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バートランド・ラッセル「正義の分析」

* 原著: Has Religion Made Useful Contribution to Civilization, 1930)
* 出典:牧野力(編)『ラッセル思想辞典』所収



 倫理的・道義的な正しさ(righteousness)という考えを心理的に分析すれば、それは望ましくない情熱に根ざしたものであり、理性の認可(注:検閲制度のもとでの許可)によって強化されるべきではないことを示していると、私には思われる。
 正義は不正と一緒に取り上げるべきである。一方を強調し、他方を見逃すことはできない。

 ところで、「不正」(unrighteousness)とは、実際には、何だろうか? それは、実際には、群集の嫌う行為である。不正と呼ぶことによって、また、この概念の周りに念入りな倫理体系を配置することによって、群衆は自分が嫌悪する対象に罰を加えることを正当化する。と同時に、群衆(注:大衆意見)は定義上正義であるということで、自らの残虐への衝動を解き放つまさにその瞬間に自らの自尊心を高める(のである)。これがリンチの心理であり、犯罪者を罰する他の方法の心理である。従って、正義の概念の本質は、残酷さを正義(justice)と偽って、サディズムのはけ口を提供することである。。
 教会が正義を認め、不正を否認することにより、正義という概念に包んで、群集の反感を正当化するものとなる。
 宗教に具現される人間的衝動は、恐怖・自負・嫌悪の三つで、宗教の目的はこれら三つの衝動を包む情熱に、お上品さを与えることだったとも言える。宗教が一つの悪の力であるのは、大体において、宗教がこれらの情熱を野放しにさせるからである。宗教という承認のお墨付きがなければ、少なくともある程度抑制されたはずだ。
 人類は昔から、人間の主要な特徴として、恐怖と嫌悪とを感じて来たし、今後も感ずるだろうが、最上の対処法は、今までと違う、もっと有害でない一定の道筋にその衝動を導くことにある。教会の正義の概念は最善の導入法ではない。
 根本的解答は、嫌悪と恐怖の衝動を、現代の心理学的知識と産業技術とにより、人間生活から排除するということなのである。(挿絵:From Russell's The Good Citizen's Alphabet,1954)

The psychological analysis of the idea of righteousness seems to me to show that it is rooted in undesirable passions and ought not to be strengthened by the imprimatur of reason. ... Now, what is "unrighteousness" in practise? It is in practise behaviour of a kind disliked by the herd. By calling it unrighteousness, and by arranging an elaborate system of ethics around this conception, the herd justifies itself in wreaking punishment upon the objects of its own dislike, while at the same time, since the herd is righteous by definition, it enhances its own self-esteem at the very moment when it lets loose its impulse to cruelty. This is the psychology of lynching, and of the other ways in which criminals are punished. The essence of the conception of righteousness, therefore, is to afford an outlet for sadism by cloaking cruelty as justice.