、ということだけがわかった)

……………………………………………………………………………………
 上のF**だけでなく**Fについても、ブログに書いてみました。
「霊体仮説とゾンビ仮説」
 http://green.ap.teacup.com/miurat/622.html
 いずれ論文にでもするときの覚え書きも兼ねています。
 条件付き確率は落とし穴が多いとも思いますし、私は数学はド素人で哲学的考察に即応する部分しか注目していない身ですから、合わせてまたご指摘いただけると幸いです。

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F**(続き) 投稿者:ε 投稿日: 3月 8日(水)08時42分0秒

それではこちらに書きます、P(C)=1だと次のような問題が生じると思います:

P(C)=1より、P(B&C)=P(B)=P(B)・P(C)  なので、事象BとCは独立、よってP(K)=1。
一方、Lを仮定すると、BはCの必要条件なので、C→B、よってP(B)≧P(C)、しかしこれは、P(B)≒0、P(C)=1に反する。
よってLは空事象でP(L)=0。従って、

P(K|B&C)=P(K&B&C)/P(B&C)=P(B&C)/P(B&C)=1=P(K)、
0≦P(L|B&C)=P(L&B&C)/P(B&C)≦P(L)/P(B&L)=0

よって、K,Lに関する事前、事後の確率は変わらない。

もっとも、P(C)=1でなければ、前のレスの議論はほとんどそのまま通用するので問題ないです。もともと、P(C)は個体のうちで意識を持つものである確率と解釈すべきだと思うので、1にはならないと思います。

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F** 投稿者:φ 投稿日: 3月 8日(水)03時43分28秒

 ε さんからメールお送りいただいたのですか?
気づきませんでした。
 スパムメールが毎日50以上来るもので、それらしきタイトルのは開封せず片端から削除する習慣なのです。もしかしたらその中に入ってたのかも。
 自然選択とかF**とか、目印として間違いない句をタイトルに入れて、再度お送りいただけますでしょうか?
 (あるいはここに書いていただいても、お立ち寄りのかたの迷惑にはならないだろうとは思いますが。)

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SETI 投稿者:ε 投稿日: 3月 8日(水)02時08分55秒

F**についてまだ疑問があったのですが、ちょっとテクニカルなので差し上げたメールに書きました。

選挙速報は、たまに間違えることがあります。当確が出たのに落選した候補の憮然とした顔を何回かみたような・・・たぶん1000回に1回くらいは間違えているのでしょう(もっと多いかも)。SETIは限りなく0に近い確率に賭けているので、大きな誤差なのでしょう。

SETIは予算が減額されて、スパコンがあまり使えなくなったらしく、インターネットにつながっているパソコンの空き時間を使うボランティア形式でやっているようですが、”知性による干渉”は、注目すべき波形を見つけた人への注意を書いたページの一番下の図をクリックすると出てきます。要はいたずらの一種なのです。

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F**、SETI 投稿者:φ 投稿日: 3月 6日(月)03時11分5秒

 F**は、私が意識であるというのが所与で(P(C)=1)、それが脳でもあるかどうかが調べられ、「脳だった」というデータが得られた(B&C)、ということです。
 **Fは反対に、私が脳であるというのが所与で(P(B)=1)、それが意識でもあるかどうかが調べられ、「意識だった」というデータが得られた(B&C)、ということです。

 対立仮説は、K「脳と意識は独立である」 L「脳は意識の必要条件である」
 共通する補助前提として P(B)≒0

 すると、P(B&C|K)≒0  P(B&C|L)=1  ……①
 ここから、P(L|B&C)/P(K|B&C)
=P(B&C|L)P(L)/P(B&C)÷P(B&C|K)P(K)/P(B&C)
=P(L)/P(K)× P(B&C|L)/(B&C|K)
 ①をあてはめると
 P(L|B&C)/P(K|B&C)≫P(L)/P(K)
 よって、事前確率と事後確率の変化を見ると、データB&Cにより、KよりもLのほうが格段に信頼度を増した、となります。

 どこか書き間違えてるかもしれませんが、趣旨は以上のようなことで。
 **Fに関しても同様ですが、そこではP(C)≠1とするのが無理ということです。

 SETIは、私は完全に馬鹿げていると考えるほうで……。
 「すべての周波数域を調べないかぎりETIが電波を出していないことは証明できない」などと変なことをあの人たちは言い張るので。選挙速報だって、ほんのわずかの開票で全体が推測できますよね。周波数域だって、有望なところをほんのわずか調べて人工電波がなければ、すべて無いに決まってると私は思います。オフィシャルサイトはここしばらく見てませんが、「知的な干渉」とはまさか、デモンストレーションに失敗した超能力者がよく言う弁解と同じやつでしょうか……?

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SETI、F**と**F 投稿者:ε 投稿日: 3月 6日(月)00時45分58秒

私の主旨はすぐ下のφさんとほぼ同じです。というか、投稿を書き始めたときにはφさんの投稿がまだなかったので、重複に気づかず書き込んでしまいました。SETIについては、まあ宝くじを買うようなもんでいいんじゃないの、位の気持ちです。電波天文学への副産物もあるかもしれないし、地球外知性の存在確率の検証をしている(0に近づける)といえなくもないでしょう。

SETIオフィシャルサイト(日本語訳)の”知的な干渉(妨害)???”には笑ってしまいました・・

「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」について、質問です。第6節のはじめの部分ですが、F**をまとめると、
B:脳のような複雑系を持つ、C:意識をもつ、と言う性質を考えたとき、条件付確率P(B|C)は1に近い、少なくともそれほど小さくない、と言うことだと思います。その根拠としては、B&Cが私で例示されていること、P(B)が小さいことがあがっているのですが、これから結論がなぜでるのかわかりません。P(B|C)=P(B&C)/P(C) なのでP(C)が小さいのならまだわかるのですが・・そう考えるとむしろ”弱い”**F:P(C|B)がそれほど小さくない、のほうが言えるのでは?

意識と脳が独立なら私が脳として生じた確率は低い、とありますが、すでに私が低確率のBと言う性質をもっている場合を考えているので、同じ性質を条件付で考えても低確率のままで不思議はありません。結論を導くには”意識”とか”脳”に関する何か特別の関係を持ち込む必要があるのではないですか?

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観測事実 投稿者:ハム 投稿日: 3月 5日(日)00時56分16秒

についてですが、地球外知的生命は、観測される確率はかなり低いと思っています。

私たちの銀河の直径は10万光年です。
平均でざっと5万光年かなたの星を観測しているわけですが、5万光年もとどく電波をわざわざ発信している文明は少なそうです。
また、その電波が地球に届くまでには、ざっと5万年もかかるわけです。
私たちはそういう観測を始めて数十年です。
銀河に数個の地球外知的生命があるとして、ちょうど5万年前に電波文明に達して、地球に向かってメッセージを送ってくれているような地球外知的生命を探すことなど、ほとんど不可能に思えます。

仮にそういう地球外知的生命を見つけたとしても交信するのに10万年もかかってしまう。
10万年もかけて、やっと「こんにちは」と挨拶のやりとりができるのです。

そういう意味でSETIなどの行為は、まったくバカげていると思っています。

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論理や確率だけでない 投稿者:ε 投稿日: 3月 4日(土)05時26分39秒

ハムさんは、現実の観測事実を軽視されているのだと思います。私は、論理や確率だけで現実世界に対してnon-trivialなことがいえる可能性はほとんどないと思っています(たぶんφさんよりもっと強く思っている)。数学者なのに意外と思われるかもしれませんが、私の知る限りまわりの数学者は数学の現実への適用についてはかなり懐疑的な人が多いのです。

地球以外に知的生命があるというのは、コペルニクスやブルーノのころであれば誤謬とはいえなかったはずです。じっさい、地球上ではヨーロッパ以外の大陸にも人間が発見されたので、特別なところでないという推論は正しかったわけですから。しかし、生物学の進歩や、宇宙の観測で地球外生命や、まして知性の存在はどんどん疑わしいものになってきましたし、これからも残念ながらそういう傾向が続くでしょう。

といっても、一片の観測事実でこのような確率的推論は根底から変わってしまうので、SETIなどが全くの無駄とは思いませんが。

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20世紀後半から一変 投稿者:φ 投稿日: 3月 4日(土)05時10分15秒

 20世紀前半までは「地球以外に文明はそこら中にある」と科学者も考えていましたよね。
火星の運河なんかも流行りましたし。
しかし、分子生物学と進化生物学の進歩で文明発生の難しさが認識されたのと、なにより人類自身の宇宙開発・宇宙観測技術の進歩によって、地球外文明の存在は絶望的になってきましたね。多数の文明すべてが自分の生まれ故郷でじっとしているという19世紀的宇宙人観は信じられなくなったと。オズマ計画以降も、人工電波一つ発見されてない。すべての文明が、生活電波をまったく宇宙空間に洩らさずに営まれているとは信じがたいことです。

 「地球に文明がある」というデータは、A「宇宙に多くの文明がある」B「地球にしか文明はない」という対立仮説を同等に確証しますが、「文明として平凡な地球文明はやがて宇宙へ飛び出す」という新たなデータを加味すると、「宇宙観測で文明活動の兆候は認められない」というデータと合わせて、Aを反証しBを信じるよう促します。

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ないともいえない 投稿者:ハム 投稿日: 3月 3日(金)22時20分39秒

統計学を適用するには、おっしゃるとおりだと思います。
しかし、そこまで厳密に考えるのであれば、地球以外の知的生命については、(地球以外のサンプルが構造的に得られないので)あるとも、ないとも、何もいえないことになります。
地球以外に知的生命が発生したかどうかについては、地球はサンプルになりえないのですから。
つまり、地球以外の知的生命はない、というのは、地球以外の知的生命はある、というのと同程度に誤りだということになります。

しかし、本当にそうなのでしょうか?
平凡の原理のほかに、充足理由律とか無差別原理もあります。
つまり、地球に起こったことは、特別な理由がなければ、同等の確率で起こるはずです。

私たちの意識は、地球以外に知的生命はある、という志向をするようです。
そういう意識は肯定せざるをえないと思います。

※充足理由律、無差別原理については「論理学がわかる辞典」を参照しました。

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ランダム2 投稿者:φ 投稿日: 3月 3日(金)03時25分29秒

>ランダムでないと分かっていないかぎり

ランダムでないとわかっているから、平凡の原理を適用することは許されません。

 ただし前述のように、条件次第です。地球も、①観測選択効果が働かない要因と、②観測選択効果を考慮したあとの要因と、その二つに関しては、ランダムと言える場合があります。たとえば、
 ①より外側に惑星が偶数個あるか奇数個あるか
 ②文明発生から千年間(千公転)で王朝はいくつ誕生したか

 これらについては、地球はランダムと見なすべきでしょうね。
 しかし知的生命が発生したかどうかについてはランダムではありえないので、地球を帰納的推論のサンプルとして宇宙全体について結論は導き出せません。
 
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ランダムかは謎 投稿者:ハム 投稿日: 3月 2日(木)22時05分20秒

地球というサンプルが、ランダムに選ばれたサンプルなのか否かは謎であるはずです。

ですので、ランダムでないという前提も、ランダムだという前提も、共に等しく検討すべき仮説であるはずです。

ランダムか否か分からない対象を、ランダムだと前提して統計的に考えることには無理があります。
しかし、ランダムでないと分かっていないかぎり、平凡の原理を適用することは許されるのではないでしょうか?

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ちゃちゃ 投稿者:らくしゅん 投稿日: 3月 2日(木)18時48分32秒

>地球はランダムに選ばれた場所かもしれません。

ってかこれ、誰が選んでんの?
ヘンな話ですよ、「人間」が選んでんでしょ。なんでそれがランダムと言えるのか私にはまったく理解できません。

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ランダム 投稿者:φ 投稿日: 3月 2日(木)01時37分5秒

 ランダムという概念は、無条件には使えません。たとえば、くじをランダムに引くという場合、「個々の引きが当たるかどうか」に関してランダムと言っているのであって、「いつ、どこで引かれるか」「右手で引くか左手で引くか」「くじの材質は何か」「どういう職業の人が引くか」「商品は何か」などについては決まりや傾向があって、その基準では「ランダム」ではないかもしれません。
 というわけで、「何に関してランダムか」を決めなければ無意味です。
 くじの場合は、当たり外れと、各くじ番号とが独立に決まっている、というのが「ランダム」の意味です。ランダムとは、常に、何かとの独立性を意味する相対的な概念です。
 「宇宙の多くの場所で知的生命が発生しているかどうか」の判定のためには、サンプルとして「結果的に知的生命が発生したかどうか」という要因Aとは独立した選び方をしなければなりません。しかし、地球がサンプルとして選ばれた仕方は、要因Aに条件付けられざるをえず(そうでないと選ぶ住民がいない)、独立ではありません。  地球はランダムに選ばれた惑星である、という素朴なコペルニクス的世界観は、昔とは逆に、今や多くの誤謬を生むもとになっています。

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「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」 投稿者:ハム 投稿日: 3月 1日(水)23時11分28秒
を読みました。
一つ指摘させてください。

「端的に言うと、Eの誤りは、地球というサンプルを、サンプル選択以前に独立して指定していなかったところにある。どれが地球であるかはサンプル抽出後に事後的に定められたので、偏ったサンプルなのであり、その性質をそのまま一般化してはならないのである。」

・「地球というサンプルを、サンプル選択以前に独立して指定していなかった」といえるか?

地球はランダムに選ばれた場所かもしれません。つまり、ランダムサンプリングという独立した指定(自然選択?)があったのかもしれません。
だとすると、地球の性質から一般化することも許していいと思います

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自然選択 投稿者:φ 投稿日: 3月 1日(水)01時55分40秒

前に、話のついででちょっと触れた『現代思想』2月号の拙論をアップロードしました。
御参考までに。
http://russell-j.com/sizen-sentaku.pdf

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すいません 投稿者:楽俊 投稿日: 2月28日(火)09時42分54秒

「周延」されるべきはBでした。(^^;

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月26日(日)01時13分13秒

>が偽なのは論理が決めたルールでしょうね。
A∧BとB∧Cが同一の存在に対する述語だとは限らないということです。(ハムさん)

ふつうにはAが周延されていないだけでしょうね。
そして、「同一の存在」とは限らないということですが、(A∧B)と(B∧C)は別の固体が前提されていると考えるのが自然では?

>あの確率三段論法?をよーく見てください。
つまらん無内容なことしか述べていません。
A∧Cの存在確率はあるかないかだろうって。

確かに∃の存在を忘れていましたが、あの確率三段論法?はどちらかと言えば確率の定義に近いのではないかと思います。あくまでも個人的にはですが。

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ルール 投稿者:ハム 投稿日: 2月25日(土)15時58分7秒

例えば、
∃x(Ax∧Bx)
∃x(Bx∧Cx)
∴∃x(Ax∧Cx)

が偽なのは論理が決めたルールでしょうね。
A∧BとB∧Cが同一の存在に対する述語だとは限らないということです。

>ルールを拒んだだけで“偽”にされてしまうなんて・・・

ルールを拒んでも“真”になるような世界はありませんよ。
まあ、ルールを拒むのであれば、そのルールの世界から退場すべきでしょうね。

あの確率三段論法?をよーく見てください。
つまらん無内容なことしか述べていません。
A∧Cの存在確率はあるかないかだろうって。m(_ _)m

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うーん 投稿者:楽俊 投稿日: 2月24日(金)20時16分42秒

>スペンサー・ブラウンの主張がトンデモっぽく感じられるのは、確率抜きで具体的現実について言及しようとする無理からくるのではないか、と私は感じました。 (ハムさん)

このあたりは私の説明能力の影響が大かも。

>ちなみに、「確率or可能?」で挙げた式は、確率以外は偽ですので誤解なきようお願いします。

これは誰が決めたルールなのですか?
ルールを拒んだだけで“偽”にされてしまうなんて、私は聞いてないんですけど?(^^; それに、abcのそれぞれが独立事象だった場合、この推論は意味をなさないような気がするんですけど。

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具体的現実? 投稿者:ハム 投稿日: 2月24日(金)12時45分11秒

>「全称命題」は、「具体的現実」についての言及ではない

存在命題も同じですよ。
というか、論理学は具体的現実についての言及ではなく、形式についての言及なわけです。
そういう論理学を使って具体的現実について言及するには確率的にならざるをえないと思います。

スペンサー・ブラウンの主張がトンデモっぽく感じられるのは、確率抜きで具体的現実について言及しようとする無理からくるのではないか、と私は感じました。

ちなみに、「確率or可能?」で挙げた式は、確率以外は偽ですので誤解なきようお願いします。

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(訂正) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月23日(木)23時08分53秒

>>あるいは、可能(◇)を考えます。

>これらは、それが存在しないことは必然ではないという意味だから、そういうことではないような?

いや、関連はあるとは思いますけど。(^^;
「全称命題」は、「具体的現実」についての言及ではない、ということで。

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月23日(木)22時42分6秒

>確率を考えます。 (ハムさん)

この種類のものを確率論で考えたことがないので、ちょっと。

>あるいは、可能(◇)を考えます。

これらは、それが存在しないことは必然ではないという意味だから、そういうことではないような?

>∃xは∀xの真部分集合なのだから、


>∃x(Ax∧Bx)⊂(含まれる)∀x(Ax∧Bx)
>∃x(Bx∧Cx)
>∴∃x(Ax∧Cx)
>は、必ずしも偽だといえないのではないか、というような?

うーん、というかこの論証は成り立たないのでは?
どーなんでしょ?

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月23日(木)22時40分22秒

>「限定」という概念がうまく働くかどうかわかりませんが、「すべての図を含む一番外側に絶対的な(無限定な)地がなければならない」という思い込みが、諸々の宗教を生み出してきたのでは。 (φさん)

これは、「動物」⊃「生物」⊃「物質」、という意味での「一番外側に絶対的な(無限定な)地」ということだと思いますが、だとすればそういうことではないのです(というか、もしかするとこれはスペンサー・ブラウンでは「(区別の)再参入」という形で処理されるのかも知れません。)。
これは、私が論理学および数学にそれほど精通していないのでこういう説明にならざるをえないのだと思いますが、ラッセル(著書は未読)とスペンサー・ブラウン(こちらも同様)では、同じ集合論に基づいたものでありながら、スタンスが違うような気がするのです。これはもちろん、知らないものの勝手な思い込みの可能性は大ですから、単なる私の中のイメージの話です。 では、どこに違いを感じているのかと言えば、標準論理学では普通に使われる場合と全称命題的(?)なものに使われる否定記号の同一性がない(両者の意味が異なる)のに対して、スペンサー・ブラウンの方には客観性がある(否定の次元が違う)ということでしょうか。
どうも、『行為の代数学』のある部分の書き方がある意味ですごく紛らわしい面があったことにくわえて、私の知識不足が重なったことで、こちらの議論まで紛らわしくなっていまったようです。

SAの話は内容をよく知らないまま想像で書いたものなので撤回しておきます。すいません。

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確率or可能? 投稿者:ハム 投稿日: 2月23日(木)09時43分8秒

楽俊さんのお話が良く理解できないのが残念なのですが、勝手に想像しました。

確率を考えます。

P(∃x(Ax∧Bx)) ≧0
P(∃x(Bx∧Cx)) ≧0
∴P(∃x(Ax∧Cx))≧0

あるいは、可能(◇)を考えます。

◇∃x(Ax∧Bx)
◇∃x(Bx∧Cx)
∴◇∃x(Ax∧Cx)

例えば、これらのようなことを主張したいのかと。

∃xは∀xの真部分集合なのだから、

∃x(Ax∧Bx)⊂(含まれる)∀x(Ax∧Bx)
∃x(Bx∧Cx)
∴∃x(Ax∧Cx)
は、必ずしも偽だといえないのではないか、というような?

ん?
お呼びでない?
失礼をばいたしました。m(_ _)m

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絶対的∃ 投稿者:φ 投稿日: 2月23日(木)02時29分57秒

∀x(Fx→Gx) の形は普通問題ないのですが、
∀xGx といった式は意味をなすのか、ということは私もよく考えます。限定なしの母集団について、そのすべてはどうこう、と……。

「限定」という概念がうまく働くかどうかわかりませんが、「すべての図を含む一番外側に絶対的な(無限定な)地がなければならない」という思い込みが、諸々の宗教を生み出してきたのでは。
 すべてのシミュレーションを含む一番外側のナマの現実が、一番内側のシミュレーション世界の内部にある、ということであってもよいではないかと思います。循環構造ですね。自己言及のパラドクスが発生しそうですが、世界をまたいだ論理というものに限定が付かざるをえないならば(タイプ理論?)問題ありませんし。
 ただしそうなると、私たちから見た現実世界と、その中のシミュレーション世界(虚構世界)とでは、それぞれ内部で別の論理が働くことになり、虚構の論理が標準論理でないことになりかねませんが、ラッセル的タイプの「体系的曖昧さ」ゆえに論理の同型は保証できるでしょう。

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月22日(水)20時51分29秒

>の区別がつかなくなってしまうというわけですか。 (φさん)

その方向性ではなくて、私が言いたいのは、φさんの式に“∃”がついてしまうことの意味についてなのです。
例えば、∀x(Fx→Gx)の“否定”¬∀x(Fx→Gx)が、いきなり∃x¬(Fx→Gx)の“∃”を意味してしまうことそのものの意味です。
(これは『論理学入門』のゴキブリの話にも間接的につながってくると思うのです、が?)

例えば、「動物だ」と言った時、そこに暗黙に前提されているのは¬動物としての「生物」の集合ですよね。その部分集合としての動物だからです。そして生物について考えている時には「物質」性が前提されている、と。
ですから、この考え方からすれば、「全ての人間は死ぬ」と言った時には、そうでは“ない”(=否定)ものとの
 ■■■■■■■■
∀x(Fx→Gx)■
としての「書かれざる囲い」として「区別」が前提されているということです。したがって、ここからは“∃”は出てこないハズだということです。そして私は標準論理学にケチをつけるつもりなど毛頭ありません。実用的ですしね。

まぁ、私が言いたいことに別の表現をくわえれば、人間(≒生命体および機械?)は意識の外には立てないということでしょうかね。ニーチェではありませんが、すべては「解釈」でしかありません。前にも話題になっていたシミュレーション・アーギュメント(?)的な問題にしても、それは私たちの意識内だけの問題ではなくて、人間を培養?しているマッドサイエンティスト(orコンピュータ)自身にもそのまま当てはまることだと思うのです。

> ――いろいろな体系が並び立つことは論理学の強みでもあるので、スペンサー・ブラウン、私も時間があったら読んでみようと思います。なにやら、トンデモ系のように言われてるのをよく聞くのでいまいちあれですが。

このことは私も知っていますが、「対人論証」的な側面が強いのでは?というのが私の印象です。中身についてはあまり詳しくありません。しかし問題は、『形式の法則』の純粋な内容がどうなのかということだと思うのですが(知りませんけどブール代数のちょろまかしでもかまわない)。
「区別」を重要視する社会学者のニクラス・ルーマンの理説の多くもこの本に依拠したものですよね。けどどーなんですかね、英語版(?)とかはともかくとして、翻訳本は入手できないかもしれませんね。私も読んでいる訳ではありませんし。
しかし、ケナすにしろ何にしろ話の種として読んでみるのも面白いかもしれませんね。 (数学が得意な人ならまた別の意見があるのかもしれないし、って何か悪徳セールスマンになったような気分)

この件に関しては、私に言えることはもうないかも…(^^ゞ

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記法が異なるだけなら標準論理か 投稿者:φ 投稿日: 2月22日(水)02時00分56秒

――命題論理なみの簡潔な記法でなるべく済ませようというのがスペンサー・ブラウンの論理学なんでしょうかね?

しかし述語論理でなすべき推論を、命題論理の記法でやろうとすると、
∃x(Ax∧Bx)∧∃x(Bx∧Cx)
∃x(Ax∧Bx∧Cx)
の区別がつかなくなってしまうというわけですか。

∃x(Ax∧Cx)は
前者からは導けない(非妥当)のに、後者からは導けてしまう(トートロジー)と。

まあ当然のことですが、だから? という気もします。
AかEだけから成るトートロジーに変形できない推論 を非妥当な推論として識別しようと……?
もし、「変形できるかいなか」を決定する便利な機械的手続きがあるなら、妥当な推論かどうかの識別法になるのでしょう。しかしどうせ命題論理ふうにやるなら、単に直接真理表で調べた方が早いような気も。

 ――いろいろな体系が並び立つことは論理学の強みでもあるので、スペンサー・ブラウン、私も時間があったら読んでみようと思います。なにやら、トンデモ系のように言われてるのをよく聞くのでいまいちあれですが。

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月21日(火)21時33分36秒

>> というのは、三段論法に限らず妥当な推論であれば、一つの命題で書き下ろしたとき(とくに楽俊さんがしてくださったように命題論理ふうに書き直せば)、トートロジーになるはずですが、それは当然のことながら別の形をしたトートロジーと論理的に同値であり、その中には仮言三段論法も含まれるからです。 (φさん)

>どうもそうみたいですね。ここで言われていることはφさんの『論理学入門』のp.44に書かれていることですよね。こちらのほうも今回(?)は脳裏にありませんでした。というより、このあたりのことは感覚的に理解したつもりで半分素通りしていたというのが正解だと思います。トホホ

ここのところは、なんでと思われるかも知れませんが、マグロウヒル本のp.126-27あたりでとりあえずスッキリしたつもりです。
(ところで、こうやって本を読み返していると、忘れていたこととか一知半解状態だったこととかが多いです。)
しかし、このことも含めての現時点での私の頭はかなり混乱しているのですが、今回(?)はまぁ思いつくままにということで…

> >非妥当なものとして扱われている(Eの否定としての)I-I-I型の三段論法まで(ついさっきの真理値表の調べでは^^;)トートロジーになっているからなので…。

>とはどんな?

:::::::::::::::::::::::::::::  ところが、特称命題の表現を以上の如きものとして承認するのならば、原子代数は、奇妙な結論を、必須のものとして予想する。次のような三段論法は、妥当ではないものとして知られている。

F7 あるaはbである
   あるbはcである
  ∴あるaはcである

だが、それに対して、この三段論法の原始代数内での表示は、

     (例のマーク式…楽俊注)

となり、この中では、この三段論法は妥当なものとして現象してしまう〔148〕。ここに至って、論理学と指し示しの算法との調和は、突如として、乱される。(…)
:::::::::::『行為の代数学』p.241-42::::::

ですので、言われているようなことではなくて、こちらの方はそのもののズバリのIIIです。そして、ここでのΛで結合された2前提と⊃で結ばれた結論がトートロジーになるのは当たり前ですよね(今だから言えるか^^;)、φさんが言われていた通りに。しかしこちらの方は、[2月19日(日)18時46分59秒]のように交換律を他用しても、●Λ●⊃●という形での3命題の全てが「全称(AorE)」ということにはならないと思うんですよね。
私が言っている「全称」というのはこの意味でのことです。
(大澤orスペンサー・ブラウン(どちらかといえば後者の方か)の意図(錯覚かそれ以外か)とかについてはいろいろと考えさせられましたが、どう転んでも私の直感?には影響はないと思うのですが…)

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変形 投稿者:φ 投稿日: 2月21日(火)01時15分19秒

>非妥当なものとして扱われている(Eの否定としての)I-I-I型の三段論法まで(ついさっきの真理値表の調べでは^^;)トートロジーになっているからなので…。

とはどんな?

 …………………………
前提1 全てのaはbである
前提2 あるaはcである
結論  あるbはcである

  から

前提1 全てのaはbである
前提2 全てのbはcでない
結論  全てのaはcでない

 に変形した前回のあれですが、どういう意味もしくは用途があるのかやはりわかりませんね。
 二つの推論は全然べつのもので、妥当な推論ということ以外共通点がないですよね。互いの前提と結論に、矛盾したものが含まれているので実用的な意味があるとも思えないし。ただいじってみただけという気も?

 ――いかんせん、私はスペンサー・ブラウンを読んだことないので、何も言えませんが。
 晩年のラッセルがスペンサー・ブラウンの訪問を受けて、数学のアイディアに耳を傾けたようですけれども……。

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(補足) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月21日(火)00時25分43秒

重要なことを忘れていたようで、トートロジーの「I-I-I型の三段論法」というのは、形式的には仮言三段論法になっていました。

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月20日(月)21時05分39秒

>まず、還元する意義はなんなのでしょう。何の役に立つのだろうか?

そこまで考えていませんでした。還元できるということだけで以外でした。

> 還元できるかどうかについては、伝統論理学でそれを述べた定理があるのだと思いますが(たぶん)、記号論理学の観点からは、還元できることは自明のように思います。

伝統的論理学の解説らしきものが載っている本が一冊ありますが、大概念・小概念・媒概念の位置によって決定される「格」と、AAA、AII、EIO等の組み合わせが問われる「式」というものがあるようです。そして、その「格式」の組み合わせのなかから妥当(成立する)な19の推理が選ばれているようですね。これが「定理」に相当するものかどうかは解りませんが。
(しかし結論(格)の主語述語が逆の場合を調べようとすれば、同値変形とみられる言いかえがあまりにも通常とは懸け離れすぎていて翻訳不能^^;)

> というのは、三段論法に限らず妥当な推論であれば、一つの命題で書き下ろしたとき(とくに楽俊さんがしてくださったように命題論理ふうに書き直せば)、トートロジーになるはずですが、それは当然のことながら別の形をしたトートロジーと論理的に同値であり、その中には仮言三段論法も含まれるからです。

どうもそうみたいですね。ここで言われていることはφさんの『論理学入門』のp.44に書かれていることですよね。こちらのほうも今回(?)は脳裏にありませんでした。というより、このあたりのことは感覚的に理解したつもりで半分素通りしていたというのが正解だと思います。トホホ
したがってこんな私が気になるのは、「妥当な推論であれば」ということですが、では非妥当な推論ではどうなのかということです。というのも、『行為の代数学』でも非妥当なものとして扱われている(Eの否定としての)I-I-I型の三段論法まで(ついさっきの真理値表の調べでは^^;)トートロジーになっているからなので…。
大澤さん(orスペンサー・ブラウン)は、「(E)というのは〔宇宙の〕実情ではない」というかたちでその否定性のあり方を推論していました。

私はこのスペンサー・ブラウン(←いろいろ言われてるようで^^;)の差異論理学(指し示しの算法)の結論(or論理的含意)が、普遍命題から全称例化、存在汎化を通して「ある…」を導出することに対するφさんの違和感への何らかのヒントになるのではないかと思っていたのでした。大それた勘違いならすいません。(^^ゞ
(まこれもφさんにとっては既に織り込み済みなのか…)

しかし、スペンサー・ブラウンの体系は標準的論理学の体系とはイコールではないというのが私の直感です。

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存在、変換 投稿者:φ 投稿日: 2月20日(月)02時26分44秒

「言語論的転回の哲学」が不十分であることについては、『ラッセルのパラドクス』で再三述べましたが、これからは確かに、ラッセル的な「存在論」で攻めることでこそ、世界を理解できるだろうと私は思っています。

 A、E型への還元ですか。面白いですね。
 命題をA、E、I、Oに分けていろいろ組み合わせのパターンを分類するのは、伝統論理学といわれる記号論理学以前の文脈で発展してきた考えなので、正直のところ、私はあまり興味がありません。昔本を読んだ記憶はありますが、忘れてしまいました。
 でもたまに考えてみるのは面白いかもしれませんね。まず、還元する意義はなんなのでしょう。何の役に立つのだろうか?

 還元できるかどうかについては、伝統論理学でそれを述べた定理があるのだと思いますが(たぶん)、記号論理学の観点からは、還元できることは自明のように思います。
 というのは、三段論法に限らず妥当な推論であれば、一つの命題で書き下ろしたとき(とくに楽俊さんがしてくださったように命題論理ふうに書き直せば)、トートロジーになるはずですが、それは当然のことながら別の形をしたトートロジーと論理的に同値であり、その中には仮言三段論法も含まれるからです。よって、変形の具体的な経緯にかかわらず、仮言三段論法に変形できることだけは確実でしょう。妥当でない推論の場合は、トートロジーでないので、仮言三段論法もしくは他のA、Eオンリーの含意式に変形できるとはかぎりません。
 むろん妥当な推論は、仮言三段論法に限らず、他の形のトートロジーに変形することもできますから、I、O型を含んだいろいろな形に変形できるわけですが、A、E型をとりたてて重んじる理由が、伝統論理学にはあるのでしょう(日常言語の用法など?)。

 現代論理学では、A、E、I、Oの間で特に価値の差別を設けないのが普通だと思います。あえていえば、EよりA、OよりIが基本だ(否定を含まないぶん)と考えられる、というくらいでしょうか?

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(無題) 投稿者:楽俊 投稿日: 2月19日(日)18時46分59秒

おじゃまします。私は時折当掲示板を閲覧しているものですが、φさんにお聞きしたいことがあります。

これは以前から疑問に思っていたことですが、大澤真幸の『行為の代数学』のなかに、論理的に妥当と認められる三段論法はすべて全称命題(A・E型)に還元できるといった記述があります。
例えば、
前提1 全てのaはbである
前提2 あるaはcである
結論  あるbはcである

これは、スペンサー・ブラウン(^^;の「マーク」を使った式は独特なので勝手に論理式に変換すれば
(a→b)Λ¬(a→¬c)→¬(b→¬c) [A・I・I型]

これを選言形式に変形して
¬(a→b)∨(a→¬c)∨¬(b→¬c)
第二命題と第三命題を入れ替えて
¬(a→b)∨¬(b→¬c)∨(a→¬c)
そして最終的に
(a→b)Λ(b→¬c)→(a→¬c) [A・E・E型]

という仮言三段論法に変換できるということのようです。読んでいて納得できるのですが、こうした考え方は論理学の世界では周知の事実なのでしょうか?
初歩的な質問ですいません。(^^ゞ

ちなみに、非妥当とされるI・I・I型の三段論法は全称型には変換できないようですが。

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(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月19日(日)05時41分55秒

>言語の問題に落とすことができないことに哲学者たちが気づいてきたもののようです。
大変重要なポイントではないでしょうか。他人はゾンビかもしれないのに、言語を用いて主体について討論する事自体にもともとおかしなところがあります。それ以外に方法がないのですが。良く出される、「AがBに独我論を説明するとBが同意したのでAは礼をいった」(AはBに主体を認めていないのに関わらず、自分がゾンビだと主張しているBに礼を言うとは一体どういうことか)、これになんらかの解決法が示されない限り、「言語論的転回以降の哲学」は哲学として虚しいものです。

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言語哲学 投稿者:φ 投稿日: 2月19日(日)03時42分55秒

 分析哲学は、ちょっと前は「言語の哲学」が主流でしたが、いまは「心の哲学(意識の哲学)」が主流になっています。何らかの理由で、心を含めた実在一般の問題を、言語の問題に落とすことができないことに哲学者たちが気づいてきたもののようです。

 ただし、哲学の問題を言語表現に還元するという「言語哲学(言語論的転回以降の哲学)」と、「言語の哲学(言語の本性に関する哲学)」とはかなり違うわけで、後者の意味での「言語哲学」は、まだ哲学の主流になったことがないと言えそうです。

 その意味では、「心の正体は言語ではないか?」という問題意識は、十分有意義でしょう。いまはやり(?)のクオリアのような、無構造で言語化を受け付けないレベルでの心ではなく、構造を備えた言語に即した心(つまりは論理?)というものを見直す余地はあるかもしれません。

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意識 投稿者:ハム 投稿日: 2月19日(日)00時30分55秒

皆さんのお話は興味深く聞いています。
私も考えてみました。

クリアな意識というものは、赤ちゃんにはありませんね。
いつ発生するのかというと、言葉を覚えてからです。
幼児言葉からだんだんと複雑な言葉を操れるようになるに従って、意識はよりクリアになっていきます。
とすると、意識というものは言葉に備わっているといえないでしょうか。

なにやら昔の言霊信仰のようですが、例えばヘレン・ケラーの自伝でもこのことは裏づけられるように思います。
ヘレン・ケラーは、1歳9カ月のときに高熱により視力と聴力を失いました。
やっと幼児語を覚えたときに視力と聴力を失ったわけです。
そして、サリヴァン先生がヘレンに「水」という言葉を指文字で教えるのが7歳のときです。
自伝によると言葉を失っていた7歳までの記憶がはっきりしないようなのです。
普通であれば4,5歳のころからはっきり記憶していることがあるはずです。
このことは、意識が言葉に備わるとすると説明ができます。

そういえば「はじめに言葉あり」という言葉もあります。
こんな考えも面白そうです。

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相対的語彙 投稿者:φ 投稿日: 2月18日(土)01時47分48秒

絶対的今、とか、絶対的私、とかが客観的意味を持たないことは確かですね。それは論理的に必然です。指示詞は、相対的な今や私の用法なので、ロボットだけの世界だろうが意識のない世界だろうが、構文的には必要(単に便利という程度で)だと思います。ただし、意識のない世界では、意味論的には無内容ですが。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月18日(土)00時51分36秒

私とか今という指示詞は客観世界でどのような指示を持つか?、それらを含む文の真偽は?
というのが大きな問題ではないか、と例のスタルネイカーの論文を見てちょっと思いました。たとえばこれらの語はロボットだけの世界では不要なのか、何か還元できるのか・・・

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今を定義するには 投稿者:かん 投稿日: 2月17日(金)20時05分50秒

ガリレオからアインシュタイン、現代物理まで、時間は次元軸であって、その上の「今」という点を決める事はできない。したがって過去と未来に分けることができない。そこで「今の実在」を認めるなら過去も未来もまだ、そして既に、実在しなければならないのでは。パルメニデス風固定的決定論世界の中で、主体指示ポインターが泳いでいるのではないでしょうか。 この様子が物理で将来わかるときがくるかはどうかは別としても、それは今の物理以外の「実体」だとかんがえているのですが。

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〈今〉 投稿者:φ 投稿日: 2月17日(金)01時11分30秒

>意識は脳の物理的な機能でしかないと考えると

のところが、「心の哲学」のカナメなのでしょうね。

 なるほど、「なぜこの時刻が〈今〉なのか」という問いを考えてみると、超難問とやらのむなしさが浮彫になると思います。
 そのつど違う時刻を〈今〉と名指さざるをえないので、通時的な意識主体にとってはこの問いは成立せず、瞬間主体という〈この問いのためにこしらえたフィクション〉の中でしか問いが成立しませんものね。

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(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月16日(木)12時06分13秒

主体≠主体は主体≠脳 の間違いでした

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(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月16日(木)12時03分29秒

 主体≠主体は全く賛成です。 そこに主体指示が必要となりますが、現在の物理では到底解明不可能だと思います。 もちろん将来はどうなるかわかりませんが。
物理では時間という概念は不可欠ですが、「今」という言葉はないので、やはり「ない」のであって、過去も未来も今と同じように実在しなければなりません。 これに対して、主体指示というのはあくまでも「今の私」であって、昨日の私とか来年の私ではありません。 私はソフトウエア屋の職業病を患っていて、主体指示を「関数ポインター」のように考えてしまいます。「今の私」が成立するための属性パラメーターとして、少なくとも1. どの脳か、2.いつか、の2つ、そして多世界解釈を持ち込むと3つ、が必要になります。 意識は脳の物理的な機能でしかないと考えると、そこに主体を与えるのはポインターだと。 明日の朝起きて織田信長にポインターが移動されていたとしてもその時点の脳に蓄積された記憶しかないので、それまで今の私であったことに気がつくことはない。
 いずれにしろ「私が私でなかったら」、と考えることが可能なこと自体、主体指示説?が妥当だということを示していると思います。シミュレーター的独我論も正当だと思いますが、実在論的に考えるとこれくらいしか選択肢がないのでは。 チューリングの停止問題、「ある対象の正確なシミュレーションとはシミュレーションではなく、その対象自体以外にはない」ことから考えると、シミュレーター説でも結局は実在論に引き戻されるのではないかと。

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主体≠脳 投稿者:φ 投稿日: 2月16日(木)02時47分36秒

超難問という愚問に対しては制度的な愚答が最良の答えだと思います。

 さて、チャルマーズが何を言っていたか忘れましたが、私は主体に関しては指示の因果説の物理主義版はナンセンスだと思っているので、「意識の主体はシミュレートされた人格でなく、人工脳の側にある」というのは同意しかねるかもしれません。
 指示の因果説が不合理であることはたびたび書いてきましたが、『現代思想』2月号でも生物進化に絡めて述べておきました。

 Ways a World Might Beは見逃しており、さっきAmazonで目次を見て、早速注文しました。たびたびお教えいただきありがとうございます。
 このところ私、哲学・論理の勉強がチョイおろそかになってまして(ラッセル・アインシュタイン宣言五十周年を機に平和――というより第2次世界大戦関連の本ばかりいま読み込んでまして)、少しはまた志向を戻さねばと思っているところです。

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シミュレーションと<私> 投稿者:ε 投稿日: 2月16日(木)00時20分21秒

この間から、ホームページの論文や”論理学入門”(NHKブックス)などを眺めて、”超難問”と確率の誤謬との関連は一応理解しました。また、年末に偶然購入したR.StalnakerのWays a World Might Beに"On Thomas Nagell's Object Self"という論文が入っていたので一応目を通してみました。こちらはよく理解できないところがあったのですが、直接関係する話ではないような気がしました。

さて、この世の中がシミュレーションであったら私の存在問題はどうなるのか、ちょっと考えてみました。マトリックスのようなシミュレーションで、ただ、人間の脳を利用するのでなく、シリコンなどの人工脳、それもどれもハード的には同じものが多数、中央コンピュータにつながっているものとします。人工脳には番号が振られていて、たとえば1番がε、2番がφをシミュレートしているものとします。この場合、シミュレートされた世界を一切変更しないで、1番がφ、2番がεをシミュレートするように変更することは明らかに可能です。チャルマーズなどにもあるように、意識の主体はシミュレートされた人格でなく、人工脳の側にあるので(脳はそうは思ってないにせよ)、これは”世界のあり方を変更することなく<私>が他人であることが可能”ということにならないでしょうか?(人工脳なら脳を殺すことなく停止させることもできるでしょうから、εやφが存在しないことも可能でしょう。)

もちろん、この場合”本物の世界”は物理的に異なるのですが、それはシミュレーション世界内から見れば物理学的というより形而上学的な世界ということになるので・・・

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超難問という愚問の愚答 投稿者:ハム 投稿日: 2月16日(木)00時10分42秒

愚問:私が(^_^)なのはなぜか?

愚答:誰か(たぶん両親)が、(^_^)という名前をつけたからである。

まあ、存在に対する疑問ではないですよね。
制度に関する疑問のようです。
私が(^_^)だ、という思想っぽいです。

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人間原理 投稿者:かん 投稿日: 2月14日(火)04時59分34秒

なんとそうだったのですか。やはりちゃんと読まなければ不用意な事をいうべきではないですね。The Privileged Planet 私も読んでみます。

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意識原理 投稿者:φ 投稿日: 2月14日(火)03時58分10秒

人間原理の「人間」というのは命名者のカーターも後悔するほど誤解されていて、別にホモ・サピエンスにかぎらず知的生命であれば当然何でもよいわけです。
『対角線上の悪魔』はじつは読みかけで止まったままですが、そのうち必ず読了させていただきます。

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自分と人間原理 投稿者:かん 投稿日: 2月13日(月)08時29分11秒

 自己選択効果とはなかなかうまい表現だと思います。
 しかし選択は自分がしたのでしょうか。 少なくとも私は、私という人間に生まれようと思った記憶がない x_x 誰が決めたんだろうかしら。 意識、認識論というもの全体はもう脳科学に渡してしまってよい段階に来ていると思います。 でも、自分では明らかである?にもかかわらず、客観性がなく科学の対象とならない言葉が厳然としてあるー「私は今からここを出て2時間で帰ってきます」がある。 これだけでは、私は誰か、今はいつか、ここはどこか、トートロジーとして基準を置かなければ成り立たないのですが、科学はそれを作りえない。 Φさんの「私はなぜ存在したのか」という点こそが究極的原因です。 人間原理についてよく調べたことはないのですが、結局は自分原理ではなかろうかと思います。なぜなら、自分が人間でなく、ある惑星のAという生物だったら、人間原理の代わりにA原理というものを考えているかも。 私は以前出てきた、対角線上の悪魔の作者ですが、皆様よろしくご教授ください。

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The Privileged Planet 投稿者:φ 投稿日: 2月13日(月)02時13分9秒

量子で出来ていることは、意識を生み出すための必要条件である、ということはあるかもしれませんね。そして同時に、世界が科学的に記述できるための必要条件であるということも。
生命を生み出すのに適した環境は、同時に、科学的に世界を解明する原点として適切な唯一種類の環境でもある、という新説(?)を、↓の本が提出しています。
人間原理を一歩推し進めた考えで、期待しつつ今読んでいるところです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0895260654/qid=1139764153/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/503-1382259-6283142

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普遍的法則 投稿者:ハム 投稿日: 2月12日(日)14時56分19秒

我々の宇宙は量子で構成されているわけですが、他の宇宙の構成物質も量子しか想像できません。
そうすると、他の宇宙でも我々が知っている物理法則は成立していることになります。 量子の確率的な性質(初期パラメータの確率的な選択)によって他の宇宙が異なっているだけだということになります。

そうすると、他の宇宙で発生するかもしれない意識も我々と同じような意識だといえそうです。
つまり、多宇宙の可能性は、観測選択効果や「自己選択効果」?の必然を生む。

この必然に対して何故か?という愚問は、こういう思考そのものに対する疑問になってしまう。
A=BならばAとBは同じである。
これを何故か?と問う奴に何をどう説明すればいいのか?
直観を鍛えてもらうしかないのではないでしょうか?

話が飛びましたが、多宇宙にもまたがる普遍的法則を前提しなければ、観測選択効果という必然が出てこないような気がします。
量子で構成されない他の宇宙の意識って、我々の意識とは違う意識っぽいです。
量子で構成されない他の宇宙が想像しがたいように、量子で構成されない意識も想像しがたいので思考不能です。

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自己選択 投稿者:φ 投稿日: 2月11日(土)03時04分48秒

 >目の前に出てくる現象は確率でしか予測できません。

 そこで、「波動関数はなぜこのような収縮の仕方を選んできたのか」と問えば、これは「多世界の中からなぜこの世界が選ばれてきたのか」という問いですね。
 「偶然」としか答えようがありませんが、観測選択効果という必然の中での偶然ですね。
 「なぜ他の誰でもなくこいつが私(として選ばれた)か」という超難問(笑)も同型で、
 ここでは、観測選択効果の特殊な形、「自己選択効果」とでもいう空虚な必然が働いていると言えるでしょう。

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(無題) 投稿者:かん 投稿日: 2月10日(金)14時13分43秒

>量子力学というのは、厳密に言うと、きわめて決定論的なのだそうですよ。
について、
量子力学を含んだ量子論や宇宙論では宇宙そのものの存在がが確率的になります。
シュレディンガーの波動関数が線形であることはよく知られているますが、それがΨ^2として目の前に出てくる現象は確率でしか予測できません。 したがって単純に考えると決定論ではなくなります。 そこに複雑系をもってくると、シミュレーションとは極めてコントロールされた状況下でしか意味を持ちえず、一体何をシミュレーションしているのかわからなくなります。
多世界解釈は、目の前で起こらなかったこと(死んだ猫・死ななかった猫、あるいは宇宙が発生しなかったとき、など)が起こることも実在しますので、完全に決定論的となります。
しかし、あることが起こらなかった世界にも自分の体は実在しますので、別の世界の自分とは一体なんだ、という心身問題になります。

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多法則 投稿者:φ 投稿日: 2月10日(金)02時21分49秒

たしかに、シミュレーション論法を真面目にとると、物理学はむなしくなってきます。「普遍的法則であるかのように設定されたパターン」を普遍的法則として追究しているに過ぎないわけですから。
しかし物理学自身が、この可能性を許容してはいますね。物理法則はパラメータごとに分岐するという、「強い人間原理」です。

■ファインチューニング→強い人間原理(多宇宙)
■人工知能の実現可能性→シミュレーション論法

という具合に、二つの独立した方向から、唯一の普遍法則の否定が導かれるのは、興味深いことです。

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シミュレーションのリセット 投稿者:ハム 投稿日: 2月 9日(木)22時38分51秒

今は、決定論的な多世界解釈が人気あるようですね。
しかしこれは解釈の問題です。
うまく説明できればいいわけです。

宇宙シミュレーション内の量子は実験で分かっているような確率的な姿で定義せざるをえない。
そうしなければシミュレーションになりませんよね。
そうすると、最初の水素原子が出現する時間と位置は確率的。
このシミュレーションはリセットするたびに異なった宇宙を表現することになります。

これは、多宇宙論にも通じるのではないでしょうか。

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あやふやですが 投稿者:φ 投稿日: 2月 9日(木)04時00分47秒

決定論といってもいろいろ意味があって、量子力学というのは、厳密に言うと、きわめて決定論的なのだそうですよ。波動関数全体は、厳密な法則に従っていて、線形であり、カオス的ですらない。

専門家のいない場ではこのことをあれこれ議論しても仕方ないかもしれませんが、カオス的であるニュートン力学よりも、量子力学のほうが、むしろ古典的決定論の世界観に忠実であるというのは本当らしいです。ニュートン力学だと、シミュレーションのリセットごとに、初期値がちょっと違うだけで全然違う世界になってしまいます。量子力学的シミュレーションだと、そうはなりません。リセットごとに、初期値にかかわらず厳密に同じ波動関数の推移が実現するのではないでしょうか。

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>シミュレータ内の世界に限らず・・・ 投稿者:ハム 投稿日: 2月 9日(木)00時16分52秒

シミュレーションを生み出す世界観は、どちらかというと非決定論的な世界観だと思います。
決定論的は方法は演繹でしょうか。

宇宙シミュレーションを作ったとして、このシミュレーションはリセットするたびに異なった宇宙を表現するはずです。
量子の確率的な振る舞いがプログラムされるはずですからね。

あと、決定論的な世界の中では、非決定論的な世界を構成できないのではないでしょうか。
例えば、アルゴリズムで真のランダムを表現することは難しいですよね。

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創作物の非決定性 投稿者:φ 投稿日: 2月 8日(水)13時41分58秒

 創造神なりシミュレータなりが、この世界のディテールのすべてを作った、というのは、まずありえないことだと私は思っています。
 芸術家の創造も、作曲家にしろ演奏家にしろ、出来上がった作品の特徴の隅々までを指定できはしません。文字の配置をすべて指定する小説家ですら、虚構世界のすべてを意図的に決定できはしません(結果的には決定するとしても、意図的に統制するのは無理。そのことが『虚構世界の存在論』のテーマでした)。

 「非決定性を示す実験結果そのものが創造主の捏造」ということは、ローカルには十分ありうるでしょうが、広域的に見たときは、すべてをそのようにコントロールすることは不可能だろうし、可能だとしてもそれは「表現型の定義」に過ぎず、シミュレーションとは言えない、大して面白くない作業だったろうと思います

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シミュレータ内の世界に限らず、世界が決定論的ならば 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 7日(火)22時43分16秒

論理あるいは実験によって「この世界は非決定的である」という偽の結論が出されても、それに対する疑問や反論が*なし得ない*という状況がありえます。(例えば、現在にいたるまでの「光子や電子などの量子が不確定性を示すという実験結果」などが全て、「創造神なりシミュレータの製作者なりにより企図されたこと」だったとしたら…) これはよく持ち出される「宇宙は(進化を示す地中の化石なども含め)五分前に創られた」などという理論に似ていますが…

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本当の超難問 投稿者:φ 投稿日: 2月 6日(月)03時43分11秒

 「意識の難問を解決してから最後の最後に問うべき問い」は、あるとしたら(問うのは最後でなくてかまわないのですが)、「私はなぜ存在したのか」という問いです。
 「私はなぜこの特定の人物なのか」が重要な問いだと思い込んでいる人は、暗に、「私はなぜまがりなりにも存在したのか」という問いの重要性に感じ入りながら、ポイントを外している人でしょう。
 この問いに答えるために、私は人間原理をやっていると言っても過言ではありません。

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「超難問」 投稿者:ハム 投稿日: 2月 5日(日)22時27分36秒

>現在不可能なことを前提にする議論というのはナンセンス……

合理的に説明できない前提というのは容認できないのです。
今回のお話ですと、シミュレーション意識、これをどうやって実現するのか?
説明不能ですよね。
江戸時代にケータイを前提した話はナンセンスでしょう。
シミュレーション意識は将来に渡って不可能っぽいのです。
論理の正しさと、事実の正しさの差でしょうか。

「超難問」
φ様がその著作で、いたくお怒りなのはよく承知しています。
私など、そう目くじらたてなくても、と思うのですが。
哲学人口を増やす貢献はあるでしょうし。

ただ、悪い問いだというのはよく分かります。
全ての前提をひっくり返す行為で、ほとんどテロ行為です。
観測選択は必然的にあなたを選択するのです。
そうなってる。
何故か? などという愚問は神というか思考への最大の冒涜なのです。
少なくともその前の難問を解決してから最後の最後に問うべき問いなのだと思います。

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奇跡 投稿者:φ 投稿日: 2月 5日(日)03時41分10秒

「私がφでないことは可能か?」は意味をなす問いであり、だからこそ、「超難問」を言い立てる人々が問いたいのはそのことではない、と私は述べたのでした。彼らが問うているのは意味をなさない問いだ、と私は言いたいので。

 チャルマーズは、独我論が正しければ(意識が一個だけなら)指標性の問題はなくなると考えているようですが、私も賛成です。しかし私たちは独我論を信じておらず、多数の意識があると信じているので、だから「よりによってφ」に私が当たった、のが謎となりうる(ように思われた)のではないでしょうか。つまり、確率は関係大ありだと思います。でなければ「奇跡」などという語法はいい加減も甚だしいでしょう。そして彼らが確率を理解していないため、謎と見えてしまうのでしょう。

 シミュレーション論法は、論理によってここがシミュレータ内だと結論しますが、論理の正しさは、シミュレータの初期値に左右されないでしょう。論理的真理は(確率的推論の正しさも含め)、いかなる世界でも妥当するはずです。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月 5日(日)03時19分19秒

下で<私>と書いたのは、永井さんと同じ用法だと思ってください。したがって おっしゃるような、εがφと(誤って)思いこんでいるというような意味ではありません。 今、急いで手元の文献をひっくり返してみたのですが、
ティム・ロバーツの"The Harder Problem of Consciousness"には、たしかに、"Why are you Kim Smith"とありますが、それに続いて、"And this in turn to a host of questions, such as, was it ever possible for you someone else?"とありますし、永井さんの”<私>のメタフィジックス”の第4章などをみても、”なぜ”の意味が”非常にまれな事象が起こった、奇跡だ”という解釈にはみえないので、私が下で述べたような見方も成立すると思います。

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ここのやり取りを読んでいるうちに 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 4日(土)21時18分37秒

自分が本当にシミュレータの中の存在のような気がしてきて困りました。
ところで、この世界がシミュレータ内の存在だとしたら、それを「識る」ことは可能でしょうか?
そのことを「識った」つもりでも、それは予めシミュレータの初期値として与えられていた条件から規則に従って導かれた結果に過ぎず、同じシミュレータに別の初期値を与えたら「この世界はシミュレータ内の存在ではない」という「偽の」結論が導かれるように思えます。
だとすると、前者の「真の」結論を出した過程も正しい「過程」と言えるのか、疑問になります。

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 2月 4日(土)20時45分0秒

>いわゆる魂とか裸の自我を論ずる際の看板のようなものなのではないですか?

 そうではないと思います。意識の超難問とやらを提起する人は、必ずや、「私が△△ではなく○○なのはどうしてか?」と問うのが常なので。
 裸の自我の問題は昔からあったわけですし、超難問風情の誤解を招く問い方でわざわざ問うというのは、問題設定を誤っている証拠でしょう。
 「私がφでないことは可能か?」が意味をなす問いであるのは明らかです。自分が誰であるか、勘違いしていることは大いにありえますから。(現に私は自分がφだと思い込んでいるが、ふと我に返ったら、ε だったことに気づくかもしれませんし)
 つまり本当の問題は、「なぜ私は、曲がりなりにも誰かとして(意識として)存在できたのか」「意識がこの世にありながら、私が存在しないことは可能だったか」ということでしょう。ナーゲル的な問題設定は、このこととは全然関係がありません。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月 4日(土)14時55分51秒

なぜ...という形の問いを文字通りにとればそういうことになると私も思います。そうでなく、いわゆる魂とか裸の自我を論ずる際の看板のようなものなのではないですか?たとえば、<私>がεでないことは可能か?というのは論理的に有意味な問いだと思います。モデルとして解りやすいのは、<私>を役者、εを配役とすれば整合的だし、多くの宗教で昔から考えられてきたわけでしょう。もっとも、最近の論者は、役者からすべての個人的属性(演じてないときの)を取り去ろうとするので、解りにくいのだと思います。

もっとも私はこのモデルが真だと本気で信じているわけではありません。たまにそうだったらいいかなと思うことはありますが...

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(意識の)超難問 投稿者:φ 投稿日: 2月 4日(土)02時13分59秒

 原著しか手元にないので、対応しているかどうかわかりませんが、たぶんp,85ですかね。しっかり線引いてありました。
 チャルマーズは、「意識の問題に比べると指標性の問題は大したことない」と言ってますが、その通りだと思います。
 というより、数学者は始めから「なぜ私が○○か、なぜ○○が私か」という問いは相手にしないものと私は思っていました(1≠0.99999……を斬り捨てるように)。 そもそも超難問を重んじている少数の人々は、なぜか確率を論じようとしないので、私は不満なのです。
 独我論が真でないかぎり、 私=三浦俊彦 という事実は確かに恣意的であり、実現が低確率であり、唯物論的世界観に還元できません。
 しかし、三浦俊彦という人物は私が生まれる前にどこかで「この人こそが視点の中心になるはず」と指定されていたわけではないので、 私=三浦俊彦 には何ら偶然の一致はありません。(あらかじめ指定があって、その通りになったとしたら宝くじに当たるがごとき凄いことだが、指定がなかったので、ただ結果的に「ある一意識」を引き当てたにすぎない。つまり、意識の超難問なるものは、いかなる視点も二つ以上の意識としては具現できない、という人格の個別性の事実にすぎないのですね。私が誰として生まれても同様の問いが生ずるので、いわば、人格の個別性のもとでは条件付確率1で保証された事実なのです。(問いの内容そのものが答えが決まってから設定されるので外れようがない)  ――「なぜよりによって地球が生命を宿したか、奇跡だ」という的外れな問いにも同じことが言えるでしょう。これについては、またしつこく、いま発売中の『現代思想』2月号に、
  「自然選択説が選択する、不自然な自然選択」
 というタイトルで一本書きました。ご覧いただけると幸いです。(いずれ全文アップロードするつもりですが)

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意識の超難問とチャルマーズ 投稿者:ε 投稿日: 2月 3日(金)02時49分18秒

マトリックス・アルティメット・コレクションを入手して以来、チャルマーズの”意識する心”を読み返しているのですが、超難問に言及しているところを見つけました。φさんはご存知でしょうが、日本語版118ページの指標のところです。
”デヴィッド・チャルマーズとは私だ、ということを。この見たところ始末におえない事実を、どう説明できるだろうか。”とあり、その後のほうでネーゲルを引用しています。ティム・ロバーツも三浦さんも、チャルマーズの本を挙げながらなぜここに言及しないのか、ちょっと不思議です。チャルマーズは擬似問題ではないかとためらいつつも、唯物論で説明できない事実と認めているようです。クオリアに比べれば、小さな問題と考えているようですが、これは彼が倫理や宗教に多分、余り関心を持ってないことによるものでしょう。

ちなみに私は、超難問が形式論理で消去できるとは思いません(また噛み付いてすみませんが・・)

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手抜きといえば 投稿者:φ 投稿日: 2月 2日(木)03時05分43秒

 >現在不可能なことを前提にする議論というのはナンセンス……

 とは全然思いません。
 インターネットや原爆や携帯電話がいつかどこかで流通しているということを江戸時代の人がいくら否定しても、私は憫笑するだけですから。同様に、21世紀人や私自身の直観も信用する気になれません。(私も、直観的には、ここがシミュレーション内だとは感じられはしないのです。その直観はいかんと思ってるだけで)

ラッセルのEverything is illusion てのがありました? 私はインタビュー集の一枚しか観ていないので、ちょっとわかりませんが……。

手抜きといえば、この世界の量子レベルなんて、ひどい手抜きだと思うのですよ。全てが二値論理できちっと出来ているマクロ世界を降りてゆくと、いつしか、もわもわした非二値的な隙間だらけの量子界が。この世のシミュレーションの手抜き部分に住人が気づいてしまったところに、量子力学の神秘があるのかもしれません。(前にも言いましたが、電子はどれをとっても完全に同一、だなんて、恐るべき手抜きではありませんか!)

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ラッセルの作品と言えば 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 2日(木)01時08分13秒

ε様>つい最近DVDが発売された「シンデレラマン」は名作でした! …って、ラッセル・クロウの映画ですが(笑)。
ラッセル・クロウの以前の作品に、数学者ナッシュが主人公の「ビューティフルマインド」がありました。こちらはある意味、脳内シミュレーションで別の世界を創ったお話… と言って良いのでしょうか?

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Re: マトリックスのコメント 投稿者:クリスティアン 投稿日: 2月 2日(木)00時44分5秒

ハム様>揚げ足取りではないですが、「UFO(未確認飛行物体)」は厳存しますね。私も何度も見たことがあります。後で考えると気球や飛行機、金星などだった可能性が高いように思いますが、未だに確認は取れていませんので…(笑)
(論理からは)パイオニア10号・11号、ボイジャー1号・2号のような探査機の可能性がゼロとは言えません。
シミュレーションの逆説的な結論は非常に面白かったです。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 2月 1日(水)23時43分32秒

ハムさん、はじめまして
私もすっかり常連化してしまいました(笑)

アルティメット・コレクションにはこの映画を嫌いな映画評論家による解説(音声と字幕)が選択できるDVDが入っていて、これが思わず笑ってしまうのです。だから批判的なコメントでも面白ければ掲載されると思うのですが、まあ学者達が自主規制したのかもしれません。また、映画を気に入った哲学者による解説(一人は、ケン・ウィルバー)も選択でき、彼はトランスパーソナル心理学、宗教のサイドから語っていてこれがまた面白い。で、見始めたら時間がいくらあっても足りなくなってしまいそうです。

哲学者達による解説の中で、ラッセルが”すべては幻想である(Everything is illusion)"と言ったとあるのですが、どこでいっているのかわかったら教えてください→φさん そうだとしたら三浦さんのシミュレーション論法のベースにあるのかも・・・

自然選択とシミュレーションとの関係が少しわかりかけてきました。外界のシミュレーションは、要は人間の脳を出し抜けばよいわけで、様様な手抜きが可能になります。そのテクニックを進化的(遺伝的)プログラミングか何かで実現する。その際、淘汰圧として評価関数は、例えば現実の脳がシミュレーションと見抜くまでの時間をとればよい・・・ 映画ではマトリックスに協力的な現実の人間もいるし、培養槽の中の人間は誕生からすべて機械で教育されるので、自由行動の幅も狭いからなおさらやりやすくなるはず。もっと具体的に考えたらブログに書くことにしましょう。

しかし、この現実がシミュレーションと言うのはやはり考えにくい。もともと奇想天外な意見にはできれば同調したいほうなのですが・・・・

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マトリックスのコメント 投稿者:ハム 投稿日: 2月 1日(水)21時50分48秒

批判的なコメントは掲載されませんからあまり参考にはならないと思います。
初めから選択されているわけです。

>シミュレートされた世界の外側に(あるいはその外側の外側の外側の……外側に)実在世界が確かにある

このお話を聞いてちょっと面白いことを考えました。

最初のシミュレーションは実在世界が作りますね。
そして、そのシミュレーション内に意識が誕生したことを確認した瞬間に、
その実在世界の意識は、(他の)シミュレーション内の意識である確率が高いことを悟るはずです。
もはや実在世界というものが信じられなくなる。
シミュレーションというからには実在世界があるはずなのにです。
これって、パラドクスっぽいですよね。

あと、ちょっと不思議なのですが、現在不可能なことを前提にする議論というのはナンセンスではないのでしょうか。
UFOのような乗り物が否定できなくなります。

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マトリックス 投稿者:ε 投稿日: 2月 1日(水)04時25分7秒

アルティメット・コレクションですが、注文の手違いがあったりしてやっと今日届きました(苦笑今日、コメントのディスクを見終わったところです。

まず、ひところはまっていたケン・ウィルバーがずいぶん出ていたのにびっくり。AI関係だけでなくいろんな角度からの見方があるものですね。中ではチャルマーズが”現実がシミュレーションである確率が20%くらい”と言っていたのが目を引きました。数学出身なのに計算量は気にならないのか、と心の中で突っ込んでしまいました(笑)

デネットは”解明される意識”からすると”そんなシミュレーションはできっこない”とまでいわなくても、”実際には困難な点がある”くらいは言いそうなものですが、たしかにダーウィニズムの話が主でしたね。

シミュレーションについては言い足りないことなど、自分のブログのほうに書いておこうと思います。まだ前置き程度しか書いてないですが・・・
http://mathpl.exblog.jp

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自然主義的実在論 投稿者:φ 投稿日: 1月30日(月)03時41分11秒

 この世界がシミュレーションだということは、意識内界と外界の区別が私たちの常識どおりではない、ということなので、外界を作るのに必要だと「思われていること」は本当に必要かどうか疑わしいことになるでしょう。材料はいちばん外側の実在世界でだけ調達されていればよいので。
 シミュレーション論法が単なる観念論とは違うところは、シミュレートされた世界の外側に(あるいはその外側の外側の外側の……外側に)実在世界が確かにある、ということを認めることでしょう。また、バークリー流神の意識に辿り着くのでもなく、あくまで自然主義であるということ。神のデザインによってこの世界ができたのだとしても、その神は神を含む世界内で自然選択の結果生まれてきているはずなのですね。
 実在論であり自然主義であるところが、シミュレーション論法の強みです。(『マトリックス・アルティメット・コレクション』でデネットは、ニュートン、アインシュタインの理論よりもダーウィン理論のほうが重要だ、という持論をまた強調してましたが、シミュレーションは自然選択と相性がいいというか、相互不可欠でしょう)

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シミュレーション(続き) 投稿者:ε 投稿日: 1月29日(日)03時54分53秒

φさんの生物学的アナロジーが最初、よく判らなかったのですが、意識のシミュレーションについて語っておられるのだと思います。

我々の意識体験が、脳内で起こることであり、外界の認識も、科学すらもそれに基礎をおいていることは確かです。しかし、だからといって世界の全部、そうでなくても大半が脳であるということは帰結しないと思います。

間主観的に構成される外界の秩序とはセンスデータを解釈する枠組とかアルゴリズムであって、センスデータ自身の源は別に存在する必要があると思います。そしてそれがあらかじめ誰かの脳内に存在するとは考えにくい。

前に言われたレシピとか設計図のアナロジーを使うと、製品(外界)をつくるには、それ以外に”材料”が必要で、それが量的な意味ではシミュレーションが一番困難な部分ではないか?と思うのですが・・・

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精神と物質 投稿者:φ 投稿日: 1月28日(土)12時36分26秒

 たしかに、二元論でよいなら、話は簡単ですね。唯物一元論をとりたいというのが学者たちの本音であるために、「意識」は難問となる。20世紀後半になってからますます「意識」が厄介なテーマになってきた理由はそこにあります。
 唯物論科学の言語の中に、「意識」は組み込まれていません。たとえば、いままで試したことのないニューロンの発火パターンを見せられて、「ここにどんな意識が灯っているか推測せよ」と言われても、お手上げでしょう。新奇な2つの感覚を経験させられて、「コウモリが超音波を感じたときのクオリアに似ているのはどちらか」と問われても、たぶん誰も答えられないでしょう。コウモリの脳を物理的に解剖し尽くしたとしてもです。
 つまり、内面的意識は、物理学からはみ出しています。かりに、「これこれの物理構造には主観的心が宿らざるをえない」ことが証明できたとしても、「ではどんな主観的感じが」とまで問われると、お手上げです。物理状態に関しては、完全に推測できるにもかかわらずです。

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精神と物質の二元論に立つのならば 投稿者:クリスティアン 投稿日: 1月27日(金)07時25分59秒

同じ肉体(脳細胞)に魂が乗っていたり、乗っていなかったりすることがあるかもしれない、と(まだ)納得できるのですが。
唯物論の立場を取るならそのような区別を認めることはできず、共に心を持っているか、共に心を持っていないかのいずれかにならざるをえないと思うのですが。

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Re:「ゾンビ」についての質問 投稿者:φ 投稿日: 1月26日(木)02時54分20秒

 「意識」を科学の言語に組み込むことが出来ていない現状では、ゾンビの余地は認めざるをえないのではないでしょうか。「人間と同じ脳細胞・人間と同じ構造のニューロンネットワーク」はあくまで外面(物理面)の「同じ」にすぎず、「内面」を記述していないからです。内面は、外面を全て記述すれば尽くされている、という保証は、物理科学では得られないでしょう。
 世界は物理科学で記述し尽くされるという現代の常識によれぱ、意識の占める余地はなく、あってもなくてもよいことになると思われます。つまり、現実に私たちに内面があるのは偶然ということになります。

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 『マトリックス・アルティメット・コレクション』の哲学者・科学者登場の一枚を観ましたが、誰もかれも、通り一遍のコメントを言わされている感じで、ちょっと気の毒でした。ただ、ダニエル・デネット、ジョン・サール、デイヴィド・チャルマーズ、ヒューバート・ドレイファス、ルディ・ラッカーら錚々たるメンバー多数が語っており、中には人間原理の哲学をマトモに扱っている数少ない哲学者の中でも新進気鋭のニック・ボストロムなんぞも登場していて、「お?」と思いました。
 皆さんやはり、「自然選択による人工知能」にシミュレーションの未来を観ているようです。レシピによる自然発生の複雑系としてのシミュレーション世界ですね。

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「ゾンビ」についての質問 投稿者:クリスティアン 投稿日: 1月26日(木)01時39分58秒

三浦先生、はじめまして。
「ゾンビ」の存在について疑問があります。
唯物論に基づくならば、もしも原子・素粒子・クォークのレベルまで人間と同じ構造の「ゾンビ」が宇宙のどこかに存在しているとしたら、それは人間と同じ脳細胞・人間と同じ構造のニューロンネットワークを持っているわけなので、必然的に「内面の心」も持つこてになると思います。
逆に言うと、人間と同じ脳細胞・ニューロンネットワークを持っていれば必然的に心を持たざるをえず、心を持たない「ゾンビ」などというものは存在しえないと思うのですが

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レシピからの事後的な産物 投稿者:φ 投稿日: 1月25日(水)03時19分30秒

 思い返すと、「レシピとケーキ」というのは誤解を招く譬えだったかもしれません。デコレーションケーキのような、部品を組み合わせるのに似た、設計図で作れそうなケーキがイメージさせるとまずいので。パンケーキやプディングを思い浮かべていただければよいでしょう。

 シミュレーションが、何事かの正確な再現である、というイメージにεさんは多少囚われているような感じが私にはします。人間が知覚し働きかける外界(環境)は、間主観的に構成されうる総体のうちで整合的にうまくできている部分を結果的につなぎ合わせた最大公約数に過ぎないのではないでしょうか。何を「外界」と見なすかというのは、たまたま辻褄が合ってうまく出来ている環境を事後的に拾い上げてるのですから、全く別種のシミュレーションがなされた場合にはうまく再現できるとはかぎりません。その意味で、所与の環境が精妙に見えるのは結果的に定義されているからに過ぎないと思われます。ちょうど、100個のサイコロを振ってたまたま出た目そのものにはなんの精妙なところもないが、それをあとから固定すれば、「その目」を出す(シミュレーションする?)ことが実に難しく、奇跡であるように思われるのと同様です。

 別種のシミュレーションでは、電子も分子も雲も太陽も出来ないかもしれません。電子や分子などなくても、そのシミュレーション内ではそこなりの最大公約数的秩序が生まれており、それらに関して実験などを行なっているそこの住人からすれば、
 >そしてこれらの実験は測定器だけでなく、
 >場合によっては世界全体に影響をおよぼすのですから、
 >実験室内の映像だけあればいいというわけには行かないと思います
 と、リアルな秩序だと感じられるのではないでしょうか。

 わたしたちのこの世界の秩序程度のものは、どこかのスーパーコンピュータ内で自然選択のシステムを百億個も試せば(しかるべくパラメータを調整してですが)、必ずや1例か2例は実現するのでは……?

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レシピ、および異なるレベルの世界 投稿者:ε 投稿日: 1月24日(火)04時33分47秒

意識の場合でいくと、誰でもよいから人間らしく見える意識がシミュレートできればいいのがレシピに相当、εとかφさんとかの特定の人間の特定の時点における意識がシミュレートできなければならないのが設計図に相当、というわけでしょうか?

>それ専用の特定の指示がなくてもよいと思われます。結果として出来ればよいので。

ここはちょっとわかりません。他人の脳内の画像などを直接入力するというのは現実の脳にとって全く新しい経験のはずです。これは詳しくは二通り考えられて、正規の入力器官である視神経を利用するもの、記憶部分に直接結合するもの(これはかなり危険でしょう)。いずれにしろそれに脳がうまく対応しうることを期待するのでは、正規の入出力器官だけを利用する外部コンピュータ型のシミュレーション(キャパシティだけが問題)に比べても、実現可能性のレベルが相当低くなってしまうと思います。

後半部ですが、今、16日の投稿を見たら私は

もちろん”真の世界”が、われわれの物理世界とはかけ離れて大きいものというならばこの議論は成立しないのですが・・・

と書いています。デネットは、デカルトが例の懐疑において”賢明にも(外部に)無限の知性を仮定した”と書いていますし、レベルの異なる世界を認めれば、私も可能だと思います。例えば、現在の技術でもゾウリムシにとっての外部世界を完全にシミュレートすることは容易だと思いますし、もしかしたら昆虫程度でも可能かもしれません、彼らに聞いてみることはできないですが。ただ、マトリックスのようなシミュレーションが現実世界で実現するかと言うと、否定的にならざるを得ません。

ちょっと妄想です:もし同じレベルの世界でシミュレータが存在するなら、それ自身のシミュレーションもできなければならない・・というのは何か自己言及のパラドックス?を思わせますね。現実世界の対象xに対してS(x):xはシミュレートされたものである、あるいは文xに対してST(x):xはシミュレーションにおいて正しい、というような述語を考えると・・・・

最後に繰り返しになりますが、私の考えをもう少し詳しく述べてみます。
私は、自由意志やランダムネスを幻想でなく文字通りのものと考えているので(デネットは自由意志についてはそう考えてないようですが)、自分の体験が、自分のにせよ他人のものにせよすでに記憶された脳内映像(音声、触感つき)やそれの組み合わせとは思えません。例えば、私が核物理や分子生物学の実験を私が自由に設定したパラメータで行うとき、その結果に対応する映像があらかじめ誰かの脳内に用意されているとは思えないのです(組み合わせ的爆発!)。つまり、分子、原子レベルの物理法則の(脳の・・ではなく、実験対象の)シミュレーションがいたるところで必要になるというわけです。そしてこれらの実験は測定器だけでなく、場合によっては世界全体に影響をおよぼすのですから、実験室内の映像だけあればいいというわけには行かないと思います。

すみません、また長くなってしまいました・・

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レシピvs設計図2 投稿者:φ 投稿日: 1月24日(火)01時01分41秒

 設計図とレシピの違いは、産物に許される誤差の程度ということではなく、根本的な違いです。産物との間に同型対応がないもの、それがレシピですね。ケーキのこの縁のこの部分は、この味は、この舌触りは、レシピのどこに書かれているのか、と問うても無意味です。意識シミュレーションも、クオリアどうしを照合するとか、脳の画像記憶を統一するとかは、それ専用の特定の指示がなくてもよいと思われます。結果として出来ればよいので。
 人間の身長、歩き方、口癖、食べ物の嗜好などをいちいち指定する遺伝子はないことを考えると、DNAという人体レシピは、その基盤のアバウトさに比べて驚くほど精密な結果を達成している。DNAは人間の身体と同型構造を持っていませんから。(異星人がDNAをいくら調べても、人間や動物の心身を予想できないでしょう)。

 (4)は、突き詰めると「この世はシミュレーションではない」ことの証明へと展開できそうな気もしますが、シミュレーターの位置する世界とシミュレーションされた世界のレベルが一致している必要もないのでは。 たとえば――この世の原子レベルというのが、元の世界のマクロレベルの物体の無限の複製、ということもありうるような。もしかしたら宇宙全体の複製とか。私たちの宇宙は、元の宇宙の上に投影された上位世界のシミュレーションということも。 ――電子は個性がなく互いに区別すらできずみな正確に同じなのだ、というような話を聞くと、私はいつも「なんで? この世はどこか別世界で規格化された人工物なのか?」と思ってしまうのですよ。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月23日(月)23時13分18秒

もう一つありました

(4)脳内における外界は、真のシミュレーションでなく、あくまで感覚から得られたもの、例えば映像記憶のようなものでしかありません。原子レベルの物理シミュレーションではないわけで、原子物理の実験をいくらでもわれわれがなしうると言うことは--それが錯覚でなければですが--現実世界が少なくとも脳結合のシミュレーションではないことを示しているのではないでしょうか?

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月23日(月)22時56分27秒

性懲りもなく(笑)また登場しました。明日はセンター入試の代休で、今日は時間があるので長くなりますが、いろいろな論点への疑問を箇条書きで書かせていただきます。何かのご参考になれば幸いです。

(1)私がもともと問題にしたのは、意識のシミュレーションでなく、外界のシミュレーションなのです。それが不可能ではないか?ということがデネットの本の最初の論点です。脳の結合の場合でも、一つの脳から見ればそれ以外の脳全体は一種のコンピュータであり、外界をシミュレートする能力では理論的限界よりはるかに劣るものでしかありません。

(2)脳を結合したモデルの問題は他にいろいろあって、他人の画像記憶へのアクセスを認めて、思考や感情へのアクセスを禁止するのはどのようにするか?様様な脳における画像記憶のプロトコルをどのように統一するか、例えばAの脳における赤さのクオリアとBの脳における赤さのクオリアはコードとして同じものなのか?脳同士を単に結合して、それらのネゴシエーションに任せるわけにはいかないでしょう。今のわれわれがそのようなハードシミュレーションだと言うならば、少なくともわれわれはそういうものを体験していないし、第一、他人の脳の信号そのままが無秩序・大量に流入するならば、結果は単なる発狂である可能性が高いと思います。

(3)ドーキンスは、”利己的な遺伝子”は読んだと思うのですが、大分前のことなので忘れてしまいました。レシピと設計図の違いと言うのは、初期値をピンポイントで定めるかある程度の誤差を許すのかということでしょうか?脳のモデルがニューラルネットにしろセルオートマトンにしろ初期値の定め方はものすごくたくさんあり、その中で意識となりうるもの(これがレシピ?)はいくらたくさんあってもほとんどゼロに等しいと思います。もっとも、意識のシミュレーションは私も結局はできるのではないかと思いますが。

冬休みからこの方、哲学や論理学の本を大量に買い込んでしまいました。三浦さんの本も絶版でないものは多分全部、ついでにデイヴィッド・ルイスとスタイルネイカーの本も池袋のジュンク堂で見つけたので買ってしまいました。それについてもいろいろお話したいことがあるのですが、本業がおろそかになってしまいそうなのでしばらく禁欲です(笑)

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(無題) 投稿者:φ 投稿日: 1月23日(月)20時58分6秒

お知らせありがとうございます。削除しました。同じ文面で、あちこちの掲示板に投稿したもののようですね。検索したらいっぱい出てきました。
記録はとっておきましたが、使うことがないよう祈ります。

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↓ 投稿者:ε 投稿日: 1月23日(月)19時41分32秒

一応管理者に通報しておきました。掲示板のサーバーから(ネカフェからの書き込みでも)発信元が特定できると思います。誰の番号かは知らないですが・・・

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レシピvs設計図 投稿者:φ 投稿日: 1月22日(日)22時31分56秒

 50年前には全く不可能と思われていたことが、結局は次々に実現されてきた、という科学技術史に鑑みれば、意識のシミュレーションもそういった「結局は」の一つのような気がするのですが、私には。
 リチャード・ドーキンスが力説する、「設計図」と「レシピ」の区別が重要だと思います。意識のシミュレーションにおいて、【プログラム:意識】の関係はあくまで【レシピ:ケーキ】のようなものであって、【設計図:自動車】のようなものではないということです。表現型に対する遺伝子の役割と同じですね。プログラムは、産物たる意識との間に要素の一対一対応を特定できる必要はないわけです。設計図のように、産物との間に一対一対応を求められると、意識のような複雑なものを作る計算プログラムなど、不可能に決まっています。しかし、自然選択で働く人工生命システムを用いれば、微調整のあげく意識を結果するレシピは十分可能だと思われます。

 シミュレーションで意識が作れるはずはないと思っている人は、暗に、設計図としてシミユレーションプログラムをイメージしているのではないでしょうか。レシピで十分、要素的一対一指示は必要ないと割り切れれば、意識シミュレーションにはぐんと明るい展望が開けるはずです。ソフトシミュレーションですらそうであってみれば、すでに脳神経系が出来合いで用意されているハードシミュレーションにおいてをや、と私は思っています。

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完全性 投稿者:ε 投稿日: 1月22日(日)02時24分47秒

掲示板を独占するのも申し訳ないので、このあたりで一旦消えようと思いますが・・・

この数日考えてきて、余り完全性を求めなければ、外部コンピュータ型のシミュレーションはかなりの程度可能であると思いはじめました。一番ネックになるのは科学的実験や旅行の類で、そういうことさえしなければ、計算量的な問題はクリアできるのかもしれません。

ただ、脳同士の配線には別の問題があると思います。脳の”正規の”出力は、筋肉への司令とか内臓のコントロールしかないわけで、カメラに相当する眼-視神経と言う入力器官はありますがディスプレイや画像出力端子に相当する部分は脳に備わっていません。後半部でのシミュレーションでは、他人の脳に記憶された画像などを直接取り出して利用する必要があると思いますが、それが可能かどうかは疑問です。それ以外にも”意識の難問”がいろいろとかかわってきてしまうような気がします。

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定義の問題? 投稿者:φ 投稿日: 1月21日(土)03時02分21秒

 シミュレーションというものを、どう定義するかの問題のようですね。
 私はわりと軽く考えているのかもしれません。ただ言えることは、シミュレーションとは一般に「模倣」や「再現」ではなく、「試行」「実験」の類だということです。既定の内的履歴を正確に模倣するなどということは至難ですが(任意の複雑系の結果(表現型)だけデッチ上げるのは簡単でも、下位のプログラム(遺伝子)の力で自動発生させるのはまず無理)、他方、結果としてどんな履歴が出来るかを試行するのは、全くたやすいことではないでしょうか。実際、生物個体の各々が、遺伝子型というプログラムによって適応の結果を試されているシミュレーションのようなものですから。
 培養脳への入力は、『マトリックス』ではどうしていたか忘れましたが、多数の脳をじかに結びつければ、他者の出力が入力となって相互作用しあい、「大量の情報入力」たる外部世界はたやすく用意できてしまいます。この社会でも、私たちの環境の最重要な部分が「他の人々」であるわけで、もしかすると、自己と諸他者の生み出したイメージが相互に整合的に均衡した結果が「外界」に他ならないのかもしれません。
 脳どうしの配線さえ始めにシミュレーターが設定すれば、あとは個々の脳の脳細胞が生理学の原理で勝手に外部世界を投影しあってゆくというわけです。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月20日(金)04時45分31秒

論点がだんだんわかってきました。
たしかに、夢を見ているときにはほとんど外部入力はないし、目を瞑って考え事をしているときにも最大の外部入力である視覚は遮断される・・・・これらのことに使う時間は無視できるものではないですが、そうでないとき、つまり起きている時間の大半は常時大量の外部入力にさらされているはずです(制御と言う言葉は気になりますが)。

>脳がもともと体験することの出来る世界の範囲は、物理法則(生理学法則)によってすでに大部>分用意されていますから、シミュレーションはそこに新たな刺激を与えたまま、自走させればよ>いと思うのですが。(適宜最低限の介入をしつつも)

ここは、日常の経験の大半は脳の”自走”で作り出されたもの、と言われているのですか?それは信じられない話です。もしそうだとしたら、脳が外部世界のシミュレーションをやっていることになってしまいます。それはある程度は可能でしょう。珠算の達人は暗算のとき、ありありと算盤を思い浮かべて、その珠の動きを見て計算をしているらしいですが、電卓、あるいはもっと複雑なコンピュータの場合、思い浮かべることにより、それらが実際にすることを頭の中だけでできるでしょうか?

現実と区別がつかないような体験のためには、脳とは独立した何らかの外部世界---それが現実世界であれシミュレーションであれ---からの常時、大量の情報入力が必要になるのは明らかだと思うのですが。

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3作+アニマトリックス、単品で 投稿者:φ 投稿日: 1月20日(金)01時04分48秒

すべて所有しているのですが、アルティメット・コレクション注文してしまいました。レビューでは哲学者語りは不評のようでしたが。

 ――計算量といっても、『マトリックス』でもそうでしたがシミュレーションは培養脳の夢内容を常時コントロールしているわけではなく、適宜介入する程度でしたよね。
 初期条件と規則を設定すれば、あとは物理法則に任せられるのでは?
 いかなるシミュレーションも、1から全てを用意するわけではなく、より低次のシステムに寄生しながらやっているはずです(現実の脳も外部入力で常時制御され続けているわけではないでしょう)。
 脳がもともと体験することの出来る世界の範囲は、物理法則(生理学法則)によってすでに大部分用意されていますから、シミュレーションはそこに新たな刺激を与えたまま、自走させればよいと思うのですが。(適宜最低限の介入をしつつも)
 そうした寄生的シミュレーション内では、「自由意思」の幻想もリアルに体験されているのでは?

 ともあれデネットらの言ってることを見てみます。
 
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アマゾンです 投稿者:ε 投稿日: 1月19日(木)04時13分5秒

マトリックス・アルティメット・コレクションです。私は中古で注文したので9800円でした。
新品で14000円くらいだったと思います。

シミュレーションに話題を戻します。

情報量といったので誤解を招いたかも知れません。計算量といったほうがよかったですね。
コンピュータで外界のシミュレーションをする場合、たとえ万物理論が知られていた場合でも、どのくらい時間がかかるかを考えねばなりません。なぜなら、計算速度には自然な限界があるからです。現在のコンピュータで、クロックが3GHzだとすると、真空中の光でも10cmしか進めません。それが電気信号をベースにしている以上、もっと速くなってそれがCPUの大きさを下回れば1クロックの計算ができなくなります。理論的限界を考えて、CPUが原子大になったとしても数十桁の差でしか!ありません。身の回りのものでさえ、原子大のシミュレーションをすれば、それを上回ってしまうでしょう。

もう一つの問題は、多分あらゆる力学理論はある意味で初期値問題です。初期値は理論から決定されないので、”手で”入力しなければなりません。数え切れないほどの原子の初期値(位置および速度、量子力学なら状態)をどう定めるかが大問題だと思いますが・・・

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Re:続き 投稿者:φ 投稿日: 1月19日(木)03時35分34秒

そんな10枚組があるんですか?
注文できるサイトを教えてください!

培養脳ですが、やはりよくわかりませんね……。
現実世界は、量子力学もしくはその拡張理論に従って動いているわけで、記述可能な法則に従っている以上、ある計算プログラムに則っているはず。
 万物理論の定式化は不可能という立場に立つならば別ですが、普通は、意図的シミュレーションと自然シミュレーション(自然法則)との間にそう大きな断絶を認めることはできないと思うのですが……。

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続き 投稿者:ε 投稿日: 1月18日(水)03時09分29秒

いやいや、問題は脳でなく外部世界のシミュレーションの側なのです。もちろん、通常の状態の脳と水槽の中の培養脳の性能は変わらないはずですが、実際の外界からくる刺激とコンピュータによって作られるシミュレートされた刺激の情報量の違いです。

ちょっと話が食い違ってくるかもしれないのですが脳の側の話についても少し・・
たしかφさんは、幻肢や幻覚についても触れられていましたよね。
デネットは、夢、幻覚剤、精神障害などのいずれによるものであっても、現実と比較できるような体系的幻覚は存在しないだろうと言っています。たとえばひところ話題になったカスタネダのドンファンシリーズのようなものは信用しがたいというわけです。
それは、ロナルド・シーゲル”幻覚脳の世界”にも述べられています。

マトリックスについては10枚組CDのセットの中に哲学者によるドキュメントがあり、その中にデネットのものもあるそうなので、さっきネットで注文してしまいました(笑

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やはり 投稿者:φ 投稿日: 1月18日(水)02時31分5秒

わからないのは、水槽の中の脳と、通常の脳とがなぜ違うのかということです。
 きょう大学の自室でデネットを参照してくるのを忘れたのでまた改めて確認してみますが、さしあたりわかりません、デネットの意図が。
 培養脳は、感覚器官からの刺激経路を短縮して、じかに脳に刺激を与えられているだけですよね。
 全てを計算プログラムで作り出したソフトシミュレーションに限界があると言いたいならともかく、マトリックス型の培養脳になぜ、脳にはない限界があると考えるのか。身体とつながった脳と何ら性能は変わらないと思うのですが。自由意思によると自らは思っている行動自体が、実は外界からの刺激への自動反応に過ぎない(かもしれない)という点では、身体とつながった脳だって同じことなので――。

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(無題) 投稿者:ε 投稿日: 1月17日(火)19時29分40秒

たしかにおっしゃる通りで、組み合わせの数だけのことではないですね。

囲碁・将棋のソフトが組み合わせの数に応じられるのは、
(1)それを支配する法則(ここでは”勝つ法則”ではなく、ゲームのルールのこと)が完全に与   えられていて、
(2)しかもそれがコンピュータに実装できるくらい簡単なものであり、
(3)実行時間も十分に短い
ことによるものです。もし、それらのソフトにおいてもルールが未知であれば、対応する盤面をすべて用意しなければならず、それこそ<組み合わせ的爆発>が起こってしまいます。実際のバーチャルリアリティーでも、被験者のあらゆる行動に応ずる感覚刺激の出力データをあらかじめ持っているのではなく、幾何学や物理学の法則に従って、その都度計算して対応しているのだと思います。

しかし、部屋の中で歩いたり、物を動かしたりする以上の現実行動、たとえば絵に描いた餅と言う言葉がありますが、餅を見たり触ったりするだけでなく、焼いたり、放置してカビを生やしたり、試薬を使って化学分析したり、電子顕微鏡で観察したりという行動にすべて対応するには、分子、原子レベルの物理法則からシミュレートしなければなりません。そのためには、囲碁・将棋のソフトでは満たされていた3つの条件が満たされる必要があると思いますが、多分どれについても、その見込みがないと思います。

デネットはもっと悲観的?で(前掲書、19ページ)

懐疑論者(自分が"容器の中の脳"でないかと疑っている人)に向かって、本物かどうか疑わしいコインを一枚投げてみるとよい。その人が1,2秒手にとって重さを量ったり、つめで引っかいたり、・・・(いろいろなテストをする)だけでクレイ社のスーパーコンピュータが1年がかりで整えるだけの情報ビットが消費されてしまうだろう。・・・神経へのひとまとまりの刺激から<シミュレーション>のコインをつくることは、人間のテクノロジーの現在の水準を超えており、おそらくそれは永久に変わらないと思われる。

と言っています。もっとも、オリジナルは10年以上前の本なので、それ以後のコンピュータの発展を見て、デネットが今でも同じ意見かどうかはちょっと興味のあるところです。
たとえば、マトリックスについて何かコメントしていたら面白いと思いますが・・・

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(?) 投稿者:φ 投稿日: 1月17日(火)01時45分3秒

「薬効を信じていなくても、プラシーボ効果さえ信じていれば、プラシーボ効果が得られる」パラドクス、作りたいものですね。作れるような気もしますが……。

 ところで、デネットが件の主著でどう言ってるか早速確かめねばなりませんが、
<組み合わせ的爆発>とはちょっと理解しがたいです。

 たとえば、将棋や囲碁のソフトは、宇宙全体の原子の総数をはるかにしのぐ組合せに軽々と応じられるわけですが……。
 ソフトシミュレーションではなく水槽の中の脳(ハードシミュレーション)ではなおさら、身体を伴った脳と同等の性能を持てると思うのですが……、

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シミュレーション 投稿者:中高年数学者→ε 投稿日: 1月16日(月)23時10分58秒

ご無沙汰しています。プラシーボ効果の話題が盛り上がっているようですが・・・

ハンドル名をεに変えることにします。固有名のほうが何かと都合がいいようなので もっともラッセルによれば同じことですね。

昨年末のシミュレーションについて一言
仮定の(2)ですが、ダニエル・デネットの”解明される意識”のはじめのほうに
われわれが”容器の中の脳”ではないという理由として、自由意志がある場合
”あらかじめ蓄えておくべき可能性の数が多すぎるのだ。・・・・<組み合わせ的爆発>といわれる泥沼にはいりこんでいしまうのである。”(18ページ下段)とあります。
つまり、ランダムまたは自由意志による選択で、10000回程度のものは、個人の生活でも
ごく普通にありますが、これが2択であっても、2^10000の場合があり、それに対する結果をすべて用意しなければならないとなると、記憶素子が宇宙の中のすべての素粒子(たしか10^100程度)と同じだけあったとしても、それを蓄えることなどとうていできません。
もちろん”真の世界”が、われわれの物理世界とはかけ離れて大きいものというならばこの議論は成立しないのですが・・・

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何度もすいません。 投稿者:大学生男 投稿日: 1月16日(月)18時11分40秒

たしかにプラシーボ効果は、薬効があると思い込むところから生ずる効果
とされているのかもしれませんが、どうやって薬効と薬の効果を区別するのでしょう。「この薬を飲めばきっと治る」と信じる時、その根拠が医学にあるということを意識する必要があるでしょうか。
たとえば、神官の言葉だから、きっと治るだろう、と昔の人が信じる場合も、プラシーボ効果は起こるでしょう。
つまり、治ると信じることの拠り所となる権威は何だっていいと思うわけです。
それが、医学でも、宗教でも、論理でも、信じるならプラシーボ効果は起こると思います。
B(W)→Wを仮定するのはそういうわけです。

「無意識に薬効に期待している可能性を信じる」というのは
薬効があるかないか半信半疑、と言ってしまえばそれに近いような気もしますが、ここでは、薬効はまるっきり信じてないが、自分の「信じるという意識的な感覚」のエラーが存在することを信じているという意味です。
人間ならだれだって感覚のエラーはあるだろうし、その存在を多少なり信じているでしょうから、比較的自然な仮定になると思います。
議論が強引になってきているのでどうしようもないですが、
なんとか「薬効を信じていなくても、プラシーボ効果さえ信じていれば、プラシーボ効果が得られる」に持っていけないですかね・・・

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フムフム 投稿者:φ 投稿日: 1月16日(月)03時08分56秒

②は文字通りとるとB(B(W)→W)なのでは。
薬効とプラシーボ効果以外の効果、というのを始めから認めるとすると、それ自体がパラドクスみたいなものですから、そこから結論として何が出てきても驚くべきことにはなりませんよね。始めから変なことを前提しているのだから。
 パラドクスは、常識的な前提から奇妙な結論が引き出されるところに成立します。

 つまるところ、「薬効を信じていなくても、プラシーボ効果さえ信じていれば、プラシーボ効果が得られる」と持っていきたいわけですね。しかしこれは……、
 プラシーボ効果は、薬効があると思い込むところから生ずる効果なので。
 >無意識に薬効に期待
 これはあえて考えれば、「薬効があるかないか半信半疑」の場合、薬効を信じているとは言えず、かといって薬効がないとも信じていないので、ある程度のプラシーボ効果が得られる、というような、しかしこれではあまり驚くべき結論ではないような……。

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あ… 投稿者:大学生男 投稿日: 1月15日(日)17時29分7秒

薬効を信じないのに「ろ」の可能性を信じるというのは
とんちんかんなこと言ってますね。
それじゃ・・・
薬の効果は薬効とプラシーボ以外にもある、
という可能性を信じているとしましょう。
もしくは無意識に薬効に期待している可能性を・・・。
あーかなり強引になってきてます orz

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記号化してみました。 投稿者:大学生男 投稿日: 1月15日(日)17時18分23秒

①②の組み合わせは私がプラシーボ効果を、
「(薬効にとどまらない)薬の効果を信じる際に働く効果として信じている」
ことを言っています。薬効は、医学的に一般に存在する効果、
薬の効果は、この1回の状況で働く全ての効果を含むと考えています。
これを除くと何も議論ができなくなってしまうので
プラシーボ効果の定義はとりあえずこれで認めてあげてください。

ためしに記号化できるかやってみましたが、
どうも、やはり④があやしいです・・・。
薬の効果W
薬を飲む決断を下すD
~を信じるB()
としまして

Ⅰ仮定:D、B(W)→W(プラシーボ効果)、D→B(W)(下の④)
としますと、
D→B(W)→Wとなり、トリビアルで面白くありません(汗

Ⅱ仮定:(ⅰ)D、(ⅱ)B(W)→W
のみにすると、
①B(W)∧D→B(W)
②B(W)∧D→W   (∵ⅱ)
③B(B(W)∧D→W)
④B(B(W)∧D→W)∧D (∵ⅰ)
*⑤B(B(W)∧D→W)∧D→W
⑥W

という展開を浮かべてたのですが
⑤と②を混同していたようです。
⑤は、B(W)、Wがともに偽の場合偽になりますね・・・
⑤が下の④D→B(W)よりも正しく思えるのは錯覚でしょうか。
もう少し議論を続けさせてください。

仮定のもとで各々の命題がとりうる真偽値は

  D B(W) W
い T  T  T
ろ T  F  T
は T  F  F

となっています。
下の④は「い」の場合でのみ真ですが
上の⑤は「い」と「ろ」の場合に真です。
したがって、もし「ろ」のような可能性を0でないと「信じて」議論するなら
Ⅱの議論の末、自分がはじめ信じていた(~下の④の確率)よりも大きな確信をもってWを信じることができます。
つまり、B(W)よりもWの真である確率が大きい。

ここでB(W)の確率が更新され
議論の頭に戻って繰り返します。。
ひたすら繰り返せばB(W),Wともに
限りなく大きい確率、つまり確率1で真になるのではないでしょうか。
下の④D→B(W)、および「ろ」の起こる確率をそれぞれ有限のものと信じているとします。
これはどうでしょう。

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フム 投稿者:φ 投稿日: 1月15日(日)01時32分44秒
①私は薬効を信じない。
②でもプラシーボ効果を信じる。

 ①②の組合せの心理状態というのは可能なのでしょうか?
 「薬効は信じないが、プラシーボ効果を信ずる」場合、プラシーボ効果が働く対象として想定されている人間は、薬効を信じないと言っている本人ではありませんよね。
 なぜなら、②は「一般に、薬効を信じている人間にとって、プラシーボ効果は作用する、と私は信じている」のであって、「薬効を信じない私に薬が作用する、と私は信じている」という意味ではないだろうからです。(もし後者の意味なら、その時点ですでに⑨が肯定されてしまっていますから、単に「プラシーボ効果」の語義を変えて使っているだけになってしまいます。つまり薬効を信じていなくともプラシーボ効果はありうるというふうに)

 あと、③④が怪しいですかね。
 ④は必ずしも真でないからです。単に遊びで飲んだり、味見とか、実験とか、パラドクスの実演を狙って(この場合がそうでしょう)とか、いろいろ動機はありますから。
 「風邪薬のパラドクス」を構成するにあたっては、この④が最大のネックではないでしょうか。

 あと、⑥ですね。⑨で「期待できる」とするからには、⑥は単なる客観的事実ではなく、私の心の状態「風邪薬の効果を信じているならプラシーボ効果が生じる、と私は信じている」でなければならないでしょう。

 私が意地悪く不完全に解釈しているのかもしれないので、記号化してみると面白いかもしれませんね。
 時間があったら、パラドクスになるよう、論証を形式化してみてください。
 
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はじめまして。。 投稿者:大学生男 投稿日: 1月14日(土)21時17分9秒

突然の書き込み失礼します。
三浦先生の著書を読み、
思いついたのでご意見いただきたく参上しました。
風邪薬の効果=薬効+プラシーボ効果だとしての
次の議論です。

~風邪薬のパラドクス~
①私は薬効を信じない。
②でもプラシーボ効果を信じる。
③風邪薬を飲むという決断を下すのは私だ。
④私が決断を下すからには、何らかの効果を期待しているはず。
 (もしそうでないならあえて薬を飲もうとはしない。)
⑤つまり私は風邪薬の効果を信じているはず。
 (なぜ信じられるかが不明なので、この時点では本当に信じてはいない。)
⑥風邪薬の効果を信じているならプラシーボ効果が生じる。
⑦つまり風邪薬の効果はあるはず。
⑧ここで初めて本当に風邪薬の効果(飲むと決断することによる効果)を信じられる。
⑨したがって実際にプラシーボ効果が期待できる。
 (期待して決断を下せる。)

これで本当に効果が得られると思うのですがどうでしょう・・・。