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美作太郎「バートランド・ラッセル-『社会改造の原理』を読んだ頃」

* 出典:『EDITOR』(日本エディター・スクール)1975年5月号、pp.12-15.
* 再録:美作太郎(著)『戦前戦中を歩む-編集者として』(日本評論社)1985年11月号、pp.73-81.
* 美作太郎(みまさか・たろう: 1903~1989.04.03):熊本生まれ。東大法卒。新評論社創立者、日本ジャーナリスト連盟幹事長、日本書籍出版協会理事、日本出版学会会長を歴任。 脳梗塞のため死去。

1.『社会改造の原理』から何を得たか

 県立図書館から借り出して読み耽った本の話を続ける。大正9~10(1920~1921)年頃、私はたまたまバ一トランド・ラッセルの『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)を読んだ。それは松本悟朗訳で、1919年に、日本評論社から出版されていたように記憶している*1。この場合もまた、著者について、またこの本について何の予備知識があるのでもなく、ただ何とはなしに惹かれたもののようであったが、この本を読んで、私はいたく啓発されることとなった。
 1970年2月、97歳で亡くなったラッセルの偉大な業績については、これまで多くのことが書かれ、たくさんの本が内外で出版されている。しかし、ラッセルの全貌を理解することは、なまやさしいことではない。というのは、数理哲学者で、哲学史家で、社会思想家で、文学者で、しかも平和主義の唱道家・実践家でもあったラッセルの壮大な全体像を、そのあらゆる面にわたって捉えるということは、明らかに常人の手にあまる難事業に違いないのだから。したがって、一部の研究者を除く一般人の目から見れば、この20年間、ラッセルは、「ラッセル=アインシュタイン声明」、「パグウォッシュ世界科学者会議」、核武装反対闘争、さらに「ラッセル平和財団」の設立をきっかけとするヴェトナム戦争反対の反米闘争の指導者として大きくクローズ・アップされてきているが、ラッセルの他の側面、とりわけ戦前のことは、むしろ忘れられかけているといってもよいであろう。
 だからここでは、『社会改造の原理』が書かれ、それが日本語に訳された1916~1920年の状況を、もう一度ふりかえって見なければならない。当時ラッセルは40代半ばの働き盛りであった。今世紀に入ってから、かれは数学・哲学の諸論策をつぎつぎと発表して、イギリスの学会に独自の地歩をきずきつつあったが、その矢先に、第一次大戦が勃発した。このときラッセルは、書斎にたてこもったり、政府の戦争政策に随順することを拒否して、平和主義・反戦運動の先頭に立った。かれは「徴兵反対同盟」の委員となった。その結果、ラッセルは権力の側から、そして戦争熱に浮かされた民衆の側からも、攻撃を受けることになった。
 反戦の演説の最中に、釘だらけの板をふりかざした暴漢に襲われたり、ケンブリッジ大字の講壇から追放されもした。反戦パンフレットを書いた廉で、ロンドン市庁の裁判で罰金刑に処せられもした。そして、この激しい戦いの中の思索から生まれた一連の講演が『社会改造の原理』の内容を構成する。
 この本は、市井三郎によれば、「人間社会のほとんどあらゆる側面に対して、ラッセルが因襲破壊的な思想をもっとも集約的にうち出した著作」であり、「知的な目的意識よりは心理の奥底にひそむ衝動の力が、いかに根強い規制力をもつかということの確認にもとづいて」つくりあげられた「一つの平和主義的社会哲学」である*2。 ここでラッセルは、人間の衝動を所有衝動創造衝動に分け、前者の衝動が、国家、戦争、教育、性、宗教などのあらゆる面で支配的になることが何を意味するかを痛論し、創造衝動の開花こそ、平和で自由な社会の前提であることを主張している。
 中学校上級生の私の理解力が、このようなラッセルの思想をどの程度咀嚼しえたかは問題であった。しかし、自分をとりまく社会が肯定的な力と否定的な力とののっぴきならぬ闘いの場であり、文化、自由、平和、創造をめざす肯定的な力の形成に参加することこそ唯一の生きる道であることを、私はこの本から教え込まれたもののようであった。

2.訳者・松本悟朗のこと

 ついでながら、ここで訳者・松本悟朗について触れておきたい。市井はラッセルのこの本の松本訳が「おそらく・・・日本語に訳された最初のラッセルの著書だろう」と文献史的に推測している*3(松下注:松本悟朗訳より1ケ月前の1919年11月に文志堂から、高橋五郎訳で『社会改造の原理』が出版されている。単行本としては日本で最初のラッセルの著作の訳書と思われる。) 松本がその翌年に訳して同じく日本評論社から出した『自由への道』も、私に強い影響を与えた*4
 そしてそれから6、7年後、大学を出て日本評論社に入社してから2年足らずの短い期間ではあったが、私はしばしば松本と会う機会をもった。その頃、中央線高円寺駅北側にひろがる住宅街には、日本評論社の編集長をしていた大畑達雄や、戦後サンケイ新聞の論説委員であったが当時はまだロシア語の翻訳を始めていたばかりの茂森唯士が住んでおり、私は大畑を介して松本を識ることとになった。
 松本は当時おそらく30代で、英書の翻訳を仕事としながら、日本評論社の編集部と顧問的なつながりをもっていた。私や、戦後になって一時日本評論社の社長をつとめた岩田元彦*5らなどはみな駆け出しの編集者の「卵」で、よく松本宅の集まりに呼び出された。集まりといっても、そこでは別にむずかしい議論をするでもなく、ただみなが勝手なことをしゃべって笑い興じ、時としては酒をふるまわれて酔い且つ踊るといった、しごく悠長でのんきなつきあいであった。それは、いわば気のおけない編集者のクラブであった。松本悟朗はそのような自由な雰囲気を楽しみ、若い者と「談論風発」することを好んだようであった。私はそこで、編集、翻訳、評論というような、ジャーナリズムの世界に生きる人びとが分かち合う自由闊達な息吹き、何ものにも拘束されない知的サークルの楽しさを初めて味得したもののようであった。

3.改造社、ラッセルを招く

 バートランド・ラッセルについての追想をつづるからには、この時点(1918~1919年)のすぐあとに起こったラッセルの日本訪問に触れないわけにはいかない。1921(大正10)年の夏、ラッセルはドーラ夫人(注:正式に結婚したのは1921年であるため、この時はまだ夫人ではない)を伴い、中国の講演旅行を終えた足を伸ばして日本にやってきた。改造社社長・山本実彦(右写真)の招待であった。「>改造社は、ラッセル招待について二、三の大学に当たったけれども、どこでも敬遠されてしまった。非戦論者、社会改造論者のラッセルでは、日本領土への上陸さえ許されないだろうとの思惑だった*6。それでもやっと入国を許可されたラッセルは、神戸埠頭での上陸第一歩で、赤旗をかかげて自分を出迎えようとした5万人の労働者が官憲に弾圧されるのを経験しなければならなかった。「ラッセルが日本滞在中、いちばん気分を害したのは、・・・警察の態度だった。京都の'都ホテル'でも、東京の'帝国ホテル'でも、私服が廊下をうろついており、外出のたびに尾行する。・・・。ラッセルの感情を害したいま一つのものは、記者団や写真班の態度だった。・・・。」*7 東京では、大杉栄、堺利彦、石川三四郎らを含む20数名の学者、思想家とホテル(松下注:帝国ホテル)で会見したが、これを取り巻いて警戒にあたった警察官の包囲陣のものものしさに、ラッセルは腹を立てた*8
 雑誌社の社長が、外国の学者・思想家を招待するということは、今日の出版界の常識では取り立てていうほどのことではないであろう。しかし、戦前のこの時点では、それは特筆に値いする事件であった。山本社長は、ラッセルのほかに、アインシュタイン、マーガレット・サンガー、バーナード・ショーなどを招んだ。かれらは当時、世界の学術、文芸、思想の分野でそれぞれ先駆的な役割を果たしつつあったが、同時にまた、権力や伝統の側からは、いずれも手ごわい「問題児」扱いにされていた。ショーの皮肉とつむじ曲がりはいうまでもなく、サンガー女史の産児制限の主張もまた、「危険思想」のレッテルを貼られていた。そのような人物を海外から招待し、かれらに書かせたり、しゃべらせたりすることは、それに伴いがちな「危険」を考えるならば、並々ならぬ勇気と決断を要することであった。しかも山本は、雑誌『改造』が創刊されて、まだ2年になるかならぬかという時点で、この「壮挙」を敢えてしたのであった。
 この点について、前掲『出版人の遺文・改造社山本実彦』の巻末解説は、山本が「精農型」の出版界正統派に対して「異端」であり、「単なる出版業者以外の何者かであった」し、山本の出版理念は「日本の文化を世界的視野の中で国際レベルまで引き上げよう」という点にあるとして、ラッセルらを日本へ招待した功績を評価することを忘れていない*9。いずれにしろ、わが国のジャーナリズムと出版の歴史の上に発揮された、改造社と山本実彦の業績は、注目すべきものであった。かれがジャーナリストとしても、出版業者としても、型破りの独創性と鋭敏な機動性を発揮した傑物であったことは疑いを容れないところであろう。
 さて、ラッセルの『改造』への寄稿は、訪日の前年1920年の10月号の「政治の理想」に始まり(松下注:これは1919年に出版された Political Ideals の邦訳/ラッセルの『改造』への寄稿は、1921年1月号が最初)翌1921年にはほとんど毎号独立の論文が寄稿され、さらに1922年から1923年にかけて、多少の断絶はありながらつづいて、16篇(松下注:15篇)に及んでいる。これは、ラッセルが日本嫌いになったという風説とは反対に、日本の知識階級に対して強い関心を寄せていたことを物語るものであろう。そのうち、1921年中に寄せられた8篇をまとめた論文集が、1922年(大正11)年早々に、バートランド・ラッセル著『愛国心の功過』という題の単行本として改造社から出版されている。この本の内容となった論文がその後イギリス本国で英語で公にされたのか、どういう形で出版されたかについて、私は知らない(松下注:1923年にいくつかの論文が追加されて The Prospects of Industrial Civilization として英国で出版されている。また『産業文明の前途』というタイトルで1928年に早稲田大学出版部から邦訳書が出版されている。)
 この日本版の出版は、日高一輝の著書(注6参照)や『世界の大思想』第26巻のいずれの巻末にも記載されていない*10。四六版布装上製、9ポイント四分あき組版の訳書には「バートランド・ラッセル著」とあるだけで訳編者は改造社、その上序文もあとがきもついていないのであるから、今日の書誌学的水準からすれば、もの足りない想いをさせられるが、それにもかかわらず、この本が当時の知識層に与えた衝撃には藪いがたいものがあったようである。

4.アンウィンのたたかい

 終わりに、『社会改造の原理』の原書がイギリスで出版された経緯について述べておきたい。ここで再びサー・スタンリー・アンウィンが登場する。市井三郎は上掲書の解題でこの点に触れ、戦時の迫害を受けていたラッセルのこの本の刊行を、同じく平和主義者であったアンウィンが引き受け、「これが機縁となって、アンウィンとラッセルとの間に以後長年にわたる親交関係が生じ、ラッセルの著書をドイツはおろかインドや日本にもひろく読まれるものとした功績は、アンウィンに帰せられるという」と書いている(前掲「解題」p.273)。
 しかもアンウィンは、初期のアンウイン社で「不人気な」ラッセルのこの本の出版を可決させるために「出せば儲かる」と言い張って悪戦苦闘しなければならなかった。ラッセルの方でも、アンウィンの熱意に感謝しながらも、「私の思想には愛国心が足りないとよくいわれますが、・・・この点がのっぴきならぬ支障にはなるまいとお考えのようでしたら、喜んで原稿をお送りしたいのですが・・・」と遠慮がちに申し出ている。そして送りつけられた原稿を吟味した社内の意見が、内容が過激だとして否決に傾いたとき、ラッセルのこの本を激賞してアンウィンの肩をもち、遂に出版へと踏み切らせたのが、J.H.ミュアヘッド教授であった*11。ラッセルのこの本は、他の著書とともに、今日、ジョージ・アレン・アンド・アンウィン社の出版目録に掲げられており、すでに60年近く生きつづけた古典となっている。(了)


(1)正確にいえば、この本の発行所名は日本評論社出版部となっていた。のちにこの社名が日本評論社となった経緯については、後述(p.178)にゆずる。
(2)市井三郎「『社会改造の諸原理』解題」(『世界の大思想第26巻』河出書房、1966年)p.374
(3)前掲書p.373
(4)松本悟朗のラッセルの翻訳は、1919~1921年にかけて、『政治の理想』『ラッセル論集』、さらに「ラッセル叢書」と銘打って、物理学や哲学に関する論稿をも出版している。その傾倒のほどを知ることができる。(松下注:「ラッセル叢書は、Mysticism and Logic, 1918 所収の論文を邦訳して分冊出版したもの)
(5)岩田元彦は、私と中学の同窓であったが、私と同じ頃、日本評論社に入社し、戦後同社を退いてからも、一貫して法学出版にたずさわり、1983年に亡くなった。
(6)日高一輝著『人間バートランド・ラッセル-素顔の人間像-』(講談社、1970年)p.107~
(7)前掲書pp.112-113。
(8)山本実彦「ラッセルの来朝」(『(出版人の遺文)改造社・山本実彦』栗田書店、1968年)p.57~
(9)前掲書pp.105,107,115.
(10)最近に出た牧野力著『ラッセル思想辞典』(早稲田大学出版部、1985年)の「原書目録」には、この本の題名が挙げられている。
(11)Sir Stanley Unwin: The Truth about a Pubisher(George Allen & Unwin, 1960)pp.151-152. ちなみに J. Henry Muirhead(1855-1940)は、カント、ヘーゲルの影響を受けたイギリスの哲学者で、アンウィンと親交があり、アンウィン社は「ミュアヘッド哲学叢書」を出版した。