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碧海純一「バートランド・ラッセル」

* 出典:『ブリタニカ国際大百科事典』第19巻(TBSブリタニカ、1975年7月)pp.926-928
碧海純一(1924.06.24~)氏は当時、東大法学部教授

Bertrand Arthur William Russell(バートランド・アーサー・ウイリアム・ラッセル 1872~1970)


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 20世紀イギリスの最も著名で重要な哲学者。

 ラッセルはその『自伝』(The Autobiography of B. Russell, 全3巻, 1967-1969)の冒頭において、「3つの単純ではあるが圧倒的なほど強い情熱が私の一生を支配してきた -愛への憧憬、知識への欲求、および人類の苦悩に対するたえがたい惻隠の情がそれである」と記している。まれな長寿に恵まれた、彼の著作活動を合む公的生涯は四分の三世紀にも及び、本領ともいうべき哲学プロパー(特に認識論)、論理学、数学基礎論などの分野はもとより、哲学史、社会思想、平和論、教育などの領域における多数の著書は、いずれも世界各国の読者に広く読まれ、20世紀の思想界にきわめて大きな影響を与えた。彼はまた、啓蒙的科学書、人生論、随筆などをも世に出し、その簡潔で暢達明快な文体と、無尽蔵ともいうべきウイットは、散文家としての彼の名声を不朽のものとした。

 生涯とおもな業績
 ラッセルは1872年5月18日、ウェールズのトレレックに生れた。父アンバーレー子爵 Viscount Amberley および母のケイト夫人がともに早く亡くなったため、3歳9カ月の頃から、父方の祖父ラッセル伯爵 Lord John Russell(1792-1878)夫妻のもとで養育された。祖父はホイッグ党の領袖として、2度まで宰相(首相)の印綬を帯びた政治家であったが、この祖父の没後、幼いバートランドは、厳格な清教徒であった祖母レイディ・ラッセルの膝下で訓育された。バートランドはすでに少年時代に、徹底的な懐疑と思索の結果、独力で無神論に達したが、彼の生涯を貫く道義的な信念の形成には、祖母の影響がはっきり現れている。祖母が12歳のバートランドに贈った戒めの言葉は、「群衆のなす悪事に追随するなかれ」という聖書の句であった。
 少年ラッセルは、パブリック・スクールを経ずに、1890年10月、18歳でケンブリッジ大学へ入り、トリニティ・カレッジに籍をおいて、マクタガート John Ellis McTaggart(1866~1925)やホワイトヘッド Alfred North Whitehead(1861-1947)らに教えを受け、またその在学中には、トレベリアン兄弟 the Trevellyans、ストレイチー Lytton Strachey、ムア George Edward Moore(1873-1958)らと親交を結んだ。一時ラッセルは、マクタガートの感化のもとで、当時イギリスの思想界を風扉していたへーゲル哲学に心酔していた(しかし、1898年頃から彼はへーゲルの影響を完全に脱し、以後は生涯を通じてへーゲルの最もきびしい批判者として知られることとなった。
 ケンブリッジを優秀な成績で卒業したラッセルは、1894年12月、アメリカ人を祖とするクェーカー教徒で5歳年長のアリス Alys Pearsall Smith と結婚した。翌年、妻を伴って2度ドイツを訪れ、当時の社会主義を熱心に研究し、その成果を『ドイツ社会民主主義論』(German Social Democracy, 1896)として発表した。このなかでラッセルは、マルクスの鋭い現実分析および彼の人道的義憤に対して賛意を表わしつつも、マルクス主義に内在する不寛容、狂信、教条主義の危険をすでに洞察していた。
 1900年にパリでイタリアの数学者ペアノ Giuseppe Peano(1858-1933)に会ったことは、数学基礎論に対してラッセルがもち続けていた興味を一層刺激し、その後十数年間、彼は数学基礎論および記号論理の分野での研究に没頭した。その最も重要な成果が、ホワイトヘッドとの記念碑的な共著、『数学原理』(Principia Mathematica, 3 vols.,1910-1913)である。
 1905年にラッセルが哲学雑誌『マインド』に寄稿した論文『指示することについて』(On Denoting)は、「記述の理論」(the theory of descriptions) を述べた文献として著名である。この理論自体はきわめて専門的なものであるが、その趣旨は「円い三角形」とか「黄金の山」というような、通常の意味では実在しないものも、別な意味では「存立」(subsit, bestellen)するはずであるという当時の一派の人々の考えを反駁するところにあった。この論文は、新しい記号論理の分析技法によって、哲学の伝統的な問題を解決する試みとして注目された。
 この間にも、社会の諸問題に対するラッセルの関心は衰えず、ウェッブ夫妻(Sidney Webb, 1859-1947; Beatrice Webb, 1858-1943)、Bernard Shaw(1856-1950)のようなフェビアン協会の人々とも交わり、1907年と1910年の2回にわたって下院議員選挙に出馬したが、二度とも落選した。1914年には、認識論の面での重要な著作『外界の認識』(Our knowledge of the External World) が出版されたが、第一次世界大戦の勃発は、ラッセルの静謐な学究生活を大きく狂わせることとなった。当時彼はすでに徴兵年齢をこえていたが、徴兵反対を中心とする平和運動に挺身し、ついに筆禍事件のために1918年5月には有罪の判決を受けて4ヵ月の獄中生活をおくることとなった。
 第一次世界大戦後の1920年5月、ラッセルは労働党使節団に同行して新生ソビエト・ロシアを訪れ、一面において革命の成果を評価すると同時に、他面では二十数年前に彼がすでに危倶していた、狂信と専制の兆候を洞察して心を痛めた。同年、彼はのちに2番目の妻となったドーラ Dora Black を伴って中国を訪れ、北京で講義を行なったが、この中国訪問の成果が『中国の問題』(The Problem of China, 1922) であった。
  第一、第二次の両世界大戦にはさまれた約20年間はラッセルの著作活動の最も盛んな時期であった。この時期の主著としては『精神の分析』(The Analysis of Mind, 1921)、『産業文明の将来』(The Prospects of Industrial Civilizaton, 1923)、『物質の分析』(The Analysis of Matter, 1927)、『懐疑論集』(Sceptical Essays, 1928)、『科学的な態度』(The Scientific Outlook, 1931)、『自由と組織-1814~1914』(Freedom and Organization 1814-1914, 1934)、『宗教と科学』(Religion and Science, 1935)、『権力論-新しい社会分析-』(Power; a new social analysis, 1938) などがある。
 1938年、シカゴ大学での講義のために渡米していたラッセルは、第二次世界大戦の勃発をアメリカで迎えた。ニューヨーク市教育委員会は、1941年春から彼を哲学教授に招聘することを決定したが、『結婚と道徳』(Marriage and Morals, 1929)などを通じ、「自由恋愛」の主唱者とみなされていたラッセルは「背徳漢」として攻撃され、訴訟の結果、この招聘は取消されることとなった。(いわゆる「ラッセル事件」)。同大戦中の在米時代の主著には、『意味と真理の研究』(An Inquiry into Meaning and Truth, 1940)および『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)があり、後者は特に重要である。
 第二次世界大戦末期の1944年にイギリスに帰ったラッセルは、終戦の年にはすでに73歳になっていたが、その後もさらに四半世紀、彼の活溌な公的活動は続いた。壮年期までは第一級の哲学者として専門学界では認められながら、世間では奇矯な人物としてむしろ擯斥(ひんせき)されてきた彼も、ようやくその真価を認められるようになり、1950年にはジョージ5世から勲功賞を授けられ、同じ年にはまたノーベル文学賞を受けた。戦後の著作のなかでは、『人間の知識』(Human Knowledge, 1948)、『倫理と政治における人間社会』(Human Society in Ethics and Politics, 1954)、『自伝』などが特に重要である。
 第二次世界大戦後のラッセルの活動のなかで特に重要なのは、第一次世界大戦中の反戦運動にもまして精力的な平和運動、特に核戦争防止のためのキャンペーンである。水爆の開発は特にこの老哲学者に非常な危機感をいだかせ、アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)らの協力のうえで発表した『ラッセル=アインシュタイン声明』(1955)はその後の世界の核禁止運動の礎石となった。

 哲学
 ギリシア以来18世紀までの西洋哲学の伝統に従って、ラッセルにおいてもその哲学の中心は認識論と宇宙論にあった。ヘーゲルの影響を脱したのちの彼の認識論は、基本的にはイギリス経験論の伝統に立っている。しかしラッセルは、みずからその発展に大きく貢献した近代記号論理学の分析技術を駆使して(数学を論理学に還元しようと試みると同時に)、ア・プリオリな認識の性質と機能を探究し、それと経験的認識との関係を究明することによって、経験論の新たな発展をもたらした。彼のこの面での業績が、1930年前後の「ウィーン学団」に大きな刺激を与え、分析哲学の形成に寄与したことも特筆に値する。ラッセルは、数学・論理学はもとより、自然科学・社会科学のほとんどあらゆる分野に対して終生関心をもち続け、その広い学殖に基づいて宇宙論的な視野のもとに、人間および人間社会についての独自の理論を展開した。彼の人間論の第一の特色は、天文学的視野における人間の矯小さの強調であり、この見地から彼は多くの思想家が不当に人間中心的、擬人的な世界観を唱導してきたことを批判する。彼によれば、この傾向が最もはなはだしいのはドイツ観念論者であるが、科学的社会観を目指したマルクスやアメリカのプラグマティストさえも同じ誤りを犯しているとされる。しかし第二に、彼はこの倭小な人間が、学問、芸術、道徳、宗教などの面でいままでなしとげ、また今後成就しうるであろう業績の偉大さをも同時に力説し、ある意味において、人間が宇宙のなかでやはり特別な位置を占めることを容認する。
 哲学史の分析でも、ラッセルの『西洋哲学史』は、具体的記述についての欠点はあるが、全体としてきわめて独創的な著作であり、ギリシア思想(特にプラトン)における非合理主義的、オルフェウス的、ディオニュソス的、神秘的伝統の重視、ドイツ観念論(特にへーゲル哲学)に対する極度にきびしい評価などの点で、戦後の哲学史・思想史の研究に強い衝撃を与えた。

 社会思想
 まず倫理学において、ラッセルは初期の直観説を捨て、1920年代以後の著作においては一貫して価値情緒説をとっている。彼は制度化された既成宗教のドグマに対しては、終生、仮借ない批判を浴びせ続けたが、その社会思想の基底をなすのは、みずからも認容しているとおり、キリスト教や仏教にも共通する人間愛・同胞愛の素朴な感情である。同時にラッセルは、個人の自由な人格の発展、その自然の衝動と創造性を抑圧することなしに、個人が全体としての社会の健全な発展に貢献しうるような社会体制や諸制度をつくりだすことを、みずからの社会理想とする。彼は認識論における経験主義的な姿勢(これは同時に近代科学のアプローチでもある)を社会や国家の諸問題に応用し、言論の自由、特に少数者の発言の自由の確保によって、フィードバックによる体制の自己匡正作用が円滑に働くような社会すなわち約言すれば、自由主義的、民主主義的な社会体制を支持し、このような体制が社会主義的な理想、特に経済的平等や機会の均等の要求とも基本的に両立しうることを力説し、この点において、彼自身もメンバーであったフェビァン協会の思想に接近する。ラッセルが最も忌み嫌うものは、不寛容、個人の自由の抑圧、非合理なセンチメンタリズム、および集団的狂信である。国際問題についての彼の立場は徹底した平和主義であり、究極の理想としては、各国民・民族がそれぞれの個性や伝統を残しつつも、主権国家という障壁を排して世界政府を樹立することを目指すものである。

 散文家としてのラッセル
 随筆や人生論などはもとより、専門的な学術著作においてさえも、ラッセルの簡潔明快で比類なくウィットに富んだ文体は英語散文の一つの極致とされている。青年時代にはジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)にならって美文体を志したラッセルも、壮年以後においては独自の文体を完成し、論旨の単刀直入な表現、軽妙な比喩、自然にほとばしり出るユーモア、寸鉄人を刺すウィットにおいて、余人の追随を許さない境地に達した。

 哲学史上におけるラッセルの位置
 ラッセルはまず文明批評家して知られまた、晩年においては核兵器禁止運動の闘士として知られてきた。しかし、哲学者としてのラッセルとなると、日本での評価は必ずしも一定していない。広義の分析哲学の一隅に彼を位置づけ、その思想・業績を、むしろ哲学の本流からはずれたものと見るのが日本における通常の理解である。
 しかし、観点を変えれば、ラッセルこそ、ギリシア以来の西洋哲学の伝統の、20世紀における最も代表的な継承者であるという評価もまた成り立ちうる。イオニアの自然哲学以来の西洋哲学の本流は宇宙論(人間論を含む)と認識論にあるとみるポッパー(Karl Raimund Popper, 1902-1994)のような立場から評論すれば、ラッセルは全哲学史上最も重要な哲人の一人である。(了)