バートランド・ラッセルのポータルサイト

バートランド・ラッセル「服従は共犯である」

* 出典:C.アークハート(編),田村浩(訳)『不服従のすすめ』(弘文堂,1965年10月刊)pp.61-69.
* 原著: A Matter of Life, ed. by Clara Urquhart (Jonathan Cape, 1963)
* 田村浩(1932年~ ):1965年当時、相模女子大学講師/著書:『米国諜報機関』(弘文堂)
* 執筆年月日:1961年12月17日=ラッセル89歳の時

(編者注)ラ,セル伯は,一八七二年に生まれた。ケンブリッジ、トリニティ・カレッジに学び、数学と道徳学(松下注:道徳学は誤訳/moral sciences は、自然科学に対する精神科学をいい、ここでは哲学のこと)の学位をとった。一九四九年にはメリット勲章、五〇年にはノーベル文学賞を受けている。一九○八年以来英国学士院の会員で,数学,哲学,社会学に関する著書が多い。エッセイから小説まで,その著述の範囲はきわめて広い。

 

道徳の理論的原理


ラッセルの言葉366
 読者も知っているように、百人委員会は広範囲にわたる非暴力的な市民の不服従を呼びかけ、その一環として、イギリス政府が核兵器を放棄し、外国から提供を予想される核兵器による保護も放棄することを勧告している(ほかの国の政府に対してもわれわれが希望するのは当然のことである)。ところが、政府が民主的である場合、市民の不服従は、とにかく不道徳だとして反対する批評家が多い。私の意図は、百人委員会の擁護する目的のために、一般的な問題ではなく'非暴力的な'「市民の不服従」という点に関して、こうした見解と戦うことにある。
 それにはまず、道徳の理論的な原理からはじめる必要があるだろう。大ざっぱにいって,道徳の原理には二つのタイプがある。その一つは、聖書の十戒に示されているような、あらゆる場合に適応すると考えられる行為の規則を設定し、それに従うことによって生じる結果を無視するもの。他の一つは、ある規則が大多数の場合に妥当することを認めながらも、一方では、行動の結果について考え、その規則にもいわば割れ目があって、それに従うことによって生じる結果があきらかに望ましくないような場合もあることを容認しようとするものである。しかし現実には、たいていの人が第二の見解をとって、論争のときには第一の立場に訴えるくらいなものである。
 いくつかの例をあげよう。いま狂犬病にかかった男が諸君の子供にかみつこうとしていて、それを防ぐ方法は、犬を殺すことしかないとする。子供の命を救うために、諸君がこの手段を用いたとしても、それを不当だとするものは、ほとんどいないであろう。これを正当だと考える人は、殺'人'の禁止がほとんどすべての場合に正しいことを否定しないはずである。おそらく彼らは、この特殊な「殺害」を、普通の「殺人」と呼ぶべきではない(→ 同一視すべきでない)というであろう。彼らは「殺人」を「'道理にあわぬ'殺人行為」として(限定的に?)定義するにちがいない。この場合、殺人が悪だとするいましめは'類語反復'になるが、「どのような'殺害'を'殺人'と呼ぶか?」という道徳上の問題がのこる。
 ここで、「盗むなかれという戒律」をとりあげてみよう。大多数の場合、この戒律に従うのが正しいことに、ほとんどすべての人が同意するであろう。だが,諸君が迫害から家族とともに逃れてきた難民だとして、盗むよりほかに食糧を手に入れることができないと仮定しよう。その場合、大部分の人は諸君が盗みを働くのが当然だとして(→当然だと考えるとして)、わずかに例外なのは、諸君の逃避の原因となった暴虐を肯定する人だけであろう。
 歴史のなかには、問題が明確な決着をつけていない事件が多い。ローマ法王グレゴリー六世の時代に,教会では、聖職売買が流行していた。グレゴリー六世も聖職売買という手段によって法王になったが、そうしたのは聖職売買を廃止するためであった。彼はかなりの成功をおさめ、その弟子で、法王のなかではもっとも著名なひとりグレゴリー七世によって最終的な成功をみたのであった。私はグレゴリー六世の行為に対して意見を表明するつもりはないが、これは、現代まで議論の続いている問題である。
 こうした不明確なケースの場合、'行為の結果'を問題にすべきだという教訓が生じる。われわれはこのとき、その行為によるさまざまな結果のなかに、通常は正しい規則に対する尊敬が弱まるという好ましからぬ劾果も含めて考えねばならない。だが、たとえこうしても、もっともひろく認められている行為の規則でも破るべきだとする場合がでてくるであろう。

sono2
 

法律と慣習

 一般的な理論はこれくらいにして、道徳上の問題にさらに一歩をすすめよう。
 さて、法律に対する尊敬を要求する慣習についてはどうであろうか? まず、こうした慣習に賛成の立場から考察しよう。法律がなければ、文明社会は不可能である。全般的な法律侮蔑のあるところに、あらゆる種類の悪い結果が生じることはまちがいない。その著しい例が、アメリカにおける禁酒法の失敗であった。この場合、法律に対する一般の尊敬を得ることが不可能であったために、唯一の救いの道は法律の変更にあることがあきらかになったのである。このとき、法律を犯した人々が、良心的動機からその行為にでたのではなかったという事実にもかかわらず、この見解はひろく普及した。そしてこの事件は法律に対する尊敬が二つの側面をもつことをあきらかにした。法律を尊敬すべきだとするなら、その法律が尊敬に値すると一般に容認されなければならないのである。
 ところで、法律尊重の立場にみられる主な論旨は次のようなものである。すなわち、法律はそれが不在のときにおこりがちな個人的偏見に代って中立的な権威となる。法律の力にはたいていの場合に逆らえず、少数の無謀な犯罪者が起こすような事件のときに頼るだけにしなければならない。その結果、多くの人々が平和に暮らす社会になるというのだ。法律の支配を説くこれらの理由は、大多数の場合に認められている。私も、例外的な事情の場合を別として、その有効性を論議するつもりはない。
 だが、二者が争っている場合と同じように、不偏向という長所を法律がもたないことは、きわめて多い。一方が国家の場合のそれである。国家はさまざまな法律をつくるが、正当な自由を守ろうとする用心深い世論がなければ、国家は自己に都合のよい、国民のためにはならないかもしれぬ法律をつくるであろう。ニュルンベルク裁判において、戦争犯罪者に対する罪の宣告は当の国家の軍事的敗北ののちにはじめて可能であったにもかかわらず、彼らは国家の命令に従ったという理由でとがめられた。だが、注目すべきことは、市民の不服従の実行に失敗したことが処罰に値しうるとする点で、ドイツを敗った列強のすべてが一致したことである。
 私がその正当性を述べようとする市民の不服従の特殊な形式を非難する人々は、法律の侵害が、たとえ独裁政治のもとで正当化されることがあるにしても、民主政冶においては決して正当化されないと主張する。私はこの主張に、なんらの有効性も認めることはできない。名目だけの民主的政府が、民主主義の真の友人たちの尊敬する方針を実行できない場合が多いのだ。たとえば、独立を達成する前のアイルランドを考えてみよう。アイルランド人は、形式的にはイギリス人と同じ民主的権利を有していた。彼らは代表をウェストミンスターへ送ることができたし、民主的な手続きを経て問題を訴えることもできた。しかしそれにもかかわらず、彼らは、自己を合法的手段の枠の中にとどめているかぎり、永遠の少数派であった。彼らは法律を破ることによって独立をかち得たのである。そうしなければ、おそらく独上は得られなかったにちがいない。
 このほかにも同様な場合は多い。だがそこには、きわめて多くの問題が錯綜しているため、それらを理解できるのは少数の専門家である。イングランド銀行の公定歩合が引き上げられるか、あるいは下げられた場合、有権者のどれだけがその当否を判断できるであろうか? 公職についていないものがこの処置を批判しても、それに権威ある説明をあたえうるのは、その処置をとった責任者か、責任者にきわめて近い人物しかあるまい。財政問題にかぎらず、軍事、外交問題においても、文明国では隠蔽の技術が高度に発達している。政府がある事実を知られまいとすれば、主な公報機関のほとんどすべてが隠蔽に助力するであろう。このような場合、悪評とおそらく汚名をも伴う、絶えまない、犠牲的な努力によるしか真実を知りえないことがしばしば起こるのである。たとえば、ドレフェス事件のときもそうであった。しかし、ことがあまりセンセーショナルでない場合は、普通の投票者はいつまでも無知のままに放置されがちなのだ。
 こうした理由によって、民主主義は独裁政治ほどではなくても、権力者や腐敗した勢力による力の乱用から決して免れることはできない。貴重な自由を守るためには、権威を批判し、場合によってはそれにそむく人々が必要である。
 声を大にして法律に対する尊敬を説く人々は、法律の範囲を国際関係にまで拡大して考えようとしないことが多い。国家間の関係において存在する唯一の法律は、ジャングルの法律なのだ。争いに決断をつけるものは、相手に対してどちらが多くの死者をつくりうるかという問題である。この基準を認めないものは、ともすれば愛国心の欠如を非難される。こうしたことからして、法律だけが価値ありとする見解を疑わざるをえない。
 結局、以上のことが、百人委員会によって唱えられ実行されている、非暴力的な市民の不服従という特殊な形式へ、私を向わせるのである。

sono3
 

核戦争と人類

 核兵器と、予想される核戦争の方向とを研究する者は、二つの部類にわかれている。一方は政府に雇われた人々であり、他方は、政府の政策が現状のままで変らなければやがて到来しそうな危険と破滅に刺激された'私的な人々'である。この両者の間で論じられている問題は多いが、その一部をあげても、偶発戦争の可能性はどれだけなのか? 放射性降下物質による脅威は? 全面核戦争で生き残れそうな人口は? ・・・ といったものがある。
 ところが、これらのすべての問題に関して、自由な立場の研究者は、公式の弁解係りや政治家どもの提供する説明が馬鹿馬鹿しいほど惑わしいものであることを発見している。自由な立場の研究者がこれらの疑問に対する真の解答だと信じるところを一般の人々に知らせるのはきわめて困難なことである。
 しかも、真実を確かめるのが困難な場合、公式の権威筋の主張を信じる傾向が一般にある。彼らの主張が、人々の不安を不必要なものとして除こうとする場合はなおさらであろう。主要な報道機関は、彼ら自身が国家体制の一部だと信じており、あえて国家がまゆをひそめそうな方向に向おうとはしない。
 不愉快な事実を一般に知らせようと努力してきた我々からみれば、こうした長い間の挫折の経験が、月並みな手段だけでは不十分であることを証明している。それが市民の不服従という手段によって、ある確実な公表が可能になるのである。
 われわれがそうする理由についてはそれほど深く述べられなくても、われわれのすることは報道される。その理由を隠蔽しようとする政策は、ごくわずかしか成功しない。多くの人々は刺激されて、それまで彼らが無視していた問題を調べるるようになる。多くの人々、ことに若い人々の多くは、さまざまな国の政府が虚偽とごまかしによって全人類を破滅へ導いているとする意見をともにする。そしてついには、押えきれない抗議を示す大衆運動の力で、政府が国民の生存を認めざるをえなくなるときが到来しないとはいえないであろう。われわれはながい経験から、この目的が遵法的な手段のみでは達せられないと確信している。私自身についていえば、こうしたことが、市民の不服従という方法を採用したもっとも大きな理由なのである。
 核戦争に関する知識をひろめようと努力しているもうひとつの理由は、危機が極度に切迫していることである。この知識をひろめるための合法的な手段は、すでに明らかなように、きわめて遅々としている。われわれは経験から、われわれの用いる方法のみが、事態があまりにも遅くならないうちに、必要な知識を普及させうると信じている。現在の状態では、核戦争は--おそらく偶発的なものであろうが--いつ勃発するかもしれない。こうした戦争なしに過ぎてゆく毎日は幸運というべきであり、その幸運が無条件に保たれるとは決して期待できない。いつ、いかなる時に、イギリスの全人口が絶滅するかもしれないのだ。戦略家や交渉担当者たちは、延期があたりまえの手段とされる悠長なゲームをおこなっている.東西の人々にとって、自由にできる時間は限られており、現在のやり方がつづくかぎり、災厄は遅かれ早かれ、ほとんど確実にくるであろう。このことを両陣営に悟らせるのは、いまや緊急の課題なのである。
 しかし、きわめて有効で、かつ尊敬に値する非暴力的な市民の不服従を採用することには、ほかにも理由がある。巨額な国民の金を費やしている大量殺人の計画は、すべての人に心底からの恐怖感を抱かせねばならない。
 だから西側の人々は、共産主義が悪だと教えられ、東測では資本主義か悪だと教えられている。核戦争が相手側の「主義」を滅ぼすと考えている点で、双方が正しいことは私も疑わない。
 だが、核戦争がそれ自身の「思想」を実現させることを思いあわせれば、双方とも救いようのない誤りを犯している。核戦争からは、東西いずれの望むものもまったく何も生じないのだ。両陣営がこのことを理解すれば、双方に勝利はありえず、ただ双方の前面的な敗北だけがあることを悟る可能性もでてくるであろう。このまったく自明な事実が、フルシチョフ=ケネディの共同声明のなかで明確に認められていたなら、戦争の結果より千倍以上のものに値する、歩み寄りによる共存の方式が定められていたはずである。
 われわれがともに生きねばならぬ世界との関係において物事を考え得ない、過去の伝統のなかで教育をうけた人々は別として、戦争の無用性は完全に明らかである。核兵器と核戦争に抗議するわれわれは、ボタンを押して数億人を殺しうる政府に個人の自由を従属させているような世界には、黙って従うことができない。それはわれわれにとって忌まわしい行為であり、もし必要なら、そのような世界に盲従していると思われるより、われわれはむしろ追放者となり、政府の体制から離脱することによって生ずるいかなる困難、悪評をも受けるほうを選ぶであろう。
 純枠に政治的な立場からみれば、われわれが理論的に考えたことに対する解答がないことは私も確信している。だが、あらゆる政治的考慮を超えて、そこには、これまでに人類が考えた犯罪のうちで最悪の犯罪に際して、その共犯者にはならないとする決意があるのだ。われわれは、ヒトラーの六百万ユダヤ人虐殺によって強い衝撃をうけたが、東西の政府は、ヒトラーの仕でかしたことより少なくとも数百倍も大規模な大量虐殺の可能性をひそかに考えているのである。この恐怖の重大さを理解するものが、その根源である政策に黙って従うとはとうてい考えられない。
 この感情こそ、われわれの運動に情熱と力をあたえるものであり、そしてその情熱と力は、核戦争が近い将来われわれのすべてを終らせえないかぎり、われわれの政府を成長させ、ついには人類の生存を拒否しえなくなる点に到達させるものなのである。