三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ 2005年)

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SIMULATION 投稿者:φ 投稿日:12月26日(月)20時12分15秒

 >(4)を肯定すれば、(1)から(3)は全部間違いとならざるを得ない

 というのは一見そう見えますが、厳密には違います。(1)(2)(3)は私たちがナマのリアルだと思っているこの宇宙の内部のことを述べていますが、(4)は、もっと大きな実在の文脈で述べられています。だから、(4)を肯定しながら、そのシミュレーション世界では(1)(2)(3)が正しいように設定されている、と考えることも可能です。

 この宇宙で(1)(2)(3)をすべて否定すれば、確率的に、この宇宙を超えたもっと大きな実在を想定せざるをえなくなる((4)の肯定)ということが眼目です。

 ハードシミュレーションよりソフトシミュレーションのほうが基本でしょうね。ハードシミュレーションはおそらくソフトシミュレーションに寄生して、その内部でなされるものです。

 多重シミュレーションは、ナマの意識よりシミュレーション意識が圧倒的多数を占めることの十分条件ですが、必要条件ではないでしょう。多重シミュレーションがかりに不可能だとしても、目下、ハード郵便よりeメールが多数を占めているのと同様、意識についても、必ずやソフトが優勢にならざるをえないと思われます。

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Re対称 、ハードシミュレーション 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月26日(月)12時47分1秒

考えてみると
(1)から(3)のどれか1つについても、それを結論として残り三つの逆を前提とする論証形式が作れますね
やはり対称的なんですね
すると自分がひっかかった
(4)を肯定すれば、(1)から(3)は全部間違いとならざるを得ないが
(2)を肯定しても、残り三つが全て間違いとは限らない
というのは 意味的にたまたまそうなるということでしょうか?
構文論的には対称だが、意味論的にたまたま非対称になるんだ
という表現で合っていますでしょうか?

〉、(4)が正しいという絶対的な実感は乏しいにもかかわらず、相対的にはこれしかないという実感。
〉 だからパラドクスなのですね……。

分かりました。論理的にどれか1つは正しいはずなのに どれも正しいと実感できないが 選択しなければならないなら φさんは(4)だ ということですね

〉なお、シミュレーション論法で想定されている意識シミュレーションは、個々人の意識を個別に作り出すというものではなく、宇宙丸ごとプログラムし、あとは勝手に自然選択で多くの生命→意識が発生するに任せるというものです。

ハードシミュレーションで可能ということですか?
また 元ページの

〉そして一旦シミュレーションが始動すれば、シミュレーション内のシミュレーション内の……といった多重シミュレーションが展開し、なまの現実に住む意識よりもシミュレーション内意識の方が圧倒的に数多くなると予想されます。

これもハードシミュレーションで可能ですか?
〉ただ、純粋な計算プログラム(ソフト・シミュレーション)には決して意識は灯らないとかりに認めるにしても、

を前提としての質問です。

それと クオリアというものがもし未だに解けない謎であれば
クオリアを持つシミュレーション意識が作られることが可能 ということも言えないのではないかと思うのですが

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VR 投稿者:φ 投稿日:12月26日(月)05時14分15秒

 ハード・シミュレーションが可能であることは、幻肢痛などの例を参照するまでもなく大脳生理学ではほぼ常識のようですし(脳から感覚器官までの距離は自然選択的または技術的な偶然によるので、下限はありません)、あまり議論の余地はないと思われます。
 「脳」と「その他の身体」の区分をどう定義するかは任意です。脳の直接刺激だけでリアル体験を生み出すマトリックス的VRは、現代科学を信ずるかぎりでは、間違いなく可能でしょう。

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ハード・シミュレーション 投稿者:ハム 投稿日:12月25日(日)18時39分50秒

マトリックスタイプの「ハード・シミュレーション」が不可能っぽいのは、五感です。
目・耳・舌・鼻・皮膚を使わないで人間と同等の意識が生まれるとは思えません。
例えば、赤ちゃんにリンゴをどうやって教えるのか?
脳への刺激だけでリンゴを理解させることは不可能でしょう。

リンゴを見るときの目の筋肉や神経を実際に使うということが意識の必要条件だと思うわけです。
意識というものは脳みそだけで成立しているものではなく、筋肉や臓器や神経も意識にとって必要なものだと思うわけです。
私達はそういう意識しか知りません。

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知性、シミュレーション 投稿者:φ 投稿日:12月25日(日)03時12分11秒

 自己と他者の間に相似な内面構造を仮定(シミュレーション)し、その仮定にしたがって推論と行動調整ができる程度の複雑さを機能として備えていれば(つまり「心の理論」を持つ個体ということですね)、主観的意識を持つ知性体と言えると思いますが、「知性」は「意識」より基準が甘くてもよいかもしれません。
 いずれにしても、人間原理的な議論の単位となるのは、意識的知性体です。

 (2)は、現に我々の脳は遺伝子のプログラムを実行するハードウェアと見なせるので、そこに意識がある以上、説得力はないのでは。とくに、マトリックスタイプの「ハード・シミュレーション」に意識がないとするのは無理でしょう。(私たちは夢をみている最中に、ときおり意識を持つものと考えられます)
 (3)どの文明も、例外なく、意識シミュレーションに興味を持たないなどとは考えられません。一つの文明内部に限っても、個人・企業レベルで実行するやつが必ず現われるでしょう。ヒトクローンもいずれ禁忌は破られるでしょうが、シミュレーションも同じでしょう。

 なお、シミュレーション論法で想定されている意識シミュレーションは、個々人の意識を個別に作り出すというものではなく、宇宙丸ごとプログラムし、あとは勝手に自然選択で多くの生命→意識が発生するに任せるというものです。

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シミュレーション論法 投稿者:ハム 投稿日:12月24日(土)16時37分42秒

今の話題は、シミュレーション論法と知性体ですか。
シミュレーション論法については私なりに解決しています。
(1) × 文明はレベルDへ進む。
(2) ○ クリアな意識はできない。
(3) ○ 意識シミュレーションを作り出すことに興味を持たない。
(4) × あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識ではない。

・意識を生み出すコンピュータ・シミュレーションは不可能だと思われます。
(意識というものはアルゴリズムだけでは成立しない。)
・意識シミュレーション研究にかかる莫大な予算が負担されることはない。
(経済的な理由です。アメリカ議会では新しい素粒子加速器の予算が却下されています。)

これだと何にも面白くないのですが、これが常識的な判断だと思います。

ちなみに、「シミュレーション論法」の前提にある宇宙シミュレーションの方がはるかに大変なことだと思います。
コンピュータのメモリ等の有限な資源で無限(宇宙は拡大し続けている)を表現すると必ず矛盾を引き起こすはずです。
私たちの宇宙に矛盾がないことが、私たちの宇宙がコンピュータ・シミュレーションでない理由だと考えています。

※論理に不完全があるのは、論理は脳によるシミュレーションだからだともいえそうです。
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知性体の作り方 投稿者:Υ田 投稿日:12月24日(土)07時58分6秒

何度も失礼します。
たとえば、次のようなロボットは、自意識ある知性体でしょうか?
(R1)時間的空間的に広い領域から情報を集め、規定された目的を達成する確率が高くなるようにR1を制御する自走ロボット。
R1を「自意識ある知性体」と認めるわけにはいきません。なぜなら、「規定された目的」として「電位の最も高いところへ行く」を採用すると、電子がR1の一種であることになってしまうからです。電子は、宇宙に存在するすべての荷電粒子の位置情報と電荷情報を基にして、電位の高い方向に進みます。

(R2)時間的空間的に広い領域から情報を集め、自分のいる位置を含む領域における力場と物質配置を基にして、規定された目的を達成する確率が高くなるようにR2を制御する自走ロボット。
R2は障害物を迂回できる近代的な装置といえそうです。光センサーを備えて暗い方向に舵を切り続ける魚雷が、R2のレベルのうち最も原始的と言えるでしょう。しかし、設計者から与えられた制御関数を使って、設計者によって定められた目的のみを目指すのでは、自意識ある知性とは呼べないでしょう。

(R3)R2に次の変更を加えたもの。

 ・自分自身の制御関数と制御関数で用いるパラメータの一部を監視可能であるように機能を追加。
 ・R3は制御関数と監視関数と自己変更関数の少なくとも一部分ずつを、規定された目的を達成する確率が高くなるように変更する機能を追加(「監視関数」は前項で定義されたもの。「自己変更関数」は本項で定義されるもの)。
 ・前項とR2の定義における「規定された目的を達成する確率が高くなるように」を「R3が備えるセンサー群から見て、規定された目的を達成した状態と区別がつかない状態になっている確率が高くなるように」に訂正
R3は自意識を持った知性体といえるでしょうか。
追加機能の定義があやふやだと言われれば、平に謝ります。

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対称的 投稿者:φ 投稿日:12月24日(土)02時58分15秒

アキレスと亀の場合は、実験するまでもなく、論理によって、追いつけることが証明できますから、私は実はあれをパラドクスとは呼びたくありません。伝統的にパラドクスと言われているので、『論理サバイバル』でしぶしぶ解説したというのが本音です。
 いつまでもあれをパラドクスとして問題視している哲学者が居て困るんです。数学者はもうアキレスと亀を相手にしてはいないでしょうけど。
 さて、対称的な命題群ということですが、オリジナルを再録すると

 (1) 現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡する。
 (2) レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできない。
 (3) レベルDの文明は、あなたの心と同程度にクリアな意識シミュレーションを作り出すことに興味を持たない。
 (4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識である。

 で、これらのうちどれか一つでも肯定すれば問題なし、という意味では、対称的です。
 (4)だけが特権的な立場にあるわけではありませんよね。
 以前ここで議論したときも触れましたが、シミュレーション・アーギュメントには隠れた前提が紛れ込んでいますから、それらを明示化して、否定する候補にすることもできます。

 (5)シミュレーションされた意識の個体数は、ナマの意識の個体数を必ずや圧倒的に上回る。

 というのがいちばん大きな前提でしょうか。
 (5)を否定できれば、(1)~(4)のどれをも肯定せずにすみます。

 ですから、(1)~(4)+[(5)の否定]の5つの命題のうち、最低どれか一つは認めねばなるまい、というふうに書き換えられます。
 さらにいくらでも細分化できますが、「信じがたい」命題だけを明示化するのがよいでしょう。

 私はもちろん、自分がシミュレーションされた意識であるなどと実感しているわけではありませんが、(1)(2)(3)(4)[(5)の否定]の5つのうちでは、(4)が最も正しそうだ、という、相対的な実感があるのです。
 繰り返すと、(4)が正しいという絶対的な実感は乏しいにもかかわらず、相対的にはこれしかないという実感。
 だからパラドクスなのですね……。

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なんどもすいません 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月24日(土)01時04分28秒

 一見信じがたい結論が導かれている時点で既にパラドックスなので  それが事実ではない なんてことを決めているわけではない
ということなのかな
つまりアキレスと亀が実際に実験すれば追い抜けることが歴然としているケースであるのは たまたまであって
事実ではないということが歴然としておらず 論争の的になる場合でも まずは信じがたい結論が導かれていればパラドックスである  ということですか?

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φ さんへ 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月24日(土)00時52分1秒
私が以前ここへ来るきっかけとなったのは別な場所に あなたのあのアーギュメントのページが紹介されていて
そして、「自分はシミュレーションであると主張している人がいる」
と話題になっていたのです  そして その中の何人かの人がここへ論争にも訪れました 彼らは あなたが何故 そのような考えを持つのだろう? と 疑問に思い 論争したわけです

なので 私としては
あれはパラドックスですよ とあなたが今書かれるのを見て
つまりは 事実ではない結論が導かれているパドックスなのだ  という認識なのでしょうか?
彼らは あなたに遊ばれたのでしょうか?
という問いなのです

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それで 対称についてのφ さんへの質問は 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月24日(土)00時45分49秒

パラドックスという条件をはずします
単に漠然と 「(4)を肯定すれば、他のみっつは全て否定しなければならない」というような関係が (1)から(3)全部に成り立つような 四つの命題
というのはあるでしょうか
と思っただけです   愚問でしたらスルーしてください
またこれは
α さんの疑問とは全然関係ないことでした まぎらわしかったら済みませんでした

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見えてきました 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月24日(土)00時37分47秒

妥当な(或いは妥当だと思える)前提(A)から、論理的に結論(B)が導かれているケースで
前提を否定した命題と、結論を並べて (1) (2)とすれば
1つは必ず正しいはずになる

A⇒B ならば 非B⇒非A だから
結論を否定すれば、もとの前提が否定され ゆえに もとの前提を否定して立てた命題(1)は真になる
もとの前提を否定して立てた命題が、偽なのなら それはもとの前提が真なのだから
 結論命題(2)は真になる

ってことですね

従って、「どれか1つは必ず正しいような命題群」は 当然いくらでも作れる
前提から妥当な論証で結論がみちびかれているケースの
前提を否定した命題と、結論を並べれば良い

けれども、もとの論証がパラドックスであるならば それは
妥当な(と思える)前提から、信じがたい結論が導かれているわけで

そして、それを上記同様 前提を否定したものと、結論を並べて
どれか1つは必ず正しいような命題群 を作ったのが
例になっているアーギュメントなのでしょう(それをパラドックスと捉えるとしたら)

だから、どれか1つは必ず正しいような命題群ってのは いくらでも作れるけれども
その結論が信じがたいような
 つまりパラドックスになっているものは 当然 パラドックスを作るのと同じ程度に難しい

ということなのでしょう

あってますよね?

次のうちのどれか1つは正しいはずである

アキレスが亀より少し遅れてスタートして亀を追いかけるとき

(1) アキレスは最初に亀のいた地点を通ることは無い
(2) アキレスが最初に亀のいた地点に達する時、亀は少しだけ先の地点に進んでいるということは無い
(3) アキレスが前に亀のいた地点に達する時、亀は少しだけ先の地点に進んでしまっているという事態はいつまでも続くということはない
(4) アキレスは亀に追いつけない

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re:(無題) 投稿者:α 投稿日:12月23日(金)23時02分9秒

私もパラドクスについては勉強中なので、誤っている点に関してはどしどしφさんに指摘して欲しいのですが、パラドクスに導く形式の論証であれば、その内容は任意に拵えることができるのではないでしょうか。たとえば、エピメニデスのパラドクスでは、うそつきのパラドクスの形式を踏まえていれば、うそをつくのはクレタ人のエピメニデス以外の人物でもパラドクスを構成できます。その意味で「任意」と言ったのです。ですから先の(もとの)論証では、四つの命題のうち少なくとも一つは正しいような(パラドクスに導く)論証という形式を踏まえていて、(4)(これはそのままだとしても)を甘受しないようなもとの命題とは異なる(1)~(3)の命題を拵えることは可能なのではないかと思ったのです。

「四命題が対称になっている」というのはどういう意味なのかちょっとわかりません。

実際につくったわけではないですが、先の論証のようなパラドクスはつくれるのではないでしょうか。

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月23日(金)22時32分57秒

つまり 我々がシミュレーションだという結論を受け入れるのならば
パラドックスじゃないですから
という意味での問いです

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月23日(金)22時31分36秒

なるほど
一見受け入れ難いような結論を受け入れざるを得ない
ようになっているのをパラドックス ということなのですね
なるほど・・
我々がシミュレーションだなどということは間違いだ
としたときに
しかし論理的にはそうなる ということで パラドックスだということですか?

じゃ φさんの結びの言葉とか 以前ゲストの人たちと論争していたことは
φ さんが本当にそのように結論しているわけではなく(我々はシミュレーションである確率が非常に高い という結論)
パラドックスを面白くする仕掛けにすぎないわけですか?

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月23日(金)22時25分32秒

>いくらでも作れる、というわけではないと思います。
>もしそうなら、「パラドクス」として珍重されるはずがないので。

そうか 任意にいくらでも作れはしない と言われているのだから
質問を変えますね
四命題が対称になっているようなパラドックスってごぞんじですか?
ということで。

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月23日(金)22時15分21秒

だから 任意にパラドックスを作ったわけじゃないでしょ
というのが自分のレスなんですが
無視されるということは 的外れですか?
あれは φさんが任意に作った話なのですか?

それと任意に作る場合は四命題が対称になっている パラドックスは可能ですか?

つまり例の場合は、(4) は(1)から(3)に対し特別な関係にありますよね
例えば(4)を肯定すれば、(1)から(3)は全て否定しなければならない
けれども他の三つについては、そうとは限らない というように
こういうのが全て同等になるような 四命題のパラドックスは作れますか?

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無題 投稿者:α 投稿日:12月23日(金)21時38分5秒

弁明になっていませんでした。

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弁明 投稿者:α 投稿日:12月23日(金)21時17分47秒

「いくらでも」というのは拙い表現でした。量的には限りがないようですし、言葉のニュアンスとしては貴重でないように思えます。程度問題かと思います。

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paradox 投稿者:φ 投稿日:12月23日(金)16時06分36秒

 いくらでも作れる、というわけではないと思います。
 もしそうなら、「パラドクス」として珍重されるはずがないので。

 普通は、二つの命題でパラドクスが作られるわけですが、命題の数が増えれば増えるほど、パラドクス模様に組み合わせることはそれだけ簡単になることは確かですね。

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論理的必然性 投稿者:α 投稿日:12月23日(金)01時23分40秒

四つの命題のうち少なくとも一つは正しいような(パラドクスに導く)論証は、任意にいくらでもつくることができるように思われたので、その四命題でなければならない必然性はどこにもないのではないか、と思っただけです。

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もとの(1)の否定 投稿者:α 投稿日:12月23日(金)00時57分29秒

お答えありがとうございます。

SAの否定命題(1)~(4)に混同を避けるためのダッシュでもつけるべきでした。

確かにもとの(1)を「現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、滅亡するのは確実だ」としても、その否定は「(1) 現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、滅亡するのは確実ではない」となります。これは正しそうです。

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自分の最初のレスは 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月22日(木)02時30分28秒

>なぜその四命題でなければならないかの論理的必然性が感じられません。

これへのレスでございます

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(無題) 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月22日(木)02時28分37秒

そういえば自分も以前最初に見たときは (1)~(4)が対称な関係でないことが気になったような記憶が・・あるようなないような・・

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(1)~(4) 投稿者:φ 投稿日:12月22日(木)02時09分35秒

 ちょっと意図が掴めませんが……、
 四命題を否定した場合、もとの(1)の否定は、文末が「確実に滅亡しない」ではなく、「滅亡するとは限らない(滅亡しないでレベルDへゆく文明もある)」となります。
 また、もとの四命題は「少なくとも一つは正しいはず」なので、全部否定したものの組合せだと、「少なくとも一つは間違っている」となります。
 パラドクスを構成するわけですから、
 A■間違っていそうな命題ばかりなのに、すべてを否定はできない
 B■正しそうな命題ばかりなのに、すべて両立させることはできない

 のいずれかを構成することになります。
 http://russell-j.com/simulate.htm
 においては、Aをやっています。もちろん、Bの形でやることもできます。その場合は、αさんの(1)を上記のように部分否定形に変え、そのうえで、(1)~(4)の少なくともどれかは成り立たない、と言うことになります。

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ヨコからすいません 投稿者:kotobazukuri 投稿日:12月22日(木)01時22分27秒

「コンピュータシミュレーションで作られた意識の方が、オリジナル(?)な意識よりずっと多い」
わけではない
と言える理由 として 三つ考えたのが(1)~(3)だと思われます
αさんに それ以外の理由が考えられれば、(3.5)として加えることになると思います
つまり、もとの(1)~(3)を否定してもなお (3.5)を肯定すれば (4)を否定できるわけですから

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シミュレーション・アーギュメント 投稿者:α 投稿日:12月21日(水)21時58分47秒

リンクのページ拝見させていただきました。もしかしたら自分もその住人かも知れない「虚構界」については不案内ながら、ちょとした疑問が浮かびましたので、お答えいただければと思います。

シミュレーション・アーギュメントの四命題の論理的関連性は一応あるように思われますが、なぜその四命題でなければならないかの論理的必然性が感じられません。つまり、四つの命題のうち少なくとも一つは正しいような論証というのは任意なものではないかと思うのです。たとえば、その四命題を否定した場合のシミュレーション・アーギュメントについてはどうなのでしょうか。

(1) 現在の人類程度の科学技術(レベルC)に達した文明は、さらに高い段階(レベルD)へ進む前に、確実に滅亡しない。
(2) レベルDのコンピュータ・シミュレーションによって、あなたの心と同程度にクリアな意識を作り出すことはできる。
(3) レベルDの文明は、あなたの心と同程度にクリアな意識シミュレーションを作り出すことに興味を持つ。
(4) あなたは、コンピュータ・シミュレーションで作り出された意識ではない。

(1)を否定して(未来のことに関して「確実に」ということはありえないから)、(2)、(3)を肯定したとしても、(4)の否定が必然的に帰結するようには思えないのですが。

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SIMULATION ARGUMENT 投稿者:φ 投稿日:12月21日(水)01時49分19秒

「記述されている」というのでは、単に表現型の連鎖が与えられるだけですから、主観的知性を持てないでしょうね。
「シミュレーションされている」ということなら、始めに定められたプログラム(レシピ)にしたがって、初期条件・境界条件に応じて生成してきたという意味であるかぎり、それは主観的知性体でしょう。
 φもΥ田も、自分はナマの一次的現実存在だと思っているが、実は、第n次の(つまり第n-1次存在によって作り出された)シミュレーションである」という可能性は高いと思います。

もうお目に触れているでしょうが、人間原理では↓が言えます。
http://russell-j.com/simulate.htm

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Re:「主観的意識を持つ知性体」 投稿者:Υ田 投稿日:12月20日(火)03時14分32秒
ありがとうございます。
光源氏や明智小五郎は表現型だけがあるので、知性体ではない。それに対して、Υ田は表現型とは別のメカニズムで「下から」支えられているので、知性体である。という事で納得しました。
 一旦、「このΥ田も、ひょっとしたら表現型だけがどこかに記述されているのではないか?物理法則も心理法則もまるごと記述されているのではないか?」という議論が成り立つかと思ったのですが、、、、これはオッカムの剃刀か何かで切り落とせますね。
 仮に、この宇宙が何者かに記述されたものであるとしても、その場合、<Υ田が住んでいる宇宙で成り立っている事実命題>がすべて「<Υ田が住んでいる宇宙で成り立っている事実命題>と記述されている」に化けるだけですね。世界は5分前に創造された という論法をどこか彷彿とさせます。

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「主観的意識を持つ知性体」  投稿者: φ  投稿日:12月18日(日)16時33分11秒

 知性のような振る舞いを「下から」支えるメカニズムがないと、知性体とは言えないと思います。生物は、表現型だけが実現されることはなく、必ず、遺伝子のプログラムにしたがって表現型が発現していますよね。ドーキンスの言葉を借りると、遺伝子と生物体の関係は、設計図と建築物の関係ではなく、レシピとケーキの関係です。
 レシピがなくて表現型だけを(深層がなくて表層だけを)任意にそのつど発生させてゆく気まぐれな「創造」だと、その表現型の集積体は、知性体としての条件を満たさないでしょう。レシピとしてのプログラムにしたがって自走できたとき、そのプログラムと表現型とが一体となって知性体になるのではないでしょうか。(たとえば、私の背中に、この年齢になって初めて背中に十枚の翼が生えてくるようなレシピをあらかじめ受精の段階で指定することは、現実の物理学のもとでは、不可能でしょう。ちょうど、ケーキの8分の1だけ後から切り取った形を作り出すレシピが不可能であるように)
 よって、恣意的なフィクションのキャラクターは、それをレシピで整合的に実現できるなら知性体だし、できないなら知性体もどきの模倣物と言わざるをえないと思います。模倣物には主観はないでしょう。
 レシピにもとづいた整合的な知性シミュレーションであれば、そしてそれが単位として独立した境界を持った個体であれば、物理的因果関係の結果として主観を持ち、知性体と言えると思います。
 (もちろん、現実世界では突飛すぎる模倣物=非知性体でも、それをレシピから自然発生させられるような物理法則を持つ可能世界では、知性体として存在しうるでしょう。だから、光源氏でも明智小五郎でも、現実世界では表現型の羅列だけが可能ゆえ知性体ではないが(多分微妙な不整合ゆえ彼らを生み出す遺伝子はありえないでしょうから)、しかるべき物理法則を備えた可能世界では、彼らは知性体として居ると思います)

 ともあれ、終末論法でもシミュレーション論法でも、人間原理全般で問題とされる「観測者」とはどういうものを含むのか、という準拠集団の決定は、
 http://russell-j.com/Darwinize.htm
 の第3節の末尾にも書きましたが重大問題で、それこそ哲学的な問いでありながら、物理的にリアルな問いです。

 表現型だけで言うなら、人間原理でいう「知的観測者」の母集団は、単に知性を持っているというだけでは失格で、人間原理を理解している、もしくは理解できる人々、ということに究極的にはなると思います。人間原理は、自己選択する理論だからです。

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「主観的意識を持つ知性体」とは何なのでしょう?  投稿者: Υ田  投稿日:12月18日(日)04時56分2秒

ややこしくなるかもしれませんが、質問よろしいでしょうか
『論理サバイバル』105(胡蝶の夢)などで言及される「主観的意識を持つ知性体」とは、どの程度の知性のあるものを指すのでしょうか?言い換えると、どの程度の知性のあるものを作ってしまえば、胡蝶の夢の証拠になるのでしょうか。

 ・人間の行動と人間の生息する環境とを素粒子レベルでシミュレートする仮想現実
 というシロモノを作ってしまえば文句はないと思います。しかし、仮想現実を走らせているコンピュータを虚心坦懐に眺めれば、そこに見えるのは電気信号だけです。電気信号のパターンを知性だと解釈するには、コンピュータを眺める人間が必要!・・・かもしれません。
「いやいや、仮想現実内の人間も、彼らなりに電流を知性だと解釈しているに違いないぞ」という反論が聞こえてきそうです。それなら、次のは自意識を持つ知性体でしょうか?

・小説の登場人物。具体例を挙げれば、Υ田の脳内でシミュレートされている古川忠之八段。
 虚心坦懐にΥ田の脳内を眺めれば、神経配線に沿って電気信号と化学信号が流れているだけでしょう。しかし、Υ田の解釈によれば、いくつかの信号と配線が古川八段を構成しています。そして(Υ田の解釈における)古川八段は、彼を構成する信号と配線の一部を知性だと思っていることでしょう。
 小説の登場人物は、読者の脳をリソースとして思考や感情を作動させることができます(=読者は、自分の脳内で小説の登場人物の思考や感情を思い浮かべることができる)から、自意識や知性を作動させることだってできる!・・・かもしれません。

 もしも小説の読者一人一人の脳内でシミュレートされている登場人物たちが「主観的意識を持つ知性体」であるのなら、「Υ田が何らかの創作物の登場人物である」という証拠はすでにあるのだ ということになりませんか?

『論理サバイバル』を人に貸したら戻ってきません(・ω・)。手元のは二冊目です。

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Re:  投稿者: φ  投稿日:12月17日(土)22時43分55秒

 ★Re:自己言及のパラドクス

 「ウソでありうる」が偽ということは、「ウソでありえない」ということ。つまり「偽ではありえない」。偽だと仮定したら偽ではありえなくなった。これは矛盾です。

 ★Re:終末論法&0.999…

例1 私はどの世紀に生まれるとしても常に多数派である。
   終末論法と例1のどちらが正しそうかは不明です。
   ■終末論法は、自分が正しいと主張しており(しかも一見正しい論理で)、だからその理屈を粉砕する必要があるのです。

例2 私より前に生まれる人達よりも、私を含めて私より後に生まれる人達が多数派である。
終末論法と例2のどちらが正しそうかは不明です。
   ■上に同じです。論理は終末論法に対して有利な判定を下しています。

例3 未来にも私が生まれえたかのような暗黙の前提の誤り。
終末論法の前提が容認できない。
私がどの時代に生まれるとしても、私が生まれた時代が現代です。
未来の人口の方が多数ならば私は未来に生まれたはずだという場合、「未来に生まれた私」の意味が不明です。
   ■ここで言う「未来」とは、「自分がまだ生まれていない時代」のことではありません。「自分が実際に生まれた時代よりもあとの時代」ということです。
 ラッセルのジョークを思い出すといいかも。
 A「この船は、実際の長さより長いと私は思っていたよ」
 B「旦那、実際の長さより長い船なんて、この世にありえませんぜ」

 「より長い」の多義性ですね。
  この区別は重要です!
 Aは、実際の長さを特定の長さAに固定して、「Aより長い」ことを言っています。
 Bは、実際の長さを固定せずにxとし、「x>x」なるxのことを言っています。
「より未来である」も同じく多義的です。
 私が、自分が生まれるよりあとに生まれる(Bの意味で未来に生まれる)ことは不可能ですが、西暦2千万年に生まれる(Aの意味で未来に生まれる)ことは可能だったのです。

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自己言及のパラドクス  投稿者: to  投稿日:12月17日(土)17時06分18秒

 こんばんは。今回は質問だけですが、よろしくお願いします。

 『論パラ』のP22に「私のこの発言はウソでありうる」という問題があります。この問題の回答に一文で矛盾。(L13の一番最後の文)とありますが、何とどのような過程で導かれた何が矛盾しているのか教えてください。

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終末論法&0.999…  投稿者: ハム  投稿日:12月17日(土)09時46分57秒

もう少し説明してみます。

例1 私はどの世紀に生まれるとしても常に多数派である。
終末論法と例1のどちらが正しそうかは不明です。

例2 私より前に生まれる人達よりも、私を含めて私より後に生まれる人達が多数派である。
終末論法と例2のどちらが正しそうかは不明です。

例3 未来にも私が生まれえたかのような暗黙の前提の誤り。
終末論法の前提が容認できない。
私がどの時代に生まれるとしても、私が生まれた時代が現代です。
未来の人口の方が多数ならば私は未来に生まれたはずだという場合、「未来に生まれた私」の意味が不明です。

0.999…について
循環小数は必ず分数で表記することができます。
0.999…は、初項0.9,公比0.1の無限等比級数ですから、
0.9/(1-0.1)=9/9=1です。

0.999…≠1 だと主張する人は、9/9=1以外に対応する分数を示さなければならない。
対応する分数を示せないのであれば、0.999…だけが分数にできない理由を示さなければならない。
と考えます。
0.999…だけを特別扱いする理由が必要です。
まあ、0.999…≠1 だと主張する人は、矛盾を容認できる人だということでしょう。
数学というお花畑にウンコするようなもんです。 ←下品で失礼します

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コメントありがとうございます  投稿者: φ  投稿日:12月15日(木)03時16分0秒

今書きかけのパラドクス事典に
0.9999……≠1(ではないこと)
も入れようかと思います。

何かうまい理屈、というか書き方を考えないと。

↓ここに、「メモ」として、現在執筆中の原稿(パラドクス事典とは別の原稿)の冒頭を掲げました。(あくまで執筆途上の草稿の一部ゆえ、これから変わりうるもので、ご参考までに)
 観測にまつわる確率には、「無限」とは違う難しさがあり、特殊な難しさであるがゆえに、プロとアマの差が最も出にくい分野でもあるようです。
http://green.ap.teacup.com/miurat/520.html

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(無題)  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月14日(水)21時45分35秒
勤めておられる大学のホームページを見たら、私よりデューティーが多い!それであれだけの著作とか論文とかWeb活動とか、すごすぎるスーパーマンですね!!。ご返信も夜中が多いし、お体には気をつけて・・・

さて、いくつかのコメントをしたいと思います。

1割る0は、”定義されてない”のです。尤も、定義されてないと言うことは、数学の他の部分とバッティングしない限り自由に決めてよいということなので、∞という記号を導入して、それだとしてもよいことになります。これは何も超準解析などと言う高級な話でなくても、便利な約束事として使うこともあります。ただ、定義と他の数との関係をうまく決めてやる必要はあります。

確率論では超準解析が割と普通に使われているようです。その場合数直線上の1点の確率は0出なく、無限小になるそうです。

確率に限らず、図形(点集合)の長さ、面積、体積などの量を測度(measure)といいます。前回書いた1次元ケーキの話でも、閉区間[0,1]は半開区間[0,1)を真に含んでいるけれど、長さはどちらも1です。つまり、集合論の圧倒的な自由度に比べて、実数では表現力が追いつかないのかもしれません。

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無限小2  投稿者: φ  投稿日:12月14日(水)03時11分53秒

 ケーキを切る時間をも半分、半分と縮めてゆくと、ゼノンのパラドクスやトムソンのランプ(超仕事)になるわけですね。

 『論理サバイバル』問009で超仕事を論じましたが、『心理パラドクス』問097では、実質的に同じ問題を別の答え方で処理したので、それらが両立するものか、矛盾するものか、気になっていました。アキレスと亀のような問題は完全に解決済みだと私は思っていますが、〈超仕事〉関連の無限パラドクスは、なかなか厄介である気がします。

 実は私も、わりと最近まで、たとえば1をゼロで割ったら「無限大」になるのだと思っていました。どうも違うらしいと聞いたときは愕然とし、よく考えてみれば確かに無限大であるはずはないんですよね。
 同じく、1-0.9999……=無限小、なんてのも、考えてみれば変だとわかりますね。無限小などという一意確定する数がない以上、それは関数の出力にはなりえませんものね。

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(無題)  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月13日(火)22時41分48秒

書き間違いです

何回目かにステップで ---> 何回目かのステップで

半壊区間       ---> 半開区間

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お答えなど  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月13日(火)22時34分56秒

無限小というのはきちんとした数学の話では出てこないものなのです。小、中、高の数学の教科書のどこを見ても書いてないはずです(歴史とかお話の部分は除く)。大学レベルの数学でも、関数に対して無限小のオーダーと言う言葉はあっても、無限小の数というものはありません(超準解析は除く)。また、∞という記号も必ず他の記号と組み合わせるか、一定の文脈の中でのみ使われるので、そういう数を対象として認めているわけではありません。

野矢さんの問題は、多分、数列や級数の極限値を自己流に解釈していることにあると思います。ライプニッツ、オイラー流と言えるかもしれません。つまり、無限和などを実体的、実無限的に解釈することです。これは矛盾をはらんだ立場で、実際、明らかに収束しない級数の和が求まってしまったりします。(ただし、オイラーは数値計算に基づく天才的直観で、実際には間違わなかったそうですが)。そういう事情が19世紀前半に問題にされ、数列や級数の極限値に関しては、いわば
可能無限的な解釈ができることがわかったのだと思います。今のような形に定式化したのはコーシーだそうです。もっともこの時代には、解析のもうひとつの基礎である実数の連続性に関する問題は、認識されてなかったようで、それはデデキンドやカントールによって一応の決着がついたのですが、そこで使われた集合論にまた矛盾が(笑)・・・・・で、三浦さんのご専門につながるわけでしょう。強調しておきたいのは、アキレスと亀とか0.999・・・は、コーシーのレベルで完全に議論できるので、後半の実数論とは切り離して論じられます。

どうも書き出すときりがないので、長くなってすみません。

無限和を実無限的に解釈する、つまり本当に無限回足しつづけると思う、というのは歴史的に先行することからみても、むしろ(日常語としての)直観に近いと言えるかもしれません。これに関して、『他者の声 実在の声』に面白い記述を見つけました:143ページ、ライルのケーキのところで
  ”まずケーキの半分を切り取りなさい。次に、のこったケーキの半分、つまり1/4を切り取りなさい。次に、またその半分、つまり1/8を切り取りなさい。以下同様。”とあり、その後に
  ”1/2+1/4+・・・=1” なのだからとりきることができると主張する人がいるかもしれない。とあって、その見解が、全部とりきることはできない、あたりまえである、と否定されています。それについて野矢さんは、正しい(実無限的な)議論をしているように見えます。問題はケーキの分割と、数の間の関係"1/2+1/4+・・・"と同一視している点です。ケーキは数学的には空間図形なので点集合と考えられるでしょう。一方、1/2+1/4+・・・は数です。現在の数学ではこの二つの概念の間には本質的な差があるのです。

集合論で議論してみます:ケーキを長さ1の線分、閉区間[0,1]とします。最初の段階で残ったケーキは、1のほうから切り取るならば、[0,1/2]、次は[0,1/4]、その次は[0,1/8]となり、どのステップでも切り取られない”全体”は、{0}という一点のみからなる集合となり、確かに、なくなるわけではありません。

実は私は2chの議論で、集合論的0.999・・・≠1の証明と言うジョークで同じようなことをやっているので、再録します:

1メートルの間隔を最初90センチ、次に9センチ、と前回の1/10になるようにペンキで塗りつぶしていきます。”何回目かにステップで塗りつぶされる全体”は、区間 [0,0.(9がn個)] 全体の和集合となり、これが0.99・・・というのはもっともらしいけれども、それは半壊区間 [0,1)であり、1に相当する閉区間 [0,1]とは異なる

こういうことになったのは、ケーキとかペイントされた部分そのものは点集合なので、じっさいに無限の演算、和集合とか共通部分、が可能なのに対して、数では無限は有限和の極限としてしか捕らえられないと言う差が原因です。

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無限小  投稿者: φ  投稿日:12月13日(火)02時08分37秒
 立場と主張の間に矛盾があるとそりゃ問題ですよね。

 しかし数学というのは、人間の直観にとにかく反するように出来ているようで、それを快いと思うか、不快と思うかが数学好きと数学嫌いを分けるような気がします。  美の問題にも繋がっていて、醜い前衛美術のようなものを喜べるか、美しい古典芸術だけに審美眼を限定するか、という寛容度とも関係があるような。ただ、数学者や物理学者の言う「美」はむしろ古典的な美なのでしょうが。

 無限小とゼロの違いというのは私は昔からわからなくて、
 昔どこかで、数直線(線分)からランダムに一点を選んだとき、あらかじめ特定した実数に当たる確率は無限小ではなく厳密に「ゼロ」だと聞いたことがあります。そんなのは私も疑義を挟みたくなってしまいますけれどね。(数学的にランダムに選ぶという意味もよくわかりませんが。物理的には、厳密にただ一つの数に当たる選び方など事実上出来ないというのは理解できますが――)

 無限小というのは無限大よりさらに理解しづらいような。
 野矢さんもそのへんで混乱しているんでしょうかね……。

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(無題)  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月12日(月)21時41分19秒

帰宅途中のフリー無線スポットであわててノートパソコンから書き込んだら、変な風になってしまった。タッチパッドは誤操作しやすくて・・・(笑)

{1-1/(10^n)=0.9・・・9}というこの上ない無限数列



{1-1/(10^n)=0.9・・・9}というこの上なく具体的な無限数列

と書くつもりでした。

ついでに書くと、ライプニッツの現代化と言われる、無限大、無限小の数を数学的対象として認める超準解析(non-standard analysis)という数学があってそこでなら、0.999・・・≠1という”気分”を表現できるかもしれません。1より無限小だけ小さい”超実数”を0.999・・・と言うことにすればよいのです。それに、そういう超実数はたくさんあるので、不定の数という気分も表現できるかもしれません。ただしこれらは超実数であって実数とは区別されるものですし、超準解析でも、普通は”通常の数学の定理はそのまま成り立つ”という原理に従って議論するので、やはり0.999・・・=1になると思います。もうひとつ問題なのは、超準解析は私の知る限り、ツォルンの補題を使うなど、激しく集合論的、実無限的なので、野矢さんの立場には反するものなのです。

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(無題)  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月12日(月)20時57分4秒

野矢さんの本は数学的には突っ込みどころが多すぎて・・
その内ブログに書いていこうと思いますが
今のところ、はっきりと何が言いたいのかよくわかりません。
あ、ウィトゲンシュタインにしても野矢氏にしても心の哲学については別に悪くはないと思いますが・・・

あまりよく知らないのですが、直観主義はいろいろ立場があるみたいですが、基本的には具体的に構成できない数学的対象を拒絶するものです。したがって、通常の数学の部分集合になるはずで、矛盾する結果が出ることはありえないと思います。極端にストイックplな立場では、、0.999・・・という表示を認めない、という可能性もありますが、それを認めたうえで1とは異なるということはないと思います。まあ、直観主義といってもできるだけ多くの数学は救済したいわけで、{1-1/(10^n)=0.9・・・9}というこの上ない 無限数列を数学的対象と認めるとは思いますが。
今、手元に
Principles of Intuitionism, A.S.Troelstra, Springer lecture notes in Mathematics 95
という本を図書館から借りてきてあるので、もう少しちゃんとしたことがわかったら、また返信させていただきます。
Princi

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>中高年数学者さん  投稿者: φ  投稿日:12月12日(月)03時49分37秒

ブログ拝見しました。
で、あわてて『他者の声 実在の声』をひっくり返して、部分的に読んでみました。

驚きましたね。
これじゃあ、これから野矢さんのことが信じられなくなってしまう。困ったぞ……。

〈ものわかりの悪いこと=哲学的に深いこと〉という変な風潮が流行っていて私も困ってるんです。
それで例えばこの↓論文も書いたわけですが。
http://russell-j.com/nanmon-c.htm

いずれにしても
0.99999……≠1とはゆゆしき問題ですから、これを知り合いの哲学者らに投げて、意見を聞いてみようと思います。(野矢さんだって私の知り合いの一人ではあるわけですが……)

『他者の声 実在の声』まだ読んでなかったもので、貴重な情報、ありがとうございました。間違いというより、確信犯的な間違いということか……? しかし間違いは間違いですね……。

それにしても、0.9999……≠1とする数学的立場はあるのでしょうか。
直観主義がそうなのですか?

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ありがとうございます  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月12日(月)02時35分14秒

生活が不規則になって、こんな時間に目がさめてしまいました(笑)
このページをもう一度見つけるに手間取って、御礼が遅れてしまいましたが、
φさん、慧遠(EON)さん、文献を教えていただいてありがとうございます。

私の美学に対する関心は、数学者の業績に対する評価基準とか数学的対象に関する表現に、実際に美とか美学のカテゴリーに属する言葉がよく出てくるのですが、そこでいう美は美学ではどう扱われるのかということが元になっています。少なくとも近代の美学は感覚と密接な関係があるようで、今一歩ぴったりしたものがないと思っていました。講座・美学の第1巻の最初の簡単な美学史のところを見ると、プラトンやアリストテレスには理論の美なども含まれているのですが・・
文献はさっそく入手して読んでみようと思いました。

まったく別の話ですが、最近、野矢氏の”他人の声 実在の声”を眺めたのがきっかけになって、
ブログを始めてしまいました。よろしければご覧ください。
リンク先の、数学者の素人哲学です
http://mathpl.exblog.jp

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>終末論法  投稿者: φ  投稿日:12月12日(月)00時23分56秒

■例1■ 「世紀ごとに人口は増える」というのは最近の2、3世紀の特殊事情にすぎない。近々、減少に転ずるか絶滅するかが確からしいというのが終末論法。
■例2■ 「私より前に生まれる人達よりも、私を含めて私より後に生まれる人達が【極端に】多数派である」ことはなさそう、というのが終末論法。なにせ、私より前に生まれた人は確定しているが、あとに生まれる人は未確定なのだから。
■例3■ 「未来にも私が生まれえた」というのは、未来に誰かが生まれるなら必然的真実。つまり未来に生まれる人々もそれぞれ「私」であり、そちらが多数派なら、この私もそれらの「私」たちの一員であったはず。

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終末論法  投稿者: ハム  投稿日:12月11日(日)11時59分52秒

慧遠(EON) さん
「循環論法の原理」では、ゲーデルの決定不可能な論理式を構成できない、ということですね。
タイプ理論は、一階述語論理に埋め込むことが出来るので、決定不可能な論理式は構成できる。
そして、不完全性定理の結論からタイプ理論は不完全である、ということでしょうか。
ラッセルはタイプ理論では不完全が残るので、「循環論法の原理」で回避しようとした、ということですね。

φ様
「論パラ」の終末論法ですが、私は面白い詭弁だと思っていました。
これを否定することはいくらでも可能だと思います。
思いつくままに挙げてみます。
例1 私はどの世紀に生まれるとしても常に多数派である。
   (世紀ごとに人口は増えるという経験的事実)
例2 私より前に生まれる人達よりも、私を含めて私より後に生まれる人達が多数派である。
   (人口の数え方によって多数派の意味はいくらでも変えられる)
例3 未来にも私が生まれえたかのような暗黙の前提の誤り。
   (私が未来に生まれることは不可能である!)

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内包構造、忠誠  投稿者: φ  投稿日:12月11日(日)01時27分48秒

 慧遠(EON)さんありがとうございます。むかし、永井成男訳でカルナップを読んだころ、「内包構造っていったい何だ?」と訝しく思ったのを思い出しました。主な導入モチーフは、分析的命題がすべて同一だとすると、内包的文脈に代入したとき真偽の相違が生じてしまうことへの対応でしたね、たしか。
 結局は内包構造って言語表現のことだろ? と感じたのを覚えていますが、今でもその印象はあまり変わりません。――「独身者」という概念を知っている人の集合は、「適齢期以上の未婚の人」という概念を知っている人の集合と正確に同一なのであり、ただしそれぞれの言葉を知っている人の集合は一致しません。したがって、概念の定義は、情報価値(事実情報だろうが論理的情報だろうが)からすると無駄であり、言葉の定義は、情報価値として有効でしょう。分析のパラドクスは、認識論に絡めたとき初めてパラドクスになるので、概念の認識と言葉の認識とを分ければ、問題なかろうというのが私の考えです。これはもっと論議の要ありかもしれませんが。

 なお、ラッセルは、フレーゲの二元的意味論を批判して、とりあえず外延(固有名の指示対象)へと一元化し、それが次第に内包(命題関数)の一元論へと分析されていった、という流れでしょうか。『ラッセルのパラドクス』にも書きましたが、最終的にはラッセルにとっては、論理的原子として残ったのは個物ではなく、関係という普遍のみだったようだからです。

 …………………………………………
 問32〈忠誠のパラドクス〉は、本当は記号化して考えるとわかりやすいのです。
 『論理パラドクス』の草稿には、出版したした本に使わなかった部分がたくさんありますが、「忠誠のパラドクス」に続く問題(未使用)を、ブログの以下のページ↓にコピーしておきました。ご参考までに。
http://green.ap.teacup.com/miurat/512.html#comment

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書いた側から・・・。  投稿者: to  投稿日:12月10日(土)16時11分4秒

 問26の私の答えですが、心と身体が独立に存在することができないことを主張するとそもそも交換できないことになってしまうことに気がつきました。この問題はまた後日解答させていただきます。

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問26、31、32  投稿者: to  投稿日:12月10日(土)16時05分27秒

 お久しぶりです。こんにちは。今回もよろしくお願いします。

 論パラ・問26
 心は身体から独立に存在することはできないため、このマシーンが心のみを交換することは考え難い。よって、このマシーンは身体交換機である。

 同著・問31
 一つ目は台所に行けば水を飲むことができるという確信。二つ目が水を飲むことを実現するための知識。

 同著・問32
 ある概念が普遍化されたとしても、概念の細かい意味内容まで普遍化されるわけではない。

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分析のパラドクスとカルナップの解法  投稿者: 慧遠(EON)  投稿日:12月10日(土)02時30分40秒

「分析のパラドクスとその解法」問題についての私の知識は、永井成男先生(の本)からの受け売りにすぎない程度のものですから、詳しくはありません。そのもともとの由来がラングフォードなのか、ムーアなのかはわかりませんが、永井先生の説ではラングフォードとされていましたが、それは彼のムーアの哲学についての著作[C.H.Langford,"The Notion of Analysis in Moore's Philosophy", P.Schilpp (ed), The Philisophy of G.E.Moore, p.321--p.342]が出典です。
この問題についての(「分析的に真な文という概念は内包的意味論の枠内ではじめて定義される」との立場をとる)カルナップの解法は、分析項Aと被分析項Bとの「同義」という用語を意味論の視点から「内包の同一」と「内包構造(=内包的同型)の同一」に区別するものです。すわわち、被分析項の「B」は分析項の「A」と内包は同一(同義)であるが、内包構造(=内包的同型)は異なる(異議)とするもので、よって「AはBである」を同じ内包構造(=内包的同型)のままで(=同義的に)、「AとはAである」に変換することはできないのであり、そしてその分析がトートロジーにならないようするには、分析項の「A」は被分析項の「B」と異なった内包構造(=内包的同型)として異議性を持っていなければならないが、同じ内包を持っている同義(=論理的等値)性として分析は正しいものであるとするものです。
この内包構造の定義(但し、ここでは厳密ではないが)とは
{定義1] SiはSjと同じ内包構造を持つ=Df. SiはSjと同じ内包を持ち、そしてSiはSjは次の二条件を満たす部分表現からなる。
 (1) Siの部分表現は、Sjの部分表現に対し、一対一の対応関係にある。
 (2) Siの部分表現は、それに対応するSjの部分表現と同じ内包を持つ。
なを、永井先生は上の定義から「同じ論理的情報」という新しい定義を導きます。
{定義2] SiはSjと同じ論理的情報を伝える=Df. SiはSjと同じ内包構造を持つ。
これにより、全ての分析的言明は同じ内包を持つから「空の事実情報(量)」しか伝えないが、しかし必ずしも同じ内包構造を持っているとは限らないので、異なった内包構造を持つ分析的言明は異なった論理的情報(量)を伝えるとされます。

仮に、三浦先生の「言葉の定義」と「概念の定義」をカルナップの考えに近づけて考えると、このようなカルナップの「内包」と「内包構造」の区別は、「言葉の定義」と「概念の定義」の区別に対応するとも考えられますが、そこのところは私には判断がつきません。と言うのも、(内包的意味論では)「概念」とは「言葉の定義=内包」であり-----そして、「表現はその用法の種類を完全に(もっとうまく言うと、一義的に)規定するそのような規則体系によって初めて概念になるので、我々は、それ故、『概念』を『その用法を記述する規則体系を伴った表現である』と、確定することができる。この種の規則体系がなければ、我々は単なる語に固執しているのである。」(W.K.エスラー)と言え-----ますので、三浦先生の説明の中の「概念(=内包)の定義=分析」とは、その「(言葉の)定義=内包についての定義=説明」と言え(その点で形式的表現のタイプを異にしますので)、よって概念=内包についての定義=説明はその「分析」にとっては不要なものだからです。したがって、カルナップの区別を三浦先生の「言葉の定義」と「概念の定義」の区別に対応させることはできないと思われます。
なを、私が推測するところでは、カルナップのかかる区別は、彼の意味論がフレーゲ流の「意義」と「意味」の区別する立場のものであることに密接に関連していると思われます。多分、三浦先生の立場は、ラッセルがフレーゲの「意義」と「意味」の区別を批判して、「意味」のみに一元的に捉える(及び、ある語が何かを意味するなら、その語の意味で何らかの対象が存在しなければならないと言う所観での、語があるものを意味するとは語が対象を表すということであるとする)ラッセル流の意味論だと思われますので、その意味論的観点からカルナップのかかる区別による解法をどの様にお考えなるのかを知りたいと思いました。

以上、私の拙い説明をご容赦下さい。

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(無題)  投稿者: はらたみ  投稿日:12月 9日(金)17時57分40秒

返信有り難うございます。パラドクス辞典たのしみにします。

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RE:  投稿者: φ  投稿日:12月 8日(木)13時47分55秒

 >はらたみさん
インスペクション・パラドクスは、始めに何と何を少数派・多数派として設定するかを決めておかないと、有意義な結論は出せませんね。
 石川県の能登島生まれの人は、「石川県生まれ」「能登島生まれ」などと規定されれば少数派ですが、「東京以外の生まれ」と規定されれば多数派でしょう。自分がどこに生まれたかをあらかじめ知っている人は、後から分類を規定してそれを謎と考える必要はありません(謎とは見えない規定の仕方があるわけですから)。自分がどこに生まれたか知らない人が、自分の生まれを推測する場合は、いかなる規定をしようが、その規定内で多数派だと推測すべし。それがインスペクション・パラドクスの解ですね。だから、「国籍は?」と190分割で問われれば「中国」と推測せざるをえないし、「中国人か否か?」と2分割で問われれば「否」と推測せざるをえない。答えの選択法が違うのだから、そこに矛盾はありません。
 終末論法は無知の領域が逆になっていて、自分の居場所はわかるが、その他がどのくらいのサイズかわからない、だから自分が多数派に属するように全体を解釈する、と。しかしそこに何か罠があるのではないか。私は、終末論法は実は間違っていると考えており考察中ですが、間違いが解明されるまでは、論理的欠陥の見いだせない論法として、かりに正しいと認めておかざるをえないと思っています。

 >慧遠(EON) さん
 分析のパラドクスや定義のパラドクスは、「概念の分析(定義)」と「言葉の分析(定義)」を分ければすんなり解けるというのが通例ですね。分析者は本当は後者をやっているのに、無理に前者と見なすと分析(定義)は不要になってしまう、という。実は今執筆中のパラドクス事典(三部作の諸パラドクスを五十音順に整理し直したガイドブックです)の補足項目(30~40項目くらいを予定)の一つとして、「分析のパラドクス」を既に草稿には書きました。
 分析のパラドクスは、もともとはラングフォードではなくムーアに由来するのでしょう。カルナップの解法というのは今直ちに私の意識に上ってきませんが、やはり概念と言語の区別によるのでしょうか。お教えいただければと思います。

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(無題)  投稿者: 慧遠(EON)  投稿日:12月 8日(木)01時21分13秒

>ハムさんへ
ラッセルについては三浦先生の方が詳しいと思いますが、実はラッセルは「タイプの区別」だけでなく、集合論のパラドックスから意味論的二律背反に至るまで、一連の類似のパラドックスを解決する原理として、「循環論法の原理」(vicious-circle principle)を唱えて、一切の自己引照を禁止する方法を採用していたはずです。
このようなラッセルの原理による立場では、ゲーデルが行ったような「対象言語Lの構文論的メタ言語MをL自身の範囲で構成する」という超数学の算術化も、本当のところ不可能となってしまいます。
「タイプ理論では、ゲーデルのいう「証明可能な論理式」と「論理式」を同じタイプとして扱えるのでしょうか?」との質問ですが、タイプ理論を一階述語論理に埋め込むことが出来るので、ゲーデルの超数学の算術化が可能となります。
そして、タイプ理論の標準的モデルの解釈のもとでは、例えば自然数の集合(この場合個体の全体)は一意的に定まります。そこて、ゲーテルの命題¬Pr[Γ](~q)のことをQとすると、「Qは自分自身の証明不可能性を述べているものだから真な命題である」と言う場合の「真」は、このような素朴集合論的解釈の自然数観に基づいていて、Γ→Qはこの標準モデルで恒真となることです。しかし一方、Γ→Qが階型論理では導けないことを主張するのが、ゲーテルの不完全性定理の結論の一つでした。したがって標準的モデルの意味に於いてタイプ理論は不完全とされます。

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(無題)  投稿者: 慧遠(EON)  投稿日:12月 7日(水)23時21分41秒

三浦先生への質問ですが、ラングフォードが「分析が正しいなら分析項Aと被分析項Bとが同義でなければならない」という「分析のパラドックス」と呼んだものに関して、この問題に対するカルナップの解法についてどの様にお考えでしょうか?

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(無題)  投稿者: 慧遠(EON)  投稿日:12月 7日(水)23時08分6秒

> 中高年数学者さんへ
数学の哲学としての美学というものについては、川野洋著「コンピータと美学」(東京大学出版会)という計算美学の本も有ります。
また、講座美学(東京大学出版会)を読んでおられるなら、講座美学の「第3巻美学の方法」の中に戸澤義夫氏の"4 分析美学"(p.117--p.142)が、一様参考になります。なを、最近出た本としては、金悠美著「美学と現代美術の距離 アメリカにおけるその乖離と接近をめぐって」(東信堂)が「ダントーの裡に乖離超克の営為を探る力作」とされています

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論理パラドクス  投稿者: はらたみ  投稿日:12月 7日(水)20時24分53秒

論理パラドクス・楽しく読み進めています。
今インスペクション・パラドクス、終末論法のところです。以下のようなことを考えました。 私は東京生まれですが、日本で東京に生まれるということは、確率の一番高いことであり、そのことによって自分を平凡な存在と思うことがありました。地球上で、中国やインドの人は、平凡な存在でしょうか?生まれやすいことと平凡ということを一緒にするのは間違いかもしれませんが、しかし石川県の能登島に生まれた人は、そのことによって自分を特別な存在と思うかもしれないが、それを謎にするでしょうか?

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RE:はじめまして  投稿者: φ  投稿日:12月 6日(火)03時13分20秒

 理数系の美学としてはマックス・ベンゼの『情報美学入門』(勁草書房)が訳されており、日本でも川野洋先生その他が開拓されていますが、芸術作品そのものでなく美学的言説の数理論理的分析というのももっとあってよいですよね。義務論理の一分派としての「選好論理」もあるようですが、美的言説への適用はまだまだのようで……。

 私も、ウィトゲンシュタインは、その神秘的な文体に反して内容はきわめて常識的(陳腐)なので、好きではありません。ラッセルのように、文体は端正だが内容はパラドクシカル、というのが哲学の醍醐味だと思ってます。(そもそも人間の本能的常識が真理を言い当てているはずがないので)
 フレーゲももっとブレイクするべきですが、勁草書房が『フレーゲ著作集』でなく『ラッセル著作集』を出してくれていたらもっと売れて、日本の分析哲学熱も今の10倍勢いがあったろうに…などとも考えます。

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はじめまして  投稿者: 中高年数学者  投稿日:12月 6日(火)01時59分32秒

ファイさん=三浦さん ですよね?
最近、”ラッセルのパラドクス”を買って読み始めました。
分析哲学には結構前から興味を持っているのですが、とくに日本の分析哲学者の
一部のウィトゲンシュタイン崇拝的な雰囲気には違和感を覚えていました。
ラッセルやフレーゲのような真の創始者の業績がむしろ影が薄くなってるような・・

そこでこういう本が出たのはうれしいですね。

最近は美学にむしろ関心があって、講座美学などをぼちぼち読んでいます。
数学の哲学としての美学というものは考えられないか?

とりあえずご挨拶まで、ちなみにロジシャンではありません。

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>問29、30  投稿者: φ  投稿日:12月 2日(金)01時33分25秒

 ①②は、本書解答のとおりですね。

 義務と欲求は当然異なりますが、「義務に従いたい」という欲求は当然あり、それ自体は義務ではなく、欲求です。(なお、「論文を書く」のような「義務」は、自らそれを義務とする文脈を自由に選び取るのであり(たとえば卒業せねばならないとか)、その義務を選ぶことそのものがあらかじめ義務であったとはかぎりません。卒業を放棄すれば、義務は発生しませんでしたから。

 任意の文はいくらでも鏡像的に反復形式に直すことができます。同一の命題を無数の文で表現できるので、これは当然のことです。

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問29、30  投稿者: to  投稿日:12月 1日(木)20時09分25秒

 12月に入りレポート類が多くなる季節になりました。少し、期間があくことがあるかもしれませんが続けていくつもりなのでよろしくお願いします。

 ①論パラ問29

 矛盾している。理由は以下です。早く時間が経つことは、寿命という期限が人間にある以上、より早く死ぬということを意味し、他方、健康に気をつけることは寿命という期限の延長を意味するから。また、両方とも本人が願っている以上、矛盾しているとはいえ本心である。

 ②問30

 A,Bともに間違っていない。『論文をしあげなきゃ』という文は本人の欲求ではなく義務感を表している。また、『ゲームをしたい』という文は欲求を表している。よって、AともBとも反していないことになる。

 余分ですが、義務は論理的に導き出されるものであり、欲求は論理のように前提を必要としないように思われます。先生はどうお考えですか?よろしければ、教えてください。

 ③ギーチに関する質問

 Aから起こる繰り返しは何を意味しているのでしょうか。

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>キャロル、ギーチ  投稿者: φ  投稿日:11月29日(火)03時28分37秒

 ①「自明」は、直観で定義される概念なので、論理とは正反対の論拠ですね。
ゆえに、「自明」を表に出さない方が無難。本書解答のように、「規約で決めるべし」というのが論理の趣旨に合っています。その裏には「自明だから」という理由がありますが、それは因果的な源にすぎず、建前上は「こういうルール!」と問答無用に仕立てる。これで、無限後退がシャットアウトできます。

 ②繰り返しの形に翻訳できる文は、何も意味していない、と言えるだろうか。
 たとえば、Aは、 T→A と翻訳できます。(Tは必然的に真なる文)
 すると、Aは T→A なので、代入すると T→(T→A)となる。
 この繰り返し。
 しかし、だからといってAは無意味、とはならないのでは?

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ルイスキャロル、ギーチのパラドクス  投稿者: to  投稿日:11月28日(月)18時46分45秒

 返信ありがとうございます。矛盾律と排中律に関してはまた思いついたら書き込みます。

 ①論パラ(長いので略させてください)問24「ルイスキャロルのパラドクス」

 論証の中に3を導入した時に間違えた。理由は、この規則自体があまりにも自明なものだから。

 ②同著、問25

 そもそも命題として成立しない。理由は以下です。A:「今年中に戦争が起こる」とする。
すると命題はP→Aになります。ここでP:「P→A」であるから、命題は(P→A)→Aとなり、さらにP:「P→A」であるから{(P→A)→A}→Aとなりこれを繰り返す。よって、命題は何も意味していない。

 前回以上に不安のよぎる解答ですがよろしくお願いします。

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>矛盾律、排中律  投稿者: φ  投稿日:11月26日(土)03時10分10秒

①…… 本文解答のCに相当しますね。
②…… 大統領はいないからといって、大統領が禿であるとは言えない。
    大統領はいないからといって、大統領が禿でないとは言えない。
    ――すると、見かけ上、排中律が破れてしまいます。
    正解は、解答本文に書いたとおり、「文全体の肯定と文全体の否定を並置すべし」です。その時、一方は必ず真、他方は必ず偽となります。

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矛盾律、排中律  投稿者: to  投稿日:11月25日(金)17時46分18秒
 ありがとうございます。ぜひ、反問もお願いします。

 ①『論理パラドクス~論証力を磨く99問~』(二見書房)の第二章・概念分析の部門、問21「矛盾律」

 これは架空の事柄と事実の事柄を比較する過ちをおかしているため、矛盾律の反駁にはならない。

 ②同著、問22

 存在の否定(大統領はいない)は属性の否定(禿であること)にならない。よって、大統領はいないからといって、大統領が禿であるとは言えない。以上より、排中律の反論にはならない。

 書いたそばから不安が胸をよぎるような解答ですが、よろしくお願いします。

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>質問  投稿者: φ  投稿日:11月24日(木)22時16分57秒
「質問してよいでしょうか」という質問ですね。
 なかなかパラドクシカルな。

 どうぞ、何でも書いてください。お答えさせていただきます(場合によっては反問も)。
 この掲示板を「卒業」して個別にeメールへ移行する人もおられますが、一つといわずいつまでもここでやってくだされば、他の方々の参考にもなってよいかもしれません。

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質問  投稿者: to  投稿日:11月24日(木)18時22分50秒

 はじめまして。私は先生の著作『論理パラドクス』を読んでいる学生です。一つお聞きしたいことがあるのですが、この掲示板で私の解答に対するご意見をいただくことはできますでしょうか?お返事お待ちしております。

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文献検索  投稿者: φ  投稿日:11月22日(火)01時32分31秒

雑誌か単行本か不明の場合は往々にしてありますが、西暦と、VOL.、そして記事タイトルなどとにかく忠実に書いて出せば、ある程度見込み記載でも図書館が調べてくれるはずです。日本国内にない場合は業者にまわされるようですが、どのみち入手できなければ料金はかかりませんしね。

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ありがとうございまいした  投稿者: zou  投稿日:11月21日(月)01時23分10秒

teaching philosophyという雑誌の古い目次を見つけることができず,その雑誌なのかどうか分からなかった(同名の書籍が他にもあった)ので,探しあぐんでいましたものですから ありがとうございました

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ラッセルの  投稿者: ハム  投稿日:11月20日(日)12時09分49秒

ゲーデル論を探してみましたが見つかりませんでした。
ラッセルはパラドックスの解決というよりも、有意味か否かに興味を持っていたようですね。
パラドックスは無意味だということでしょうか。

「・・与えられた語の列が有意味であるか否かを判別する確定的な諸規則を与えようとする試みはなされなかった。タイプ理論は、まさにそれを可能にする。」(数学の原理)

慧遠(EON) さん
タイプ理論では、ゲーデルのいう「証明可能な論理式」と「論理式」を同じタイプとして扱えるのでしょうか?
ここにちょっと疑問があります。
ラッセルに、それらの集まりをナンセンスであると宣告する、などと言われないでしょうか?

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複写サービス  投稿者: φ  投稿日:11月20日(日)03時54分0秒

 あの論文はパラドクスの教育的意義を説いていてなかなか教えられました。

 日本にいれば、ほぼ全世界の出版物を参照する便宜に浴することができます。
 たとえば、大学図書館の文献複写サービスを利用する。
 大学に縁がなければ、知り合いの大学勤務者か学生に頼んで、図書館カウンターで文献複写依頼を出します。雑誌名、論文タイトルがわかればOK。(頁がわかればなおよい。Cohen論文はpp.309-317)。
 国内にない雑誌の場合でも、一週間ほどでコピーが届きます。
 最近利用してないので変わっているかもしれませんが、費用は10頁ごとに1500円、という程度だったと思います。(もちろん、国内にある文献の場合はもっとずっと安く、一枚(=2頁)あたり30~40円です)

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teaching philosophy  投稿者: zou  投稿日:11月19日(土)18時29分22秒

初めまして 哲学教育に興味を持っているものです

三浦先生の御著書でDaniel Cohenという人の"Putting Paradoxes into Pedagogical Use in Philosophy" Teaching Philosophy 8 (1985)という論文(雑誌?)が少なくとも二回は言及していますが,この本は日本ならどこで参照できるでしょうか 勝手なお願いで申し訳ないのですが,もし参照できるところがあれば教えていただけると嬉しく思います・・・

また,影のパラドクスもとても面白くてここしばらくずっと考えています

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階層  投稿者: φ  投稿日:11月19日(土)02時26分2秒

 場所は見失ってしまいましたが、どこかでラッセルは、ゲーデルの定理はタイプの区別によって説明できるだろう、のようなことを書いていました。
 これはべつに、不完全性定理がタイプの区別によって成り立たなくなる、という意味ではなく、決定不能な命題というのは一段上の階層では決定可能になりうる、というほどのことだったかと。
 タイプ理論というよりは、対象言語-メタ言語の区別の階層概念に近いのかもしれませんが。

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タイプ理論とゲーデルの不完全性定理  投稿者: 慧遠(EON)  投稿日:11月18日(金)02時42分56秒

無矛盾な公理体系Sがタイプ理論を用いているとしても、タイプ理論は一階の述語論理に埋め込むことができるがゆえに、タイプ理論の標準的モデル(いわばタイプに対する素朴集合論的解釈)に於いてもゲーデルの不完全性定理はすべて成立します。

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ありがとうございます  投稿者: 分析哲学好きの学生  投稿日:11月 9日(水)18時35分31秒

 紹介いただいた本取り寄せて読んでみることにします(たしかにめちゃくちゃ楽しそうです)。ルイスも随時読んでいきたいと思います。ありがとうございました。小説のほうも楽しみにしています。

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RE:はじめまして  投稿者: φ  投稿日:11月 9日(水)03時30分16秒

Metaphysics: The Big Questions という本が結構お薦めです↓↓
(計56本の論文タイトルを眺めているだけで嬉しくなるじゃありませんか!)
この本から芋づる式に、文献を渉猟できます。

個人名で言うと、やはり存在の哲学者はラッセルですが、20世紀後半以降では、オールドファッションな形而上学者といったら、DAVID LEWIS に尽きると私は思います。
 現存の哲学者ではどうでしょうか、私も偏った読み方しかしてないのでガイド役は不適任ですが、
①様相論理学の教科書
②現代宇宙論の啓蒙書
はどんなものでも、即、哲学的に高度な存在論的思索を含んでいるのではないでしょうか
。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0631205888/qid=1131473920/sr=1-1/ref=sr_1_8_1/249-5075437-3752313

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はじめまして  投稿者: 分析哲学好きの学生  投稿日:11月 8日(火)20時52分14秒

 はじめまして。分析哲学に興味を持っている学生です。三浦先生の著書をいくつか読み、検索を経て、ここに至りました。よろしくお願いします。先生の本は、「虚構世界の存在論」を図書館で発見して、とてもユニークな本だなと思い、続けて「可能世界の哲学」と「論理学入門」を読ませていただきました。論理学を学んでいるので、両所とも実にタイムリーな本でした。新著も同様にラッセルの記述理論以後の哲学的な展開が細かく整理されていて、とても勉強になりました。
 個人的に、分析哲学の議論では、言語哲学以外の領域が好きなので、先生の本は専門外の人間にはとても興味深いです(ホームページの論文も含め)。とりわけ、存在論、形而上学に強い興味を覚えます。かといって、大陸系の叙述では味気ないので(好きですが)、論証を旨とする英米系の分析哲学での存在をめぐる議論のほうに興味が向くのですが、他の言語哲学や心の哲学、科学哲学などとは異なり初心者にはいまいち近づき難い領域です。認識論や言語哲学、科学哲学、論理学などと複雑に絡み合っているような印象を覚え、なかなか核心には至らないような感じです。先生の本でも部分的に存在論関係の話題が出てくるのですが、もっと全面的に展開された議論を読みたいです。
 そこで、質問なのですが、現在の分析哲学では、存在論、形而上学はどのように扱われているのでしょうか。また、どのような種類の問題があるのでしょうか。よろしければ簡単にでも人名や読むべき本などを教えていただければ嬉しいです(ちくま書房の「英米哲学入門」が「存在」に絞って書かれていたのでそれを読み、最低限の人名パトナム、クワインなどはなんとか把握しました)
 また、論理学と存在論の関係にも興味があります。幾何と物理学(相対論)の関係のように、論理学と世界の側の関係がどうなっているのかなど。日常言語と世界の側の関係や命題と世界の側の関係(意味論?)ではなく、論理学と世界の側がどのような関係にあるのか知りたいです。存在論への興味もこのあたりにあるのかと思います。
 唐突に現れ、一方的に質問を投げかけてすみませんでした。ご多忙でしたら、そのまま流してください。では失礼します。

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安定状態  投稿者: φ  投稿日:11月 6日(日)00時45分37秒

恒星間空間を旅したということは、すでにハビタブルゾーンに制約されない文明ということです。各恒星系内の、地球型惑星・衛星にのみ居住していると考えるのは不自然。かりに各恒星系のハビタブルゾーンから始めたとしても、そこに限定されている初期状態は不安定であり、すぐに恒星系全体にあふれてしまいます。地球人類が温帯にだけ限定居住していた時代が短かったように、現在、銀河クラブが地球型惑星・衛星のみ選んで植民しているなどという確率は極小でしょう。

 ゲーデルのラッセル論は勁草書房『数学の哲学』で手軽に読むことができます。

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「一惑星の千億×数百倍」?  投稿者: ハム  投稿日:11月 5日(土)18時33分14秒

って、いくらなんでも数えすぎですよ。

太陽系で我々が居住できそうなのは、金星、火星、他の惑星の衛星ですから多くても10個程度。
全ての恒星が惑星を持つわけではないらしいのですが、おまけで計算しますと、
銀河クラブ加盟星は、恒星千億個×居住可能星10=1兆個です。
宇宙ステーションまで数えちゃいけません。

孤立文明の方は、銀河内に10個と見積もるとして銀河数を千億とすると、1兆個。
これだと我々が孤立文明に生まれるのは偶然だということになりそうですよね。

ラッセルがゲーデルをどう考えていたかには興味がありますね。
『ラッセルのパラドクス』でも触れていましたが、ゲーデルはラッセルに批判的だったようですね。

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千億:1  投稿者: φ  投稿日:11月 3日(木)02時32分29秒

「決定不能命題はタイプ理論では構成でき」るか否かという、その意味がわかりませんので、保留にしたほうがよさそうです。
 ラッセル『私の哲学の発展』に、ゲーデルの名が一度だけ出てきて、それがタイプ理論がらみだった記憶があるので(ただし、索引をみるとゲーデルの名が出ていないので確信はない)、参照してみられたらよいでしょう。

 銀河には恒星は平均千億個。宇宙の地平線内に銀河クラブが一つあるとして、銀河内の多くの惑星を居住用に改造し宇宙ステーションも作るとして少なくとも一惑星の千億×数百倍の居住地域に広がる。
 他方、宇宙の地平線内に銀河は約千億個のオーダー。孤立文明は、ハビタブルゾーンにある惑星のうち多くに生じたとすると不安定性により銀河クラブへ広がってしまうので孤立が保たれるためには銀河1個につき最大限10個程度として、最大限、約千億×10個程度の惑星に生じうる(ホントに多すぎる見積もりですが)。
 こうして、銀河クラブのほうが多数派を占めるという推定ができます。
 ところが、観測事実からして、私たちは銀河クラブにいないので、以上の推定は背理法で否定される。つまり、銀河クラブなど無さそうだということになります。

 孤立文明は、地球型惑星の表面から離れられないのに対し、銀河クラブの成員はもともと進化不能・居住不能な空間を利用できるので、銀河:恒星=1:千億というハンディなど軽々と逆転してしまいますよね。
 譬えはちょっとずれるかもしれませんが、世界中でどれほど多くの孤立実験室でバクテリアを養殖しても、自然界のバクテリア総数には到底かないっこないのと同じことですね。

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アンドロメダ銀河  投稿者: ハム  投稿日:11月 3日(木)00時39分24秒

までは約230万光年らしいので銀河間にまたがった殖民は困難ですよね。
で、「どこかの銀河系に銀河クラブが1つ」あったとして、銀河の数は200万?といわれていますから1/2000000です。
その銀河クラブの人口が、他の200万の銀河の人口より多いとはいえないと思います。

タイプ理論:
その決定不能命題のことです。
ゲーデルは、決定不能命題の構成法は任意の形式的体系に対して明確に適用することができる、と述べたそうです。
が、決定不能命題はタイプ理論では構成できないのでしょうか?
話が専門的になるようでしたら、この話は取り下げます。

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不安定  投稿者: φ  投稿日:10月31日(月)00時47分29秒

「孤独な小規模文明が人口の多数派を占めている状態」が安定であるためには、銀河植民をする文明が★1つもない★ことが必要です。1つでも好奇心や人口爆発や資源枯渇によって植民に乗り出す文明があれば、「孤独な小規模文明が人口の多数派を占めている状態」は崩れます。
 よって、この銀河系にも他の銀河系にも「多数の孤立文明」はなさそうです。
 すると、どこかの銀河系に銀河クラブが1つでもあれば、それこそが宇宙全人口の大多数を占めることになりそうです。
 すると、私たちはそこに生まれているはずです。
 実際はそこに生まれていないのだから、全宇宙を見ても、銀河クラブはおろか小規模文明すらほとんどない、という結論になります。
 おそらく、地球文明が、宇宙人口の大多数を含んでいるのでしょう。

 不完全命題とは聞き慣れない言葉ですが、決定不能命題のことでしょうかね。
 タイプ理論の可否とゲーデルの定理とはとくに関係ないと思いますが。

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例えば、  投稿者: ハム  投稿日:10月30日(日)23時54分27秒

我々が他の惑星に興味を持つのは殖民ということではなく、生物がいるか? という興味です。
アメリカ大陸への移民も現状に不満があるから新天地に活路を見出そうとするわけです。
社会が高度に成熟し豊かになると人口は減ってきます。
女性が結婚しなくなるからです。
「孤独な小規模文明が人口の多数派を占めている状態は、安定ではない」というのは我々の例からは考えにくい、ように思います。
それでも、今後は月や火星に基地を作っていき、他の太陽系まで行きたがる人はいるのでしょう。
だとしても話は銀河系内だけです。

ゲーデルが示した不完全命題の構成方法は、自然数が表現できる体系で成立するのですよね?
タイプ理論で自然数が表現できるのならば、不完全命題が構成できてしまうはずだと、思ったのです。

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解決されない(?)  投稿者: φ  投稿日:10月30日(日)02時02分28秒

 「孤独な小規模文明が人口の多数派を占めている状態は、安定ではない」とは、多数の小規模文明の★全て★が、恒星間~銀河横断植民に至らずにとどまっている確率はほぼゼロ、ということです。そしてたったひとつでも、銀河横断植民に乗り出す文明があれば、銀河クラブができてしまい、地球もそれに呑み込まれているはず。
 10万年は、銀河の年齢(正確には、文明成立が可能な期間)に比べればほんの一瞬。現在がたまたま銀河クラブ拡張途上にあたり、地球はまだ呑み込まれていない、という確率は、極めて低い。
 ゆえに、現在、孤立文明が多数あるという確率は低い。

 他方、かりに現在は孤立文明が多数なくとも(そして銀河クラブがなくとも)将来はあるようになる、というのも、終末論法で確率的に否定されます。

 ところで、「パラドクス(不完全)が解決されないことはゲーデルが証明してしまいました」の意味がわかりませんでした。
 「パラドクス(不完全)」という句も、「ゲーデルが証明してしまいました」の内容も。

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フェルミ?  投稿者: ハム  投稿日:10月29日(土)18時14分28秒

のところの論証もそうなのですが、宇宙時間が考慮されていないわけです。
話を銀河内に限ったとしても、銀河の直径は10万光年ですから、観測するのに最大で10万年かかります。
ですので、銀河クラブの観測事実がないというのは10万年前までの事実なわけです。
そういう前提で、地球はほぼ唯一といえるわけです。

また、銀河クラブの成立も、隣の太陽系までは約30光年ですから、行ってから報告するのに60年以上かかります。
銀河クラブ員同士の連絡には常に60年以上かかるわけです。
地球外知的生命が我々と同じ多数派ならば、こういう銀河クラブを作ることは困難です。

こういう前提で、「地球はほぼ唯一というに等しい稀な文明である」といえると思うわけです。

『ラッセルのパラドクス』は読了しました。
今回は一気に読めました。
「犬は、吠える」というのは、タイプ理論上で真ではないということなのですね。
このタイプ理論ですが、パラドクスを解決するために考え出されたものらしいのですが、
パラドクス(不完全)が解決されないことはゲーデルが証明してしまいました。
タイプ理論の意義はパラドクスの解決ではなく、分析にあるのか? と思っています。

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re:あの論証は、  投稿者: φ  投稿日:10月24日(月)22時46分53秒

 孤独な小規模文明が人口の多数派を占めている状態は、安定ではないので、確率的に低い、ということも「フェルミのパラドクス」のところでたしか述べました。
 孤立文明がたくさん生じた場合、安定状態(最も時間の長い状態)は、先進的ないくつかがほとんどすべての文明を併合した後の「銀河クラブ」状態です。それが現に実現していないということは、「孤立文明がたくさん」あることはない、地球はほぼ唯一というに等しい稀な文明である、ということになります。

 なお、「(この)犬は吠える・存在する」については、じつは吠え甲斐というか、ツッコミ甲斐のある問題だと我ながら思います。
 ラッセルの哲学自体がツッコミどころ満載なのに加え、私の解説が必要最低限のデフォルメゆえにラッセル哲学の第一近似でしかないのです(ただしトポロジーは正確に保持しています)。
 と、二重の意味でツッコミ可能な犬問題その他なのですが、論理的には正しいはずであり、ラッセルの言い分も、一見変なだけで、結局は正しいのですね。
 そんなあたりが伝えられていれば、という『ラッセルのパラドクス』でした。

 ◎なお、このすぐ下にあった「国民精神高揚運動連絡会 投稿日:10月23日(日)21時12分2秒」さんは削除させていただきました。
 戦争関連バナシ大好き人間の私ですが、同じ文章をスパムメールまがいにコピペされても張り合いナシなので。

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あの論証は、  投稿者: ハム  投稿日:10月23日(日)18時21分39秒
私たちが多数派であることから超巨大文明なるものを排除されたわけですが、
私たちが多数派であることから地球外知的生命も我々と同じように宇宙では孤独な多数派だろうとはいえますよね。

ラッセルの本を出されたのですね。
早速購入しました。
「この犬は、吠える」、「犬は、吠える」、これは片方しか真でないとおっしゃる。
またまた吠えがいがありそうで期待しています。
カラスは黒い、みたいなやつなんでしょうか?
あっ、答えはいわないでください。
楽しみが半減しますので。
では、読み終わりましたらまた参上します。

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RE:宇宙全体の論証  投稿者: φ  投稿日:10月23日(日)01時03分24秒

「すべて種類がバラバラで、多数派の球というものが無い場合は別」
 ↑前回〈穏健な常識〉でこう述べたように、各々少数派の孤立した文明の人口を全部合わせると多数派になる、という場合(つまり巨大文明があってもそれが全人口の多数派を占めない場合)、私たちが地球という孤立文明に生まれたことは不思議ではありません。
 しかし、諸孤立文明の人口を合計したよりも多数の人口を擁する巨大文明があるという仮説は、私たちが小規模な孤立文明に生まれているという事実によって、反証されます。
 前も書いたとおり、P.196の論証は、小規模な地球外文明を排除するものではなく、あくまで銀河クラブのような超巨大文明を排除する論証です。(これに対し、第23節の論証は、小規模な地球外文明もありそうにないことを示しています)

 それから、P.196の論証は、100億光年かなたの超巨大文明(全人口の多数派を占めるような)は無いであろうことを示しています。もしあったら、私たちはそちらに属していることを自ら観測するはずだからです。超巨大文明が観測できていないということこそが、「超巨大文明があれば私たち自身そこに生まれる確率が高かったにもかかわらず観測できていない→不合理だ」つまり「超巨大文明など無い」ことが帰結します。
 超巨大文明がどこかに本当にあるならば、「超巨大文明をあと100億年たたないと観測しえない」ようなマイナーな場所に私たちが生まれるなどということは、起こりそうにないことなのです。そんなことが実際起きたということは、前提が間違い、つまり★超巨大文明は本当はどこにもない★ということなのです。

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宇宙全体の論証  投稿者: ハム  投稿日:10月22日(土)18時49分58秒

だとすると、先の時間の問題がありませんか?
この場合は、現在存在するかもしれない地球外知的生命というのが、我々には物理的というか構造的に観測不能なわけです。
100億光年かなたの地球外知的生命は、あと100億年たたないと我々には観測しえません。
そういうものも観測対象になるのか? 存在というのか? という問題が読者と合意されていません。

また、このことは地球外知的生命というのがあったとしても地球人と同じように宇宙では孤独なはずだと考察されます。
だとすると、私が地球に生まれたからといって、地球外知的生命があまり多くないという論拠にならないはずなのです。
私がどこの星に生まれても、私は宇宙では孤独なはずなのですからね。

宇宙にまで論証を拡大すると、宇宙クラブ(銀河クラブの連合体?)というものの想定自体が困難になります。

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穏健な常識  投稿者: φ  投稿日:10月17日(月)02時27分58秒

 SETIを含め地球外文明を論ずるときには、ふつうは銀河内にハナシを限るので(銀河を超えた旅や通信は物理学的想像力にとって非現実的なので)銀河内と書きましたが、P.196論証にとって、範囲を銀河内に限定することは必要ありません。宇宙全体、実在全体でも成り立ちます。

 確率的推論は、話題によっては信じがたく感じられますが、単なる穏健な常識ですよね。
 球が一億個入っている未知の袋から球をランダムに取り出してそれが地球だったら、すべての球のうち少数派が地球ということはまず考えられませんからね……。(すべて種類がバラバラで、多数派の球というものが無い場合は別ですが)

 001独自解答楽しみにしています。

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銀河内に限った論証  投稿者: ハム  投稿日:10月16日(日)12時04分30秒

なのですね。
P.196で、「もう少し一般的に書くと、」とことわって、「銀河内に」という言葉をはずされたので、宇宙にも一般化したものと思っていました。
銀河内であれば「重大な瑕疵」はないことになりますね。

ご指摘の第二の[誤解]については、私はいつも釈然としません。
私が地球に生まれたことが、地球外知的生命の存在確率を下げることは分かります。
しかし、それしか意味はないですよね。
銀河クラブ外の地球動物園に生まれる人は必ずいるのですから。

買ってきたサイコロを初めてふった(私が生まれた)とき1が出た(地球に生まれた)場合、1以外(地球以外に生まれる)が出にくいサイコロなのか?
と疑うよりも、たまたま1が出たと考えるべきだと思うわけです。
ただ、この初回の出目1が、1以外の出目確率を小さくしていることは分かります。

『心パラ』の001問目は私なりの解答がありますので今度書き込みます。
こちらには、週末におじゃましようと思っています。

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宇宙人否定論証≠高度文明否定論証  投稿者: φ  投稿日:10月15日(土)02時45分33秒

なるほど、ハム様のご指摘は一理あるように思えますね。

しかし、三つの根本的な[誤解]がありますよ。

まず第一に、P.196の論証は、「銀河内」に限っています。
私たちの銀河系は、直径十万光年。巨大数の一致する範囲内に収まりまくってます。
銀河系には、二千億個以上の恒星があるとのこと。SETIを支持する科学者は、そこにドレイクの式を当てはめた結果、100個~百万個もの惑星に文明が存在するだろうから、中には超巨大連合文明もありうる、などと言うのですね。それを論破しているのが、P.196の論証という次第です。

 さて、第二に、人間原理は、単に「観測」だけにもとづいた論証ではないということです。むしろ「観測と矛盾しない範囲内での『確率的』論証」なのです。
 他の銀河も含めた宇宙論的スケールについては、ご指摘のとおり、「観測」にもとづいて宇宙人否定論を行なうことはできません。
 しかし、たとえば、現在(つまりあと何億年もして地球に光が届いてくる広大な範囲のどこかに)、他の銀河内に「銀河クラブ」が栄えているとしましょう。そこは、地球人口よりも遙かに多人数で構成されているはずです。ではなぜ私たちは確率の高いそこに生まれず、よりによってこんな辺鄙な地球に生まれたのでしょうか?
 私たちが平凡でランダムな存在だとすると、私たちは当然、銀河クラブ内に生まれているはずなのです。そちらに割り当てられる確率のほうが高いのだから。
 つまり、この銀河を超えた宇宙全体(直径何兆光年?)においても、「銀河クラブ」は存在しないだろうということが帰結します。

 第三に(これは第二点と連動しますが)、P.196の論証の目的は、「地球以外に宇宙人は一切居ない」ということではなく、「地球より遙かに人口の多い高度文明はありそうにない」ということです。つまり、第23節の過激な論証とは違い、P.196の穏健な論証は「宇宙人否定論証」ではないのです。P.197の小見出しの直前をご覧ください。

 「重大な瑕疵」のご指摘は大いに歓迎いたしますので、どうぞよろしく。
 ただ今回のは、瑕疵には値しない、というのが私の回答となりますが。
 ――『心理パラドクス』も御活用いただけそうな気配で、うれしく思います。また大いに御指摘ください。

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ご報告  投稿者: ハム  投稿日:10月15日(土)01時11分36秒

φ様、こんばんは。
先日、『心理パラドクス』をやっとこさっとこ読了しました。
001問目でつまづきまくり時間がかかりましたが、この本は私には永久保存版の一冊です。
読後感としては、マジックショーを見たあとの気分でしょうか。

で、じつは、この本とは直接関係のない人間原理的推論についての重大な問題についてご報告したくて投稿します。
『心パラ』の読後感と似ていた『論理学入門』の宇宙人否定論証について思いを馳せていたときに、ハタッと気がついたことです。

時間の問題です。
『論理学入門』の人間原理的推論で(暗黙に?)前提されている時間は常に我々観測者の時間だけだ、ということです。
観測する宇宙に一様な我々の時間を前提している推論は、このことだけで健全ではないのではないか? という疑問です。

例えば、P.196の下「仮定 観測されていない地球外知的生命の数は、地球人口のn倍である。」
この仮定で「観測されていない」というのは我々の現在のことでしょうが、観測対象である宇宙は遥かな過去を観測していることになります。
この場合の観測対象はほとんどが、人間原理的に観測者を生み出していないはずなのです。
100億光年もかなたの銀河は、100億年前の姿として観測され、そこでは当然に巨大数仮説が成立する前の宇宙が展開しているからです。

この問題。
観測対象は常に過去である、という点において
人間原理は、宇宙スケールの問題を扱うには時間に関する考慮なしには適応できないのではないか?
と思い至ったわけです。

あの推論の重大な瑕疵と思われましたのでご報告いたします。

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Re:本文の中の単語が  投稿者: φ  投稿日: 8月15日(月)05時40分4秒
 金小雲 様

            三浦俊彦

(以下の文をメールでもお送りしておきました)


『論理パラドクス』ですね。
ご苦労様です。よろしくお願いします。

■Heterologicality
 ライルの論文のタイトルですが、Heterologicalは、「非自叙的」という意味です。Heterologicalityは名詞形ですから、「非自叙的であること」つまり「非自叙性」。特殊なパラドクス用語ですから、英語の辞書には載っていないでしょう。
 「非自叙的」の意味は、本文をご覧ください。

■Paradoxien
 これは、何ページにある言葉でしょうか?

■インスペクション・パラドクス
 これは、「検査のパラドクス」ですが、ランダムにサンプルをとって、そこから全体を推測するような「検査」のことです。内容に関しては本文に書いたとおりです。

■demonstration of precognition
 これは、「予知能力の証明」「予知能力の実演」という意味ですが、内容は本文に書いたとおりです。

 まだ何か不明の箇所がありましたらいつでもお答えいたします。

 メールでも掲示板でも、どちらでも好都合なほうでどうぞ。

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本文の中の単語がどんな意味かとうてい分かりません  投稿者: sowoon-Kim  投稿日: 8月14日(日)13時34分24秒
本書を訳している金小雲でございます。急にお伺いことがありましてメールをあげます。
どころが本文の中で次のような単語が出ておりしょね。どんな意味かとうてい分かりません。
主に本のタイトルないしは、本文の題目でありますから出来る限り簡潔に教えて下さいましたら宜しいです。

Heterologicality
Paradoxien
インスペクション・パラドクス
demonstration of precognition

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虚構としての聖書  投稿者: φ  投稿日: 8月 3日(水)03時23分11秒
 私は聖書についてはよくわからないのですが、
 「神は自分の持ち上げられない石を創れる」は偽のはずだから、「神は何でも出来る」というイエスの言葉は偽。
 これは、単にイエスが全知ではないならば、彼が間違うのも当然でしょうね。
 他にも、辻褄合わせには、信頼できない語り手、という解決もあるし、矛盾した記述や明らかに偽なる記述をすべて比喩として解釈する手もありますね。
 普通のキリスト教徒が聖書の整合性を守るために使う方法は、「語り手は信頼できるが、比喩として述べているのだ」という手でしょう。
 しかしそうするとどれもこれも比喩になってしまいかねない。神の存在やイエスの復活なども比喩と理解していけないことはない。
 これが、あの聖書批判サイトの述べていることなのでしょう。

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ありがとうございます。  投稿者: shino  投稿日: 8月 2日(火)11時02分25秒
早速のお返事ありがとうございます。
ゲーデルの第一不完全性定理を良く知らずに質問してしまい、申し訳ありません、又、分かり易い説明をありがとうございます。

下で聖書の話題が出ていましたが、それに関連して。
マルコ福音書には「神は何でも出来る」という記述(イエスのセリフ)がありますが(マルコ10の27)、もしこれを真と仮定すると、マルコ福音書の虚構世界の持つ性質はどのようになるのか(排中律は成り立つのか?成り立たないとすると何でもありの世界なのか?)?というのが目下ドクター論文を書きながら徒然に考えていることです(キリスト教徒は虚構世界などと言うと起こるでせうが、私は非キリスト教徒なのでお構いなしです)。三浦先生(=φ様?)や皆様はどのようにお考えになりますか?

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Dennett  投稿者: φ  投稿日: 7月31日(日)17時43分39秒
 以前お教えいただいた『対角線上の悪魔』は、なかなか本題らしきところに入らぬまま延々とイントロが続いているという感じで、挫折しました。
 といっても半分以上は読んだのですが。
 また気が向いたら残りを読みますが、ありきたりなことに頁を浪費している感じで、昂揚しませんでした。

 『自由は進化する』は、気になっていた本です。デネットの『ダーウィンの危険な思想』も実は読みかけなのですが、あれは面白い(哲学書というよりサイエンスライティングっぽく冗長なのが難だが)。デネットは進化論の哲学的意義をよく理解している哲学者の一人ですね。
 『自由は進化する』も読んでみようと思います。

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自由は進化する  投稿者: ラズロ  投稿日: 7月31日(日)08時28分22秒
また書籍の話題ですが・・・ 可能世界の話も含まれていたのでここに投稿してみます。
「自由は進化する」という書籍が発売されていました。
出版の趣旨は、決定論により自由意思は否定されるという考えが浸透している風潮を打破する、ということらしいです。決定論的な世界観と自由意志は矛盾しないという主張なのですが・・・全体として論証になっているのか、そもそも論証しようとしたものなのか、読み終わってもよく理解できない状態です(私の理解がついていってないだけかもです)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757160127/250-2169551-0683421

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二種の完全性  投稿者: φ  投稿日: 7月31日(日)04時21分32秒
 第一不完全性定理は、真理と証明可能性とのズレを指摘するものですよね。
 証明システム(演繹システム)の、不完全性ですね。つまり証明可能性の完全性は成り立たないと。
 世界の完全性、という場合は意味が違って、真理の完全性です。排中律や二値性の法則が成り立つ、という程度の意味です。証明可能性の不完全性は、暗に、真理の完全性を前提しています。完全な真理を証明で網羅できないから、証明システムは不完全というわけです。
 証明可能性の不完全性は、現実世界にもあてはまります。そして現実世界は、真理の点では、完全でしょう。(任意の命題は、証明できない場合でも、真か偽かいずれか)
 同様に、虚構世界は、その中の任意の命題の証明可能性の点では不完全だが、真理の点では、完全だというわけです。
 ゲーデルの定理は、こうして、現実世界と虚構世界の区別をする手掛かりにはなりません。

 しかし面白いことを考えましたね。「完全性」の語義の二重性については、私は考えていませんでした。
 真理の完全性=形而上学的完全性
 証明可能性の不完全性=認識論的不完全性
  現実世界・虚構世界は、この2つの性質をともに持つと、私は述べたのです。(より具体的には、虚構世界の形而上学的完全性を主張した)

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ゲーデルと可能世界  投稿者: shino  投稿日: 7月31日(日)03時35分49秒
はじめまして。三浦先生の『虚構世界の存在論』を読ませていただきましたが、一つ疑問があります。三浦先生は「虚構とは本質的に、ただ一つの、完全なる可能世界である」と述べられ、且つ「無矛盾である」と主張されていますが、ゲーデルの「第一不完全性定理」はどのように考えられるのでしょうか?(「もし、虚構世界ωが無矛盾であるならば、Aも~Aもその虚構世界ωにおいては証明できないようなωの閉じた式Aが存在する」となるのでしょうか?)
読み違い、思い違いでしたら申し訳ありませんが、お返事くだされば幸いです。

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古代聖獣ピタゴラス  投稿者: 通りすがり  投稿日: 7月20日(水)21時08分19秒
三つ児の魂なんとかで、決着は付きそうにありませんね。
子どもの頃の自分が描いた怪獣の絵を本人がくそまじめに批判している。
この手の議論には、いつもそんな感慨を抱きます。
でも、直接このサイトには関係ないことだし、これくらいにしておきます。

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真偽  投稿者: φ  投稿日: 7月20日(水)03時21分8秒
 ただまあ、聖書に書かれていることが真か偽か、という基本的なことは、決着を付けておくべきでしょうね。
 日本では脅威は感じられないものの、アメリカなどではいまだに創造論が進化論に挑んで無益な論争がなされているし。
 真と偽の区別を付けることは、真偽の区別を絶対視するということとは違いますから。
 10階から飛び降りたら無傷ではいられない(というのは偽ではなく真だ)と信じてベランダからあえて足を踏み出さない人が、全員、真理の絶対性を信じているわけではないでしょう。

     (あすから3日間、大阪でアフォリズムのクラスを担当してきます。
         阿呆理詰日記に反映できるといいんですけれどね――)

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そうかな?  投稿者: 通りすがり  投稿日: 7月19日(火)12時19分52秒
書き手たる主体と神という、書き手にとっては<絶対的な真実>を
<他者の記述との相対的矛盾の問題>と組み合わせて論じることに
誤りがあるのではないでしょうか。
そして、いつも時限の低い議論がはじまるのです。
正しいとか誤りっていう概念を絶対視しないほうがいいと思うんですよね。

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なるほど  投稿者: φ  投稿日: 6月19日(日)01時46分29秒
なるほど。見てみました。
少なくとも、その頁にある3つの三段論法は、正しいと思いました。
あとは、
   事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
という前提が正しいかどうかでしょう。それが本論をなしているようですが。それさえ正しければ、三段論法の結論は正しいことになるでしょうね。
 つまり、論理というより事実の問題ということです。
 私としては、聖書というよりキリスト教そのものは、ローマ教皇がファシズムを支持し、ユダヤ人迫害への非難声明を要請されたとき拒否し、ヒトラーのロシア侵攻を賞賛したという時点で猛批判されるべきだと思いますけどね。論理や事実という以前に倫理のレベルで。

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論理矛盾の指摘  投稿者: 初心者  投稿日: 6月18日(土)13時38分10秒
下記の聖書批判サイトでものすごく論理的に聖書を批判している方がいます。
私はクリスチャンではないので、内容はよくわかりませんが、彼の論理的思考にな
んとなく矛盾を感じています。しかしながら、まだ、三浦先生の「論理学がわかる
事典」を読んだばかりの初心者なので、論破できません。彼の論理をくつがえすこ
とは難しいのでしょうか。是非教えてください。

http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/conclusion.html

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補足  投稿者: φ  投稿日: 6月 6日(月)01時23分15秒
6月1日(水)02時39分17秒的「日常語の曖昧さ」については、↓でちょっと話してますので興味ある人はどうぞ。
http://russell-j.com1/sakama-c.htm

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こんかいも  投稿者: パンドラ  投稿日: 6月 3日(金)00時20分36秒
好き勝手な言い分、聞いていただいてありがとうございました。
主観世界の、信じるとか疑うとか、好きとか嫌いとか普遍で捉えるって
論理学とは違うのかもしれませんが、φさまも Ba を導入されてる
から、いずれって感じがしました。
でも人口に膾炙しないとだめですね。
論理学にもっと人気が集まることは私も夢です。

また、疑問がわいたとき、おじゃましたいとおもいます。
かさねてお礼いたします・・・。

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多義性  投稿者: φ  投稿日: 6月 1日(水)02時39分17秒
「人間は動物である」は、ふつうは
     ∀x(Fx⊃Gx)
 でしょうが、
     F∈G
 とも解釈できますね。
 「動物」という概念を、さまざまな種を要素とする高次の集合と考えればですが。
 間に「ヒト科」「霊長目」「哺乳綱」「脊椎動物門」などが介在するとすれば、
 ∃x∃y……∃z∃u(F∈x∧x∈y∧……∧z∈u∧u∈G)
 とでもなりましょうか。
 日常言語の単語はどうにでも解釈できるので、いろんな記号化が可能です。

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真理値の背景  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月31日(火)21時01分55秒
論理学の真理値はφさまにしてみてはやはり、普遍(いつでもどこでも
誰にでも等しく)を満たす必要があるのだと思います。
ここで主観を(あるときあるところで誰かが任意に)と定義したらどうでしょう。
わたしがSさんを憎んでいるとして、其の状況のみをみれば、欲求願望で
「Sさんが苦痛に陥ることを望む」の真理値は、すくなくもわたしだけです。
まあ、怨念に陥るってえげつなくって体裁悪いですが、絶望はどうだろうか
とおもっています。ヤフーのメンタルヘルスとか、やたら絶望に浸っている
ひとは結構いますね。自殺願望者って結構いるわけですから・・・。

>愛や知識のような、自然選択の産物でありながら一定の規範により組織
>され直した文化的概念は論理モデル化可能でしょうが、怨念はたぶん無理ですね。

やはり普遍性から眺めないとだめですか?
暗黒世界のほうがすばらしいと思いますよ・・・。ルークとダースベイダーみたいに
なってきなしたね・・・。
ところで、シンタックスとセマンティクスに戻りますが、
(1)人間は動物である と (2)動物に人間がいる を比較してこれを式で
表すと(1)は∀x(Fx⊃Gx)ですね。(2)は∃x(Gx∧Fx)
記号はシンタックスそのもののはずですから、セマンティクスが異なって
いるのだと思いますが、あた得られた概念は「人間」と「動物」のみなので
これは、他になにか概念があたえられているのでしょうか?

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自然種  投稿者: φ  投稿日: 5月31日(火)01時54分1秒
 驚き、恐怖、怨念、といった情動が論理モデル化に適さないのは、それらが自然選択の産物にすぎないからでしょう。
 心拍と呼吸が論理関係ではなく単に因果関係または連動関係で結びついているように、生存に必要な生体反応の表層の結果である憎悪や怨念をモデル化することはできないでしょう。
 愛や知識のような、自然選択の産物でありながら一定の規範により組織され直した文化的概念は論理モデル化可能でしょうが、怨念はたぶん無理ですね。「これこれの性質を有さねばならない」「これこれの条件を満たさねばならない」という規範がありませんから、現象を追認し記述することしかできないでしょう。つまり名目種ではなく自然種として、論理でなく自然科学の対象でしょうね。

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『怨念』へのこだわり  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月29日(日)22時39分4秒

前回1/20に示したのは、とりあえず私のモデルです。
『怨念』というか『憎悪』というか、モデルは別として、わたしの体験した
事実だけ示そうと思います。
現実の私は気の小さな世渡りべたの人間というのが自己評価です。
よって、他者との切磋琢磨において、ひっこんでしまって悶々としている
といったそんな感じです。
自己改造を試みて自己催眠のようなものもやってみましたが、はかばか
しくありません。そんな折、成り行きで憎悪に落ち込むことになりました。
そのころ読んでいたのがマーフィーの『眠りながら成功する』です。
希望内容をほんとうに起こっていると自己暗示で実感すると、潜在意識は
それを現実のものとして提供する、というものです。
さて、これにしたがって憎悪はどうかというと、それは該当他者の苦痛への
欲求です。自分が虐げられた、バカにされた過去を思い出し、そうすると
なんらかの仕返しで相手の苦しむことを実行しようとする衝動が起きます。
ところで、マーフィーの中にはなにが書かれていたかというと、「潜在意識
は個人を区別しません、よって、憎悪に陥ったら相手の幸福を祈りなさい」
といったことが記載されています。
これを意識上で実行するのは苦痛は伴いますが、実行できないほどでは
ありません。相手に対する復讐の機会がみられず、どうしようもない情念の
なかで、この手の暗示「あの人間が幸福でありますように・・・」と暗示を反芻
するのは初め苦痛ですが、自分が虐げられて復讐を果たしていないという
無念の情を消去するようなのです。実際にこの手の暗示訓練で憎悪の念
から解放され相手に復讐したいという願望も無くなっていくのを体験しました。

わたしの意識モデルは以上の体験が基になっています。
たとえば自分に災いが及んで怪我をした、という事実に遭遇して意識は
原因の存在者を認識すると思います。それが自然のような因果論に基づく
偶然の出来事だと把握すると、悲哀感は起きるかもしれませんが憎悪
はおきません。これが、他者が、それも意図的に行ったと認識すると憎悪
が発生します。これは意識が事実世界に存在者を二区分しているのだ
という根拠になります。この理解には一般の科学的分析では収まらず
やはり価値概念が必要でした。そうして、自我、他者を捉えるのに
『存在価値』というアスペクトを導入せざるを得なくなった、というわけです。
復讐の衝動は自我の存在価値が否定されたので其の反作用として
相手の存在価値を否定するという潜在力を引き起こす、まだ未達成の
復讐の状態が『憎悪』というわけです。

わたしの体験を事実として、φさまはこの『存在価値』というアスペクトは
どうおもわれますか?

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因果  投稿者: φ  投稿日: 5月29日(日)03時55分57秒
信念と願望を入力すると、行為が出力される、というのが行為論の通常のモデルですが、「自信を持つ」は内心の行為であると考えれば、「賭けに応ずる」という行為に直結しますから、

 信念+願望→(心理状態→)行為

という図式が成り立ち、
原因(1)(2)が結果(3)を生んだ、と言っていいでしょうね。
 むろん(3)は意識にのぼる必要はなく、「賭けに応じた」という行為の形で初めて当人にも(3)が気づかれた、というのであってよいわけです。
 (1)(2)についても、意識されている必要はなく、「賭けに応じた」という行為があって初めて(1)(2)の成立が推論される、といった場合がけっこう多いでしょう。
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個人教授ありがとうございます・・・^^  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月28日(土)22時50分35秒
授業料はある時払いの、催促なしで・・・いまびんぼうです・・・。
>論議領域の限定・非限定や、含まれる概念の数は、命題かどうかとは無関係です。
> 否定は限定かどうか
> 否定にかぎらず、何でも限定と見ることができます。

うーむぅ~、いま√2がない、というピタゴラスの時代のことを考えていました。
考えようによっては、√2がでてきたから、はじめて有理数という論議領域が
意識されたのかなって、おもいました。別段、有理数について限定されていたとは
いえないということでしょうか。
だんだん禅問答みたいになってきましたね・・・。
いずれにしても公理系は初めから完全ではなく、漠然とした形で次第に堅固な
ものへ成長していくのだろうと、あらためて感じました。

ところでちょっと飛びますが入門の『因果と認識』の章で、認識演算子Baが目に
はいりました。因果関係というよりここで、Pが「コインを投げる」 Qは「表が出る」
だったらどうなるかと思いました。
(1)Ba(P⊃Q) コインを投げたら、表が出る、とaは信じる。

φさまは・・・
人間存在が、宇宙の物理的事実をあれこれ推測するための重要な「証拠」である
ということを、宇宙の物理的事実それ自体の「原因」であるかのように取り違えて
しまうのである、とおっしゃられていますね。

わたしは前回述べた、感情表現式で、信念と願望をつかっています。
(2)Wa(P⊃Q) コインを投げたら、表が出る、とaは望む。
これは賭けをして、報酬が得られる、といった前提があるとしたらわかりやすいと
おもいます。そして、物理的事実ではありませんが(1)(2)の条件が揃えば
(3)「a の今の状態は自信がある(安心である)」がいえるのではないかと思います。
この場合はこの結果は,(1)(2)が原因と考えてもいいとして、よろしいですか?

それともクリプキモデルに従い(1)の理解は多世界解釈に持ち込むのが妥当ですか?
その場合、(2)(3)はどうなるでしょう。

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∃xFx  投稿者: φ  投稿日: 5月28日(土)16時08分21秒
すみません、∃xFxが命題であることを示すべきところで、なぜか 
∀xFxの話をしてしまったようです。私もお手つき1回で。

 でも∃xFxは話がもっと簡単で、
  ∃x(xはネコである) は、猫を一つでも持ってくれば真だとわかり、真であるものは命題なので、問題なし。
 「ネコである」より問題を生じそうな述語で考えても同じことで、たとえば
 ∃x(xは妖精である)は、真偽の決着がつかないことがあるが、それは「ネコ」と妖精」の概念レベルの差であって、命題性の違いではない。妖精の実在が検証づらいものかどうかということは、∃xFxという文の論理的身分とは関係ありません。

 かりに論議領域を限定して、
  xは銀河系内にあるものとし、∃x(xは妖精である)
  xは体長1ミリ以下とし、∃x(xは妖精である)
 などとしても、依然として真偽の決着はつかないが、命題である。

 論議領域の限定・非限定や、含まれる概念の数は、命題かどうかとは無関係です。

 否定は限定かどうか
 否定にかぎらず、何でも限定と見ることができます。

 たとえば、「妖精である」 は、「クリーチャーであり、子どもと意思疎通し……」などと分解できるので、
 論議領域なしの ∃x(xは妖精である) は、
  xはクリーチャーとし……とし、∃x(xは子どもと意思疎通する)
 と書き直すことができます。
 「赤い」のような単純な述語についても、「赤いか青いかであり、かつ青くない」などと人為的に分解することができます。

 論議領域があるように書き直すことは常に可能で、逆に、論理学では、論議領域が限定されていないように書き直すのが普通です。
  xは銀河系内にあるものとし、∃x(xは妖精である)
 は、
  ∃x(xは銀河系内の妖精である)
  と書かれ、ここにはもはや論議領域の限定はありません。(xはあらゆる範囲にわたってかまわなくなる。∃xの外側にまだ限定があるというなら、∃xの内側にいくらでも詰め込んで論議領域を消去することができる)
 つまり、最終的に論議領域を消去できるので、始めから論議領域は無限定であってかまわないのです。

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すみません・・・  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月28日(土)13時16分27秒
もうすこし考えて・・・
>真理値が固定して常に1とはいえないでしょうか?
>『ネコであるものである』は『ネコでないものである』ではない」
真理値が固定して常に1であっても命題は命題ですね。
下のものは撤回します。

一瞬、「概念がひとつでも命題は成立する」がいえるのかと考えました。
「ある」は存在辞、ないし 繋辞は、概念ではないとしています。
ところで 否定子 はどうなのかと思いました。
わたしの「∃xFx が命題でない」は「いまひとつの概念(ないし明確な
論議領域)を付帯する」ことを必要条件とする、がネックです。
φさまの推論には否定子の導入がありますから、
否定子をつけた概念はいまひとつの概念の導入になるとすると
>>∃xFx は概念がひとつしかないので命題ではないという考えです。
>>(これを命題とするのは論議領域を明確にすることを条件とする)
が、とりあえず認められるのでは・・・?

問題は
>これは、論議領域を無限定にした場合(明確にしない場合)、真である。
この部分ですが・・・
xの論議領域を無限定としても、Fxは領域の限定であるので、否定子の導入
により論議領域は限定された、といえるのではないでしょうか?

>なぜなら、猫でないものを挙げるのは簡単だから。(論議領域が無限定だからきわめて簡単)
「ペットである」とか「動物である」は「ネコである」に限定されているから
無造作に抽出できないのでは?

待ったしたから、お手つき一回です。^^

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わたしの命題の定義の考えなんですが~  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月28日(土)10時47分53秒
それは判断の対象であり、正しいか間違いか決定できる言葉の構成
といった定義をつかっています。
ことばにはまず、概念があります。「猫」とか「コップ」です。
「本当である」とか「嘘である」という判断を表す述語が、言葉のいかなる
構造に対して可能かを考えてみると、・・・
「猫は本当である」とか「コップは嘘である」とはいえません。
というより、これが真理値もつのかって、考えてしまうわけです。
「『猫は動物である』のは本当である」とか「『コップは植物である』とい
うのは嘘である」という形式でしかつかえないのでは・・・?
ラッセルの論理主義で言っている、階層理論ってこんなことだ
と理解していました。
>∀x(xはネコである)は命題でない は誤り。
うーむ、φさまの論法でいくと・・・
これは私の前提ですが、命題が構成されるには、それは「判断」の導出
の必要条件として「概念」を二つ必要としています。
そしてφさまの設定された概念は
(ネコであるもの)・・・限定されたものと
(ネコでないもの)・・・無限定なもの のふたつ、があります。
疑問であるのは、限定された概念と無限定の概念で構成される命題は
真理値が固定して常に1とはいえないでしょうか?
「『ネコであるものである』は『ネコでないものである』ではない」

判断は真理値 0 ないし 1 の可能性を秘めています。
論議領域の不確定な∀xFx で構成される命題は判断可能性
が欠如している。よって
∀x(xはネコである)は命題でない は正しい。
いかがでしょう^^。
しつこくて、すみません・・・。

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∃xFx の命題性について――  投稿者: φ  投稿日: 5月27日(金)03時44分26秒
 ――ひとこと触れておかないと不誠実ですよね。
 いろいろな通行人のかたがおられるでしょうし。

 xの論議領域を無限定とし、
 ∀x(xはネコである)
 が命題でないと仮定します。
 すると、その否定
 ~∀x(xはネコである)
 も命題ではないはず。(否定して命題となるものは必ず命題だから)……①
 標準論理のシンタクスの定義により、
 ~∀xFx≡∃x~Fx
 なので、①より
 ∃x~(xはネコである)
 も命題でないことになる。……②
 しかしこれは、日常言語では
 「ネコでないものがある」
 これは、論議領域を無限定にした場合(明確にしない場合)、真である。なぜなら、猫でないものを挙げるのは簡単だから。(論議領域が無限定だからきわめて簡単)
 こうして、∃x~(xはネコである)は真なる命題である。②と矛盾する。
 こうして、仮定
 ∀x(xはネコである)は命題でない は誤り。

 なお、ラッセル的に言えば、変項に対してタイプの限定は必ず必要だが、それ以外は、論理学の命題は、論議領域は無限定でなければなりません。(無限定であってもよい、というのではなく、無限定でなければならない。限定すると論理学以外の、物理学や生物学や日常会話などの命題ということになります)

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対偶に限らず  投稿者: φ  投稿日: 5月26日(木)03時36分19秒
 もちろん、誤解が生じうる要素は明示しなければならない、というのは、対偶に限らず、あらゆる文脈で必須ですよね。
「注意されなければ、手を洗わない」はこのままで完全で、補うべき要素はない、ということであれば、「手を洗えば、注意される」は、もとの文と同値になります。つまり、正しい対偶となります。どちらの文も、時間を考えなくてよい、ということだからです。
 「手を洗えば、注意される」が間違った対偶だと言いたいならば、その理由を示すべきで、それはたぶん、もとの文の前件と後件に本当は自制副詞がついているから、というものになるでしょう。それはセマンティクスではなく、シンタクスを詳しく述べただけにすぎません。
 対偶はシンタクスだけで完全に論じられる、と私が言ったのは、そういう意味です。
 (もちろん、本当に言いたい意味と言語表現を照らし合わせる場合はセマンティクスが必要になりますが、言語表現と言語表現を照らし合わせる(対偶として適切かどうかなど)場合は、もっぱらシンタクスの話になるでしょう)

 命題についてですが……、
 ∃xFx が命題でない、といわれても、ちょっと返す言葉がありません。ですからこれ以上はちょっと……。
 すみませんね。
 
 論議領域に関する精密な議論は、百年も前にラッセルがやり遂げていますから、以下の論文(1908)を参照すると良いですよ。この論文は21世紀の水準から見ても、最高レベル以上のクオリティです。
 "Mathematical Logic as Based on the Theory of Types" Logic and Knowledge, pp. 59-102

 ↑『プリンキピア・マテマティカ』の粗筋のような論文で、『プリンキピア』の哲学的側面はもっぱらラッセル一人の思考がもとになっていることを証明する資料にもなっています。

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ありがとうございます、でも~  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月25日(水)22時47分48秒
>対偶は、時点その他(必要なら因果関係なども)を明示すれば、
>シンタクスだけで完全に論じることができるでしょう。
「明示すれば、」っていわなければならないのはなんだか~^^
彼は、ここの間違いが無ければ完全だって感じでないですか?
>>(1)其の物質が酸性であれば、リトマス紙は赤になる
>>(1)’リトマス紙が赤で無いなら、其の物質は酸性でない
ここには時間性なんて無いですよね。

>もちろん日常言語に言い換えるときにはセマンティクスが必要になるでしょうけれど。
時間性を絡めているかどうかは、やはりセマンティクスに頼るわけですよね。
そのときは条件付となる・・・。

>そこは、対偶はシンタクスに相対的だと論じたものです
対応する対偶命題がセマンティクスでは多岐に分かれるということでしょうか?
シンタックスではひとつの表現、としていいわけですね。
時間性はそのなかに含まれてしまうということでしょうか?

すみません、実は其の論者の方に施した私の切り返しなんですが・・・
以前φさまともお話した論議領域にかかわる議論になるのですが・・・
わたしは現在、原子命題はふたつの概念を必要条件として真偽判定は
それら概念の関係性の上で成り立つ、としています。
つまりふたつの概念それぞれの持つ式系列が互いに無矛盾であることが
、其の命題が真であることの条件であるという定義です。
概念をa,bとすると、命題は「aはbである」ないし「bにaがある」のかたちを
とるというのがわたしの基本になっています。
さきのサンプルで
(1)其の物質が酸性であれば、リトマス紙は赤になる
「a=其の物質 b=酸性」「 c=リトマス紙 d=赤」

(2)注意されなければ、手を洗わない
「注意されない」というのはあくまで概念としては単一であると考えます。
つまりここには「あるとき」という時間が隠れていて、そうした論議領域
を考慮しないことにはこの命題が成立しないとするわけです。そうすると
「あるとき注意されなければ、つぎに手をあらわない」が正式の形で
「a=あるとき b=注意されない」「 c=つぎに d=手を洗わない」

となって、(2)は時制という付帯条件をつけたのではなく、P⊃Q の本来
持つ特性を提示するだけでよい、という解釈を与えました。
わたしは∃xFx は概念がひとつしかないので命題ではないという考えです。
(これを命題とするのは論議領域を明確にすることを条件とする)
どうも以前お話していただいたときは論議領域は漠然と存在する・・・といった
結論で終わったように記憶しています。漠然では矛盾か無矛盾か明確に
できません。よって、この論議領域の問題とも絡めて原子命題の基本形
についてφさまのご意見を伺いたいと思いました。

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対偶は構文しだい  投稿者: φ  投稿日: 5月25日(水)05時58分48秒
この問題は、『論理パラドクス』003で簡単に触れましたが――、
 対偶は、時点その他(必要なら因果関係なども)を明示すれば、シンタクスだけで完全に論じることができるでしょう。
 ∀t(aは注意されないatt⊃aは手を洗わないwithint+s)
 のように表記すれば、「注意されないとある時間s以内に手を洗わない」という関係が表現できますね。
 対偶は、どのtについても
 (aは手を洗わないwithint+sではない⊃aは注意されないattではない)
 となりますから、
 「手を洗ったならばある時間s以内に注意されていた」
 となるでしょうね。もちろん日常言語に言い換えるときにはセマンティクスが必要になるでしょうけれど。

 対偶の発展問題は『論理サバイバル』038,039でやりましたが、そこは、対偶はシンタクスに相対的だと論じたものです。同じ文でも、どこを変数と見るかによって(どのような構文と見るかによって)、対偶文が変わってくるわけですね。
 たとえば、「注意されなければ、手を洗わない」の対偶は、シンタクスの見方を変えることで、
 「注意されずに洗うならば、それは手以外をである」「注意されずに手を何かするならば、それは洗う以外のことである」「注意されずに手を洗うならば、別の者がである」「注意がなくて手を洗うならば、注意のあり方は受動態ではない」……等々、いくらでも変化します。
 セマンティクスまで行かなくても、シンタクスだけで、対偶の奥深さを体験することができるのではないかと思います。

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しつれいします・・・  投稿者: パンドラ  投稿日: 5月24日(火)21時49分24秒 最近、論者の方と対偶律の事がテーマになって以下のような議論をしました。
(P⊃Q)⊃(¬Q⊃¬P)
ここに実例を挙げて
(1)其の物質が酸性であれば、リトマス紙は赤になる
(2)注意されなければ、手を洗わない
について対偶を上げてみると・・・
(1)’リトマス紙が赤で無いなら、其の物質は酸性でない
(2)’手を洗えば、注意される
前者はまったく問題ないのですが、後者がおかしいのは、ここに時制とか因果が
含まれているから、というのはわかるのですが・・・
このことは、対偶律はセマンティクスを加味して条件を確認しなければ、シンタッ
クスをそのまま使用することはできない・・・がいえるのでしょうか?
φさまの『論理学入門』の20節を繰り返し見てはいるのですが、対偶律について
それほど深入りはしていないと思いました。
小野寛晰さまの時間論理は頭が痛くなる・・・。

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>『対角線上の悪魔』  投稿者: φ  投稿日: 5月 5日(木)23時17分44秒
 ――心の科学はおそらく知への最大の挑戦ですからね。
 今執筆中の新書の末尾で、ラッセルの中性一元論が心脳同一説の一バージョンとして大いに将来性アリ、といったことを書くつもりですが、うまくアピールできるかどうか。
 いずれにせよ、唯物一元論や心身二元論にはあまり期待できない気がします。
 『対角線上の悪魔』、著者自身が賛成したくない内容であるとはいかにも面白そうなので、私も読んでみます。

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『対角線上の悪魔』  投稿者: ラズロ  投稿日: 5月 5日(木)04時40分48秒
ごぶさたしています。
ラズロです。
最近出版された 『対角線上の悪魔』-心は科学で証明できる
という本を今読んでいるのですが、
けっこうエキサイティングな内容です。
中盤に至っても人生論に走っている類の展開にはならず、
至って誠実に心を科学で解明するためにどうするかという
思索の過程が書かれています。
システム構築などもされていたとプロフに書かれており、
理系的アプローチをされている感じです。

著者の方は、著者本人が出した結論(考え方)に対して
あまり心地よい内容ではないと考えていて、
世に批判・論駁を仰ぐためにも書籍にせざるおえなかった
というようなことが途中に書かれていました。
まだ途中ですが、途中に記載されている「私」論や時間論?
のところでも φさんや皆さんのご意見をお聞ききしたい
ところが諸々あります。
最後まで読んでからまた感想とかを書いてみます。

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アフォリズム日記は  投稿者: φ  投稿日: 3月22日(火)04時30分46秒
 第3カテゴリに属しますが、
  ・偶然的aphorism(レディメイド)
  ・選択的aphorism(選択的引用)
  ・意図的aphorism(創作的セルフオーダーメイド)
 という発生的区別が、内容にどう反映するか、考察中です。
   (それぞれ、無神論的一宇宙説、人間原理的多宇宙、デザイン理論に対応します

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おはずかしい  投稿者: のん  投稿日: 3月21日(月)21時23分51秒
アフォリズムは造語とばかり思っていました(;;)
検索するといろんな人のアフォリズムが出てきますね。
φさんの本は心理学の棚によく置いてありますよ。探してみます。

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aphorism  投稿者: φ  投稿日: 3月21日(月)05時26分10秒
 ありがとうございます。
 きょうはたまたま、2度目の動画バージョンとしましたが、おおむね正攻法をメインで創ってゆくつもりです。
 (ストックはとっくに尽き、毎日新作なので、結構大変)

 アフォリズム小説『蜜林レース』は残念ながら目下品切れですが、『たましいの生まれかた』はまだ出回っているはず。幕間アフォリズムをどこかでご覧いただければ幸いです。

 アフォリズムをテーマに、9月に大阪で集中講義をする予定ですが、そこで練った成果をもとに、バージョンアップを図りたいと考えています。

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アフォリズム日記について。  投稿者: のん  投稿日: 3月20日(日)21時36分28秒
いつも楽しくアフォリズム日記を拝見しています。
僕はアフォリズム日記の大ファンです。
良い教訓として特に気に入ったものは書き留めています。
アフォリズムってどんな意味ですか?アホって意味ですか?
毎日更新されてますが、どうやって思いついてるのですか?
アフォリズム日記はどれも一貫した考え方がある気がします。
もしそんな考え方があったら教えてください。
そしたらアフォリズム日記がもっと深く読み取れます。
これからもかんばって更新を続けてください。応援しています!

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自然科学では  投稿者: φ  投稿日: 1月27日(木)15時22分20秒
 自然科学でも、哲学的色彩の強い(つまり実証データの乏しい)分野では、論理学が表立って活躍しますね。
 たとえば宇宙物理学の「人間原理」をめぐって、科学者が間違った推論に陥っている具体例を私はいくつか挙げたことがあります(一例は↓のページ)。他にも、量子論の解釈問題や、確率の解釈、究極理論とは何を意味するか、時間旅行は可能か、理論的語彙や仮説の節約はどうすればよいか(オッカムの剃刀)といった、形而上学と方法論のコアな話題に、論理学が活躍する余地が大いにあるでしょう。
http://russell-j.com/kaito173.htm

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φ 様  投稿者: デメトリオ  投稿日: 1月27日(木)10時09分16秒
ご親切に説明してくださり、ありがとうございます。論理学の基礎的な授業・テキストでは、もちろん公理化などは説明するものの、哲学分野での推論が中心になっています。それは理解できるのですが、自然科学(と言ってもおおく数学なのでしょうが)、それとの相関については、自明のことのように省かれているもので…。私にはぴんとこなかったんですよね。

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★  投稿者: φ  投稿日: 1月27日(木)04時06分17秒
 私もそのへんは明確には答えられませんが――
★数学から「カントールのパラドクス」「ラッセルのパラドクス」のような矛盾を除去する方法を吟味するとき(なにしろ「矛盾」は論理的概念なので)。
★ゲーデルの定理その他のメタ数学で、数学自身の論理構造を分析する手だてとして。
    ――といったところじゃないかと思いつつ、そもそも
★数学そのものが論理学の応用例(公理化とか証明とか)だ、
    ――てことが一番重要でしょうね。

 つまり、論理学は数学には空気のようにまとわりついている。他方、論理学と自然科学との関係は、ちょうど、物理学と倫理学との関係くらいのものかもしれませんね。前者が後者の基礎であるには違いないが、地下に潜ったまま支えている、という感じか。

 論理学が空気としてでもなく地下ででもなく、表立ってしゃしゃり出てこざるをえない場面は、なんといっても、哲学でしょう。哲学では、日常言語の ①混乱と②限界 を記号論理で自覚的に解きほぐさねばなりませんからね。

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φ 様  投稿者: デメトリオ  投稿日: 1月26日(水)11時03分56秒
どうもありがとうございます。
数学を避けて歩んできた人生を論理学をとったためにのろうことになろうとは思いもよりませんでした。というより論理学をのろっているのか・・。
すみませんが数学(定式化と言うことでしょうか?)に、論理学がどのように使われているのか、もう少し教えていただけないでしょうか。

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>とつぜん  投稿者: φ  投稿日: 1月26日(水)06時38分48秒
 真理関数のトートロジーというと、「命題論理」のことですね。
科学理論で使われることは多くないのでは。論証が混乱しかねないとき論理で整理するくらいか。逆に、量子論理のように、物理学のデータに合わせて真理関数を修正するような動きはありますが。
 命題の内部を分析する「述語論理」は、数学基礎論で使われる以外では、自然科学で、「点」や「瞬間」の定義(あるいは再構成)に使われたことがあります(ホワイトヘッド、ラッセルなど)。ただ、それがどれほど物理学の理論の発展に寄与したかはわかりません。
 論理学は数学に不可欠ですが、その数学が自然科学に不可欠ということで、数学を媒介とした間接的な関係を持っていると言えるでしょうね、論理学と科学は。

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とつぜん  投稿者: デメトリオ  投稿日: 1月25日(火)13時59分40秒
すみません。
論理学、とくに真理関数のトートロジーは、科学理論においてどのように用いられているのでしょうか。
記号論理学を学んだものの、論理学としてしか理解しておりませんで・・・。どなたか・・・。

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>理屈以前で  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月23日(日)23時08分18秒
>本能で醜を好むことも多いので。
はーい、そうですね。
>(1)~(4)の理屈が必ずしも万人に当てはまるわけではありませんしね。
ほんとは仔細やってみたいのですが、そうもいきませんね。
気がついたら、わたくしφさまを、独占しているような感じでした。

お正月から、ポン引きで接待したようなかんじですねー。
たまに、気休めもよろしいのでは、っといいわけです。
年末の前野様とのおはなし邪魔したような感じ、今気づきました。
最近とろくって・・・。

また、いつか、『怨念』のおはなしで、お願いします。
今回はありがとうございました・・・。

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理屈以前で  投稿者: φ  投稿日: 1月23日(日)06時23分50秒
 本能で醜を好むことも多いので。
 (1)~(4)の理屈が必ずしも万人に当てはまるわけではありませんしね。
 虚構的に突き放した判断の場合だけでなく、我が身の中に浸透するような生理的観賞の場合も、「美しいほうを避ける」という場合は多々あります。
 私はモーツァルトの音楽の方が薬師丸ひろ子の歌よりも率直に美しいと思うのですが、後者を聞きたいことの方が多いですし。あるいは、シェイクスピアの方がビーバップハイスクールよりも確かに美しいと思いますが、後者をずっと多く読み返してますし。モデル並みの脚よりO脚の大根脚の方が断然好きだし。
 「怖いもの見たさ」というような突き放した感覚では説明できません。

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すみません  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月20日(木)21時55分54秒

わたしの勝手な理屈を披露してしまいました。
わたくしは、命題Aに対する判定を、真偽と可能、そして価値に振り分け
ております。さらにそれら判定には主観と客観、(個別と普遍)があるとい
うものです。
A に対する判断の価値を問うものは VA
A 二対する判断の可能を問うものは PA
と記述します。
「自我」は事実世界に対する、このふたつの判断により 自我自身の存在に
対する価値判断を行い、これをVS (Value of Self)としています。
主観的判断は普遍的概念のように明確でなく、基本はファジィなものではない
かと考えます。
そこでいえることは、さきの真理表において
(1) いいことが、現実になろうとしている(ないし、現実である)との判断は
今のわたしはよい、を導く。
(2) いいことが、現実から乖離しようとしている(現実でない)との判断は
今のわたしはわるい、を導く。
(3) わるいことが、現実になろうとしている(ないし、現実である)との判断は
今のわたしはわるい、を導く。
(4) わるいことが、現実から乖離しようとしている(現実でない)との判断は
今のわたしはよい、を導く。
のように、区分されるものと思われます。
(VA∧PA)⇔VS 式の 左辺は対象命題に対する主観的な価値と可能の判断
で、その判断がいまのわたしの存在価値に反映すると言うものです。
VS の特性は、左辺への相互作用と、VS→1のポテンシャルです。

意識は なにかいやな目にあったとしても自我肯定ポテンシャルが、その体験を
なんらか意味があるものとしてVA値を、変化させるようです。
もともと VAが主観的でファジィであるゆえに可能な意識操作であると思われます。
これは(3)→(1)の変換を意図するものです。

つまらない理屈を申しました、が われわれが醜悪を好む理屈が斯様に解釈できる
のではないかと・・・。
φさまは、可能世界意味論にて、この現象をいかに解釈されるのでしょうか?

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先日  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月20日(木)21時27分0秒
ローマのコロセウムに行って参りましたが、最盛期にはすごい惨劇が
この建物の中で行われていたようでございますね。
これは仮説ですが・・・
>美に接したくない、醜に触れたい、といったことは、日常珍しくありません。
たぶん、醜悪、残虐、惨劇に接したくなるのは、怖いものみたさ、他人の
不幸をみることで、自我の存在価値とのギャップを感じ取ることからくる
快感なのではないかと、考えられます。
他人の家の火事は、なんとも楽しいものですね。

つまり、A を「火事になる」として・・・
VA:火事になるのはいやだ、という否定の価値命題。
PA:火事なっているのは現実だが、それは わたしに関与するものでない。
は、(VA∧PA)⇔VSの真理表

     VA    PA    VS
 (1)   1     1     1
 (2)   1     0     0
 (3)   0     1     0
 (4)   0     0     1

真理表の三行目を疑似体験することで、実は四行目を実感して自我肯定を
実現するものかと・・・。

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醜いものが欲しい  投稿者: φ  投稿日: 1月18日(火)04時29分40秒
 殺人、事故、奇形、排泄、虐待などのグロ動画を集めたサイトなんかは、「醜い」「だから観たい」それで人気を博しているのではないでしょうか?
 ホラーやスプラッター映画にもその傾向があると思われます。ホラー映画のレビューでしばしば、「映像美ゆえにアートになってしまっている」といった苦情が記されている。ホラーはB級でないと楽しめないという人たちは多いですよね。美に接したくない、醜に触れたい、といったことは、日常珍しくありません。

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アスペクト  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月17日(月)23時51分50秒
事実世界のひとつの対象でも、概念把握のアスペクトがありますよね。
>「これは美しい、だけど欲しくない」
>「これは醜い、だけど欲しい」
これは料理についていえそうだと思います。
見た目が美しいので、見ていたい、しかし、味覚には合わないので食べたくない。
そして、その逆。
美しいと、見ていたい、同義語としておかしいですか?
>「これは美しい、だから欲しくない」
>「これは醜い、だから欲しい」
青汁の宣伝ですね(^O^)
これって、ほんとにそうおもっているんでしょうか?
うそじゃないですか?
>というのも矛盾ではなく、十分合理的でありうるでしょう。
これは前件が単なる偽です。

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~□(美∝欲)  投稿者: φ  投稿日: 1月16日(日)03時01分14秒
 美的判断は、欲求とは全く違います。比例関係も相関関係も必ずしも成立しないでしょう。
 このことは、ええと、過去ログhttp://russell-j.com/bbs-2004.htm
 を検索してみると……、たしかウンコの話のあたりだったから……、
 あぁありました、2004年の、
        「美しいもの」 投稿者:φ  投稿日: 8月22日(日)05時45分34秒
 です。
 「これは美しい、だけど欲しくない」
 「これは醜い、だけど欲しい」
 というのは矛盾ではありません。のみならず、
 「これは美しい、だから欲しくない」
 「これは醜い、だから欲しい」
 というのも矛盾ではなく、十分合理的でありうるでしょう。

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(無題)  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月13日(木)22時45分41秒

すくなくも
>C「私はガムランを聴きたい」
は、他者への推測を含まず、直接感覚であろうことはお認め
いただけるわけですね?
いえ、ちがうのかな?
>自分の心への推測が含まれています。
斯く、おっしゃられるのは、自我の欲求も推測が介在していると・・・?
たぶん、意識の変換機能を前提とされていらっしゃいますか?
「わたしはガムランを聴きたい」と
「『わたしはガムランを聴きたい』とおもっている」は内容がほとんど
おなじです。にもかかわらず、前者は価値命題、後者は事実命題である
と振り分けられるわけですから・・・。

>しかも、美的判断のような価値判断には適用できません。
これ、まえにもお話があったように思いましたが、美的判断とは、五感に関わり
「みていたい」「聴いていたい」「感じていたい」「味わいたい」「香りを楽しんでいたい」
の、いずれも「~したい」に関わることはわかるのですが、(お認め頂いていたか
どうか?)これも数値化不可能なわけですね?
>絵の値段が、美の度合を表すことは不可能です。
値段を聞いて、度合いが増すことはあるのではないでしょうか?
わたくし、φさまのお写真をはじめてみた時、「ふーん」という感想でしたが、
あの「可能世界の哲学」をお書きになった方だと知ったときは、お写真を持つ手が
震えてしまいました・・・。
>欲求であれば、究極の場合、脳の関連部位の興奮度を計測して、数値化できます。
えっ?美的判断は、五感に関わる欲求命題と言うことではなかったわけですね。
これは脳の部位の刺激が先にあって、欲求の具体的な感触(クオリアに該当?)
そして、「~したい」という命題に繋がるというわけでしょうか?

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数値化  投稿者: φ  投稿日: 1月13日(木)04時08分26秒
厳密なことを言うと、A「私たちはガムランを聴きたい」B「あなたはガムランを聴きたい」C「私はガムランを聴きたい」は、同じ論理構造を持つと思われます。
 AとBは他者の心への推測が含まれるわけですが、Cにも、この瞬間を越えた延長した部分の(過去・そしてとりわけ近未来の)自分の心への推測が含まれています。

 罰則の数値化(罰金の額や禁固・懲役の日数)については、あくまで実用的な目的で設けられているだけで、当為の度合を表してはいないのでは。しかも、美的判断のような価値判断には適用できません。絵の値段が、美の度合を表すことは不可能です。
 欲求であれば、究極の場合、脳の関連部位の興奮度を計測して、数値化できます。義務や美の場合はそれは不可能です。ある脳において、殺人よりも売春のほうに強く拒否反応が示されるからといって、その脳の持ち主が、殺人より売春のほうをそれだけ「悪い」と思っているということは導けません。(その脳の持ち主が、殺人より売春のほうをそれだけ「嫌っている」ということは導けます。つまり欲求は数値化の規約を設けることができます)

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えっ?  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月11日(火)22時23分34秒

>主語が「私たち」や「みんな」であっても「~したい」と言えるので、
>とくに人称は関係ないであろうと。
「みんなガムランが聴きたい」は、「~とおもっている」が省略されている
ということでは?
ならば、主語に他者がはいりますが、「~したい」は「わたし」しか主語に
なりえないように見えます。
うーむ、根拠ってないのですが、「あなた」が主語になったら「~とおもってる」
は絶対付きますよね。「みんな」も同じでは?

>欲求は、どのくらいの金を出してもやりたいか、といった数値化ができる
>のに対し、価値判断は、いくら出してもやるべきか、といった数値化ができません。
~したい、は欲求願望、ですがここの価値判断は、規範当為と考えてよろしいですか?
法律規則は普通の文体で記述されますが、読み方によって、すべて「~すべし」に
変換可能だと思われます。
同意いただけるかどうか、わかりませんが、もし同意いただけるなら、規則を犯すもの
に罰則規定があります。金銭や拘束が違反者に課せられますが、これは一種の数値化
では?
罰則規定は、「自然主義の誤謬」?

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人称はとくに  投稿者: φ  投稿日: 1月11日(火)02時02分20秒
 主語が「私たち」や「みんな」であっても「~したい」と言えるので、とくに人称は関係ないであろうと。
 欲求は、どのくらいの金を出してもやりたいか、といった数値化ができるのに対し、価値判断は、いくら出してもやるべきか、といった数値化ができません。もし数値化できたら、それは自然的数量化ができたことになり、価値の領域から外れて自然的欲求の範疇に入ると思われます。数値化して自然的事実化しておきながらなおも価値判断だと主張するならば、「自然主義の誤謬」にはまることになるのでは。

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欲求と当為  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月10日(月)21時13分17秒
前者は「~したい」、後者は「~すべし」という助動詞で表現されることが
多いと思います。
>「より良い」は数値化できないでしょうね。
(1)わたしはガムランを聴きたい。
(2)わたしはガムランを聴くべきだ。
(3)わたしはガムランを聴くのがよい。
の三つの表現が可能ですね。いずれも価値命題としていいのではないかと
思っています。(1)の場合、ガムランが聴けなかったら、がっかりするのは
「わたし」ですが、(2)ではその評価が、他者からなされていることを感じさせます。
(3)は特定他者でなく、一般的な同意という感じでしょうか?
「~したい」は主語が「わたし」しかつかないというところは、価値命題は人称区分が
あるのではないかとしてはどうでしょうか?
>価値判断と欲求を混同したところに、情緒主義emotivismの誤りがあったと言えるでしょう。
両者をうまくひとつの体系に、取り込めなかったということでしょうか?

>怨念は、怒りや嫉妬など他の心理特性と同様、機能の側面と、クオリアの側面から
>成るが、クオリアの側面は論理的には不要でしょう。
怨念はどうも、憎悪の対象人物の苦痛状態を実現「したい」という欲求と、「あいつは
わたしに対して、あんなことすべきでなかった」といった、過去事象にたいする当為が
絡んでいるように思います。
●わたしは~したい で、
~でない、が事実のとき、価値否定のターゲットとなるのはわたし。
●わたしは~すべきだ で
~でない、が事実のとき、価値否定のターゲットとなるのはあなた。
●わたしは~がよい で
~でない、が事実のとき、価値否定のターゲットはみんな。
といったことがいえるのではないかと思いますが、命題の肯定と否定が絡む以上
これは論理が関与しているとしてはいかがでせう。
クリプキモデルとは違うでせう?

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値≒欲  投稿者: φ  投稿日: 1月 8日(土)13時00分23秒
 「どう考えてもモーツアルトのほうが上だけど(価値判断)、やっぱガムラン音楽のほうが聴きたいなあ(欲求)」という場合、「より好き」は数値化できるでしょうが、「より良い」は数値化できないでしょうね。数値化できたとたんに、欲求の領域に入るのだと思われます。数値化できるものは、価値判断ではなく、自然的事実に属します(確率判断または欲求)。
 価値判断と欲求を混同したところに、情緒主義emotivismの誤りがあったと言えるでしょう。
 怨念は、怒りや嫉妬など他の心理特性と同様、機能の側面と、クオリアの側面から成るが、クオリアの側面は論理的には不要でしょう。機能さえあれば怨念としての本質は満たされるでしょう。

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あざやかで  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月 7日(金)20時50分8秒
>三者それぞれに可能世界の集合を割り当てて、命題Pはそれぞれ
>8割、5割、1割の諸世界において真、とする。現実世界はランダム
>に実現するのでそれぞれPが真である確率は8割、5割、1割。
>ということでよいのでは。
ございます、クリプキモデルではかく記述されるわけでございますね。

>価値の場合は確率的な数値化すら拒むところがあるので、同様には
>モデル化できないでしょう。
わたくしのオンボロモデルですと、実は価値命題と可能命題をいっしょに
してます。
さきの
>松下さまが、あいつはほとんど信用できない、とおもっているとき
M(P=0.1)
のケースで、松下さまがφさまに、『怨念』を持っているとき、期日がきて
P=0は、松下さまにとって心地よいものになると思われます。
よって、Pの可能性が小さく、Pが松下さまにとって価値のあるもので
あるとき、松下さまは「心地よい」といっていいかどうかわかりませんが
きもい、になります。
一方、松下さまがφさまをご信頼申し上げ、φさまの不幸を我が不幸と
思われているならP=1は、松島様にとっても不幸ですので、Pの可能性の
小さい今の状態は、不安で不快なものとなります。

自我意識の快不快を価値命題のひとつとして、可能世界に展開する試み
はいかがでしょう?先のファジィ判定と同じく、価値も数値化できると思い
ますが・・・。
ところで、φさまにとって『怨念』はクオリアですか?

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あると思われ  投稿者: φ  投稿日: 1月 6日(木)05時21分52秒
 三者それぞれに可能世界の集合を割り当てて、命題Pはそれぞれ8割、5割、1割の諸世界において真、とする。現実世界はランダムに実現するのでそれぞれPが真である確率は8割、5割、1割。ということでよいのでは。
 価値の場合は確率的な数値化すら拒むところがあるので、同様にはモデル化できないでしょう。
 可能性の場合は、主観的確率判断として、数値化できます。確率論の公理に従わないと確実に損するような、ダッチブック定理というのがあるので、ある人が合理的に考えてどのような賭けに応じるか、といった振る舞いによって、主観確率を算定することができます。
 下の場合松下氏は、Pが実現しなければ100円もらい実現すれば900円払う、という条件までは応ずる、それ以上不利な掛け率には応じない、といったような。
 このような数値化ができなくなると、その判断は可能性判断ではなく、価値判断ということになると思われます。

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いいたいこといって  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月 5日(水)23時31分8秒
すみません。実はわたしの想定するところは、信仰のような類の可能命題です。
たとえば、わたくしがφさまに借金を申し込んで、返却を信用するとかどうかの
事例です。この感覚は主観的なものであって、信用するかどうかはファジィ感覚
で解釈するのが妥当なような気がするのです。
P「パンドラがφさまに期日に100万円返金する」
これは期日が来ればPが事実か否かわかるのですが、期日が来ていない時点で
これを論ずる場合、ハムちゃんは、まあ返してくれるんじゃない、との判断をして
H(P=0.8)
φさまが、どうも疑わしいとおもっているとき
φ(P=0.5)
松下さまが、あいつはほとんど信用できない、とおもっているとき
M(P=0.1)
のようになるのではないかと思います。ファジィは(0~1)で表現した場合です。
命題の真理値は客観世界では0、ないし1でクリスプですが、主観的な判断は
ファジィで表現されるのが妥当のような気がします。
>ほんらい客観的に論ずるべきものでしょう。
客観的に述べられるとすれば、三者のうち、いずれが真でいずれが偽であるか
議論されねばなりませんが、主観的判断それぞれに意味があるとなればべつの
議論を設定できます。

上の状況はクリプキモデルで論じることに意味があるのでしょうか?

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可能⊆真偽:価値≒物:心⊇意識  投稿者: φ  投稿日: 1月 3日(月)22時38分35秒
 可能性は価値と違って自然主義的基盤から独立ではないので、ほんらい客観的に論ずるべきものでしょう。
 「論理矛盾でなければ可能」「物理法則に矛盾しなければ可能」等々、可能性はそれなりに自然主義的に定義できるし、しなければなりませんから。
 いろんな言語で、可能・必然など実然様相は助動詞で表わし、価値様相は副詞で表わす、というところにも、両者の違いが暗黙に認められていたような気がします。

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酩酊ついでに・・・  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月 3日(月)00時38分56秒
クリプキの誤謬。
ムーアによって主張された自然主義的誤謬。それよりもヒュームの
「~である」から「~すべきである」は導けない、という主張のほうが
いいのかもしれませんが・・・
パンドラによって主張された疑似ヒューム議論。
「~である」から「~できる」は導けない。

意識の判断に真偽判断と価値判断がありますが、それらは互いに
相容れない判断のようにみうけられます。ついでに可能判断も
真偽、価値とは独立した別個の判断ではないでしょうか?

ということは、クリプキが可能判断を真偽判断にとりこんで、彼のモデル
を構築しましたが、本来、真偽判断が価値判断との相乗りがないように、
可能判断にたいしても根底では相乗りできない。

よって、クリプキモデルは幻影である。
これは、阿呆理詰日記に、お取り込みいただけないでしょうか?

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Re:つれづれ  投稿者: φ  投稿日: 1月 2日(日)16時31分5秒
 「主観的意識とは何か」
 を語るのはきわめて簡単なことですが、
 「この特定の主観的意識はどんなものか」
 を語るのはほとんど不可能、ということですね。

       ――ちょうどこのパターンで阿呆理詰日記を書く予定だったのですが。

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つれづれに~  投稿者: パンドラ  投稿日: 1月 1日(土)21時01分29秒
ふと目に止まりました。 燕雀のざわめきにて、失礼いたします。
主観客観なる術語、わたしは最近、斯様に考えました。

命題Pに対してそれを肯定(1)または否定(0)するのは意識A1,A2・・・
である。実在世界でPは真であるとするとき、A1がこれに同意すればA1(1)
のように記述する。客観的とは普遍と同じと考えて、Pに対する判定が
A1(1)、A2(1),A3(1)・・・・
のときPに対する判定は「いつでもどこでも誰にでも等しく・・・」を満たすとして
客観的判定とする。いっぽう判断が任意で
A1(0)、A2(1),A3(0)・・・
のときPに対する判定は「あるときあるところで誰かが任意に・・・」を満たすとして
主観的判定とする、としてはいかがでしょう?

Pが「1+1は2である」のような真偽判定では、ふつうこれは、客観的なものですが
「1+1が3であればいい」のような価値判定では、これを主観的意識の判定、とす
るわけでございます。
ゆえに
>――主観的意識はそもそも言語化不能なところがあるので・・・
は、不適切ではないでしょうか?

正月の酔いに任せての酩酊、しつれいいたしました。
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