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R.カスリルズ、B.フェインベルグ(編),日高一輝(訳)『拝啓バートランド・ラッセル様_市民との往復書簡集』

* 目 次

まえがき(B.ラッセル)

* 英文(原文)


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 この本に収録された手紙は、出版しようなどという考えは全然なく書いたものばかりです。これらの手紙(のいくつか)は、より深刻な内容の手紙に答えるなかでの、より気軽な気晴らしのひとときを思い出させてくれます。しかし、それらの手紙も、書いたり、出版したりする値うちは十分にあると考えていました。
 二十世紀においては、電話の発達によって、また、電話ほどでないにしても、きわめて容易に旅行ができるようになったおかげで、手紙を書く術というものが疑いもなく失われてきました。わたしの青年時代には、もしもこの世で自らの道を切り開こうと思えば、手紙を書く術をマスターすることは必須のものでした。手紙には一定の様式がありました。そんな様式など、今日ではまことに重苦しく、ばかばかしくさえ見えるにちがいありません。わたしの祖父(英国の全盛時代であるヴィクトリア朝時代に総理大臣を二期勤めたジョン・ラッセル伯)が、わたしの父(アムバーレイ子爵)に手紙を書くときは、いつも末尾に、'Yrs. aff.,Russell'(Yours affectionately, Russell--愛情をこめて…敬具、ラッセルより)とありました。むかしは、どんな手紙でも、ちゃんと様式にはまった'書き出し'及び'結び'の言葉というものがありました。親友にたいしてすら、次のように結んだものです-
「わたしは、心からあなたとあなたのご家族のみなさんがご健勝であられますこと、そして、この世の出来事によって煩わされることがありませんように、期待しています。わたしの方は、いま日光を楽しんでいますし、そしてそれがたいへん健康を増進してくれます。ではあなたのご幸福を祈りつつ…敬具」
 総理大臣もしくは主要閣僚から資金の援助を仰ごうとしている炭鉱主が書簡を送るときも、次のように書いたものです-
「閣下! わたしは、ややこみいった問題につきまして、閣下にあえてお願いにおよぼうとしているものでございます。お願いの仕儀と申しますのは、Zにおける炭鉱事業に関してでございます。閣下は必ずや新聞を通してばかりでなく、個人的な手紙のやりとりにより、この地帯の石炭は、強力な公共資金の援助が得られないならば、採掘不能に陥る事情にありますことをご承知と存じます。閣下はまた、もしいまにして適切な措置が講じられないならば-そうです-このさし迫った災難を防止する急速な措置がとられないならば、近郊一帯の全ての階級に対しまして、大きな難事が惹起されましょうことに必ずやお気づきになっていると存じます。 閣下がいつもご健勝で、かつ常に党のご信頼を得つづけますことを確信しまして・・・・ 敬具」
 当時は金の無心をするのに無作法な書き方をするような厚かましい人間はいませんでした。そうして、書簡の目的はちゃんと先方に通じたものです。現代のような、テープレコーダー、テレックス、(緊急用)ホット・ラインを駆使する時代からみれば、隔世の感がしますが、このように過ぎ去っていくことが必ずしも進歩を意味するものだとは言えません。
 もちろん、今日でもいろいろの心づくしは、クラブでもできますし、昼食を共にしながらでもできます。けれども、官僚的な繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が増大してきて、手紙の様式のほうは、いかにも古めかしく、わざと解りにくいものにし、細やかな心づかいというものが完全に欠けてしまっている新しい様式をうみ出しています。'書簡の書き方'についての官庁用語や官庁方式というものが、二十世紀の死亡通知の役割を演じているのにちがいありません。