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バートランド・ラッセル 権力 第15章 (松下彰良 訳)- Power, 1938, by Bertrand Russell

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第15章 権力と道徳律, n.22 - 自分が嫌悪を感じる行為


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 にもかかわらず,個人的に言うと(speaking personally),私が嫌悪感(repugnance)を感じる(覚える)種類の行為で,その嫌悪感が私にとっては道徳的なものではあるように思われるけれどもはっきりと結果の評価に基礎を置いているとは思われないような種類の行為が存在していることを,私は経験を通して知っている(find 発見する/経験を通して知る)。私は多くの人々から,民主主義の保護(維持)は -私それは重要だと考えるが- 膨大な数の子供を毒ガスで攻撃したり(殺傷したり),それ以外の多数の恐るべきことをしたりして初めて確保できる(のだ)とだ聞かされている(それだけ危機意識を多くの人がもたないと民主主義は簡単に蹂躙される,というニュアンスか?)。私としては,現時点では(at this point),そのような手段を使用することを黙って見ていることはできないこと,に気づいている。以下は私の独語(I tell myself that 独白)であるが,彼ら(そのような主張をする人々)は目的(民主主義の保護)を達成しないであろうし,あるいは,かりに得るとしても,民主主義が為すいかなる善をも凌駕するほどの悪影響を持つ(もたらす)であろう。(民主主義の保護のための)右のような議論がどこまで正直なものか(誠実なものか),私にはまったく確信できない。(そうして)たとえそのような手段を用いれば目的を達成することができ,またそれ以外の手段では達成できないとしても,そういう手段を使うことは拒否すべきだと考える。逆に(Per contra),心理的な想像力を働かせることによって,そうした手段では,私が善と考えるものはまったく達成することはできない(できるはずはない),と私は確信している。私は,哲学的に言って,概してあらゆる行為はその結果によって(是非が)判断さるべきであると考える。しかし,これは困難かつ確信がもてず(uncertain)また時間を要することであるので,実際上は,ある種の行為については,結果の調査を待つことなしに処罰すべきでありまた他のある種の行為は称賛すべきであるというのが,望ましい(好ましい)。従って,私としては,功利主義者とともに(=功利主義者が言うように),任意の与えられた環境における正しい行為とは,データにのっとって(on the data?),可能な全ての行為の中で,善が悪に対して最大の差(額)を生み出すような行為である,と言うべきであろう。しかし,(同時に)そのような行為は,道徳律(道徳規範)が存在していることによって促進される可能性があると言うべきであろう。

 このような見かたを受けいれると,倫理学は「善(良い)」と「悪(悪い)」を,手段としてではなくそれ自体の目的として定義づけるに帰せられる。功利主義者は,善とは快楽であり悪とは苦痛だと言う。しかし,(その見解について)功利主義者と意見を異にする者がいるとしたら,功利主義者としてはどのような論拠(arguments 議論;論拠,理由)をあげることができるであろうか?

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.22

Nevertheless, I find, speaking personally, that there are kinds of conduct against which I feel a repugnance which seems to me to be moral, but to be not obviously based upon an estimate of consequences. I am informed by many people that the preservation of democracy, which I think important, can only be secured by gassing immense numbers of children and doing a number of other horrible things. I find that, at this point, I cannot acquiesce in the use of such means. I tell myself that they will not secure the end, or that, if they do, they will incidentally have other effects so evil as to outweigh any good that democracy might do. I am not quite sure how far this argument is honest: I think I should refuse to use such means even if I were persuaded that they would secure the end and that no others would. Per contra, psychological imagination assures me that nothing that I should think good can possibly be achieved by such means. On the whole, I think that, speaking philosophically, all acts ought to be judged by their effects; but as this is difficult and uncertain and takes time, it is desirable, in practice, that some kinds of acts should be condemned and others praised without waiting to investigate consequences. I should say, therefore, with the utilitarians, that the right act, in any given circumstances, is that which, on the data, will probably produce the greatest balance of good over evil of all the acts that are possible; but that the performance of such acts may be promoted by the existence of a moral code.

Accepting this view, ethics is reduced to defining "good" and "bad," not as means, but as ends in themselves. The utilitarian says that the good is pleasure and the bad is pain. But if some one disagrees with him, what arguments can he produce?
(掲載日:2018.03.16 /更新日: )