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『最愛の人、わが父ラッセル』への訳者(巻正平)あとがき

* 出典:キャサリン・テート(著)、巻正平(訳)『最愛の人、わが父ラッセル』(社会思想社,1976年12月刊 4pp.(=口絵写真)+ 290pp.)
* 原著:My Father Bertrand Russell, by Katharine Tait, 1975.
*巻正平(1922~1995年10月13日):東大哲学科卒の評論家。相模女子大学学芸学部長を歴任。

訳者あとがき(巻正平)

 本書は Katharine Tait: My Father Bertrand Russell, 1975 の全訳である。
 著者のキャサリン・テート(本文中でのケイト/右写真:14歳の著者)はバートランド・ラッセルのひとり娘であり、本書は、父と娘の精神的対話の書として、ラッセルという偉大な思想家を内側からのぞかせてくれる貴重な文献になっている。
 バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルは1872年、英国の名門ラッセル家の次男として生まれた。祖父のジョン・ラッセルは第六代ベドフォード公の第3子で、英国首相を2度務め、初代伯爵となった。バートランド・ラッセル、兄フランクの死後、第3代の伯爵となり、1950年(松下注:1949年の間違い)には英国の最高の名誉とされるメリット勲位を受け、同年(翌年1950年)にはさらにノーベル賞を授与されるなど、あらゆる栄誉に輝いた世界的人物であった。
 ラッセルは4歳のときに両親を失い、その後は祖母(本文中のラッセルおばあさん)の手で育てられ、ケンブリッジに学んだ。彼の名を不朽ならしめたのは、1910年から1913年にかけて発表されたホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』(「数学原理」全3巻)であった。
の画像  ラッセルは、その後も『ライプニッツの哲学』、『哲学の諸問題』、『西洋哲学史』などの哲学書をはじめ、教育、結婚、政治などについての一般向けの著書数十冊を発表し、晩年には『X嬢のコルシカ(島)探検』ほかの創作を手がけるなど、めざましい著作活動をおこなった。
 いっぽう、中国、アメリカをはじめとして世界中を講演旅行し、英、米の大学で教鞭をとり、さらに第1次世界大戦以後は平和運動に身を挺するなど、1969年(松下注:1970年の間違い)に97歳という高齢で死亡するまで、そのはなばなしい活動は絶えず世界の注目の的となった。
 とくに、第1次世界大戦のさい、良心的徴兵忌避者の運動を支持して投獄され、第2次世界大戦以後は非核武装闘争を展開、再び投獄されるなど、その信念の強さと実行力は世界中の驚異の的だった。
 しかし、アインシュタインをして「偉大なる人間」といわしめたラッセルの生涯は、必ずしも平坦なものではなかった。その生涯については『自伝』(日高一輝訳『ラッセル自叙伝』全3巻)に詳しいが、じつは、その『自伝』にも明らかにされていないつまずきもあった。その隠れた部分をあからさまにしたのが本書である。
 本書の著者ケイトは、1923年、ラッセルのひとり娘として生まれ、兄ジョンとともに幼少期をほとんど無菌室状態のもとで育てられた。著者の両親は、1種の理想主義のもとに、新しい人間を育てることを目標に、自分たちの2人の子供を教育するために自分たちの学校(ビーコン・ヒル・スクール)をつくったほどであった。しかし、ラッセルは、自らの理想主義のために、結果的には子供たちを犠牲にしてしまった。本書の著者がいうように、実験学校はすべてが失敗であったわけではなかった。その教育方法はすばらしいものがあった。だが、2人の子供の精神的傾斜が芽生えたのも、その5年間においてであった。
 ラッセルの理想主義が子供たちを犠牲にしたのは、その結婚観において最もはなはだしかった。
 ラッセルは生涯に4度結婚している。アリス、ドーラ、ピーター、エディスが本書に出てくる4人の妻の名である。本書の著者ケイトはラッセルの2度目の妻ドーラとのあいだの娘で、両親の離婚のあとはドーラと義母ピーターとのもとで半々に暮すことを運命づけられた。ケイトとその兄ジョンの不幸は、こうしたラッセルの結婚のあり方に根ざしていた。(右写真:1939年夏、ヨセミテ渓谷にて/原著より)
 ラッセルにとって、その著『結婚と道徳』(1929年初版)はまさに人生を大きく揺がす原因となった。『結婚と道徳』の中で、ラッセルは結婚外性交を認めるよう主張し、つぎのように書いた。
「私は、文明人は本来、男女を問わず、本能としては、一般に一夫多妻または一妻多夫的であると思う。彼らは深い愛に落ち、何年間かは1人の人間に夢中になっているかもしれぬ。しかし、遅かれ早かれ、性的に相手を知りつくすことが、情熱の刃を鈍らせる。そうして次には、彼らはかつてのスリルの復活を別に求めはじめる。もちろん、道徳を守るために、この衝動をおさえることは可能である。しかし、衝動が起こらないようにすることは非常に困難である(江上照彦訳)。
 そして、さらにつぎのように書いた。
「私が勧める制度では、なるほど夫婦の貞操の義務はなくなるが、しかしそのかわりに、嫉妬をおさえる義務を負うことになる。自制しないで、良い生活を送れるものではない。しかし、愛のようなおおらかな、広びろとした情緒より、むしろ嫉妬のような拘束的かつ敵対的な情緒を抑制するほうがまさっている。因襲的道徳のおかした誤りは、自制を求めたことではなくて、求める場所をまちがえたことであった」(同上)。
 ラッセルは、そのとおりに実行し、2度目の妻ドーラがほかの男とのあいだに2人の子供をつくっても嫉妬を示さなかったかわりに、「かつてのスリルの復活を別に求め」てピーターと、続いてエディスと結婚し、ジョンとケイトはもちろんピーターとのあいだの子供のコンラッドをも不幸にしたのである。(松下注:この辺の記述は単純化しすぎており、誤解を与えやすい。ラッセルは自由恋愛論者ではあったが、婚外に子供をつくれば2人だけの関係でなくなり、また事態が複雑になり、結婚生活を破壊する可能性が高くなるため、それだけはするべきではないと考えていた。しかし、ドラはそのようには考えず(婚外であっても子供をつくるのは産む女性の自由と考え)、他の男性との間に2人の子供をつくったため、2人の関係は修復不可能となってしまった。なおコンラッドは後にケンブリッジ大学教授となり、晩年のラッセルとはかなり良い関係を持つことができた。)『結婚と道徳』は、さらに、アメリカでのラッセル一家の生活を危機にさらす原因ともなった。予定されていたニューヨーク・シティ・カレッジの教授就任がその本の結婚観、道徳観、宗教観のゆえに取り消されることになり、一家を財政的窮乏状態に追い込んだからである。(ラッセル著『結婚と性道徳』に関するFAQから。)
 いっぽう、『結婚と道徳』はのちの非核武装運動その他のラッセルの活動に大きなプラスとなるノーベル賞の対象となったのである。「1950年の終わりにノーベル賞を受賞しにストックホルムに招かれた――それは、いささか驚いたことにわたくしの著『結婚と道徳』-にたいする文学賞であった」(『ラッセル自叙伝』第3巻・日高一輝訳/松下注:ノーベル文学賞は1冊の著作に対して与えられるものではない)。
 ラッセルが「いささか驚いた」のも無理はなかった。自分の結婚―離婚―結婚の連続が生んだ数々の不幸や、子供たちを育てることの失敗などによってすでに自分の理想を説く気持が弱くなっていただけでなく、かつてニューヨーク・シティ・カレッジの職を失う原因となったものが、こんどは大きな賞の対象となったのだから。
 第3代ラッセル伯爵、メリット勲位、ノーベル賞受賞者であると同時に、数理哲学者、論理学者、偉大な思想家としての名声をほしいままにしたバートランド・ラッセルが、当時の有名人の多くと交流があったのは当然ではあるが、『自伝』に現われるつぎのような名前には圧倒される思いがする。

 アインシュタイン、バーナード・ショウ、G.E.ムーア、シドニー・ウェッブ夫妻、T.S.エリオット、ホワイトヘッド、ウィトゲソシュタイン、ノバート・ウィーナー、ケインズ、マリノウスキー、ジュリアン・ハクスリー、トインビー、カルナップ、ジョリオ・キューリー、ネール、エリナ・ルーズスベルト。

 たしかに、ラッセルの生涯は波瀾に富み、一見華やかだった。しかし、家庭におけるラッセルの苦渋については、これまであまり知られていなかった。まして、子供からみた父親としてのラッセル像は本書がはじめて明らかにしたにすぎない。
 本書の著者ケイトは、父ラッセルに対して愛と恨みのアンビヴァレンツ(反対感情両立)な感情を抱いている。そして、ラッセルが放棄したキリスト教へと回心する。しかし・ケイトは心の底から満足できない。ケイトの心は神と父との両方を指向し、その2つが一体とならないかぎり、真の幸福を見出せないもののようである。

 20世紀の偉大な思想家バートランド・ラッセルは、理想的な親であろうとして、逆に子供たちの心を引き裂く結果に終った。しかし、本書を読むかぎり、ラッセル自身も、ヨーロッパ的合理主義の犠牲者であった。科学を重くみて宗教を否定し、自由と婦人解放のために闘ってその戦場で傷つき、世界平和のために身を挺してついに敗北した(松下注:「敗北」と決め付けているが、なにをもって、またなぜ敗北と考えるか、説明がないため不明)。そして、自分の子供たちさえ幸福にしてやれずに死んだのである。
 あるいは、ラッセルは満足して死んでいったのかもしれない。個人的な幸福より、世界人類の幸福のために一生をささげることが彼の不変の信条であり、彼はまさしく最後までそのように生きたのだから。
 結局、著者ケイトも、父ラッセルを「聖人」とみなさざるをえなかった。つまり、ラッセルは自分の子供の幸福よりも、人類の理想のために殉じた聖人だったのである。著者ケイトは、自分自身について多く語ることによって、かえって人間ラッセルを生き生きと描き出すことに成功している。そして、父を恨み、心を引き裂かれながら「わたしが愛したただ1人の人」としてラッセルに'無限の愛'を抱くのである。
 ラッセルの『自伝』を含めて、いかなるラッセルの伝記も、彼を20世紀の聖人として位置づけることにおいて、この本ほどに成功したものはないのではなかろうか。
 本文中の人名については冒頭に掲げてある人名録を参照されたい。なお、ケイトはキャサリンの、バーチー(バーティー)はバートランドの、ピーターはパトリシアの、アニーはアンの愛称である。