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小泉信三「学問芸術と社会主義」

* 出典:『三田学会雑誌』1919年(大正8)11月号所収
(再録)小泉信三全集第1巻pp.208-227
* 小泉信三氏(Koizumi Shinzo: 1888.5.4~1966.5.11):経済学者/略歴:1910年(明治43):慶應義塾大学部政治科を卒業と同時に義塾教員となる。1912年(大正1)~,英,独,仏に留学。1916年(大正5)帰国後,教授に就任。リカード研究,マルキシズム批判の理論家として活躍。1933年(昭和8)~1947年(昭和22),慶應義塾長。1959年(昭和34),文化勲章を受章/ 主な著書:『海軍主計大尉小泉信吉』(文藝春秋),『ペンは剣よりも強し』(恒文社),『近代経済思想史』(慶應義塾大学出版会)
* 本論文執筆当時(1919年),小泉信三は31歳。本論文は主として,ラッセルの Roads to Freedom, 1918 の中の1章「社会主義の下における芸術及び科学」について論じている。
* ラッセルは,1921年7月28日,慶應義塾大学大講堂で「文明の再建」という演題で講演を行っているが,この講演会の実現には小泉信三氏の尽力があったとのことである。
小泉信三の墓


 
 現在労働者の大多数は学問芸術を解する余裕なく,従ってその力なし。彼等の趣味は洗練を欠けり。(謂わゆる資本家の多数もまたこの点においては甚だしく労働者と択ぶところあるに非ずと雖も) この故に学問芸術をもって文明至高の産物と為すものの中に労働者階級の勢力増長を喜ばざるものあるは異しむに足らざるなり(注:「異とするにたらざるなり」と書くべき?)。加うるに労働者階級の運動は究極社会主義に向うの勢いを示す。而して通俗に解せらるるところに従えば,社会主義は必ず個人の平等化と,団体の個人行動に対する拘束とを連想せしむ。然るに真正の学者,芸術家が最も愛するところのものは自由にして,その最も憎むところのものは凡庸なり。加うるに学問就中芸術は貴族富豪の間にその保護者をもとめたるの伝統あり。而して貴族富豪の優越の地位は漸く労働者の揺がすところたらんとす。学問芸術の隆昌は遂に労働者階級解放の運動と相容れざるか。学者,芸術家の中に時勢の非なるを見て,或いは痛嘆し,或いは恐怖するものあるはもとよりその処なり。既に十九世紀のドイツ哲学者 Eduard von Hartmann その著『美の哲学』(Philosophie des Schoenen) 中に,芸術の発達のためには労働者の要求の斥けざるべからざる理を説きて謂えることあり。「人生の実なる需要は,ただ官快を知りて美を知らず。実なる需要充足して,而る後理想の需要生ず。美はその一にして,此意義よりして見るときは,贅沢 Luxus たることを免れず。古代の民または野蛮人の初めて兵器を作るが如きは,以て実なる需要に充つるものにして,そのこれに彫琢を加ふるは,理想の需要を生ぜるなり。
 「国民のいまだ階級を生ぜざるや,その需要と想需とを同享す。衆と共に祭儀を行ふ類これなり。貴族の生ずるや,二種の需要はこれが為に私せらるる傾きあり。たとへば,羅馬(ローマ)の世に,奴隷は費用を弁じ,公民はこれを受用するが如し。現時は奴隷なくして労働者あり。この時に当りては,在上者の贅沢は,これを実需にするとこれを想需にすると,大にその趣を異にす。実需は労働者これを責めず。其故は,己また其需要を解すると,其需要の傍ら己を利するとに在り。想需は労動者多くこれを責む。労働者は,理想の贅沢を見て贅沢となすこと,実なる贅沢を見て贅沢となすより甚しければなり。俗論者往々多情多恨にして,労動者の言ふところに雷同し,これと共に芸術の発達を妨ぐ。過てりといふべし」と。また芸術の保護を論じて謂えらく「国家,自治体,若くは個人の,芸術を補助せむと欲するや,社会論者は必ず問をなして日く。貧苦を救抜すると芸術を補助すると,何れか急なると。これに答ふるに二途あり。一,民福論 Eudemonismus は,人生の志は多数の人の福祉を得るに在りとなせり。この見(方)よりすれば,救貧を以て急務となす。二,進化論 Evolutionismus は,人生の志は智識開明に在りとなせり。この見よりするときは,芸術を補助するを急務となす。所以者何に(ゆえんはいかに)といふに,救貧の事業は,一面,人口をして蕃滋ならしめ,一面,需要の殷富(いんぶ)と共に長ずることを致す。故に救貧の事業の終るを待ちて芸術を補助せむと欲すれば,終に芸術を補助する期に至るを見ざるべし。これに反して人智の開明は,想需を解するものの員数を増加し,後昆の為に受用の区域を拡む」と(森林太郎,大村西崖同編 審美綱領 上巻四十七,四十八)。 予は今ここに Hartmann の論の当否を議し,この問題に関する最終の判定を下さんとするものにあらず。予はただこの問題が世の社会政策を論じ,社会改造を説くものの必ず触れずして廻避すること能わざる重要問題なることを指摘せんと欲するのみ。社会政策論者は,当面の時局問題を論ずるに忙し。労働者団結に関する法規は如何に改正すべきや。労働時間の短縮は如何なる程度においてこれを行うべきや。少年,女子労働者に対しては如何なる保護を加うべきや。労働者の失職防止のためには如何なる設備をなすべきや。既に失職したるものはこれを如何に救済すべきや。労働者の疾病老衰に対しては如何の方策を講ずべきや。これに対して社会保険の制を設くべしとせば,国家の費用をもって無償的にこれを行うべきや,将(は)た労働者自らの醸金を俟(ま)つべきや。労働者をして醸金せしむべしとせば,その料率は如何。それ社会政策学者の論すべき問題の夥し(おびただし)きことかくの如し。然れどもこれ等の方策,事務,手続の調査をもって社会政策論の能事畢(おわ)るとなす短見者にあらざるよりは,幾十年の後これ等諸般の社会政策的施設の集積が今日の社会と面目を異にする新社会を造るに到るを予見せざるものなし。果して然らば本文の標題に掲げたる問題は世の社会政策を論ずるものの当(まさ)に先ず考究せざるべからざる問題にあらずや。

 

 然れども学問芸術を尊重するもの必ずしも常に社会主義を喜ばざるにあらず。まことに学者,芸術家中,労働者の運動を観るに危倶の眼をもってするものあるは理なきにあらず。然りと雖も社会主義の取ってこれに代らんとする資本主義社会もまた決して芸術学問と好く相容るるものにあらず。資本主義に随伴する物質主義,打算主義やや貶め(おとしめ)ていわば,ドイツ人の謂わゆる Kramergeist(素町人根性)は決して,真正の学者,芸術家のために快適なる雰囲気を作るものにあらず。William Morris を駆って社会主義に赴かしめたるものの資本主義社会の俗悪なりしことは,これを別の処に述べたり(拙稿「二種のユウトピヤ」 雑誌『解放』大正八年九月号所載)。 Morris は芸術家にして,また実に芸術家たりしがために社会主義者となりたるなり。Oscar Wilde は偉大なる文人と称すべきや否やを知らず。然れども彼れはイギリス近代において特色甚だ顕著なる作家なり。而してその特色の一は美を尊重して度に過ぎたるの観あることこれなり。然るになおこの人に社会主義を主張せる Souls of Man under Socialism の著あることを思えば,芸術と社会主義と相容れずと云うの決して万人認承の通説にあらざることを知るに足るべし。ロシヤの経済学者 Tugan-Baranowsky は人格尊重の根本観念より出発して社会主義に到達したる人なり。彼れもまた資本主義の「氷冷の気」が人の美感を枯死せしめたることを嘆ずるものにして,資本主義が人の精神能力を退化せしめたることについて Galton (優種学の祖 Francis Galton か)の説を引けり。Galton は現代ヨオロッパ人の精神能力はこれを古代ギリシャ人に比するときはその劣れることなお黒奴の現代欧洲人におけるが如しと謂えるなり。而して Tugan-Baranowsky 謂えらく,この説は決して誇張にあらず。まことに吾等は驚嘆すべき機械と殺人器具とを発明したり。然れどもこれは以って精神力の尺度となすに足らず。機械の製作は蛮人と雖もこれを能くす(sic)。ただ Medici の Venus を彫刻することに至っては美に対する特殊の感受力を恵まれたるものを俟(ま)たざるべからず。而して吾等に形体の美の企及すべからざる模範を示せる,古代美術の製作品は多くはこれ無名家の製作にして,しかも吾等が見ることを得るは僅かにその一小部分に過ぎざることを思えば Galton の説決して当を失せざることを知るべし。吾人は Pompeii の発掘を待って始めて古代壁画の如何なるものなるかを知れり。而して Pompeii は何ぞ。ロオマの一小地方都市に過ぎざるにあらずや。しかも Pompeii の壁画は現時の大芸術家(sic)Boecklin を鼓舞すること尠少(せんしょう)ならざりしなり。資本主義は芸術の全領域を毒せり。精神上の独創と人生の美的傾向とは為めに到る処に凋萎せり。近世の芸術家にして思想家たるものの間に,現代芸術の不振の原因をもとめてこれを現時の社会生活の状態に帰し,芸術上の論拠よりして資本主義を非とする Aesthtic Socialims とも称すべき運動を起せし者あるは異しむに足らざるなり。その最も顕著なる代表者を Ruskin とす。Morris の社会主義もまた或る程度まで起原を同じうせり。現代の特徴にして資本主義の必然的随伴物の観ある粗野と美感の欠如とは,高き洗練せられたる趣味を有するこれ等の人士をして遂に忍ぶこと能わざるに至らしめたるなりと(Tugan-Baranowsky, Modern Socialism, pp.23-25)。
 同じ Tugan-Baranowsky は更に謂えらく,芸術学問の大いに隆興せんことを希わば先ず人を過激なる労働より解放して閑を与えざるべからず。而してこれは正に社会主義の為さんと欲するところなり。社会主義の下においては一切の評価は改められ,名声と栄誉とは学問芸術によって人類を稗益したるものの担うところたるべく,而して学芸は少数富者の専有物たる境界を脱してその恵沢を受くるものの員数は必ず増加して已まざるべしと(同書二〇~二二頁)。果して然るか。予は今直ちにこの言の可否を断言するよりも,先ず広くこの問題に関する諸家の説を聴き,以ってわが判断の資に供せんと欲す。
 英人 Bertrand Russell が社会主義,無政府主義及び「サンヂカリズム」を評したる近著 Roads to Freedom の中,「社会主義の下における芸術及び科学」と題する一章を取りて,その論旨の大綱を窺わんとするもまたこの意に出づるに外ならざるなり。Russell は近時わが評壇における流行の哲学者なり。独立の見識を立つことを喜びて附和雷同を憎むものは恐らく流行哲学者の言説を聴くこと,頻りなるを好まざるべし。然れども Russell の所説には頗る特色の認むべきものあり。その学者,芸術家の創作心状に対する観察と,最新社会主義理論の見地に立ちて国家社会主義,無政府主義及び「サンヂカリズム」に対して下せる批評とは共に傾聴に値するものなりと信ず。これ予が読者の姑(しば)らく Russell の流行の人たることを忘れて,その論旨を聴かんことを欲する所以なり。

 

Russell 先ず記すらく,社会主義はその唱導者多くは専らこれを賃銀労働階級の利福,委(くわ)しくいえばその物質上の利福を進めんがための方便として主張す。故に所志の物質上にあらざるものにとりては芸術上,思想上,文明の進歩に対して社会主義は何等貢献せんとするところなきものなるかの観を呈するなり。加うるに社会主義者中の或る者が(Marx もまたその一人たるを免れず)必ずしも深く思わずして記すところを窺えば,社会主義革命は一挙にして極楽境を現出し,復(ま)た人類進歩の要なきに到らしむとなすものの如し。現代人に特に静止不動を好まざるの性あるか,或いは進化の思想広く現代人の脳裡に存するものあるか,その理由は余の知らざるところなりと雖も,今日吾人は固定不動の完成状態なるものを信ずること能わず。吾人が承認せんとする社会制度は更に善き状態に向って進前(ママ)すべき刺戟と機会とを内に包蔵するものたることを要するなり。社会主義は果たして芸術学問と相容れざるか。社会主義は果して生長進歩の困難遅緩なるべき凝結せる社会を造らんとすべきや。
 社会主義はまことに労働者階級のためにその物質的境遇の改善を主張す。然れども男女老幼が物質上に安楽なるを得ることは以って吾人を満足せしむるに足らず。今日富裕階級に属するものの多くはこれを為すべき機会あるに拘らず,文明のために何等価値ある貢献をなすところなく,また一身のために計りても幸福と呼ぶに足る幸福を求むることを能くせざるなり。社会主義にしてこの種の人物を幾倍加するに終るべしとせば,そは人の熱情を振起するに足らざるべし。Naquet は日く(L'anarchie et Collecivisme, p.114)「共同団体的生存の真の使命は学び,発見し,知ることにあり。飲,食,眠,一言をもって蔽えば,生活は附属物のみ,この点においては吾等は獣類と択ぶところなし。目的は知識にあり。予にして仮に人類の物質上に幸福なること牧場に飽食せる羊群の如くなると,窮厄の裡に生存するも,永劫の真理の時々その中より発現すると,いずれかを択ばざるべからざるに陥らば余が撰の落つるは後者にあり」と。この極言に対しては抗議するものあるべし。然れども進歩のために思想の重要なることはこれを看過すべからず。凡べての者が飽食暖衣これ喜ぶの状にある社会よりも,一方に専念知識を追求する人あると同時に,その傍らに窮苦を忍べるものある社会の遙かに進歩の望みあること疑うべからず。まことに貧困は大悪なり。然れども物質上の殷富そのものは直ちに大なる善にあらず。物質的繁栄をして社会のため真に価値あるものたらしめんとせば,これを精神生活上の進歩に資するものたらしめざるべからず。学問芸術は特殊の天賦あるものを俟(ま)って発達す。今かくの如き天賦あるものをしてその能力を発揮すること能わざらしむるが如き社会制度は,他に如何なる長所あるもこれを非とせざるべからずと。

 

 現時においては殆ど一切の業は報酬のために営まるるの観あり。故に深く学者,芸術家の心理を観察せざるものは,学芸を奨励するの途もまた,学者,芸術家に対する報酬を厚うするにありとなす。Russell はこの俗見を駁すること最も痛切なり。謂えらく,最良の創作は金銭的報酬をもって誘うこと能わず。欠くべからざるは機会と刺戟を与うる精神的雰囲気とこれなり。これあるときは金銭上の誘引はなきも妨げず。これなき時は金銭上の誘引はあるも甲斐なし。まことに業作の表彰はその金銭の形において行わるる時と雖も,以って学者,芸術家を慰むるに足るべし。然れども抑も(そもそも)創作はかくの如き遠き将来の快楽に誘われてこれを志すものにあらず。学芸上最大の創作は,打算を絶したる衝動より生ず。能くこれを奨励するものは事後の報酬にあらずして,実に創造衝動の活力を持続せしめ,且つその衝動より発する行為に自由活動の地を供するが如き境界なりと。而してこの見地より見て現在の制度には欠陥甚だ多し。社会主義の社会は果して如何。
 Russell は,この問に対して一概に答うることをなさず。蓋し(けだし)彼れの見るところをもってすれば,或る形態の社会主義は遙かに現在の制度に優るべきと同時に,或る形態の社会主義は資本主義の制度よりも更に劣るべきをもってなり。およそ一社会制度の学芸上の創作に利なると否とは Russell これを三個の点について判ずべしとなす。(一)技術的練習(教育),(二)創作衝動発揮の自由,(三)公衆の認識これなり。今逐次これを論ぜん。

 

 (一)技術の練習: 技術練習(教育)のためには現時においては二条件の一備わることを要す。即ち少年の富裕の家に生るるか,或いは競争試験に合格して奨学資金を受くるか,これなり。第一の条件は社会主義,共産主義の下においては存続することなし。而してこれは現制度擁護者の嘆惜するところなりと雖も,抑も富裕階級は全国民の一小部分に過ぎず。且つ概して云えばその薄倖なる同胞よりも特に天賦豊かなるものと認むべき理由なし。故にもし今日天分ありて富裕の家に生れたるものの受くる利益を,同等の天分を抱ける凡べての者に及ぼすことを得ば,その社会のために利なるべきこと論をまたず。然らば如何にしてこれを行うべきか。競争による奨学資金の制はこれなきに勝(る)と雖もまた弊害甚だ多し。その児童に競争心を起さしむるは,知識を見るに,その純正の価値と興味との見地よりせずして,試験に有用なりや否やの見地よりするに至らしむるは二,早熟の才童に有利にして,晩成の大器に不利なるは三,而して少年を過労に陥らしめ,長じたる時,既に気力と興味との銷磨(しょうま)せることを致す傾きあるは,弊害の最大なるものなり。国家社会主義は恐らく競争試験による奨学資金制度を普及せんとするならん。然れども抑も競争の弊害は,社会主義者の現制度を非とする理由の一つに非ずや。故に苟も社会主義を可とするものは,この理由のみをもってするも,奨学資金制度以外,別にこの問題を解決するの方を講ぜざるべからざるなり。
 Russell の解決は甚だ単簡(簡単?)なり。そは年二十一に達するまで一切男女に対し,凡ての教育を無料にすべしというにあり。謂えらく,かくの如く教育を無料となすも,多くの人はこれを受くるに倦み,未だその年に至らずして別の業に服することを択ぶならん。而して残るものは真にその教育を欲するもののみなるべし。勿論画家たらんと欲するもの必ずしも画才あるにあらず。高等の教育を受けたるものの中,才能のこれに適せざるものあるべきことはこれを予期すべし。然れども,かくの如き徒費は社会の能く負担し得るところにして,これを現在,怠惰なる富者を養うの負担に比するときは遙かに軽しと云わざるべからず。この提案は理論上よりすれば現在社会においても行い得ざるに非ずと雖も,実際上において社会主義もしくは Anarchism をまって始めてこれを実現すべし。而して社会主義がこの提案を実現するを得ることは,社会主義を可とすべき有力の一論拠たるべし。現時社会の下層において人才の徒費せらるること爾(し)かく甚だしきものあるをもってなり。

 

 (二)創作衝動発揮の自由: 学芸上優良なる創作は才能ある人がその心の赴くに委せ,「専門大家」の批判を意とせずしてその自ら善しと信ずるものを作る時にのみ生る。然るに,これは現時においては資産あること Milton, Shelley, Keats, Darwin の如くなるか,或いは創作以外別にその全力を銷せざる程度の職業ありて,これによって生計を営む人の始めて能くするところなり。然れども社会主義の下においては資産ある人なるものなし。一方,創作と職業と最もよく両立するは,学問の研究と学問の教授となり。現時学問の発達著しき理由の一つはここに覓(もと)むべきか。音楽においては作曲家にして兼ねて演奏家たるものの境遇はややこれに似たりと雖も,演奏せざる作曲家は俗に媚ぶるにあらざるよりは餓えざるべからず。美術においては真に優良なる制作をもって衣食すること,適当なる補助的職業を求むること共に困難なり。芸術の学問よりも振わざる一理由は恐らくここにあるべし。
 官僚的国家社会主義者のこの難問に対する解決は極めて簡単なるべし。即ち学界または芸林知名の大家を招集して Academie の如き団体を組織せしめ,これをして新進者の制作を審査せしむることこれなり。而して審査に合格したるものは,その創作をもって社会に貢献するところありたるものと見做し(みなし),これに他事を抛放擲(ほうてき)して創作に専らなることを得るの特許を与うるなり。
 Russell が極力排するところはこの種の社会主義なり。謂えらく,苟も美を愛するものは,かくの如き世界に住むに堪えざるべし。芸術家と官僚とは遂に相容るべきものならず。抑も芸術は人性の奔放不羈(ふき)なる一面より生る。この不羈なる一面を,好意ありて理解なき官僚の秩序的拘束の下に置くときは,生活の歓喜は遂に滅び,生活衝動そのものもまた漸く萎凋して遂に枯死するに至るべし。現在社会の百害をもってするも,かくの如き木乃伊(ミイラ)の世界に優ること万々なり。Anarchism に伴う一切の危険をもってするも,なお自在自由なるべきものに強いて羈束を加えんとする国家社会主義には優れり。芸術家及び広く世の美を愛するものの屡々(しばしば)社会会主義を恐るるは,実にこれがためなり。然れども社会主義の本質には何等芸術と相容れ難きものあるにあらず。その危険あるは或る形態の社会主義のみ。抑も芸術家が擅に(ほしいままに)創作するに先だち,先ず大家の審査に合格してその能力を証明せざるべからざるが如き制度の下においては,芸術または広く精神上の創作は到底盛んなること能わず。真に大才ある芸術家は多く審査に合格せずるべきや必せり。且つ老大家の意に適するが如き作をなさざるべからざるの一事,既に自由の精神及び大胆なる構想と相容れざるものなり。加うるに老人の審査は,嫉妬,排擠(はいせい),陰譏(いんき)等の弊に導き,芸術界の空気を汚濁せしむるに至るべし。要するに芸術を盛んならしむるものは制度にあらず,ただ自由のみ
 然らば芸術家は社会主義の下において如何にして自由を楽しむことを得べきか。Russell は答えて謂えらく,これに二途あり。一は芸術家をして制作以外の労働に服せしむるもその労働時間を短くし,且つこれに応じて全時間の労働に服するものよりも給料を薄くすると同時に,その作品を売るを許すことこれなり。かくの如くするときは給料の薄きを忍ぶの意あるものは,何人も芸術家となること自由なるべし。こは芸術を弄せんと欲するものの芸術家たることを阻止すべしと雖も,創作衝動の純真にして旺盛なるものの制作は,為めに妨げらるることなし。既に今日幾多青年芸術家は,敢えて自ら進んで困厄に堪えつつあるなり。芸術家の生活に多少の艱苦を伴うは必ずしも不可ならず。蓋しこれによって創造欲の強弱を験するを得ると,他の窺い知らざる創作の歓喜の一方にこの艱苦を償うものあるをもってなり。第二の方法は労働に服すると服せざるとに論なく,生活必需品は一切の人心に価を求めずしてこれを給し,ただ贅沢品を欲するもののみ一定の有益労働に服すべしとするの制度なり。芸術家にして創作以外の労働に服するを好まず,その時を挙げて芸術に捧げんと欲するものは,謂わゆる一箪の食,一瓢の飲に甘んじ,風と日光とに浴し,鳥の如く楽しみまた鳥の如く自由に江湖に放浪すべし。かくの如き人物は漸く謹厳単調ならんとする現時の文明社会に一味飄逸の趣きを添うるものとしてこれを喜ぶべきなり。云うまでもなくこの種の人物多きに過ぐるに至らば,社会の経済上の負担たるを免れずと雖も,社会主義の下において比較的軽易なるべき労働よりも,窮乏と自由とを愛して簡易の生活を楽しまんとするもののなお甚だ多かるべきや否やは疑うべし。かくの如くにして芸術家は現時の制度の下におけるよりも善く且つ広く自由を享受することを得べし。

 

 然れどもなお解決せられざる難問あり。書籍の出版に関するものはその一つなり。社会主義の下においては,出版業なるものなし。国家社会主義の下においては恐らく国家唯一の出版社たるべき,Syndicalism もしくは Guild Socialism の下においては,出版の事はこれに関係せる労働者の組合(Federation de Libre というが如きもの)これを独占すべし。ここにおいて一草稿の出版せらるると否とは何人の決するところたるかの難問を生ず。国家の出版を独占せる場合においては,国家社会主義を非議せる書籍は恐らく印刷に附せらるることを得ざるべく,Syndicalism または Guild Socialism の下において Federatoin du Livre を攻撃する文章はまた,そのこれが出版を拒絶するところとなるべし。かくの如き政治上の問題を姑(しば)らく度外して,文芸上の述作についてのみ論ずるも,一切の原稿を無差別に印刷することの行うべからざる以上は,いずれの原稿が印刷の価値ありて,いずれの原稿がその価値なきやの選択を行わざるべからず。然るにかくの如き選択は何人の手によってこれを行うも有害ならざること能わず。既に美術上の製作について Academie の審査を非とする同一の理由は,また文芸の自由のため,かくの如き出版物検閲をも非とせずしては巳まざるなり。Kropotokin は頭脳の労働と手足の労働との結合を主張し,一書の著作者の同時に印刷者,装丁者たらんことを説くものなり。この事の可否は今これを論ぜざるも,究極 Kropotokin の無政府共産社会においても,一原稿の印刷に附すべき価値ありや否やは著作者組合の如きものありてその委員の決するところたるべく,難問は未だ解決されたりと認むべからざるなり。
 Russell は,遂に著作者その人をして出版の費用を負担せしむるの途に出づるの已むなきを認む。これは嘗てBellamyがその Looking Backward において記せるところとほぼ同軸に出でたり。Russell 謂えらく,著作物出版に関する難問に答うる唯一の途は,国家社会主義,または,Anarchism の下において,国家または Guild が出版を肯んぜざる作物の著者に,自ら出版の費用を支弁ずみの自由を認むることにあるべし。かくの如きは社会主義の精神に反すべしと雖も,予はこれを措いて他に自由を保障すべき途あることを知らざるなり。出版の費用は,作者これを公認せられたる有益労働に服することによって調達することを得べく,愛読者を有する著者はその読者の援助を受くるを得べし。無名の作家に至っては出版費支弁のために困難を感ずることを免れざるべしと雖も,この困難は創作心の純真旺盛ならざるものを排斥すべく,必ずしも利なきにあらざるべし。要するに如何なる書籍もその出版費が支弁せらるる限り,内容の如何に論なくその印刷の拒絶せらるることなきを厳則とせざるべからず。新作の楽曲の出版並びに演奏にもまたほぼ同じ原則を適用するを可となすべし。かくの如き礼会主義は大体において学者,芸術家のため資本主義社会におけるよりも遍かに善くその驥足(きそく)をのばす機会を供すべきなりと。

 

 (三)公衆の認識: Russell が公衆の認識というは,名声の聞ゆることの広き,また或いは世人の成功せる芸術家に対して示す,無知にして半ば真摯なる敬意を指していうにあらず。これ等のものは多く用をなすことなし。Russellが意味するところは,理解と美なるものを尊重する自発的感情となり。商売至上,実業万能主義の社会においては芸術家は富を得るとき始めて世の尊敬を博す。然れども彼れがそれによって富を致せる芸術作品は純正なる敬意を受けざるなり。靴べらまたは噛み護謨(チュウインガム)の製造によって産をなせる富豪は,世の畏敬を受くれども,この感情を移して彼れが依って以って産をなせる貨物に対して,敬意を表するものなし。一切事物を測るに貨幣の尺度をもってする社会においては,芸術家と芸術品とについてもまた然らんとす。芸術家も殷富を致せば世の尊敬を受く(富豪の受くる尊敬に及ばざること論なしと雖も)。然れども彼れの作れる絵画,述作,または音楽は,世のこれを祝ることなお噛み護謨(チュウインガム)または靴べらの如く,ならんのみ。かくの如き雰囲気内においては,芸術家がその創作衝動の純潔を保つこと甚だ困難なり。芸術家は或いはその周囲に化せられて俗に媚ぶるに至るか,或いは己が苦心の了解せられざるを見て,自暴自棄に陥るかいずれかなるべし。必要なるは芸術家に対する尊敬よりも,寧ろ芸術に対する鑑賞なり。一切事物を判定するにその物自体の品質をもってせずして,その充当し得べき実用をもってするが如き世界は芸術家の住むことを難ずる境界なり。人生の,芸術の花のために土壌となるべき一面には超実利害 disinterestedness とも云うべきものあることを要す。明日の事に思い煩うことなくして直ちに物そのものを楽しむ能力これなり。人の諧謔を聴いて娯しむや,これに向ってその諧謔の何の用に供すべきかを説くを要せず。純正なる芸術鑑賞も,直ちに物そのものを楽しむ点においてはややこれに似たり。生存競争と日常業務の負担とは吾人をして諧謔を喜ばんには余りに厳格に,芸術を解せんには余りに閑日月なき人たらしめんとす。経済制度改善の結果たる競争の緩和,労働時間の短縮,生存の負担の軽減は,人の喜悦を感ずる能力を増し,芸術作品を喜ぶ力を高むべきこと疑うべからず。然れども記せざるべからず。かくの如きは単に貧窮を除くことのみによってはこれを期すべからず。これがためには自由の意識の広く普及し,個人精神の,巨大なる機械によって圧迫を受くるの感,除去せらるることを必要とす。Russell はこの見地よりして,国家社会主義を排して Anarchism を加味せる社会主義を取らんとするなり。更に一事の注意すべきあり。一切の創作は社会の状態停滞休止せるところにおいてその刺激を失う。故に学問芸術の大いに隆興すると否とは工業上,農業上,生産の方法が固定不動となるや,将た絶えず速かに改良せらるること,過去百年問におけるが如くなるやによって定まること多大なり。社会主義の世においては生産方法の改善は社会全員を益す。然れども同時に技術の進歩に直接の利害を感ずること,現在の資本家の如くなるものなかるべきことは想像に難からず。故にもし生産増加の利益が,職工に特有の守旧主義を動かすに足らざるべしとせば,職工の考案によって新技術発見せられたる場合に,少なくも新発見より生ずる利益の一部は,一定期間これを職工に与うること必要なるべし。技術の発見,発明,並びにその基礎となるべき科学の研究は能くかくの如くにして奨励せらるることを得べきなり。技術の改良行わるる毎に貨物の配当を多くすべきや,将た労働時間を短縮すべきやの問題を生ず。労働時間短縮せらるる時は一般に科学上の智識,芸術上の理解力を有するもの増加すべく,学者,芸術家の普通人より離隔護謨(隔離?)せらるること今日の如く甚だしからざるに至るべし。その学芸の創作に対する刺戟となるべきや必せり。
 「これを要するに学問芸術のための三個の要件,即ち練習(教育),自由及び認識の点について見るに,国家社会主義は多く現在の弊害を除去することを能くせざると同時に,更に国家社会主義に特有なる新弊害を随伴し来る。然れども Guild Socialism または Syndicalism にして,善く公認労働に服する時間を短くせんと欲するものを待つに寛なる方法を講ずるときは,遙かに資本主義下において到達し得べき最良の状態に優るということを得べし。危険は存す。然れども人よく自由の重んずべきことを了解せば,一切の危険は悉く消散すべし。殆ど一切の事におけると同じく,この問題においてもまた最善に通ずる道は自由の道なり」。これを Russell の結論とす。

 

 Russell の説は必ずしも新奇をもって評すべからず。然れども「学問芸術と社会主義」について疑問を抱けるものは,恐らく彼れの説を聴きたることを徒労となさざるべし。予はこの文の始めに学問芸術を尊重するものの中,学問芸術のために社会主義を嫌忌する者あると同時に,また学問芸術の名において社会主義を主張するものある事を記したり。今 Russell に拠ってこれを見れば,この相反する論者の論は共に是なるなり。学者,芸術家の社会主義を恐るるは,国家もしくはその他の団体が個人の行動を束縛すること甚だしからん事を恐るるにありとせば,Russell は直ちに論者と見解を同じうするものなり。Russell は国家社会主義をもって資本主義よりも厭うべしとなすものなればなり。然れども論者の説くところ,社会主義は労働者階級の物質的境界を高めんと欲するに急にして,学者,芸術家に対する報酬厚きを得ざるべしというにあらば Russell はにわかにこの言に左袒(さたん)せざるべし。蓋し Russell の見るところに従えば,学問芸術上の偉大なる創作は,打算を絶したる衝動より発するものにして,事後の報酬の如きは多くこれを左右するの力なきなり。Russell は国家社会主義を排す。然れども国家社会主義を非とすることは,直ちに資本主義を是とすることを意味せず。現在の社会においては学者,芸術家たるに必要なる教育を受くるの特権は,必ずしも特に天賦豊かなりと認むべからざる,少数富者の独占するところなり。而して生計上の顧慮は学者,芸術家の,その創作衝動を自由に発揮することを妨げ,更に資本主義に伴う実利主義,打算主義は漸く人をして実用を離れて学問芸術を尊重するの能力なきに至らしむ。これ Russell が現制度を非とするの理由にして,その予が前に名を掲げたる Ruskin, Morris, Wilde, Keats, Tugan-Baranowsky 等と見解を同じうする点なり。而して Russell のこの見解の基礎をなせるものは,人間行為の動機として思量打算を絶したる衝動に重きを措く思想なり。この根本思想は Russell をして,或いは「政治上の最高善は自由なり」(Roads to Freedom, p.121)或いは「最善に通ずる道は自由の道なり」(既出)等の言をなさしむ。Russell は既に前年の著書 Principles of Social Reconstruction 中に社会主義を評して,正義に重きを措きて自由を顧みることを忘れたるものと云えり。これは近年英国社会主義最新派に属するもの(Guild Socialism)が,従来の社会主義は人の貧窮を見てその隷属を見ざりき(例えば Cole, Self-Government in Industry)との評語を下せると同趣旨に出でたり。既述の論において Russell は学芸上の創作の一個の事務,労働に堕落せんことを恐れて,資本主義と国家社会主義とを排斥し,最新派社会主義者は日常の事務,労働を進めて芸術的創作と同位置に置かんがために産業自治を主張す。既に『社会改造の原理』において Russell が思想の傾向を看取したるものは『自由への途』において同じ人が,Guild Socialims を奉ずることを明言するに至りしを見て驚くことなかるべきなり。Guild Socialism はまた英国従来の社会主義が日常行政事務に没頭して,人間精神上の生活を顧みること少なかりしを陋(ろう)>とし(Cole の如きは極言して日く,従来の社会主義は「良心ある実業家の低卑なる夢想に過ぎず」と。Collectivism is at best only the sordid dream of a business man with conscience),新たに一種の精神主義,理想主義を鼓吹せんとす。「学問芸術と社会主義」に関する Russell の説は,この気運に際して恐らく英人の傾聴するところたるべし。